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534 新新宗教批判(1)
宗教は花盛り
2006年6月25日(土)



 「現代日本の宗教社会学」(井上順孝編 世界思想社 2001年刊)は新宗教に ついて次のように述べている。
 「新宗教」という言い方は最近ようやく定着してきたが、一般には、「新興宗 教」という言い方のほうが通りがよい。実際問題として、意味の違いはさほど 大きくはないが、若干のニュアンスの差がある。マスコミ・ジヤーナリズムで は、新興宗教という表現のほうが一般的である。この場合、「新興宗教」は、 「既成の宗教に比べてやや価値的に低い宗教」という意味合いが込められること がある。次々に出現する新しい運動を、もっぱらその新奇さに注目して扱って きた、という経緯が関係している。
 これに対し、研究者は概して「新宗教」という言い方をするようになってき ている。新宗教という、近代以降に出現した新しいタイプの宗教を学術的な対 象として扱っていこうというのが、その場合の基本的立場である。したがって、 どのような運動・教団が新宗教といえるかについても、おおよその了解がある。

 では、どのような運動・教団が新宗教に含められているのであろうか。<表1>に 掲げたのは、組織の大きな新宗教、あるいは注目されることの多い新宗教であ る。これらは、数ある新宗教のうちのごく一部にすぎない。『新宗教事典』に は、300余りの新宗教教団がリスト・アップされているが、これもある程度研 究がなされつつある教団の数であり、存在さえほとんと知られていない運動や 教団がまだ数多くある。


 <表1>は教団名の「あいうえお」順で作成されているが、それを設立年代 順位並べ替えたものを掲載する。(さしあたっては不要な項目を除外した)


 <表1> 主な新宗教教団一覧
   設立年  教団名      公称    教祖名
             信者数
(1)1815  黒住教       30万   黒住宗忠
(2)1838  天理教       186万   中山みき
(3)1840  禊 教       10万   井上正鉄
(4)1857  本門仏立宗     53万   長松日扇
(5)1859  金光教       44万   金光大神
(6)1892  大 本       17万   出口なお・ 王仁三郎
(7)1912  中山身語正宗    38万   八坂覚恵
(8)1914  大乗教       30万   杉山辰子
(9)1919  円応教       43万   深田千代子
(10)1919  松緑神道大和山    6万   田沢清四郎
(11)1925  ほんみち      32万   大西愛治郎
(12)1928  念法真教      76万   小倉霊現
(13)1928  霊友会       321万   久保角太郎 ・小谷喜美
(14)1929  解脱会       23万   岡野聖憲
(15)1930  生長の家      85万   谷口雅春
(16)1930  創価学会    ※ 500万   牧口常三郎
(17)1935  世界救世教     84万   岡田茂吉
(18)1936  真如苑       70万   伊藤奥乗・ 友司
(19)1938  立正佼成会     647万   慮野日敬・ 長沼妙佼
(20)1945  紫光学苑     ※ 3万   川上盛山
(21)1945  天照皇大神宮教   44万   北村サヨ
(22)1946  パーフェクト
        バティー教団  125万   御木徳近
(23)1947  善隣教       51万   力久辰斎
(24)1949  霊法会      ※20万   吉岡元治部
(25)1950  仏所護念会     223万   開口嘉一
(26)1950  妙智会       99万   宮本ミツ
(27)1951  白光真宏会    ※10万   五井昌久
(28)1951  妙道会       22万   佐原忠次郎
(29)1952  弁天宗       30万   大森智弁
(30)1953  大山祇命
        神示教会     84万   稲飯定雄
(31)1954  阿含宗      ※26万   桐山靖雄
(32)1956  霊波之光教会    74万   波瀬善雄
(33)1958  天道総天壇    ※ 3万    (陳庚金)
(34)1959  世界真光文明教団  10万   岡田光玉
(35)1960  イエスの方舟   ※ 26   千石剛贅
(36)1970  神慈秀明会     44万   小山美秀子
(37)1972  いじゆん      ※1万   高安龍泉
(38)1978  崇教真光      47万   岡田光玉
(39)1984  オウム真理教     ―   麻原彰晃
(40)1986  幸福の科学  ※20〜30万   大川降法

 (注)※は面談,教団資料,その他による推測であることを示す。
 それ以外の数値は「宗教年鑑」(1992年版)による。「―」は「不明」
 を表わす。

 この他に「外来の新宗教」の主なものとして以下のものをあげている。

(41)エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会) 創始者チャールズ・フッセル(1852-1916)
(42)末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教) 創始者ジョセフ・スミス(1805-1844)
(43)世界基督教統一神霊協会(統一教会) 教祖・文鮮明(1920-)
(44)ラジニーシの運動 創始者バグワン・シュリ・ラジニーシ(1931-1990)

 (41)と(42)はどちらも19世紀にアメリカで創始されたキリスト教系の宗教である。 (43)は第二次世界大戦後に韓国で創始されたキリスト教系の宗教である。 また(44)は瞑想的宗教運動で、ヒンドゥー教系の宗教で、やはり戦後に創始さた。

 ほとんどの教団が信者数を水増ししていることは容易に推察できる。上程書では 表に書かれた数の3分の1から5分の1ほどと推定、教団によっては10分の1以 下の場合もあると言っている。

 水増し信者数を割り引いても百花繚乱、宗教の花盛りという観である。
 <表1>の教団数は40だが、そのうち江戸時代末期に生まれたものが5教団、 明治から敗戦前までに生まれたものが14教団、敗戦後のものが21教団となる。 特に敗戦前後30年間に約半数の教団が誕生している。「『新宗教事典』には、 300余りの新宗教教団がリスト・アップされている」そうだが、たぶんその半数 以上は敗戦前後に創設されたものではないだろうか。
 実生活ではもちろん文化面でも精神面でも混迷を深めていく時代状況の中で、 立ちながら枯死している既成宗教にはもうすがれなくなった人たちを新宗教が 吸引していった。

 ところで「宗教社会学」では教祖の精神構造や教義内容の分析・解明まではた ち入らない。社会的な現象面だけで宗教を扱っているので、「新興宗教=新宗教」 と十把一絡げでくくってしまっている。
 古田さんの分類(「第530回」参照)は既成宗教との系列関係を基準にしてい た。それに対して同じ「第530回」で少し触れた吉本さんの分類は、さらにつっこ んで教祖の精神構造や教義内容の分析・解明を通して得たものであり、論理的 然性をもった分類だと私は思う。そこでは真の宗教批判がくりひろげられてい る。次回から吉本さんの論考を読んでいくことにする。






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535 新新宗教批判(2)
新興宗教と新新宗教
2006年6月26日(月)



 これまでの私の貧しい読書範囲で知った限りでは、宗教を止揚するための 徹底的な批判をしている著作者が3人いる。田川健三さんのキリスト教研究、 吉本さんと古田さんの親鸞研究がそれである。
 また、新新宗教を真正面から本格的に論じている人は吉本さん意外に知ら ない。手元にある著書から教団の教義内容の分析・解明をしている論考を 拾い出してみた。年月日は初稿発表時である。

1970年1月30日「新興宗教について」(国文社「詩的乾坤」所収)
1991年2月〜1996年4月(ロッキング・オン「消費のなかの芸」所収)
    「大川隆法『太陽の法』論」
    「『原理講論』の世界」
    「『生死を超える』は面白い」
    「麻原彰晃『亡国日本の悲しみ』『日い出づる国、災い近し』」
1993年6月17日「講演録『新新宗教は明日を生き延びられるか』」
     (春秋社「親鸞復興」所収)
 オーム真理教によるサリン事件以来、オウム真理教のことばかりでなく宗教 一般についても、対談や講演で多くの発言をしている。それらも適時参考に する。

 まず「新興宗教について」を読もう。ちなみにこの論文は「オーム真理教」や「幸福 の科学」が創設される十数年前に書かれている。

 この論文では吉本さんは「新興(土俗)宗教」と「土俗」という言葉を付け 加えている。ここでいう新興(土俗)宗教の特徴を二つ挙げている。
 一つは教祖が<女性>であり、教団の管理面での実質的な長はその<女性>の夫 か兄弟か父親か親族である。
 二つ目は、宗教の普遍性は地域的にしか成立しなく、その観念的な水準も時代の 最高の水準からではなく、文化的により低い水準から教義が発生している。

 「天理教」がこのような条件を満たす典型的な新興宗教といえる。前回の <表1>で女性が教祖となっているものは、教団名だけからの推測になるが、 そのほとんどは神仏混合の土俗信仰を基盤にしているようだ。

 上記の第一の条件を持たない新興宗教は本質的には「古い宗教の再興」とい える。こういう意味で鎌倉時代の新興の諸教団は「新宗教」である。「生長 の家」や「創価学会」や「立正佼成会」なども「古い宗教の再興」と考えられ るので「新新宗教」と呼ぶのがふさわしい。

(あらあためて上記の諸論文を確認したら、吉本さんは常に「新興宗教」「新宗教」 「新新宗教」を厳密に使い分けしてはいない。しかしここでは使い分けていくこと にする。)

 新興宗教は、あまり知的ではない<女性>が更年期になって神憑りの症候に なってつくりだした教義を根本原典としている。『教祖である<女性>が神憑りになったはてに、精神病理学上の症例となり、ついに人格的な崩壊に達して荒廃し てしまった』事例もあるという。
 「神憑りの症候」という要件から考えれば、新興宗教の教祖は理論的には男性 がこの<女性>の代同物となりえる。

 ところが、しばしば更年期に達しないうら<若い>女性が神憑りになり、その 神憑りの<神>が神仏混合の土俗信仰の対象であるといった事例ある。このば あいの<女性>はおおく宗教者とならずに、予知者・占い師・人生相談役に なっている。

 この種の<女性>は宗教者とおなじように信仰対象をもっているし、常人よ り過敏な<超心理学的>な能力をもっているのは確からしくおもわれるが、信 仰宗教の教祖である<女性>のように<超心理学>的な症候を、人間はいかに 生くべきかという倫理と結びつけることを知らず、<超心理学>的な能力を、 そのまま商品として売りに出す結果になっている。そして当人はいっこう自覚 していないのだが、この種の<超心理学>的な能力が、他者の心的な状態に、 容易に共鳴しうるいわば原始的心性ににた心性を、常人よりもおおく保存して いるにすぎないことは申すまでもない。つまり、他者のつきあたっている心的 な世界の内容を、あたかも、じぶんが察知しえているかのように振舞いうる能 力をさしているといっていい。

 私は見たことがないが、テレビで細木数子という女性占い師がもてはやされ ているようだ。この人などはこの事例の一つだろうか。
 吉本さんは、田中佐和という<超心理学>的な能力を商品として売っている 若い<女性>を取り上げている。






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536 新新宗教批判(3)
宗教的な心的体験の例・夢と入眠幻覚
2006年6月27日(火)



 吉本さんは、田中佐和という<女性>の著書『夢の事典』から、「じぶんの超能力の由来につ いて」のべている個所を引用している。新興宗教や新新宗教の教祖たちの心的体験を 読み解くための練習問題として、吉本さんの解説とともにそのまま引用する。

(夢の記述)
『 私は六歳の頃、生涯を通じて忘れることのできない夢を見ました。

 私は近くの神社の境内で、友だちと遊んでいました。
 そこへ、鼻の高い異様な服装をした人がやってきて、木の葉でつくったウチワ で私をさし招くのです。友だちはこわがって皆逃げだし、私一人がとり残されて しまいました。
 すると、その異様な人物は、つかつかと私に近づくと、『神様が呼んでいる』 というがはやいか、私を背負って、たいへんな勢いで走りだしました。
 気がつくと私は、深い山の中の大木の下に坐らせられていました。私をそこに 連れてきた怪人の姿はすでになく、大木の茂みの間に高い石段がみえます。その 石段の上には、白い衣をまとった女の人が、にこやかな笑みを浮べてたたずみ、 私を手招きしておられます。
 私がこわごわ立って、その女の人のそばへいきますと、その人は『よくきた ね』と私の頭を撫でられ、『これから五回、このお山に登ってくるのですよ』と いわれると、私の手に、金色に輝く珠をのせてくださいました。

