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69. はなしあおうじやないかとゆう声がした
 2004年10月22日



 今日の朝刊に詩人・川崎洋さんの訃報が掲載されていました。享年74歳。
 若い頃その作品を読んで、川崎さんの繊細な優しさにひと時の慰藉を戴いたことを思い出しました。 息苦しい時代になり、毎日息苦しいことを取り上げざるを得ないこのページですが、今日は一呼吸置いて 、心をほぐすことにします。川崎さんを追悼して、川崎さんの詩を三編選んでみました。


  にじ

はなしあおうじやないか
 と ゆう声
     がした

うすいみどりいろのこえだった

 すると

もうひとつの空のほうから

はなしあおうじやないか
と ゆう声
    がした

ぽっかりあかいこえだった
 むらさきやら

たまごいろやら

 おりおり
わらいさざめいたりしながら

あさぎり に ぬれている
新墾地の ことなんぞを

 風が吹くたんび
話題をかえたりしながら

 それはそれは
  ほんとうにたのしそうに

 空のこちらから
むこういっぱいにかけて
はなしあっていたことだった


  こもりうた

あかんぼは
うすめをあけて
うわめづかいなど
するもんじゃない
ねむりなさい
ここはおやじとおふくろに
いっさいまかせて
わるいやつがきたら
とうさんとかあさんが
ちゃんとしまつをつけてやるから
ねむりなさい
すこしぐらいいびきかいたって
やっときこえるぐらいの
いびきなんだから
えんりょするこたない
ねむりなさい


  五月

夜になると大きな星が流れましたね
実に大きな星なので
その星の舟や木が
燃えながら
星と一緒にまわっているのが
まざまざとみえる程でした

それらにまじって
時折
眼をつむった操縦士を乗せて
戦闘機が落ちてきましたね
僕たちはといえば毎日
蛇の子供のことや
こするとよい匂いのする風防ガラスの
かけらのやりとりに夢中でした
あの舟足の速かった僕たちの船
すてきに漕ぎよかった褐色の櫂
今でもそれは
あの海岸の砂の上に転がっているのですか
僕たちが漕ぐと
いつのまにか船が船から抜け出して
船の抜けがらだけが
千の波を激しくめくりながら
海をかすめて飛ぶような感じでしたね

飛行服のまま
君の家に一寸立寄った君の兄さんが
見えない弦が張られている
牛の角のたわみを両手で握りしめ
その色つやのよい牝牛の身体ごしに
五月の海を見ていたのが
昨日のことのように思い出されます
いい人が沢山死んでしまったのだ


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90. 詩をどうぞ(1)
 2004年11月12日



 ファルージャの殺戮はまだ続いている。新聞は報じる。「イラク各地で騒乱拡大」
 これはテロではなく、明らかにレジスタンスだ。ブッシュが押し付ける手前勝手な 殺戮という平和への。



語彙集第百三十章    中江俊夫

それは君のためなんだろうか
僕のためなんだろうか
誰のためでもないはずだその平和は
だってそうじやあないか
お袋も 親父も 妹も
みなその名で殺された 駄菓子屋 勤人 煙草屋は
ほかの名じゃあ殺されなんだ 僕の知ってるかぎり 僕の町筋で
不正の名でかりたてられ
友の名で殺されたものはいない もっと大きな もっと大きな!
みなうまい名でかざりたてられ 兵士は
きれいな小箱に入って帰り
不細工な忠霊塔におさめられたよ

それは君のためなんだろうか
僕のためなんだろうか
誰のためでもないはずだその平和は
だってそうじゃあないか 僕らは
まだ若いんだしそんなにいつ迄も眠っていたくはない
気がむいたときに本も読みたいし 議論もしたい
暇はなくとも 映画を観たり 散歩もしたい
朝七時には眼がさめるし 夜十時には眠くなる
そりや無理もするけれど 恋と戦争はおかどちがいだ
兄弟げんかや隣の夫婦げんかとはわけがちがうよ
僕らは愛しあっても 憎みあってもいない
誰が相手かさえ知らんのだ

それは君のためなんだろうか
僕のためなんだろうか
誰のためでもないはずだその平和は
子供のかくれんぼなら繁みに隠れても
鬼が見つけたらすごすごでてくるよ
大人のかくれんぼときたら 繁みにきてみると
黒っぽくなった骨たちをみつけたという始末さ
いったい誰がじゃんけんしたんだ
僕の兄たちを賭けて 誰がサイをふったんだ
いったい誰が楽しみ 明日の時間をつぶしたんだ
誰がふところにもうけを入れてしまったんだ
誰だ誰だ!

国の平和とは誰が言うんだ
いつも指導者で お偉方 何とか長官たち 大人たちさ
僕らをとかく平和のためだろうと 戦争のためだろうと
あごで使おうつて魂胆なのさ
人的資源というやつで 十八歳から二十五歳というやつ
結構なすじがきで僕らの未来を買占め
もうけの道具に使う
こつちは他国で血を流す
引金をひくのか 号令をかけるのか役割りもきまっていて
ほかの芸は要らないという仰せだ国のため
火をつけろ ぶっこわせ 殺せ殺せ

国の平和とは誰が言うんだ
死んじまった風? 空? 緑?
死んじまった学童? 職人? 蛙? 鳥?
生きのびた大臣
生きのびた首相
生きのびたおおぜいの役人
成程なるほど
国の平和とは大事です 便利重宝だ
それは君のためなんだろうか
僕のためなんだろうか
死んじまったものは 生きていたときも無言
死んじまったらなおさら無言 国の平和には便利重宝さ

ぬけぬけ性こりなく繰返す商売々々だ
平和は一番売りやすいよ 口実は一番崇高だ
かんじんの中味は戦争さ
断固平和を守るため
断固戦争を続行する!
平和の種類は嘘八百種だ
突然変異の珍種も頻出し
他種の平和は認めない
自種の繁栄と商売にかかわることだから
それは君のためなんだろうか
僕のためなんだろうか どっかの
人食い鮫のためなんだろうか

国の平和とは誰が言うんだ
平和は火葬場じゃない 難民収容所じゃない
爆弾じゃない
牢屋でもない
あざみのことだ タンポポのことだ
かなぶんぶんのことだ
婦人のことだ 小鳥のことだ
百姓 漁師 ひとりひとりの個人的なことだ
国なんぞ存在したためしがない 権力と
法律書や馬鹿者の頭のなか以外には
それを誰れがいったい国があると言うのか
その平和とはなんなのか なんに利用するつもりか誰が?


   (「ユリイカ・現代詩の実験」1972年10月臨時増刊号より)


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97. 詩をどうぞ(2)
 2004年11月19日




四海波静    茨木のり子

戦争責任を問われて
その人は言った
  そういう言葉のアヤについて
  文学方面はあまり研究していないので
  お答えできかねます
思わず笑いが込上げて
どす黒い笑い 吐血のように
噴きあげては 止り また噴きあげる

三才の童子だって笑い出すだろう
文学研究果さねば あばばばばとも言えないとしたら
四つの島
(えら)ぎに(えら)ぎて どよもすか
三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア

野ざらしのどくろさえ
かた かた かた と笑ったのに
笑殺どころか
頼朝級の野次ひとつ飛ばず
どこへ行ったか散じたか落首狂歌のスピリット
四海波静かにて
黙々の薄気味わるい群聚と
後白河以来の帝王学
無音のままに貼りついて
ことしも耳すます除夜の鐘
   (「ユリイカ・現代詩の実験」1975年12月臨時増刊号より)

 茨木のり子さんが政治的な問題を素材にして、それをストレートに詩にするのは珍しい。 茨木さんの憤怒のほどが窺える。
 ちなみに、茨木さんは先日亡くなられた川崎洋さんと同人誌「櫂」を1953年に創刊し、現代詩の 隆盛の一時期を担っている。

 ところで、この詩を読むといつも「頼朝級の野次ひとつ飛ばず」の一行で頭が傾いでしまう。 「頼朝級の野次」ってなんだろう?
 分からないのは私だけかもしれない。ともあれ気になるので、今回はいろいろ調べて一応私なりの解釈を してみた。
 結論。次の歴史的逸話を下敷きにした一行ではないか。

 後白河法皇が義経に頼朝追討の宣旨を下したことを知った頼朝は激怒し、大軍を上洛させると後 白河法皇を脅した。後白河法皇は頼朝に、本意ではなく天魔のせいだと弁明した。この弁明に対して 頼朝は「あなたこそ日本一の大天狗だ。他に天魔は居らんぞ」と怒りの返書を叩きつけたという。

 どうだろうか。もし違っていたら、ご教示を。


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98. 詩をどうぞ(3)
 2004年11月20日



 茨木のり子さんは私が好きな詩人のお一人なので、紹介したい詩がたくさんある。 しかし「詩をどうぞ」では、このホームページのテーマと共通部分があるかどうかを 基準に詩を選んでいる。そういう基準で選んだ茨木のり子さんの詩をもう一つ紹介したい。 比較的新しい詩集「倚りかからず」(筑摩書房)より。


(ひな)ぶりの唄    茨木のり子

それぞれの土から
陽炎(かげろう)のように
ふっと匂い立った旋律がある
愛されてひとびとに
永くうたいつがれてきた民謡がある
なぜ国歌など
ものものしくうたう必要がありましょう
おおかたは侵略の血でよごれ
腹黒の過去を隠しもちながら
口を拭って起立して
直立不動でうたわなければならないか
聞かなければならないか
   私は立たない 坐っています

演奏なくてはさみしい時は
民謡こそがふさわしい
さくらさくら
草競馬
アビニョンの橋で
ヴォルガの舟唄
アリラン峠
ブンガワンソロ
それぞれの山や河が薫りたち
野に風は渡ってゆくでしょう
それならいっしょにハモります
 
   ちょいと出ました三角野郎が〜
八木節もいいな
やけのやんぱち 鄙ぶりの唄
われらのリズムにぴったしで


今日の夕刊(朝日新聞)の文化欄に「行動するリベラルを貫いて」という表題で 経済学者・宇沢弘文氏のインタビュー記事があった。その中に、現今の新聞紙面ではめったにお目にかかれない 歯切れのよい一節があった。
 でもいま、経済学は社会を悪くしてるよね。何の志もない小泉「改革」を持ち上げて、腐敗しきってい る。ブッシュを再選させたアメリカは建国以来、最悪の時代だけど、反対運動も反戦運動も起きない日本 は、もっとひどい。イデオロギー対立の時代が終わった今こそ、多くの人が共有できる価値を作り出す必要 がある。

 ただ、最後のくだりには疑義がある。
 「イデオロギー対立の時代が終わった」ということがよく言われる。しかし私は「ロシア・マル クス主義」の思想が、その誤謬を理論的にも現実的にも露わにして破産しただけのように思える。その 理論的誤謬は真摯でラジカルなマルクス学者や評論家などによってつとに指摘されていたことである。 それを現実が追確認したということに過ぎない。(その誤謬のためにどれだけ多くの人が虐殺されたこ とか!怠慢で無能な知識人は直接手を下さなくとも、大変な殺戮をやっていることになる。恥を知れ!)
 勿論「イデオロギー」という言葉で何を指すのかで認識が異なってくる。支配階級の「人間抑圧の 思想」と被支配階級の「人間開放の思想」をそれぞれ「イデオロギー」と呼ぶなら、いまは支配者のイデオロギー が一方的な暴力を振るっているが、その対立は断じて終わってはいない。 「イデオロギー対立の時代が終わった」というようなもの言いはその事実を隠蔽することになる。
 もしそうだとするなら、いま最も必要なのは、人類が陥ってしまった「支配ー被支配」という陥穽から 人類を解放するための万人に共通の「倫理」ではないのか。


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101. 詩をどうぞ(5)
2004年11月23日



 「ユリイカ・現代詩の実験」1975年12月臨時増刊号に、1975年の詐術への憤怒をしたためた詩 もう一編発見。

オオ・ノー・モア・ヒロヒト     山本太郎

20数年ニナルカ
「オレハ アナタノ名ヲ 呼バヌ」
「モウ呼バヌ」 トイッタガ
オレノ聲ハ ムロンキコエヤシナカッタ
ヒロヒト アナタノ耳孔ガ
イチドダッテ ホンキデ
オレタチノホウニ 開イテイタコトガアルカ
ホンキト絶縁ノ
ホンキモ ソンキモナイヒトノ
笑イモ 泪モシラナイヒトノ
キミノワルサヨ
キショクノワルサヨ
オレタチハ アナタニ
数エキレヌ貸シヲモツガ
アナタハ ソレヲ知ラナイ
アンコール狎レシタ役者ノヨウニ
アンコール好キノコクミンニ
カラクリノ人形ヨロシク
カグン・カクント 首フリ腕フリ
オオ・ノー・モア・ヒロヒト
イマサラニ アワレ
ナドトイウツモリハナカッタガ
「亡霊ノ名ハモウ呼バヌ」 ト
モウイチド書イテオコウ
ジプンノコトバヲ モタヌ マレビト
血ノカヨワヌ カタコトノ
アナタハ ヤハリキケンナヒトダ
ヤッパリ邪魔ダ キッパリ無縁ダ
ヒロヒト アナタハタシカニ個体ジャナイ
一系ノ妖シイ流レニ
クラゲナシタダヨエル菊ノヒトモト
象徴劇ノ カーテンコールノ
ヨク似合り遺伝保持者デ
ユラユラユラリ
パントマイムノ アヤウサニ
オイタワシヤ ト
マタゾロ ワルノリノ
拍手ガチラホラ キコエルノデ
オオ ソウサ
「アア ソウ」 ト
ヒトコト スナオニ
呟イテ 消エル
イマガ 潮ドキナノダ
 太郎さんが「イマガ 潮ドキナノダ」と書き留めてからさらに14年間ヒロヒトは居直った。 ヒロヒトの即位が1926年、1989年に死去。
 太郎さんは1925年生まれで1988年になくなられた。奇しくも昭和と呼ばれた時期とほとんど重なった 生涯だった。まだ63歳だった。



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102. 詩をどうぞ(6)
2004年11月24日



 久しぶりに山本太郎さんを思い出すことになったので、遅まきながら追悼をかねてもう一編選ぼう。
 太郎さんには「覇王紀」という長編叙事詩があり、私はその350部限定版というのを 持っている。この創作神話とも言える長編叙事詩は日本の現代詩では非常にユニークな試みだ。 その続編を心待ちにしていたのだが、いまは太郎さんなく、いまさらながらとても残念である。
 久しぶりにその「覇王紀」をひもといた。その一節を。


