「ロシア革命?何をいまさら!」という声が聞こえそうだ。しかし未来を 語るのには過去の誤謬を徹底的に追及することが必要だ。そして私はロシア革 命の経緯をほとんど知らない。改めて勉強したい。「自由社会」を目指して 始まったであろう革命が、どうしてあんなにも無残な粛清と抑圧に満ち満ちた 国家をつくってしまったのだろうか。それを知りたいと思う。その誤謬の対岸 にあり得べき「自由社会」の姿が見えるかもしれない。それは、虚偽と誤謬に 満ちたこの国の未来を考えるうえでもなにほどか資するところがあるものと思う。
まず、ロシア革命の経緯を、アナキストの目を通して概観しておこう。 (以下は「FAQ」による。)
一般には、ロシア革命はレーニンが率いるボルシェビキ党が主導し、やがて ロシア全土をボルシェヴィキの制圧下に置いたと見なされている。
歴史は勝者によって、勝者の都合のよいように書かれる。官製の歴史
(ロシア革命のそれを「官許ロシア革命史」と呼ぶことにする。)を鵜呑み
にすると大きな過ちを犯すことになる。ロシア革命の真相もそうだ。
ロシア革命は当初、普通の人々が自由を求めて闘った下からの大衆運動で
あった。多くの思想潮流が存在し、数百万という労働者(都市や町の労働者だ
けでなく農民も)が自由社会を目指していた。アナキストの一人であるヴォー
リンはそれを「知られざる革命」と呼んでいる。
だが、そうした希望と夢はボルシェヴィキの独裁下(レーニン後にスターリ
ン)で粉砕されてしまったのである。その経緯を追ってみる。
官許ロシア革命史の説明では、「知られざる革命」は、せいぜい、労働者の自 律的活動を賞賛している程度であり、それも党の路線と一致している時だけの ことであった。党の路線からそれるやいなや、徹底的に労働者の活動を非難し ている。さらにあくどいことに、大衆運動・大衆闘争を前衛党の活動の背景に 過ぎないと表現している。そしてやがては残虐な大弾圧に転じる。
アナキストはロシア革命は社会革命の典型例ととらえている。そこでは、労働 者の自主活動が重要な役目を果たしていた。ソヴィエトや工場委員会などの階級 組織によって、ロシア大衆は、階級に支配されたヒエラルキー型国家主義体制の 社会から、自由・平等・連帯に基づいた社会への変換を目指していた。革命の最 初の数ヶ月は、まさに次のバクーニンの青写真を着実に現実化する過程で あった。
『未来の社会組織は、労働者の自由提携や自由連合によってもっぱら下から上 へと作られねばならない。当初は組合で、そしてコミューン・地方・全国へ、 最後に、国際的で全世界的な大連合へと。』
ロシア革命の発端、2月革命の概略は次のようである。(日付はロシア暦)
1917年2月
皇帝打倒の発端は大衆の直接行動だった。ペトログラードの女性たちがパン
騒動を引き起こした。
2月18日
ペトログラードのプチロフ工場の労働者がストを行う。
2月22日までに、ストは他の工場にも広がった。二日後には20万人の労働者が
ストライキを行い、2月25日までにストライキは実質的に全面的なものになって
いた。
2月25日
抗議者と軍隊との間で初めて流血をともなう衝突があった。
2月27日
この日がターニングポイントだった。いくつかの中隊が革命的大衆の側に付き、
他の部隊を蹴散らしたのだった。このため、政府は強制手段を失い、皇帝は
退位し、臨時政府が樹立される。
労働者大衆のこの自発的な運動に、全ての政治政党は完全に立ち遅れて、置
いてきぼりにされた観があった。もちろん、ボルシェヴィキも例外ではない。
ボルシェヴィキのペトログラード組織は、このツアー(皇帝)体制を打倒する
運命を担った革命発端の直前には、ストライキの呼びかけに反対していた。しかし
労働者大衆はボルシェヴィキの「命令」を無視し、ストライキを続行した。革命
は下からの直接行動の流れの中で実行されていたのである。労働者大衆がボル
シェヴィキの指導に従っていたとすれば、ロシア革命が生じていたかどうかは
疑わしい。
労働者大衆の自発的な運動はさらに進展していった。仕事場・街路・大地で。
大衆は封建主義を政治的に廃絶するだけでは充分ではないと徐々に確信するよう
になっていた。封建的搾取が経済面に存続している限り、帝政を打倒したところ
で本当の変化はなかった。だから、労働者は仕事場を、農民は大地を奪取し始め
たのだ。ロシア中で、普通の人々が自分たちの組織・労働組合・協同組合・職
場委員会・評議会(ロシア語ではソヴィエト)を作り始めた。当初、こうした
組織はリコール可能な代理人を持ち、相互に連合するというアナキズムのや
り方で組織されていた。
この労働者の活動から、一般論としても、望ましい「管理システム」の重要な
条件の一つが抽出できる。
自由社会でも何らかの管理システムは必要だ。しかし、それはヒエラルキー
を基盤にしたものではありえない。それは「リコール可能な代理人」
によって運営されなければならない。
アナキストはこの運動に参加し、あらゆる自主管理の傾向に賛同し、臨時政府 を転覆することを強く主張していた。革命を純粋に政治的なものから経済的・社 会的なものへと変換することが必要だと主張していたのだ。レーニンが国外追放 から戻ってくるまで、革命をこうした路線で考えていた政治組織はアナキストだ けだった。
1917年4月、ロシアに戻ったレーニンはただちに、いわゆる「四月テーゼ」を
発表した。それは二つの柱からなる。一つは第一次世界大戦を継続している臨
時政府を支持しないこと、二つ目は労働者と農民によるソヴィエト共和国の樹
立であった。
当初、「四月テーゼ」にはボルシェヴィキ内でも反対があったが、レーニンは
それを党の基本方針として採択させることに成功する。『全ての権力をソヴィエ
トへ』 というスローガンを掲げて、革命を前進させていくことになった。
アナキストは、工場委員会を中心とする生産の労働者自主管理運動において 特に活動的だった。アナキストは、労働者と農民が有産階級を収用し、あらゆ る形態の政府を廃絶し、自分たちの階級組織――ソヴィエト・工場委員会・協 同組合など――を使って社会を下から再組織するように主張していた。『全て の権力をソヴィエトへ』というスローガンはアナキストの闘争の方向とも一致 していた。いや、このスローガンはむしろ、アナキストの活動の影響によるものだ ったといえる。
『全ての権力をソヴィエトへ』。このスローガンは、ボルシェヴィキにとって は、それまでのロシア社会民主労働党の立場からの分岐を意味していた。この方 向転換によりボルシェヴィキは、直接行動を擁護し、大衆の急進的行動を支援 し、それまでにアナキストが主張してきた様々な政策を支持したのである。このこ とによってボルシェヴィキは大衆の支持を勝ち取っていき、ソヴィエトと工場委 員会の選挙で多くの票を勝ち取るようになった。 以上のような、アナーキズムとボルシェヴィキの関係には多くの証言がある。 いくつか掲載しよう。
『ボルシェヴィキは、それまでアナキストが特に繰り返し表明していたスローガ ンを掲げ始めた。』(「知られざる革命」)
『ボルシェヴィキが声高に述べていたアナキストのモットーは、確実に結果を 出していた。大衆はボルシェヴィキの旗を信頼したのだった。』(バークマン 「アナーキズムとは何か」)
『一般大衆レベルでは、特に(ペトログラードの)守備隊とクロンシュタットの 海軍基地の中では、ボルシェヴィキとアナキストの区別は事実上ほとんどなかっ た。無政府共産主義者とボルシェヴィキは、無学で元気がなく不満を抱えた同じ 人口層の人々から支持を得ようと争っていた。そして事実はといえば、1917年の 夏に、無政府共産主義者は、幾つかの重要な工場と連隊で享受していた支持と共 に、紛れもなく出来事の方向性に影響を与えるだけの力を持っていたのだった。 実際、アナキストのアピールは、幾つかの工場と軍隊においては、ボルシェヴィ キ自体の行動に影響を与えるのに充分なほど大きかったのである。
実際、一人の主導的ボルシェヴィキ党員は、1917年6月に(アナキストの影響 力の高まりに対して)次のように述べていた。「自分たちをアナキストから引 き離すことは、自分たちを大衆から引き離すことになってしまいかねない。」 と』(アレクサンダー・ラビノビッチ「1917年7月蜂起の研究」)
7月3〜4日 七月事件
ペトログラードで約40万人の労働者・兵士が「全ての権力をソヴィエトへ」を
スローガンに掲げて武装デモ。臨時政府はこれを鎮圧、ボリシェヴィキへの弾圧
を強める。レーニン、再び亡命(フィンランド)。
7月7日
社会革命党のケレンスキーが臨時政府の首相となる。
9月5日
モスクワ=ソヴィエトでボリシェヴィキ勝利。
9月20日
ペトログラード=ソヴィエト、トロッキーを議長に選出。
10月7日
レーニンがペトログラードに戻る。
10月10日
レーニン、武装蜂起を主張。党中央委員会が採択。
10月13日
ペトログラード=ソヴィエト内に軍事革命委員会が組織される。
10月24日 10月革命
ボリシェヴィキ、武装蜂起。
10月25日
全ロシア=ソヴィエト大会。メンシェヴィキ・社会革命党、武装蜂起に反対し
て脱退。
10月26日