 そこで私は目がさめたのです。さめてから後も、しばらくは自分の掌をひろげ てみつめるほど、その金色の珠の感触が、ありありと残っているのでした。

 その朝、私が父や母にその夢の話をしたところ、女の神様をお祀りしてある高い山といえば、京都の愛宕山に違 いないということになりました。
 愛宕神社の御祭神は伊邪那美命で、道案内をしてくれた怪人は、天狗さんだと いうことです。』

(入眠幻覚あるいは白日夢の記述)
『 その後、私は夢の神様の仰せに従って、小学校一年の夏休みを利用し、ある ときは父と、あるときは母と、海抜1000メートルの愛宕山へお参りしました。
 それはまったく夢でみたとおりに、大木の茂みのなかに高い石段があり、その うえに、神様がお祀りしてあるお社(やしろ)でした。  その昔、和気清麻呂が、京都御所鎮護のために造営したお宮で、火の神様とし て名高い霊場です。

 いよいよ得望の五回目の参詣のときです。母といっしょに愛宕山の麓に立った 私は、目の前に一頭の猪がいるのに気づきました。母にそのことを告げました が、その姿は母の肉眼には見えません。
 私だけに視える″これが私の霊視のはじまりです。
 そして、私が山を登りかけますと、猪は私のうしろにまわって、キバでぐんぐ ん押しあげてくれるのです。私は、いつもなら三時間もかかるけわしい山道を、 一と息で登ってしまいました。

 あとで聞いたことですが、その猪は、愛宕の神様のお使いでした。伊勢の神様 は鶏、春日の神様は鹿、稲荷の神様は狐というように、神々にはそれぞれのお 使いがあります。あの猪は、愛宕の神様のおいいつけによって、私の満願の日の 参詣をたすけてくれたのでしょう。
 その日を境に、私には霊能が開け、透視、霊視、霊聴などの心霊現象が始まり、 神様のお告げを受けることができるようになりました。』

 この記述について、吉本さんは次のようにコメントしている。

 これは幼なくかなり素直な記述であるが、かくべつ本人が嘘をついているわけ ではないといっていい。

 前半のこの夢の話は、巫女譚として民話や口承のなかにしきりに記録されてい るものとおなじで、かくべつ変ったところはない。そして夢にみた神社の光景が、あと でじっさいに参詣した愛宕神社の「大木の茂みのなかに高い石段があり、そのう えに、神様がお祀りしてあるお社でした」という光景と一致していたことにもか くべつの神秘性はない。もちろんこの<女性>は、両親にこの神社のことについ て知らされていたか、あるいはじぶんでは知らずに幼時に、じっさいに連れてい かれた光景を、意識せずに知っていたのである。

 後半の記述は、この女性の入眠幻覚あるいは白日夢の記述である。目の前に 一頭の猪があらわれ、その猪が山道を登るのを背後からキバで押しあげてたす けてくれる。この猪は愛宕神社の祭神の使いである。しかし、この猪は一緒 にいた母親には視えないとかいている。このとき、この女性は入眠状態あるい は白日夢の状態にあった。もちろん、そんな猪が実在しているわけではなく、 この女性の入眠幻覚のなかに形像としてあらわれたものにすぎない。そして この女性は猪を愛宕信仰の宗教的な共同幻想の表象とみなしている。

 この<女性>は、この人眠体験を契機として一種の精神病理学上の幻想や幻聴 をひんばんに獲得しうるようになった。じぶんでは「その日を境に、私には霊能 が開け、透視・霊視・霊聴」がはじまったとかいっているが、もちろんそんなこ とにはなんの意味もない。ただ、手易く病理学上の幻視や幻聴を体験するように なったというにすぎない。

 この人眠幻覚の状態は、分裂病患者の体験する症候とすこしもかわりないが、 病者としてかんがえ難いのは、この<女性>が入眠幻覚の状態で、他者の心的 状態に容易に移入しうるため、この他者体験が入眠幻覚にある客観性(普遍性) を与えることになりえているからである。それとともに、最初の入眠幻覚が、 土俗的な宗教体験としてやってきたため、自身にとってはこの心的な状態が一種 の優越感(常人以上の能力をもっているという自負)によって統御されていて、 人格的な崩壊をきたさないための支えになっていることによっている。


 新興宗教や新新宗教の教祖たちの心的状況もほとんどは分裂病患者あるいは パラノイアと同じ症候と思われる。にもかかわらず人格的崩壊にまで至らないの は『この心的な状態が一種の優越感(常人以上の能力をもっているという自負) によって統御』されているからだと指摘している。

 では同じような心的体験をしていて、それを教義化して宗教の教祖となる者と 「予知者・占い師・人生相談役」になっていく者との違いはどこにあるのだろう か。
 田中佐和という<女性>と天理教の教祖中山みきとを対比して、吉本さんは次 のように言っている。

 わたしには理由はただひとつのようにおもわれる。この<女性>は、若いため とるに足るほどの生活思想もなければ、現実的な労苦にたえて獲得した人生観も 世界観もない。この意味ではさんざん現実的な生活苦をなめて生きてきた貧農の 主婦が、更年期になってから突然入眠幻覚に没入しうる能力を獲得し、<貧困の 惨苦から逃れる>という願望を、自己の入眠幻覚とむすびつけて理念化したばあ いと異っているといっていい。こういう主婦のばあいには、現実の生活的な惨苦 から逃亡しようという機制が、病理学的な入眠幻覚の体験とある必然的な結びつ きかたをしている。彼女はじぶんの入眠幻覚の体験によって母権制時代の太古の 巫女とおなじ位相で、神から告知をうけるものとして択ばれたという優越性の意 識に保証される。また、じぶんの現実的な生活の苦しい体験を、貧困な村落人の 共同の課題に結びつけることができる。つまり、人間はいかにして現実的な生活 の惨苦から逃亡し、これを克服しうるかという課題を、じぶんの生理的な異常体 験と結合させ、これを一種の教義の形で理念化することができるといっていい。 したがって彼女は必然的に土俗宗教(新興宗教)の教祖でありうるはずである。

 しかし、すべての新興宗教のうち、あるものはとるにたらぬ蒙味な奇怪な宗教 となり、あるものはかなり優れた宗教でありうるというのはなぜであろうか?
その理由は、おそらく、あらゆる思想の優劣を問う場合とあまりちがっていな い。彼女の生活体験から獲得した思想が、体験に裏うちされて血肉化した迫真性 をもっているとすれば、彼女が農家の無智な主婦であっても、その生活思想は、 宗教体験としての入眠幻覚とむすびつけられて、かなりの普遍的な真理をもちう るはずである。


 続いて吉本さんは、分裂病的症候を宗教へと結び付けていった典型として、 天理教の教義の分析を行う。






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537 新新宗教批判(4)
天理教の教義
2006年6月28日(水)



 天理教の教祖中山みきが神憑りになったのは天保9年41歳のときであった。 そのときの入眠幻聴は教義書の記載では「我は元の神、実の神である。この 屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みき を神のやしろに貰い受けたい。」というものであった。もちろん、これはとと のえられた表現で、じつさいは土俗宗教に特有な<女性>の降神体験の幻聴の、 しどろもどろな表現であったにちがいない。
中山みきの入眠体験から演繹された宗教的な本質とその段階は、みきが<親神> とした天理神の性格づけと、天地創造神話によってとらえることができる。

 まず第1点目の『天理神の性格づけ』をしている教義は教団では「人間を生か し育てる10の守護」と呼んでいる。教団はその意義を次のように述べている。

「この世は、親神の身体であつて、世界は、その隅々にいたるまで、親神の恵に 充ちています。そして、その恵は、有りとあらゆるものの生命の源であり、すべ ての現象の元なのです。つまり、私たちの命はいうに及ばず、天地自然の間に行 われる法則、人間社会における秩序など、ことごとく、親神の守護によるので す。その守護の理は、これに、神名を配して、説きわけられています。」

 そして親神=天理神(天理王命)の成り立ちを次のように説明している。

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[十全の守護]

くにとこたちのみこと
  北・人間身の内の目うるおい、世界では水の守護の理

をもたりのみこと
  南・人間身の内のぬくみ、世界では火の守護の理

くにさづちのみこと
  南東・人間身の内の女一の道具、皮つなぎ、世界では万つなぎの守護の理

つきよみのみこと
  北西・人間身の内の男一の道具、骨つっぱり、世界では万つっぱりの守護の 理

くもよみのみこと
  東・人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理

かしこねのみこと
  南西・人間身の内の息吹き分け、世界では風の守護の理

たいしょくてんのみこと
  北東・出産の時、親と子の胎縁を切り、出直しの時、息を引きとる世話、世界では 切ること一切の守護の理

をふとのべのみこと   西・出産の時、親の胎内から子を引き出す世話、世界では引き出し一切の守護の 理

いざなぎのみこと
  中南・男雛形―種の理

いざなみのみこと
  中北・女雛形―苗代の理
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 これに対する吉本さんの分析を要約する

 「空間的方位概念―人間の身体性―世界の総和概念」という対応づけをしている 点は「垂加的な神道理念の影響」であるが、その点を除くと、天理神の概念は、 <性神>の概念と<農耕神>の概念とを結びつけたものである。そしてここで 示されている時間性は、農耕社会の起源の時期まで遡行できるもので、この段階 では制度的には国家以前の<国家>、いわば血族の共同性を基盤とする集落国家 しか想定することはできない。

 大和王権(天皇制)の宗教的な教義書として『古事記』を読んで比べると、 古事記には<農耕神>の概念はあるが<性神>信仰の概念は想定することがで きない。つまり時間性としては、中山みきがしめしている天理神の方が時間性と しては古い段階にある。
 従って天理教をはじめ、あらゆる新興宗教(土俗宗教の教義的な本質は大和王 権(天皇制)のもつ宗教的本質と同質であるが、ぎりぎりのところでは根本的に 対立するほかはない。一方は一方を否定することによってしか存立しえない本質 をもっているといえる。

 当然、天理教の天地創造神話は『古事記』に記載された天地創造神話と異って いる。天理教の天地創造神話はつぎのようである。

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 この世の元初まりは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気 なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと 思いつかれた。

 そこで、どろ海中を見澄されると、沢山のどぢよの中に、うをとみとが混じっ ている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄 ました上、最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある 元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受け られた。

 続いて、乾の方からしやちを、巽の方からかめを呼び寄せ、これ又、承知をさ せて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて、これ等を男一の道具、 及び、骨つっぱりの道具、又、女一の道具、及び、皮つなぎの道具とし、夫々を うをとみとに仕込み、男、女の雛型と定められた。
 いざなぎのみこと いざなみのみこととは、この男雛型・種、女雛型・苗代の 理に授けられた神名であり、月よみのみこと くにさづちのみこととは、夫々、 この道具の理に授けられた神名である。

 更に、東の方からうなぎを、坤の方からかれいを、西の方からくろぐつなを、 艮の方からふぐを、次々と引き寄せ、これにもまた、承知をさせて貰い受け、 食べてその心味を試された。そして夫々、飲み食い出入り、息吹き分け、引き 出し、切る道具と定め、その理に、くもよみのみこと かしこねのみこと、を ふとのべのみこと たいしょく天のみこととの神名を授けられた。

  かくて、雛型と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されることとなっ た。 そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、こ れを人間のたねとされた。 そして、月様は、いざなぎのみことの体内に、日様 は、いざなみのみことの体内に入り込んで、人間創造の守護を教え、三日三夜の 間に、九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみことの胎内に宿し込ま れた。

