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440 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(1)
効率優先社会への批判
2006年2月19日(日)



 私の関心に引き寄せて、これまでは「アイデンティティについて」という表題をつけてき た。今回からはテーマは「アイデンティティ」からは明らかに離れることになるので、表題に 本来のテーマである「正義論」を取り入れ稿を改めることにした。ロールズの「正義論」の 現実問題への応用編という意味合いとなる。土屋さんの著書「正義論/自由論」の第3章以降 にあたる。

 今回のテーマはきわめて今日的である。現在進行中の「新自由主義」に依拠するコ イズミの改革路線はまさに最悪の「効率優先社会」をつくりつつある。

 効率優先社会への批判は「実力主義=競争原理」と「効率主義」の2点について展開されて いる。

 ロールズの「正義の原理」のもとでは実力主義は認められない。実力主義はこの社会の不 平等を助長こそすれ、決して解決することはない。しかしロールズは競争原理に留保をつけ ているが、全面否定をしてはいない。

 競争の原理を否定しないのは、「社会の活力を保持する」という効用面においてであり、 「市場の自由にすべてをゆだねる」という手放しの自由放任主義を認めているわけではな い。
 一つは、大前提として、「競争の公正な機会の均等」がなければならない。
 また、異なる才能と資質をもつ人間によって社会が構成されている以上、社会が不平等 を結果として生み出すことは否定できないが、「正義の第2原理」に従って、その不平等の結果 を競争のなかで破れ去った者の状態を有利にするために使われるべきであるという。たと えば、教育への助成・社会福祉・税金の軽減などを通して、競争に勝ち残った者のその成果を を自分だけで享受するのではなく社会的配分にゆだねよという。

 次に功利主義への批判。
 功利主義は「社会全体の幸福計算の総和が高まるように、個人は自分の幸福を追求すべき である」と主張する。
 この考えのもとでは、いつでも個人の自由は社会全体の効率のために犠牲にされることに なる。「正義の第1原理」を選択した時、社会全体の効率を理由に「平等な自由の権利」を 否定するいうな考えは否定されている。このことを土屋さんは次のように述べている。

 たとえば、奴隷制が正義にもとるということを、功利主義は説明することができない。 奴隷制によって、社会が効率よく運用されるならば、奴隷制は認められてしまうことにな る。たとえ、功利主義者が奴隷制に反対したとしても、思想家個人の感情であって、自分 の理論とは矛盾しているのだ。

 これを、私たちのトピックスとして考えれば、「国内総生産」とか、「国民総所得」とい う統計上の計算が、個々人の幸福の増大とは直接関係がないことに対応している。世界第 二位もしくは、世界第一位の経済大国などといばってみても、私たちの生活は、まったく 貧弱である。


 「国内総生産」とか、「国民総所得」という統計上の計算結果を提示して、日本は経済大国 であるという。「国家の経済的繁栄が、そのまま日本人民衆の繁栄である」かのように、 日本の民衆は錯覚させられている。
 このことに関連して、土屋さんはイギリスでの次のような見聞を紹介している。
 (土屋さんの下宿先の)大家さんは、ロシア占領後に、ポーランドから亡命してきた、 ポーランド人であった。彼の家は、隣にあったが、三人の子供がいて、どれもが大学教育を 受け、娘さんは音楽大学にいっていた。ご主人はもう相当な年になっていて、ハインツの缶 詰工場に勤めていて、ポーランドの農夫という感じの好々爺になっていた。彼は、日本にも ハインツの缶語は売っているというと、びっくりして喜んでいた。この老夫婦は、停年の年 を迎えるので、ウェールズに土地を買って、そこに引っ越すということだった。ウェールズ は、イギリスの田園地方で、美しい場所である。

 戦後に亡命してきたポーランド人が、ハインツの缶詰工場に勤めていて停年を迎えれば、 ウェールズに引退することができる。私は心底羨ましかった。こんなことは日本では考え られない。停年後も働くであろうし、下手をすれば、相当過酷な労働条件のもとで働かな ければならないのが、日本人の停年後の姿である。亡命者ではないのだから、田舎はある かもしれないが、そこに引退して優雅に老後を過ごすなどということは、夢のまた夢であ る。

 生活の質の向上というスローガンは聞き飽きるほど聞いても、いっこうに庶民の現実と はならない。いたずらに「国内総生産」とか、「国民総所得」といった数字だけが、新聞 にある。
 この日本の姿は、まさしく効率優先の社会の姿である。計算上の総和が、経済の指標で あるのだ。






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443 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(2)
宗教
2006年2月26日(日)



 第4章は「宗教とリベラリズム」と題されているが、宗教にかぎ らず、一般的に思想・信条 の問題として読むことができるだろう。

 「原初状態」と「無知のヴェール」のもとでの必然的な選択として、人は宗教・思想・信条の 自由を認めることになる。

 「原初状態」と「無知のヴェール」の条件のもとでは、いかなる宗教者であっても、無 神論の存在を認め、異なる宗教の存在を認め、多神論にならざるをえない。また、信じる 神が変わることの可能性も認めるだろう。自分がいったいどんな宗教を信じるかが分から ない状態において、また、無神論者になるか、信心家になるかもわからない状態において、 宗教も無神論も彼にとっては、併存していなければならないものである。

 つまり、人々が、自分がどのような宗教、思想、信条をもっているかを知らないという 条件のもとで、正義の原理を選択するとしたならば、当然に、彼は、その宗教、思想、信 条を理由にして、人々が不利益をこうむり、差別をこうむり、あまつさえ投獄され処刑さ れることを、けっして認めることはないだろう。  この「原初状態」を基盤にしてみれば、私たちは、この社会が、宗教、思想、信条の多 数性によって成り立つことを求めるのだ。


 勿論この自由は宗教・思想・信条の内容に関わらない。もしその自由が制限され得るのは 自由の名の下においてのみである。つまりその宗教・思想・信条が社会における自由の存続 を侵害したときのみである。  このことからロールズの国家論はおのずと次のようになる。
国家とは、この自由の条件を保証する存在であって、それ自体がなんらかの宗教、思 想をかかげているものではない。
 彼(ロールズ)にとって、国家はさまざまな価値や思想をもった者たちの連合体なのだ。 国家そのものは、この自由の連合体の保証人であるにすぎない。宗教国家がそこでは存在 しえないように、民族への忠誠を求めるような民族国家も存在しえない。多民族国家や多 人種国家において、一つの人種への忠誠を求めることは、自由の条件への侵害である。そ こでは、平等な自由への権利は侵害されている。

 勿論、「多民族国家や多人種国家」だけの問題ではない。一つの偏狭なイデオロギーへの 忠誠を求めるイシハラの教育支配の目論みは全面的に否定されなければならない。

言い訳:
 ここまで書いてきた過程で、より詳しく知りたいことや疑問点や新たな課題がいくつかでで きました。なによりもロールズに対する理解が不十分です。まずは、ロールズの著作を直接 読んでみたいと思い本屋に行き、次の2冊を入手しました。

(1)ジョン・ロールズ著「公正としての正義 再説」(田中成明・亀井洋・平井亮輔訳 岩波書店)
(2)川本隆史著「ロールズ 正義の原理」(講談社)