全ロシア=ソヴィエト大会、「平和に関する布告」・「土地に関する
布告」を採択。人民委員会議(ソヴィエト政府)成立。議長にレーニン、外務
委員にトロッキーを選出。
2月革命が労働者大衆を主体とした下からの革命であったのに対して、10月革
命はいわばボルシェヴィキによるクーデターであった。しかしアナキストは
10月革命でボルシェヴィキと共に行動した。なぜなら、ボルシェヴィキはその
国家主義イデオロギーを隠してソヴィエトを支持していたからである。
『アナキストは現実に、10 月革命におけるボルシェビキの無名の同盟パートナーだった』 ([サミュエル=ファーバー「Before Stalinism」)
しかし、ボルシェヴィキが権力を握ると事態は一変した。アナキストも ボルシェヴィキも多くの場合同じスローガンを使っていたが、その間には 重大な違いがあった。
『アナキストの口と筆から出るスローガンは誠実で具体的だった。なぜなら、 アナキストの原則に一致し、そうした原則に完全に合致した行動を呼びかけて いたからである。だが、ボルシェヴィキの場合、同じスローガンは、リバータ リアンのスローガンとは全く異なる現実的解決策を隠しており、スローガン が表現していると思われる思想とは一致していなかったのである。』(ヴォー リン「知られざる革命」)
10月革命は二つの意味があったということになる。
一つは社会革命に参加した労働者大衆とアナキストの10月。労働者と農民
の10月は、平等と自主管理の名において寄生階級の権力を廃止することであ
る。
もう一つは、社会革命を推進する労働者大衆から権力を奪い、革命の十全
な発展を裏切り、革命の息の根を止めた政治政党・ボルシェヴィキの10月。
ボルシェヴィキの10月は、党による権力略取であり、大衆を支配するための
「国家社会主義」の導入である。
「全ての権力をソヴィエトへ」というスローガンのソヴィエトとは、アナキ
ストにとっては正に文字通り「任務を命じられたリコール可能な代理人を基礎
とし、直接的に社会を運営する労働者階級の組織」を意味していた。
それに対してボルシェヴィキにとってこのスローガンは、ソヴィエトの上に
ボルシェヴィキ政府を作り出す手段でしかなかった。
『アナキストが宣言したように「権力」が本当にソヴィエトに属すのならば、 それがボルシェヴィキ党に属すことなどあり得ず、ボルシェヴィキが想像して いるようにボルシェヴィキ党に属すのであれば、ソヴィエトに属すことなどあ り得ないのである。』
1918年の春と夏のソヴィエト選挙ではボルシェビキは大敗した。しかし
ボルシェヴィキの軍隊が、大抵、そうした地方選挙の結果を転覆してしまった。
たとえばペトログラードの選挙。1918年3月に終わる任期中、政府はペトログ
ラード=ソヴィエトの総選挙を絶えず延期していた。明らかに、政府は野党が
票を多く獲得することを恐れていたのだ。
ペトログラードでの選挙の結果、ボルシェビキはそれまで掌中に収めて
いたソヴィエトの過半数を失った。しかしなおも最大の政党であり続けていた。
選挙はほとんど無意味なものになっていた。
『ボルシェヴィキが圧倒的な強さを持っていた労組・地区ソヴィエト・工場委員 会・地区労働者会議・赤軍部隊・海軍部隊にかなりの数の代表がおかれ、ボルシ ェヴィキの勝利が保証されていた』
つまりボルシェヴィキは、自分たちの代理人でソヴィエトを圧倒することで、 ソヴィエトが持つ民主的性質の土台を崩したのである。ソヴィエトで拒否され そうになって、ボルシェヴィキは自分たちにとって「ソヴィエト権力」は党の 権力なのだということを示したのである。権力の座に留まるために、ボルシェヴ ィキはソヴィエトを破壊せねばならなかった。そして、破壊したのだ。ソヴィエ トシステムは、名前だけの「ソヴィエト」にされた。
「生産の労働者管理」についてもボルシェヴィキはその本来の意味を捻じ曲げ
ていった。
アナキストと労働者工場委員会はそれを『工場委員会の連合を通じた労働者に
よる生産管理それ自体(つまり賃労働の廃絶)』と考えていた。
レーニンは『労働者管理』を単に『資本家よりも優れた、普遍的で包括的な労
働者管理』と見なしていた。
レーニン(ボルシェヴィキ)の提案は徹底的に国家主義で中央集権主義だった
のだ。それに対して、工場委員会の実践は本質的に現場主義で自律的だったの
である。
『労働者組織が(ボスよりも)効果的な管理を行うことができるならば、労働 者組織はあらゆる生産を請け負うこともできる。その場合、民間産業の撤廃を 即座に漸次的に行い、それを集団的産業に置き換えることができるだろう。 従って、アナキストは、「生産の管理」という曖昧で不明瞭なスローガンを 拒否したのである。アナキストが支持したのは集団的生産組織による民間産 業の――漸次的だが即時の――収用であった。』
『ソヴィエト権力の最初の数ヶ月間で三度、(工場)委員会の指導者たちは自 分たちのモデルを現実のものにしようとした。それぞれの地点で、党指導部は 彼等の発言を封じた。その結果、経営権限と管理権限の双方を、中央当局に 従属し中央当局が作り出した様々な国家機関に与えることになったのであ る。』
結局レーニンは、1918年4月に(国家が上から指名した経営者を使った) 「独裁的」権力で身を固めた「ワンマン経営」に賛同し、それを導入したの だった。
1918年以来、アナキストはボルシェヴィキ独裁下のロシアを「国家資本主 義」の国と呼ぶようになた。個々の資本家(経済的支配者)はいなくなった が、個々の資本家が行っているのと同じ役割をソヴィエト国家官僚制が果た しているからである。(「国家資本主義」という言葉を、私は大杉栄の論文で 初めて知った。大杉栄の造語かと思っていたが、もっと普遍的な用語だった。)
さらに、軍隊組織(赤軍)の変貌。
1918年3月、ブレスト−リトフスク講和(ドイツ・オーストリアとの講和)の後に軍事
コミッショナーに任命されたトロツキーは、すぐに赤軍を再編成した。それまで
禁止されていた不服従に対する死刑が復活した。さらに段階的に、将校には、
特別な敬称・別個の兵舎といった特権を持つようになった。将校の選挙を含む
民主的組織形態は、すぐさま撤廃された。
大衆に最も強い支持を受けている目の上のタンコブの抹殺と同時 に、ボルシェヴィキは、自分たちが守っていると公言している大衆の自由を 制限し始めた。民主的ソヴィエト・言論の自由・敵対する政治政党や政治団体・ 仕事場や大地での自主管理、これら全てが「社会主義」の名の下に破壊された。 レーニン主義支持者の大部分はボルシェヴィキの権威主義を非難したが、1918年5月末 に内戦が始まると弾圧か加速し、ボルシェヴィキはあらゆる方面の反対者を組織 的に弾圧した。権力を握ればその「独裁」を行使すると公言していた正にその 「独裁」の主体たるべき階級のストライキや抗議行動をも弾圧したのだった。
内部にいる者にとっては、ボルシェヴィキが権力を掌握して数カ月で革命は
死んだ。内戦開始(1918年5月末)以前の数ヶ月間で、ボルシェヴィキの「労
働者の国家」は、他の国家と同じように、労働者階級に対する権力となり、労
働者とは縁もゆかりもなくなり、少数者支配(この場合は党による支配)の道
具となった。
外の世界に対しては、「真の社会主義」の基盤を組織的に破壊してしまった
ボルシェヴィキとUSSR(ソヴィエト社会主義共和国連邦 )が「社会主義」
を標榜するようになった。ボルシェヴィキの「社会主義」は次のような「犯
罪的愚鈍」によって成り立っていた。
ソヴィエトを国家機構に変換すること。
ソヴィエト権力を政党権力に取り替えること。
工場委員会の土台を破壊すること。
軍隊と仕事場の民主主義を排除すること。
政治的敵対者と労働者の抗議行動を弾圧すること。
ボルシェヴィキは労働者階級を労働者階級自身の革命から効果的に排除した のである。権力を持ったボルシェヴキは、バクーニンの予言の通り、『プロレ タリア階級の独裁』を共産党指導部による『プロレタリア階級に対する独裁』 に変質してしまったのだ。スターリン主義への道筋は必然であった。
1921年、クロンシュタットの蜂起とウクライナのマフノ主義運動を粉砕する
ことで「真の社会主義」にとどめを刺し、ボルシェヴィキはソヴィエトの征服
を完成した。(「クロンシュタットの蜂起」と「マフノ主義運動」については
後ほど取り上げる予定でいる。)
このようにして独裁者になったボルシェヴィキがやってのけた労働者・農民
へのおぞましい蛮行の一端を書き留めておこう。
此の数ヶ月続いた旅行の豊富な経験を詳細に述べることは、到底此の論文の よくする所ではない。私はそれを、いづれ、十分にそして完全に、出来るだけ 公平にやって見たいと思ってゐる。が、ここで私は、私がペトログラドやモス クワで聞いた事や、クロボトキンが私に話した一切の事は、私が種々なる旅行 の間に、即ち最初はウクライナに次ぎには北部ロシアにそして最後には西部ロ シアに見た事と較べると、殆んど何んでもない事だと云ふ事を極力語勢を強め て云って置きたい。さう云ふのは悲しい事だが、しかしそれは総て本当なのだ。 実際、もつと多くそしてもつとひどい事があったのだ。そして今まだ繰いてあ るのだ。(ボルシェヴィキのラアツヴョルストカ(強制徴発)は、最悪の皇帝政治も決 して及ばなかった程の事をしてゐるのだ。革命政府が、よしそれがマルクシス トであるとは云へ、こんなにひどい残忍と野蛮な復讐とに堕落し得たと云ふ事 は、全く信すべからざる事のやうに思へた。復讐―これだけで農民に対するボ ルシェヴィキの気違ひじみた政策を十分に云ひ現はしてゐる。ラアツヴョルス トカ―食物の強制徴発は無茶苦茶に行はれた。