 それから、いざなみのみことは、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日 かかって、子数のすべてを産みおろされた。
 最初に産みおろされたものは、一様に五分であったが、五分五分と成人して、 九十九年経って三寸になった時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみこと も、身を隠された。
 しかし、一度教えられた守護により、いざなみのみことは、更に元の子数を 宿し込み、十月経って、これを産みおろされたが、このものも、五分から生れ、 九十九年経って三寸五分まで成人して、皆出直した。
 そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分から生れ、九十 九年経って四寸まで成人した。その時、母親なるいざなみのみことは、「これま でに成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、にっこり笑う て身を隠された。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた。

 その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆 出直し、最後にめざるが一匹だけ残った。この胎に、男五人女五人の十人ずつの 人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八寸になった時、親神の守護に よって、どろ海の中に高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日 月も、漸く区別 出来るように、かたまりかけてきた。

 そして、人間は、一尺八寸から三尺になるまでは、一胎に男一人女一人の二人 ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始め、一胎に一人ずつ生れるようにな った。
 次いで、五尺になった時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活を するようになった。
 この間、九億九万年は水中の住居、六千年は知恵の仕込み、三千九百九十九年 は文字の仕込みと仰せられる 。
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 バカバカしくて読んでいられないぜ、と言いたくなるが、信者にとっては 「真理」以外のなにものでもないのだろう。教団はこれを「この世の元初まりの真実 話」と御託宣している。
 記紀の天地創造説には縄文国家から弥生国家への歴史的推移の反映を抽出 できるという史料的意味がある。しかし史料的意味を離れれば、その天地創造 説のバカバカしさは中山みきの天地創造説となんら変わりがない。いや、どの 宗教の天地創造説も私にはバカバカしい。






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538 新新宗教批判(5)
天地創造説の比較・天理教と記紀
2006年6月29日(木)



 古事記を原文(古語)で読むとなにやら神秘めいた雰囲気になるが、口語に 翻訳すれば天理教の教義と同じレベルで見比べられる。と思ったからかどうか 分からないが、吉本さんは古事記の天地創造説を武田祐吉訳から引用している。

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 皆、この世界の一番始めの時に、天で御出現になった神様は、お名をアメノミ ナカヌシの神といいました。次の神様はヌカミムスビの神、次の神様はカムムス ビの神、この御三方は皆お独で御出現になって、やがて形をお隠しなさいまし た。

 次に国ができたてで水に浮いた脂のようであり、水母のようにふわふわ漂って いる時に、沢の中から葦が芽を出して来るような勢いの物によって御出現になっ た神様は、ウマシアシカビヒコヂの神といい、次にアメノトコタチの神といいま した。この方々も皆お独で御出現になって形をお隠しになりました。

 以上の五神は、特別の天の神様です。

(中略)

 そこで天の神様の仰せで、イザナギの命、イザナミの命御二方に、「この漂っ ている国を整えてしっかりと作り固めよ」とて、りっばな矛をお授けになって仰 せつけられました。そこでこの御二方の神様は天からの階段にお立ちになって、 その矛をさしおろして下の世界をかき廻され、海水を音を立ててかき過して引き あげられた時に、矛の先から滴る海水が、積って島となりました。これがオノコ ロ島です。その島にお降りになって、大きな柱を立て、大きな御殿をお建てにな りました。
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 チョッと横道に入る。前回、「記紀の天地創造説から縄文国家から弥生国家への 歴史的推移の反映を抽出できる」と書いた。これは古田武彦さんの神話読解を念 頭に置いたことだった。そのあらましは次のようである。

出雲風土記の「国引き神話」
『童女(おとめ)の胸すき取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振り 別けて、三身(みつみ)の綱うち挂(か)けて、霜黒葛(しもつづら)くるやく るやに、河船のもそろもそろに、国来々々(くにこくにこ)と引き来(き)縫へ る国は……』(「すき」は「金+且」という漢字)

 記紀の「矛」(金属製)を用いた「国生み神話」と出雲風土記の「すき(木製) と綱」を用いた「国引き神話」を比べると、後者は縄文時代の神話で前者は弥生 時代の新作神話であることは明らかだ。この二つの国生み神話を結びつける神話が 「国ゆずり」神話である。ただし実際は「譲渡」ではなく「強奪」だったことを 論証した上で古田さんは次のように述べる。

 最初の記紀神話の聴衆、それは筑紫の弥生期中葉の人々だったであろう。彼等 にとっての常識は、出雲大神中心の神話″だった。これに対して天照大神 は、配下の一神″これもまた常識だったのである(もちろん、当時これを 「神話」と呼んではいなかったであろう。叙事詩であり、「語り」であったであ ろう)。

 この常識に対して、「新作」の神話が説かれた。―記紀神話だ。
 今まではそうだった。しかし、これからはちがう。これまで家来だった天照 大神は、主人になったのだ。最高神の位置にとって代ったのだ。その証拠に「国 ゆずり」を大国主たちは承知した。そして現に「天孫」の子孫たるわたしたち が、お前たちを支配しているではないか″と。

 武力による権力奪取という既成事実を、「神話」(語りごと)の形で合理化し、 民衆説得の用具とする。然り、神話は筑紫の弥生権力者たちにとって、権力 正統化のために不可欠なP・Rの手段″として、まさに創作されたのであった。 (「風土記にいた卑弥呼」より)


 以上は「372 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(26)「神代紀」の解 読(3) ― 「大八州」はどこか 2005年8月25日(木)」の補足でした。

 さて、中山みきの「天地創造説」と古事記の「天地創造説」を比べて吉本さ んは次のように論述している。

 もっとも興味深いこの二つの創造神話の差異は、天理教の創造神話が<人間 創造>神話であるのに、大和教(天皇制)の創造神話が<国土創造>神話であ ることである。またもうひとつの差異は、天理教の創造神話が、なぜか中山み きによって魚類(水棲類)の比喩によって貫徹されていることである。もちろ ん、天理教の神話から後世の垂加的な神道の影響と、『古事記』のような制度 的な支配の行為がなされていないという点を捨象することを前提としたうえの ことである。

 「どぢよ」という中山みきの比喩は、田圃に生棲し、おそらく古くから食用 に供されたにちがいないことから、その必然性を了解することができるが、そ れからあと芋づる式に魚類(水棲類)の比喩ばかりがやってくるのは、天理 教の発生が奈良盆地の山辺郡というもともと海にそれほどかかわりない大和王 朝の地盤にあることをかんがえると不可解な気がする。中山みきには個人とし て特殊にそういう嗜向があったのかもしれない。これを天理教神話が<性神> 信仰の段階にあることとかんがえあわせると、教義的な時間性がしめしている ものは、大和教(天皇制)よりも古く、また土俗的であることが了解される。

 そして、また、天理教にとって<国生み>の神話は無意味であった。かれら にはもともと国土支配の現実的な意企はなく、<性>信仰に基盤をおいて、農 耕社会の貧困な人間の心的な世界を救済しようとする意企しかなかったからで ある。中山みきにとってもっとも重要な緊急な問題(急き込み)は、天理神の 概念に包摂され、現実的な無一物の状態でもなお成立する<陽気ぐらし>、い いかえれば宗教的な解放天国(法悦)の生活であった。そのための条件として 宗教的な奉仕と一定の勤行が要求される。信仰の対象となる神は人間の<性> (生殖)そのものであり、この<性>(生殖)の意味は農耕とも結びつけられ、 また、つねに宗教的対象(神)とそれを具体的に実現するものとしての人間と のあいだの<架橋>物としての宗教的な意味があたえられる。

 大和教(天皇制)が現実的な勢力をもちえたのは、それが制度的なものと結 びつけられ、政治的な権力への<架橋>がいつもかなり具体的にかんがえられ たためである。しかし天理教が現実に大きな宗教として発展した理由はまった くちがっている。この宗教には本質的な意味での政治的権力への志向はないと いっていい。ただ教祖中山みきには、かなり高度で深刻な生活思想があり、そ の発言(おふでさき)に普遍的な思想体験としての一般的な真理が、かなり高 度に存在している。いいかえれば、中山みきの発言は無智な農家の主婦によく あるよたよたした方言と神憑り的な韻文によってなされてはいるが、生活思想 としてはかなり高度なものがあり、しかも、その発言が、常人ではとても及ば ない無鉄砲な徹底した自己放棄と生活放棄に実践的に裏付けられているため、 おおきな影響力をもっているといっていい。


 数日前に我が家の郵便受けに天理教の「教祖120年祭 こどもおじばがえり」 というチラシが入っていた。幼児が喜びそうなかわいいイラスト入りのきれい なチラシだ。「こどもおじばがえり」という行事は毎年行われており、対象は 幼児から中学生までで、毎回約30万人の子どもが参加しているという。正面切った 宗教教育をしているわけではなさそうだが、幼児期から宗教を身近なものに して、物心つく頃に違和なく宗教に入っていける素地を作っておこうというわ けだろう。
 幼稚園から大学まで宗教団体を母体とする教育施設は相当の数になる。 教育基本法改悪を目論む連中が宗教教育の項目を盛り込むことも企てているが、 もう十分宗教教育は盛んじゃないか。
 いや、公立学校では天皇教教育をしようというのが連中の意図なのだった。 しかしそのもくろみが私立校に及ばない保証はない。そのとき各宗教は「天皇教」 にどう対処するだろうか。折り合うのか、抵抗するのか。大日本帝国時代と同 じ問題がむしかえされることになる。ここでも「2度目は喜劇」という悲劇が 演ぜられることが危惧される。






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539 新新宗教批判(6)
道徳宗教
2006年6月30日(金)



 宗教の信仰者たちは私にはバカバカしいとしか思えないような教祖の描く 世界図式や天地創造説を本当に信じているのだろうか、多くの信者はその 辺のことは本当はどうでもよいよ思っているのではないかという疑問がいつも 残る。
 天理教の場合、その教義のキーワード「陽気ぐらし」「出直し」「いんねん」 「もらいうけ」などに信者一人一人がそれぞれの人生に裏打ちされた違った思 い込みをこめることによってその信仰が成り立っているのではないか。そして 実際の生活おいては次のような通俗的な道徳説教をよりどころにしているだけ のように思える。

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 人は、何事も自分の勝手になるものと思い、とかく、自分一人の苦楽や利害に とらわれがちになります。このような自己中心的な心づかいは本人にとっては都 合がいいかもしれませんが、まわりの人々、また世の中の迷惑、苦悩の原因とな ります。人間は、兄弟のように仲良く助け合って暮らすのが本来の姿ですから、 私たちお互いは自己中心的な心づかいを慎むようにしなくてはなりません。親神 は、このような心づかいを、「ほこり」にたとえて諭されています。

 「ほこり」は、吹けば飛ぶほど些細なものです。早めに掃除さえすれば、たや すくキレイに払えますが、油断をすれば、いつしか、うずだかく積りかさなり、 遂には、シミのようにこびりつき、掃いても拭いても、取り除きにくくなるもの でもあります。  心づかいも同じです。ちょっとちょっとの「ほこり」の心づかいが知らない 間に心の習慣、つまりくせ、性分になってしまうのです。こうなる前に日頃から 慎んだ心づかいを心掛けることが大切なのです。

 「ほこり」の心づかいを反省する目安として、をしい、ほしい、にくい、かわ い、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八種を挙げられています。又、うそと ついしよ(心にもないおべっかいをつかうこと)も「ほこり」になります。

