さて、オウム真理教は教祖・麻原彰晃が裁判中で東京拘置所に収監されている。 そして今麻原はその拘置所で廃人同様の状態だという。(そのような状態になった のは東京拘置所で麻原が薬づけにされたためだという情報がある。) オウム真理教は壊滅した。それでもなおオウム真理教の教義を取り上げる意味が あるだろうか。
教祖を失った教団は上祐史浩を新たな指導者として教団名も「アーレフ」と
変えて、細々ながらなお活動を続けている。上祐は「菩薩=慈愛の救済者」であり
「マイトレーヤ正大師」と称号している。教義がどのように改変されているか
詳らかでないが、信者はオーム真理教時代と同じような修行を積んでいるよう
だ。若者をとらえてきた教義はなお生きている。
また、オウム―サリン事件はどの宗教教団(特に仏教の)も引き起こす可能性のある
宗教の負の側面を如実に示している。しかし、オウム―サリン事件をもって
他山の石となした教団は皆無だったようだ。オウム真理教が陥った陥穽からど
の宗教も無縁ではないはずだ。その陥穽とは何なのか。
このようなわけで、オウム真理教の教義を検討することは決して無意味なこと
ではないと思う。
天理教の教義は中山みきが更年期の神憑り症候になってつくりだしたものであり、 幸福の科学の教義は持続的なパラノイアに特有な誇大妄想に大川隆法とりつかれて つくりしたものであった。それに対して麻原彰晃は密教的な過酷な修行(ヨーガ)で得たイメージを もとに教義をつくりだしている。その点では全く仏教(原始仏教)的である。
次の吉本さん文章はサリン事件の犯行がオウム真理教によるものと断定できない 時点でのものである。「もしオウム真理教と結びつけるとしますと」と慎重な言い 方で書き始めている。(まだ起訴以前から容疑者を犯人扱いして言論的暴力を振るって 憚らない最近のマスコミは見習うといい。)
これを、もしオウム真理教と結びつけるとしますと、何処に関係があるんだと いうことになります。僕が理解しているヨーガは一種の瞑想法でして、瞑想法に よって、医学用語を使えば幻覚を作り出す。それから色彩を作り出す、光を作り 出すというふうにして行き着く所は仏教全体のイデオロギーと同じで、つまり 如何に修錬して死を作り出すかということが、ある程度大きな意味を持つと思 います。つまりヨーガは究極するところ、死を人工的に作れるところまで修練 をする。瞑想法によってそこまで持っていくことが、とても重要だということ があります。そういうふうに死を人工的に修練によって作れるようになりますと、あらゆ る仏教がそうであるように、死後の世界は在るという理屈になります。ちゃん とイメージできるんだから実在するという理屈になります。そうして実在の死 の世界、あるいは死後の世界に自由に、というか人工的にいつでも行けるとい うことになります。そういうことが要するに仏教の持っている無常観の基礎、 根本になっているわけです。つまり生であっても死であっても、同じように同 じイメージで同じ手触りで同じ見え方で見えるし、体験できるんだから、生と 死は同じじゃないかという観点になります。
それは、やっぱりある意味で死を軽んじることになりそうです。ヒューマニ ズムと違ってアンチヒューマニズムと言いますか、死は何でもないことなんだ と思いやすい傾向が出来あがります。これは仏教の全部がそうで、仏教の修鎌 は全部そんなもんだと僕は思います。ですからオウム真理教がサリン事件と関 係があるとすれば、この行為でもって少なくとも鎌倉時代以前までの日本にお ける仏教の修練の仕方が全部否定される要素と結びつきうることがはっきり したと思います。いつだって殺戮と結びつけられるんだよ。それくらい死は 軽いものなんだよっていう、その意味ではあらゆる仏教における僧侶の修行は、 全部「無化」されたと解釈できると思います。つまり、それだけの大きな意味 があると思います。
仏教で言う〈信仰〉とは何か。人生はすべて〈苦〉でありこの〈苦〉から解脱したいと いう強い思いが〈信仰〉であり、信仰が生れると〈修行〉して人生の〈苦〉から解脱しようと かんがえるようになり、修行に入る。これは仏教各派に共通の根本理念である。しかしその 修行方法は仏教の各派ですこしずつ違ってくる。オウム真理教はヨーガの修行法を取り入れ た。麻原彰晃の「生死を超える」を『わたしはこれほど如実で微細なヨーガの解脱体験を 書いた本を読んだことがなかったので、興味がつきず想像をめぐらすところがおおかった。』 と吉本さんは評価している。
ところで麻原彰晃のヨーガ修行の説明には「チャクラ」という言葉が出てくる。実は私は
この言葉には以前に出会ったことがある。私は若い頃密教に興味を持ち桐山靖雄という宗教
家の著書「密教―超能力の秘密」を読んだ。密教の修行がどうして超能力を生むのかを現代
生物学や解剖学の成果を駆使して、一応科学的に解説してい
る。面白く読んだし、あり得る事だと信じていた。(私の生物学や解剖学の知識は
大変貧弱なので丸め込まれていたのかもしれない。)
この桐山靖雄は後に阿含宗という新新宗教を立ち上げた。「星祭り」と称して護摩を焚き
祈祷をするようになった。しかも護摩壇(ごまだん)は火を使わず桐山の念力で点火すると
いう。なんとバカバカしい。この段階で私の興味は失せた。最近では密教占星術による占い
やカウンセリングもやっているという。さらにバカバカしい。
しかしヨーガの修行によって心身に何らかの変容が起こることは確かだ。この考えは今で
も変わらない。だから麻原彰晃がヨーガの修行で何を得たのか、興味がある。
ところで、麻原彰晃は一時阿含宗に入信していたそうだ。桐山靖雄の目指す方向と相容れな
くなって脱退したという。たぶん、あくまでも密教の修行を目指す麻原彰晃には護摩焚く祈祷
など邪道と思えたのではないか。
ともあれ、桐山靖雄のチャクラに対する解説も適時利用することにする。
まずチャクラとたなにか。古代ヨーガではヒトのからだのなかには七つの「力の湧き出る 泉」があるとする。その場所をチャクラという。ヨーガの修行はその「泉」を自由に制御するこ とを目指している。
さて、麻原彰晃が体験した修行は次のようである。
第一 「熱のヨーガ」
スヴァディスターナ・チァクラ(下腹部にある霊的なエネルギーのセンター)に
精神を集中することで、下腹部に強い熱が発生し、その熱が背骨を伝わって上がってゆく。
すると背中全体が熱くなって、ひどい寒冷でも平気になり、また精力は絶倫になる。
桐山靖雄の解説では第1番目のチャクラはムラダーク・チャクラと呼んでいる。その制御