全村々が荒らされて、其の住民がゐなくなって了つた。私は男の成年が全く ゐなくなって了つた村々を見た。男は皆な銃殺されて、女と十四歳以下の男の 子とだけが残ってゐた。
他の村々では男は一人づつ鞭打たれて、そして其の年齢には構はずに皆な強 制的に軍隊に入れて了つた。
或る村々では、男は『懲罰隊の共産主義者』等を幾度も経験し、後に、山や 森の中に逃げとんで、そこで謂はゆる『グリインス』(草賊)となってボルシ ェヴィキに対する復讐の容赦のない.パルチザン的戦闘に従つた。
私は食物徴発のために最後の麦粉までも持って行かれ、又農民等が次ぎの種蒔 きの用意に取って置いた種子までも持って行かれた村々を見た。法律できめられ た課税以外に、牛や馬も取られ最後の家禽や毛布やぼろぼろに裂けた枕までも 取られて、其の村々は乾いた骨のやうに裸になって了つた。全村々がボルシェ ヴィキの懲罰隊の砲兵によって、或は懲罰のために、或は近隣の農民へ恐怖的 見せしめのために、全滅させられて丁つた。私は『共産主義』と云ふ言葉が、民衆の心には秘密警察や、不正不義や、圧迫 や、暴行と同意義になったのを見た。共産主義者と云ふ名は、都会では一般に、 そして農村ではどこででも、深い永続きのする、猛烈な憎しみを以て憎まれて ゐる。それは瞞された希望と殉難とから生れた、恐ろしい程に激しい憎悪だ。
ボルシェヴィキの此の農民『政策』は革命の死の鐘のやうに響く。クロボトキンが其の手紙の中 や又は来訪者に繰返し繰返し力説した所の、『ボルシェヴィキは、革命はどんな風にやってはいけな いかを、世界に示した』と云ふ言葉の如何に正しかったかよ。 (アレキサンダー・ベルクマン「クロポトキンを思う」 世界文庫版大杉栄全集2所収)
第1
ツァー体制に対するソヴェト体制の圧倒的勝利。
第2
ソヴェト体制内に沈澱した前ソヴェト的傾向(農民のツァー信仰)。
第3
敵意を以てソ同盟をとりまく(軍事的にも文化的にもより強力だった)帝国
主義列強の三面包囲と、それに対する同盟内部のヒステリー現象 ― 自己内
部を戦闘的に明瞭(クリアー)に純粋(ピユアー)にするための異端分子
(帝国主義の手先)粛清裁判。(これについては、「第472回 4月13日」で詳
論を引用した。)
第4 「欠落の理論」と「抵抗体の欠落」
「欠落の理論」、「抵抗体の欠落」とはそれぞれ次のこと指す。
『いったんマルクシズムがソヴェト同盟内で「国教化」すると、理論的に資本 主義内部におけるような意味での「プロレタリア階級」はいなくなり、したが って唯一の現実的な抵抗体は理論的に消滅した。』
『原始キリスト教(イエス)の弾圧への抵抗力は直接個 人の人間の内面に求められ、それの論理化として、「神の前にある個人の内面」 が権力への不屈の拠り所となったのに対して、(ロシア革命では)こうした個 人の内面の独自の「民主的」「革命的」権威を欠落した。その「欠落の理論」が スターリン体制の「批判の欠落」という現実と結合した。』
第1〜第3の項は、たしかに個人崇拝と粛清を生む要因の一つではあったが、 その根源的な理由ではないと、私は思う。第1〜第3の項がなかったとしても 個人崇拝と粛清は避けられなかっただろう。根源的な要因は第4の項である。
「抵抗体の欠落」はマルクスの宗教批判の不徹底さに原因がある、というのが古田さん
の論旨だった。(「第481 4月23日」参照)この問題から、古田さんは次のような
教訓を引き出している。
ソヴェト同盟の偉大な実験にとっての最大の課題の一つは、資本主義的自己 疎外から解放された、現実的な「総体」としての「不屈の人民」の概念と共に、 (その単なる分有としての個人でなく)「いきいきした一個の人間」「それ自 身完結した小宇宙としての権威をもつ、いきいきした個体」「不屈の本源的自 由の大地に立つ個人」の概念を(ブルジョア個人主義との峻別の上で)建設し 得るか否かの問題です。
その前文は有名な国家死滅論(プロレタリアの権力奪取後の状態)を述べ、 その死滅しはじめた国家の最大の特徴として次のように描いているのです。「この点でとくに注目すべきものは、マルクスが強調しているコンミューンの とった措置、すなわち、あらゆる交際費や官吏の金銭上の特権の廃止、すべて の国家公務員の俸給の『労働者なみの賃金』の水準への引下げである。……と ころが、ほかならぬこのとくに明瞭な、― 国家間題についてはおそらくもっ とも重要な点で、マルクスの教訓がもっとも重要な点で、マルクスの教訓が もっともわすれられているのである! 通俗的な注釈書― それは無数にあ るが― には、このことについてなにも述べていない。時代おくれの『素朴 な考え』としてこのことを黙殺するのが『慣例』である、キリスト教が国 教の地位をえたのちは、キリスト教徒が、民主主義的、革命的精神をもった 原始キリスト教の『素朴な考え』を『わすれ』てしまったように…」
専門家と労働者との賃金格差の縮小は「国家の死滅」のための
重要なステップである。レーニンは確かに賃金格差の縮小には努めていた。しかし
肝心かなめの大前提「コンミューン」思想を無視して中央集権型政府を作ってし
まった。パリ=コミューンは、コミューン内部で国家を廃絶せずに代議制政府
を維持したため、それに苦しめられることになったのだ。その教訓を学んでい
ない。レーニンは死の床でスターリンの危険性を憂慮していたというが、その危
険性はレーニン自身が用意してしまっていたのだ。
パリ=コミューンの挫折を振り返っておこう。「アナキズムFAQ」から引用する。
パリ=コミューンは、普仏戦争でフランスがプロシャに敗北した後に作られ た。フランス政府は、パリ国民軍の大砲が市民の手に落ちるのを恐れ、それを 取り返すべく政府軍を派遣しようとした。コミューンに参加したルイズ=ミシ ェルは次のように回想する。『ヴェルサイユの政府軍兵士たちが大砲を掌握し ようとしているのを知ると、モンマルトルの男女は驚くべき機動力を発揮して 丘に群がった。丘に登った人々は自分が死ぬと確信していたが、犠牲になる覚 悟をしていたのだった。』兵士たちは、野次を浴びせる群衆に発砲することを 拒否し、銃口を上官に向けた。それは3月18日のことだった。こうしてコミュー ンが始まり、『人々が目覚めた。3月18日は、王党派か、外国人か、民衆か、い ずれかのものになり得た。そして、民衆のものになったのだ。』パリ国民軍が呼びかけた自由選挙で、パリ市民はコミューン評議会を選出し た。評議会ではジャコバン派と共和派が多数を占め、社会主義者(その多くは ブランキスト ―権威主義的社会主義者― と、アナキストのプルードン支持 者だった)は少数であった。評議会はパリの自治を宣言し、フランスをコミュ ーン(つまり地域社会)の連邦として再生させようとした。コミューンの内部 で、選出された評議員はリコール可能で、報酬は労働者の平均賃金と同じであ った。その上、評議員たちには、自分を選出してくれた市民のところに戻って 報告する義務があり、それを実行しない者は罷免されることになっていた。
(中略)
しかし、パリ=コミューンは『国家の伝統・代議制政府の伝統と決別』せず、 『その独立と自由連合を宣言することでコミューンが着手したはずの、簡単な ものから高度なものへの組織化を、コミューン内部で到達させようとはしなかっ たのである。このことが、やがてコミューン評議会が『官僚的形式主義で身動 きできなくなる』という惨事を引き起こし、『大衆と継続的に接触することで 生じる感性』を失うことににもなった。『革命の中心勢力 ―民衆― から隔 たることで無力になり、それ自体も民衆の発意を無効にしてしまったのであ る。』
『彼等はまず第一にコミューンを強化しようとして、社会革命を後回しにした。 ところが、先に進む唯一の方法は、社会革命によってコミューンを強化するこ とだったのだ!』
「FAQ」の筆者はパリ=コミューンから三つの教訓を引き出している。
第1
分権型コミューン連邦は自由社会に必須の政治形態である。
第2
コミューンより上位の政府が必要な理由などないのと同様、コミューン内部
の政府が必要な理由はどこにもない。コンミューンは自由に協力し合う自治
集会と産業集会の連合に基づかねばならない。
第3
政治革命と経済革命を社会革命へと統合することが決定的に重要である。
これはまさしくリバータリアン社会主義の要項だ。ロシア革命において、 ボルシェヴィキの圧倒的暴圧にもかかわらず、この社会革命を果敢に実行した のが「クロンシュタットの蜂起」と「マフノ主義運動」だった。
「クロンシュタットの蜂起」は「真の」社会主義を求めた普通の人々の大 規模な蜂起だった。ヴォーリンは「知られざる革命」で次のように述べてい る。