おしい
人のために心をつかったり、体を使うこと惜しむ心づかい。物を貸したり、お金 を払うことを惜しいと思い、また、手助けをするための労を惜しむなど、すべて に出し惜しみ、骨惜しみすること。
ほしい
必要なものは与えられているのに、満足しないで、もっとほしいと思う心づか い。人が持っているものを見てはほしいと思い、働かないのに見返りをもとめ たがり、むやみにほしがること。
にくい
理由もないのに、自分の気に入らないからといって人を嫌ったり、相手に過ち があった、失礼だといっては人をにくんだり、すべてに自分のわがまま・気ま まから人をにくむ心づかい。
かわい
かたよった愛情をもったり、自分さえよければ他人はどうでもよいと思う心づ かい。分けへだてをして、特別 な人だけに親切にしたり、自分やわが子、わが 家のことばかり考える利己心。
うらみ
じゃまされたといって人をうらみ、不親切だといって人をうらむ。自分の努力 が足らないことを反省しないで相手をうらむこと。また、他人の幸福をねたむ 心づかい。
はらだち
人が、気に入らぬことを言ったといって腹を立て、おもしろくないからといっ て、つまらないことに腹を立てる心づかい。広く大きな心をもたず、人を許せ ることのない気短な心。
よく
自分中心で、なんでも自分のものとしようとする心づかい。人の目をだまして も、取れるだけ取りたい、無理なもうけを得たいなどと、あるが上にもいくら でも取りこむような心づかい。
こうまん
知らないことも知っているふりをしたり、自分は人よりも偉いいとうぬ ぼれ たり、自分の意見はどんなことがあっても通すが人の意見はきかず、人の欠点 をあばこうとしたりする心づかい。

その他に 「うそ」と「ついしょ」というほこりの心づかいがあります。とも に慎まなければなりません。
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 だれもが実生活のさまざまな場面において心の中で決断したり恥じたり居直ったり しながら格闘している徳目ではある。しかし、現実の悲惨な生活に目をつぶる ことによって「陽気暮らし」が呼び寄せられたように、現実の社会的経済的諸 関係のまがまがしい実態に目をつぶることによってしかこのような徳目の ご託宣はなしえない。
 このような宗教を「道徳宗教」と呼ぶとすれば、もう一つの典型的なタイプ は「世直し宗教」と言えよう。

 論考「新興宗教について」の結語部分で、吉本さん次のように書いている。

 新興宗教(土俗宗教)とよびうるものは、じつさいに教祖の数だけある。別言 すれば、入眠体験を宗教化しえた<女性>の数だけあるはずだが、そこにおのず から教義としての高低と強弱があるのは、その教祖たる<女性>の入眠体験に、 どれだけの生活思想的な根拠が存在するかに左右されるといってよい。これは、 あらゆる宗教が、教祖の創りあげた馬鹿らしい神話と教義に理論的な意味をあた えたにすぎないか、あるいは大和教(天皇制)のように現実社会の政治的支配 に乗りだして成功したかに依存しているとしても、それとは無関係な本質的な 問題であるといっていい。

(中略)

 あらゆる宗教ははじめに荒唐無稽である。あらゆる国家が、はじめに荒唐無稽 であるように。しかしこの荒唐無稽さは、いつも信仰者の恣意 的な解釈をゆるすようなあいまい(ヽヽヽヽ)さと多 義性をもっている。そしてこのあいまい(ヽヽヽヽ) さと多義性によって、宗教や国家はいつも知的な理念を附与することができる 伸縮自在な容器に転化するといっていい。大はヘーゲルのような優れた哲学者か ら、小はどこにでもころがっている亜インテリにいたるまで、この容器にいわば 美酒を盛りこもうと志向することができることは確かである。しかし、宗教や国 家はヘーゲルが試みたように、一般理念のひとつの形態というところまで普遍化 して理解しえないかぎり、いつも猛毒と蒙昧を含むよりほかない。このばあいに は、宗教や国家はその創始者(たち)の生活思想の質と、現実の政治的あるいは 制度的権力としての質が問われる。教祖や創始者たちの生理学的な病状よりも、 思想としての本質がものを言うのはこのかぎりにおいてである。






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540 新新宗教批判(7)
パラノイアの症候例
2006年7月1日(土)



今回から「幸福の科学」を取り上げる。

 新興宗教を本を買ってまで調べようという気は起こらない。今は便利になった。 インターネットのサイトから調べることができる。天理教の世界図式や天地創造説 やお説教はすべて天理教の公式サイトに公開されていた。統一教会の公式サイト では公刊された全ての教義書がそっくりまるごと公開されている。しかし「幸福 の科学」の公式サイトには教義の「いいことも言うじゃないか」という部分の概略 だけで「ばかばかしい」部分は一言も掲載されていない。教祖のパラノイアの症候が 改善されてきて「ばかばかしい」部分を恥ずかしいと思い直したわけでもないだ ろう。「幸福の科学」では教祖の著作物を何冊か読まないと入団できない仕組みに なっているそうだから、そのためかもしれない。前回で天理教を「道徳宗教」と呼んだ が、「幸福の科学」はさしあたって「出版営利宗教」と呼ぼうか。

 というわけで、以下の「幸福の科学」の教義はすべて吉本さんが引用したものの 孫引きである。

 まず、大川隆法が体験した「神がかり」を吉本さんは次のようにまとめている。
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 1981年1月高橋信次の『心の発見―神理篇』を読みすすんでいるとき、胸が大 きく動悸し、体が前後にこきざみに揺れる状態を体験する。それから高橋信次 が説いている神理を、じぶんは以前から知っていたという心の既視感におそわ れる。

 おなじ3月23日に、幻聴で話しかけられる感じがして、カードと鉛筆を 用意すると憑依状態で「イイシラセ」と繰り返して書記している。 「おまえは、なにものか」とたずねると「ニッコウ」と自働的に署名する。 日蓮宗の日興上人のことだ。そのあと日蓮からの幻聴がきこえる。

 6月のある夜、こんどは高橋信次からという幻聴がやってきて「大川隆法よ。 今日、私は、おまえの使命をあかすために来た。おまえは今後、おおいなる救 世の法を説いて、人類を救わねばならないのだ」と告げる。

 おなじ6月に郷里からやってきた父親(善川三朗・「幸福の科学」顧問)のいるま えで、イエス・キリストからのお告げが幻聴としてやって来る。

 それ以後、大川隆法はじぶんが呼ぶと天上界のあらゆる霊が出て来るように なったと書いている。そして1986年6月に、日蓮、イエス・キリスト、天之御中 主之命、天照大神、モーゼ、高橋信次などの霊が降下して、会社勤めをやめて 神理伝道に生涯をかけよと託宣が下って、宗教法人「幸福の科学」(91年、宗 教法人承認)を設立するようになったと書いている。
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 ここで登場する高橋信次 (1927年9月21日 - 1976年6月25日)はGLA(God Light Association) という新興宗教の教祖だそうだ。真のメシアだと騒いでいた(騒いでいる)人たちが いた(いる)。まあ、初めて知る新興宗教がいっぱいあるなあ!

 さて、上記の大川隆法の「神がかり」についての吉本さんのコメント。

 わたしたち平常人の解釈では、大川隆法のこの体験はじぶんの音声にたいし てじぶんが解釈し造形したとおりの、日蓮やイエス・キリストや天之御中主之命(あめのみなか ぬしのみこと・この神は存在性をもたない)や天照大神やモーゼや高橋信次の 言葉が憑依したという以外の意味をもたない。

 またなぜこうも次元の違う人物や架空の存在の霊が降下してくるのかといえ ば、そのときどきに読んだ著書や神話や聖書などで印象がつよく刻印されたもの が託宣に現れるものだという理解になる。また天台智(ちぎ)や高橋信次は 特異的に択ばれているが、これは大川隆法が日蓮から日蓮の傾倒した智に遡っ たものだし、高橋信次は直接に「幸福の科学」の教義をつくるのに基本になった 師にあたるからだということになろう。


 宗教を取り付かれたように勉強していたことが推測できる。一種の「オタク」 だったのだろう。
 この憑依状態の体験をきっかけに大川隆法は持続的なパラノイアに特有な誇大妄想に取り 付かれる。たとえばこんな具合である。
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 いまから一千数百年前に、天台智が、中国の天台山で一念三千論を説いてい たのですが、そのとき、霊天上界において、彼を指導していたのは、実は、ほか ならぬこの私でした。

 私は、私の指導霊であるイエス・キリストと、愛について、よく話しをするこ とがあります。

 右にあげたことばは、いまから二千年近いむかしに、イエス・キリストが、 ナザレの地で語っていた愛の話の復元です。現在、イエスが私を指導している ように、当時は、私が天上界からイエスを指導していたからこそ、私は、彼の ことばを知っているです。
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 麻原彰晃が著書「亡国日本の悲しみ」で張り合っていた。曰く、『「幸福の科学」の 主宰・大川隆法は前世で私の弟子だった。天法金丹の法の開祖はじぶんだといいふらして、 無間地獄に堕ちた。』『大川隆法は一生前は「四国のたぬき」だった。死後は 無間地獄に堕ちる。』

 次に大川隆法の世界図式はもっと荒唐無稽だ。

 ユークリッド幾何学では実在の世界を「空間」として抽象してそれを3つの 座標軸(タテ・ヨコ・タカサ)を使って数式化する。これを3次元ユークリッド 空間と言う。そこで一般に実在の世界を「三次元世界」と呼びならわしている。
 これをさらに抽象して一般化すれば、n次元ユークリッド空間の数学ということに なる。
 物理では3次元空間に時間という第4の座標軸を加えて4次元ユークリッド空間 として物体の運動を表現する。

 大川隆法は、この4次元世界の「時間」を通って鎌倉時代のヒトと同じ場所で 出会えるとのたまう。
 ずいぶんむかしのこと、「タイムマシン」という連続テレビドラマを楽しく見たことがあ る。昨夜「戦国自衛隊」という最近の映画をテレビで見た。そういえば「バック・トウ・ザ・フ ィーチャー」という映画もあった。視聴者は「もしも歴史」の面白さを楽しんでいる。 時間を行き来することができるなどと本気で信じてみている人はまずいないだろう。 (将来科学が進歩すればそのようなことが可能になると思っている人は、あるいは いるかも知れない。)

 大川隆法のバカばなしのふろしきはまだまだ広がる。
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4次元世界+「精神」=5次元世界
 人間が物質的な肉体ではなく「精神」であることに目覚めたものの住む世界。 のことだ。

5次元世界+「神知識」=6次元世界

6次元世界+「利他」=7次元世界
 愛をもち他者に「奉仕」できるものの往ける世界。

7次元世界+「慈悲」=8次元世界
 太陽のような愛の世界。

9次元世界
 そのうえに「宇宙」の太陽系のほかの星団の霊界のことも知り、大宇宙の進化 という方向のうえで、地球系の霊団を指導している世界的宗教の人格神や根本神 の世界のことをさす。

10次元世界以上になると地上の実在の関係をもった人霊ではなく「三体の意 識」だけの存在の世界だ。その三体とは
   大日意識(地球生物の積極意志をつかさどる)
   月意識(消極的な女性的な面をつかさどる)
   地球意識(地球の生命体としての意識をつかさどる)
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 パラノイアの症候としてこのような誇大妄想のバカばなしが生まれるのは なんら不思議なことではない。不思議なのはこれを真に受けて恐れ入ってしまい のめりこんでしまう「平常者」が絶えないことである。






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541 新新宗教批判(8)
「幸福の科学」の基本教義
2006年7月2日(日)


 身体と意識(こころ)を分離して別個のものとする相対的誤謬を絶対的真理であると 大前提してしまえば、意識の世界についてはまことしやかにどのようなバカ話でも 創ることが可能だ。言い直せば、その大前提は際限なき逸脱を呼び起こし全くの 誤謬の深みにはまり込んでしまう可能性を孕んでいる。
 前回私は、バカばなしを真に受けてのめりこんでしまう「平常者」が絶えない ことを不思議だと書いたが、なんら不思議なことではなかった。それらの「平常者」 は「身体と意識(こころ)を分離して別個のものとする相対的誤謬を絶対的真理 」とみなしている点でバカばなしを創りだすものと同類なのだ。