「覇王紀」・七のうた覇王への序曲 より     山本太郎  

「独り」を病む人間の
最も美しい症状は
集団を憧れるということだ
集団のなかでなお
独りであることの恍惚
すべての王 すべての帝王は
君同様人間のそんな特性を
家畜化の為めに活用したのだ
自分より「巨きなものに仕える」よろこび
その為めに流される血と汗に
輝かしい「意味」の勲章を授けるのは
王達の 昔も今も変らぬ詭計だ
適当な渇きと適当な授与を計量し
人間牧場(まきは)の中央で
あらゆる覇王は
「わが帝国こそ永遠」と夢みるのだ

(中略)

武力・制度そして平和は
人とともに育ったものゆえ
人とともに内側から腐ってゆく
この冷い星が劇場となる為めには
はじめ生命(いのち)の誕生が必要だった
この冷い星で幕が揚がる為めには
次に人間の登場が必要だった
家や町や国家は人とともに大きく育ち
人とともに汚れていった
優美な塀をめぐらした家の内部では愛と憎しみが
コンピューターで人民の意志を計算する市会では正と不正が
威圧的な武装をもつ国家の中枢では戦争と平和が
わかちがたく結びつき
世界を腐植土に変えていった
人間の出現以来この星は
危険な病気に憑かれているのだ
改めて問うがいい
孤独とは何か 渇きとは何かと
兵士は死にありて王の名を呼んだか
罪人は刑をうけつつ王にざんげをおくったか
その無表情 その黙殺の儀式を君は視たか
家畜化をのがれ
自分だけの「独り」を誰にも手渡さず
持去ろうとするものの最後の黙礼を君は視たか
僕は腐ってゆく肉体をみれば吐き気を催し
殺人者はまっすぐこれを憎む
神の代行者ではないから
さいわい「愛する」などといわずにすむ
王のように
愛し裁き憐れむことで
彼等を忘れてしまうわけにはゆかないのだ
彼等が世界の一部である限り
彼等の死 彼等の恐怖は僕の生と
結びついているのだ



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103. 詩をどうぞ(7)
2004年11月25日



 前回『覇王紀』の最後の6行

「王のように/愛し裁き憐れむことで/彼等を忘れてしまうわけにはゆかないのだ/ 彼等が世界の一部である限り/彼等の死 彼等の恐怖は僕の生と/結びついているのだ」

を受けて。



『二度死んだ男たちへ』から

    要約せざるもの    田村隆一

きみは
戦中派についてつぎのごとく四つの命題をあげる−−
一、自分自身の生命と戦争とが必然的に密着していた事。
二、戦争の悲惨さの実感。
三、戦争目的に関する相対主義。
四、敗戦意識と戦争の挫折感。
昭和二十年三月十七日、琉黄島の陸海軍の守備隊が全滅したとき、
きみは戦艦大和の電信士だった。
まるで硫黄島の全滅と期を一つにして、
きみの船艦「大和」は沖縄にむかって出航する。
戦後、きみの証言と行動には、きわめて重要なふくみがある −−
「いっさいの要約を拒否するのが、戦中派
 の発想の特色であろう。これまで
 に述べた四つの命題は、
 要約されることよりも、
一つの基本的な姿勢の中に生かされることを
 待っているにちがいない」
では、一つの基本的な姿勢とは何か?
「戦争の悲惨さの実感に徹する以上は、
 自分だけが戦争から
 身を避けようとする姿勢ではなくて、
 自分の生活の中から平和″に
 相反する行動原理を駆逐すること、
 何よりも
 人間(ヽヽ)>を尊重し、
 人間(ヽヽ)>の生活の重みをいつくしむこと、
 そのことのために、
 地道な
 潜心が積み重ねられなければならない」

きみの葬儀は
東洋英和女学院の
マーガレット・クレイグ記念講堂で行われた

ぼくは電報を打った −−
「チカクオメニカカリタカツタノニ」「デハ」
「イツカマタ」 タムラリユウイチ

二度死んだ男たちよ
ぼくはぼくの「死」を大切にしたいと思う。
要約されざるものよ、
また逢う日まで。
   (「ユリイカ・現代詩の実験」1979年11月臨時増刊号より)


 「二度死んだ男」の一度目の死は、言うまでもなく、敗戦のときである。天皇の命による 聖戦を信じ真摯に戦ったものほど、「昭和」をのっぺらぼうに生きることが出来なかった。
 だから二度目の生も真摯たらざるを得なかった。

 自分の生活の中から平和″に
 相反する行動原理を駆逐すること、
 何よりも
 人間(ヽヽ)>を尊重し、
 人間(ヽヽ)>の生活の重みをいつくしむこと、

  私はこの基本姿勢を心底から肯うが、自らを振り返り、「自分の生活の中から 平和″に 相反する行動原理を駆逐すること」の言うは易く行うに難いこと痛感している。

 いらぬ注釈かもしれないが、二度死んだ男・「戦艦大和の電信士」とは 「戦艦大和ノ最期」の著者・吉田満氏である。1979年逝去。

 田村隆一氏は1998年に亡くなられた。青年時代、私が熱心に読んだ詩人のひとりだ。私が恩恵を 受けてきた人が次々に亡くなられる。


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104. 詩をどうぞ(8)
2004年11月26日



 ブッシュの軍隊によるイラクでの虐殺が続いている。

 第2次大戦下、アメリカ軍の無差別爆撃で焼け野原となった東京、 残虐な原子爆弾で一瞬にして灰燼と帰した広島・長崎が二重写しになる。

 東京の無差別爆撃は1945年3月10日に始まった。
 3月19日付・朝日新聞の一面見出し「畏し、天皇陛下戦災地を御巡幸」「焦土に立たせ給ひ御仁慈の大御心」  大達内相謹話「聖慮に唯感泣」
  なんと醜悪な構図。ヘドだ!!

 五月二十三日夜、アメリカ空軍の空襲で原宿の家が一冊の書物みたいに、 あっけなく焼けあがった。五月二十五日夜、寄寓先きの四谷左門町のお寺の 離れが、同じくアメリカ空軍の空襲で焼けた。逃げ出したとき、わたし と母は炎の海のただなかに取り残された。手と手をにぎりあって、炎の海のな かを走った。どこまでも走った。掌がずり落ちた。わたしだけが、なおも走った。 わたしは母を置き去りにした。わたしは、わたしを生んで育ててくれた母を殺した……
(「現代詩文庫・宗左近詩集」(思潮社)所収「わだつみの一滴」より)
 宗さんは母親を見殺しにした自分を見つめ続ける。それをヒロヒトのように「忘れてしま うわけにはゆかないのだ」
 宗さんは母への鎮魂と自己処罰の書、約100編の詩よりなる300ページ余の長編詩「炎える母」を書く。
 しかし、たぶん、宗さんの心は、その真摯な営為にもかかわらず、なお慰撫されてはいまい。



『炎える母』第6章「サヨウナラよサヨウナラ」から

     サヨウナラよサヨウナラ 3     宗 左近   

見えている炎の海はたちさったけれど
見えない炎の海があふれかえっているのだから
炎えつづけて炎えやまない母だから
炎されつづけて炎されやまないわたしだから
この炎えている炎えあがってくる白い現(うつつ)に
サヨウナラはないサヨウナラはいいえない

   のびあがり
   身をよじり
   ひるがえり
   うねり
   くねり
   ねじれ
   まがり
   波だち
   たぎり
   湧きたち

炎えつづけて青く炎えやまない母だから
焦げつづけて赤く焦げやまないわたしのなかの母だから
サヨウナラはいいえないサヨウナラはない

   うめき
   うなり
   さけび
   泡をふき
   くいちぎり
   くるめき
   歯がみし
   あえぎ
   もだえ
   波だち

見えている炎の海はたちさったけれど
見えない炎の海があふれかえっているのだから
サヨウナラはないサヨウナラはいいえない
ああ炎えあがり炎えあがりつづける母だから
わたしのまるごと垂直に常に吸いあげられてゆきかねない
この白すぎる朝を焼きおとすために
この光りすぎる中空を煙らせるために
サヨウナラはいわないサヨウナラはいいえない
わたしは炎されつづけてゆかなければならないのだから
サヨウナラぐるみ炎していったもののためにわたしは
サヨウナラぐるみ炎されつづけてゆかなければならないのだから
懐かしい母の乳房の匂いのする
サヨウナラはないサヨウナラよサヨウナラ
幼い日の夕焼けの染めている
サヨウナラはないサヨウナラよサヨウナラ

(「長編詩・炎える母」(彌生書房)より)



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108. 詩をどうぞ(9)
2004年11月30日



 主人と奴隷の中間にいる者たちは、弱者に対しては主人と同じ心性をまねて 暴虐をいとわず、主人に対しては奴隷根性まるだしで媚びへつらう。中間者は 傲慢と卑屈を使い分ける心性を脳髄に刻み付けてきた。

 支配者の虚勢は被支配者への猜疑心と恐怖心を悟られまいと押し隠す。しかし 中間者=支配者の手先は忠誠心の証として、猜疑心と恐怖心をあからさまに表出する。



「不作法者」抄   中江俊夫

お前のおならは
法と秩序に対する挑戦であり
問題点を充分検討し
警備の万全を期したい
県警本部長が言った

お前のおならには
騒乱罪の適用に踏みきるか
思いきった立法で対処するか
慎重に検討し もちろん現行法規も最大限に活用する
国家公安委員長が言った

お前のおならは
国民に不安を与え 不信を抱かせ
国際社会からも批判を受けており
深く遺憾とする
首相が言った

お前のおならには
今度こそ絶対安全という状態で
長期にわたる警備体制をとり
抜本的な対策を練る
所轄警察署長が言った

お前のおならは
凶悪な過激臭と化した
これまで拳銃を携行しなかった機動隊員にも
拳銃の使用を許可するよう政府に要請した
警察庁長官が言った

お前のおならには
威嚇と抵抗抑止の目的で断固として
自衛隊の出動も考慮する
それが国民全体の期待にこたえることになる
防衛庁長官が言った

   (「ユリイカ・現代詩の実験」1978年10月臨時増刊号より)


 素晴らしさと愚かさを兼ね備えているのが人間さ、としたり顔で 分かったふうな御託はたれたくない。人間の歴史は、総じて、殺戮と愚行の オンパレードだ。それが人間だと言うのなら、一段高い別の生物に進化しない限り人間に 未来はない。

 「不作法者」よりもう一連。


うじ虫や
めだかだけが残る
人間は誰一人生き残りはしない
糞虫や
かなぶんぶんだけが残る
人間は誰一人生き残りはしない
鍬形虫にも読める(くねぎ)文字で書いておこう
人間どもの碑文をあと少々



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135. 詩をどうぞ(10) 追悼・石垣りん
2004年12月27日



 朝刊に詩人・石垣りんさんの訃報が載っていた。

 若い頃に精神の糧を頂いた方々がぽつんぽつんと逝かれる。その度に 奥深く埋もれ忘れていたその頃の若いこころがそっと蘇えって、今のこころに 苦いものを残してまた埋もれていく。そして私は否応なく私自身の残された生死 に思いをいたす。

 時代は主観的に裁断される。私は今を時代の大きな転換期だと裁断している。

 新聞には茨木のり子さんが追悼の言葉を寄せている。石垣さんの最高傑作として「崖」を あげていらっしゃる。
 「崖」と、このホームページのテーマと重なる部分のある詩を2編選んでみた。


 

戦争の終り、
サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。

美徳やら義理やら体裁やら
何やら。
火だの男だのに追いつめられて。
とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)

それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。



 愚息の国

あなたはどなたでいらっしやいますか。

ロケットが、もう月の世界にとどいている
一九六〇年の一月一日
新聞をひらけば
我が子を「日の御子」と呼んで
その結婚をことほぐあなたの歌がのせられている。

元来つつしみ深い日本の庶民たちは
賢い子供も愚息と呼び
トン児などと言い捨ててきた。

正月気分で街に出れば
年令はこの国の皇太子がらみ
丈高く面影うつくしい若者がいて
片手に大きなプラカードを持ち
さあいらっしやい、遊んでらっしやい
おたのしみはこちら。

指さす戸口にはパチンコ屋の騒音が
チンチンじゃらじやらとあふれでている。
これはどなたの御子、か。

晴着を持たないひとりの女が外から帰り
すり切れた畳の部屋で
「ついこの間
一杯の塩もない新年があった」
と呟きながら
餅焼網で餅を焼けば
白い餅よりもたしかな手ざわりで
喜びはかなしみに
愛はいかりに 裏返され。

しかも家族はめでたくて
地続きに住む雲上人の御慶事に
目を輝かせているばかり。

日、とは抽象。
御子、は尊称。

そこぬけに善意の御方とうかがえば
善とは何でありましょう。

あなたはどなたでいらっしやいますか。


 弔詞
  職場新聞に掲載された一〇五名の
  戦没者名簿に寄せて

ここに書かれたひとつの名前から、ひとりの人が立ち
 あがる。

ああ あなたでしたね。
あなたも死んだのでしたね。

活字にすれば四つか五つ。その向こうにあるひとつの
 いのち。
 悲惨にとぢられたひとりの人生。

たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。
 一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合って、
 ドブの中で死んでいた、私の仲間。

あなたはいま、
どのような眠りを、
眠っているだろうか。
そして私はどのように、さめているというのか?