する内分泌線あるいは内臓は「性腺・腎臓」としている。スヴァディスターナ・チァクラは
第二のチャクラで「副腎・膵臓」がその制御の対象であるとなっている。どちらが忠実に古
代ヨーガを受け継いでいるのか、なんて細かいことは今はこだわらないでおこう。
この修行による効用を桐山靖雄は次のように解説している。
『体力が異常に増進して、普通人の三〜五倍の勢力(エネルギー)を持つようになる。三日、四日の徹夜く らい平気になる。−切の病気を受けつけず、健康体そのものとなる。病弱だった者は、その 悪いところがみな癒ってしまぅのだ。このチャクラにSamyamaを集中したとき瀕死の病人で も床を蹴って立ち上るだろう。男女ともに実際の年令より10才以上若くなる。そのかわり、 強烈な性欲と生殖力を持つようになるので、そのエネルギーを、オージャスという知能のエ ネルギーに変える方法をあわせ教える。』
ここまで言われると眉唾ものだなと思ってしまうが、麻原彰晃の記述と共通はしている。
第二
マニプーラ・チァクラ(へそのあたりにある霊的なエネルギーのセンター)に精神を集中
する。
このチャクラは桐山説では第3にあたる。対象は「太陽神経叢・副腎・膵臓・脾臓・胃・
肝臓」となっている。いわゆる「おなか」と呼ばれている部分の内臓だ。
恥ずかしながら太陽神経叢というのを知らなかった。調べました。「みぞおち辺り、胃の
裏側で腹部大動脈に沿って存在する自律神経の束。ちょうど太陽のように四方八方に広がっ
ている様子からこのように呼ばれている。」
この修行の効用は
『体内の組織を知ることができる。体内の組織を知ることができるというのは、ただ知ると
いうことだけではなく、からだの組織を自由にコントロールすることができるということで
ある。それも、自分のからだだけではなく、他人のからだも自由にコントロールする力を持
つから、人の病気なども即座に癒やしてしまうのである。』
『このチャクラは、五気のうちの「サマーナの気」に属するものであるから、「サマーナ気を 克服するならば、身体から火焔を発することができる。』
『クンダリニー密教(ヨーガ)の奥儀書には、「定(じょう)に入って目を閉じている とき、このチャクラから、黄色味を帯びた白熱の火焔が水蒸気のように立ちのぼるのが見え、 また、道を行くとき、同じ色をした火焔に腰から腹部のあたりがつつまれているのが見える。 うすい煙か霧のように見えることもある」と記されている。』
麻原彰晃はこの段階で「死と転生のプロセス」を何回も体験したという。これを吉本さんは 『一般に臨死体験と呼んでいるものを、微細に徹底的なところまで自分の体験として述べてい る。』ととらえて、大変な関心を示している。
わたしは以前に、瀕死の体験をして回復した人たちの手記を集めてみたことがあった。 またほかの著者(たとえばE・キューブラー・ロスのような)が集めた臨死から生還した 体験の記録を読んだこともある。いまでもその種の臨死体験の記録は集められたり、論じ られたり(たとえば立花隆のような)している。これらには共通の体験的イメージが語ら れているが、どれも布きれ一枚を隔てたようなぼんやりしたあいまいさがつきまとう。こ の本で麻原彰晃が、ヨーガの第二段階マニプーラ・チァクラ (へその霊的なセンター) に 精神を集中したとき体験した「死と転生のプロセス」 の記述を読んで、さすがに宗教者の 修練らしく、いままで読みえた臨死体験の記述のなかでは、かつてない鮮明な細部の体験 イメージが描かれていて、感服した。もちろん麻原彰晃のばあいはヨーガの修練によって 臨死のイメージの状態を生み出しているわけだ。
(1)
死の直前になると感覚器官が働かなくなる。まず音がきこえなくなることから
はじまって、嗅覚も味覚も触覚もつぎつぎ弱まってゆく。生がまだあるうち身体
を構成している要素(地・水・火・風の要素)が分解されて自性(じしょう)に
還元される。肉体が地の要素に分解されると自分の体がぶよぶよになる感じにな
る。この過程では、黒と黄色のまざった色がみえる。
つぎに血液や体液が水の要素に分解される。鼻汁が出たり体がむくんだりす る。血液の流れも止まった感じになる。水に映る白い月の色のイメージがパッ、 パッときらめく。
つぎに体温が火の要素に分解されてゆく。下腹部から冷えてきて、その冷たさ が背中を伝わって全身に広がっていく。自分の体が鉄になった感じになる。この 過程では朱色がみえる。
終りに呼吸が風の要素に分解される。息苦しくなり、生命への執着がつのり、 死ぬのが怖いと痛切に感じる。じぶんの魂が青緑色をみている。呼吸がせわし くなり、最後の息を吐き出して、死んでしまう。
(2)
死んだあとにも、すこしのあいだ魂が心臓のところに止まっている。天から
真っ白な光がおりてくる。この光は魂に甘味を感じさせる。この光は父親の精
液の象徴にあたる。
つぎにへそのあたりから赤黒いエネルギーが上昇していく。これは母親の経 血の象徴にあたる。白い光と赤黒いエネルギーはアナハタ・チァクラ(みぞお ちのところの霊的センター)の内側に吸収されてゆく。著者の解釈ではこの過 程では両親から受けついだ遺伝的な要素が分解されて自性に還元される過程に あたっている。
もうひとつ誕生のときすでにもっていた前世からの要素がある。これが分解 されなくてはならない。天から真黒い光でできた一本の道がおりてきて、やは りアナハタ・チァクラに吸収されてゆく。
(3)
つぎは死後の世界へ魂が行く。最初にまぶしい透明光が射し込んでくる。そこ
にとび込めれば無色界に行くが、これは生前に修行をつんだものだけしか行けな
い。そこに生れかわれば光の身体をもち、何千億年も生きられる。ここは仏教
で法界と呼ばれるところだ。著者はしばしばそこに訪れることがあると述べてい
る。
この光は、半日か一日つづくがこの光にとび込めなかった魂には、つぎの 光が射してくる。透明に近い白銀光でここにとび込めれば色界に生れかわれる。 仏教で報界と呼ばれているところだ。ここの食べ物は光、衣服も光でできてい る。やはり生前功徳をつんだ魂だけが行けるといっていい。
この白銀光が消えると、美しい赤紫色の光が射してくる。この世界は、変化 身(魂身)の住む応界で、弥勒菩薩のいる兜率(とそつ)天がその世界の中心 になっている。釈迦もここから現世におりてきた。チベットのダライ・ラマも そうだ。この本の著者(麻原彰晃)もそうだとじぶんでいっている。著者がヒ マラヤ山中で修行をしているとき、挫けそうになるとパールヴァティー女神が 応界から、赤紫色の光線に乗って励ましに来たと述べている。
「普通の人間」は応界にも行けないから、つぎの光を待って、光から具象的な