 さて、「幸福の科学」の教義の核心は何か。
 宗教の信仰の対象(本尊)は阿弥陀仏であったり法華経であったり親神であったり 、教祖以外の絶対者あるいは絶対精神であったりするのが一般的だ。ところが 「幸福の科学」の信仰の対象は大川隆法自身だというから恐れ入る。

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主エル・カンターレ──かつて、インドに釈尊として、ギリシャにヘルメスと して生まれ、人類を導かれてきた御存在です。その意識の御本体が今、幸福の科 学の大川隆法総裁として地に降りられ、全人類を救うために、仏法真理を説かれ ています。
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 「幸福の科学」の基本教義は何かというと次のように述べている。

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  幸福の科学の基本教義は、「正しき心の探究」と、その具体化である 「幸福の原理」としての「現代の四正道」です。この「現代の四正道」は、 「愛」「知」「反省」「発展」の四つの原理からなります。「人を愛しなさ い」という教えです。現代人の苦しみの多くは、「他の人々からの愛や評価 がほしい」と思いながら満たされない苦しみです。ここから脱却するために は、自ら人々に愛を与えることが大切です。仏法真理の知識を学び、仏の心 を知るということです。

 さらに、単に知識として学ぶだけではなく、その仏法真理の知識を、職場 や家庭などでの実体験を通して「智慧」に変えていくことが大切です。釈尊 の「八正道」の教えを現代的に再構築したものです。反省によって心を浄化 することで、悪しき霊的な影響から離れることができます。過半数の人々が 悪霊の影響を受けている現在、非常に大切な教えです。大乗仏教の本領であ り、ヘルメス的な発展・繁栄思想の復活です。自分の幸福が「全世界の幸福」 につながる生き方を通して、「成功」という積極的幸福、発展的幸福を実現 し、ユートピア建設への道を開く教えです。
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 どうやら「愛」がそのキーワードであり、「四正道」とか「八正道」とか の仏教教義の概念を理論の正当性の論拠にしているようだ。しかし上記の 「幸福の科学」の公式サイトから転載した説明は、ただただ奥深くありがた い教えであると粉飾することに急で、肝心なところが曖昧で私にはよく分 からない。つまり「愛」を説くのにどうして「四正道」とか「八正道」とか 必要なのかがさっぱりわからない。「分からなければ本を買え。」とのご託宣か しら。本を買うのはおことわりして、吉本さんの読解を聞いてみよう。

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 大川隆法は高橋信次が天台宗の止観からつくりあげた「八正道」をじぶんが こしらえた「愛」の段階説と組み合わせて、実行すべき指針をつくり、それを 「幸福の科学」の教義としている。

 「八正道」というのは

(1)正しく見ること(正見)
(2)正しく語ること(正語)
(3)正しく愛すこと(正業)
(4)正しく生きること(正命)
(5)正しく思うこと(正思)
(6)正しくすすむこと(正進)
(7)正しく念ずること(正念)
(8)正しく悟ること(正定)

のことで、これにそれぞれ「愛」の段階を割りあてている。

一、正見、正語は、親子、男女、隣人のような人と人とのあいだの愛に 対応する。
二、正業、正命は、人を生かし導く愛に対応する。
三、正思、正進は、おたがいに神の子どうしとして許し、つつむ愛に対応 する。
四、正念、正定は、神仏のひとつになった悟りの境地の愛に対応する。
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 そしてこの愛の段階にも対応するのが、前回に説明した「n次元世界」という 仕組みなっている。

 ここで吉本さんの総合的な評価を聞いてみよう。

 まるで子供だましのようにつくられた霊の段階秩序は、スエーデンボルグの 霊的な世界のいかがわしさとおなじように、いかがわしいといえばそれまでの ことになる。でもよくもここまで風呂敷をひろげ大宗教から霊視者やUFOを見た ものまでの神秘意識を包み込んだものだと感心する。

 天台宗の仏教やキリスト教の「愛」をもとにして、UFOに乗ってほかの宇宙の 宇宙人と出会って平和な至福観を説かれたといった類の言説や、ある日突然に 一時的なヒステリー性の健忘に陥り、それからあと超常的な霊能力をもつよう になったといった類の体験まで、まんべんなく包み込んで段階説のどこかには め込んで調合してしまっている。

 全体的なムードとしていえば温和な(大川隆法は「中道」という言葉をつか っている)幸福感をどこまでも精神が保ってゆけるものだという教説をつくり あげている。

 大川隆法のように実在する物質の形態の概念も、精神や人間のあいだの精神の 関係も倫理も一緒くたにして「次元」をこしらえてしまうと、幼稚で子供じみ て感じられるが、根本の原則は肉体とこれを支配している意識・魂とは次元の ちがう別個に分離できる存在だという認識に根ざしている。高橋信次の『心の 発見―神理篇』をみるとそれがとてもよくわかる。高橋信次によれば意識・魂 の中心が「心」だとかんがえられている。そしてこの「心」は大宇宙の支配者 である神仏の意識と通じあって、「あの世」と「この現象界」を輪廻転生しつ づけてきた不死の存在で、そのゆえに過去世の想念、本能、感情、智性、理性、 意志、先天的な善悪の業をみんな蓄積してもっていることになる。こういう考 え方の秘密はどこにあるかといえば、高橋信次が、はじめに意識・魂を肉体と 別個のものと分離したところからきている。そして意識、魂の核である「心」 は自在に過去世も現世もあの世も転生しつづけているとみなされている。この 根本的な認識を承認してしまえば、大川隆法のようにどんな次元の世界もつく りあげることができることになる。

 高橋信次と大川隆法に共通している認識の特徴は、大宇宙の支配者である 神仏の意識に道を通じているどんな宗教も言説も、ひとしく神理に叶うものと していて、宗教に偏らない点だ。つまりどんな宗教も言説も、この神理に叶 えば、あるいは叶うところだけを視てゆけば、批判や排斥の対象にはならな い。肯定的に包み込もうとしている。高橋信次ではあまり目立たないが大川隆 法ではこれをどんな宗教でもやりようによってはとり込めるような体系につく りあげてしまっている。浅薄ないい加減な理解しかないが、そんなことは問 わない人士にとっては、決してほかの宗派宗教を誹謗したりしないで、当り のよい言葉でどんな宗派や宗教や超常的な関心も表面の形の類似で、大川隆 法の次元世界のなかにはめ込まれることになる。この特徴は文章のムードと しては、なかなか気持ちがいいものだ。


 『決してほかの宗派宗教を誹謗したりしない』温和な全体的ムード が『浅薄ないい加減な理解しかないが、そんなことは問わない人士』を 引き付けるひとつの要素になっていると、吉本さんは分析している。






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542 新新宗教批判(9)
普遍宗教
2006年7月3日(月)


 教祖が語るバカばなしにかかわらず、『超常的な宗教体験を信用する』人たちを 引き付けるける要素を、吉本さんはもう一つ抽出している。それは超常的な宗教体験 のなかに普遍的な心的体験が潜在しているからだ、と言う。
 それは仏教でいう輪廻転生(生れかわりの無限循環)ということだ。これは 偶然に瀕死の体験をして蘇生した人や、修練によって人工的に瀕死体験を造れ た人(ヨーガ・瞑想・座禅・台密)が、じぶんがじぶんの肉体を離れた幻覚を 造ることができるところに根拠をもっている。そして高橋信次の『心の発見― 神理篇』をみると、度重なる心臓停止の体験からこの幻覚をみて、そこから新 宗教をはじめたことがわかるし、大川隆法は瀕死体験ではないが、憑依のもう ろうとした入眼状態で高橋信次から語りかけてくる幻聴を聞いて死後の神霊の 存在と、肉体とは分離している神霊の独在を信じ、そこから宗教活動に入った ことがわかる。この体験から大川隆法は独特な神(仏)観に到っている。

「神とは、私たち以外の別のところにある他者ではなく、私たちを存在せしめ ているところのひとつの高次の意識体なのです」

「私たちは、自分自身が神の一部であり、神の自己表現の一端をになっている ことに、誇りと自信をもつべきなのです」

 こういうまともに取り扱うに値する高橋―大川系統の独特の神(仏)観に到 達している。この神(仏)観は仏教の通俗化にはちがいないが、輪廻転生を実 体化している新興宗教のすべての教義に共通する神(仏)観としては、もっと も高度な表現になっている。その鍵は、あるひとつの次元の存在は、それより 高次元の霊に統御されて存在するという大川隆法の理念にあるとおもう。


 ここで吉本さんが取り上げている「まともに取り扱うに値する」神(仏)観に 至るのに「輪廻転生」や「あるひとつの次元の存在は、それより高次元の霊に統 御されて存在する」という理念は無関係だと、私は思う。

 大川隆法の神(仏)観の「神」を「自然」と置き換えて少し言い直してみる。

「自然とは、私たち以外の別のところにある他者ではなく、私たちを存在せしめ ているところのひとつの高次の摂理なのです」

「私たちは、自分自身が自然の一部であり、自然の自己表現の一端をになってい ることに、生き方や思想の根拠を置くべきなのです」

 これはもう宗教的な理念ではなく科学的な理念だ。全ての宗教を包含する「普遍 宗教」というものがあるとすれば、その宗教の神は自然にほかならないのではない か。地上から浮遊してさまよい続けた挙句、霊(こころ)は本来のあるべきとこ ろ、この地上に戻ってくる。神秘めかした言説を一片なりとも必要としない。

 私には信仰すべき宗教はないが、宗教的な感性はある。自然の一部として大自 然と感応する「こころ」と言ったらよいだろうか。日本語には適当な言葉がな い。仏教でいう「仏性」?宗教のたなごころの中で思考を停止するわけにはい かない。あるいは「もののあわれ」?本居宣長の手垢がつきすぎている。
 まだよく熟していない理念なので、極私的にそれを「ポエジー」と呼んでい る。「ポエム」が生まれるみなもとと言う意味合いで「ポエジー」。

 古田武彦さんの著書「わたしひとり親鸞」(明石書店)に書名と同名の論考があ る。その最終章『わたしの「信仰告白」』に、私の理念は共鳴する。私がいう「ポ エジー」と同じことを語っていると思う。

 最後に、わたしの「信仰告白」をのべさせていただきます。

 わたしはどこから生まれてきたか。むろん直接には父母からです。祖先から えんえんと血統をうけついでわたしに至ったわけですから、また未来も子孫に 血統を伝えてゆくことでしょう。
 その上、血を同じゅうする″親戚・縁者をたぐつてゆけば、それだけ血 をついだ¢c先の数もふえ、従って血を伝える″子孫も多いことでしょう。 (わたしたちが普通、「祖先」と言っているのは、いわゆる男系に限られ、真 に生物学的な意味で、つまり「すべての血の上の祖先」ではないことは、ご承 知の通りです。)

 さらに目を拡げれば、アジア・モンゴリアン全体、いや人類全体が「親戚・縁 者」であることは、他の動物の視点″から見れば、自明の事実です。

 けれども、今の視点は、こんなせせこましい話ではありません。もっと巨視 的なものです。
 なぜなら、人間は自己を成り立たせるのに、水や植物や他の動物、それらを 使って″います。すなわちそれらもわたしたちと同根なのです。そしてその 水や植物は大自然の中から生い出でたものにまちがいありません。従ってわた したちは正確に見つめれば見つめるほど、大自然と同根であることを疑うこと はできません。この「大自然」とは、生物か無生物か。そのいずれでもない、 それらを生み出した淵源です。ですからわたしたちは、やがてそれに再び帰し 去ってゆく。これは自明のことです。

 この帰しゆく先の大自然を何と呼びましょうか。それは名づけがたいもの″ なのですから、逆に言えば、何と呼ぼうと各自の自由です。  大いなるもの″真実なるもの″母なるもの″ こういったイメージが わたしにあります。