 (2)はロールズの評伝です。その中に『正義論』は600ページほどの大冊でしかもずいぶんと 難解とありました。
 そこで(1)を購入しました。(1)は『正義論』を「説明をよりよいものに改め、多くの誤り を正し、幾つかの有益な修正を加え、そして、若干の比較的共通の反対への返答を示」し、「 また、多くの箇所で議論を書き直した」ものということなので私の必要にかなっていると思いま した。
 しかし読み始めてみると、ページ数は『正義論』の半分ほどですが、これも相当に難解です。 (1)(2)ともに読み終えるのにかなりの時間がかかりそうです。
 ということで、しばらくは「正義論」を中断します。(1)(2)を読み終わった段階で「正義 論」に戻る……かどうか、予測できません。

 ともかく、次回からは別の記事を書くことにします。またこれを機会に「反ひのきみ」という テーマに縛られずに、話題を自由に選ぶことにします。






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444 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(3)
同性愛(1)
2006年2月27日(月)



(昨日このシリーズの中断を決めたばかりなのに、もうチョッとだけ続けることにしました。)

 今日の朝刊(朝日新聞)に『「同性愛」告白されたら?』という小さな囲み記事があった。
 『最近は、同性愛者自身の支援グループは少しずつ増え、自分が同性愛者であることを公にす る人も増えてきた。だが、家族や友人、恋人などに正しい知識を教える場がなく、告白に戸惑 ってパニックを起こし、事態を悪化させてしまう例が問題になってきた。』
 そのような人たちへの悩みに答える無料電話相談のスタートを紹介する記事だ。

 その電話相談を始めた方(かじよしみさん)の肩書きはカミングアウト・コンサルタントという。 恥ずかしながら「カミングアウト」という言葉を私は知らなかった。

 研究社版「新英和大辞典」によると「(若い女性の)社交界へのデビュー」とある。 これじゃ意味が合わない。きっと新しい用法なんだな。ならインターネットだ。
 インターネットは便利ですね。「はてなダイアリー」によると「自分が,社会一般に誤解や偏見 を受けている少数派の主義・立場であることを公表すること。」これこれ、これならピッタリだ。
 (この段落は余分ごとでしたかな。)

 さて、上の記事が最近ケーブルテレビで見たトム・ファンクス主演の「フィラデルフィア」(1993年) という映画と結びついた。

 同性愛者でエイズに侵された弁護士ベケットが勤務先の事務所を解雇される。直接の解雇 理由は重要書類を紛失するという失態である。しかしその失態は仕組まれたものであり、真 の理由は「同性愛者でエイズ」に対する偏見だ。ベケットはその解雇の不当性を裁判に訴え、 ある裁判での係争相手だった弁護士ミラーに裁判の弁護を依頼する。
 法廷での一場面。

 ミラーがそれまでとは略脈のない質問を証人にいきなり激しい口調で浴びせかける。
 「あなたはオカマか?クイーン?フェアリー?かま掘り? あなたはゲイか!」

 当然相手弁護人から「異議あり」の声が上がる。
 「証人の性の問題は本件に関係ありません。」

裁判官「何を考えているのか説明してくれんかね。まるで私には見当がつかない。」
ミラー「裁判長!この法廷の人々は性のことが頭から離れない。性的な興味がだ。(中略)なら はっきりさせたほうがいいのだ、隠さずに。話はエイズだけじゃない。本当のことを話すべきだ。 我々の中に嫌悪、恐怖。同性愛へのだ。その嫌悪と恐怖の気持ちが、この同性愛者の解雇にどう つながったか。ベケット氏の解雇にです。」
裁判官「この法廷では正義だけを考え、人種も、宗教も、肌の色も、個人の性の趣向も、いっさい 関係ありません。」
ミラー「しかし我々の社会は、法廷の中とは違います。」

 「正義論/自由論」の第6章は「セックスとリベラリズム」。

(というわけで、「正義論」に戻った言い訳でした。)






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445 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(4)
同性愛(2)
2006年3月1日(水)



 私たち日本人は、たぶん、同性愛を犯罪とは思わない。趣向の問題と思っている。 しかしヨーロッパでは同性愛はかっては犯罪であったという。例えばイギリスでは 19世紀中ごろではその最高刑は死刑だった。土屋さんは当時の「ピロリー」という おぞましい公開死刑の新聞記事を紹介している。
 たとえば、ロンドンで「さらし刑」がある日には、朝早くから五千人をこす見物人が集 まってくる。特に、魚河岸で働く女性が多かった。この見物人たちにかこまれながら、 「同性愛」で告発された男は、町中を引きまわされ、広場にさらされた。首には首かせが かけられている。見物人は、そこで売られている、テームズ河からひろってきた犬や猫の 死骸を買って、それを同性愛の男に投げつけるのだ。それだけではない。石を投げたり、 殴打することは黙認されていた。
 「顎は割られ、眼は潰され、ほとんど気を失って、そのまま首かせで首がしまって死ん でしまう」のだ。そう当時の新聞は書いている。

 同性愛が「犯罪」から「趣味」の問題へと正当化されるのには、多くの思想家の 自由をめぐる言説を必要とした。ロック、ミル、ベンサムという思想の継承発展を 土屋さんはたどっているが、それは割愛する。
イギリスで同性愛が完全に合法化されたのは、なんと、1967年だという。なぜこれほどまで に同性愛に対する禁忌が根深いのか、たぶん宗教上の問題だろう。
 映画「フィラデルフィア」。証人台に立った解雇者が原告側弁護人から解雇の真の理由を 厳しく問い詰められる法廷場面がある。同性愛に対する憎悪の感情を隠せなくなりそうな場面で 「旧約や新約にも…」と言いかける。その後の言葉は弁護人のたたみかける質問でかき消される が、同性愛を忌み嫌う自分の感情の正当性を聖書に求めようとしたのだろう。

 宗教が果たしてきたこのような役回りに触れるとき、「宗教はアヘンである」というマルクスの 言葉を私は肯う。勿論それが宗教の一面に過ぎず、多くの人には宗教が人生の支柱になっているこ とは承知している。しかし私の中には本質的に「宗教は迷妄」という認識が根強くある。その自分 の認識を検証するためにも「宗教とは何か」という課題がずーっと念頭にあった。いずれ取り上げ たいと思っている。

 さて、土屋さんはベンサムの次の文章を引用している。

 テーブルの快楽の場合は、プロテスタントは禁じられた食物を食べでもけっしてそれ を道徳の問題とはしなかった。人々は健康を害しない程度に過食を戒めながら口の喜 びにつかえたのだ。プロテスタントもカトリックもこの非合法の快楽(同性愛)が実際 にどんな害になるかをたずねることもなく古くからの禁制にしたがったのである。
 同性愛は「性の趣味」の問題にすぎず、食卓の問題と同様、性の問題にも公権力は介入す べきではないと言っている。
 「正義の原理」にそって言えば次のようになる。
 問われているのは、「生きることの多様性」である。どう生きるかは、私たちが決める。 教育も福祉も、本来的には生きることの多様性を基盤にしている。文部省や厚生省のマニ ュアルで決まるものではない。ドラッカーならば、教育と福祉に、政府は資金を提供して も、実際の運営は、外部に委託すべきである、ということになる。現場の独創性、柔軟さ、 多様性こそが、教育と福祉の活力になる。  それは、私たちの私的な世界でも同じである。誰を愛するかまで、社会が口を出すこと はできない。ましてや、誰を愛したかを理由にして、平等な自由への権利を制限すること はできない。
 イシハラらには「正義の原理」を理解する精神と能力が決定的に欠けてる。