イリュージョンの世界になり、魂はじぶんに合った世界へとび込んでいくことに
なる。死んでから四十九日目が最後の世界で、とび込んだあと、吸い込まれるよ
うに落下してゆく。たいていの場合、性交のヴィジョンがみえ、無意識にそこへ
とび込んでしまう。すると落ちてとまったところが子宮であったり、卵の中で
あったりする。だから四十九日後には新しい世界に転生していることになる。
死後一日目から次元が落ちていって、人間界は四十三日目くらいまでだ。四十
五日くらいになると動物界で、最後の四十九日は、地獄に生れかわることになる。
以下、この麻原彰晃が記述した臨死体験のイメージに対する吉本さんの
コメントを追ってみる。
さすがにヨーガのすぐれた修練者らしく、この本の麻原彰晃の臨死体験の記述 は微細で、徹底的で、如実で、しかも最後に魂が性交の場面にとび込んで転生す る経路が内側から記述されていて貴重な興味ぶかいものになっている。もちろん この臨死体験の記述には、わかちがたく著者の信仰する原始仏教の理念と世界観 が混融している。
だが著者があっさり触れただけのわたしたち「普通の人間」の臨死体験の記述 が、もっと微細で具象的に内在化されていたら、もっと貴重だったろう。なぜな ら、「普通の人間」に臨死体験が存在し得るとすれば「死ねば死にきり自然は水 際立っている」とおもっているにもかかわらず、臨死体験のイメージが不可避的 にやってくるに違いないからだ。
しかしながらヨーガ修行者としても麻原彰晃の臨死の記述は「普通の人間」に もなかなかに物珍しく貴重だ。そして興味ぶかい記述になっている。この本を読 んでいるとヨーガの肉体的な修練が、なぜ仏教の世界観である生死を超える理念 をつくるところにたどりつくかが、一個のヨーガ修熟者の記述を介して「普通の 人間」にも実感的にわからせるところがある。この記述は貴重なものというべき だ。
@死後の世界の存在を確認できる。
A転生の秘密を知る。
B功徳(よいカルマ)と修行の必要性を理解する。
C功徳と修行以外が無力であることを知る。
Dすると、この世のすべてが幻影だと感じるようになる。
Eそのことから執着がなくなり、解脱への布石になる。
これを吉本さんは『「普通の人間」の言葉でいい変えてみる』と次のように 書き換えている。
@死後の世界の存在のイメージがつくれる。
A転生のイメージを子宮にとび込むまでつなげられる。
B功徳(よいカルマ)と修行以外には、死後の世界のイメージをよくできる手
だてがない。
C死後の世界の存在というイメージを放棄しないかぎり、功徳と修行以外に人間のす
ることは何もない。
D死後の世界の存在というイメージを確信するかぎり、現世は幻影と感ずるのは当然
だといえる。
E死後の解脱に最高の価値を与えるかぎり、ほかのことに執着がなくなるのもまた当
然だ。
ここで吉本さんは『「普通の人間」の言葉』でのいい変えと言っているが、
むしろ私としては、常に現実との照応に基づいて物事を認識するという「科
学的」な立場からのいい変えといいたい。つまりヨーガの修行などによって
得られる意識の変容は、あくまでも意識や身体機能の減衰状態における幻覚であり「イメージ」の体験であることを改
めて強調したい。
わたしたちはこの著書の「死と転生のプロセス」にたいする如実な体験と理念 の記述から、世々の仏教の僧侶たちの修行や生死観が、大なり小なり著者の記述 しているようなことだったのかと納得し「そうか、こういうことか」と手にとる ようにわかる気がしてくる。そして「なあんだ」と軽くかんがえるか「たいした ものだ」と重くかんがえるかは、それぞれの感じ方ということになるとおもう。
アナハタ・チャクラ(胸腺・心臓・肺臓を制御する。)
他心通の力があらわれてきて、他人の心が手にとるように分るようになると
同時に、他人の心を自由に動かす力が出てくる。
つづいて、目に見えぬものの高い心(聖霊、神霊、主導霊と表現する)と心を 交流することができるようになる。自分にとって不可解な、理解できぬことなど を、天地にみちた、すぐれた心、智恵のエネルギーに同化してそこから聞くこと ができる。つまり、人の肉体はほろびても、その人の持っていた心のエネルギー はこの空間に痕跡をとどめているので、このチャクラでその心の波動と同じ波動 になれば、その心が持っていたすべてのもの、意識も、知能もみな自分と同化し て自分のものになるということである。そういう意味で、このチャクラに十分熟 達すると、霊界(四次元)の世界と交流の道がひらけるのである。
大川隆法のパラノイア症候が描く「霊界」との交流と重なってくる。
麻原彰晃の体験談は次のようである。
第三 「夢見のヨーガ」
アナハタ・チァクラ(みぞおちのところの霊的なセンター)への精神集中の修練
がやってくる。著者のいうところによればこの段階で「この世」とちがうべつの
世界を創り出し、そこで遊ぶことができるようになる。その創られた世界では、
触れることも、見ることも、聞くことも、匂うことも、味わうことも、またか
んがえることもできると書かれている。そして著者はこういう実体験とおなじ
如実な感覚体験がこの創られた世界でできることが逆に「この世」も無常なイ
メージにすぎないのではないかと感じさせる根拠になるという興味ぶかいヨーガ
体験観を述べている。
吉本さんのコメント
わたしは麻原彰晃のこの述懐を読みながら二つのことを連想した。ひとつは 『古事記』の初期神話やアイヌ神話にある「あの世」は「この世」と対称的で そっくりおなじ世界になっていて、死者はおなじ暮らしをしているというイメ ージだ。もうひとつは現在作られるいちばん高次な映像体験であるバーチャル ・イメージの世界だ。そこでは映像の世界に自分が入り込んで、触れることも、 見ることも、聞くことも体験できる感じになる。わたしはこの未開、原始の世 界と超現在の世界の両方に通底したイメージ体験は、著者が記述しているアナ ハタ・チァクラの体験と関係があるとおもった。
ヴイシユダー・チャクラ(甲状腺・上皮小体=副甲状腺・唾液腺)
超人的な聴力がそなわる。実際に、このチャクラが使えるようになると、
それまで全く聞こえていなかったある音響を聞くことができるようになる。
これは私自身の体験であるが、その音がどんな音であるかは、ここでは伏せ
ておく。
(中略)
また、いろいろな声を開く。主導霊の声をはっきり耳にするようになる。
ヨーガ・スートラにある「あらゆる生きものの叫び声の意味がわかる」という
能力が身にそなわる。仏教の天耳通(てんにつう)である。