 そこで「大真実」とか、「大母(たいも)」とか、という名前を作って″み ました。
 これは名を作った″だけであって、わたしが大自然、すなわちこの大宇宙を 作ったものでないことは明白です。
 大宇宙がわたしを作ったのです。いったんわたしを作った以上、誰かが ―  たとえば地上の権力者が ― わたしを気に入らない″といって消してみたと しても、大宇宙は何たびでもわたし″を作るでしょう。このわたし″の存 在に一片の真実がふくまれている限り。
 悪罵も、嘲笑も、無視も、大母の描いた、この筋書き″を消すわけにはいか ないでしょう。

 わたしは自分を何もたいそうな者だとは思いません。うわべは平凡、内面は 愚劣。無恥において無上の者です。
 といっても幸いに、案ずることはないようです。このようにどうしようもない わたしでさえ、やがてある日、大母のもとへ帰り至れること、それは他の何ごと よりも確実、疑いようもないことなのですから。







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543 新新宗教批判(10)
いまテレビが低俗な理由
2006年7月5日(水)


 今回から「統一教会」を取り上げる。

 コイズミ・イシハラと並んで私が最も忌み嫌う政治家・岸妖怪一族の末裔アベが 統一教会の合同結婚式に祝電を送ったというニュースが最近あった。妖怪一族と 統一教会の関わりは相当深いらしい。全記事をそのまま鵜呑みにはできないが、 次のサイトに詳しい。

安倍晋三を首相にすると…

 統一教会がひろく知れわたったのは1992年の合同結婚式がきっかけだった。 アイドル歌手・女優の桜田淳子ともと新体操の日本ナンバーワン・山崎浩子が 合同結婚式に参加し、マスコミが大騒ぎをしたのだった。

 統一教会の公式サイトに桜田淳子の信仰告白が記録されていた。

『姉が20歳の頃に統一教会に入りました。当時、私は秋田にいて13歳でしたが、 統一教会はとにかく悪い噂の渦中にあり、そのために、親と姉とのもめごとを 見てきましたので、私も「何でそこまで・・・」と、統一教会や姉を先入観を もって見るようになっていました。私が芸能界に入って15歳の時に、姉も東京 に出てきてくれ、一緒に生活するようになりました。悪いイメージを持って接 してきた姉ではありますが、その姉のアドバイスの一言一言に、いちいち納得 できるものがあったのです。それで姉のやっていることは間違っていないんだ な、と思うようになりました。だから私は強制的にではなく、自ら「ちょっと 耳を貸してみようかしら」と思って、この統一教会の教理である「統一原理」 に触れたんです。それは序論から始まって膨大な理論立ったものがあるのです が、その3日間の講義を受けまして、これが本当に真理であると思いました。 以来、私が芸能界でやっていく上で、これが精神的バックボーンになってきた ことは間違いないんです。』

 少年の犯罪やオウム真理教事件などの時と同様、こうしたセンセーショナルな 事件に対するマスコミの報道姿勢は、現象面ばかりを追っかけまわして大衆を 扇動することにかまける。事件の根底にある実相や核心に迫るようは真摯な報道 ・解説はほとんど見られない。このことはセンセーショナルな事件のときだけではない。 日々の政治や社会問題に対しても同様である。
 テレビは、下劣でつまらないおしゃべるや下品で醜悪なパフォーマンスだらけ の低俗番組が多いから低俗なのではない。そのような番組は泡のようなもので、 すぐ消えて跡形もなくなるだろう。テレビを低俗なメディアにしている最も大 きな元凶は事あるごとにしゃしゃり出てくる解説者や識者の低俗さなのだ。

 さて、吉本さんの『「原理講論」の世界』は1992年の大騒ぎのときに書かれた。このときの テレビの報道について次のように書いている。

 これはなぜか韓国人の日本人にたいする植民地時代からの憎悪と、日本人の 韓国人にたいする潜在的な侮蔑感を微妙に刺激するように働いた。さらにもう ひとつの印象は、桜田淳子や山崎浩子のような、専門の分野で優れた能力を もっているとみなされる人たちが、生活者としては意外なほどころりと思い込 みやすい脆さをもっているということだ。そしてどこまでが本当なのか、実相 はどうか、さっぱりわからぬというのが実感だった。

 テレビ報道のアナウンサーや、登場した解説者もまた、はかない印象を視聴 者にあたえた。こういった人たちは、誰ひとりとして統一教会はどんな理念や 原理をもったキリスト教団体で、どこが駄目なのか、どこが吸引力をもつのか を解説しなかった。そしてただやみくもに合同結婚式は野蛮・未開で、本人の 意志に反しようが嫌だろうがかまわずに男・女のカップルを強制し、また信者 になると霊感商法で安い物品を法外な値段で売りつけて資金をあつめる義務が あると宣伝した。これは何らかの度合で事実かもしれない。しかし売りつけら れる方に信心がなければ、そんなことは成り立つはずがない。どんな信心なの かを確かめたり、問いただしたりする解説は、いっさいテレビ画像にのせよう としない。これでは、ただデマをひろげるだけで、統一教会の実体に肉薄する ことができるわけはない。


 これが吉本さんを統一教会の教義の分析に向かわせたモチーフである。 「膨大な理論立ったもので本当に真理であると」桜田淳子に思い込ませた 「統一原理」とはどんな教義なのか。






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544 新新宗教批判(11)
統一教会の教義(1)
2006年7月6日(木)


 統一教会の教義書「原理講論」は統一教会の公式サイトで全文読むことが できる。一通り読んでみようかと思ったが大変な量である。時間がもったい ないと思い直した。今まで通り吉本さんの信頼すべき解読をたどることにする。

 「原理講論」には『独特に解釈されたキリスト教の「神」と「被造物」の 世界の関わりや、その関わりを支配する原理が述べられている。』吉本さんはそれを 個条書きにしてまとめている。

----------------------------------
(1)
 わたしたちの被造物の世界は、神を中心にして、神の創造目的のままに動い たり、とまったりしている一つの完全な有機体である。その性相的な存在が神 で、形状的な存在が被造物世界である。
 おなじように人間は心を中心にして動いたりとまったりしている存在である。 そして存在するものは性相と形態をもっている。

(2)
 存在するものは、じぶんの内部でも、他の存在とのあいだでも、陽性と陰性 のふたつの性相が相対的関係をむすぶことで、はじめて存在といえる。
 たとえば物質は素粒子からできているが、素粒子は陽性、陰性、または陽性と 陰性の中和によって中性を帯びている。
 植物は雄しべと雌しべとから生れる。動物も人間もおなじだ。そして男性に は女性性相が潜在し、女性には男性性相が潜在する。また人間の心と体はそれ ぞれ性相と形状に当っている。

(3)
 人間の良心はある主体にたいしたとき生れた対象で、その主体と対象との関 わりは授受の作用として行われる。そして良心の主体は神である。

(4)この主体と対象との授受作用は、ふたたび両者を合体させ、それがまた神 の対象になる。
 主体と対象、そのふたつの合性体が残りのものを対象として三対象の基準 をつくり、これが正を中心として四位基台をつくる。これが神・夫婦・その 夫婦が産んだ子女の三段階で完成されるからぜんぶで十二対象になっている。 -----------------------------

 ここまでのところで、すでに統一教会が、神を中心においた男女の結びつき を、合同結婚式のように儀礼化し、重要とみなしている理由がわかる。つまり 陽性と陰性の結合で被造物の世界ができているという理念を、教義の根本にし ているからだ。だがこれはいかにもお粗末な通俗科学の認識だ。別の言い方を すればキリスト教的な世界観と東洋の陰陽二元説のごった煮といったものだ。 「陽イオンと陰イオンが結合してある物質を形成する」とか「電離した陽イオ ンや陰イオンが、各々陽子と電子との結合によって形成されているように」と いった、工業高校の生徒でも間違えないような出鱈目な概念で、物質の成り立 ちが説明されていて困惑してしまう。しかもこの種の科学的な間違いが教義の 根本的な部分の陰陽二元論になっているのだ。

 天理教の創設時代には教祖は科学に煩わされることがなかった。科学が解明し てきた真理などもとより知るところではないから、科学とはかかわりなしに 教義を捏造した。
 しかし新新宗教の教祖たちはなまじっか科学を知っているから全く無視できない。 科学との整合性がずんぶんと気になっているに違いない。しかし、科学的な思考方法 とは対極的な思考方法ででっち上げる観念世界が科学と整合するわけがない。 したがって行き着く先は「どんなに科学が進んでも科学では割り切れない不思議な現 象はたくさんあるのだ。」と居直ることになる。
 それでもなお科学が気になるのか、科学のかけらのない教義を掲げながら「幸福の 科学」と「科学」を標榜する宗教がある。かとおもえば統一教会の教義のよう に、科学を盗用したのはいいがまたくの誤解だらけの知識だったりする。
 創価学会も科学がおおいに気になっているようだ。創価学会の言説も直接読んだこと がないから梅原猛さんの「創価学会の哲学的宗教的批判」から引用すると、『科 学と宗教は矛盾しない、迷信を信じるキリスト教や他の仏教は科学と矛盾する が、日蓮正宗創価学会だけは矛盾しないと、呪文のようにつぶやいている』そ うだ。

 あるいは信者の中に科学者がいることを指摘して、宗教は科学を超える真理を 極めているとする主張もよく聞く。これに対して、例えば三浦つとむさんは 気持ちよくすげない。『「人は何のために生まれて来るのか」という疑問』 から一節を引用しよう。

 私の住んでいる清瀬には、空気がよくて結核療養所がある(私が家を建てたこ ろは、清瀬にいると云うと結核だと誤解されたりした。)関係であろうが、キリ スト教の教会がいくつも存在している。教会関係の人びとが、しばしばわが家の 玄関のチャイムを鳴らして、「この世界はどうなっていくかという、おためにな る話を申上げるためにお伺いしたのですが……」などと、片手に薄い雑誌を持っ て信仰のすすめに訪れて来る。「私は科学者なので、神さまなんか必要がありま せんよ。」と断ったら、「ご存知ないかも知れませんが、大科学者であるニュー トンやアインシュタインも深く神を信仰しておられたのですよ。」とおいでなす った。この例は新興宗教で愛用しているが、キリスト教も勧誘に使っているのか と思いながら、「ヨーロッパの人間は迷信深いから、あの人たちもそんなことに なったが、私は迷信が大きらいなのでね。」と云っておひきとりいただいた。神 様の押売は日用品の押売とちがって、むこうがまじめにやって来るだけに相手し にくい。

 私は三浦さんほどすげなくできないので宗教の押し売りが来ると「もうすでに 信じているものがあるので間に合っています。」と言ってお引取りいただいてい る。もちろん私が信じているのは宗教ではない。

 今回はまるで連想ゲームをやっているみたいだ。
 宗教と科学の関係でニュートンとアインシュタインはよく引き合いに出される ようだ。このことでもう一つ思い出した文章がある。田川健三著『宗教とは 何か』の中に「知の歴史」という観点から、キリスト教単一世界における近代合 理主義と宗教との相克・共犯の歴史を分析している文章ある。その一節。

 だから、歴史的には、たまに限られた地域と期間においては例外的に、近代合 理主義や科学主義が宗教を邪魔物扱いにして抹殺しようとしたけれども、それも しばらく続くと、近代合理主義そのものを維持していく上にそれでは都合が悪 い、ということに気がついて、宗教弾圧をやめるものだし、まして全体の流れと しては、両者はむしろ共存関係にあった。近代合理主義の克服を看板にかかげた 宗教が、それを看板にかかげたが故に、かえって近代合理主義と共存共栄の関係 をつくることができたのである。