『クロンシュタットは、民衆があらゆる拘束から自分自身を解放し、社会革 命を実行しようとする全く初めての独自の試みだった。これは労働者大衆が自 身で直接行ったのだ。政治的羊飼い、つまり指導者や助言者などいなかったの である。これは、第三革命、社会革命への第一歩だったのだ。』
ボルシェヴィキはこの第三革命を反革命と決め付けて武力攻撃で粉砕した。
アレキサンダー・バークマンは『革命の裏切り者』(世界文庫版「大杉栄全
集」所収)を次のように書き始めている。
ブルジユワ政府と資本主義とは有らゆる革命運動の隠れもない敵である。 進歩した労働者は、ブルジユワ政府や資本主義を、さう云ふものとして知ってゐ る。又、さう云ふものとして、それと戦ってゐる。たとへば、パリ・コムユンの 徒は、彼等がそれに対して謀叛して立った其の武断的支配者から、正義も慈悲も 期待する事の出来ない事を知ってゐた。しかし、みづから革命的と呼ぶ政党が、 無産階級の名の下に発言するする事を敢てする政府が、其の無産階級の正義と 自由との叫びを血の海の中に溺れさせて了ふと云ふ事は、有らゆる歴史の中の 最も著しい裏切りの罪である。そして猶、社会的正義のための民衆の勇敢な企 てを反革命であると罵るのは、人類の永久に忘れる事の出来ないであらう大罪 である。
私は今クロンスタットの事を話してゐるのだ。クロンスタットは実にロシア のパリ・コムユンであった。クレムリンはヴェルサイユの役を勤めた。レニンは 其のティエルであった。トロツキイは其のガリフエであった。
ペトログラドの労働者等が、先づ第一に声を上げた。
ペトログラドの多くの工場と製造場とは閉塞され、労働者は文字通りに餓え
死せんばかりの状況だった。ペトログラドの労働者は、此の状況について相談し
ようとして集会を催した。だがその集合はポルシェヴィキ政府によって禁止され
た。その政府の方策は労働者の強い反発を呼び起こした。さらに多くの集会が
催されたが、皆な同じ結果に終った。
ポルシェヴィキは世界の資本主義とはあらゆる妥協をしたが、自国のプロレタ
リアには何の譲歩をもしなかったのだ。
2月24日
労働者たちは起ち上がった。ストライキが宣言され、多くの地区でストライキ
が行われた。
これに対して政府は、労働者等と話し合いをする代わりに『ペトログラドで
一番憎まれてゐる男のズイノビエフ』を委員長とする「防禦委員会」
を組織し、労働者たちの鎮圧を謀った。
同じ日の朝、ポルシェヴィキは士官学校の学生等を派遣して、ベトログラドの
労働者街・ヴァシレフスキイ・オストロフの労働着たちを逐ひ散らした。
2月25日
ヴァシレフスキイ・オストロフの労働者たちは、海軍工廠やガレルナアの
ドックを訪問して、政府の残虐な圧迫に対してともに抗議するよう、そこの労
働者に訴えた。そして行はれた労働者たちのデモは、武装した兵隊によって解
散された。
2月26日
ペトログラド・ソヴィエトの会合で、防禦委員会のー員であり又共和国革命
軍隊ソヴィエトの一員であるラシエヰッチは、ストライキ参加者等を犯罪者呼ば
わりして、トルボチユニイ工場の閉鎖を提議した。ペトログラド・ソヴィエトの
執行委員(ズイノピエフ等)は此の提案を容れ、労働者たちは工場から締出され、
その糧道を断たれた。文字通りに餓え死にすべく街頭に投り出されたのだ。
このような政府の専制的対応が労働者を激せしめて政府に反抗させた。その 間に政府は、諸方の多数の軍隊やその最も信頼する戦線の共産党軍をベトログ ラドに集中した。労働者たちの正当な要求を武力で圧しつぶしてしまったの だった。
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今これを書きながら私は、4月30日に渋谷で起こった小さなデモに対する大きな 弾圧のことを思い重ねています。これをマスコミは全く報道していません。私は一昨 日[anti-hkm]MLで初めて知りました。それを転載します。
4月30日午後、東京・原宿の神宮前穏田区民会館にて百余名が参集し、昨年に 引き続いて「自由と生存のためのメーデー06」を開催しました。集会は、フリー ターなどプレカリアート(不安定な雇用を強いられしものたち)、社会的に 差別、選別、排除されしものたちの訴えを集めました。
自由と生存のためのメーデー06
しかし、私たちの訴えを踏みにじるように、集会後のデモで3名不当逮捕の 異様な弾圧がなされました。
今回の弾圧は、ただ単にサウンドデモを暴力的につぶす狙いにかぎらず、 立川反戦ビラまき・あいつぐポスティングにたいする弾圧に続き、街頭におけ る示威行動、表現の自由や権利全般をさらに激しく規制していく意図を示すも のです。
生きるとは、自らの考えや意見を表明し、意思表示していくことです。その 意味で今回の弾圧は、生きることを貶め、人々の生存権を蹂躙し、実に息苦し い世の中へと歪めていくものです。
メーデー弾圧を許さない、広範な声を集めましょう。★デモ申請時と矛盾する不当な逮捕、トラックの強奪
午後5時、会場からデモに出発する前に、警察は先頭のサウンドカーの 「アンプを操作したら逮捕する」などと恫喝を加え、デモの出発そのものを 阻みました。もともと事前のデモ申請時においては、原宿警察は主催者側に 対して、デモ時に音楽を流すことや、先導のトラックにDJや機材固定の補助 者などが乗ることを認めていました。しかし、公安・私服警察と機動隊は、 デモ申請時の事実を反故にして、最初から逮捕を露骨に狙ってきたのです。
5時半ごろ、デモ出発時からたった数百メートルの時点で、警察・機動隊は デモ参加者に殴る・蹴るの暴行をはたらき、トラックの荷台に乱入し、DJを 引きずり下ろして、道路交通法違反の容疑で逮捕したのです。この時、警察・ 機動隊の乱暴狼藉を止めさせ、DJを守ろうとした参加者1名に頭部負傷の暴行 を加え、原宿署が公務執行妨害の容疑で逮捕しました。
また、機動隊がサウンドカーを取り囲み、むりやりトラックを強奪しまし た。★バルーンの強奪と不当逮捕
さらに午後6時過ぎに、デモ隊が渋谷ハチ公前交差点を過ぎようとしたとき のことです。MAYDAYの垂れ幕をたらした赤いバルーンが風に流されて水平近 くになった時点で、公安警察が後方にヒモを引きちぎり、バルーンを強奪し ました。
このとき、バルーンを取り戻そうとしたデモ参加者が、最後尾で推進規制を かけ続ける機動隊の盾の向こう側へと奪われ、一瞬で盾がとじられ、暴行さ れ、渋谷署によって逮捕されました。★原宿署も渋谷署も差し入れすら拒否
デモ終了後、デモ参加者は、3名の不当逮捕にたいする救援活動を開始し、 仲間が勾留されている原宿署ついで渋谷署に抗議・激励のため向かいました。 ところが、これまでにないこととして、警察署は何の法的根拠もないまま生活 必需品の差し入れすら拒否する人権無視を押し通したのです。★救援運動への広範なご支援を
救援運動によって、5月1日午後、警察に強奪されていたサウンドカーやDJ機 材を取り戻すことができ、また2日には1名を奪い返すことができました。 しかし、2名は不当にも勾留が決定され、依然として身柄を拘束されています。 暴虐な弾圧にたいし、ぜひ抗議声明をあげて下さい。メーデー救援会の活動へ のご支援よろしくお願いします。2006年5月2日(火)
メーデー救援会
『若し諸君が、ポルシエヴィキの主張するように、反革命であるならば、我々は 諸君に反対する。しかしもし諸君の要求が正当であるならば、我々は諸君と行動 を共にする。』
3月1日、クロンシュタットのヤコルニイ・スクエアで、バルテイク艦隊の第一第 二戦列艦隊が公会が主催した。約1万6千の水兵と赤軍の兵卒と労働者がその会合 に集まった。その会ではクロンシュタット・ソヴィエトの執行委員長である共産党の ヴァシリエフが司会した。ロシア社会主義ソヴィエト聯合共和国政府の大統領 カリニンとバルテイク艦隊高級委員クヅミンがこの会合に出席した。クロンシュ タットの兵士たちは彼らを軍隊式の敬礼や軍楽隊や軍旗等を以て迎へてい る。兵士たちはポルシェヴィキ政府に対して敬意と好意を示したのだった。
ペトログラードへ送られた水兵たちの委員からの報告があった。それはクロンシュ タットの兵士たちが最も恐れていた事実を明らかにした。大会はポルシェヴィキ 政府がペトログラード労働者の穏健な要求を血醒い威嚇を以て鎮圧した事を知って 憤慨した。そしてかの有名な15項目の決議を採択した。その中の最も重要な3項 目は次のようなものだった。
『今日のソヴィエトは労働者と農民との意志を表はしていない事実から見て、直 ちに無記名投票で選挙をしなおす事。』
『労働者や農民や、無政府主義者や社会主義諸左党のために、言論や出版を自 由にする事。』
『社会主義諸党のあらゆる政治犯人、及び労働運動や農民運動に関して投獄され た労働着や農民や赤軍兵や水兵等を釈放する事。』
大会は、この決議を、カリニンとヴァシリエフの二つの反対の声があったほかには、満場 一致で可決した。そしてペトログラードの労働者に委員を送って、ペトログラードと クロンシュタットとの共同の要求についての合議を提案しようとした。30人より成る この委員はペトログラードに到着するとすぐ、ポルシェヴィキによって逮捕されて しまったこれはクロンシュタットの兵士たちに対して政府が行った最初の弾圧であった。 その委員たちがどう扱かわれたのか、不明だった。