また、このチャクラは、頭部、上肢(両腕)及び胸部の筋肉運動に深い関係
を持つ。
麻原体験談。
第四 「幻身のヨーガ」
ヴィシュッダ・チァクラ(のどぼとけの霊的センター)を開発するための
精神集中によって、時間や空間を超えた場所に移動できる。ある人が渋谷の
バス停で著者を見かけたが、その時刻この段階の三昧をやりすぎて気絶して
いたという経験を述べている。顔や体つきが瞬間的に変ってしまうことがあ
る。
このチャクラでは桐山解説と麻原体験談は全く異なるものになっている。 麻原の体験談の方は「時間や空間を超えた場所に移動できる。」などとバカ話の 領域に入っていく。「霊」の存在を信じている人はこのバカ話も信じてしまう のだだろうか。
吉本さんのコメント。
ここの記述も役の行者の伝説みたいで興味ぶかい。民間伝承にあるこの種の 説話は著者のヨーガ体験観からすれば「普通の人間」が時として偶然こんな体 験に出会ったり、未開の心性では普通にありうることだったことを暗示してい る気がする。第五 「光のヨーガ」
この「光のヨーガ」は桐山解説では第六段階となっている。
アジナー・チャクラ(脳下垂体)
異常な透視力を持つようになる。ヨーガ・スートラにある「心の発現にそ
なわる光をあてることによって、どんなに微細なものでも、人目につかぬと
ころにかくされているものでも、はるか遠くにあるものでも知ることができ
る」という能力である。
テレパシー能力が生ずる。ヨーガ・スートラにいう大脱身″が可能にな
るのはこのチャクラである。
このチャクラは、また、命令のチャクラ、願望成就のチャクラ、自在力の
チャクラともいわれ、熟達すると、自然に命令してこれを自在に動かし、自
由に支配することができるようになる。すなわち、八種の自在力をそなえる
ようになる。
八種の自在力とは、次の八種である。
1 身体を極限まで小さくして、岩などを自由に通り抜ける力
2 からだを大空にいっぱいになるほど大きくする力
3 蓮の糸や綿くずよりも軽くなる力
4 望みのままに、月にでも指をふれることができる力
5 自分の意志するままに、どんなことがらでも実現できる力
6 世界を創造し、支配する力
7 万物を自分の意のままに従わせる力
8 大地のように身を重くすることのできる力、あるいは、自分の意欲の
対象を必らず手に入れることのできる力
おやまあまあ、西遊記の主人公・孫悟空なみの超人になるというわけだ。 というより、西遊記の作者がヨーガの教書を下敷きにして孫悟空を創造した のだろう。
吉本さんが取り上げなかったのか、麻原彰晃が最終段階のチャクラを修得でき なかったので書かなかったのか、いずれかは分からないが桐山解説ではもう 一つ最終段階のチャクラがある。ついでなので転載しておく。
サバスララ・チャクラ(松果腺・松果体・視床下部)
頭のなかの光明といわれるチャクラである。梵の座、梵の裂け目という
頭蓋骨の接合するところの真下に位置する。梵の座、梵の裂け目とは、梵すなわち
聖なるもの、と一体になる場所という意味である。
このチャクラを目ざめさせると、この部位に光明があらわれて、燦然とかが
やく。頭のなかの光明である。
このチャクラはすべてのチャクラを統合してこれを自由に制御する。すべて
のチャクラを自由に制御することができるようになると、彼は次第に変身す
る。昆虫が全身を覆うかたい表皮を次第に溶かし、しなやかな、しかし丈夫な
羽翼を自然に身につけて、空飛ぶ蝶に変態するごとく、彼はヒトからべつな
生物に変身する。三次元生物のホモ・サピエンスから四次元生物の超・ヒト、
ホモ・エクセレンスに変身する。ヨーガでは、これを聖なるものと一体にな
る、と形容した。このチャクラを、聖霊が宿り、聖霊と交流するところで
あるといっている。
このチャクラを完成した修行者を、超人、大師、救済者、と呼ぶ。超人は、
物質世界を超越し、時間と空間の制限を受けない。ヨーガ・スートラにある
ように、自由に自分の肉体を消失させ、一瞬のうちにヒマラヤの奥地から東
京に飛来し、一刹那のうちにヨーロッパへ去る。彼は、四次元世界の時間
と空間の秘密を体得しているのである。二次元(平面)世界の生物にとって、
三次元(立体)世界の生物の行動はナゾとしか思えぬように、三次元生物
のわれわれには、四次元世界に住む超人の動きは全く理解できない。
インドでは、仏陀が超人であるとして、このチャクラの完成者であること
を、形を以て示している。
頭のテッペンに大きなマゲがついたような仏像があるが、それが最終段階のチャクラを 完成したことを示すその形だという。これはマゲではなく肉留といい、頭骨が 発達して盛りあがったものであるという。

修行中のシャカの頭骨はこのように盛りあがりを見せず、普通の人とおなじ 頭蓋をしている。修行を完成して仏陀に変身したとき、シャカの頭骨はそのよ うな形に変化したのだという。
どうやらシャカがこの段階に到達した最初の超人ということらしい。
古田武彦さんがとらえるシャカの実像は次のようである。『わたしひとりの 親鸞』からの長い引用になる。注釈抜きで該当部分を全文そのまま引用する。
真実の釈迦さて、このような実在のイエスは、果たして「アヘン」公売人なのでしょう か。「否!」わたしには率直にそう思われます。
なぜなら、権力のために民衆にアヘンをすすめる狡猾な公売人たち、彼等は 必ずそれにふさわしい報酬をうけるはずです。居心地よいポスト、快適な生 活、悪くない身分の保証。それらです。
しかし、イエスに与えられたのは屈辱の死でした。この事実こそ、百の弁舌 にもまして、彼が「アヘン」公売人ではない。その逆。民衆を覚醒させる人、 すなわち権力にとって危険な人物だったことを余すところなく証明しているの です。実は、このヨハネ伝と同じ立場にあるもの、それが仏教のいわゆる大乗経典 なのです。
仏教の根本経典とされる中阿含経などの原初的な史料は、釈迦入滅後間もな く(第一回「結集(けつじゅう)」は弟子たちによって。第二・第三回「結集」 は、それぞれ百年後。)成立していますが、ここでは釈迦はなんら超能力をも たぬ普通の人間″です。最後は、暑いインドの夏の日の行路で、のどがかわいてガンジス河の支流の 水を飲み、そのあと腹が痛み出し、苦しんだ末、死をむかえるのです。その病 状は真実(リアル)で、痢病か疫病か、何らかの細菌に感染した模様です。 (キノコの食あたり、とも言われます。)
そしてうろたえ悲しむ弟子たちに対して、何も憂えることはない。わたし がかねがね言ってきた通り、法( (人間にとっての真理)によって生きよ。″とさとしたと言います。
