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328 「日本」とは何か(20)
ヤマト王権の出自(1)
2005年7月11日(月)



 吉本さんと梅原さんの対話が次に取り上げたのはヤマト王権の出自である。この問題に まつわる事柄はいまだほとんど仮説の域にあるが、それらの仮説を照らし合わせたり組み 合わせたりしながら、より信憑性のある説を作り出すほかはない。そのときの基準・方法は たぶん、「常識的な感性」だと思う。

 ヤマト王権は弥生文化を生活基盤とする人たちによって樹立された。ヤマト王権の 出自を問う前に弥生文化がだれがどこからどのようにヤポネシアに伝えたのか、まず 歴史学者の見解を聞こう。「岩波講座・日本の歴史1」所収の山尾幸久氏の論文「政治 権力の発生」を利用する。山尾さんはもちろん、考古学や文献学の成果を論拠にして 論を進めているが、それらの論拠は省いて、大まかな論旨だけを追うことにする。

 朝鮮に青銅器文化が始まったのは遅くとも前四世紀ごろを下らないとといわれている。やがて 中国戦国時代末期、前240年代〜前220年代、燕や斉の亡命者が鋳造鉄器を朝鮮にもたらした。 漢が朝鮮に四郡を設置(前108年〜前107年)した後には錬鉄鍛造品も作られるようになったという。 南部朝鮮が鉄器時代に入るのはさらに一時期遅れて一世紀とされている。
 燕や斉の亡命者は鉄だけではなく、鉄とともに稲をももたらしたと考えられる。 「日本の弥生文化複合の物質的二大要素すなわち鉄と稲」はまず朝鮮半島に伝えられた。

 そのころの南部朝鮮の人々の生活様式特色の一つは西南部の多島海などでの漁撈活動にあり、 造船・航海術にも習熟していたことが察せられる。また、低湿地では初期的な水稲栽培が行わ れていたと考えられる。
 さて、中国を統一した漢は朝鮮を征服して四郡を設けた。そのうち 「真番」という郡は早くも26年後(前82年)完全に放棄された。その理由として反乱などの 外的要因は考えられない。そこで山尾さんは次のように推論している。

 漢の郡県制支配の特色の一つは、前後三回行なわれた戸口調査を基礎とする人頭課税と力投 徴発であるが、国家権力の基盤「庶民」「編戸の民」の中心、力役や兵役を負担する15〜56歳 の男子が種々の方法で国家権力の掌握から逃れて減少し「荒地」(『魏志』韓伝)と化した場合、 長吏を派遣して郡県として維持する意味は稀薄になる。真番郡廃止の理由の一つとして、この ような事情があったのではなかろうか。(その逃亡者たちが)豪族の私的経済機構に流入する といった事態は考えられないから、郡県支配の及ばぬ地に、かなり多数の人々が新たな安住の地 を求めて移動したのであろう。

 漢の郡県制を嫌った南部朝鮮の人々の中にヤポネシアにまでやってきた人たちがいただろう ということは、地理的条件や北九州の海民たちの活動からも容易に考えられる。山尾さんの説 は次のとおりである。
 北部九州人の縄文晩期以来の南部朝鮮人との接触または歴史的親縁性を前提として、当初の ある期間、弥生文化の主として物質的・技術的領域などが学ばれていたのであろう。その後し ばらくして伊勢湾沿岸までの西日本に、比較的短期間に人間集団が飛び地的に移住することに より、この文化が伝播したとされる。その人間集団は南部朝鮮の系統であったらしいが、しか し水稲栽培がなぜ日本列島に定着したかとは一応別個の説明を要するはずの、南部朝鮮からな ぜ人間集団が移住したかの問題は、いまだ必ずしも明らかではない。弥生時代の開始期を想定 するについても、その時期の南部朝鮮の可耕地がどのように分布しており、いかなる稲作がど の程度行なわれ、人間集団を移住させた特殊歴史的な事情はなにであったのか、あまり関説さ れてはいないように思われる。小稿のように鉄と稲との大同江流域への伝来を前三世紀後半と 考え、南部朝鮮への伝播や北部九州人の海を越えての接触による習得の期間をある程度考えた 場合、前三世紀じゅうに、南部朝鮮人または北部九州でのその二世などが、畿内から伊勢湾沿 岸にまで移住して弥生文化を伝えたといったことは、あまり考えられなくなる。かりにそのよ うなことがあれば左に述べる特別の政治的事情は畿内などへの弥生文化伝播の第二波であった ことになりかねないが、小稿は、前記した前108年ないし前82年の、真番郡の設置から放棄まで の時期に、注目したいのである。
 朝鮮半島西南部全羅道地方の、鉄器を使用し稲作を行ない、航海にも長じた半農半漁民の一 部分が、漢の郡県制支配を忌避して朝鮮半島東南部慶尚道地方などに移住する過程で、さらに その一部分は、すでにかなり長期にわたって接触があった北部九州にも渡来し、西日本の各地 に初めて進出したと考える可能性もあるのではなかろうか。
 こう考えると朝鮮四郡の設置は、北部九州などに限られていた弥生文化の西日本各地への伝播 の直接的契機であり、弥生文化は縄文晩期のそれを基礎とし南部朝鮮の文化を受容して成立した ことになり、朝鮮のそれ自体が、江准地区や山東地方の稲作や墓制、北アジアに系譜がたどれる 遼寧地方の牧畜民の青銅器文化や墓制、もちろん戦国期の四大文化系統の一つとされる燕・斉の 鉄器文化等々が、朝鮮半島西南部の河畔・沿海の漁撈生活者としても特色があった人々の新石器 文化を基礎として、習合したものであったことになるであろう。




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329 「日本」とは何か(21)
ヤマト王権の出自(2)
2005年7月12日(火)



 山尾さんの説から当面のテーマに沿った部分を取り出してみる。

1. 朝鮮半島西南部と北部九州とはかなり長期にわたって接触があった。
2. 北部九州に朝鮮からの本格的な移住が始まったのは、真番郡の設置から放棄までの 前108年〜前82年ごろからである。
3. 弥生文化は縄文晩期のそれを基礎とし南部朝鮮の文化を受容して成立した。

 また、山尾さんは中国の史書の記述を詳細に吟味して、そこに登場する倭人の「国」 の地理上の位置を次のようにまとめている。すなわち『前一世紀中葉ごろの北部九州の多数の 「国」、一世紀半ばの那珂郡の「奴国王」、二世紀初頭の北部九州の「倭国」とその王、 三世紀中ごろ、「親魏倭王」が都する畿内の「邪馬台国」』。「邪馬台国」畿内説を採用して いるが、「邪馬台国」がどの地方の「国」なのかという問題は、いまは問題としない。そのか わりに初期ヤマト王権の王と考えられている「倭の五王」の記事が「宋書」に書き留められ たのが413年〜502年であることを付け加えておきたい。

 以上のことを前提として梅原さんと吉本さんの対話に戻る。
 まず江上波夫さんの「騎馬民族渡来説」が取り上げられる。「騎馬民族渡来説」は、た ぶんいまは歴史学会ではまったく問題にされていないのではないか。吉本さん、梅原さんも もちろん否定的取り上げている。