死者の記憶が遠ざかるとき、
同じ速度で、死は私たちに近づく。
戦争が終って二十年。もうここに並んだ死者たちのこ
 とを、 覚えている人も職場に少ない。

死者は静かに立ちあがる。
さみしい笑顔で
この紙面から立ち去ろうとしている。忘却の方へ発と
 うとしている。

私は呼びかける。
西脇さん、
水町さん、
みんな、ここへ戻って下さい。
どのようにして戦争にまきこまれ、
どのようにして
死なねばならなかったか。
語って
下さい。

戦争の記憶が遠ざかるとき、
戦争がまた
私たちに近づく。
そうでなければ良い。

八月十五日。
眠っているのは私たち。
苦しみにさめているのは
あなたたち。
行かないで下さい 皆さん、どうかここに居て下さい。



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142. 詩をどうぞ(11)
2005年1月3日(月)



 前回のテーマを詩で読んでみる。もちろん、胸に《反対》の赤き烙印を押された漂泊の 詩人・金子光晴だ。「反対」と「おっとせい」


   反対

僕は少年の頃
学校に反対だった。
僕は、いままた
働くことに反対だ。

僕は第一、健康とか
正義とかが大きらひなのだ。
健康で正しいほど
人間を無情にするものはない。

むろん、やまと魂は反対だ。
義理人情もへどが出る。
いつの政府も反対であり、
文壇画壇にも尻をむけている。

なにしに生まれてきたと問はるれば、
躊躇なく答えよう。反対しにと。
僕は、東にゐるときは、
西にゆきたいと思ひ、

きものは左前、靴は右左、
袴はうしろ前、馬には尻をむいて乗る。
人のいやがるものこそ、僕の好物。
とりわけ嫌ひは、気の揃ふことだ。

僕は信じる。反対こそ、人生で、
唯一つ立派なことだと。
反対こそ、生きていることだ。
反対こそ、じぶんをつかむことだ。



  おつとせい

一
そのいきの臭えこと。
くちからむんと蒸れる。

そのせなかがぬれて、はか穴のふちのやうにぬらぬら
 してること。
虚無(ニヒル)をおぼえるほどいやらしい、
おお、憂愁よ。

そのからだの土嚢のやうな
づづぐろいおもさ。かつたるさ。
いん気な弾力。
かなしいゴム

そのこころのおもひあがつてること。
凡庸なこと。


菊面(あばた)。
おほきな陰嚢(ふぐり)。

鼻先があをくなるほどなまぐさい、やつらの群集にお
 されつつ、いつも、
おいらは、反対の方角をおもつてゐた。

やつらがむらがる雲のやうに横行し
もみあふ街が、おいらには、
ふるぽけた映画(フイルム)でみる、
アラスカのやうに淋しかつた。


二
そいつら。俗衆といふやつら。

ヴォルテールを国外に追ひ、フーゴー・グロチウスを獄
 にたたきこんだのは、
やつらなのだ。

バタビアから、リスボンまで、地球を、芥垢(ほこり)と、饒舌(おしゃぺり)で
かきまはしてゐるのもやつらなのだ。

(くさめ)をするやつ。髯のあひだから歯くそをとばすやつ。か
 みころすあくび、きどつた身振り、しきたりをやぶつ
 たものには、おそれ、ゆびさし、むほん人だ、狂人(きちがひ)だ
 とさけんで、がやがやあつまるやつ。そいつら。そい
 つらは互ひに夫婦(めうと)だ。権妻だ。やつらの根性まで相続(うけつ)
 ぐ忰どもだ。うすぎたねえ血のひきだ。あるひは朋党
 だ。そのまたつながりだ。そして、かぎりもしれぬむ
 すぴあひの、からだとからだの障壁が、海流をせきと
 めるやうにみえた。

おしながされた海に、霙のやうな陽がふり濺いだ。
やつらのみあげるそらの無限にそうていつも、金網(かなあみ)があ
 つた。

…………けふはやつらの婚姻の祝ひ。
きのふはやつらの旗日だつた。
ひねもす、ぬかるみのなかで、砕氷船が氷をたたくのを
 きいた。

のべつにおじぎをしたり、ひれとひれとをすりあはせ、
 どうたいを樽のやうにころがしたり、そのいやらし
 さ、空虚(むな)しさばつかりで雑閙しながらやつらは、みる
 まに放尿の(あわ)で、海水をにごしていつた。

たがひの体温でぬくめあふ、零落のむれをはなれる寒さ
 をいとうて、やつらはいたはりあふめつきをもとめ、
 かぼそい声でよびかはした。

三
おお、やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よ
 りくらい、やつらをのせたこの氷塊が、たちまち、さ
 けびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめる
 のを、すこしも気づかずにゐた。
みだりがましい尾をひらいてよちよちと、
やつらは氷上を匐ひまはり、
………文学などを語りあつた。

うらがなしい暮色よ!
凍傷(しもやけ)にたゞれた落日の掛軸よ!

だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろ
 へて、拝礼してゐる奴らの群衆のなかで、
侮蔑しきつたそぶりで、
ただひとり、
反対をむいてすましてるやつ。
おいら。
おつとせいのきらひなおつとせい。
だが、やつぱりおつとせいはおつとせいで
ただ
「むかうむきになつてる
おつとせい」



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158. 非暴力直接行動(4)
三里塚のこと
2005年1月19日(水)


 30年ほど前に、私は次のような詩のようなものを書いた。


 母の沈黙 あるいは ふるさとのありか

地の中に眼がある
拒むこと以外に 死を
死に続けるすべをもたない移しい屍体の。
腐蝕し土と化した肢体の痛みを
一点に凝縮して腐蝕を拒み
あらゆるモニュメントを拒み
歴史へのいかなる記載をも拒み
数であることを拒み
大きく見ひらかれたまま
閉じることを拒み
無駄死を強い続ける卑小な生者のための
奈落への心やさしい道づくり。
数千年の眼孔の堆積は巨大な穴となり
ふるさとの墳墓
あるいは忿怒は増殖する。

〈ふるさともとめて 花一匁〉

  〇 〇 〇 〇 〇 〇

戦闘宣言
 みなさま、今度はおらの地所と家がかかるで、おらは一生け
ん命がんばります。公団や政府の犬らが来たら、おらは墓所と
ともにブルドーザの下になってでも、クソぶくろと亡夫が残し
て行った刀で戦います。
 この前、北富士の人たちは、たった二十人でタイマツとガソ
リンぶっかけて戦っただから、ここで三里塚反対同盟ががん張
れねえってことはない。ここでがん張らにゃ、飛行機が飛んじ
やつてしまうだから。
 おら七つのとき、子守りにだされて、なにやるたって、ひと
りでやるには、ムガムチューだった。おもしろいこと、ほがら
かに暮したってことなかったね。だから闘争が一番楽しかった
だ。もう、おらの身はおらの身であって、おらの身でねえだか
ら、おら反対同盟さ身預けてあるだから、六年間も同盟や支援
の人達と反対闘争やってきただから、だれが何といっても、こ
ぎつけるまでがん張ります。みなさんもー緒に最後まで戦いま
しょう。


一九七一年。小泉よね。六十三歳。
 よねさんは最下層の貧農に生れて、七つの時に年貢代りに地主の
家へ子守りに出され、年ごろになると料亭づとめに出た。だからほ
とんど字が読めない。敗戦直後、夫を病で失う。子供はいない。二
アールほどの田を耕し、近所の農家の手伝いをしてほそぼそと暮し
てきた。おかずがなく、ご飯に塩をかけて食べたこともあったとい
う。
 成田空港反対闘争を通して、よねさんは得がたいものを得た。
「貧者」へのあわれみと軽蔑でしか接してくれなかったこれまでの
周囲の者にくらべ、新しい仲間はまともにつき合ってくれた。六十
余年の人生でそれはおそらく初めての経験だった。九月初め、よね
さんの「戦闘宣言」が垣根の上に立てられた。
 人民の虐殺と共同幻想の操作とをセットにした巧みな戦術が国家
権力がその延命をはかるための常套手段である。成田の第二強制執
行は警察官三名死亡、学生一名瀕死の重傷という犠牲を強いて完遂
された。日常を覆っている平和という幻想のべールがひととき破れ
て、日常的なジェノサイドの進行が露呈する。昭和の十五年戦争を中
心とする〈自らのものでない死〉の列は今なお連綿と続いている。
 第二強制執行で残されたよねさんの家は、流血をさけるためとい
う名目で、予定を繰り上げて抜き打ち的にとりこわされた。よねさ
んの家は土間と六畳一間、押入れだけの掘立小屋のような母屋であ
った。借地に住んでいたよねさんの補償金は八十万円たらずだとい
う。これはかけがえのない一人の全生涯の掠奪である。欺瞞にみち
た言葉しか持たない支配者らの口もとに卑しいうすら笑いがうかん
でいるのを、そのときぼくは確かに見た。
(後略)



 水田ふうさんの文章を読んでいたら、小泉よねさんの養子になった方の消息を伝える文に出会った。 それで30年ほど前に書いた自分の文を思い出した次第だ。
 この文を書いた頃は、もちろん、「非暴力直接行動」という言葉もその理念も知らなかったが、 よねさんの闘いは文字通り「非暴力直接行動」なのだった。

「テロにも戦争にも反対」とはいいたくない 水田ふう

 三里塚の小泉くんとみよちゃんが野菜を毎月送ってくれる。  「循環農場」いうて、農薬や科学肥料やビニールや輸入の種やをいっさい使わず、天の恵みの うちに土やいきものの循環する生命力でものをつくろうとしている現代まれなる百姓や。

 今月の野菜といっしょに入ってた「循環だより」に「ぼくたちの生活の本拠である東峰地区は 成田空港の暫定滑走路(2002年4月開港の予定)の真下にあたります。わが家の上空40mを、飛行 テストの飛行機が金属音をたてて襲来します。これは音の暴力です。力づくで空港をつくってきた ことを、深く反省したはずの政府のやることとは思えません。……」とあった。

 みよちゃんと小泉くんは、70年頃から三里塚にはいって、強制代執行でブルトーザーで土地を奪わ れた小泉よねさんの夫婦養子になってもう30年。ずっと百姓を続けてる。その「循環農場」は最後数 軒残った空港予定地や。

 2人にとって政治的な取り決めや、政府との談合や買収は無用な介在物や。妨害があろうとなかろ うと、世間から忘れさられようと、厳然と自分自身の手で自分のつくりたいものをつくる。それがそ のままで、くらしと密着した闘い――直接行動――なんや。
 そして最後の1軒になっても、再び機動隊やブルトーザーが襲いかかってきても、もくもくと耕作 の手を止めないやろう。

小泉くんの30年まえの詩にこんなのがある

すわりこむことは
ごみのひくさにちかづくことだ

(中略)

 三里塚で騒音やはりめぐらされた鉄条網や、機動隊の検問やらのなかで、30年も百姓を続けてきた 小泉くんたちの、そのやわらかなしかも不屈な意志と実力は非暴力直接行動の自覚こそにある、 とわたしは思ってるんや。(2人はこんな角張ったことばからはほど遠く、もっとふつうで、淡々 としてるんやけど)
 養子の小泉さんは、よねさんが貫いた「非暴力直接行動」をも引き継いでしなやかに生きている。 生きていることそのものが「非暴力直接行動」となっている。


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161. 詩をどうぞ(12)
2005年1月22日(土)



 追う者  長谷川龍生

アメリカの家庭に
戻り住んでいるか
あの太平洋の島にいるか
おまえを、探しだしたいのだ。
あのとき、島の基地から
いつ飛び立ったか
おまえのネームは、何んというか
あい乗りしていた飛行士たちは
だれとだれとだれだったか
八月六日 朝の九時半だ
日本広島の上空から
第二号の原子爆撃をやりとげ
何十万の人間たちを一瞬にして
光の中に焼け爛れさし、殺し
巻雲をこえて、ゆうゆうと帰路についた。
おまえたちは祝杯をかざした。
つよい酒は溢れていたか、濁っていたか。
戦争だからと、すべてを打消し
大いなる戦果に酔い痴れていたか
せつに探しだしたいのだ
おまえたちはだれとだれだったか
なぜに魂をふるわす行動にでたのか
そうだ、おまえたちは命令という
だれが命令したのか、いかなる人物か
いかに命令が伝達されてきたのか。
その上官もいうだろう
絶対であり、服従しなければならぬと
飛行士たちと上官をつれて
その絶対者を探し究めよう
おまえを支配していた奴のネームは
その権力の手はだれとだれだったか
権力者をつれて探しだすのだ。
作戦本部がだれとだれとだれかと
さらに深く掘り下げて、追っていく
いっさいを操っていた上部機関は
だれとだれとだれだったか、そのネームは
長官もいる 将軍もいる 技術家もいる
背後にある資本家、戦争科学者のネームは
だれとだれとだれだったか。

おまえたちには
罪の意識すらなし
アメリカの各州には
幾万のチャーチがあり
原爆の跡にもチャーチが建ったが
おまえたちの暴力はさらにつよい
おまえたちは原子爆弾を
第二号、第三号、第四号と
つぎからつぎへと命令し
命令されたものが命令し
最後にえらばれた数名のサディストが
おまえたちの利潤、ひたすらな利潤のため
おまえたちの市場をひろげようと
機上の人となり、何十万の人間を殺す。

だが、おまえたちは
矛盾におちいっている。
人間を抹殺できない
俺たちを抹殺できない
俺たちとは、だれか
俺たちとは追う者、追いかける者だ。
おまえたちの犯した事実を血まつりにあげて
おまえたちの生涯を審判する者だ。

生きのこつた広島の人たちよ
いたずらに傷ぐちをみせて
嘆いてはだめだ。泣いて訴えるな
だれとだれとだれだったか
探しだし深く掘りさげて
人民の犯罪者を発見しよう
殺されても、八ツ裂きにされても
俺たちの追いかける歴史はつづく
歴史はつづきながら、だんだんと
追う者の数は大きくなり
鋭くなり、優れてくる
そして最後に審判する。

俺は追う者
俺たちは追いかける者
呪いの火を噴きかける者。

「現代詩文庫・長谷川龍生詩集」より

 前回の続きのつもり。

 私たちの頭上に落とされる不条理は、人を瞬時に無残に殺す爆弾だけとは限らない。  大杉栄が列挙していた。

 政治! 法律! 宗教! 教育! 道徳! 軍隊! 警察! 裁判! 議会! 科学! 哲学! 文芸!   その他一切の社会的諸制度!!