ここでは釈迦は決してどんな難病でもなおす、といった超能力の持主ではあ りません。自分自身が細菌の力にたおれるのですから。釈迦は、現代のわたし たちに比べて、衛生学上の知識にとぼしかったこと、それをわたしは疑うこと ができません。わたしは大学時代― 十九歳の頃でした。 ―仏教史の山田龍城(りゆうじ ょう)さんからこの話を聞き、その釈迦の死の尋常さ″人間らしさ″にか えって深い感銘を覚えました。
たとえ一小部族であったにしても、その支配階層に生まれながら、その身分 をなげうち、あたりまえのひとりの人間として、あたりまえの真理を平等に認 識することを説いた、そのような釈迦の生涯。その真の勇敢さにわたしは脱帽 せざるをえません。これに対し、釈迦の死後数百年以上あとに成立した大乗経典となると、全く 性格を異にします。ここでは例によって釈迦は永遠の古えより永遠の未来まで 実在しとおす超能力の主であり、さまざまの奇跡も自由自在に行います。その 上、おびただしい説法を行い、無限の文学的比喩をまきちらす異能の天才でも あります。またあらゆる難病をなおすのも、意のまま、というわけです。とて も腹痛などに悩まされそうにもありません。
わたしたち日本人になじみ深い法華経や大無量寿経、観無量寿経、般若経等 々。つまり、日蓮や親鸞や道元たちが傾倒しつくしていた経典の数々はすべて このたぐいなのです。これらが現実にこの地上に生きた釈迦その人の夢にだに見ざる説法″の数 々であることは、疑うよしもありません。第一、釈迦その人が死んで数百年以 上あとに、これらの経典は成立しているのですから。
いや、しかし、ここにこそ釈迦の真精神が語られている。″そう主張する 人があっても、もちろんその人の自由です。ちょうど、ヨハネ伝がイエスの真 精神の表現だ、と主張する人々がいるのと、それは同じでしょうから。
けれども実際は、大乗経典の釈迦と阿含経といった根本経典に語られている 実在の釈迦とは、かなりその様相がちがいます。
まず、前者はとてもおしゃべりです。冗舌と言いたいほど。これに対し、後 者は素朴で、決して前者のようには多弁とは言えぬながら、人間の本来の健康 さといったものが叙述の中にキラキラと真珠のように輝いています。
それに前者は、多く奇跡の名人だのに、後者はそんなものに、野心″をも やしません。あたりまえの人間として生き、そして死んでゆく、そういう人間 の姿にだけ関心をもっているかのようです。
その上― わたしにとって興味深いことですが ―前者の多くは死後の世界 に興味をもち、その死後の世界の浄土なるものへの予約″にせいを出してい ます。ちょうど時には腕ききの保険勧誘員のようにさえ、わたしには見えるこ とがあります。これに対し、後者は、そんなものに関心をもちません。ただこ の世界を支配する通常の道理をたがわず見つめ、それによって生き、それによ って死ぬことを尊しとするだけです。わたしには、このような釈迦こそ、愛すべき人生の先達と見えるのです。 人間にもこんな人物がいた。″ もし人類が亡び去った日にも、あとから来 る名も知らぬ次の生物″に、こう書き残したい、とさえ、わたしには思われ るのです。
さて、このような釈迦は「アヘン」公売人だったのでしょうか。わたしには どうしてもそうは見えません。もし彼がそのような人物であったなら、何も父 祖の故城をはなれることなく、その世俗の権威を十二分に利用しつつ、民衆に むかって有難いお説教″をしていればそれでよかったのですから。そうすれ ば、ガンジス河の支流のほとりで七転八倒して苦しんで、弟子たちに見守られ つつ、死にたえてゆく。そういった最後とは、またちがった一生になっていた のではないでしょうか。(後代の経典は、この釈迦の最後をも、次々と美々し く飾り立てようとしていますが、これも当代の事実とはかかわりがありません。)
やはり、釈迦は、人々に眠りから目覚める″ことをすすめた人、「反アヘ ン」の公売人だった。わたしにはそう思えるのです。
さて、『「生死を超える」は面白い』の結びの一文。
もうこのくらいのところで、わたしが興味ぶかくて仕方がなかったこの本の 中心部はつきている。もしかするとオウム真理教の中心部もこのヨーガの修練 による「死と転生」のイメージの産出や、産出された「死と転生」のあとの世 界(死後のイメージの世界)を自在に作り出し、自在に遊行する心的体験にあ るのかもしれない。わたしの興味と関心を改めて箇条書きにするとつぎのよう になるとおもう。(1)
未開や原始の時代にはオセアニアや西南アジアや北アジアの種族にとって普 通の実体験の世界で、現在のこの地域では痕跡しか残っていない心的な体験の 世界を、ヨーガの修練で産出するのが、著者たちの信仰の中心ではないのかと おもえる。(2)
わたしの関心にひき寄せれば、この著者が生み出し、記述している肉体や感 覚の体験は、分裂病者が無意識の強迫から作り出している体感や感覚異常の体 験の世界を積極的に自在に作ることができていることを意味するのではない か。(3) ヨーガの修練で臨死の体験のイメージ、死後の体験のイメージ、そこから子 宮や卵子のなかに入り込んでふたたび転生したというイメージを、連続した プロセスとして産出できることが、生と死を超えた永生という理念を作る根拠 になっている。
(4) 浄土教以前にあった仏教各派の修行が何をやっていたのかが、この本の記述 でとてもよく理解できる気がする。
何はともあれ、これほど如実に微細にヨーガの修練の過程を記述した本にお 目にかかったことがないから、わたしにはきわめて貴重な本だった。
まず『亡国日本の悲しみ』 からとりあげてみる。
この本のモチーフはおおきく二つあるとおもう。
ひとつはオウム真理教を批判したり、誹謗したり、弾圧しようとしている方
面にたいする論争の言葉を集めたものだ。
もうひとつはほかの予言書や『新約聖書』の黙示録的な予言や、麻原彰晃が
そんな予言や占星術の勉強をとり集め、じぶんの冥想から得た予言と混合させ
た主張だ。
この本がとてもユーモラスで珍らしいのは、わたしなどがたびたび渦中に あってやってきた政治や社会や文学についての論争の陰惨さとまったく違っ て、「地獄」に堕ちるとか「地獄」が待っているとか「神の怒り」が爆発する とかいうのが、究極の批判の言葉であり、また「前世」がどうで「来世」が どうなると決めつけることが最大の悪口になっている点だ。わたしならこん なことをいわれても吹き出して、ほんとかね?とおもうだけだが、宗教者には 大へんなレッテルなのかもしれない。これはわたしに似た現世の知識的俗物が 「裏切り者」「スパイ」「反動」などと世界の共産党筋からレッテルを貼られ ると、じぶんの生涯は終りだとしょげかえった時代があったように、新宗教関 係ではいまも「地獄」に堕ちるとか、「前世」や「来世」が虫けらだみたいに 罵られると、ショックな時代なのかもしれない。この本の麻原彰晃の吐いてい る悪口を、いくつかアレンヂして挙げてみる。