 吉本さんは時間の幅を問題にする。異質の宗教と乗馬の技術と武器をもった一団が、 何の抵抗もなくスーッと入ってきて短期間に畿内へ進出したと考えるのは不自然だという。  ヤマトにやってきたヤマト王権の祖先が騎馬民族だったのか、北九州の定住民だったのか、 あるいは記紀が記述するとおり高千穂の峰あたりからやってきたのか、いずれにしても九州に 定住した弥生人であり、幾世代もの定住を経ながら漸進してきたと考えるのが自然だという。
 そのそのように考えるヒントの一つとして柳田さんの考えを紹介している。

 そこで、興味深いと思えるんですが、稲の種子とか耕作をもって南の島づたいに来た人たちは どうやって近畿地方に入ってきたかについて、柳田さんが言っていることは、外側、つまり四国 の土佐の太平洋側を海岸伝いに通って近畿地方に入るのは、それほど高度な航海術や大きな船で なくても可能であったということです。けれど、豊後水道か北九州の関門海峡かわかりませんが、 そこを通って瀬戸内海を航海するというのは、相当な航海術と船の大きさとがなければできなか ったといっています。
 だから、柳田さんの考え方を敷術すると、琉球・沖縄から島づたいにやってきた、稲作をもっ た人々は、南のほうからやってきて、海峡を通って瀬戸内海から近畿地方に入るという船の技術 が充分に身につくまでは、そこまで来るコースによって北九州か南九州かわかりませんが、そこ へんの沿岸に何代かにわたって住んでいた、というふうに潜在的に考えていたんじゃないか、と 僕は思っているんです。

(中略)

 つまり日本列島で人類が発生したと考えない限りは、どうせ大陸から渡ってきているわけです から、おおざっぱにいえば王権も民衆も大陸から渡ってきたというのは確かでしょう。しかし、 それは時間的にたくさん幅をとらないといけないので、あまり早急に考えると違ってくるのでは ないか。


 柳田さんは稲と稲作技術が南の方から伝わってきたという説に依拠している。私が冒頭にまとめ た朝鮮渡来説とは真っ向から対立する説である。南方渡来説が今なお有力な説の一つなのかどう か詳らかにしないが、ここでは太平洋側の海岸伝いの航海より瀬戸内海の航海のほうが難しいと いう点に注目したい。そして、弥生人の移住が本格的に始まってから「倭の五王」までに数百 年の時間があることを考慮すれば吉本さんの「時間的にたくさん幅をとらないといけない」とい う判断はきわめて「常識的」だと思う。

 この吉本さんの考えを受けて、梅原さんも「騎馬民族説」を二つの点で退けている。一つは 歴史書にその反映がないこと、二つは騎馬民族は父系社会で日本は双系社会と間には相当に断 絶があるという点をあげている。そして、梅原さんはさまざまな新説よりも記紀の記述のほう がずっと納得できるといっている。

 その点、『古事記』にあらわれているニニギノミコトから神武天皇までは――曾孫ですね。こ れは非常に自然ではないでしょうか。ニニギノミコトというのは向こうから来た種族にしても、 その次に来ると、オオヤマヅミノミコトの娘のコノハナサクヤヒメとの間に次の子ができて、そ れが二代にわたってワダノカミの娘との結婚によって神武ができるということになると、外国か ら来た血統が結局、八分の一になってしまいますね。そういう土着の血が入らないと渡来民が、 なかなか日本を支配することは難しいのじゃないかという気がしますね。
 それでもしかし、神武天皇が大和に入ってくれば、さっそく土地の娘を娶らなきゃならんとい うことになる。次代の天皇は、九州の女の子どもではなくて、大和の三輪山の神の血を引く娘の 子どもでなければならぬという――こういうところにそれが事実でないとしても日本の国の成り 立ちが、大変よく説明されているような気がするんです。ですから、いろいろな人が頭で考えた 戦後のあれこれの新説よりも、日本の国の成り立ちというのは記紀に記されている話の方がずっ と納得可能なのではないかと、この頃思うようになりましたよ。

 梅原さんは前々回(第327回)でも記紀の神話をもとに自論を展開していた。記紀の神話部分 は偏狭なナショナリストたちが歴史的事実として一心にしがみついている事柄だから、記紀の 神話をこのように取り上げることにたぶん大方の人は拒否反応を示すのではないか。神話を歴 史的事実とする考えはまったくの迷妄にすぎないが、一方それをまったくのフィクションで あり取るに足らないとする考えは硬直した思考であり、それも誤りだと私は思う。もう少し梅原 さんの考えを聞いてみよう。(次回に続く。)




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330 「日本」とは何か(22)
ヤマト王権の出自(3)
2005年7月13日(水)



 三浦つとむさんの著書に「レーニンから疑え」(1964年刊)という本がある。まだレーニンの権威が 絶対的だったときに堂々とそのような書名をかかげた。三浦さんの独創的な仕事は、たぶんこのような 権威への懐疑精神のたまものではないだろうか。ちなみに、三浦さんに先駆けてレーニンの誤謬を 取り上げた津田道夫著「国家と革命の理論」(1961年刊)は、レーニンの権威にしがみついていた さる筋の圧力により、書店での入手ができなくなってしまったということだ。
 どの分野でも権威に縛られていてはそれ以上の発展は望めない。権威のたなごころの中で視野は 狭くなる。勿論むやみやたらに権威を否定するわけではない。それでは単なる暴論に過ぎなくなる。 継承すべきところは敬意をはらって継承しなければならない。ただ権威のたなごころの中では説明 し切れない問題を解決するために行う必然の成り行きとして否定する。これまでこの「対話」 では金田一京助、柳田国男などの権威との検証が行われてきた。
 記紀の神話をまったくのフィクションとして古代史解明の資料から退けるのは津田左右吉の権威 だろうか。梅原さんは記紀の神話に歴史の投影があり、痕跡が残されていると考えている。しかし そのことをまったく留保なしに前提することへの危惧も念頭において発言している。
 それを認めても、決して国家主義の史観にはならないのではないか。天皇家の祖先が日本列島 にやって来る以前から日本人があり、日本文化があった、そう考えさせるものがすでに記紀の中 に秘かに含まれているのじゃないか、という気がしてしょうがないんですね。柳田国男とちがっ て記紀神話を、天つ神の方からでなく国つ神の方から読むことが可能ではないでしょうか。