3月2日、すなわちクロンシュタット大会の翌朝、、ポルシェヴィキ政府はレーニン とトロツキイとの連名で布告を出した。その布告はクロンシュタットの運動を ポルシェヴィキ政府に対する武装一揆であると宣告していた。そして同時に、 クロンシュタットの兵士たちに反革命の徒いう烙印を押して、虚偽と歪曲だらけ の情報を流して、自分たちの正当性を世界的に宜伝し始めた。 ポルシェヴィキ政府は、3月7日をクロンシュタット攻撃の日と決めた。多くの 共産党員たちすらそんな暴挙がまかり通るとは信じなかった。それほど無茶な、 奇怪な事であった。が、すでに3月7日にトロツキイは『雉のやうにお前等を撃ち殺 すぞ』とクロンシュタットの兵士たちに言い送っていたのだ。
アナキストたちがポルシェヴィキをその本来の務めに翻意させようと最後の努 力をした。クロンシュタットの水兵や労働者は『ロシアの革命的花』と言われる ほど革命に対する功績が大きかった。その水兵や労働者が虐殺されようとしてい る。アナキストたちは防禦委員会に強く抗議し、クロンシュタットと話し合うよ うにというという趣旨の文書を送った。が、それは無視されてしまったようだ。
かってケレンスキイ(臨時政府)の追手の手から防禦委員会の委員長ズイノ ビエフを救ったのはクロンシュタットの労働者たちだった。その彼が今、 恩人たちの死刑執行者となった。
3月7日の夕方6時45分、轟々たる砲声がペトログラードの街々に響いた。
トロツキイがクロンシュタットへの砲撃を開始した。10日間の激戦
の末クロンシュタットは圧殺された。約1万4千人が虐殺された。
なんというひどく醜悪な皮肉だろうか。3月18日、ポルシェヴィキは
パリ=コミューン祭を催して、それと同時に彼等のクロンシュタットに対する
勝利を祝ったのだ。
官許ロシア革命史はロシア共産党(ボルシェヴィキ)を革命の偉大な遂行者 と言う。しかし「真の」ロシア革命史ではロシア共産党の名の上には『革命の裏 切者』と書かれている。
まず自称無謬の主義・思想つまりイデオロギーがあって、それを民衆に
強制しようとする愚、ボルシェヴィキの「犯罪的愚鈍」にロシアの民衆は
おおきな犠牲を強いられたが、それは貴重な反面教師ではあった。
最初に主義・思想があるのではない。民衆の自主的・自立的な活動が新しい
思想の萌芽を用意するのだ。マフノ運動は期せずしてあたかも、リバータリア
ン社会主義を髣髴とさせる共同体創出の試みであった。資本主義と国家を廃絶
した後の、最も理想的なシステムが形成されつつあった。ここには私(たち)が
学ぶに値する多くの示唆があり、私(たち)に豊かなイマジネーションを与えてくれ
る。
(ここからは「アナーキズムFAQ」のほかに、大杉栄さんの論文「無政府主義将軍 ネストル・マフノ(1923年8月)」を用いる。)
ロシアの民衆の自然的・自主的な活動から始まったロシア革命に多くの
政治党派が群がってきた。本来は民衆に属すべき権力を簒奪して、自分の党派
の独裁を手に入れ民衆の上に君臨するために。大杉さんはロシア革命進行中に
すでにそのことをしっかりと見抜いていた。大杉さんはマフノ運動(大杉さん
は原語の通り「マフノビチナ」と呼んでいる。)の本質を次のように記述して
いる。
ある者は民主主義の名のもとに、ある者は社会主義の名のもとに、ある者は 共産主義の名のもとに、ある者は民族自決主義の名のもとに、ある者は帝政復 興の名のもとに、ある者はまたこれらのあらゆる牛馬どもを同じ一つの秣桶の 中に集めるという名のもとに、いずれもみな掠奪者を解放するのだと広言しつ つ容赦なく民衆を圧迫し、動員し、劫掠し、攻撃し、銃殺し、また村落を焼き 払う。そしてついに、この強盗放火殺人の犯罪人どもの中で一番狡猾でそして 一番凶暴なやつらがクレムリンの王座に坐りこんで、無産階級の独裁の名のも とに、いったん解放された労働者や農民をふたたびまた前にもました奴隷状態 に蹴落として、完全にロシア革命を圧殺してしまった。これがいわゆるロシア 革命なのだ。ボルシェヴィキ革命なのだ。けれどもこの強盗放火殺人の犯罪人どもがお互いに、また民衆に対して、 その凶行をほしいままにしている間に、ロシアの民衆はただそれに利用され、 またそれを甘受していたのだろうか。
決してそうじゃない。ロシアのあちこちで、この犯罪人どもに対する民衆の 自衛運動が組織され、ことに中央ロシアやシベリアやウクライナでは、民衆の この自衛運動が革命的一揆の形となって現われた。そしてそのもっとも強大な 運動がマフノビチナであったのだ。由来ロシアの中でも一番自由を愛するといわれていたウクライナの民衆は、 いったん彼らが破り棄てた鎖をふたたび彼らにゆわいつけようとするところ の、あらゆる国家主義的権威に反逆して立った。彼らは自由を求めたのだ。 そして自己保存の本能と、革命のいっさいの獲得物を維持していきたい熱望と、 どんな権威にも対する憎しみと蔑みとが、彼らを駆ってこの反権威主義的闘争 に、無政府主義的闘争に走らしめたのだ。
マフノが率いていた軍(パルチザン)は反革命軍(いわゆる白軍)や近隣 列国の干渉(ロシアへの侵入軍)と最もよく戦った軍であった。マフノ軍は さらにボルシェヴィキ政府とも戦わねばならなかった。ここでもボルシェビ キ政府の狡猾にして卑劣な「犯罪的愚鈍」を見ることになるだろう。
大杉さんはネストル・マフノの事績を「マフノはことし(1923)33の一青
年だ。」と書きはじめている。マフノの誕生日は1888年10月26日。大杉さん
のこの論文の執筆月日は1923年8月10日となっている。マフノは35歳だったよ
うだ。いずれにしても「マフノ将軍」という呼称から受ける印象とは違い、
まだ青年だった。
1921年にはマフノはすでにウクライナを追われてルーマニア獄中に
あった。1922年にはルーマニアからポーランドに逃れたが、そこでも捕縛・投獄
されている。つまり、大杉さんがこの論文を執筆しているとき、マフノはポーラ
ンドの獄中にあった。その後の経緯は詳らかでないが、マフノは1934年7月25日
パリで病死したという。
この稿は大杉さんを語る場ではないが、この年の大杉さんのことを書きとめて
おく。
大杉さんはヨーロッパへ密出国していたが、5月パリ郊外で演説中に逮捕され、
フランスを追放されて7月に帰国。そのときのヨーロッパ旅行中に入手した
資料をもとに「無政府主義将軍」を書いたのだろう。
この年の8月に長男をもうけている。マフノにちなんでネストルと名づけた。
薄幸の子で1年後に病死している。
9月1日に関東大震災が起こる。9月16日、弟への見舞いの帰路、同行した
伊藤野枝さんと甥の橘宗一くんともども憲兵隊に拘引・虐殺された。
大杉さん38歳、野枝さん28歳、宗一くん6歳だった。
さて、マフノは貧しい農民の子として生まれた。7歳の頃から農家の手伝い、 小作人などをして働いた。受けた教育は小学校1年間だけだった。
1907年
18歳。無政府主義テロリストとして憲兵と数名の警察官とを
暗殺し、捕えられて終身懲役の刑に処せられる。獄中では歴史や自
然科学や政治学や文学などを熱心に独学した。
1917年3月1日
2月革命による政治犯の釈放でに出獄する。
釈放後すぐその郷里グウライポリエ村で地方ソヴィエトや労働組合を組織し
て、農民や労働者の間で働いた。
夏には、地主からその土地を奪いとる農民の革命運動の中心となった。
1918年
ドイツ軍とオーストリア軍がウクライナを占領した時、6人の同志と一緒に、
武器をとってそれと戦いながら、タガンログやロストウやツアリスティンの各
地を走り回った。
6月、グウライポリエに帰り、そこにパルチザン軍を組織。ボルシェヴィキ政府
との間の条約のもとにウクライナに軍政を布いていたオーストリア軍や、スコ
ロバドスキーの反革命軍をおおいに悩ませた。
このパルチザン軍は、かくして反革命軍や外国軍と頑強に戦いながら、また 猛烈に地主らとも戦った。そして瞬く間に、地主どもの数百の家を襲い、また 数千の敵軍を倒した。マフノの大胆不敵と、その神出鬼没の行動と、その軍略 的才能とは、敵軍の非常な恐れと憎しみとを加えるとともに、ウクライナの民 衆には非常な喜びと力とを与えた。マフノ軍のこの先例と成功とはさらに各地の小パルチザン軍を続出させて、 僅か7人の小団体から出発したものがその年の暮にはもう4、5千人の大軍隊 となった。そしてマフノは総大将と仰がれて、ウクライナ南部一帯の反逆農民 をそのもとに集めた。
このデニキン軍との戦いには、戦線が百ヴェルストあまりにひろがった。 そしてマフノはその全線にわたって、あらゆる機会を捕えて、農民と労働者 との地方的自治を説き、その自由ソヴィエトが各地独立してその経済的およ び社会的生活をみずから組織することを勧めた。