 「予防訴訟」は3月20日に最終弁論が行われて結審すると言う。せめて裁判官には 「正義の原理」を理解する高邁な精神と能力を持っていてほしいと願っているが、 はたしてどうだろうか。






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446 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(5)
言葉のうらおもて(1)
2006年3月6日(月)



 「知」をなりわいにしている人たちの「知」には、それなりの敬意を払うのに やぶさかではない。しかし、それだけに皮相な俗論を開陳されるのはやりきれない。 頭のどこかから、「はてなマーク」と「びっくりマーク」と「がっかりマーク」が いくつも飛び出してくる。

 立川昭二という歴史家が朝日新聞の「こころの風景」というコラムを担当して いる。2,3回前の記事で34年前の「あさま山荘事件」を取り上げていた。最後に 次のように締めくくっている。

 「あのような自己中心的な若者をつくった土壌は、今日もかたちを変えてこの 国に残っているように思えてならない。」

 「あさま山荘事件」に関わった若者たちを「自己中心的な若者」だという。こと の本質をまったく見ていない評語だ。氏がどのような若者を今日の「自己中心的な若者」 と考えているのか分からないが、例えば私は、このくだりを読みながら、その代表とし ていま話題の「ホリエモン」を思い浮かべた。
 私の認識では「あさま山荘事件」の若者たちの理論には大きな過誤があったかもしれないが、 「自己中心」とはほど遠い。今日の「自己中心的な若者」とはどんな線でも結びつけようがない。 「月とスッポン」だろう。

 さて、「正義論/自由論」にお世話になっているが、「はてなマーク」と「びっくりマーク」と 「がっかりマーク」が飛び出したところが2ヶ所あった。

 一つはロールズの国家論について述べている次の個所。

ロールズの「原初状態」のもとでは、宗教国家は存在しえない。誰もその選択の道をと ることができないからだ。複数の価値、複数の宗教、そしてまた無神論者も生きることが できるのが、ロールズの正議論の社会である。
 この基本的な自由への平等の権利を認めあうことを、「原初状態」のなかで契約したの だ。国家とは、この自由の条件を保証する存在であって、それ自体がなんらかの宗教、思 想をかかげているものではない。
 実は、ここにはロールズの重大な国家論の問題があらわれている。彼にとって、国家は さまざまな価値や思想をもった者たちの連合体なのだ。国家そのものは、この自由の連合 体の保証人であるにすぎない。宗教国家がそこでは存在しえないように、民族への忠誠を 求めるような民族国家も存在しえない。多民族国家や多人種国家において、一つの人種へ  の忠誠を求めることは、自由の条件への侵害である。そこでは、平等な自由への権利は侵 害されている。
 しかし、それは過激な自由主義者たちのように、無政府主義へとつながるものではない。 政府は存在するのだ。ただその政府は、自由の条件を裏書きする存在であって、それ自身 が、なんらかの思想、宗教を主張する存在ではない。

 何に引っかかったかというと、「それは過激な自由主義者たちのように、無政府主義へと つながるものではない。」というくだり。アナーキズムを「過激」と評している点と「ア ナーキズム=無政府主義」という認識が、私にはきわめて皮相で通俗的な見解に思える。

 現在のブルジョア国家の基本理念「民主主義」はそれまでの為政者=王侯貴族にとっては 「過激な」思想だった。それと同じ意味でならアナーキズムは「過激」と言っていいだろう 。

 「アナーキー」という言葉の語源は「ギリシア語」で、「An-archy=支配者がいない」と いう意味だ。アナーキズムは「支配-被支配」というヒエラルキーを基盤とする組織に反対して いる。アナーキズムの政治思想においても「政府は存在するのだ。」しかしそれはブルジョア 国家の政府とは似ても似つかないものだろう。したがって「政府」=「ブルジョア国家の政府」 と限定するなら「アナーキズム=無政府主義」と言ってよい。
 私はアナーキズムにますます強く引かれている。

 ここで私にもうひとつの課題ができた。
 アナーキズム、特にその「相互扶助論」とロールズの「正義論」との同一点や相違点を考える という課題。ロールズの「正義論」を直接読んでみようと思い立った理由の一つだった。

 「正義論/自由論」で引っかかったもう一つの点。
 ロールズの正義論はあらゆる宗教にたいして「寛容」である。では「不寛容」な宗教に対して も「寛容」なのだろうか、と言う問題が起こる。土屋さんは「オーム真理教事件」を取り上げて いる。

(次回に続く)






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447 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(6)
不寛容なものへの対処
2006年3月7日(火)



 「正義の原理」のもとに成り立つ社会では宗教の教義の内容は問題ではない。 いかなる宗教もその社会のうちに存続することを認める。

 もしこの「正義の原理」を否定する不寛容な宗教があったならどうするのか。 オウム真理教事件を想定すれば問題はより鮮明だろう。また問題は宗教 に限らな い。「不寛容な個人」でもよい。例えば私はイシハラを想定している。

 「正義の原理」によって立つ立場からは不寛容者の教義や思想には介入しないが、 「この社会の正義の原理を認め、 自分たちの存在が認められているように、他の存 在も認めること」を要求することになる。しかしこの要求によって不寛容な者たちが 寛容へと改心するとはとてもありえない。その程度では改心するはずもないほど固陋だ から不寛容なのだから。

 この問題に対するロールズの考えは次のようである。

 「原初状態」において、いかなる場合であろうと、自分の存在を保証する権利は誰にも あるのだから、自分の生が危険になってまで、寛容の原理に立つことはできない。
 しかし、ロールズは、そのことをいうために、相当に繊細な条件を設定している。その 繊細な条件は、現実のまえで、はたして有効であるか否かを疑わせるものであるが、私た ちが、自由の原理に立つ以上は、その織細な条件を確認しておくことが必要である。
 彼は、こういっている。
 正義にかなう基本法が存在するのであるから、すべての市民にはそれを擁護すべき正義 の生来の義務がある。われわれは他者が正義にもとる行為をしようと思っている時でさえ、 この義務を免除されることはない。(免除されるためには)より緊急な条件が必要とされ る。つまり、われわれ自身の合法的利益にかなりの危険がなければならない。かくて、正 義にかなう市民たちは、自由それ自体と彼ら自身の自由とが危険にさらされるのでないか ぎり、市民の平等な自由すべてを備えている基本法を守ろうと努力すべきである。人々は、 「原初状態」において自分が認める原理によって確立される権利を尊重するように要求さ れるから、市民は、不寛容な宗派に、他者の自由を尊重するように、当然強制することが できる。だが、基本法それ自体が安全に守られている時には、不寛容な宗派の自由を否定 すべきいかなる理由もない。
 私たちは、思想、信条、宗教の違いによって、その人間を排除しない。それは、「無知 のヴェール」のもとでの選択が条件づけていることであった。この原則は、いかに不寛容 な人間に対してであっても、維持しなければならない。むしろ、私たちは、平等な自由の 原理のもとでは、不寛容な人間の存在も認めることによって、不寛容な者自身が、その正 義の原理を承認するようになることを、期待する。
つまり、どこまでいったら不寛容な者を否定するのかは、結局、自由の条件、自己保存 の権利が、どこまでいったら危機にあるということになるのかを決めなければ、決断する ことはできない。
 きわめて具体的で繊細な条件の設定が必要なのだ。