 「天皇家の祖先が日本列島にやって来る以前から日本人があり、日本文化があった」という くだりの「日本人」「日本文化」は、もちろん「縄文人」「縄文文化」と読まれるべきだろう。 また「天つ神の方からでなく国つ神の方から読む」という読み方により新たに開けてくるものが あるかもしれない。梅原さんの仮説を聞いてみよう。
 そして、それは南九州の権力が大和に攻めてきたということになっている。文化的にみると、 北九州は弥生時代にすばらしい文化をもっているわけで、北九州文化圏あるいは大和文化圏と二 つの文化圏があって、弥生時代の末になって一つに統一される、ということが大体いえるわけで すね。そこで和辻(哲郎)さんは、北九州権力が大和に攻めてきて、統一したのではないかと考 えている。私もそういう考えでしたが、だんだん記紀神話どおり、北九州権力ではなく南九州権 力が大和へ攻めてきたと考えた方がいいのではないかと考えるようになってきた。
 大体、そういう言葉があるように、金持ちはあまり喧嘩しないもんでね(笑)。アレキサンダー とかジンギスカンのように、遠征したり冒険したりするやつは、みんな貧乏でハングリー精神を もっている(笑)。だからおおよそ弥生末期にいわゆる天孫族が外国から日本に入ってきたとして も、北九州のいいところは全部、先に来た部族に押えられていて南九州にゆくより仕方がない、 そして南九州は環境的にとても不利なところですよ。ああいう所で農業をしていたら食っていけ ないに決まっているから、そこで大きな賭に出た。今でも薩摩の人は気が荒い。おくればせに日 本にやって来た天孫族とアマ族との混血の部族集団が大和へ攻めてきたと考えてよいと思う。
 そして、宮中儀式に使ういろいろなものは、南のものが大変多いですね。例の仁徳天皇の豊楽 の式のときに、紀州でも南の新宮地方にしか出ないようなミツナガシワが必要になって、それを 求めるために仁徳天皇の皇后のイワノヒメが紀州に行く。すると、その間に天皇はワカイラツメ と浮気をしていた。カシワの葉を船に積んで帰ってくる途中でその浮気のことを聞いたイワノヒ メは、怒って摘んできたカシワをみんな海へ捨てたという話がありますけど、そんな南にしかな いものが即位の式に必要だということは、やはり南方説をどこかで裏付けているような気がしま すよ。だから僕は、そういう意味で、記紀神話というのが意外に事実を忠実に伝えているのじゃ ないかと考えているんです。

 どうやら弥生人は稲と鉄とともに、中国大陸の殺戮・略奪・征服による富と権力の樹立方法を も携えてきたようだ。縄文時代の穏やかな暮らしは一変する。



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331 「日本」とは何か(23)
国家神道
2005年7月14日(木)



 話題は再度、精神文化とくに信仰や祭祀の問題が取り上げられる。まず神道について梅原さんが自論 を展開している。その根源を縄文時代までさかのぼれる宗教としてとらえている。
 日本の土着宗教は二度、国家による大きな変化を受けた。一度は律令時代、もう一度は明治以後。 ふつうわれわれが神道と考えるのは律令神道で、これも当時としては大変新しいものだったのではな いだろうか。国家を造っていく場合に、「要らないやつは祓ってしまおう。そして、心の悪いやつを 改心させよう」という、祓い禊の神道ですが、これもそれほど古いものではないと思うんです。あの時 代、7,8世紀に、むしろ道教などの影響を受けながら作られたものだと思います。

 ちょうど明治以後の国家神道が、ヨーロッパの国家主義を伝統宗教で受け止めようとして生ま れたように、律令神道も律令国家建設という大きな歴史的課題のもとで、道教を神道の伝統と結 ぴつけてつくりだされたものだと、僕は考えるのですね。


 この観点から、政治家たちが政治的に利用して日本の伝統と妄言している「靖国神社」について、 次のように述べている。
 靖国神社にしても、あれは日本の国のために死んだ人だけ祀っているんでしょう。ところが、 日本の神道の本来はそうじゃないですよ。自分たちがやっつけたほうを祀っている。それのほう が恨んでいるわけですから、それの鎮魂をする知恵なんです。だから敵を味方にする知恵ですね (笑)。自分のほうだけ祀るのでは、昔の敵はいよいよ恨みを深める。これは、日本民族の知恵と 反対のやり方だ。だから僕は、明治の国家神道は、ほとんど外来のものだと思うんですよ。

 では国家による作為を受ける以前の土着宗教はどんなものだったのだろうか。
 日本の土着宗教の最も基本的な哲学は、やはり霊の循環という考え方じゃないかと、この頃思う んです。人間の生まれてくるのは、霊が肉体に宿ることから始まりますが、その霊がやがて肉体を 離れて天に帰って行く。すぐには天に行けないから山にゆき、そこで清められてから天に行く。そ して天に何十年、何百年いて、またこの世に還ってくる……。これは人類が自分の住んでいる世界 を考える場合、すべてそういう循環の理に従っていると考える。太陽が朝昇って夜没する。そして 次の朝また出てくる。太陽も生きて、死んで、また復活してくる。月が満月になったり欠けたりす るのもそうだ。植物も春夏秋冬と生死のリズムを繰り返す。昆虫も同じである。そういう循環する 世界を見ていたら、人間の霊魂も、一度天に昇って、また還ってくると考えるのは、きわめて自然 でしょうね。
 その霊魂が人間・動物・植物みんな共通で、そういう生死の輪廻を無限に繰り返しているとい う世界観は、旧石器時代の人類に共通したもので、とくに狩猟採集文化が後代まで続いた日本で は非常に色濃く残っているのじゃないか、といまは考えているんです。

 神道の本質は基本的にはそういう思想にあるんじゃないかと、この頃考えているんです。で、僕は そういう考え方がだんだん好きになってきたな。死んで地獄へは行きたくないけれども、極楽へもあ んまり行きたくはない(笑)。極楽を考えるのは、よっぽどこの世で恵まれてない人間ですよ。向こ うへ行ったら、今度は腹いっぱい食べて女にもてたいと思っている。死後の地獄極楽という考えの中 には、この世はどうにもならない悪の里だという考えがある。(笑)
 ところがキリスト教のようになってくると、イエスが再臨して、最後の審判がある。そこで良 いものと悪いものが二分され、裁判される。これはニーチェのいうように復讐心の末世への投影 である。仏教は少しちがうが、やはり地獄極楽に分かれる。キリスト教や仏教の世界観は、厳し い階級社会から生まれてきたもので、どうも日本人の本来もっている世界観のそれとは違う。死 んでも、ときどきはお盆やお彼岸には孫の顔を見に還ってきて、あんまり邪魔しないで三日ほど で帰っていって、何十年、何百年、天に留まって、また子孫に生まれかわってこの世に還ってく る……。こういう世界観が、だんだん好きになってきました。




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332 「日本」とは何か(24)
楕円構造の文化
2005年7月15日(金)



 梅原さんは日本の文化を中心(焦点)が二つある楕円構造をしているものとしてと らえることを提唱している。
 僕は日本文化を楕円構造をもつものと考えると一番いいと思っている。一つの中心は 縄文文化で、もう一つの中心が弥生文化です。日本の精神構造は縄文的なものに大きく 影響されていますが、技術的なものや制度的なものは、やはり弥生の精神で、弥生時代 以来、ずっと日本人は大陸から先進文化を輸入している。古い伝統的な縄文文化を精神 の根底にしながら、絶えず海外の文化や制度を貪欲に輸入している。この二つの面を考 えないと、日本文化は解けないと思いますよ。
 ただ、私も一貫して日本とは何かを考えてきた点でナショナリストですけれど、日本 文化の根底をずっと掘っていくと、今の人類が失ってはいるが、かつて人類が共通にも っていたものにぶっからざるをえないと思います。