○国家権力もそれに支配されたマスコミも、一時的に現世の利益を得ても、
その後に地獄が待っている。マスコミは来世では動物界に転生する。
○完全な禁欲出家修行者を不当に逮捕しつづけると、神々の怒りを爆発させ る。
○「幸福の科学」の主宰・大川隆法は前世でわたしの弟子だった。天法金丹の 法の開祖はじぶんだといいふらして、無間地獄に堕ちた。
○大川隆法は一生前は「四国のたぬき」だった。死後は無間地獄に堕ちる。
○江川紹子(反オウムのジャーナリスト)は来世に「非常に美しい犬」に生れ かわる。
○被害者の会の弁護団の一人、滝本弁護士は消化器を病み、死ぬだろう。
○「サンデー毎日」の元編集長・牧太郎は脳出血、右半身マヒ、失語症の報い を受けた。
まだあるがざっとこんなものだ。大川隆法が一生前は「四国のたぬき」だっ
たとか、江川紹子は来世は「非常に美しい犬」だというのなど、愉しいレッテ
ルで、おもわず吹き出したくなる。共産党筋やシンパの男たちもこういうのを
マネした方がいいとおもう。
この本にはもうひとつ「予言」として第三次世界大戦(核攻撃、地震兵器で 日本は沈没、解体されるというヴィジョンを見たといっている)は必ず起ると 確信されている。そしてその後、日本をどう立ち上がらせるか、「これがわた しとわたしの弟子たちの大乗の修行、つまり救済活動の一つのポイントなので す。」と麻原彰晃は述べる。
わたしのような俗世を生きる凡俗から見ると、途方もない馬鹿話だが、書か れている文体のせき込み方は、真面目で重々しく、麻原彰晃自身は、完全にそ の妄言の軌道に潰りきっていることがわかる。
わたしにはつまらない予言書や時勢書から植えつけられた偏見で、ヨーガの 修行者としての修練をべつにすれば、つまらぬ軍事専門家や政論家の雑知識を 寄せ集めて作られた常識を、「人々が煩悩的な生き方を好み、人間の悪業が頂 点に達した現代は、まさに破滅に向かって一直線にひた走る最悪の時代であ る」という現状認識についての信念と組み合わせたものに過ぎないとおもえ る。一個の世界認識や現実判断力を獲得するにも、麻原彰晃自身がヨーガに費 やしたとおなじきびしい修練や労苦を必要とするものだということを忘れて、 宗教家のつまらぬ床屋政談をやっている。ここには悲劇的な麻原彰晃の姿があ るだけで、物悲しさに誘われる。
この本ですこしでも宗教的だとおもえるところは二つだけだ。
ひとつは「人間」という状態は、本質的でなく、常のない存在で、肉体のな
かに意識が宿っている不安定な中間状態にあるものだ。だから眠るだけでも意
識は肉体から離れようとするし、気絶すると離れてしまうといっている。
もうひとつは宗教的な修練には閉鎖社会を作った方がいいのだと言いきって
いる。
こんなところは馬鹿話というまえに麻原彰晃の仏教徒としての言いまわしだ
から仕方がないとおもえてくる。
(1)麻原彰晃の考える「予言」の概念
(2)それから得られる世界最終戦争は必ず起るという確信
(3)その戦争が核兵器や細菌兵器や毒ガス兵器、レーザー兵器などの戦いに
なるという説教
(4)その最終戦争後の世界はどんなものが生き残り、どんな世界になるのか
ここにはヨーガの修業者としての面影はほとんど消えてしまって、第三次世界
戦争が核兵器その他高次の科学兵器により不可避に戦われるという思い込みに
基づいて語られ、弟子たちとの問答でその戦争の実態が予想されたりして、数
年まえ反核文士がやっていた核ミサイルの性能やその配置についての素人の馬
鹿話が、こんどは宗教信仰者によって再現されたと同然になっている。
麻原彰晃とオウム真理教の幹部たちが、なぜヨーガの修業について語るかわ りに、素人の床屋政談や軍談を語るようになってしまったかについて、この本 にもいくらかのヒントは潜在しているような気がする。それを言ってみたい。
第一原因は、麻原彰晃が「予言」という概念を、ヨーガの修練から得た心身 相関の領域についての鋭敏な(超鋭敏といってもいい)察知力の表白というと ころから、
(1)
他の予言書(ノストラダムスの予言、『新約聖書』の黙示録、仏教の
『輪廻転生譚』など)の内容を摂取しようとして、その混合を試みてみよう
としたことだ。そのために西洋星占術の概念まで受け入れている。
(2)
社会現象が蓄積された事象の構造を洞察することによって社会動向について
の「予言」が可能だとかんがえたこと。
(3)
精神以外のさまざまな事象を経験的に類推することで「予言」ができるとか
んがえたこと。
麻原彰晃や幹部がこういったことの研究や勉強を重ねたところは努力家、勉強 家ということになるだろうが、それが独りでに政治的動向や社会的な矛盾の分 析でも、じぶんを「予言」者だと思い込ませることになったとおもえる。
麻原彰晃が思い込んだように、社会現象や政治現象や国際関係の矛盾や、 その爆発的な集約点である戦争の生起についても「予言」することはできる だろうが、それには麻原彰晃がヨーガの修練に費やしたとおなじだけの修練 がいる。それぞれの分野についてそれが必要なことは明瞭なことだ。たとえば 円高やアメリカ経済やヨーロッパ世界についてのこの本の言及は知識人の床屋 政談の域を出ていない。また最終戦争が不可避だという「予言」も、『新約聖 書』やノストラダムスの予言などの解釈と、じぶんの主観的な願望との兼合い からつくられている。残念ながら現在までのところ星座の配置と政治・社 会の動向を必然として繋ぎ合わせる織り目の在り処は、どんな意味でも見つ けられそうもない。思い込みと信念の確信や直観の恣意さを出ることはない。
麻原彰晃はこの「予言」概念の拡張に基づいて、核などの科学兵器や細菌 兵器や化学薬物兵器について、主な弟子たちに分担をきめて調査研究をもと めたことが、この本の問答のところからわかってくる。
尊師
要するに人工衛星からマイクロ波を発信して、そしてこの地上のある点に
おいて プラズマが発生するということだね。
ティローパ
はい。現に世界中で、正体不明の、人体から発火する現象などが起こって
います。盛んに人知れず実験がなされているのだと思います。
尊師
そういう、人が燃える現象とかいうのは実験だと考えたらいいんだね。
これにつ いてはどうだ、マンジュシュリー。
マンジュシュリー・ミトラ
そうですね、確かに何らかの実験だと思いますが、マイクロ波の場合の