 むろん、近代合理主義の克服という課題そのものが虚妄なのではない。その看板 を宗教に担わせたから、かえって、克服さるべきものと克服の課題であるはずの ものが助けあって共存しはじめたのである。ニュートンだのアインシュタインだ の、やや落ちるが湯川秀樹だのという「優秀な」自然科学者が、実に安っぽく愚 劣に宗教を崇拝し、宗教を持ち上げる発言をくり返した理由はそこにある。






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546 新新宗教批判(12)
統一教会の教義(2)
2006年7月8日(土)


 『原理講論』によれば、神がよろこぶ人間の善い行為は三つあり、それを 「祝福」とよんでいる。

-------------------------------
第一の祝福
 個性を完成すること。
第二の祝福
 アダムとエバ(神を信じている男女ということ)が夫婦になり 合性一体化して子女を生み殖やし、神を中心として家庭的な四位基台をつくる こと。
第三の祝福
 万物の世界(被造世界)に対する人間の主管性を完成すること。
-------------------------------

 第一と第二は「統一教会の教義(1)」で紹介した教義からすれば当然の こととわかる。第三の祝福については吉本さんは次のように註釈している。

『この教会の創造原理では、神が人間を主管しているように人間は神の創造性を まねて、万物世界(被造世界)を主管する期間がつづくことになり、この期間 を統一教会の内部では「間接主管圏」とよんでいる。この圏内にいる期間には 神は人間を直接に主管してはならない。「神は人間が自ら完成したのち直接主 管する」というのは創造原理だからと述べている。現在まで人間がどんなに堕 落していても神が干渉しないのはそのためだという理窟がつけられている。 ついでに統一教会がいう堕落は、どんなことが原因だとかんがえるかといえば、「淫行」だという。人間(の女)は、もともと神 を中心とした愛で、善なる子女を繁殖しなければいけないのに、実際はサタン を中心にした不倫の愛をもって悪の子女を生み殖やしている。これはただの 「淫行」だということになる。そして天使とエバ(人間の女)との淫行による 堕落が霊的堕落で、エバ(人間の女)とアダム(人間の男)との淫行が内的堕 落だということになっている。』

『統一教会はイエス・キリストの復活と再臨について独特の解釈をくだしてい る。人間は老衰すればその肉体は土に帰るように創造されている。いったん土 に帰った肉体がもとに復活することはない。「霊人体」だけが霊界に行って永 遠に生きるので、これは再び肉体をもつ必要もない。
 ゆえに、復活は人間が堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管 圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、 その過程的な現象を意味するのである。』

『ところで霊界の霊人たちの助力を受けている地上人たちは、すべて霊人たちが 復活し再臨した者のことだ。わたしたちが知っている死んだ著名人が憑いたと称 する近ごろの新興宗教の、ごまんといる教祖たちはみんな霊人たちの再臨者だと いうことになる。ところでこれらの群小の再臨者はイエス・キリストの再臨者に 統一されることになる。イエス・キリストの再臨者は誰かといえば、統一教会の 教祖、文鮮明だそうだ。』

『「ヨハネの黙示録」の七章二〜四には、ひとりの天使が生きた神の刻印を もって、太陽の出る東の方角から上ってきて、十四万四千人に刻印が押される と記してある。イエス・キリストの再臨が東の方の国々にあることは、はっき り示されている。この東方の国というのは韓国・日本・中国の三つのことだ。 日本は過去に韓国を属領化して、韓国のキリスト教を過酷に迫害した。また 中国は共産主義の国になった。この二つの国はどれもサタン側の国家だ。した がってイエス・キリストが再臨する東方とは韓国のほかにはない。韓国が イエス・キリスト再臨の国になれば、韓国の民族が第三のイスラエル選民だと いうことになる。第一の選民は旧約のアプラハムの子孫のイスラエル人だった。 第二の選民はイスラエル選民から異端として追われて復活したイエス・キリス トを信仰するキリスト教徒たちだ。だが第三のイスラエル選民はキリスト教から 迫害され異端視された韓国の民衆だ。そしてそのためには「四十日サタン分立 基台」を立てなくてはならない。この「四」の数字にあたる年数(四十年)、 サタン側の国家である日本から属領にされて苦難を受けた韓国民族と国家には 第三のイスラエル選民としての資格が具わっている。韓国はかくして神のもっと も寵愛する第一線であるとともに、三八度線を境にしてサタンの国と接してい る第一線でもあることになる。韓国にイエス・キリストが再臨することは、仏 教では弥勒仏、儒教では真人、天道教では崔水雲、「鄭鑑録」では正道令があ らわれるというように、宗教によってそれぞれ違う形で伝承されてきた。それ らはイエス・キリストの再臨である文鮮明の出現を宗派の言葉で予言した ものだといえる。そして文鮮明を教祖とする統一教会は、これら韓国のたくさ んの宗教はもちろんのこと、世界中の宗教をとりあつめて統一する課題をに なっている。そのばあい韓国語が神に選ばれた世界共通語になる。』

 吉本さんのコメント。

 何という夜郎自大な馬鹿話だ。阿呆らしくて聞いていられないと誰しもおもう に違いない。それが常人の神経というものだろう。だが思い込みや信じ込みの世 界にとっぷり浸ってしまえば、夜郎自大話ほど強固な内閉の壁をつくりやすい。 それが、人倫の世界なのだ。

 つい半世紀まえまで、日本国や日本人は八紘一宇などという阿呆なスローガン に浸り込んでいた。またつい先頃まで世界中の知識人はロシアを民衆に寵愛され た天国とおもい、スターリンを偉大なマルクス主義の教祖と崇めて、批判の声ひ とつあげず、何をしでかしても屁理窟をつけて擁護の言説をふりまわしてきた。

 人間はどんな賢くもなれるかわりに、どんな愚かにもなれる魂をもった存在だ といえる。賢さも愚かさも出現の度合や品質として同一なもので、賢い人は愚か でないとおもわない方がいいし、愚かな人は賢くないときめない方が、さしあた り人間へのいい洞察といえる。

 わたしはテレビの映像ですっきりした悪びれない顔で統一教会の合同結婚式に 参加したいと語っている桜田淳子や山崎浩子の表情を視ながら、一芸にすぐれて いるということはその芸についてだけ賢いということで、すべてに賢いことを意 味しないなと改めて感じていた。でも同時にアナウンサーやインタビュアーや解 説者は、統一教会を信仰してないということについてのみ賢いだけで、ほかのこ とに賢いわけではないよともおもっていた。

 それじゃ、おまえはどうだと問われれば、わたしは現在まで愚かさと失敗の 連続だったよ、たぶんこれからもね、と答えるほかない。人間というのはひどい もんだねえ、と改めて実感せざるを得なかった。







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547 新新宗教批判(13)
日本は統一教会に支配されている?(1)
2006年7月11日(火)



岸信介(元首相、大勲位菊花大綬章)
福田赳夫(元首相、大勲位菊花大綬章)
中曽根康弘(元首相、財団法人世界平和研究所会長、大勲位菊花大綬章)
松下正寿(元立教大総長、Ph.D、弁護士、元参議院議員、「文鮮明・人と思想」著者)
福田信之(元筑波大学長、理学博士、「文鮮明師と金日成主席」著者)
金山政英(元駐大韓民国・特命全権大使、元日韓文化交流協会会長)結婚式祝辞
加藤武徳(元自治大臣、弁護士、剣道範士・全日本剣道連盟顧問、勲一等)
景山哲夫(元近畿大学長、経済学博士)
郷司浩平(日本生産性本部名誉会長、元経済同友会代表幹事)
西堀栄三郎(元日本山岳会会長、第一次南極越冬隊隊長、理学博士)
小牧久時(フランス国際大名誉教授、農学博士、平和運動家)
清水馨八郎(千葉大名誉教授、理学博士、「世紀のプロジェクト」著者)
助野健太郎(聖心女子大名誉教授、キリスト教史学専攻、現皇后陛下の恩師)
鈴木一(元出入国管理庁長官、元宮内庁侍従次長、元鈴木貫太郎総理秘書官)
安藤豊禄(元小野田セメント社長、勲一等、韓国修交勲章興仁賞受賞)
飯田正一(北大名誉教授・医学博士、薬理学専攻)
池田和義(大阪大名誉教授・理学博士、「神と万有と詩の世界」著者)
石橋一弥(元文部大臣・元自民党憲法調査会長)
伊藤行(元鹿児島大教授)
井上茂信(外交評論家・元産経新聞ワシントン支局長、「ゴルバチョフと文鮮明師」著者)
井上順理(鳥取大名誉教授、兵庫教育大名誉教授、文学博士、倫理学専攻)
今村和男(元防衛大教授、システム分析学専攻、国際科学振興財団専務理事)
入江通雅(青山学院大名誉教授、国際政治学専攻、元NHKニュース解説担当)
内田一臣(元海上幕僚長、元海将、自衛隊援護協会理事長)
植田利喜造(元筑波大教授、理学博士、生物学専攻)
江藤隆美(元総務庁長官、元建設大臣、元運輸大臣)
榎一雄(東大名誉教授、文学博士、東洋史専攻、元東洋文庫理事長)
大鹿譲(大阪工大教授、量子力学専攻)
岡田實(元大阪大学長、工学博士、金属工学専攻、勲一等)
岡嵜格(元東京地検特捜部長、元法務大臣秘書課長、元大阪高検検事長、弁護士)
加藤栄一(筑波大名誉教授、元自治省参事官)
加藤弘(東大名誉教授、工学博士、船舶工学専攻)
亀岡高夫(元農林水産大臣、元建設大臣)
亀川正東(琉球大名誉教授、文学博士、日本ペンクラブ名誉会員)
河部利夫(東京外大名誉教授、東京国際大名誉教授、文学博士)
気賀健三(慶大名誉教授、経済学博士)
木屋隆安(元時事通信社・社会部長、中外ニュース主筆)
工藤重忠(元桐蔭女子短大学長、憲法学会常任理事、法学博士)
黒坂富治(富山大名誉教授、音楽家・作曲家)
伍堂輝雄(元日本航空会長、元東京空港交通社長)
小森義峯(元憲法学会理事長、元国士舘大教授、法学博士、伊勢神宮評議員)
小山福松(元中京大学長、商学専攻)
近藤正栄(神奈川大教授、神学・英文学専攻、「神主義への道」著者)
桜井一(上武大元教授、単立シャローム第一公会牧師)
桜田淳子(女優、日本レコード大賞、日本アカデミー賞助演女優賞受賞)
佐々保雄(北大名誉教授、理学博士、地質学専攻、「日韓トンネルプロジェクト」監修)
佐藤正二郎(元広島大教授、音楽家・作曲家、元広島交響楽団常任指揮者)
慈雲(宗教法人妙法山貫首、霊能者、画家、スリランカ国立コロンボ大名誉教授)
東海林孝正(九州共立大教授、経営学専攻)
白井浩司(慶大名誉教授、フランス文学専攻)
菅原喜重郎(元衆議院議員、世界平和超宗教超国家連合共同議長)
杉田一次(元陸上幕僚長、日本郷友連盟名誉会長、元陸将、元東久邇宮内閣秘書官)
鈴木瞭五郎(元航空総隊司令官、元空将、元川崎重工顧問)
副島宏(元九州学院大教授、航空工学専攻、F1開発者)
田井友季子(作家・日本ペンクラブ会員、「神の代辯者」著者)
高田源清(九大名誉教授、元西日本短大学長、法学博士、法律学専攻)
高橋磐郎(筑波大名誉教授、数学専攻)
高橋賞(関東学院大名誉教授・元学長、工学博士、機械工学専攻)
高橋正和(国士館大教授、哲学専攻)
谷藤正三(元北海道開発庁事務次官、元建設省都市局長、日大教授、工学博士)
近松良之(元筑波大教授、養護施設ひかりの子学園園長)
築山治三郎(京都府立大名誉教授)
徳田敦子(バドミントン元世界チャンピョン)
中西武雄(東北大名誉教授、農学博士、農芸化学専攻)
中村信一(日本基督和協教会・牧師、画家、ロシア大主教・宗教最高勲章受賞)
那須聖(外交評論家、元毎日新聞ニューヨーク支局長、「牢獄の救世主」著者)
西俣昭雄(亜細亜大教授)
西山廣宣(曹洞宗大満寺住職)
二宮信親(元月曜評論社社長、元読売新聞社出版局長、元ラジオ日本・常務取締役)
野間繁(明治大名誉教授)
長谷川太郎(福岡工大元学長、山形大名誉教授、工学博士、電波工学専攻)
服部比佐治(元駐ヴァチカン大使、元駐イスラエル大使、元防衛庁参事官)
濱田敏郎(慶大名誉教授、元日本図書館協会理事長)
林健太郎(元東大学長、元参議院議員、元国際留学生協会会長)
一松信(京大名誉教授、理学博士、数学専攻)
弘津恭輔(元総理府総務副長官、元警察大学校長、元公安調査庁第一部長)
福尾券一(名古屋工大名誉教授、理学博士、鉱物学専攻)
福見正子(伏見稲荷大社・因島土生教会長)
法眼晋作(元外務省顧問、元外務省欧亜局長、元国際協力事業団総裁、勲一等)
細川隆一郎(政治評論家、元毎日新聞編集局長)
堀江正夫(元参議院議員、日本郷友連盟会長、英霊にこたえる会会長)
松井七郎(同志社大名誉教授、元ロックフェラー財団特別研究員、労働法専攻)
三原朝雄(元防衛庁長官、元文部大臣、元総理府総務長官、勲一等)
峯 弘(メノナイト教会牧師、元釧路短大講師、新自然塾塾長)
箕輪登(元郵政大臣、元衆議院安全保障特別委員会委員長、医学博士)
三村寛子(スーパー・メディテーション指導家、こども環境教育研究所長)
宮内俊之(元伊藤忠商事理事、元アラビア石油副社長)
武藤宗英(身延山久遠寺・報恩閣住職)
武藤正行(国士舘大客員教授、元海軍兵学校教授、元東和大教授、日本思想史専攻)
両角宗晴(信州大名誉教授、工学博士、機械工学専攻)
山口彦之(東大名誉教授、農学博士、世界平和教授アカデミー代表理事)
山崎仁(横浜商科大教授、関東学院大元副学長、元大蔵事務官、流通経済学専攻)
吉江誠一(元陸上幕僚長、元陸将、元国家国務員共済組合連合会・常任理事)
吉田康彦(元国連本部主任広報官、元NHKジュネーヴ支局長、大阪経済法科大教授)
嘉村祐一(元青山学院大教授)
吉本千禎(北大名誉教授、医学博士、医学工学専攻)
渡辺久義(京大名誉教授、創造デザイン学会代表、英文学・哲学専攻)
 「第543回」で統一教会の公式サイトから桜田淳子の信仰告白を転載した。 それは<文鮮明師と統一運動に賛同する方々>というコーナーにあった。 上の97名のリストはそのコーナーを飾っているお方たちだ。ありったけの 肩書きを添えて統一教会はいかにも得意顔だ。