 私はそれを「縄魂弥才」といっているんですよ。縄文の魂に弥生の知恵――日本人は、 そういう矛盾する魂を自己の中にもっている。たしかに狩猟採集時代の文明にふさわし い魂をもっているが、弥生時代から新しい文明を海外から移入し続けていることを、つ まり私のいう弥才と称するものを考えないと日本文化は十分よく解釈されない。この縄 魂弥才が後に和魂漢才になり、また和魂洋才になったというのが私の考え方です。
 吉本さんは、日本文化はわからないことが多いと謙虚におっしゃるが、それは本当だ と思います。まだ分からないことが多い。私のは一つの仮説ですがこの仮説は誤ってい るかもしれない。日本の文化が世界の文化の中で、どのような特質をもっているのか、そ してそういう特質をもった日本文化が今後の世界にどのような役割を果たすべきなのか、 こういうことを個別科学の正確な認識にもとづいて、多くの学者でそれを明らかにすべき です。そしてその仮説は出来るだけ多い方がよい。多い理論が自然に淘汰され必要なもの のみが生き残るのが歴史の摂理なのです。だけど仮説なしには生きてはゆけない時代が来 ているように思うのです。


 一方、吉本さんは日本を日本の中から見る眼のほかに上から大きく見る鳥瞰の眼をもつ 必要があると指摘している。また、日本と日本人の分からなさのゆえんを述べて、梅原さん が言うところの楕円構造と同趣旨の意見を述べている。
 これは、梅原さんの日本学というものの根本的なモチーフになるわけですが、僕はとても 内在的といいますか、自分の中から見る眼を使うと、とても面白い考え方だと思いますし、 それはとても重要な問題提起だと思えるんです。でももうひとつ、いわゆる鳥瞰というか鳥 の眼で見る見方からいきますと、どう考えても日本国は東アジアの片隅の、小さな島に過ぎ ません。先ほどの地名でいきますと、アジア・オリエントの一般的な制度・風俗・習慣・思 想・宗教を考えてみますと、アジア・オリエントのそういうものがまず最初にあって、その 次にたとえば東アジアの風俗・習慣・宗教・思想というのがあって、そこに今度はまたもう 少し島という条件がひとつ加わって、この島も地形がかなり細長くて北と南にわたっている から、とても特殊な島でしょうけれど、そういう島という条件があって、その条件をまたア ジア・オリエントの一般条件の中から特殊に考えていかないと、日本の問題はわからないよ ――と考えています。つまり大きな地名から小さな地名、それからまたその下にある小さな 地名……と考えていきますと、「日本学」というものを取り出して、つくりあげていくとい う考え方と、もうひとつ鳥の眼で見る見方と……その両方の交錯点的なものを想像力の中で 入れてないと、なんとなく特殊の普遍化みたいな感じがするんですね。
 そういう点はどうでしょうかね。そういうところが、梅原さんの日本学という概念は、特 殊をとても普遍化するといいましょうか、そういう感じがしないこともないです。

 僕は、いま梅原さんが言われたことと同じことなんですが、ニュアンスを違えて考えて、 日本も日本人も、よくわからないなと思っているところがあるんですね。
 つまり先ほどから、アジアの全体から見て東アジアの片隅の小さい島だと考えて、地勢 的には済んでしまうところもあります。現在の日本を考えると、世界第二の先進国だという のが気になってきます。現在の日本の社会の規模と高度さを支えている技術の多様さは、ち ょっとどうしようもないくらい高度なものです。多分、理屈とか技術の詳しい内容はわから なくても、この間行なわれた筑波万博を見ても、秋葉原の電気製品街を歩いても、どんな高 度な技術製品が並べてあっても、民衆の誰もびっくりしない。何か一種の古さと、わけのわ からないほど高度になっている新しさとが共存している奇妙なあり方はたいへん不思議な気 がします。これはちょっと、日本というのはわからないぜ、というのが僕の実感ですね。
 梅原さんが言われたように、僕も楕円というのを考えていて、世界有数の高度な技術を 持っている技術民としての現在の日本あるいは日本人と、依然としてアジア的な農耕社会の 共同体意識を残している古い面の日本あるいは日本人と、この二つの軸を中心として回って いて、しかも共通に重なり合う部分もあると思います。この二つの軸を強いて一致させては いけないのではないかというのが僕の考え方です。そう考えていかないと日本についての理 解は間違えるのではないかと漠然と考えています。
 梅原さんが日本の歴史の深層を掘っていき、弥生的と縄文的という両方の軸を考えないと いけないと言われたのは、そういう意味でとても興味深いことですね。

 網野さんが農耕民以外の人たちに焦点当てたり、島国の中だけでなく海の方にも視線を 向けてるのも、梅原さんや吉本さんと同じモチーフによるものだと思う。




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333 「日本」とは何か(25)
ヤマト王権の出自(4)
2005年7月16日(土)



 「第330回」(7月13日)で紹介したように、梅原さんは記紀神話には 歴史的な投影があるという仮説のもとにヤマト王権の祖先を南九州から 大和に侵略してきた種族だと考えている。この問題をもう少し 追ってみる。

 久しぶりに本屋をのぞいたら「歴史としての天皇制」という本が眼にとま った。その中に書名と同じ「歴史としての天皇制」というテーマでの網野さん と吉本さんの対談が収録されている。川村湊さんが司会役ということで参加 しているが、むしろ鼎談といったほうがよいだろう。その鼎談がもたれたのは 1987年で、「対話・日本の原像」の一年後ということになる。
 その鼎談の中に次のような興味深い話がある。

吉本
 ぼくは高千穂というところに行ったことがあるんです。車で3時間も4時間 もかかる山のなかへ皇族というのが参拝に来ていて、記念の植樹とかあるん です。だけども、なんとなく、おおっぴらには参拝に来たことを、言えない みたいなところもあるんですね。
 なぜならば、おおっぴらに高千穂神社に参詣したと言っちゃえば、神話 のなかの、自分たちの出自はあそこらへんの縄文中期に栄えた山のなかの 村落にあったんだと認めたことになっちゃいますからね。天皇制がさ。つ まり神話のとおりに、自分たちの祖先は南九州の山のなかの縄文時代の村 落がたくさんある、そういうところが出自だとおおっぴらに認めることに なるわけでしょう、間接的に。
 だから、ぼくはなんとなく、これはひっそりと来ているなという感じを 持ったんです。それはとても面白かったですね。あれは、ひっそりと参詣 に来て、ちゃんと何々が来た、記念のなんとかと、ちゃんとあるからね。 だから、ひっそりとは、ちゃんと参詣しているんですね。
 それは神話にそう書いてあるから、なんか自分たちの祖先はあそこだと いうふうに、一応なっているんじゃないでしょうか。ひそかになっている んじゃないですか。でもそれをおおっぴらにしたら、別になんてことはな いじゃないか、おまえの祖先は田舎の山の奥の奥の縄文人だったんじゃな いかっていうことを認めたことになるわけでしょう。
 しかしみんな来てるなというのが、ぼくの印象で、とても面白かったで す。