 私たちの頭上にはそれらから発せられる弾圧・抑圧という爆弾が日常的に撃ち落とされている。 私たちは優しく緩慢に殺されるジェノサイドの員数なのだ。
 だがやはりこう言おう。

だが、おまえたちは
矛盾におちいっている。
人間を抹殺できない
俺たちを抹殺できない
俺たちとは、だれか
俺たちとは追う者、追いかける者だ。
おまえたちの犯した事実を血まつりにあげて
おまえたちの生涯を審判する者だ。



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165. 詩をどうぞ(13)
2005年1月26日(水)


 天皇制または天皇を題材にした茨木のり子さんの詩をまた一つ発見した。
 毎度ながらまことに平易な言葉を矢にして、素材の奥底までを射抜く眼差しは諧謔と風刺 の余裕を研ぎこんで鋭利。実に美味です。

 系図  茨木のり子

子供の頃に
叩きこまれたのは
万世一系論
くりかえしくりかえし
一つの家の系図を暗誦
それがヒストリイであったので
いまごろになってヒステリカルにもなるだろう
一つの家の来歴がかくもはっきりしているのは
むしろ嘘多い証拠である
と こっくり胸に落ちるまで
長い歳月を要したのだ

何代か前 何十代か前
その先は杳として行方知れず
ふつうの家の先祖が もやもやと
靄靄と煙っているのこそ真実ではないか

父方の家は 川中島の戦いまでさかのぼれる
母方の家は 元禄時代までさかのぼれる
その先は霞の彼方へと消えさるのだ
けれど私の脈搏が 目下一分間七十の
正常値を数えているのは
伊達ではない

いま 生きて 動いているものは

()べて ひとすじに 来たるもの
ジャマイカで加排の豆 採るひとも
隣のちいちゃんも
昔のひとの袖の香を芬芬と散りしいて
いまをさかりの花橘も
きのう会った和智さんも
どういうわけだか夜毎 我が家の軒下に
うんちして去る どら猫も
ノートに影 くっきりと落し
瞬時に飛び去った一羽の雀も
気がつけば 身のまわり
万世一系だらけなのだ
「ユリイカ」(1973年5月号)より



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182. 詩をどうぞ(14)
2005年2月11日(金)



 今日は時間がとても窮屈になりました。「憲法」は一休みします。 (東京新聞も「点検」は休載でした。)
 息抜きにならないような息抜きの詩です。


 ルネサンス1973      北村太郎

なぜまじめな顔するんだゆったりした服を着るんだ
ユーモアがへたなんだ大声でしゃべらねえんだ
パイプなぞふかしやがって玉の井なんか軽蔑してたくせに
人はだれの代弁もできねえんだ分っちゃいねえんだ

おめえたち四百年まえとちっとも変らねえってことが
残虐でオポチュニストで色情狂で偽善者でそれもいいが
すぐ「まさに」といって断定するんだ民衆の側に立つんだ
資料をそろえるんだたくさんの (注)をつけるんだ

静かに平和に暮らしたいと平然といい閉口させるんだ
罪ふかいことばってことも飲みこめねえんだ安全株を買うんだ
いんちき正義のロジックで時評をでっちあげるんだ
車裂きの刑や北爆よりひでえことしてると

ぜーんぜん気がつかねえんだそのくせルネサンスを謳歌して
マキアヴュッリを認めねえんだ権力分裂がいいとぬかすんだ
カトリーヌ・スフォルツァにも及ばねえんだレオナルドに目が眩むんだ
てめえの胸にあるのに見えねえんだ微笑しているときにもそれがあるのに

地獄がだよう! そしてジュスイコミュニストとかジュテ反体制とか何だとか
「まさに」公害な法外な無の無の善人づらしやがるんだそして
死ぬときは殉じてるつもりなんだばかめ! 玉の井の
心中よりずっと陰惨だよだから乱ちきランボーが腐った足を切断されて断末魔が

ひゆ一つと音を立てて訪れるのに魅力を覚える若者がいたって
文句はいえねえんだせいぜい当たらねえ経済分析でもやってりゃいいんだ
絶対するな価値判断をジレンマトリレンマが解けたって
一律背反も知らねえで大口たたくな死体の臘のなみだやろうめ!
「ユリイカ」1973年3月号より

 田村隆一が北村太郎の詩について的確な解説をしている。
 太郎は「不良少年の夜」という詩を連作しつづけてい た。つまり、白昼は、まじめで、よく勉強のできる商業 学校の生徒、(事実、彼は、全学年を通じてほとんど級長 をしていた)夜は、ゲタばきにジャンパーというスタイ ルで、浅草の六区、つまり、活動写実小屋や漫才、ドジ ョウすくいの演芸場が建ちならんでいるカイワイや、最 低の売春婦やオカマが出没する浅草公園をハイカイして は、ゴールデン・バットをふかしながらリリックを書い ていた。これが「不良少年の夜」。つまり、太郎は、少 年から青年にうつる、あの、肉体的にも情緒的にも、い ちばん不安定な時期に、昼と夜の、確固とした二つの世 界を所有していたことになる。ぼくなどは、いたって単 純だったから、いまだに、昼でも夜でもない、ノッペラ ボーの一つの世界しか持つことができない。北村太郎の 詩を読むものは、その根底に、昼と夜の世界が、同時併 存していることを、見きわめなければならぬ。
現代詩文庫「北村太郎詩集」所収・田村隆一「太郎意の昼と夜」より



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183. 詩をどうぞ(15)
2005年2月12日(土)




 教師論

陰湿な王族の歴史の中でまどろむ君の
支配者もどきの虚偽意識が
したり顔にうなづくたびに
流れない時間のよどみからはみでる君の生徒
の肢体が切断され
流れない時間のよどみの中で生きる君
の平穏無事な日常が保障される
他者の生の一回性を代償に
保障される君の日常とは何か
出生届と交換に与えられた
御墨つきのライフサイクル
それで君にどんな生きがいが残った?
ペラペラの人生予定書を海に捨てれば
難破船の破片のように
海底に堆積する切断された肢体の山
と山の間に宙づりになった平和の深部から
あぶり出される君
のライフサイクルの最後の一行
          
 <君は暖く緩慢な大量殺戮(ジェノサイド)の員数>
君の日常はおだやかな生かされ死

狂いうるものがいるかぎり
この世は生きるに値する
日常化された集団狂気の中で
狂うとは正常に醒めきること
君になお狂いうる孤立があるか
ライフサイクルの最後の一行を
<固有の死>に書き換えるために
まず狂うこと
他者を切断する快楽の共有を拒み
自ら切断される側に立て
君の肢体が切断されるとき
君は得心する
切断の痛苦は叛逆の支点 と
虚偽意識にもたれた君の胃に
痛苦の悲鳴を千回のみくだした後
君の支配者もどきは解体する
すると君の日常はいきなり
春から冬へと変貌する
君がのみくだした千回の苦しい沈黙は
入念に教え込まれた規範のことばを破って
正当にくるいざく
君の沈黙は凍ったことばの花ふぶき
流れない時間のよどみに
君の狂気が垂直につきささる
とおもむろに流れだす君の固有の時間
固有の死への君の道行が始まる
君の生徒
と 君と
同行
二人



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205. 詩をどうぞ(16)

2005年3月7日(月)



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205. 詩をどうぞ(16)

2005年3月7日(月)




犬      嶋岡 晨

T
尻尾はあるか
と振り向いてみなくてもいい
他人のさし出す汚ない手を
なめたくなったらきみはもう
犬だ

あやしげなことばの煮汁をぶっかけた
人生の残りものに涎をたらし
無意識に尻尾をふったときから
きみは首輪と鎖の従属物だ

ああ 変身はこんなにかんたんだ

かつて枯れ枝のように折って燃やした
あの夢の地平線にむかって
せいいっぱい遠吠えするがいい
きみの「故郷」は
飼い主のなかにもないのだから。


U
ぼくがこんなにいそがしげに尻尾をふり
きみたちの慈愛に甘えるからといって
ぼくの口がこんなに深く裂け
裏切りの牙を光らせ
しかもいじけた乞食の目をもってるからといって
ぼくを犬だときめつけないでほしい

ほんとうはぼくは
少しばかり毛深すぎ
みずからの動物性に忠実に
地面にへばりつくのが好きなだけだ

いやいやそんなに深刻に
考えないでほしい
きみたちとぼくが
生活の場を共有しているからといって
それほど関心があるわけじゃない
つまり「主従関係」や「家庭の事情」に
あるいは時代のいやな匂いに……

ぼくはただ
やむをえず犬の肉体を借りている
つややかな「自己愛」にすぎない
ときに
非人間的な疾走によって
センベイみたいな太陽にとびかかり
雲だらけになって帰ってくる
ささやかな「自由」のもちぬしにすぎない。

(「ユリイカ1974年6月号」より)


 もれ聞くところによると、最近都立高校ではイシハラ犬とかトキョウイ犬とか、権力・権威 の薄汚れた手をよだれを流しながら舐めている犬が増えているとかいうことです。もう一つ下の 科で分類するとコウチョウ犬・フクコウチョウ犬・シュカン犬・シュニン犬とかがあるといいます。 フクコウチョウ犬・シュカン犬・シュニン犬というのは新種でしょうか。私ははじめて知りました。 そういえばキョウトウ犬というのは絶滅したのでしょうか。
これらの犬は総称して奴隷犬と呼ばれているそうです。奴隷犬は奴隷根性でヤニだらけになった 牙をむき出して、かっての自分の同胞に威嚇のうなり声を浴びせているそうです。そして、盗人 にも三分の理、いや、犬にもドッグの理ありと、あのヒットラー犬・アイヒマンの言い訳を密かに翻 訳しているということです。
 いま都に増殖している奴隷犬の生態の一例でも紹介できればよいのですが、今日はこれにて 失礼します。ごきげんよう。


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279 詩をどうぞ(17)
透谷賛歌
2005年5月23日(月)



 久しぶりに詩をどうぞ。
 前回、最後に北村透谷にふれました。つたない自作を思い出しました。それと、もう一つ、もっとも深く 透谷を理解している思われる詩人・北川透さんの作品。


  他界へ
   (1994年透谷没後100年によせて)

  風がとぶ
  風がなる

  花がのる
  鳥がのる
  風にのる
  月がのる

  薄明の近代を
  森羅万象を吹き散らして
  早すぎたひとつのポエジーがとぶ

   『実を忘れ肉を脱し人間を離れて』
   風がとぶ

   『空を撃ち虚を狙い空の空の空を撃ち』
   風がなる

   ついに『人生に相渉るとは何の謂ぞ』
   透谷はとぶ

   1894年5月16日 拂暁(ふつぎょう)
   一六夜の月が砕け散る
   必敗の闘いを敗れて
   透谷
   縊死(いし)
   二十五歳
   『わが死のかたはらに一点の花もなかれよ』

  1994年
  一世紀を一瞬に越えて
  透谷がとぶ
  空の空の空から
  世紀末の『楽き娑婆世界』を睥睨(へいげい)する
    〈幸福になりたい奴は〉
    〈おれに近づくな〉

  心を病む心の
  わが空洞を
  風がとぶ
  風がなる

  心を病むわが心を
  鋭く切り裂いて
  透谷のかなしみが
  疾走する

  花がのる
  鳥がのる
  風にのる
  月がのる

  森羅万象を吹き散らして
  透谷がとぶ

  他界へ



「北村透谷試論V・<蝶>の行方」より

序詞 塵と登高――透谷を想う断章   北川 透

(あわれ塵の子!)
その空中からの不吉な声に抗して
くらい自閉の部屋からぬけでたのは誰か
蛇行する急坂の論理に
ひくい軒並みは波打ち 噛み合う
狂った性悪女を求めてさまよう者は
路上の夢に倒れ
捨てられた嬰児たちは東に西に疾走する
浮遊する鉄輪の軌みや
反り返った扉の咆哮は
秩序を求める 天の声や
地の声を
圧した

あれは1962年の春だったか
秋だったか
眩暈する中心に 火の車は燃えつき
黒い残骸が人々の胸廓を埋めた
戦いが敗れたとき なお勝者たる者は
敗れた者が
勝つことのない戦いをはじめている
やさしさが視えない とつぶやいて
みすぼらしい砲車を ひとり
挽きはじめたとき
おまえのことばは
通交圏を失った
(楚囚はるかなる!)

十年は一日のごとく
二十年は半日のごとく
九十年は夢のごとし
いつまでも若い〈夢中の詩人〉に嫉妬する
おまえの詩行はきょうも発熱する
いま敗れた者は地を払い
勝者たちが声高に語る日
(おお 外面に歓声を聞く者よ
 裡面に血涙の滴るを視よ!)
おまえは内部の 小さな砦を恥じて
出撃する ぺンより細い兵士
否認がしずかな意志となる
幻の 桑野原へ

幾度か鞋の紐をゆいほどき
過激に駆け抜けていった 移動の世紀を
(今は汽笛ー声 新宿を発して……)
ついに幻境は遠く 蒼海ははるかに
おまえは何度でも視よ
あの人が空なる斜面への
恐るべき登高の果てに開いた 風土の獄を
炎上する近代の都市文明を
(思い極めて いざ一躍!
 奈落の真中に……)
蓬莱の高きが故に 幾世紀を貫いて
落下する 末期の眼に
われらの廃墟は どんな憤りの
芽を吹くか

五月の未明を怖れよ
十六夜の月は
血よりも赤い

    註1 いまから九十年前の1887年夏に、透谷は「一生中最も惨憺たる一週間」
              及び「夢中の詩人」を書いた。
     註2 透谷が縊死を遂げたのは、1894年5月16日払暁のことであった。

「おまえは内部の 小さな砦を恥じて 出撃する ぺンより細い兵士 否認がしずかな意志となる」と 書き写していたとき、「日の丸・君が代」の強制と闘っている人々が私の脳裏をよぎった。



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280 詩をどうぞ(18)
学徒兵が目撃した広島
2005年5月24日(火)



 「第247回」(4月19日)で戸井昌造さんの「戦争案内」のあとがきを紹介しました。
 若い人からの「どうしてそういう世の中になってしまったのです、してしまったのです」という 質問を想定して、戸井さんは次のように書いていました。
 ―ここのところがむずかしくて、わたしにもよくわからないのだが、ぼくの生まれるずっと前から、 長い年月かけて代々の大人たちがそういう世の中をつくってきたことだけは確かだ。そこがおそろし いのだが、そのへんを、もっと勉強するしかないと思う。

 それを受けて「日本のナショナリズム」を勉強し始めましたが、思いのほか長くなりました。今ひといき 入れています。次回から明治期以後の知識人ナショナリズムに進む予定です。

 戸井さんと同じように学徒兵として徴用された詩人・金井直さんのそれを素材にした詩を見つけ ました。今回はもう一回「詩をどうぞ」です。

つゆ     金井直

 両腿の肉を、電気のようなものが走る。と、そのひきつった感覚
で、俺の肛門がきゅっと締まる。流れ落ちようとする汚水が、俺の
腹に溜る。俺の感情はすでに雨の泥土の中で、疲労の極限に達して
いる。
 今日、日本列島は、北海道を除いてつゆに入るというニュースが
流れた。俺は、去年の暮れに流行性感冒にかかり、正月の休日を数
日間、発熱の床に臥した。それ以来、俺は断続的に激しい下痢にお
そわれた。俺の肉体は、いまだにウイルスの飢餓に侵されているの
であった。

 俺は、大日本帝国陸軍の最後の一兵卒であった。弾が出るかどう
かわからぬ粗製の九九式歩兵銃。撃ったことのない、弾薬のない、
食糧のない、飯盒のない、水筒のない、鉄兜のない、過去の軍隊を
ひきずっている一兵卒であった。だから夏は、空腹と眠気と疲労と
下痢と熱に苛まれていた。俺はただ、撃つべき目標のない、帰るぺ
き故郷のない一兵卒であった。
 日本列島上空は、ぷあつい雨雲におおわれでいた。広島の八本松
から一直線に意識の戦場へつづく夜の行軍。土砂降りの雨の中の、
俺はもはや死の国にぞくする一兵卒にすぎなかった。ただひたすら
に歩く俺の痩せた肩胛骨に銃が食いこむ。肛門から流れる汚水が、
腿を伝って膝のあたりに滑っている。
 昭和二十年。つゆの入りと同時に、俺は千葉県佐倉の東部六四部
隊に入隊した。その直後から俺の下痢は始ったのである。