 なんとも歯切れの悪い言説だが、要するに基本法(憲法)に基づいて判断すべきと言って いるようだから、穏当といえば穏当な結論だろう。

 また、しかし、だ。「日の丸君が代の強制」問題に引きつけてみると。
 「自由それ自体と彼ら自身の自由とが危険にさらされ」ている状況を基本法(憲法)にて らして、「他者の自由を尊重するように強制すること」ができると言っても事はそう簡単で はない。「自由が危険にさらされている」とだれが判定し、だれが不寛容者(イシハラ)に 「他者の自由を尊重するように」強制するのか。裁判に訴えるほかないということになる。
 ところが再三いうように、私は日本の裁判官のほとんどを信用していない。「法の番人」で はなく、「権力の番犬」に成り下がっている。そのように判断せざるを得ない事例は枚 挙にいとまない。「日の丸君が代の強制」関係の訴訟に限っても、すでに判決が出された裁判 では原告側の敗訴が続いている。それでもいじましいことに、もしかしたらという期待と希望 をまだ私は全部は失ってはいないらしい。






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448 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(7)
オウム真理教事件について(1)
2006年3月910日(金)



 評伝「ロールズ 正義の原理」(第443回で提示)では「正義論」を概観するための 抄訳が掲載されている。不寛容者に対する対処の項はより分かりやすく書かれているので 改めて掲載する。
 次に寛容の原理。
 これは、近代国家をスムーズに運営するための手段ないし建て前として要求されるもので はない。道徳的・宗教的自由は、あくまでも平等な自由という原理から導き出される(第三 四節 寛容と共同の利益)。
 寛容原理を食い物にして不寛容な宗派・団体がのさばり、ついには寛容な人びとが抑圧さ れる。そうした逆説的な事態を避けるためだからといって、不寛容派の自由を否定するのも よろしくない。むしろ連中にも自由を認めておけば、その自由が不寛容な人びとの心中に 「平等な自由」への信念を徐々に培ってくれるだろう。いずれにせよ、私たちはそうした迂 路に賭けるしかあるまい(第一二五節 不寛容派に対する寛容)。

 「正義論」は政治哲学の研究書だが、ここではむしろ倫理の書というおもむきである。 社会に「正義の原理」があまねく浸透する過程としてなら、このような「迂路」しかありえな いだろう。

 オウム真理教事件を、土屋さんは次のように論じている。

 法律はけっして個別な事例にだけ適用されるものではない。一つの判断の成立は、その 判断が将来にわたっても採用されることを意味している。慎重さは、当然に要求される。
 ここでは、具体的な事件に深く入り込むことはしない。オウム真理教のことを、子細に論 じることはしない。しかし、ロールズの条件設定を前提にしたとき、私たちが、オウム真 理教に対して、どのように対処すべきであるかは、かなりのところで確認することはでき  そうだ。

 不寛容な者を否定するかどうかの条件は、市民の自由の条件の重大な危機のうちにこそ あり、オウム真理教という宗教の存在自身を、条件にすることはできない。つまり、松本 サリン事件、坂本弁護士一家殺害事件、地下鉄サリン事件という、一連の事件の現象にお いて、オウム真理教は裁かれるべきであるが、その信仰を条件にして裁かれるべきではな い。ましてや、現実に基本法(憲法)と市民の生命への危険が認められなくなった時点で、 遡及的に「破壊活動防止法」を適用したことについては、ロールズ的原則はこれを否定す るだろう。
 自由な制度がもつ本来的な安定性への信頼を失うべきではない、とロールズはいう。異 端者の存在をも許容する強さを、自由社会はもっていなければならない、とロールズはい うのだ。


 「正義の原理」からは当然の主張であり、私もこの主張をうべなう。しかし残念ながら 現実の社会はこの主張が実行されるほどにはまだ成熟していない。

 2年前に麻原彰晃の三女が、合格したにもかかわらずに和光大学への入学を拒否された。 三女さんは裁判に訴えていたが、「入学拒否は違法」という判決を得て勝訴している。この 2月のことである。
 にもかかわらず、今度は次男が合格した中学(春日部共栄中学)への入学を拒否された。3月 2日の報道である。

 では現在、未成熟なのは社会だけだろうか。

 宗教の教義や思想の内容を裁くことが大日本帝国時代には大手を振るってまかり 通っていた。小林多喜二や大杉栄のように、裁判さえなく虐殺された人もいた。
 ここで、この1月の「横浜事件」の再審の判決が思い出される。横浜地裁松尾昭一裁判 長は、「治安維持法が廃止されたことなどを根拠に、無罪か有罪か判断せずに裁判の手続 きを打ち切る形式的な判決(免訴)」をしている。これに対して、弁護団長の森川金寿 さんは次のように言っている。

 「非常に残念。日本の司法はこの程度なのかと落胆した。人権に配慮したとは到底言えな い、歯切れの悪い判決だ」

 さて、オウム真理教事件の無差別殺戮は裁判で裁かれるべきだが、この事件はそれだけで済ま すことのできない大きな問題を孕んでいる。「正義論」の問題としてではなく、宗教の問題 として。






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449 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(8)
オウム真理教事件について(2)
2006年3月9日(木)



 オウム真理教事件についての土屋さんの論述は次のように続く。
 オウム真理教事件については、いかなる極論も自由の原則を歪めることになるだろう。 吉本隆明のように、大衆の殺戮を結果的に引き起こしてしまう行為を、むしろ宗教の真実 性を示すものとして容認するようなことは、この自由社会の原則からはまったく受け入れ ることはできない。そこには、宗教を特権化する「エリート主義」が歴然としている。
(中略)
 宗教そのものについて論じる準備は私にはない。しかし、その私の貧弱な知識のかぎり においても、オウム真理教が修行としてやってきたことは、日本の仏教がやってきたこと のコピーであった。オウム真理教の修行を否定するならば、日本の仏教の過去もまた否定 しなければならない。
 私たちは、オウム事件に怒りを覚えたとしても、理性を失って驚いてはならないのだと 思う。組織的になされた大衆殺戮に対して法律的対処をしながら、同時に、この社会の自 由の原則を放棄しない。それが、自由社会の原則そのものである。この原則をこえでしま えば、いつでも、私たちは、肯定するにせよ否定するにせよ、両極で宗教を特権化して、 自由社会の基盤を掘り崩してしまうのだ。

 この吉本隆明さんへの批判に対して「はてなマーク」と「びっくりマーク」と「がっ かりマーク」がいくつも飛び出してきた。
 私は吉本さんの発言を注視し、その著作のほとんどを読んできた。オウム真理教事件につ いての論述を含む著書を、手元にあるものから取り出してみたら6冊あった。どれにも「大衆 の殺戮を結果的に引き起こしてしまう行為を、むしろ宗教の真実性を示すものとして容認す る」ような論文はない。また、吉本さんのよって立つ基盤は「エリート主義」からはまった く無縁な地点にある。