川村
 「象徴天皇」のなかに出てますが、瓊瓊杵尊(ニニギ ノミコト)の陵なんてのもちゃんとあるらしいですね。

吉本
 みんなありますよ。ちゃんと対応関係は皆ありましたね。ちゃんと それは出来ているんですよ。

川村
 やっぱりほんとうに神話のなかの天皇なんですね。

吉本
 これまた考古学者の仕事なんでしょうけども、とにかく大規模な縄 文村落の発達したところですから、もちろん可能性だってあるわけだし、 出自だという象徴的必然はあるわけなんですよ。
 だけど、それをほんとうに認めたら、別になんていうことじゃない、こ の人たちは、ということにも、なってしまいます。
 つまり、畿内にきて初期王朝を築いたみたいなところにきちゃえば、 堂々たる中央の大きな王権のはじめなんだということを言えるんだけど、 しかし、もともとはあそこだったんだということを認めたら、それはどう ということはないわけです。
 ぼくの印象はひっそりと来てるなという感じです。
川村
 何とかの別荘に行くときには新聞に出るけれども、そういうときは 出ないですね。

吉本
 出たらおかしなことになりそうな気がしますね。別におかしかない んだけど、日本人の先入の印象とはぜんぜん違っちゃうみたいなことにな り、イメージダウンにつながります。


 この対話によれば、天皇家はまじめに(?)神話を歴史的事実と考えて いる、あるいは歴史的事実とみなしたがってる。ならばなおさら記紀神話を タブーにしてはいけない。梅原さんが言うように記紀の神話に歴史的な投影 があるのなら、それを徹底的に解明することは天皇制を相対化あるいは無化 する上で重要な課題だと思う。
 神話はヤマト王権のふるさとが高千穂の山の中の一集落だと語っている。 そしてどこから来たにせよ、畿内に侵略してきてうち立てたヤマト王権の初 期の大王もたかだか一地方の首長に過ぎないだろう。こういうことも検証できれば その意義は大きい。



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335 「日本」とは何か(27)
ヤマト王権の出自(6)
2005年7月18日(月)



 前回の追記。
 もしかしたら…と思い至って、今日、念のため「日本書記」を覗いてみた。こちらの方には即位 したときの年齢も書かれていた。「紀元前660年2月11日」は日本書記を用いて計算されたようだ。
 あまりバカバカしいので全部調べる労をはぶくが、はじめの2代だけ古事記と比較してみた。 日本書記ではカムヤマトイワレヒコの没年齢は127歳(古事記では137歳)。2代目のカムヌナカワミミは 45歳で即位したことになっている。カムヤマトイワレヒコが82歳のときの子供ということになる。没年齢 は84歳(古事記では49歳)になっている。まあ、このいい加減さには、まさにあいた口がふさがらない。

 さて「対話・日本の原像」には巻末に、対話で取り上げられた 話題について、吉本さんが「註記」と題する補足を書いている。 その中の「信仰・祭祀」に関する部分を読むことにする。これは「第323回」(7月6日)の 続きということになる。ヤマト王権の「信仰・祭祀」とそれ以前の「信仰・祭祀」との関係から ヤマト王権の出自を考えるというモチーフがある。もちろん確定的なことは何もいえない。 しかし問題の核心がどこにあるのか、その全体像はイメージできる。

 ここには日本列島の住人の種族における南北問題と、縄文期、弥生期を貫き初期古墳期にいたる歴史時間 の問題が複雑にからみあっていて、神話、伝承、地域信仰や習俗を解き分けてゆかなければ、とうてい一義 的な確定が得られそうもない。この問題を具体的に整理してみる。

(1)
 諏訪地方に諏訪神社を中心とした大祝祭政体が成立していたことが、比較的よく研究されている。 このばあい男性の生き神大祝と随伴する共同体の政事担当者の起源の関係は、神話の伝承に入り込んでおり、 時代を降ってまた中世・近世の態様も比較的よく知られている。

(2)
 神話伝承の最初期の天皇群(神武から崇神まで)の祭政の在り方は、『古事記』『日本書紀』の記載の読み 方によっては、長兄が祭祀を司り、末弟(またはそれに準ずるもの)が政治を司る形態とみられなくはない。 これらは次第に皇后が神事を司り、天皇が政治を司る形、皇女が分離した祭祀を司る形へと移行する。

(3)
 おなじように長兄が祭祀を司り、生涯不犯の生き神として子孫をのこさず、弟が共同体を統括する形は、瀬 戸内の大三島神社を中心とする祭司豪族河野氏の祖先伝承として存在するとされる。

(4)
 沖縄地方では姉妹が神事を司り、その兄弟が政治を司るという形態が古くからあり、聞得大君の祭祀的な村落 共同体の統轄にまで制度化された。

(5)
 樹木・巨石の信仰は、日本列島の全域にわたって遺跡が存在する。諏訪地方における諏訪神社信仰。三輪地方に おける三輪神社信仰。高千穂地方における岩戸神社信仰。沖縄における御岳信仰。これらは神話や伝承に結びつい ているが、その他制度化されていない形で無数に存在する。そしてこの信仰は狩猟や木樵の祭儀の形態と農耕祭儀 の形態とを重層しているばあいもあれは、狩猟だけ、農耕だけの祭儀に結びついているはあいもある。

(6)
 神話、伝承の考古学的な対応性ともいうべきもの、また民俗学的な対応性ともいうべきものが存在する。それは 縄文期、弥生期、古墳期のような区分が、日本列島の地理的な条件の上では、地勢の海からの標高差に対応している 面があるからである。狩猟、木樵、漁業、農耕(水稲耕作)などの差異は、地勢上の標高差の問題と対応し、縄文、 弥生、古墳期のような歴史以前と歴史時代初頭の問題との対応をもっている。


 何の構想もないままに「日本」をテーマにはじめたこの稿はいま、「歴史以前と歴史時代初頭の問題」をめぐって迷子 になっている。ヤマト王権の「倭の五王」以前が空白のままだ。そこが空白のまま「古墳時代」になってしまう。 今手元にある日本史関係の本をめくってみても、その問題を避けているか、取り上げていても満足できる論はない。
 吉本さんがまとめた上の五つの問題へのアプローチは、その空白に近づく一つの道筋になると思われる。特に(6) に注目したい。私がいう「空白部分」はまさに「歴史以前と歴史時代初頭の問題」にほかならない。そこでは「神話・ 伝承」と「考古学」、「神話・伝承」と「民俗学」の対応が重要な問題ということになる。

 「神話・伝承」と「民俗学」の対応の一つとして、吉本さんは柳田国男の例をあげている

 わたしたちはこの問題について民俗学者柳田国男を論じたとき、柳田国男が民俗学の眼から神 話をみていた視点を想定して、つぎのように述べたことがある。柳田国男のばあいには、この種 の対応は、海流と航海技術と造船技術が、神話とのある対応関係にあるとみなされていた。

 このところには柳田国男の『記』『紀』神話にたいする微妙な異和と同和とが同時にふく まれている。始祖の神話の持主である初期王権が、いわゆる「東征」といわれたものの起点を南 九州(もちろん日向の沿海であってもいい)においているところまでは「船」を仕立て直す休 息点(あるいは「日本人」が成長してゆく熟成点)として、柳田の「日本人」がはしってゆく 流線と、一致できるものであった。