マフノのこの宣伝はマフノ軍の戦線のいたるところに採用されて、それが ウクライナの農民労働者の大衆の一大運動となった。マフノはそれらの農民 労働者からバティコ・マフノ[父マフノ]と呼ばれ、マフノ自身もまたしば しばこの名を用いた。そして民衆のこの大運動はマフノビチナの名によって ウクライナ以外にまでも知られはじめた。マフノビチナの行われるところには、まず各村に、自由に選挙されるソヴィ エトが組織された。そしてこのソヴィエトがその村のいっさいの生活を決定し た。地主の土地は没収されて、農民の間に分配された。農民はあるいは一人一人 に、あるいは共同に、その土地を耕した。
ドン河付近にいるコサック兵がこの農民の生活を妨げそうな勢いになると、 マフノビチナの村々は大会を開いて、各村から若干名ずつのパルチザンを動員 する。動員された農民はマフノ軍のもとに集まる。そしてその危険が過ぎると、 また各村に帰ってその平和な仕事につく。かくしてマフノ軍の大部分は農民によ って組織され、その糧食は農村から支給された。
しかし、反革命のデニキン軍の脅威が大きくなった1919年2月にマフノは、
ウクライナには入ってきたボルシェヴィキ赤軍の申し入れを受け、初めて共同
戦線を組むことにした。マフノ軍は今まで続けてきた南方戦線を受け持った。
ボルシェヴィキ政府は、マフノ軍の協力を乞いながら、その条件である軍需
品の供給を充分に果たそうとしなかった。
ところで、ペトリュウナ反革命軍が壊滅したとき、グリゴリエフという
将軍が配下の兵と武器とを携えてボルシェヴィキ軍に投降していた。
ボルシェヴィキ政府はグリゴリエフにルーマニア戦線につくことを命じたが、
それに応じないでグリゴリエフは再び反革命の旗をあげた。これがボルシェヴィ
キ政府のマフノ軍に対する恐れを増幅させた。マフノ軍とグリゴリエフ軍の
接近を恐れたのだ。マフノ軍が白軍と手を結ぶなどありうるはずがない。
ボルシェヴィキの猜疑心はそのような自明なことまで見誤らせる。
しかしボルシェビキ政府がマフノを恐れる最大の理由はそれではない。
マフノはボルシェヴィキと共同戦線は組んだが、社会革命についてのその思想
は少しも変えなかった。マフノ運動は依然として着実にその成果を上げつつ
進行していた。
その民衆は労農階級の社会的独立の原則の上に立って、モスクワ政府が派遣 したその代表者の権威を少しも認めなかった。彼らは彼ら自身が組織した機関 のほかの何ものにも責任をもたなかった。彼らには彼ら自身の地方ソヴィエト があり、数県にわたる全地方の革命委員会があり、またソヴィエト連合の大会 もあった。現に彼らがその独立を始めて以来、1919年1月、2月、4月の三たびこ の大会が催された。モスクワ政府は民衆のこの自主自治を許すことができなかった。「労働者の 解放は労働者自身の仕事でなければならない」というマルクスの言葉は、また 「ソヴィエトにいっさいの権力を」というレーニンの言葉は、もともと国家主 義のマルキシズムの真赤な嘘なのだ。マルキシズムは民衆が自分で自分の運命 を創っていくことを決して許すものではない。
もしも、と言ってもせんかたないことだけれど、もしもボルシェヴィキ政府がマフ
ノ運動に学んで、「真の」ソヴィエト連邦へと革命の方向を正しく修正していたら、
と思わずにいられない。
ボルシェヴィキが「国家の死滅」へのステップを踏み出さなかった思想的な
淵源を、吉本(隆明)さんはレーニンの『唯物論と経験批判論』の理念哲学に
あると指摘して次のように述べている。
レーニンのこの理念哲学はロシア革命政府が支配権を確立した後、ただちに事 務処理機関と人員も残してレーニン政府の支配権を解体する手続きを踏まなか った理念的根拠である。ましてやスターリンに至っては、社会国家主義として ファシズムの国家社会主義との双生児にまで転落した。世界的にも国内的にも 資本主義的な金融産業制度をどう国家主義に結びつけるかの遠いだけしか残ら なかった。(吉本隆明「中学生のための社会科」)
最強の反革命軍=デニキン軍はイギリスやフランスの連合軍から多くの武器 弾薬タンク等を支給されて、新たに大攻勢に打って出た。マフノ軍は弾薬に欠 乏していた。マフノはそれをモスクワ政府に要求していたが、モスクワから はなんの返事もなかった。白軍はウクライナをほしいままに蹂躙した。
それに乗じて、トロツキーの赤軍がマフノを攻め始めた。
マフノ軍は白軍と赤軍との挟撃を受けて、ガリシア方面にまで退却した。 数千の農民家族がその財産と牛馬とを携えて、マフノ軍のあとに従った。こ の大移住軍は、900q余りの戦線の間を不断に戦闘を続けながら4ヶ月の間さま よい歩いた。
2重の裏切者グリゴリエフの白軍は1万ほどの勢力を持っていて、ウクライナの
諸都市を占領していた。そしてグリゴリエフはその勢いをもって、またもマフノ
と結びつこうとした。
1919年7月、アレキサンドリアに近いセントヴォ村で、革命的パルチ
ザンの大会が開かれた。マフノはグリゴリエフをその大会に招いた。そしてそ
の席上、マフノはグリゴリエフの反革命的罪悪をあばいて、自らの手でグリゴ
リエフを銃殺してしまう。
1919年9月26日、マフノ軍はそのあとを追ってきたデニキン軍とペレゴノ フカ村で一大決戦を試みた。その決戦でデニキン軍の砲兵主力と前衛隊を壊滅 し、その本隊を無力化した。
1920年1月までにマフノ軍はウクライナのデニキン軍をまったく独力で打ち 破った。
するとボルシェヴィキ軍はふたたびウクライナに侵入して、マフノ軍に戦いを 仕掛けた。しかしその間に、またしても反革命のポーランド軍とウランゲル軍と が起ち上がった。マフノ軍はまたまた白軍と赤軍との間に挟まれた。
ボルシェヴィキ軍はいたるところでウランゲル軍に敗北した。メリトポル、 アレキサンドロフスク、ベルディアンスク、シニエルニコヴォ等の諸都市を占 領され、ドネツ河畔の全石炭鉱区を脅かされるまでにいたった。その結果マフ ノ軍に和睦を申しこんだ。
マフノ軍がその全力をつくしてクリミヤの奥深くにまで転戦し、ウランゲル軍 を完全に打ち破った時、モスクワ政府は三たびまたマフノに赤軍の大軍を向けた。
1921年の夏、マフノは数個師団の赤軍騎兵にとりかこまれてルーマニア の国境にまで追われ、ルーマニア政府のために武装解除されて投獄された。 危うくモスクワ政府に引き渡されようとしたが、1922年の春ルーマニアをのが れ出た。しかしこんどはポーランドの官憲に捕えられてしまう。
ソヴィエト政府は、マフノを強盗殺人の刑事犯人として、ポーランド 政府にその引渡しを執拗に迫った。それが受け入れられないと手をかえて、マフノの 同志と称するスパイを送り、マフノがポーランドに革命を起こす陰謀を企て ていたという密告をさせた。
『そして近くマフノはこのいわゆる陰謀罪の被告として裁判されようとしてい る。』という文で、大杉さんのマフノの事績を紹介する記事は終わっている。
マフノ主義の基本的姿勢
労働者と農民の自由は彼等自身のものであり、どの政治団体からも
どんな制限も受けるものでない。自分たちに適しており望ましいと思うように
行動し、自分たちの組織を作り、生活の全面でお互いに合意しあうこと、これら
全ては労働者や農民自身に任せればよい。マフノ主義者にできるのは支援す
ることと、相談にのることだけだ。どんな状況下でも、彼等を支配することは
できないし、そんなことを望んではいけない。
従って、マフノ主義者は自分たちが解放した町と都市に政府を樹立することは
なかった。自由ソヴィエトを創設し、労働者・農民がそれを運営した。
アレクサンドロフスクの例
マフノ主義者はこの都市を解放すると、即座に労働者に会議に参加するように
呼びかけた。労働者がこの都市の生活を組織し、自分たち自身の力と自身の組織で工
場の機能を編成するように提案された。
最初の会議の後、すぐに次の会議が行われた。労働者による自主管理の原則に従って
生活を組織するときの問題点が吟味され、労働者大衆によって活発に議論された。労働
者大衆は皆、自主管理の考えを最大の熱意を持って歓迎した。
鉄道労働者が第一歩を踏み出した。彼等は、この地方の鉄道ネットワークを
組織する責任を持った委員会を組織した。この段階から、アレクサンドロフス
クの民衆たちは、自主管理の諸機関を創設するという問題に組織的に
目を向け始めた。
アレクサンドロフスクにおいて、ボルシェヴィキはマフノ主義者に互いの活動範 囲について提案してきた。ボルシェヴィキのレヴコム(革命委員会)が政治的業 務を担当し、マフノ主義者は軍事業務を担当すればよい、という提案である。 マフノはこの提案に対して次のような辛辣な批判を投げ返している。
『労働者に奴等の意向を押し付けるなんてやめて、もっとまともな仕事をしに 行ったらどうだ。』
同時に、マフノ主義者は自由農業コミューンを組織した。農業コミューンは 数は多くなく、少数の人々だけの参画だったが、最も素晴らしかったことは、 貧しい農民だけでこうしたコミューンを作っていたことだった。マフノ主義者 は農民にいかなる圧力も加えず、自由コミューンの思想を宣伝することだけに 自分の役割を限定していた。
ボルシェヴィキの干渉
このように、マフノ主義者は革命の発展・軍事活動・社会政策に関する議論
に全住民が参加するようにした。彼等は、政治的・社会的問題だけでなく自由
ソヴィエト・労組・コミューンといったことを論じるために、労働者・兵士・