 吉本さんが『一芸にすぐれているということはその芸についてだけ賢いとい うことで、すべてに賢いことを意味しないなと改めて感じていた。』と言っていたが、 このことはもちろん芸能人の専売特許ではない。上記リストのうち半数以上が学者だ。
 もちろん全員が桜田淳子のような熱心な信者というわけではないだろう。裏社会で 「持ちつ持たれつ」の関係にあり、その利権を手放すまいとヨイショしているだけと 思われるお方も多い。政治家の場合はたぶん裏金(政治資金)欲しさのおべんちゃら なのだろう。

 このリストは(順不同、ご芳名敬称略)と注釈しているが、最初の5名は特別扱い だ。その後は50音順に配列されている。妖怪一族のジイさまがトップの栄に浴して いる。このジイさまが何を言っているか聞いてみよう。

『統一教会と私の奇しき因縁は、(東京・渋谷区の)南平台で隣り合わせで住ん でおりました若い青年たち、正体はよくわからないけれども、日曜日ごとに礼 拝をされて、賛美歌の声が聞こえてくる。(中略)そうしたら、笹川(良一)君 が統一教会に共鳴してこの運動の強化を念願して、(中略)あれは私が蔭ながら 発展を期待している純真な青年の諸君で、将来、日本のこの混乱の中に、それを 救うべき大きな使命を持っている青年だと私は期待している。(中略)そういう 話を聞き、お隣りでもありましたので、聖日の礼拝の後に参りまして、お話した ことがありました。(中略)きわめて情熱のこもったお話を聞きまして、非常に 頼もしく私は考えたのです。』

 笹川という裏社会の怪物がジイさまと統一教会を取り結んだようだ。笹川が共 鳴したという運動はもちろん「原理運動」であり「純真な青年の諸君」とは 「勝共連合」の尖兵たちである。

 福田赳夫はどのようにヨイショしているか。

『アジアに偉大な指導者現わる。その名は“文鮮明”である。私はこのことを伺い まして久しいのでありますが、今日は待ちに待ったその文鮮明先生と席を同じく し、かつ、ただいま文先生のご高邁なご教示にあずかりまして、本当に今日は いい日だなあ、いい晩だなあと、気が晴れ晴れとしたような気がいたします。 (中略)今日は私が常々考えておった政治原理、そういうものを綺麗に整理さ せていただいたという気がするのであります(帝国ホテル「希望の日」晩餐会、 文鮮明師講演後のスピーチより)。』

今自民党総裁レースの有力候補として妖怪の孫・アベと福田赳夫の息子・福田康夫 が取りざたされているが、なんのことはない、どちらも統一教会の手の内にある。

 ナカソネのヨイショ振りはこうだ。 『共産主義が崩壊した今日、自由民主主義もさまざまな問題を抱えているのでご ざいます。真の良識に歴史的に裏付けられなければ、衆愚政治に陥っていくの であります。このような時、宗教的精神に基づいて世界文化体育大典が盛大に 開催される意義は、極めて大と考えるのであります。開催国大韓民国は私が日 本国首相として、戦後初めて公式訪問した地でございます。今、私たちに必要 なものは広大なる心と道徳的勇気ではないでしょうか。皆様、民族問題や宗教 の対立を越えて、人類の理想に向かって邁進してまいりましょう(統一教会・ 3万組国際合同結婚式における祝辞)。』

 アベが国際合同結婚式に祝電を送ったなどカワイイものだ。堂々と出席して 祝辞を述べている。このときのマスコミは全くの知らん振りを決め込んでいた のかしら。

 松下正寿と福田信之という学者はそれぞれ「文鮮明・人と思想」「文鮮明師と 金日成主席」とう著書をものしている。統一教会の宣伝マンとして高く評価さ れているのだろう。それぞれ次のようなコメントが掲載されている。

『私は文先生の高い霊性や、『統一原理』の真理性に共鳴するのは勿論であるが、 その経営能力の卓抜さに最も敬意を表するものである。(中略)統一教会には 青年が多く、活気に溢れている。文先生の高い霊性から出発して、宗教をはじ め政治、経済、文化の分野においても驚くべき実績をあげている。』

『文師の主張は単なる自己主張ではなく、神の主張の代弁である。そこに天運が 働き、滅びるように見えても、ますますその統一運動は世界的に発展している。』

 政治家のヨイショと違って、「霊性」だの「神」だのという宗教色が表面にす えられたコメントになっている。信者としてのめりこんでいるようだ。ちなみに 統一教会の正式名称は「世界基督教統一心霊協会」という。






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548 新新宗教批判(14)
日本は統一教会に支配されている?(2)
2006年7月12日(水)


 日本の支配層を構成する者たちのほとんどは天皇教信者かその支持者とみ てまず間違いあるない。
 では天皇教信者であって同時に統一教会信者であるような者はその二つの信 仰心をどのように処理しているのだろうか。両立不可能なこの二つの宗教の折り 合いをつけるのにはさぞ苦労することだろう。小森義峯という法学博士殿のご 高説を伺おう。

『神武天皇が、建国に際し、橿原(かしはら)の宮で宣べ給うた言葉の中に 「八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)とせむことまたよからずや」 というのがある。「あめのした」とは、地球上ということである。つまり、こ の言葉の意味は、「地球上の全人類が一つの家の中に住む親子兄弟のように仲 よく暮らしてゆこうではないか」ということである。「八紘一宇」は、日本の 建国の精神であると同時に、神道の根本理念である。(中略)それは、統一教会 の創始者・文鮮明師の理想とされる世界の諸宗教の融和ないし統一とその根底に おいて一致するものである、と私は考える。』

 奈良盆地の一角にかろうじて東是(魚偏がつく)国(とうていこく)侵略の 拠点を手に入れただけで建国とは笑わせる。またそのときのイワレヒコの念頭 にあった「あめのした」を「地球上の全人類」という近代に確立した概念で粉飾 するとは恐れ入る。(「第353回 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(6) 『記・紀』の中の東是国」参照)
 記紀をご都合主義的に誤読するからこのような苦しい茶番理論を創らなければ ならなくなる。

 ブルジョア民主主義国家の支配層は人民の労働力が生み出す富をがっぽりと 収奪できる体制を維持強化するのに都合のよい思想や宗教は何でも利用する。

  資本主義体制は、奴隷性の一種であるから、この体制を維持していくことを 利益としている人々は、たとえきわめて賢明であってもその利害関係の影響 を受けて、体制を合理化し永遠化するような思想や理論に心をひかれたり、 体制に対する科学的な批判に耳を覆ったりしがちである。さらに進んでは、 非科学的な理論をつくり出し普及することに努力する。

 このような意味で、階級的矛盾に対する制約・規定を理解することは重要 である。しかしこれは、体制側の主張ないし理論はすべて非科学的であると か、大衆を偽瞞するための宣伝には一変の真理もないとか、いうことを意味 するものでもない。主義 も理論も頭の中だけで創造されるものではなく、現 実の反映および先走りとして成立するものであるから、どんなに歪められた どんなに空想的な主張や理論でもそこには現実が何らかのかたちで取り上げ られており、真理を含んでいるわけである。(三浦つとむ「言語と認識の 理論」より)


 なるほど、上記の法学博士殿のご高説にも「地球上の全人類が一つの家の中 に住む親子兄弟のように仲よく暮らしてゆこうではないか」という好ましい理念が 含まれている。ただし惜しむらくは「階級的矛盾に対する制約・規定」に対する 理解が決定的に欠けているまのて、「地球上の全人類」にとってはますます 階級的矛盾を深くするものでしかなくちっともためにならない。

 さて、統一教会ヨイショリストに目を通していて気づいたことがもう二つある。 一つは肩書きのことで、特に政治家や官僚の肩書きが全て「元」つきである。現役 時代は、やはり後ろめたくはばかる気持ちがあるのだろう、表面きって統一教会との関わりは 伏せているわけだ。
 もう一つはそのコメントの中身で、統一教会の教義に触れているものは少なく しかもその底は浅い。全体には共産主義への恐怖と敵意がみちみちていて、半数 以上のコメントは統一教会の下部組織・国際勝共連合の活動への共感・賛辞であ る。

 現役隠しと勝共連合を結ぶと

『週刊現代』(99.2.27号)の特集記事

が生き生きとしてくる。

 文鮮明は勝共連合に『まず秘書として食い込め。食い込んだら議員の秘密を 握れ。次に自らが議員になれ』という指示を出ているそうだ。勝共連合が 派遣する秘書の給与は勝共連合持ちで議員にとっては美味いエサだ。その秘書に 弱みを握られた議員は統一教会の下僕となる。あなおそろしや。