 だがそこから瀬戸内海にはいる経路と土佐国の沿岸を連ねる経路とのあいだの〈分岐〉〈異和〉 〈対立〉は、柳田のいわゆる常民「日本人」と初期王権の制度から見られた「日本人」との絶対的 差異として、柳田の容認できないところであった。

 初期王権が『記』『紀』のなかで始祖神話の形で暗喩している支配圏や生活圏の版図は、北 九州から南九州にわたる沿海地帯と、瀬戸内海の四国側寄りの沿海地帯や島々にかぎられてい る。わたしのかんがえでは、柳田国男はこの神話の暗喩する版図になみなみならない親和感を いだいていた。この親和感が、南九州(日向沿岸でもよい)のどこかで南西の島から東側海岸 に沿ってやってきた柳田の「日本人」が、「船」を整えなおしたというかんがえに愛着した理 由だとおもえる。

 またしいていえば柳田が、本来無意味なのに、じぶんの常民的な「日本人」の概念を、制度や 王権の問題にまで無造作に拡大して、朝鮮半島を南下したいわゆる騎馬民族が初期王権に坐った という説に、抜き難い不信を表明した理由であった。
 もうすこしくわしくできるだろうが、柳田のいう「日本人」は、地上二米以下のところしか歩 いたり、走ったり、願望したりしない存在だから、制度や王権にかかわりない、まったくべつの 概念であった。
          (吉本「柳田国男論」第T部「国文学 解釈と教材」29巻9号、59年ア月号)

 整理しなおすと次のように言っていると思う。
柳田の「原」常民は宝貝を求めてはるか南の方からやってくる。南九州で「船」を仕立て直した 「原」常民は「土佐国の沿岸を連ねる経路」を通っていくはずである。しかるに「記紀」神話が 描く経路は「瀬戸内海にはいる」。「北九州から南九州にわたる沿海地帯と、瀬戸内海の四国側寄 りの沿海地帯や島々」という「記紀」神話が描く支配圏・生活圏を柳田は原「常民」の版図と考え たいのだが、ヤマト王権がたどる経路が柳田の「原」常民の経路と整合しない。その矛盾は、もと もと、「制度や王権にかかわりない」常民という概念を「制度や王権の問題にまで無造作に拡大」 したためだ。




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337 「日本」とは何か(29)
ヤマト王権の出自(8)
2005年7月21日(木)



(3)
 即ち、鳥見(とみ)の長髄彦(ながすねひこ)、菟田(うだ)の兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし) 、吉野の井光(ゐひか)、同じく磐排別(いわおくわく)、苞苴担(にへもつ)、国見岳の 八十梟帥(やそたける)、磐余(いわれ)の兄磯城(えしき)・弟磯城、磯城の磯城八十梟帥、 高尾張の赤銅(あかがね)八十梟帥、兄倉下(えくらじ)・弟倉下、波?丘岬(はたのおかさき) の新城戸畔(にいきとべ)、和珥坂(わにさか)の居勢祝(こせほふり)、臍見長柄丘岬(ほとみのながらのをかさき) の猪祝(ゐのほふり)、高尾張の土蜘蛛(つちくも)などとあります。地名は動く可能性もあり、 また奈良朝人の想定も予測されるが、地名と部族名が平行して出て来るところから、古くからその 部族がそこに住んでいたという気がします。これらの地名を現在の地図にあてはめると、全部標高 70m線以上にあります。若し神武紀が奈良朝に偽作されたものならは、考古学や地質学の知識のな い、しかも地盤隆起の原則を知らなかった奈良朝人は、これらの地名のうち一つ位は地盤の低い所 をあてても良いと想像される。このようなところに案外、古代人の活躍の史実が古典に投影してい るのではないかと思われるわけです。

 古い土地、つまりより標高の高い土地70m以上のところには土着の人たち、たぶん縄文人と弥生人が 融合しながら平穏な社会を営んでいた集落があった。
 更にこれらの遺跡を発掘してみますと、全部が縄文土器終末期のもので す。最近、晩期縄文土器の年数設定が出来た。炭素放射能の減退量をミシガソ大学が測定したと ころによると、近畿地方の中期弥生式土器は大体今から二千四百年ほど前、そして晩期縄文土器 は約二千六百年前のものと測定された。もちろんプラス・マイナス二百年の誤差はありますが、 この事実は科学的に信用せざるを得ないのではないでしょうか。従って神武天皇遺跡は大体にお いて少なくとも二千六百年、更にはそれ以上前の湖岸もしくはそれよりも高い所の地名が舞台に なっていると云うことが出来ます。14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる 偶然としては見過ごされない事実でして、寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当か と思います。

 樋口さんは土器から推定された紀元前600〜400年という年代をそのままヤマト王権の初期の大王たち の時期とみなしているようだが、私たちが史書の記録から100〜300年頃と推定した年代とはるかに異なり、 容認しがたい。その反論の根拠は素人としさし控え、深入りしない。
 しかし「14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる偶然としては見過ごされない事実でして、 寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当かと思います。」という点は、その可能性は否定しがたい と思う。
(4)
 しかも橿原遺跡は、奈良県では珍らしく大きな縄文末期のものです。この岡で人間は半水上生 活をしていたこともわかっております。舟も着きやすく、見張りにも便であり、三方が水であっ てみれば敵から守ることにも都合がよかったようです。そしてこの遺跡から出た食糧を眺めると、 水の幸・山の幸の両面に恵まれた生活であったことが想像出来る。即ち、鼬廃鼠(いたち)・野兎 ・猪・鹿・狼・山犬・狸・狐・河獺・熊・穴熊・猿・鶴・白鳥・鴨・鳩・鴫・山鳥・鯨・石亀 ・?(えい)・鯛・河豚・鯔(ぼら)・鱸(すずき)・海豚など、まことに多種多彩です。魚類に しても近くの淡水魚はもちろん、?(えい)・鯛・鯔などの海魚は恐らく遠く大阪湾から持ち運んだ と思われ、また鯨・海豚などは紀伊方面か らの経路が想定されます。更にこの遺跡から出る石器の石質は吉野地方の緑泥片岩であって、か くみると、橿原遺跡の生活圏或は物資伝播の経路は非常に広いということになります。所で、 檪(くぬぎ)・樫はやや亜寒地性のところに好んではえる植物で、今の大和平野にはありませんが、当時の 気温環境はより寒冷に近いものだったことも同時にわかって、まことに面白いと思います。  このように縄文晩期の聚落はこの地に栄えていましたが、或る時期に川が流れて来て半島の先 をけずり、水で包んでしまったために木は枯れ、その上から堆積土が2mも重なり長い間地下に 埋まってしまった。もし橿原の地名が畝傍山の東南にあったとしても、その地名は消え去ってし まう可能性が肯けるのであります。
 かく云う私は、神武天皇個人の存在を無条件で認めているわけではない。神武天皇紀の説話に、 歴史的信憑性があり、歴史の投影があると云っているのです。