問題は、波長の関係で、あまりスポットを小さく絞れないという問題があり
ますね。
(後略) (第二章 最終戦争で使われる兵器の項)
こんな問答が延々とつづく。こんなことを調べろと指示した師匠も師匠だ が、弟子も弟子だ。この程度のことは調査のうちに入ってこない。ただ怪し げな本から集められた怪しげな情報だというだけで、いくらやってもおなじ だ。理工系の学生上がりなのだから、こんなことはいくら調べても無意味だか ら、やらない方がいいのではないかと「尊師」に直言するのが科学的態度では ないのか。だがこの本をみると「尊師」の方はこういう弟子たちの報告を寄せ 集めて、最終戦争なるもののイメージを固めていることがわかる。いいか えれば拡張された「予言」を支える柱に使われて真面目な妄言をつくり上げる 材料になっている。
人間の生涯が現在、おおよそ百年足らずとして、それ以上の年数にわたる 「予言」など無意味だし、生きることのモチーフをそれ以上の年数でかんが えるのも無意味だ、というのが俗世の生の理念だ。
麻原彰晃をはじめオウム真理教は、未開、原始の時代にオセアニア、印度、 東南アジア、東アジアの沿海地域と島嶼に拡がっていた「輪廻転生」(生れ かわり、死にかわり)の思想と因果応報の思想を、信仰と修練の基底におい ている。したがって理念の枠も生命の完結もつくるのが難しくなる。旧仏教 の禅やオウム真理教のヨーガの修練はどうかんがえても、いいかえれば生死 をこえるイメージの創出修業とかんがえても、人間の倫理的人格の高度化と かんがえても、身体にまつわるイメージの内観法の修練にその本質があると いっていい。そうすると麻原彰晃が「予言」ということを身体にまつわる内 観法から、外在的な天変地異、社会現象、政治現象、その矛盾の集約点とし ての戦争の発生にまで拡張しようとしたところに、すでにいかがわしさが入 り込む原因があったというべきだ。そのために『新約聖書』の黙示録やノス トラダムスの予言文書や「マラキ」や「シャンバラ」の予言集などが、すべ て最終戦争を暗示しているという学習が、じぶんの体感と混融されていった といえるのではなかろうか。
最終戦争という概念は、いずれにせよ宗教家が現世を跳躍し、否定して、隔 絶した理想の信仰社会を思い描くかぎり、その象徴としてかならず現われるイ メージだといっても過言ではない。何故なら一挙に旧い俗世界が消滅し、理想 世界があとにのこるという理念は最終戦争という概念で、象徴的に解決される からだ。麻原彰晃の弟子たちも、最終戦争後の世界のイメージをそんなふう に描いている。
ヴィマラ
ある一人の王が勝利者として存在する。その周りに刻印を押された者たちが
生き残るという、そういう状態をわたしはイメージします。
クリシュナナンダ
物質を重視する観念からすべての人々が逃れられる、そのような社会が来る
と思います。
ティローパ
「精神的に豊かな世界」ができる。
マンジュシュリー・ミトラ
大戦後は「神に選ばれた者のみが生き残る」。
導師
「いかなることがおきても弟子と共に生きのびる」。第三次大戦後の地球は
「自然と魂が融合した状態、また科学が意識とは・生・老・病・死とは何かを
解明する」社会だ。
こう並べてみるとなかなか宗教的には真っ当なことがいわれているようで、 エコロジストや反文明主義者は左右を問わずこのなかに包括されることにな る。宗教や、理念が宗教性を帯びると、みんなこんなことになってくる。あと には「予言」を「成就する」ことと「予言」が「成就される」こととの時間 的な錯合と融合の必然が、病理の領域を実現してしまうかどうかの問題だけ がのこる。
全ての宗教を包含する「普遍宗教」というものがあるとすれば、その宗教の 神は自然にほかならないのではないか。地上から浮遊してさまよい続けた挙句、 霊(こころ)は本来のあるべきところ、この地上に戻ってくる。神秘めかした 言説を一片なりとも必要としない。
ではその普遍宗教の教義は何なのか。
どの新新宗教も、その教義のばからしさに拘わらず、「良いことも言っているじゃな いか」という「まともな部分」がある。その部分の説教は通俗的な道徳であったり 愛であったり自由や平等や公正さであったりする。しかしそれらのほとんどは 既成宗教からの抽出・合成をしたものである。既成宗教はすでに現代社会の根 源的問題の解決にはなんらの貢献もなしえない。古田さんの言葉を借りれば、 「立ったまま枯れている」。新新宗教のどんなありがたいご託宣も既成宗教 の枠組みを超えるものではない。
普遍宗教の教義は諸宗教の「まともな部分」をすべて含んだ上でさらにそれ らを超えるものでなければならない。それはいいかえれば、現在の根源的な問 題に真正面から向き合うことができる「倫理」、人類が現状の「どうしようも ないドウツブ」から抜け出て、大自然と調和した「まともなドウブツ」となる ための「倫理」にほかならない。新しい倫理の創出が現在のラジカルな課題と なる。
今までに取り上げてきた人たち、たとえば吉本さんや古田さんのさまざまな
論考もその底流には「新しい倫理の創出」というモチーフがあると思う。また
ロールズの「正義論」もそのような観点から読むことができよう。
私の狭い視界に入ってこないだけで、このほかにももっとたくさんの人が
新しい倫理創出のための真摯な営みを積み上げているに違いない。
柄谷行人さんの「倫理21」(平凡社)がすぐ思い出された。カントの哲学に
依拠しながら新しい倫理の創出を試みている。「あとがき」の日付は「1999年11
月」とある。この書名にはたぶん「21世紀を迎えるにあたって、新しい時代に
堪えられる倫理創出の試み」という自負が含まれている。
柄谷さんは最近「世界共和国へ」(岩波新書)という著書を上梓した。その
中の「普遍宗教」という章の最後に、「倫理21」の概略を述べている文章があ
る。それを引用する。(ただし柄谷さんのいう「普遍宗教」は、私が言う「普
遍宗教」とは違い、キリスト教・イスラム教・仏教などのいわゆる「世界宗
教」を指している。)