農民の代理人たちの会議を何度となく開催した。
1919年4月にアレクサンドロフスクの農民・労働者・反政府活動家が第三回
地方会議を開催しようとしたとき、あるいは1919年6月にいくつかの地方で臨
時会議を開催しようとしたとき、ボルシェヴィキはこれらの会議を反革命だと
決め付け、法律に違反しているとして集会を禁止しようとした。
マフノ主義者は、これらの会議を開催することでボルシェヴィキに応じ、
次のように問うていた。
『数人の自称革命家が作った法律など、自称革命家よりももっと革命的な民衆 全体を追放できるようにする法律など、存在しうるのか?』
『革命が防衛しなければならないのは誰の利益なのか?党の利益か?それ とも、自分の血で革命を動かしている民衆の利益なのか?』
マフノ自身は次のように述べていた。
『自分たち自身の根拠で会議を招集し、自分たちの事柄を議論することは、 労働者と農民が持つ不可侵の権利であり、革命によって勝ち取られた権利だと 思う。』
さらに、マフノ主義者は言論・思想・出版・政治結社の自由という自由社会の
原理を十全に採用した。マフノ主義者が占拠した全ての都市や町で、彼等は、
あらゆる禁止事項を撤廃し、ボルシェヴィキ政府によって報道機関と政治組織
に課せられていたあらゆる制限を破棄し始めた。
マフノ主義者が自由ソヴィエトに課した唯一の制限は『民衆に対する独裁を
強制しようとする「革命委員会」の形成を禁止する』ことであった。
つまりマフノ主義者はボルシェヴィキによるソビエト改悪を拒否し、代りに
『権威や独断的法律のない、労働者の自由で完全に独立したソビエト制』を
提案したのだ。彼等は次のように宣言した。
『労働者自身が、自分のソヴィエトを自由に選ばねばならない。ソヴィエトは 労働者自身の意志と願望を実行するのである。つまり、支配するソヴィエトで はなく、<行政上の>ソヴィエトなのである。』
マフノ運動が目指した自由社会は、所詮は実現不可能な「ユートピア」に過ぎ ないだろうか。
「アナーキズムFAQ」は労働者による自由のために闘いを次のように 列挙している。私(たち)の知らない闘いがまだまだあるに違いない。
パリ=コミューン(1871)
ヘイマーケット事件(1886)
イギリスにおけるサンジカリスト叛乱(1910-1914)
メキシコ革命()1911-1917)
イギリスにおける職場代表制(ショップ=スチュワード)運動(1917-21)
ロシア革命(1917)
ドイツ革命(1919-21)
スペイン革命(1931)
ハンガリー動乱(1956)
キューバ革命(1959)
1960年代後半の「就労拒否」闘争(特に1969年イタリアの「熱い秋」)
ポルトガル革命(1974)
英国の炭鉱ストライキ(1984-85)
英国の人頭税反対闘争(1988-92)
フランスの1986年と1995年のストライキ
80年代と90年代のイタリアのCOBAS運動
21世紀初頭のアルゼンチン叛乱における民衆集会と自主管理型職場占拠
『革命と大衆闘争は「虐げられた者の祝祭」である。その時に、普通の人々が、自分の ために行動し始め、自分自身と世界の両方を変え始めるのだ。』
店頭でパラパラ眺めただけで、未知の人の本を買うことはほとんどない。本 との出会いを語る本に出合って、そのほとんどない事をした。
米田綱路著「はじまりはいつも本」(パロル舎)
さまざまな本の著者との対話(インタビュー)を集めた本で、この本との 出会いを幹に、さらに未知の著者、未知の本、未知の問題との出会いの枝が 期待できそうだ。これがこの本を衝動買いをした理由だった。この絶望的な 状況の中で少しでも多くの曙光と出会いたい。たぶん、私は明るく絶望する ための慰藉を求めている。
最終章近く「<革命>への情熱」という項目があった。目下の関心事の一つ なので、それから読み始めた。なんと、ほんの少しだけど、パリのマフノ氏の 消息に触れることができた。全体とても刺激的な対話で、いろいろと考えさせ られること、示唆を受けることだあった。紹介しようと思う。
アベル・パスという人の著書『スペイン革命のなかのドゥルーティ』(渡辺 雅哉訳、れんが書房新社、2001年)をはさんでの、米田さんとアベル・パス さんとの対話だ。どちらも未知の人だったので、まずその略歴から。
米田綱路
1969年奈良県生まれ。
大阪大学文学部美学科、同大学院言語文化研究科修士課程修了。
「日本経済新聞」記者、書籍編集者を経で2000から03年まで週刊書評紙「図書
新聞」編集長。現在、同紙スタッフ・ライター。
20世紀ロシア・ドイツを中心とする精神史を書きつぐ。編著に
『語りの記憶・書物の精神史』(社会評論杜2000年)、
『抵抗者たち証言・戦後史の現場から』(講談社、2004年)がある。
アベル・パス
本名デイエゴ・カマーチョ。
1921年、スペイン・アンダルシア東部、アルメリアの貧しい日雇い農の家に
生まれ、バルセローナに育つ。
紡績工場の見習いとなった35年、14歳でアナルコサンディカリスト労組CNT
(全国労働連合)とリバタリアン青年団に加入。
36年7月に始まった内戦は、後の人生を大きく左右する決定的な経験だった。
フランコ軍がカタルーニヤを制圧する直前の39年1月、多くの同胞に混じって
辛くもフランスに脱出。
42年、スペイン国内のリバタリアン運動への合流を決意し密かにピレネーを
越えたが、同年末にバルセローナで逮捕され、以後のおよそ10年間をフランコ
体制下の獄中に失った。
53年の出獄後、改めてフランスへ亡命。フランコ死後の77年、スペインへの
帰還を果たす。
アベル・パスさんが自ら語る言葉で、その人となりや生き方や執筆姿勢を 知っておこう。
「1936年を語る証言者」としての自負。
当事者や証言者の語る内容は、自ずと記憶の改竄の危うさを免れない。
その点、私は幸運だったと思う。一般のスペイン人を呪縛したフランコ体制 への恐怖を肌身に感じることがまったくなかったのだから。フランコ軍がバル セローナへ突入する直前の1939年初頭にいったんフランスに逃れた後、私は 42年にスペインに潜入したところを逮捕・収監された。獄中では自分を偽る 必要も、アナキストであることを隠す必要もなかった。ところが、巷では誰も が「自由」を失うことへの恐れから独裁に迎合し、フランシスコ・フランコが 並べ立てた「うそ」を「真実」として受け入れる以外に生き延びる術はなかった のだ。自分はそんな不安とはおよそ無線だった。独裁者が国民に植えつけた恐 怖心から自由に、1936年を語りうる証言者というのは決して多くはない。この 私は、そんな数少ない人間のなかの一人だと自負している。
アベル・パルさんの『「歴史家」ではない歴史家』という自己規定。
自分は言われるような「歴史家」だとは思っていない。アカデミズムの「歴史 家」は、象牙の塔のなかで史料や書物をひもといてはあれこれと解釈をほどこ し、思案しているらしいが、あんな環境のもとで生み出されているものは歴史 ではない。過去を再構成し、歴史を本当の意味で把握する仕事は、アカデミズ ムの連中には不可能だ。本当の「歴史家」の名に値する人間であれば、すべてに通じていなければな らないだろう。最初の『ドゥルーティ』を書き上げるまでに10年の歳月を費 やしたが、私は正規の教育はほとんど受けていない。11歳から2年ばかり、 初等学校に通った覚えがあるだけだ。だから、いわゆる「歴史家」たちのよ うに基礎的な学問的訓練を受けているわけではない。
たとえば、『ドゥルーティ』を書き進めるうちに、経済の問題を扱う必要に 出くわしたことがある。しかし、経済の細かなことなど自分は何も知らない。 まったくの素人だった。そこで、いっとき執筆を中断したうえで、経済書を 相手にしばし格闘しなければならなかった。そんな作業の繰り返しが、私の本 の中身に厚みを与えている。心血を注いで完成させた『ドゥルーティ』は、た だの評伝ではないつもりだ。
ついでに言い添えておけば、スペインのアナキストはほとんどみなそろって 独学だった。なにせ家計を助けるために、われわれは物心のつくころにはもう 働きに出なければならなかったのだから。歴史叙述に挑もうという者には、対象への充分な愛着がなければならない。 アカデミズムは「客観性」を旨とするが、干からびた文書の束が常に何ごとか を語り、真実を学んでいるというものでもないだろう。ありていに言えば、自 分はその手の「客観性」には関心がない。まったく逆だ。絶えず情熱を傾けて 私はタイプライターを打ち続け、『ドゥルーティ』を書いたのだ。
黒い糸
ボルシェヴィキ(ソ連)がスペインにおいても「革命の裏切り者」の役割を
担ったことはよく知られている。もうずいぶん昔になるが、ジョージ・オーウ
ェルの『カタロニア讃歌』を歯軋りしながら読んだことを思い出した。
さて、米田さんとバスさんの間で、スペイン革命を取材したソ連の二人の記
者の運命が語られている。
ソ連の記者たちは本国の厳重な検閲体制のもとでスペインの情勢を報じなけ
ればならなかった。が、そうしたなかでもスターリンは、スペインへ行って真の
革命の実態を目の当たりにしてしまった記者の存在を恐れた。「プラウダ」紙