   吉本さんのコメントで結論付けると、樋口さんは「これらの根拠から、神武東征の神話が、北九州の稲作や製 鉄器の技術を伴った弥生式の文化が、畿内に伝播し、流入する経路を象徴するに足りることを結論 している。」ことになる。
 しかし私が注目したいのは、ヤマト王権がよそから畿内に侵略してきた種族だとすると、その侵略までは縄文人 たち(弥生人との融合を深めながら)が豊かで平穏な社会を営んでいたらしいということである。




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337 「日本」とは何か(29)
ヤマト王権の出自(8)
2005年7月21日(木)



(3)
 即ち、鳥見(とみ)の長髄彦(ながすねひこ)、菟田(うだ)の兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし) 、吉野の井光(ゐひか)、同じく磐排別(いわおくわく)、苞苴担(にへもつ)、国見岳の 八十梟帥(やそたける)、磐余(いわれ)の兄磯城(えしき)・弟磯城、磯城の磯城八十梟帥、 高尾張の赤銅(あかがね)八十梟帥、兄倉下(えくらじ)・弟倉下、波?丘岬(はたのおかさき) の新城戸畔(にいきとべ)、和珥坂(わにさか)の居勢祝(こせほふり)、臍見長柄丘岬(ほとみのながらのをかさき) の猪祝(ゐのほふり)、高尾張の土蜘蛛(つちくも)などとあります。地名は動く可能性もあり、 また奈良朝人の想定も予測されるが、地名と部族名が平行して出て来るところから、古くからその 部族がそこに住んでいたという気がします。これらの地名を現在の地図にあてはめると、全部標高 70m線以上にあります。若し神武紀が奈良朝に偽作されたものならは、考古学や地質学の知識のな い、しかも地盤隆起の原則を知らなかった奈良朝人は、これらの地名のうち一つ位は地盤の低い所 をあてても良いと想像される。このようなところに案外、古代人の活躍の史実が古典に投影してい るのではないかと思われるわけです。

 古い土地、つまりより標高の高い土地70m以上のところには土着の人たち、たぶん縄文人と弥生人が 融合しながら平穏な社会を営んでいた集落があった。
 更にこれらの遺跡を発掘してみますと、全部が縄文土器終末期のもので す。最近、晩期縄文土器の年数設定が出来た。炭素放射能の減退量をミシガソ大学が測定したと ころによると、近畿地方の中期弥生式土器は大体今から二千四百年ほど前、そして晩期縄文土器 は約二千六百年前のものと測定された。もちろんプラス・マイナス二百年の誤差はありますが、 この事実は科学的に信用せざるを得ないのではないでしょうか。従って神武天皇遺跡は大体にお いて少なくとも二千六百年、更にはそれ以上前の湖岸もしくはそれよりも高い所の地名が舞台に なっていると云うことが出来ます。14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる 偶然としては見過ごされない事実でして、寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当か と思います。

 樋口さんは土器から推定された紀元前600〜400年という年代をそのままヤマト王権の初期の大王たち の時期とみなしているようだが、私たちが史書の記録から100〜300年頃と推定した年代とはるかに異なり、 この点は容認できない。
 しかし「14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる偶然としては見過ごされない事実でして、 寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当かと思います。」という点は、その可能性は否定しがたい と思う。
(4)
 しかも橿原遺跡は、奈良県では珍らしく大きな縄文末期のものです。この岡で人間は半水上生 活をしていたこともわかっております。舟も着きやすく、見張りにも便であり、三方が水であっ てみれば敵から守ることにも都合がよかったようです。そしてこの遺跡から出た食糧を眺めると、 水の幸・山の幸の両面に恵まれた生活であったことが想像出来る。即ち、鼬廃鼠(いたち)・野兎 ・猪・鹿・狼・山犬・狸・狐・河獺・熊・穴熊・猿・鶴・白鳥・鴨・鳩・鴫・山鳥・鯨・石亀 ・?(えい)・鯛・河豚・鯔(ぼら)・鱸(すずき)・海豚など、まことに多種多彩です。魚類に しても近くの淡水魚はもちろん、?(えい)・鯛・鯔などの海魚は恐らく遠く大阪湾から持ち運んだ と思われ、また鯨・海豚などは紀伊方面か らの経路が想定されます。更にこの遺跡から出る石器の石質は吉野地方の緑泥片岩であって、か くみると、橿原遺跡の生活圏或は物資伝播の経路は非常に広いということになります。所で、 檪(くぬぎ)・樫はやや亜寒地性のところに好んではえる植物で、今の大和平野にはありませんが、当時の 気温環境はより寒冷に近いものだったことも同時にわかって、まことに面白いと思います。  このように縄文晩期の聚落はこの地に栄えていましたが、或る時期に川が流れて来て半島の先 をけずり、水で包んでしまったために木は枯れ、その上から堆積土が2mも重なり長い間地下に 埋まってしまった。もし橿原の地名が畝傍山の東南にあったとしても、その地名は消え去ってし まう可能性が肯けるのであります。
 かく云う私は、神武天皇個人の存在を無条件で認めているわけではない。神武天皇紀の説話に、 歴史的信憑性があり、歴史の投影があると云っているのです。

   吉本さんのコメントで結論付けると、樋口さんは「これらの根拠から、神武東征の神話が、北九州の稲作や製 鉄器の技術を伴った弥生式の文化が、畿内に伝播し、流入する経路を象徴するに足りることを結論 している。」ことになる。
 しかし私が注目したいのは、ヤマト王権がよそから畿内に侵略してきた種族 だとすると、その侵略までは縄文人 たち(弥生人との融合を深めながら)が豊かで平穏な社会を営んでいたらしいということである。




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338 「日本」とは何か(30)
ヤマト王権の出自(9)
2005年7月22日(金)



 樋口さんは、畿内にやってきた勢力がどこから来たのかという問題には言及し ていない。 「ヤマト王権の出自」についての諸説をまとめてみる。

 「第328回」(7月11日)で紹介した論文「政治権力の発生」の筆者・山尾幸久 さんは邪馬台国畿内説を採っている。その邪馬台国が発展して「倭の五王」に つながっていくと考えているようだ。従ってイワレヒコ(網野さんの指摘を受 けて私は「神武天皇」という呼び名は用いないことにする。)の東征については まったくの歯牙にもかけていない。
 一方、邪馬台国北九州説を採る人たちはその 所在地を筑後山門郡とする説が有力のようだ。「神武天皇」(中公文庫)の著者・植 村清二さんはその説に同意して、邪馬台国の所在を筑後御井付近、投馬国は薩摩の川内付近 としている。そして北九州の連合国家の支配権を手にした邪馬台国が東征して畿内に入った と考えている。東征したのは邪馬台国ではなく薩摩にあった投馬国だという説もある。
 これらの諸説に対して、「戦後のあれこれの新説よりも、日本の国の成り立ち というのは記紀に記されている話の方がずっと納得可能なのではないか」という 梅原さんの考えを先に述べた(第329回)。梅原さんは「記紀」の記述の通り、ヤマト王権 の始祖は日向から東征したと考えている。