 土屋さんは吉本さんの発言をチャンと読んだのかしらと疑ってしまう。読んだ上での評言だ としたら、まったくの誤読としか言いようがない。また「オウム真理教が修行としてやってき たことは、日本の仏教がやってきたことのコピーであった。」という見識は何処から得たのだ ろうか。麻原彰晃の著書を検討したうえでこのような見識をはっきりと打ち出した識者を、私 は吉本さん以外に知らない。その知見は宗教への深い造詣に裏打ちされている。土屋さんの著 書からいろいろご教示を受けているのだけれど、ここでは知的誠実さという点でいささか疑念 を感じている。

 ことばを覚え始めた頃の子どもはことばを倒置して覚えることがよくある。たとえば「バンザ イ」を「ザンバイ」と言ったりする。「ドウブツ」は「ドウツブ」となる。私はこの「ドウツ ブ」を愛用している。たとえばカミさんとの会話で私はよく使う。「人間とは自然を逸脱した ドウツブの謂いだ」とか「人間はどうしようもないドウツブだね」とか。

 人間と言うドウツブの逸脱の方向やその程度はさまざまあるが、人間をドウツブたらしめて いる最たるものは宗教の創出だと思う。宗教は紛れもなく人類がはぐくんできた文化の重要な 一要素であるが、人を蒙昧にするアヘンでもある。「正義の原理」はあらゆる宗教(一般的に 共同幻想といってよい)の存在を認めるが、あらゆる宗教(共同幻想)が可能性として孕んで いる不寛容が「正義の原理」の普遍化を拒む。
 あるいは次のように言ってもよい。いま人類の最重要課題は全ての人を生かしめるような 新しい倫理の創出ではないかと私は思っている。それは人間が「ドウツブ」を超えたもっと 高い精神性をもった「ドウツブ」とは別の存在になることを意味するだろう。そしてそれは また人類が宗教を棄揚することを意味する。

 17世紀末の市民革命で人民が獲得した自由について論ずる中でマルクスは言う。

 「人間は宗教から解放されたのではなく、宗教の自由を得たのである。」(「ユダヤ人問題 によせて」)

 「人間は宗教から開放されなければならない」と言っている。吉本さんの言い方で言うと 「あらゆる共同幻想は死滅すべきである」ということだ。

 オウム真理教事件を前にして、なお「正義の原理」は有効か。オウム真理教事件とはなん だったのか。オウム真理教事件が私たちに突きつけた問題について、吉本さんの論述を読ん でみることにする。






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450 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(9)
オウム真理教事件について(3)
2006年3月12日(日)



 一般論として、宗教(普遍化して理念と言ってもよい)についての吉本さんの 見解は次のようである。
 宗教はすべて迷妄だといいたいところがわたしにはあるが、じつは迷妄な個所 は、理念(イデオロギー)としてあらわれている。ま た理念は政治的であれ社会的であれ迷妄だといいたいところだが、理念の迷妄は 個人としても集団としても宗教性としてもあらわれている。これが世界の現在の 思想的本質であるかぎり、わたしたちは宗教の存在も理念の存在も認めるほか ないとおもう。
(「サンサーラ」1995年11月号「情況との対話」より)
 宗教は迷妄だと否定してまったく問題外とすることもできるが、現在の人類の 思想的到達点においては宗教も、その他の政治的・社会的・倫理的理念などとと もに、思想上の問題としてその存在を認めるほかないと言っている。

 なお吉本さんは「理念」に「イデオロギー」というルビを振っている。私は 「虚偽意識」という語を「イデオロギー」というルビを振って用いている。つまり 理念の「迷妄」な部分を私は「虚偽意識」と言ってきた。

 この宗教と理念のアポリアが現段階での最大の思想的課題だということになる。 浅間山荘事件を頂点とする「連合赤軍」一連の事件の問題もここで取り上げようと している問題と別物ではない。上の引用文と同じことを次のようにも言っている。

 宗教のなかの迷妄的な部分が理念的になってしまうのと同じように、理念的で あるはずの思想は必ずその迷妄的な部分が宗教的になってしまいます。反核を 大声でいいたてている文士も同じです。
 僕は本質的にいえば宗教も理念も両方とも否定したいと思っていますが、現在 のところ世界中の宗教や社会の理念はこのことから免れていません。免れている やつは世界中にだれもいないんです。

 そういう段階だということを認めた上でいいますが、入り方と出方がきちっと してない集団は、理念としても宗教としても成り立たないと思います。集団とし て宗教や政治をやるなら、そのことをきちっとしておかないと、迷妄な部分がひ っかかってきて、ヤクザの組と同じように入るときは盃ごと、出るときは指を詰 めろとか生かしておけない、リンチだということになります。実際、オウムも世 界の左翼の連中もそれらしきことをやってきたわけです。それを免れることがで きないのが、現在の世界の段階だというより仕方ないんです。
(「世紀末ニュースを解読する」より)


 このアポリアをだれもが免れていないという認識が、たぶん吉本さんとその他 の論者との間の、論点の大きな齟齬となっている。このような認識を欠いたもの には、結局は連合赤軍事件やオウム真理教事件の本質は見えないし、その言説も 対処も皮相で通俗的なものにならざるを得ない。
 宗教団体、特に仏教各派がなにをいっているかというと、オウム真理教は凶悪、 劣悪な集団であって、とても宗教と呼べるようなものではない、これは特別であ り、宗教団体自体は悪くないのだから、宗教法人法の改定には反対であるという 言い方です。ただ一つの宗派も、宗教がまっ正直に、まっすぐに突っ走れば、そ こには危険な要素があり得るんだ、法的には犯罪にいく可能性だってんあるんだ、 同じ宗教教団として寛容でありたいという言い方をした団体はひとつもありませ ん。どこもオウムのようにきついところまで追いつめられたことはないのですが、 その宗教教義は自分たちとは無縁であると片付けています。
 これは僕にいわせれば、宗教家として失格であると思います。特に仏教徒とし て失格です。アイツは特別に悪いんで、俺のところとは違うんだという言い方は 宗教家としては全然なっていないと思います。

 この引用文で言われていることは「正義の原理」を貫いている論理とほとんど同じだと 私は思う。「正義の原理」によれば「同じ宗教教団として寛容でありたい」とい う姿勢が最も妥当なものということになるだろう。

 マスコミを賑わしたいわゆる識者たちの言説もすべて、上の宗教者たちの域を でるものではなかった。






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451 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(10)
オウム真理教事件について(4)
2006年3月13日(月)