しかし、ここで強調しておきたいのは、普遍宗教は社会運動を生み出したと はいえ、それ自体はけっして政治的・経済的な運動ではなかったということで す。一九世紀の社会主義者にはイエスを社会主義者と見る人たちが少なくなか った。カウツキーも原始キリスト教を社会主義運動としてとらえています。仏 教に関しても似たようなことがいわれます。だが、そのような考えは事実に反 しているといわねばなりません。普遍宗教がもたらしたのは、自由の互酬性 (相互性)という倫理的な理念です。それが政治・経済的平等を含意するにい たったとはいえ、後者が至上目的ではなかった、ということを忘れてはならな いのです。カントは、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」という格 率を、普遍的な道徳法則として見いだしました。「目的として扱う」とは、自 由な存在として扱うということです。自分が自由な存在であることが、他者を 手段にしてしまうことであってはならない。すなわち、カントが普遍的な道徳 法則として見いだしたのは、まさに自由の相互性なのです。そして、この場 合、「他者」は、生きている者だけではなく、死者およびまだ生まれていない 未来の他者をふくみます。たとえば、私たちが環境を破壊した上で経済的繁栄 を獲得する場合、それは未来の他者を犠牲にすること、つまり、たんに「手 段」として扱うことになります。
自由の相互性をこのように理解するならば、それが資本主義と国家に対する 批判をはらむことは当然です。あとでのべるように、カントは抽象的な道徳 論にとどまらず、生産者協同組合や国際連合について考えたのです。しかし、 ここで強調しておきたいのは、カント的な倫理が普遍宗教に由来していると いうことです。カント自身がそうしたように、宗教を批判してもよいし、また 批判すべきですが、そのことが、宗教によって開示された倫理=交換様式を 否定してしまうことになってはなりません。
まず、新新宗教が多くの人に受け入れられている理由を、「宗教は倫理の問
題」だという面から次のように分析している。
常人にはおよびがたい修行をしないでも、易しい道をたどればいいというの が中世の新宗教の教祖である法然、親鸞の言い方でした。じぶんは修行もし、 仏典も読破した結果、それをやってもしようがないとかんがえたわけです。よ うするに宗教は倫理の問題であり、ヴィジョン、イメージを思い浮かべられる ようになるまでの修行をすることではない、と浄土の教祖たちはかんがえまし た。浄土へゆく、生死を超えるのは念仏だけでいい、それが鎌倉時代の新仏教 の教祖たちがかんがえたことです。ところが、いまの新新宗教の教祖たちは、麻原さんも含めてすべて逆のかた ちをとっています。つまり、人間が世間でいう善悪に主眼をおくようないい生 き方はどこに基準を求めていいのかわからない。それならば、生死を超えるこ とができるような修行をする。そうなることが人間のいちばんの重要な倫理で あり、またいちばんの幸福であるという結論になっているとおもいます。これ ら新新宗教の教祖たちは一様に、その現世的な倫理の混乱、混迷を逆転しよう として、何か超人的なこと、超能力的なことを体験の根幹に据えて、人々の幸 福とは何か、そのための方法を編み出そうとしています。それが現在の新新宗 教のいちばんの特徴になっているようにおもいます。
現在は、現実における倫理、善悪の基準、あるいは基準そのものを信ずるこ とがとても危なくなり、しかもいままでの倫理を超えるにはどうしたらいいか ということがよくわからない、という情況にあるとおもいます。
それにたいして新新宗教は、一種の超人性、超能力性と、それを基にした幸 福感を与えられることを教義として人々を惹きつけ、また、それがある程度、 受け入れられているのではないでしょうか。
いまは、どういう考え方を基に倫理をつくるのかをかんがえねばならない段 階にきています。しかし、欠乏感(物質的な…仁平註)が決定性を失ってし まった地域で、倫理感をいかにつくるのかについて徹底的にアプローチする 考えは、残念ですがまだ生まれておらず、人々はそれを模索している段階にと どまっています。すくなくともいちばんはっきりしているのは、マルクスの考え方です。マル クスの考え方では、第一次産業である農業、林業、漁業などと、第二次産業で ある製造業、工業とが対立している段階までの分析は『資本論』でなされてい ます。現在の先進的な地域では、その段階を過ぎてしまい、サービス業や流通 業など第三次産業に労働者の大部分は移ってしまいました。こうした段階で は、欠乏を主体とした論理とか倫理が通用しなくなり、危なくなってきたと かんがえています。そして新しい、これまでとはちがう倫理をつくりあげてい かなければならない、模索しなければならない段階にきています。
こういう模索の段階では、現在の新新宗教が一時的な倫理の代用品をしてい るのではないでしょうか。しかし、それは短絡的な間に合わせにとどまり、恒 久的な救済にはならないだろうことは、とてもはっきりしているようにおもい ます。
ただ、短絡的ではありますが、新新宗教は間に合わせの役割を現在果たして おり、われわれがきちんと社会を、経済を、人間の精神の働きを、さらには文 化を分析して新たな倫理を導いてこられなければ、最終的な解決にはなりませ ん。日本でいえば、九割九分の人が明日食う米がないという物質的な欠乏感か ら抜け出たときが、一種の結節点、カタストロフィーのようにおもいますし、 それはわりあい近いとおもっています。
そこまでのあいだには当然、どういう倫理ならば適用できるか、また通用す るか、さらにはそれ以上の段階に通用するかについてはかんがえられていなけ ればならず、社会分析もなされていなければならないとおもいます。そのとき に通用するだけの論理、倫理、それから自然諸科学、人文科学をつくりあげて いなければならないはずだとおもわれます。そこがおおきな課題になるのでは ないでしょうか。
「現実的世界の宗教的反映は、総じて、実践的な日常生活の諸関係が人びとに 対し、彼らの相互間および対自然のすきとおるような・理性的な・諸連関を日 常的に表示する場合にのみ、消滅しうるのである。」(マルクス『資本論』)
さて吉本さんは次のようにこの論考を締めくくっている。
それができないあいだは、たとえ間に合わせであっても、新新宗教はー定の 役割を果たしつづけるのではないかとおもうのです。それを霊感商法だからけ しからん程度で片づけるのはよくないので、なぜ批判すべきなのか、きちんと 要点を押さえ切らなければならないはずです。ぼくはいまの新新宗教は永続的 に耐えられるとはとうていおもえず、どうしてもそれに耐えうるだけの本格的 な考え方が、それぞれの分野でつくられなければなりません。それができなければ、現在の新新宗教を超えた、あるいは否定したというこ とは言えません。それは難しいことですが、とても重要な課題だとおもいま す。いずれは解決を迫られる問題であり、それまでにきちんと対応しなければ そのときに戸惑うだけだと言えるのではないでしょうか。