 昭和四十九年六月十一日。日本列島は、北海道を除いてつゆに入
ったという。時折、稲妻をともなった大雨が降る。俺の記憶の中で
汚水がしぶく。見れば窓のむこうの町の燈火が烟っている。街燈の
あかりのかすかにとどく暗闇に、泰山木の花が白くほのかに浮んで
いる。

 彼方の暗黒の中に燈火が見えた。俺は隊列から落ちまいと、必死
に泥土の道を突き進む。すでに雨の水は、俺の全身を浸している。
肛門から流れる汚水と雨に濡れてシートのようにこわばった軍袴
が、内股をこする。脚絆にも汚水が染みこんでいる。彼方の燈火に
憑かれたように無言の隊列は行く。あの燈火はたしかに、絶望の隊
列がめざす兵舎であった。

 俺の肛門は、もはや汚水の圧力に耐えきれなくなった。俺はすは
やく便所に飛込む。不消化物の混った汚水がほとばしる。しゃがみ
こんでいる両腿の肉を、またもや不快な電気が走る。一瞬の排泄の
あと、便意を残しながら汚水は絶える。すでに尻に異物感をもたら
す脱肛の気味がある。

 俺は、兵舎の外に並ぶ便所に入って、便意がありながら排泄せぬ
痛苦をかこちながら、ひとときの自由感を味わっていた。なぜなら
この場所を占める者は、俺一人だけだったからだ。しかし、軍帽を
頭にしっかりと押えつけていなければならぬ。戸の鍵が壊れている
ために、いつ戸が開けられ軍帽を盗まれるかわからないからであ
る。即ち、片方の手を頭に置き、もう一方の手で戸を内側へ引張っ
ていなければならぬ。そうやってりきむと、排便はなく、血がした
たり落ちる。肛門が裂けているのである。

 夜が更ける。雨が小降りになる。町の燈火は消えている。ビルデ
ィングの常夜燈だけが、めざめている。町の中のひとかたまりの樹
が、小高い丘のように黒々としている。俺の眼に、それが兵舎を囲
む小高い禿山のように見えてくる。俺の下腹部がわずかに疼く。俺
の内なる傷が疼く。

 小高い禿山の頂上に立つと、はるか彼方に呉の町が望めた。艦載
機グラマンの攻撃を、俺はじっと眺めていた。日本海軍の生残りの
艦隊が、軍港で止めを刺されるのを無言で眺めでいた。波状攻撃さ
れる俺の下腹部。たちまち便意をもよおす。しかしその場所を動く
ことは許されぬ。筋力は肛門に集る。が、徐々に汚水が流れてくる
のを、俺は腿の内側で感じていた。

 暗黒の世界を引裂くように稲妻が走る。俺の両腿の肉を便意が走
る。寝静まった町の上を、消防自動車のサイレンが鳴りわたる。火
の手は見えない。再び稲妻が走る。雷鳴がとどろく。俺の眼に、あ
りありとあの閃光が見える。閃光と同時に爆発音が聞える。

 一九四五年八月六日。五時起床。朝食後、演習地に向う。畑のト
マトが飢餓感をさそう。入隊直後からつづいている下痢は、一向に
止まる気配はない。俺は憔悴の一途を辿っている。すでに二貫目は
痩せただろう。栄養失調になっているはずである。主食の高梁のほ
か、蛋白質の副食はない。俺の飢餓感はまさに本能そのものだ。
 匍匐と突撃の練習をくりかえしている俺の疲労が限界を越える。
突如、俺の眼前が暗くなる。太陽は、雲一つない底ぬけの青天にあ
って俺の頭上から容赦なく照りつける。俺は吐気をもよおしてその
場に崩れ落ちる。俺の眼には、世界が暗く見えた。とたんに少尉が
飛んできて「立て」とどなりながら俺の胸倉をつかんで引張りあげ
る。俺は銃につかまって懸命に立上る。「たるんでるからだ」今度
は横っつらを殴られる。「ハイ」と答えて俺はまた崩れ落ちる。「よ
し、そこに休んでおれ」と俺に背をむけた少尉の(うなじ)には少年の面影
が残っている。俺は、松の根本に腰をおろしていた。蝉が鳴いてい
る。風はない。いよいよむし暑くなってきた。空気が生あったか
い。貧血は軽かった。が、体が浮いたように揺れ動く。熱がある。
世界が熱を病んでいる。俺はしかし演習に復帰した。生い茂る夏草
の中に身をかくす。眼をあげると、青天がはてしない。そこの一
点、はるか彼方の上空を旋回している飛行機を、俺の眼がとらえ
る。東京空襲で見なれたB29に似ている。空襲警報は解除になって
いるはずである。俺の眼は、その一機を見守った。やがて、白いも
のが落ちていく。落下傘らしい。落下傘らしい白い下降物が禿山に
かくれると、一瞬、するとい閃光が見えた。それは晴天をさらに照
らし出してみせるかのような光であった。たとえば熔接の時に発す
るあの青白い光である。つづいて爆発音が響いた。その時、飛行機
が揺れた。飛行機の高度は約八千メートル。まさに青天霹靂であ
る。気付くと、群青の空間に湧上った巨大な薔薇色の茸雲。あれは
一体なんであろうか。<疑念>は部隊を支配した。演習が終って兵
舎に戻っても、爆発音はつづいている。<疑念>は言い知れぬ<不
安>となって部隊をどよめかせる。
 薔薇色の茸雲が崩れて、たちまち灰色から黒色の雲へ。白昼から
深夜へ。そしてさらに土砂降りの黒い雨である。
 深夜の町の上に稲妻が走り、雷鳴がとどろく。救急車のサイレン
が近付く。雨がふたたび激しくなる。俺の両腿を便意が走る。俺の
眼は、暗黒の中に廃墟と化した都市を見ている。
 今日、日本列島は北海道を除いてつゆに入ったという。

       「ユリイカ」(1974年12月号)より





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288 詩をどうぞ(19)
愚作2編
2005年6月1日(水)



 1991年に次のような文を書いていた。職場の仲間に配るつもりっだったようだが、 実際には配らなかったのではないか。怪しげな記憶がそういっている。
 当然のことながら、イシハラを尖兵とする今日の極右傾向は突然にやってきたのではない。やはり 長い過程がある。そして昭和天皇の死去がその傾向が大きくカーブする結節点だったので はないか。最後のカリスマ天皇の消滅が右翼保守層に大きな危機感を与え、明確なプログラム をもった具体的な政治的・社会的な行動を引き出した。今にして思えば、その結節点は1991年 だったかもしれない。



    右翼テロと自由民主党

 本島長崎市市長が右翼に狙撃たれた。激しい憤りとともに、この国の自由と 民主主義の底の浅さに情けない気持ちになる。自分の日常にも自由と民主にも とる言動がままあり、その底の浅さの責の一端は私にもある。
 しかし個人レベルの問題とは別に、自由と民主の成長を阻止し続けてきた 、自由と民主を標榜しているこの国の独裁党の政治姿勢が一番問われるべき だ。特にその文教政策は一貫して自由と民主を抑圧するものであった。また 最近の天皇の代替わりに関わる問題に対する政治姿勢も自由と民主の抑圧で はないか。
 自民党政府の教育支配のもくろみは遂に最終目標に達したようである。 自民党の意を受けて文部省は言う。学習指導要領に従わぬものは処罰すると 。ねらいは君が代・日の丸の強制だ。これを伝習館裁判の反動判決をもって 最高裁が追認する。この国には司法府はなく、立法府と行政府があるばかり だ。
 右翼はテロで脅して自分たちと異なる思想・信条を圧殺しようとする。 文部省は処罰をちらつかせて全ての教師に自民党の思想・信条に服従せよ という。直接処罰の対象とならないが、全ての生徒・父母にも服従を強い ていることになる。テロと処罰の違いはあっても、そのやり方と目的は同 じではないか。自民党政府にはこの度のテロ事件を非難する資格はないし、 東欧の民衆の自由と民主主義へのたたかいにエールを送る資格もない。

元旦にこんな詩を作った。

 日の出、いまだし

 日出づる処の国では
 自由と民主の衣着て
 一党独裁半世紀
 自由と民主が
 民衆を威嚇する

  日出づる処の国は
  民主の国なれば
  世襲君主を寿ぎに寿ぐ歌を
  歌わぬものは 処罰

  日出づる処の国は
  自由の国なれば
  白地に赤く民の血染めてあゝ美しい
  旗掲げぬものは 処罰

 1990年
 日出づる処の国は
 万世一系の
 まことしやかな欺式の年で
 自由と民主は
 ますますよれるか
 まことの日の出は
 いまだはるか

 彼方の
 東欧の民衆の
 自由と民主へのたたかいが
 まぶしい
     (1991年)


 もう一編はつい3年前のもの。


メイモウの国

ヤギがメイとなくと
ウシはモウとなく

首相がヤギで
首都の知事がウシで
ヤギとウシがメイモウと勇ましい

ためにヤギウシが急速に繁殖して
メイモウの唱和が喧しく

メイモウヒノマル
メイモウキミガヨ
メイモウヤスクニ

ちかごろヤギウシは
「手味噌正義」のブッシュに迷い込み
1938年のヤギウシに退化して
いよいよ威丈高だ
メイモウメイモウと踊りながら
先の大戦での膨大な死者たちに
無駄死を強いようとしている

が、ヤギウシはその迷妄に気づかない

          (2003年)



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306 詩をどうぞ(20)

2005年6月19日(日)




 大古墳  安東次男

   古墳は盛土の労を少くする為に
   小山や丘陵を利用して造られた。

これは、
平地の
とりわけ低いところにある。
歴史のなだらかな傾斜に、
突如として
現れた
抵抗。

長さ四百八十六米
前方部正面三百五米
後円部直径二百四十五米
積土の高さ三十五米、
その周囲を
太古の色をたたえた
三重の堀をめぐらし、
墳丘から外堤に互って
幾重にも埴輪円筒が並んでいる、
その総面積は
四十六万四千坪
外堀の周囲は優に一里
大山陵という、
日本古代の大前方後円墳である。
墳墓の
大きさとその形は、
いつどこの国でも
権力の
象徴であった、
ここ和泉平野から河内大和丘陵にかけては
多くの古墳がある、
それは大小様々に入り乱れて
親兄弟を権力に替えてせめぎ合った、
血みどろの跡を
今に留める一大鳥瞰図。
それをうち率るごとく
それにうち臨むごとく、
この大前方後円墳はある。
ギゼーのピラミッドの三倍。
秦の始皇陵の一・五倍。
これの大古墳は、
塚面積十四万坪
それの墓築きのみでも百八十万人の
延人数を要すると計算された。
百八十万人といえば
千九百四十九年冬の
日本の顕在失業人口と競っている、
一年三百六十五日働きどおしに働くとしても
一日に五千人を要する
大土木工事ではないか。
それを彼らは
遠く金剛山脈や和泉山脈の横穴から

遠く河内平野の竪穴から、
でてきてやっただろう。
火うち石でカチカチと乏しい火を打ち出し
未明より日昏れまでの、
あるいはそれを超えての
雨の日の、
風の日の、
さらに冬の
ぬかるむ霙の日の、
積土と石搬びの三百六十五日は
どのようであったか、
どのような嘆きを持っていたか。
日本書紀に依れば、
工事は
ミカド
帝没年の二十年前より起されたという、
その二十年の
声の無い恨みは
どのようにつづいたか、
とぼくは念う。
石棺は
遠く金剛山脈二上山の凝灰岩
その蓋だけでも優に一千貫をくだらぬ
いま、冬、黄色に枯れた
生駒山から大和丘陵に続く尾根には、
天気のよい日には白鷺がとんでゆくが
ぼくにはいまも老いも若きも男も女も
一千貫の大石を
営営として蟻のように
曳いてゆく千五百年前の
彼ら部民の姿が見える。
金剛山脈の横穴から、
河内平野の竪穴から、
蟻のようにかり出されてくる姿が見える。
寒い寒い夜を幾夜も徹して、
曳いてゆく彼らの
かなしいうたごえが聞える。
下ッ端役人の笞の下で、
彼らの故里のアリランのようにかなしんでいる、
そのうらみつらみのうたごえが聞えてくる。
ぼくらの習った日本歴史は
仁徳天皇といえば民のかまどとおしえ
この大前方後円墳も
部民の切なる願いに依って造られたものとおしえた。
しかしそれによって裏切ることのできぬ嘆きが
ぼくの耳には聞えてくる、
千五百年前の二上山の凝灰岩の
地ずりする音が、
そのなかからとび出して死んだという
一匹の鹿の顔が。


  六十七年冬十月庚辰の朔甲申に、河内の石津原に幸して、
  陵地を定めたまふ。丁酉に、始めて陵を築く。是の日に
  鹿有りて、忽に野の中より起りて、走りて役民の中に入
  りて仆れ死ぬ。時に其の忽に死ぬるをあやしびて、其の
  痍をもとむ。即ち百舌鳥、耳より出でて飛び去りぬ。因
  りて耳の中を視るに、悉く咋ひ割き剥げり。故、其の処
  を号けて、百舌耳原と曰ふは、其れ是の縁なり。
  是歳、吉備中国の川島河のかわまたに、みつち有りて人
  を苦しむ。時にみちゆくひと、其の処に触れて行けば、
  必ず其の毒に被りて、多く死亡ぬ。是に、笠臣の祖縣守、
  人と為りいさおしくして力強し。ふちに臨みて三のおふ
  しひさごを以て水に投れて曰はく、「汝しばしば毒を吐
  きて、みちゆくひとを苦びしむ。われ、汝みつちを殺さ
  む。汝、是のひさごを沈めば、われ避らむ。沈むこと能
  はずは、仍ち汝の身を斬らむ。」といふ。時にみつち、
  鹿に化りて、ひさごを引入る。ひさご沈まず。即ち劒を
  挙げて水に入りてみつちを斬る。更にみつちのともがら
  を求む。乃ち諸のみつちの族、淵の底の岫穴(?)に満
  めり。悉に斬る。河の水血に変りぬ。故、其の水を号け
  て縣守淵と曰ふ。此の時に当りてわさわひやうやくに動
  きて、叛く者一、二始めて起る。是に天皇、夙に起きお
  そく寝ねまして、賦を軽くしをさめものを薄くして、お
  ほみたからをゆるやかにし、徳を布き恵を施して、困窮
  をすくふ。死を弔ひやむものを問ひて、やもをやもめを
  養ひたまふ。是を以て、政令流行れて、天下大きに平な
  り。二十余年ありて事無し。   (日本書紀、巻十一)