 宗教教団はオウム真理教に対して「同じ宗教教団として寛容」であるべきだ、と吉本さん が言うのは、どの教団もオウム真理教が陥った陥穽から無縁ではないからだ。オウム真理教の 轍を踏まないための思想的な営為が不可欠だと言っていると思う。その陥穽のありどころを 吉本さんは次のように述べている。
 わたしはヨーガ行者としての麻原彰晃も、それを修得しようとして「出家」した信者も、マ スコミやマスコミ登場の知識人士がいうほど幼稚な、しかも凶悪な人間たちだとはおもってい ない。それにもかかわらずサリンを地下鉄に発生させて無辜の民衆を殺傷した容疑が、麻原 彰晃やオウム真理教の信者と結びつく嫌疑の渦中にあるとすれば、生の世界と死後の世界を 等価に存在する実体とみなす仏教的な世界観が、ラジカルな小思想家(宗教者)によって荷 われた場合の「死」の軽視に由来するかもしれぬと、さしあたり言っておくほかない。平安 末期から中世初頭の混乱した世相と支配者の交替の時期にも、そんなことがあった。中世の 新宗教と教祖たちはそんな混乱の中で出発したのだ。そして「死」に突入したラジカルな小 思想家(宗教者)は『一言芳談抄』に衝撃的なエピグラムをのこして消えた。

 吉本さんのこの観点は宗教者への批判にとどまらない。すべての思想的営為あるいは理念 が同じ問題を問われている。その批判のある部分は私(たち)への批判でもある。
 天下国家を論じるだけが思想ではない。大状況のみならず、私たちの日常的な小状況に も適切に一貫した対処がきない思想など思想の名に値しない。国家の問題から市井の一人と しての生き方にいたるまで、吉本思想は一貫している。次の引用文はそうした吉本思想の面 目躍如たるところがある。傾聴に値すると思うので、長い引用をする。
 言うまでもないことだが、「国家」は市民社会との関係を緊密に持つことで、国法(憲法) を教義とする拡張された「宗教」だと見倣すことができるものだ。原則的にいえば宗教が宗教 の上に立つことはできないという原理によって、宗教の自由、信教の自由が保障されなくては ならない。そしてこの自由は、どんな宗教を信ずるのも自由だというほかに、国家=政府からの宗教 の自由を意味している。

 「国家」という「宗教」が、何はともあれ市民社会の上に立ちたい願望のあげくに一定の共 同幻想(規範)を造りあげているように、どんな宗教も市民社会を超越したい欲求と、個々の 市民の内面(こころのなか)に規範(戒律)をうち立てたい願望を持っているものだ。「国家」 という「宗教」やそれ以外の宗教は、その超越的な部分で、市民社会の規範を超えた部分を必 ず形成している。別の言い方をすれば、市民社会の善意の慣行に違反する可能性をいつでもも っているものだ。

 たとえば市民社会の市民が、誰も生命を失いたいとも思わず、戦争をしたいともかんがえな いのに、国法を介して市民を戦争に介入させ、生命を殺害させるような悪をなすことができ る。もちろんそのためには村山内閣がやったように自衛隊は合憲であると宣明して、海外派遣 を正当化し、犠牲の死者を出しても、新開、テレビなどの報道を通じて政府による殺人だと言 わないような言論の下ごしらえをして、善良な市民のマインド・コントロールを巧みに済まし てしまうことになっている。
 また市民社会の日常では、母親が幼ない自分の子どもを殺害して愛人の男とかけ落ちした り、父親が登校拒否の子どもや家庭内暴力の子どもを虐待したり、殺害したり、またその逆 に登校拒否児や家庭内暴力の子どもが、父親や母親に傷害を与えたり、殺害したりすることも 茶飯事のように行われている。

 吉本さんはヨーガ行者としての麻原彰晃を高く評価している。この点でもろもろの宗教家・ 知識人・一般の新聞投書者たちから激しいバッシングを受けた。次はそれらに対する吉本さんの 応答である。
 わたしは市民主義にたいし終始批判的だが、市民一般に批判的であったことはない。新聞に 投書などする人たちはどんな人たちか測り難いが、たぶん、市民から市民主義に移行する過程 にある人のように受けとめている。だから市民主義に移行している部分の理念にだけ批判的に ならざるをえないが、きみたちの仲良くしていて立派な市民だと思っている隣人や隣人の子が、家庭内 暴力を苦にして子どもを殺害したり、逆に親が子どもから殺されてしまったとする。そうなっ たとき、きみたちはその隣人を手の平を返すように殺人者呼ばわりし、その家族にたいし隣に 住んでもらいたくない、出てゆけとデモでもするのだろうか。わたしならそんな馬鹿な振舞い はできない。あの隣人もその子どももいい人だったが、そこまで追い詰められてしまった。気 の毒だと言うとおもう。なぜかといえば、善なる人が情況によって悪を犯すこともあれば、他 人や近親を殺害することも、ありうるからだ。わたしの人間認識ではこの可能性は人間 性(ヒューマニティ)のなかに包括されるもので、例外などあり得ないと おもう。

オウム真理教の教祖の宗教家としての力量を評価するということは、仲良くしていた隣人が家 庭内暴力の息子を殺しでも、あの人はいい立派な人だったというのとおなじだ。これを殺人者 だとして排斥すれば済むなどという考えは、検事や裁判官が法を適用する場合以外には通用し ないとわたしなら考える。このことに気づかない阿呆は、マス・コミのふりまく市民主義の宣 伝にかぶれた市民だけだとわたしはおもっている。もちろん新聞やテレビなどマス・コミ関係 者やそこに登場する知識人士のオウム―サリン事件にたいするいけしゃあしゃあとした論議を きいていると心の底からだめな人たちだという気がする。

 何となれば国家=政府の存在と遣り方を絶対善として疑わず、いわばその傘の下で、じぶん たちがオウム真理教の連中と別人種のような顔をしているからだ。理念的にいえば国家=政府 という首部から決められた秩序を至上の宗教としている箸にも棒にもかからない連中だとしか 思えない。そして文学的にいえば人間性(ヒューマニティ)の闇を 見ることができない盲目の人士にすぎないというほかない。

 隣人が犯してしまった殺傷事件に対して、私たちはどうふるまうだろうか。「きみたちは その隣人を手の平を返すように殺人者呼ばわりし、その家族にたいし隣に住んでもらいたく ない、出てゆけとデモでもするのだろうか。わたしならそんな馬鹿な振舞いはできない。」 と吉本さんは言う。「正義の原理」による判断もきっとそのようになるのではないか。ここで 私は麻原彰晃の子女の入学拒否事件をもう一度思い出す。

 先週からNHKで始まった「繋がれた明日」(土曜午後10:15)というドラマを見ている。 誤って殺人を犯した青年が仮釈放で社会に復帰しようとするが、周囲のさまざまな偏見と悪意 にそれを阻まれる。この国の市民あるいは市民社会の未熟さに激しい憤りとやりきれなさを感 じながらみている。その未熟さは私自身の中にもある。激しい憤りとやりきれなさは私自身へ の憤りとやりきれなさでもある。






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453 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(11)
オウム真理教事件について(5)
2006年3月15日(水)



 吉本さんは麻原彰晃の何を高く評価しているのか。麻原彰晃が「生死を超える」という著書 で、仏教の修行の内実を白日の下にさらしていることを評価している。「世紀末 ニュースを解読する」から、その部分を、これも全文引用する。
 『生死を超える』という本の前半は麻原彰晃がヨガの修行者として経過した段階が実 感的に書かれているので、実際に体験したことだとわかります。ヨガの修行者として はそうとうのステージにあるのだということがわかります。これは仏教的修行がなに かを明らかにしていると思います。