の特派員ミハイル・コリツォフはソ連に召喚された上、スターリンによって粛清
されてしまう。そして同じ時期に、やはりスペインを見た「イズヴエスチヤ」紙
の特派員で作家のイリヤ・エレンプルグはスターリン独裁下を生き延びてい
る。
二人の記者の運命を分けたものが何であるかは、この対話では触れられてい ないので分からないが、スペインの「真の革命」を目の当たりにしてしまったため に抹殺されたのは、もちろん、コリツォフだけではなかっただろう。スペイン で起こっていた「革命」への視点は闇に葬られていった。
希望の糸
パスさんの証言。
コリツオフもエレンプルグも、ソ連の厳重な検閲体制のもとでスペインの情 勢を報じなければならなかった。私は1936年のスペインで本当は何があったの かを、一切の制約なしに書いた。あのとき、スペインでは本当は何が起こって いたのか? ほとんどの歴史家たちが無視してきたことを、つまり「革命」の 真実を、『ドゥルーティ』という書物を通じて描いてみせたのだ。歴史家たち はおおむね「戦争」のありさまを伝えてきたが、「革命」にはほとんど言及し ていない。もっともなことではある。革命を実行したのは、われわれアナキス トだったのだから。ソヴエト・ロシアではアナキストは徹底的な迫害にさらされており、その大 半が殺されていた。アナキストには「頭の狂った連中」だとか、「匪賊」とい った勝手な烙印が押されてもいた。だが、同時代にありながらも特異な歴史的 環境のもとに、スペインではアナキズムがプロレタリアートの圧倒的多数の支 持を獲得していたのだった。ポリシュヴイキのロシアでは徹底的に蔑まれてい たアナキズムが、だ。
スペイン革命が連合主義の原理に則り、労働者自主管理の営みを通じて提起 した最も重要な点のひとつは、最も有力な集団を構成していたにもかかわらず、 スペインのアナキストたちが決して独裁には走らず、革命のさなかにあっても なお他の政治勢力の意向を尊重したこと、他の政治集団の意志の表明を妨げな かったことにある。この点は幾重にも強調しておきたい。
米田
労働者民主主義への回帰を求めた1921年のクロンシュタットの水兵の反乱の 鎮圧をもって、ロシア革命の精神は死に絶えた、と評する見解もあります。し かも、その反乱の鎮圧を指揮したのが他でもないトロッキーであったわけです ね。その彼も、最後はメキシコで暗殺される。革命を見た人間、いや革命の死 をも見てしまった人間は、こうしてほとんど抹殺されていきました。
20年代の半ば、パリに亡命していたドゥルーデイと友人のアスカーソが、や はりポリシエヴィキのロシアを追われていたウクライナのアナキスト、ネスト ル・マフノをその安宿に訪ねるくだりは、『スペイン革命のなかのドゥルーテ ィ』のなかでも非常に印象的な場面です。アベル・パス
あのころのパリは、世界中からの亡命者たちの坩堝だった。なかには、ファ シズムの台頭を嫌ってムッソリーニのイタリアを逃れたアナキスト、カミッロ・ ベルネリもいた。1920年代のスペインにはイタリアの独裁者の亜流であるプリ モ・デ・リベーラが君臨していたから、もちろんピレネーの南からやって来た 亡命者も多かった。そんなスペインのアナキストたちの間では、裏切られた ロシア革命の生き残りとして、グリヤイ・ポーレにコミューンを築いた不屈の ゲリラ戦士、あのネストル・マフノは半ば伝説的な存在だった。ドゥルーティと アスカーソのふたりがそんなマフノに会いたがっていたというのも、もっとも なことだろう。
ドゥルーティらと対面したおり、マフノはレーニンとトロッキーの前に ポリシエヴィキのロシアでは自分たちは屈したものの、イベリア半島ではアナ キズムが勝利する可能性がある。機会に恵まれれば自分もスペインへ行って 武器を取るのにやぶさかではない、と語っています。残念ながらマフノの死 によって、その夢は実現されずに終わりますが、ウクライナのアナキストの 姿勢には、敗れてなお盛んな、既存の社会秩序・資本主義体制への徹底した 抗戦の意味が込められていたように見受けられます。
1936年のスペインに現出した革命は、東―ヨーロッパ― と 南―就中モ ロッコ―の二つの方向に拡大する可能性を内包していた。だからこそ、モロ ッコに執着する人民戦線のフランスも、保守党のイギリスも、ファシズムのイ タリアも、ナチズムのドイツも、スターリン主義のロシアも、ヨーロッパ諸国 はみなそろってスペイン革命の圧殺にかかったのだった。20世紀は1936年で終 わった。私はそう確信している。あの年、過去は一掃され、捨て去られた。
全体主義の勝利は、現代を生きるわれわれの創造的・批判的な精神を根底から 破壊してしまった。新たな自由の獲得や社会の変革の実現は、容易なことでは 成就しないだろう。それが可能かどうか、正直なところ私にはわからない。以来、政治的にも経済的にも自由主義は敗北し、全体主義の時代が到来したの だということができる。なるほど、確かにナチズムは崩壊した。だが、ヒトラ ーが推奨した国家システムは実質的にスターリンのもとで完成を見る。敗北し たのはヒトラーだけではない。英米の自由主義も敗れ去ったのだった。ソ連が 消滅して今では唯一の超大国となったアメリカが看板に掲げる「民主主義」と やらは、むろん虚構の域を出ない。世界は全体主義の圧力に呻吟している。
「9・11」以降われわれの眼前で生起している事態には際立って深刻なも のがある。アフガニスタン関連の報道は、そのほぼすべてがアメリカの全体 主義の主導のもとに、もっぱらその自己正当化の目的のためにのみなされて いる。いずれ、スペインやイタリアからも大量の若い兵力がヨーロッパを遠 く離れた戦場に投入されねばならない日がやって来ないとも限らない。すべ ては全体主義国家アメリカの利益に奉仕するために、だ。何とも馬鹿げたこ とではないか。
ここで一つ思い出したことがある。
『自由経済の中心であり、いざとなれば身を賭して民主主義を守る米国で ある。』
あきれて開いた口がふさがらなかった。若宮啓文という朝日新聞の記者の「平和と繁栄を どう創る」という論文(4月23日付朝刊)の一節だ。こんな平板で皮相なアメリカ 理解をもとに国際政治問題を論じている。この人、肩書きは論説主幹だそうだ。 「朝日」という自称進歩派新聞の論調全体の知的レベルを示す象徴的な文章だ。
ある労働者が私に問いかけてきたことがある。お前さんたちはアナキズムの 勝利を日頃から口にしているけれども、歴史のなかでアナキストというのはい つだって敗北を余儀なくされてきたのではなかったか、というわけだ。ポリシエヴィキとは違って、われわれの願いは目の前の権力闘争に「勝利」を 収めることではない。われわれは、ユートピアの実現を追い求めているのだ。た とえてみれば、水平線のようなものだ。ひとつの成果が達成できても、すぐさま 新たな目標がはるか彼方にまた立ち現われてくる。
8時間労働の達成には膨大な量の血が流されねばならなかったが、ともかく 8時間労働もアナキストの尽力もあって獲得された重要な成果のひとつだ。弾 圧を被りながらも、社会正義と友愛に基づく新しい世界の構築へ向かってわれ われが歩みを進めてきた点は、誰にも否定できないだろう。われわれの営みは 宗教ではないけれども、われわれの革命への信条にはある意味で宗教にも似た 一面がある。この信条がなければ、アナキストではない。
アナキズム的な社会主義は、歴史を前進させる風のようなものだ。今日や 明日にもアナキズムに勝利がもたらされるということはない。社会は常に公 正を追求し続けている。先に水平線になぞらえたように、その限りでアナキ ズムに完結はない。
アナキズムはいわゆる「理論」ではない。それはいわば精神に内在 する力であり、歴史のなかで生起する自然の営みだ。不正がある限り、その不 正を追及し、公正とは何かを問い続ける必要があるだろう。アナキズムという のは、より公正でより人間的なそうした企てのひとつの表現なのだ。混迷を 深める現代にあって、なかでも麻薬に手を出しアルコールに溺れる若者たちの 世代に、アナキズムは精神的な支柱を提供しうるかもしれない。
さて、そのマルクス主義について、パルさんは次のように言っている。
今日、誰がマルクス主義を擁護するだろう?
そんな人間は誰もいない。理由は簡単だ。マルクス主義というのは、19世紀 半ばの特定の経済状況のもとに、その経済状況に合わせて生み出された理論で あり、すでに効力を失って久しいからだ。マルクス主義では、21世紀のわれわ れを取り巻く現象を説明できない。
テーマ
現在の課題としてマルクスの思想はどのように継承されるべきか、あるいは
破棄されるべきか。その上で現在の状況を踏まえて、はたして実現を追い求め
るに値する「ユートピア」はありえるのか。
そこで次回から
吉本隆明著「マルクス―読みかえの方法」(1995年、深夜叢書社)所収の
同名の論考(インタビューの記録、聞き手=高橋順一)と
「未来国家のキーワード」(聞き手=「潮」編集部)
を読むことにする。
実はこの本、「つんどく」したままのものだった。購入10年後の再発見・再
会ということになる。思いがけないところで紐解くことになった。無駄な購入
ではなかった。とてもうれしい気分だ。