鹿はこの時代の奴隷の象徴であった。
その鹿が死んだと、
悪いみずちが鹿に化けてひさごを引入れようとしたが沈まなかったと、
それでみずちを斬ったら反乱が起ったと、
当時の
権力の正統のプロパガンディストであった
日本書紀でさえ書いている。
山陽から山陰へ
北九州から南九州へ
三河駿河を越えて
東は関東上野の辺りまで及んだ、
大和豪族の権力の光る目の下で
おずおずと書いている、
その事実をぼくは大事に思う。
おもうてもみよ。
千九百四十九年冬の、
日本の
顕在失業人口にもほぼひとしい、
延百八十万という人数を。
それの膏血の犠牲において
雨の日も、
風の日も、
営営二十年に互って
築かれた
大古墳と、
そのなかに眠る
ひからびたひとつの木乃伊を。
千五百年の暗黒のなかで
行き場を失ってきた、
千・万の
声々のいかりを。

「現代詩文庫 安東次男詩集」(思潮社)より


 「日本書記」からの引用部分は、テキストファイルでは表示できない 漢字や読めない漢字だらけなので、「日本古典文学大系 日本書記」(岩波書店)のものと 差し替えたうえ、全体の内容をつかむために必要と思われる部分は漢字をひらがなにしまし た。分からないままでは引用の意味がなくなると思いそのようしましたが、安 東さんの創作部分ではないので、お許しいただけるものと判断します。



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314 詩をどうぞ(21)
2005年6月27日(月)



 外交の何たるかを知らないコイズミが近隣諸国とのいらぬ溝を深めている。コイズミは 神道は「日本の伝統」であり、「伝統に則って」靖国神社の参拝している、外国からとやかく 言われる筋合いはないとのたまう。
 梅原さんは「明治以後の神道は、神道とさえ言えない」という趣旨のことを繰り返し訴えている。 靖国神社も伝統的な神道とはまったく違うものであるという論旨を展開していて、政治家の靖国詣 でにも反対の意見を明らかにしている。
 昨年、コイズミは「伝統に則って」羽織袴で威儀を正して靖国神社に参拝した。新聞に報道された その時のかなり得意そうな写真を見たとき、私はなんて浅薄な伝統意識だろうと、嫌悪の念を禁じえ なかった。もちろん羽織袴に嫌悪したのではなく、羽織袴でつくろっている貧困な精神に対してであり、 羽織袴の中の「日本人意識」の夜郎自大ぶりに対してであった。
 網野さんが『「日本人」という語は日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉であり、この言葉の 意味はそれ以上でも以下でもない』とわざわざ強調しなければならない理由は「日本人」に 余分な思い入れを盛り込んだ「日本人意識」なるものが今なおはばを利かせているからに他ならない。


   金子 光晴

一

九曜
 うめ鉢。
鷹の羽。
 紋どころはせなかにとまり、
袖に貼りつき、
 襟すぢに槌る。

溝菊をわたる

蜆蝶(しじみてふ)。
…………ふるい血すぢはおちぶれて、
むなしくほこる紋どころは、
金具にさび、
蒔絵に、(はが)れ、
だが、いまその紋は、人人の肌にぬぐうても
消えず、
月や、さざなみの
風景にそへて、うかび出る。

いおり。
沢瀉(おもだか)。
 鶴の丸。
紋どころはなほ、人のこころの
根ぶかい封建性のかげに
おくふかく
かがやく。


二

日本よ。人民たちは、紋どころにたよるながいならはし
 のために、虚栄ばかり、
ふすま、唐紙のかげには、そねみと、愚痴ばかり、
じくじくとふる雨、黴畳、……黄疸どもは、まなじりに
 小皺をよせ、
家運のために、銭を貯へ、
家系のために、婚儀をきそふ。

紋どころの羽織、はかまのわがすがたのいかめしさに人
 人は、ふっとんでゆくうすぐも、生死につづくかなし
 げな風土のなかで、
「くにがら」をおもふ。

                        
紋どころのためのいつはりは、正義。狡さは、功績(いさをし)。
紋どころのために死ぬことを、ほまれといふ。

をののく水田、
厠のにほふ
しつけた一家。

虱に似た穀粒をひろふ
貧乏。
とつくり頭の餓鬼たち、
うられるあまつ子。

疫病。
ながれるはげ椀。

霹靂のころげまはる草原の
つちけいろをした顔、顔。
――「怖るべき紋どころ」をみあげる
さかさまな眼。

井桁。
三つ菱。
むかひ藤。

扇面にちらす紋どころは、
ならぶ倉庫や
鉄扉。
煙突の横はらにも染めぬかれ、
或はながれる、
銀翼にもある。
紋どころをもはや、装飾(かざり)にすぎないといふものは、
神のごとく人が無擬で
正しいものは勝つといふ楽天家共である。

紋どころを蔑むものの遺骨よ。
おまへのひん曲った骨は、
紋どころにあつまる縁者におくられ、
紋どころを刻んだ墓石の下に
ねむらねはならぬ。




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335 詩をどうぞ(22)
2005年7月19日(火)



 ある新設高校の開設時にその高校に赴任しました。校舎もなく間借りを しながらのスタートでした。校章に武蔵国国分寺跡から出土した鐙瓦の一 つに刻まれていた蓮華の文様が選ばれました。校外授業で生徒たちと国分 寺跡を見学したときに、クラスの生徒向けに作ったものです。




蓮華―校章由来―

		梵網経(ぼんもうきょう)に説く
		 廬舎那仏(るしゃなぶつ)大連華座に座したまい
		 その知恵の光はあまねく人々の心によりそい
		 世の限りなき苦しみを除いて一切の闇を開くと
		 すなわち大連華座に千華辨あり
		 その一葉ごとに一釈迦ありて仏国土をなす
		 さらに一国ごとに千百の釈迦ありてまた国をなす
		 蓮華蔵荘厳世界(れんげぞうしょうごんせかい)!
		 ありとあらゆるもの
		 蓮華につつまれ大光明に照らされるという


都に政変相次ぎ
覇を争い闇闘する王族たち
ために遷都は止むことなく
かてて加えて全国に瀰漫する疫病
豊麗な文化が成熟するとき
一つの体制が崩れようとしていた
天平十二年二月 難波宮に行幸の(みち)
河内国智識寺に廬舎那仏を(おろが)む聖武帝
苦悩する帝の脳裏に
そのとき鮮やかに芽生えたものがあった
翌年天平13年3月
大仏造立発願(ぞうりゅうほつがん)に先立つこと二年
一つの(みことのり)が全国に飛んだ
  〈宜しく天下の諸国をして
  〈各々(つつし)しんで七重塔一区を造るべし
国分寺・国分尼寺の設置



一つの体制を守ることのみが
帝の願いの全てではなかったとしても
あるいは国を統べるものの苦悩の大いさにも拘らず
過重な徭役(ようえき)を果せられ  (注1)
たえず疫病におびえ
貧窮の極みのうちに生きた農民たちには  (注2)
ましてや 人間として生きられなかった
奴碑(ぬひ)と呼ばれた人々には  (注3)
鞭打たれ血のふきでる背を
さらに鞭打たれるほどにも
それは過酷な勅命だったに違いない
都での政争はあずかり知るところではなく
律令制の崩壊はもとより望むところ
蓮華蔵荘厳世界にかける夢は
だから 彼らにあってこそ一層強く深かった  (注4)
血をしたたらせて木を伐り出し
涙をまじえて泥を()ねる
悲惨な生活をさらに悲惨にしながらの
難事業を遂行せしめたものは
心に溢れて止まぬ純朴な祈り
  (御祖(みおや)に息災を
  (子らに充足を
  (世々違えることなき真実を
天平]年  (注5)
壮大な規模を誇る大伽藍
武蔵国国分寺建立(こんりゅう)成る



天平13年 西暦741年
国分寺跡に立ち
遥か多摩川あたりを望みながら
ぼくはひそかに引き算をする
1969 ひく 741
武蔵国国分寺が戦火に潰えてすでに久しい  (注6)
以来地中に埋もれたまま
いまぼくらに届いた一枚の鐙瓦(あぶみがわら)  (注7)
千二百有余年もの時を隔てた
この奇遇にぼくは打たれる
節くれ立った手をあやつり
鐙瓦に蓮華を刻む
破衣をまとった一人の奴人(ぬひと)
(かま)の前にうずくまり
祈りをこめて黙々と刻む
深い皺が幾すじも走り
笑いを忘れた黒い顔は
そのこころね思えばむしろ美しい
一枚の鐙瓦とともに一人の
無名の古代人の心を拾う
ぼくらいま
仏を頼むことをしなくなったが
平和を願い
自由を尊び
真理を愛する心を受け継ぐ
1969年
武蔵国国分寺の地に
新しい鎚音(つちおと)が響き始めた
やがてこの学舎を巣立つ若者たちが
ひとりびとり大きく咲く蓮華であることを願う

(注1)
口分田について租(一段につき稲二束二把)が課せられた外に、 個人の国家に対する負担として、庸(1年10日間の歳役−庸布 による代納)調(絹・あしきぬ・糸綿・布などの特産物の納入) 雑徭(1年60日、国内の雑役)などがあった。徭の負担が大きい。

(注2)
・・・かまどには 火気(ほけ)ふき立てず こしきには くものす ()きて 飯炊(いいかし)く  事も忘れて 鵺鳥(ぬえとり)の 呻吟(のどよ )()るに いとのきて 短き物 を 端裁(はしきる)ると 云えるが如 く (しもと)取る  里長(さとおさ)が声は 寝屋戸(ねやど) まで 来立ち呼ばひぬ 斯く ばかり (すべ)無きものか 世間(よのなか) の道
世間を憂しとやさしと思えども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
      (万葉集巻五 山上憶良「貧窮問答歌」 より)

(注3)
 賎民制での最下層の人たちで、独立の家族的結合を認められず、財物 同様に扱われていた。

(注4)
 奈良時代の南都六宗(三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の六派)に 五性格別説という宗論がある。人々を現世の身分や貧富の差によって 菩薩・声聞・縁覚・不性・無性の五段階に分け、一般民衆は無性とし、仏の功徳に よっても救われないとした。道昭や行基はこれに反対し、不性・無性の中に入れられた 人々こそ仏の功徳によって救われるべきだとし、民衆救済に乗り出し、地方を巡り歩い た。行基は聖武天皇に嫌われ、処罰されている。

(注5)
 武蔵国国分寺が完成された年は分からない。あるいは天平と呼ばれた年代より後のこ とかもしれない。ちなみに大仏開眼は752年(天平勝宝4年)である。

(注6)
 武蔵国国分寺の焼失は新田義貞の鎌倉攻め・分倍の戦いのとき、1333年(元弘3年) である。

(注7)
 武蔵国国分寺跡から発掘された瓦で歴史資料として最も価値が高いのは、それを寄進し た郡郷の名が刻まれているものであろう。その中には現在も使われている地名が多く見 られる。例えば郡では豊島・足立・埼玉・入間・秩父・多摩など、郷では大井・蒲田など の名が見られる。国分寺の建立が一国を挙げての事業であったことがうかがわれる。また 馬や草木などの落書きのある瓦も面白い。当時の民衆の生活感情に直接触れるような感 慨が湧いてくる。






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426 詩をどうぞ(23)
2006年1月24日(火)



 「天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史」をお休みします。

 1月21日、「まもろう憲法!ゆるすな教育基本法の改悪を!1.21東京集会」に 参加しました。あの降りしきる雪にもかかわらず、参加者は約2千名とのことでした。
 合唱・楽器の演奏・コントなど楽しいイヴェントも盛り込んだ充実した集会でした。




 オープニングの「ぞうれっしゃ合同合唱団」による合唱「ぞうれっしゃがやってきた」は 熟年者から4,5歳ぐらいの子どもまでの約150名による大合唱でした。
 戦時中に、食糧不足のためか、あるいは空襲で破壊された檻から猛獣が逃れるたときの 危険性を想定したからか、動物園の動物たちが殺されました。「ぞうれっしゃがやってきた」 にはその話が歌いこまれていました。可愛らしい子どもの歌声を聞きながら、私は岩田宏さ んの詩を思い出していました。そこで今日は久しぶりの「詩をどうぞ」ということにした 次第です。




動物の受難    岩田 宏

あおぞらのふかいところに
きらきらひかるヒコーキ一機
するとサイレンがウウウウウウ
人はあわててけものをころす
けものにころされないうちに
なさけぶかく用心ぶかく

 ちょうど十八年前のはなし

熊がおやつをたべて死ぬ
おやつのなかには硝酸ストリキニーネ
満腹して死ぬ


 さよなら よごれた水と藁束
 たべて 甘えて とじこめられて
 それがわたしのくらしだった


ライオンが朝ごはんで死ぬ
朝ごほんには硝酸ストリキニーネ
満腹し死ぬ


 さよなら よごれた水と藁束
 たべて 甘えて とじこめられて
 それがわたしのくらしだった


象はなんにもたべなかった
三十日 四十日
はらペこで死ぬ


 さよなら よごれた水と藁束……


虎は晩めしをたべて死ぬ
晩めしにも硝酸ストリキニーネ
満腹して死ぬ


 さよなら よごれた水と……


ニシキヘビはお夜食で死ぬ
お夜食には硝酸ストリキニーネ
まんぷくして死ぬ


 さよなら よごれた……


ちょうど十八年前のはなし

なさけぶかく用心ぶかく
けものにころされないうちに
人はあわててけものをころす
するとサイレンがウウウウウウ
きらきらひかるヒコーキ一機
あおぞらのふかいところに。



 岩田さんの作品にも、私の好きな詩がたくさんあります。もう一編。



 住所とギョウザ

 大森区馬込町東四ノ三〇
 大森区馬込町束四ノ三〇
 二度でも三度でも
 腕章はめたおとなに答えた
 迷子のおれ ちっちやなつぶ
 夕日が消えるすこし前に
 坂の下からななめに
 リイ君がのぼってきた
 おれは上から降りて行った
 ほそい目で はずかしそうに笑うから
 おれはリイ君が好きだった
 リイ君おれが好きだったか
 夕日が消えたたそがれのなかで
 おれたちは風や帆前船や
 雪のふらない南洋のはなしした
 そしたらみんなが走ってきて
 綿あめのように集まって
 飛行機みたいにみんな叫んだ
 くさい くさい 朝鮮 くさい
 おれすぐリイ君から離れて
 口ばくばくさせて叫ぶふりした
 くさい くさい 朝鮮 くさい


 今それを思いだすたびに
 おれは一皿五十円の
 よなかのギョウザ屋に駈けこんで
 なるたけいっぱいニンニク詰めてもらって
 たべちまうんだ
 二皿でも三皿でも
 二皿でも三皿でも!