 たとえはチベットの『死者の書』などには仏教でいう死後遊行のことが神秘めかし て書かれています。彼は『生死を超える』でそのことを実感を込めて明らかにしてい ます。こういうことをすれば死後の世界に接触できる、死んだあとにそこにいけると いっているんです。死後の世界は幻覚なんですが、そのように修練の体験を語ってい ます。この本は僧侶の修行史と出家の修行史のなかで一つの場所を占める書物だと僕 は思います。人によってはそうはいわないでしょうが、僕はそう思います。

 最澄も空海も自分がどんな修行をしたかについて、はっきりいえばいいのにいって いないわけです。ただ麻原彰晃がここで解き明かしていることを読めば、仏教の修行 がいかなるものかがわかります。

 仏教が、死を恐れることはないという根拠は、修行により死後の世界にいけるから だということです。信仰者は、そういう修行をしている高僧がいうんだから極楽往生 できるんだと信じてきたわけです。死後の世界はこうあるんだという死後遊行のとこ ろまでいったから、高僧は一般の信者に死は怖くないと説いているわけです。こうい うことはそうとうはっきりした見解をもっていないとやれません。神秘めかしておい たほうが偉くみえるわけですから、そこまでは旧仏教はやらないのが普通です。

 麻原彰晃がそこまでやったということは、自分自身に対する自信や自負もあるので しょうが、既成の仏教的なものや市民社会の上にある国家や政府に対する否定がそう とう徹底していることを意味していると思います。


 ここで吉本さんはヨーガの修行者としての麻原を「評価」しているだけである。 また「評価」しているだけで「肯定」しているわけではない。むしろ吉本さんは難行 苦行による解脱ということを根底にした仏教を否定している。だから、そのような仏 教を否定することから考え抜かれた親鸞の思想を、吉本さんは考究し続けている。

 実はその親鸞の思想と関連する事柄の論述がまた、もろもろの宗教家・知識人・一般の新聞投書者たち からの激しいバッシングの対象となった。






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453 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(12)
オウム真理教事件について(6)
2006年3月16日(木)



  サリンによる無差別殺戮という事件の本質をどうとらえるか。その違いが、 もろもろの宗教家・知識人・一般の新聞投書者たちからの激しいバッシングの 対象となった。

 吉本さんの見解を読んでみよう。

 何度でもはっきりさせなくてはならないが、わたし(たち)が許しがたいとお もって関心をもっているのは、どんな者たちによってなされても(もちろん国家 =政府によってなされても)サリンを発生させることで無辜の民衆を無差別に殺 傷した行為と、そのサリン行為に含まれた殺傷次元の高度化(たとえばふつうの 爆弾と原子爆弾の相違のような)ということだけなのだ。
(「超資本主義」より)
 この発言に対して「それなら敵対している人間だったら殺傷してもいいのか。」 といった言葉尻をとらえるような幼稚な非難もあったようだが、まともに文章 を読めば、そんな益体もない非難が出てくる余地はない。

 吉本さんが「殺傷行為の高度化」といっていることが、たぶん大方の理解を拒んだようだ。 このことを吉本さんは次のように詳しく論述している。「余裕のない日本を考える」 から引用する。

 いままで、敵対する国家のあいだに戦争が起こって武力衝突の結果、直接に戦闘員が 死傷することはたくさんあった。またそれに巻きこまれて非戦闘員が殺傷されることも あった。いわゆる国家間戦争の武器の役割がそうだった。

 思えば支配者どもの歴史はそのような殺戮の連続であった。その殺戮を是認あるいは正 当化しておいて「一人の命は地球よりも重い。」などといういうことをいけしゃしゃと御 託宣して恥じないやからがよくいる。毎日世界のどこかで国家による殺戮を行っている 人類の現段階では、そのような物言いは罪の深い虚偽である。
 ところで、吉本さんはサリンや原子爆弾のような無差別殺傷兵器による殺傷は、 これまでの殺傷とは本質的に違うと言う。
 だがこんどの松本サリン事件、とくに、東京の地下鉄サリン事件は、国家間の戦争でもないし、 敵対している人間や勢力の争いでもない、まったく関わりのないただの無辜な民衆を承知のうえ で殺害している。これはサリンという猛毒性の気化物質の無差別な拡がり方から起こる無差別な 殺傷力がつかわれたからだ。それと一緒に、(人間を人間が殺そうとする)動機や理由に、かつ て無い意味をつけくわえた。もちろん結果だけからみれば殺傷行為に変わりない。だがある事柄 に関わっていないし、関わる気持ちさえももっていない者が殺傷されることがはじめから見込ま れていて、天災とおなじ不意打ちの行為を意味している。言いかえれば殺傷行為をする人間(ま たは集団組織)はゼロであるように雲隠れしながら、ほんとは「人間」全部を殺傷し、抹殺しよ うとするモチーフをもった行為だと見倣してよいことになる。これはたとえば狂気の人間が、機 関銃を乱射したり、車の中で放火したりして無差別に狙いを定め、その結果なんの関わりもなく 偶然そこに居合わせた人間を殺傷してしまったというのと同じようにみえて、実はまったくモチ ーフの次元が違っている。もちろん人が人を殺傷するというのは、どんな場合でもよくないに違 いない。だがそれはサリン(や原子爆弾)による殺傷とはまったく次元が違うことだ。

 敵対している人間を殺傷する行為は、口で言い争うことからはじまって、腕力沙汰になって傷 つけ合うという喧嘩の延長線で考えられることだ。サリン(や原子爆弾)による殺傷は、まった く次元の違う殺傷行為だと、言いたいわけだ。同じように人間を殺傷するのだから、結果は同じ じゃないかという考え方を、とるべきでないとおもう。次元が違う殺傷だということが重要だ。 なぜかというとサリン(や原子爆弾)は、無限に多様な殺傷行為に道を開く糸口をつけることに なるからだ。

 人類はやがて人間どうしの殺傷を止めるところから始まって、すべての殺傷行為を止めるのが 理想だ、という「理想」というイメージを、阻止してしまうことになる。松本サリン事件・地下 鉄サリン事件は、わたしたちに無限に多様な殺傷行為がありうることを示唆して、衝撃とやりき れない絶望感を与えてしまった。これは重大に考えて考えすぎることはないとおもう。


 市民社会に流布している一般的な善悪観をはみ出してしまった悪だと言う。したがってこれま での善悪観に則って裁いてことたれりと済ますことのできない問題をはんでいる。土屋さんは「組 織的になされた大衆殺戮に対して法律的対処をしながら、同時に、この社会の自由の原則を放棄し ない。」と言っているが、たぶん「正義論」の枠内では収まらない問題だ。あるいはまったくの別 問題だというべきか。人間を救済するはずの宗教(国家という宗教も含めて)にともすると凝縮し て現れる人間精神の闇を深く考察することを、この問題は要求している。

 吉本さんの言説は、これまたバッシングの対象の一つとなった親鸞の「悪人正機」に関わる論 考へと進んでいく。






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454 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(13)
オウム真理教事件について(7)
2006年3月17日(金)



 「歎異抄」の有名な二つの文言。

『善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。』

 俗に「悪人正機説」と呼ばれている。

『なにごとも、こゝろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといは んに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき 業緑(ごふえん)なきによりて害せざるなり。わが こゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人を ころすこともあるべし。』