 コイズミ・イシハラを代表とする蒙昧愚劣な為政者らが、ありもしない脅威を言い立てて、 反中国・反朝鮮を煽り、偏狭なナショナリズムの復活を目論んでいます。そして、 その扇動にうかうかと乗っかってしまう忠良なる臣民がじわじわと増え続けています。この 忠良なる臣民らは、かって徒党を組んで在日朝鮮人を虐殺したように、時には為政者の意図 以上に残虐な行為をたやすく実行してしまう恐ろしい存在です。
 しかし、そうした危険な激情に成長していく愚昧さは決して特異なものではないでしょう。 私たちの日常生活のどこかに潜んでいるに違いありません。そのような愚昧さを、私たちも 共有してはいないでしょうか。






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441 年老いても咲きたての薔薇
追悼 茨木のり子さん
2006年2月20日(月)



 茨木のり子さんが亡くなられました。私は茨木さんからたくさんの糧をいただいてきまし た。

 川崎洋さんの訃報をきっかけに、「詩をどうぞ」というシリーズを始めました。(第69回  2004年10月22日)
 茨木さんと川崎さんは一緒に同人誌「櫂」を創刊しています。もう53年も 前、1953年のことです。

 これまでに「詩をどうぞ」には茨木さんの詩を3編紹介しました。ただし、このHPの テーマである「反ひのきみ」に関連したものという観点からの選択でした。
(第97回 2004年11月19日、第98回 2004年11月20日、第165回 2005年1月26日)

 今回は茨木さんを追悼して、初期の詩集「対話」「見えない配達夫」「鎮魂歌」からそれ ぞれ1編ずつ、3編選びました。紹介したい作品がたくさんあって、とても難しい選択でし た。


準備する

<むかしひとびとの間には
 あたたかい共感が流れていたものだ>
少し年老いてこころないひとたちが語る

そう
たしかに地下壕のなかで
見知らぬひとたちとにがいパンを
分けあったし
べたべたと
誰とでも手をとって
猛火の下を逃げまわった

弱者の共感
蛆虫の共感
殺戮につながった共感
断じてなつかしみはしないだろう
わたしたちは

さびしい季節
みのらぬ時間
たえだえの時代が
わたしたちの時代なら
私は親愛のキスをする その額に
不毛こそは豊穣のための<なにか>
はげしく試される<なにか>なのだ

野分のあとを繕うように
果樹のまわりをまわるように
畑を深く掘りおこすように
わたしたちは準備する
遠い道草 永い停滞に耐え
忘れられたひと
忘れられた書物
忘れられたくるしみたちをも招き
たくさんのことを黙々と

わたしたちのみんなが去ってしまった後に
醒めて美しい人間と人間との共感が
匂いたかく花ひらいたとしても
わたしたちの皮膚はもうそれを
感じることはできないのだとしても

あるいはついにそんなものは
誕生することがないのだとしても
わたしたちは準備することを
やめないだろう
ほんとうの 死と
      生と
      共感のために



わたしが一番きれいだったとき

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね



汲む
 ― Y・Yに ― 

大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始るのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました

私はどきんとし
そして深く悟りました

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶  醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです





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442 素敵に詩的な三角関係
追悼 茨木のり子さん(2)
2006年2月21日(火)



 茨木さん、享年79歳。ジョルジュ・ルオー、享年86歳。
 茨木さん、ルオー爺さんのように長生きするといっていたのに……

 ところで、昨日茨木のり子さんの詩を選んでいるとき、むかし読んだある詩を思い出し ていました。 思い当たる古雑誌を調べて探し出しました。ユリイカ・1976年3月号。松永伍一さんの 「金子光晴」。(第142回・2005年1月3日で金子さんの詩を2篇紹介しています。)

 この詩は金子さんへの追悼詩ですが、第一連は茨木さんの夫君の告別式の様子から始ま ります。茨木さんとその夫君と金子さんの三角関係に私はひどく嫉妬したものでした。
 やがて金子さんの死をめぐって、病床の壺井榮さん、森三千代さん、さらに土岐善麿 さんが登場してきます。この詩人たちの七角関係に私の嫉妬はさらに募りました。
 いまなおご活躍しているのは、この詩の作者・松永さんだけとなりました。


金子光晴     松永伍一


             ――要するに金子さんは
               贋革の袋一つさげて歩いている


「一時から告別式に間に合うようにと朝十時に家を出たの、お宅が
わからなくなって今迄歩いて探しまわったの」、いや 「探しまわっ
ていたの」である。金子さんが、茨木のり子さんの家に弔問に見え
たのは夕方五時ごろだった、という。
 七時間ですよ!
 本当にあきれてしまう。途方もない地理音痴である。なんと人を
さりげなく感激させる天才だろう。
 茨木さんは、金子光晴にぞっこんだった。色恋でなく、ぞっこん
だということは、罪歴の過去もないから、「だった」は「である」
そのものなのだ。得難い(えにし)を脇から見ていて、私の目は日当りのい
い川水の音をきいて(ヽヽヽ)しまうの。耳が、公園のベンチにとまる馬を()
()ように。
 いいことだ、すてきなことだ。夫を喪った空っぽの肺に、赤いカ
ーネェーションを金子さんは挿しにきた。涙を拭くよりもっとやさ
しい仕ぐさで、そこいらの易者くずれの風態で、無責任な親切をふ
りまいてくれたのだった。いつまでたっても黄昏れないあたりの気
配。死者の写真に一本射してくる夕日の慈悲。そこからは富士山が
見えるはずだ。
「あのときはびっくりしたわ」
茨木さん、死んでははいけませんよ。そのびっくり(ヽヽヽヽ)があなたを生か
す日めくり暦です。
 きょう、金子さんが開いてから何人目かの弔問客の私がきて、扉
が急に重くなった家の空気を吸っている。
 六月三十日である。あと十日ほどで北軽井沢に行く。「窓を開け
ましょうか」「その必要ありません」といった会話が、いつになく
よそよそしいのは、茨木さんの悲しみのせいだ。月蝕のような胸の
うち。透けて見えます。
 そのとき電話。
 曲がった階段を降りかけるところに、黒い受話器がある。
 え? ほんとですか。……まあ……。
(そして絶句)
「金子さん死んじゃったの」
「え?ほんとですか」
「まあ」だけを貰わず、あとは電話の応答のままを私が返す。これ
は事件だ。これはいさぎよい金子光晴の誕生″だ。にぎやかにな
る合図だぞ。
 六月三十日。つまりきょう、訃報を聞く詩人と、息しなくなった
金子さんとの三角関係が、追悼心理の月並をとびこえて成立した。
死者のために祝福しよう。

     *

 その日も壷井さんは中野の共立病院にマクログロブリン血症で
「寝ていた」 と書きたいが、実は起きていた。私が病室に入ると
「金子が死んだよ」と言う。報せていいか悪いか気をもんで、ねじ
ったり、さすったり、まさしくそんな配慮で見舞いにきたのだが、
「追悼文を書いているんだ」と正座して。それは、幕末の志士が遺
書を記述するような(かぜ)が立つから、厳粛という他ない。
「追悼文ばかりこのごろ書かされる」
 壷井さんの笑いには酢の匂いがする。いつもそうだが、きょうは
濃いな。
「金子はやりたいことをみんなやって死んだ、悔いはあるまい」
 そうでしょう、と応えるしかない。
「ぶっきらぼうで、抜けているようで、親切で、誰にでもたてへだ
てなく」
 そうでしょうではなく、そんな感じでしたね、という他ない。
 もうすぐ北軽井沢に行くんかね、あっちから手紙でもくれよ。壷
井さんは、そんな風に言うところがその人らしく、金子さんの口に
せぬところだから、金子さんは壷井さんがそこで気になるのだろ
う。返事は「はい」の一語で十分。この人の死も遠くはないとおも
えてくる。
「飄々としていたが、学のある男だったよ」
 追悼文を、私が目を通す。ナンバーが一つちがっている。ああそ
うか、うっふっふ、である。手持ちぶさたでなく、照れくささをか
くすように、「病院の飯がうまくないから、松永君、寿司を一しょ
につき合ってくれんか」と言う。こんどは威勢よく「はい、はい」
である。茨木さんの家から駆けつけて、飯二杯分は喰えそうだか
ら、わっはっは、と景気をつけたいところだ。
 壷井さんの、先っきの緊張してた肩の線が崩れ、疲れが富士の裾
野のスロープのようだ。そこで私はおもう、この人に死神の奴が近
づいてるなと。わっはっはは、野犬みたいに殺される。

     *

 死人は、大型のボストンバッグに納められるぐらい縮んでいた。
遠慮はいりませんよ。伸びのびと死んでくださいよ、後輩どもの臆
病を吹っ飛ばすためにも。死んだふりじゃないでしょうね、まさか。
 白布をかぶった金子さん。
 生きのこった森三千代さんは、死人とは逆に枕を置いて、カリエ
スの身を横たえている。多情の女生き残る! その人の声をかき消
すように金子さんが、伊勢丹の方から私に話しかける。
 あれは、六月十三日午前十一時。
「元気かね」
「ええ。先生の方はからだの具合は」
「この季節はよくねえんだ、喘息には悪いよ」
 新宿小田急デパートだ。伊勢丹と間違えたのは金子流の、すっと
ぼけ戦法に殉じたことで……。
「子守唄を収集して、しょっちゅう旅です」
「おお、そうか。子守唄知ってるよ、きみ、こんなの知らないだろ
うね」
 うたいだした金子さん。
 きいてるのに、よくわからない。陶酔しそうな屋形舟のふわふわ
である。
  金紗の帯で子どもを締めて
  紅町傘町とろろ町
  さてさてどこまで行きやんすか
  三千世界は広うがんす
  極楽あっち
  よく見て行きやれ
  花でごまかせ
  おまんこ地獄
 こんな風だが、正確ではない。弓道場のおもいで話が、「おまん
こ地獄」のそのあとに、すいと滑りこんできて、小石川の何とか町
の十軒長屋の……という具合である。
 先っき「永瀬義郎の芸術」について一節ぶったのは私で、きいて
いた土岐善麿さん、きいでいるふりをしてきこえていなかった金子
さんが、並んで坐っている。レセプションは雑音がつきものだか
ら、子守唄もどこかへ行っちまったよ。いいの、いいの、そんなの
おれの即興だから、と言いたげに、金子さんは、私のとってあげた
柔かい肉片を不器用に食べた。
 死人は抱いて持ち帰れる大きさだ。盗んで、井の頭公園あたり
で、あの脳味晴を切りとってこっちにいただきたいよ、金子さん。
色事に関するものは不要だが、漢籍の隅々までの博識は貰い受けた
い。合掌する。それでも笑ってくれない金子さん。ほんとに死んだ
のですね。
「いま十万億土のどの辺ですか? まだそんなに遠くは行ってない
でしょ。じゃ、そこまで行きますから、もう一度子守唄を、いつも
の贋革の袋から出して書かせてくださいな」
 そこらあたりはほんのり冥く、いまの金子家よりずっと静かなは
すだ。絶対聴きもらさないぞ、とおもう。





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521 詩をどうぞ(26)
追悼・清岡卓行さん
2006年6月11日(日)



 6月5日、若い頃になじんでいた詩人がまたお一人亡くなられました。清岡卓 行さん、享年83歳。
 セントラルリーグの日程表作成という、詩人たちの中にあってはとても ユニークな仕事をされていたことがすぐ思い出されます。野球ファンおなじみの「猛打 賞」は清岡さんのアイデアでした。
 その後、大学でフランス語の教師を勤められました。その時の作品でしょうか 、チョッと長いのですが「大学の庭で」を選びました。

 「大学の庭で」は大学生に呼びかける形で書かれています。20歳前後 という年齢はともすると死の方へ傾斜しがちな年頃です。私にも思い当たることが あります。清岡さんはそれに対して穏やかで端正な口調で、積極的に 選び取るべき「生への意志」を対置します。それはお説教では全くありません。 生命への慈しみに満ちた生の賛歌になっています。私の大学時代はもうはるか 彼方の昔ですが、この詩からは今でも静かな深い感銘を受けます。


大学の庭で  清岡卓行

きみは 父や母を
また この細長い幾つかの列島に溢れて
愛着と反発をともに感じさせる
湿潤な民族や
その粘着し 屈折する
ふしぎに優しい影のような言葉を
あるいは その米と畳の生活をいろどる
四季の情緒のあわれさなどを
避けようもなく
歴史の重い歯車と歯車のきしみから
おびただしく苛酷な宿題のように
強いられたのだと
かたく信じている。

そして きみは
古代に栄えたあのオリーヴと大理石の国の
華やかな悲劇作者が歌わせた
年老いた合唱のともがらのように
この世に生を享けないことこそ
最大の幸福ではないかと
奇妙な洞窟への論理を追いながら
うつろな眼差しを
近くの親しい濠の水の上に遊ばせるのだ。

季節の移ろいははやく
濁った濠の水には
もう 桜の花びらは散らない。
なまあたたかい水の中には
おたまじゃくしなど可憐な生命がうごめき
恋人たちが戯れている 貸ボートの
忘れられた二本の櫂は
緑を増した水藻に
ねっとり捉えられたりしている。
夜がくれば その水面は
さざなみが立つ暗い鏡。
周囲のネオンサインが そこに
色とりどりに映り
その涼しい模様の上に
傍の道路を通過する自動車の群の
一様に近視のようなヘッドライトが
さびしい光の列を走らせるだろう。
ここは
思いがけなく静かな都心。
きみの人知れぬ悩みにふさわしい
繁華からは最も遠いささやかな場所だ。

ところで きみが
耐えられぬ空腹におそわれるようなとき
あるいは 抑えられぬ愛欲に盲いるようなとき
きみはやはり同じように悩むだろうか?
現実こそは残忍な教師なのだ。
きみが憎悪し軽蔑した欲望そのものの蛇に
きみは自ら知らず化身するかもしれない。
そうした仮定と推測が
今はむなしいことのように思われるとしても
きみの予想もしない地獄が どこかで
とにかくそのときは生命に
どこまでも本能的に執着させようと
きみを待伏せしているのではないかと
そのような状況の極限の可能を
まるで 他人のことのように
思い描くことはいいことなのだ。
そのように
追いつめられた生存の苦悩への敬虔な優しさを
一方において心の隅に保ちながら
次のような言葉に耳を傾けてみないか?

この祖国の土の上で
あるいは どこかの他国の空の下で
かつてどのようにも きみに
父や母は
また 民族やその慣わしは
外側だけから 力ずくで
あたえられたものではない。
むしろ こう言ったほうがいいのだ。
きみの最も遠い日に
いや 生命というものの
途絶えぬふしぎさを思うならば
どこまでも過去に溯ることができる
きみの輝やかしい
また 惨めな分身たちのうちの
誰が知っているよりも新しい日に
きみは選んだのだ
内側から ひそかに
きみ自身を。

そうでなくて どうして今
きみ自身が
太陽を受けた一枚の鏡のように
まぶしい自由でありうるだろうか?

きみはふたたび 全身のカで
しかし今は 暗く乱れ咲く 青春の
死の花々の色感のさなかで
生きることを選ぶのだ。
そして 生きるとは
屈することなく選びつづけること。
死ぬことをも含めて。

これは 論理の戯れ
抽象の言葉の遊びではない。
きみが酔い痴れた死への夢とは 遂に
世界のすべてを照しだそうとする
逆光の灯台への憧れ
よりよき生への クレシェンドの悲しみ
存在の自由の全きあかしではなかったか?
そうではないか?
きみは空気を食べて生きたいと思い
位置のない視点でありたいと望んだ。
まるで この世界への
最後の愛を告白するかのように。

そこで若し きみに
死への夢から生の建設へ向う意志が可能ならば
そして若し きみに
なんらかの好ましい学問がありうるならば
それこそは
きみの純潔を裏切ることが最も少く
世界へのより豊かな愛をいつもかたどる
試みにほかならぬのではないだろうか?
なぜなら きみの純潔は
どのような憤怒の極北にあっても
きみ自身にとって美しいものだけは
どうしても拒むことができなかったからだ。

つまり
美しいものにおいて自己を実現すること
そのきびしく結晶されるかたちこそ
学問と呼ばれるわざくれに
きみの魂の血液を
惜しみなくめぐらせることではないのか?
その拠点からきみは さらに
美しいものすべてを眺めることができる。
それはきみの微かな不死だ!
きみは選ばなければならない
きみのたどるひとつのさびしい学問を。
なかば 偶然のように。
そして なにものかに 深く羞じるように。
 (おそらく きみの見知らぬ
  この世の悲惨な現実に
  直観的に
  無意識的に羞じらって。)

他のさまざまな可能性を捨てることは
いかにもさびしいことなのだ。
きみが読みふけった
あのアカシアと社交界(サロン)の町の
病床の作家が若い頃しるしたように
どのように大きな一輪の現実の花も
空想の花束にはおよばないかもしれない。
少なくとも 無為のためには!
しかし やがて
きみの恋人の懐かしい個別性の中にしか
人類の温い深みがないように
きみの学問と創造の特殊性の中にしか
世界の美しい真実は
ありえないはずなのだ。






 第2連の古代の悲劇作者とはソポクレスです。「コロノスのオイディプス」 の中のコロスの合唱に次の詩句があります。

この世に生を享けないのが、
すべてにまして、いちばんよいこと、
生まれたからには、来たところ、
そこへ速やかに赴くのが、次にいちばんよいことだ。
(筑摩書房「世界古典文学全集」 高津春繁訳)

 この詩句に共感を示してニーチェがどこかで引用していたのを覚えてい ました

。しかしニーチェも、このニヒリズムにもかかわらず、運命の全てを 引き受けて生を選び取ることを説きます。それをニーチェは「運命愛」と呼 んでいます。

 「アカシアと社交界(サロン)の町の病床の作家」 も気になるのですが、私にはわかりません。どなたかご存知ありませんか。






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533 詩をどうぞ(27)
追悼・宗左近さん
2006年6月24日(土)



 宗左近さんがなくなられました。
 「第104回 2004年11月26日」で長編詩「炎える母」の中の一節 を紹介しました。最近は評論にも力を入れられていたようですが、詩作の方では 「縄文」シリーズと呼ばれている連作詩を精力的に発表されていたとのことです。 私は宗さんの最近の著作にはまったく疎く資料もありませんので、詩集「愛」 から2編選びました。この2編はぜひ対で読まれるべきものだと思います。



 ひかり

おぼえていておくれ坊や
あなたのお父さんが見つめている
ご近所のおばさんがそのおばさんのお子さんが
そして知らないおねえさんがかけよって
みんなみんな吸いこまれてのぞきこんでいる
この瞬間のひろがる明るさの波の渦
あなたから立昇る真新しい虹を
きっとおぼえていておくれ
わたしの腕のなかではじめて笑う坊や

あなたは弾む匂いです輝く息吹です坊や
あなたは膨らみやまない肉ですさわれる光です
あなたに夢を注ぐすべての視線と母乳の持ち主に
逆に夢を注ぎこむ夢の哺乳器です同時に夢です
あなたは不思議です奇蹟です生きている夢です
その頭のひよめきその瞳の灯りその頬のふくらみ
あなたはどこからきたの何を照らす光なの
この世には悪魔みたいなものはいるけれど多分
神様なんぞおいでにならないにきまっている
畏れげもなくそう思い定めてきたわたしだけれど
でも坊やこのひろがる明るさの波の渦をうむ坊や
おいでにならない神様もこの瞬間だけは特別に
おでましになっていて下さるからに違いない
みんなみんな吸いこまれてのぞきこんでいる
この不思議この奇蹟このひよめきこの灯りああ
おぼえていておくれ坊やいつまでも幻でないと

逆しまにしてのぞく望遠鏡の奥みたいな
近くて遙かなほの暗闇のなかからここだけ鮮明に
切り抜かれたわたしの心よりも小さなこの光の渦の
ああ中心の坊やあなたの目がやがてまともに
のぞくでしょう人生の望遠鏡の視野よりも近々と
しかし視野に決して入らないでしょう外側で
おぼえていておくれ坊やわたしたちみんなみんな
のぞきこんでいるのです見つめているのです
はじめて笑うあなたの瞳の奥を光らせるもの
おいでにならないかもしれないお方の涙を




 おばあさん

おばあさん
あどけなくほほえんでおいでのおばあさん
あなたのおなかから生まれでた息子や
その嫁やそこからまた生まれでた孫たちの
はじける幾つもの笑いの渦にさそわれて
曲った背中のように古い家のなかから
赤ん坊みたいに明るい笑顔をさしだして
おばあさん
冬なのにお天気でいいあんばいですね
これだけは鎖の外されない十一番目の家族
ポチもきき耳たてて縁側にやってきました
シャボンみたいな匂いをたてて泡立つ日だまり
けれどもポチの瞳は空の遠くに吸われています
そこには何がきらめいているのでしょうか
雲の頂きのくずれ落ちる雪崩でしょうか
地球の回転する眩暈の影でしょうか
いずれまぶしすぎ見えなすぎる何かだから
それを見つめて唸り声をあげようとするポチの
瞳の脅えを見つめておばあさん
あなたはゆったりほほえんでおいでですね
あなたの息子やその嫁やそこからまた生まれでた孫たちの
これだけの数の未来を生み続けてきたあとの
巨きな母胎の放つ優しい光の強いさざなみ
悲しみも悶えも疼きも底に沈めて()きとおらせて
もう生めない頃になって生まれた最後の家族
自分自身の赤ん坊であるおばあさん
人間でないポチと黙って通じあえることを
喜んでほほえんでおいでのおばあさん
宇宙船から見れば地球は青いレモンです
あなたの子供や孫であるわたしたちはまもなく
あなたとポチをこの日だまりに置去りにして
宇宙船みたいなスピードでまったく新しい天体へ
飛びさっていってしまうのでしょうけれどその時も
ポチの見つめている空の遠くよりもなお遠くで
あなたは宇宙に浮ぶ一個の石のかたまりを
あどけないほほえみのさざなみによって
夢みたいなレモンに変えてしまう光の中心なんです
おばあさん






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第672回 2006/12/03(日)

詩をどうぞ(28)
あめゆじゆとてちてけんじや


 久しぶりに「詩」を取り上げます。

 宮沢賢治の絶唱「永訣の朝」は高校の教科書にも取り上げられていることもあり、 多くの方がご存知の詩だと思います。そして「あめゆじゆとてちてけんじや」がその詩に 四度も繰り返されている妹トシの賢治への呼びかけの言葉であることも。

 唐突にも何故この詩を取り上げることになったのかは後ほど述べることにして、まずは 「永訣の朝」を全編、改めて読んでみます。


  永訣の朝


けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゆとてちてけんじや)*
うすあかくいつそう陰惨いんざんな雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜じゆんさいのもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀たうわん
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛さうえんいろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系にさうけいをたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)*
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて*
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ


 註
*あめゆきとつてきてください
*あたしはあたしでひとりいきます
*またひとにうまれてくるときは
 こんなにじぶんのことばかりで
 くるしまないやうにうまれてきます



 朝日新聞土曜版be(12月2日付)の「愛の旅人」という連載記事が「詩人の妹の 恋と修羅」という表題で賢治とトシを取り上げていた。その記事の中に私の注意を 惹いたことが二つあった。

 一つは「あめゆじゆとてちてけんじや」というリフレーンを「雨雪=みぞれ=をとってき てください、賢治兄さん」と解釈していることだった。これが私の三十数年前の記憶を 呼び起こした。

 上の註(この註は賢治自身が付けた所謂「原註」です)に「あめゆきとつてきてくだ さい」とあるので「けんじや」を「〜してください」という意に解釈されてきた。これを 「賢さん」という兄への呼びかけだと新説を出したのは詩人の山本太郎さんです。 三十数年前、この説に触れて私がこの詩から受ける感動は一層深くなった。

 このことを酒の肴として私は知人の国語の高校教師に話してみた。 大いに興味を持つのではないかと思ったのだが、歯牙にもかけてもらえなかった。たぶん、 現在でも高校の授業などでは原註どおりに扱っているのではないか。

 その新説による解釈に思いもかけず新聞紙上でお目にかかった。もしかするとそれは 「定説」として認められてきているのかな、と思ったりした。

 私はこの説とどこで出合ったのか、調べてみた。私は山本太郎さんご自身の 文章を読んだように記憶していたが、違っていた。「ユリイカ 1970年7月臨時増刊 宮 沢賢治」所収のエッセイ『「無声慟哭」三部作』(会田綱雄)だった。


 ところで、この(あめゆじゅとてちてけんじゃ)という方言の意味を、ぼくは賢治 の原註によって(あめゆきとってきてください)とばかり思いこんでいた。ところが、 前記の『宮沢賢治詩集』で、山本君の註を見て、あッと思った。山本君の註は、こうだ。

 あめゆきとってきてください。賢さ。トシは兄のことを「けんじゃ」と呼んでいた。

 けんじゃ″が賢治の愛称だとすれば(あめゆじゅとてちてけんじゃ)のもつニュアン スは恐ろしいほど濃密になる。しかも、この言葉は、前半27行のなかで、4度もくりかえ されているのだ。山本君の註が正しいとすれば ― ぼぐはほとんどそれを信じているが、い いまそれを確定する時間がないので、こういう言い方しかできない ― 賢治の原註には 明らかに省略があって、それはこの言葉にみなぎるとし子の情感を、結果として薄めてし まったといえるだろう。


 当時(三十数年前)は「前記の『宮沢賢治詩集』」で確かめる気は全くなかったようだ。 改めて「前記」を調べたら、旺文社文庫版『宮沢賢治詩集』だった。私は所持していない。


 さて、「詩人の妹の恋と修羅」で注意を惹かれた二点目は次の一文だった。

『15年4月、東京・目白の日本女子大学校に入学。トシはそこで、あらゆる宗教を究極の ところで一体化し、宇宙と自己の合一を求める成瀬仁蔵校長の「帰一思想」に出会い共 鳴する。』

 この短い文章だけで、成瀬氏の「帰一思想」が私の宗教観と通ずるところがあると 思ったのだった。

 「あらゆる宗黎を究極のところで一体化」したものというと、私(たち)のいう 普遍宗教にあたる。宗教を倫理ととらえるとき、普遍宗教への道はありうべき新しい 倫理の創造ということになる。それに対して、「宇宙と自己の合一」という言葉にこめら れている意味合いは、宗教の根底的教義の面での普遍性ということだろうか。

 成瀬仁蔵氏も「帰一思想」も初めて知った。少し詳しく知りたいと思い、前提書 (ユリイカ)に関係記事がないかと調べた。堀尾青史氏執筆の「宮沢トシ・その生涯と 書簡」に次のような記述があった。


 大正5年(1916)19歳、本科一年生。本科生になってトシも熱心に学業に打ちこんだ と思う。

 この時期は女子大創立者である校長成瀬仁蔵の晩年(1919年3月4日没)に当り、その 信念と理想はいよいよ充溢していた。女子大は国家主義的な良妻賢母養成には反対で、 「第一に女子を人として教育するという点でも、単に男女平等の見地を主張するのでな く、深く宗教的見地から、自覚あり信念ある人格としての教養を目ざしている」の であって、その宗教的見地というものを引用要約すると次のようになる。

 ― 吾々は時にキリスト教徒であり、時に神道家であり、人道教 徒であり、倫理運動家であり、しかも真のキリスト教信徒であると 同時に真の仏教信者である。沢山の信仰が融合して一つのものにな らない以上は、完全な確信にはならない。私の信仰内容をロゴスと 呼ぶことにする。ロゴスを道とかことばとか訳するがつまりはエッ センシャル・ライフ本質的生命である。緊密な意志であり、完き人 格である。この意志、この人格の上にすべての人の共同ができる。 すべての人の共同のできる力、また堅固な自分の確信となる力が、 自分の内になくてはならぬ。そのためには一つの誠というより外に ない純真な態度にならなくてはならぬ。 ― 

といい、すべての宗教を融合した全一的信仰を説いたわけだが、たまたまここにまこ とということばが使われていることに注意しておきたい。

 先駆者というものは多分に人間的魅力がある。成瀬校長に接した人は、わが国は じめての女子大学創立者、強烈な信念、実篤な人柄、質素な生活に感激したようであ る。(中略)トシも学部へ上り、訓話を聞く機会が多くなった。賢治宛て書簡に、 その尊敬の念があらわされている。


   「賢治の熱烈な法華経信仰」と「トシが信奉した普遍宗教的思想」と言う視点で、 賢治とトシの精神的な関係を考える興味は今はおく。

 「第542回 新新宗教批判(9)普遍宗教 2006年7月3日」で、私は次のように書いた。

 私には信仰すべき宗教はないが、宗教的な感性はある。自然の一部として大自 然と感応する「こころ」と言ったらよいだろうか。日本語には適当な言葉がな い。……まだよく熟していない理念なので、極私的にそれを「ポエジー」と呼んでい る。

 成瀬氏の「ロゴス」には「緊密な意志」とか「完き人格」とか、先験的な 「当為」という倫理的な意味が込められている。私がいう「ポエジー」は、自 ずから大自然と感応する「生命」の根源という意味合いであり、倫理的な意味は全 くない。その「感応」とは、命の喜びであったり畏れや敬虔な感情であったり、時に は怒りや悲しみや嘆きや不条理への抗議であったりもするだろう。大本はそこから 導き出されるものとしても、私にとっては、倫理はそれ以後の「人間」の問題とし てある。

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