 こちらは「契機論」と言う。

 麻原彰晃は自らの宗教による世界観・倫理観を語る気配を全く見せな い。サリンによる無差別殺傷の背後にある「契機」はついにはっきり見えぬ まま裁判は終わりそうだ。しかしサリン事件がこの社会に突きつけた問題は 残る。
 吉本さんの問題意識を追ってみる。

 無関係、無差別の殺人が成り立つ契機は、いまのところどこにもみえてこないんです。 うかうかと想像力を働かせればなにかいえそうなんだけど、いってしまうと全部不正確 でもどかしい感じが残ります。オウムの問題は、ある意味で契機自体が浮遊した現代の 社会的段階がもろにかぶさっているともいえます。善と悪が明瞭にならず、フワフワし ているような情況があるわけです。

 僕はオウム・サリン事件からずいぶん多くを学びました。
 親鸞が「善人なおもて……」というのは、こちらの琴線にひっかかってくる鮮明で 深い言葉です。これは一種のアイロニーというか、反語なんですね。こういうことに よって、親鸞は善悪の奥行きを鮮明に浮かびあがらせています。
 僕が感じたのは、親鸞というのは本気で極悪非道の人間のほうが浄土にいきやすい と考えていたんじゃないか、そういう解釈の仕方がオウム事件を通して僕のなかに生 まれてきました。

 極悪非道というのはなにかというと、目にみえないかたちで善を包括している悪が 極悪非道で、目にみえるだけで奥はなにもないというのがただの悪じゃないか。極悪 非道というのは、要するに悪のなかに善が潜在的に含まれていて、庶民の社会でいう 悪にはそれだけの含みはないと、親鸞は本気で思ってたんじゃないか。

(中略)

 市民社会にあいまいなまま流布されている善悪観をはみ出すのは確実ですが、その はみだしが極悪のなかで浄土により近い善だという、人間性に対する理解を親鸞はも っていたのかなという実感が出てきました。ただ悪をした、善をしたというならなに もいらないのですか、極悪をするためにはどこかに潜在的に善へいける要素が合まれ るんじゃないかと、親鸞はそう人間を理解したのではないでしょうか。


 オウム・サリン事件をきっかけに吉本さんの親鸞理解に大きな変化がきざしているこ とがうかがえる。極悪非道のなかに潜在的に善へとつながる要素が含まれるという人間 理解を親鸞がもっていたのではないか、というところへ踏み込んでいる。もちろん、 親鸞を語りながら吉本さん自身の内部で起こっている思想の展開を語っていると思う。 ここのところが激しいバッシングを呼び起こした個所なのだろう。
 「歎異抄」を通り一遍に読んだだけの私の親鸞理解からはとても大きくはみ出した言説 で、私はまだよく理解できないでいる。ただ同じモチーフが、宗教思想の問題ではなく 現代的な倫理の問題として語られるとき、私(たち)の課題へと確かに重なってくる。
 阪神大震災と、オウム真理教とサリン事件を結びつけるとすればこの二つの東西の事件で、 僕らの呑気な生活感覚は、一挙に縮められた、崖っぷちの所まで持っていかれたという感じを 持ちました。それくらい重要な問題だと考えています。
 そうすると、「これは本当は何を意味しているのか」ということは、これから様々なことが 分かってきたら、本格的に解いていかないといけないはずです。朧げな予感で、阪神大震災と サリンの事件をいうとすれば、とても大きな影響力と衝撃力を持っていて、後々これからの問 題に長く尾を引いていくだろうと思います。ある意味で戦後五十年の平穏さ平和性を、一挙に 荒れ狂う波の中に放り込んだことと同じ大きな意味を持っています。これの影響は、これから 出てきましょうし、また、これからよく分析し、確かめて、自分らの進路を決めていかなけ れば駄目じゃないかと思うのです。

 そういう意味では、大変な事件で、マス・コミや、その影響で一般的に市民社会に流布されて いる善悪観から見ますと、とてつもない無差別無関係凶悪な殺傷事件ということで片付けられそ うです。しかし、僕らが善悪の倫理を考えるとすれば、我々は現在まで通用している倫理は、多 分、高度の資本主義消費社会においては疑わしくなった前触れ状態にあるということです。市民 社会の枠内の倫理として善悪と言われていたものは、もっと「普遍的な倫理は何なのか」という 問題に立ち向かっていかないと、これから後の社会の動向に対して、通用しないんじゃないかと 僕は思います。

 その普遍的な善悪へ向う倫理のモチーフに対していまの市民社会の善悪の枠内でやられている 非難は、一面ではもっともなことでしょうが、他の一面では小っぽけな、従来に捕われた枠内の 規模しかない善悪で、善悪の問題は本当は、もっと普遍化して、拡大していかないと、これから の社会的な成り行きに耐えられないんじゃないでしょうか。
 僕がサリン事件とオウム真理教と結びつけるとすれば、市民社会における善悪という所で無差 別無関係の人に対する殺人ということで、殺傷の次元を一挙に新しい次元の殺傷に持っていった 事件ということになります。また、市民社会の規模の善悪だけで済むかという問題になってくる と、善悪の倫理性を普遍的な善悪の問題にまで、どういうふうに拡大していけば、実りがあるの かという所へもっていかないと、対応できないでしょう。その二つの善悪の問題。つまり、普遍 性にまで拡大されてゆく善悪の規模と市民社会的善悪の規模と、その両極を踏まえた上で、オウ ム真理教とサリン事件の問題を考えてきましたし、これからもするだろうと思います。これは、 社会的常識から言うと、それに反する所があるかもしれません。しかしその辺の常識にとどまる のなら、僕らの思想の存在する根拠はないので、たんに法律の責任にしかならないでしょう。僕 らは思想の問題をよく踏まえて「倫理はどう普遍化して行けば、これから後の社会の進展に対応 できるか」という所まで考えなきゃいけない。これは、僕の基本的な考え方です。オウム真理教 をサリンによって結びつけられている事件は、僕なんかには、いちばん重要な観点を作る課題な わけです。


 「普遍的な善悪」の問題を、「誰もが持っている人間性の闇」の問題と同義だと、私は考えて いる。その「人間性の闇」をも包括したもっと普遍的な倫理というモチーフを、吉本さんは自ら の課題としている。どちらかというと文学に似つかわしいモチーフといえる。

 ところで親鸞は、人は「業縁」がなければ一人とて殺せないが「業縁」があれば百人でも千人 でも殺してしまうものだ、と言っている。この「業縁=契機」とはなんだろう?「契機」をつくる のは1歳未満までの間に形成される「無意識」だと、吉本さんは別のところ(「超『20世紀 論』」)で言っている。人間精神の「無意識」の領域が「人間性の闇」の淵源だという。 仏教ではこれを「業」と言ってきた。
しかし「無意識」だけでは「業縁」は生まれない。「縁」という他者との関係がもう一つの要因 としてある。これは吉本思想のキーワードの一つである「関係の絶対性」のことではないかと、 ふと思った。単なる思い付きだから、いまは深入りしない。

 「オウム真理教事件について」が、思いかけず、ずいぶん長くなってしまいました。しかも 「正義論」のモチーフからはずいぶん離れてしまったようです。一応今回でこのシリーズを終 わります。