 私はいまさら何故こんなにイワレヒコにこだわるのか。もちろん最近の 政治や教育行政の反動的な動きやそれに同調する社会状況への対峙の仕方の 一つと考えているからだ。それは考古学者・森浩一さんがその著書「天皇陵 古墳」で述べている次のようなモチーフと別のものではない。

 藤ノ木古墳の家形石棺の調査にさいして、さまざまな被葬者候補がだされたときにも、考古学では 墓誌でもないかぎり、被葬者は永久にわからない″とする慎重とも多少投げ遣り的ともとれる発言を よく耳にした。このことは、藤ノ木古墳のように考古学資料が豊富で、しかも前期古墳や中期古墳に くらべると記紀の編纂時に近い後期古墳であっても、被葬者については有力候補をだすに終わるであ ろうとする学問的限界を示している。
 とはいえ、私も前に試みたように(『考古学と古代日本』中央公論社、1994年) 、歴史的に創作された始祖王と考えられている神日本磐余彦(かむやまといわれひこ) 、つまり神武の陵を明らかにするのは考古学的に無意味とは思わない。無意味 どころか、いつごろ始祖王なるものが創作または意識され、人びとにそれを架 空の人物ではないとする印象をあたえるため墓(陵)を作りだしたかを明らか にするのは、文献学だけではなしえない研究である。

 森さんはヤマト王権の祖とされている記紀の物語の主人公について、他の 著書(「記紀の考古学」)でも「神武」は( )つきで表記し、もっぱら「イワ レ彦」という呼び方をしている。さすが、だと思う。

 ところで、現在「神武稜」と定められている陵墓は畝傍山の東北麓にある。それは江戸時 代に、学者間の約90年間にわたる議論の末に1863(文久3)に定められたという。 幕末の「尊皇攘夷」思想と無関係ではあるまい。このあたりの経緯について植 村清二著「神武天皇」から引用する。

 神武天皇は、それがあまりに遠い上代に属するためか、こうした特殊な地位(皇室 の最初の祖)を占めているにも拘わらず、久しい間特別に記憶され尊崇された形跡が ない。応神天皇は奈良時代に起った八幡宮の信仰に結びつけられて、後世までその祭 神とされたが、神武天皇にはそうしたこともない。天智天皇は中宗と称せられ、その 陵墓は十陵八墓の最初に列せられて永世奉幣を絶たぬことと定められたが、神武天皇 にはそうしたこともない。中世の史書を代表する「愚管抄」や「神皇正統記」なども、 天皇について特筆したことはない。天皇の名はただ年代記の最初に記されるだけに止 まって、それ以上の意味を持つことはなかったのである。

 神武天皇の存在が強く意識されるようになったのは、恐らく江戸時代の中期に国学 の研究が起って、本居宣長や平田篤胤等によって古代の歴史が回顧されるようになっ てからであろう。水戸学もまた名分論からこの傾向を助長し、藤田東湖や会沢安は、 いずれも皇道の基本を天皇の事蹟に求めている。徳川幕府が権威を失って、天皇政治 の復古が唱えられるようになると、この風潮はますます盛んになり、文久年間にはそ の陵墓が決定して修理が行われ、引き続いて孝明天皇が摸夷の奉告のために、ここに 行幸されようとすることさえあるようになった。

 明治維新はこうした気運に推進されて成功したのであるから、王政復古とともに皇 室の始祖としての神武天皇が強く回想されるようになったことは極めて自然である。 大国隆正の門下であった玉松操が岩倉具視に「須く神武の創業に基づき我より古を作 すべし」と献策したのは有名な話であるが、それはいわばこの意識を代表したものに 過ぎない。
 明治5年には神武紀元が制定せられ、また天皇の即位の日を祝日として紀元節と名づ け、7年以来2月11日と定められた。明治22年には皇居があったと伝える畝傍山の東南に、 天皇を祭る神宮が創建せられ、翌年(神武紀元2550年)橿原神宮の宮号を定め、官幣大 社に列せられた。同年また軍人の勲功を顕彰するために長髄彦討伐の際の故事によって、 金鶉勲章が制定されている。

 こうして神武天皇は明治時代には過去に比類のない著しい存在となった。 美豆産(ミズラ)結び、手纏(タマキ)・足纏(アユイ)を飾り、頭椎(カプツチ)の剣 を侃き弓河(ユハズ)に鵄を止めた姿は、小学読本をはじめとして全国民の間に普及した。 それはとりも直さず、この時代に強調された皇室を中心とする国家意識の一つの象徴に 外ならなかった。従って昭和時代に反動的に軍国主義が、いわゆる皇道と結びついて拡が るようになると、神武天皇はまた肇国の精神の名によって宣伝された。紀元2600年はあた かもこうした時機に当ったために、盛大な祝典が行われ橿原神宮は拡張が行われ、天皇の 聖蹟調査委員会は伝説上の土地を決定するために設置された。その翌年が太平洋戦争勃発 の年であったことを思うと、それはある意味で旧大日本帝国の最後の光栄を示すものであ ったということができるであろう。


 なお、天皇陵選定や改修どきに国民がいかなる仕打ちを受けてきたか、その一例として 「神武稜」のケースを「天皇陵古墳」から引用する。
 最後に「神武陵」については、1917年(大正6)9月13日の計画決定以降、数年をかけて 天皇陵の神聖を犯すという理由で隣接の(ほら)村の移転が すすめられた。これは単なる民家の立退きにとどまらず墓地の改葬をともなうような徹底 したものであった。移転の内実については「強制」と「自主的献納」という二つの側面が 存在したことが今日、明らかにされつつあるが、移転が天皇制の強権と部落差別にもとづく ものであることは明白である。すなわち近世以降、継続される修築事業の本質をここに読み とることができるのである。




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339 「日本」とは何か(31)
ヤマト王権の出自(10)
2005年7月23日(土)



 植村さんの前回に続く文を読んでみる。
 戦後旧体制の崩壊とともに、この事情は根柢から一変した。既に大正時代から 古代史の研究の進歩とともに、神武天皇の伝承については懐疑的な傾向が強く なって来ていたが、皇室に対する言論のタブーが消滅するとともに、従来の歴 史は偽られていたというような呼び声のもとに、記紀の伝説は簡単に抛棄せら れ、神武天皇も勿論その存在を否定されることになった。これにはいわゆる天 皇制に関する政治的論議、特にこれを否認する意見が、ある程度まで影響して いることも争われないようである。

 戦後の社会科はこうした科学的意見に従って、皇道の教主であった神武天皇 を、教科書から完全に追放した。国語科で「古事記」などを文学的に取り扱う 場合でも、こうした歴史的物語は注意深く削除されている。それはかつて社会 主義的思想に関するものを取り扱った場合と、対蹠的ではあるが酷似している。 そこで現在の中学生は弥生式土器や卑弥呼については、若干の知識を持ってい ても、神武天皇に関しては、殆ど何の興味も持たない。あるいはこれは戦前と 戦後によって、一般の歴史知識に変化を見た、その最も大きい一つかも知れな い。皇室に対する社会の観念の変化は、その伝説上の始祖の取り扱いまで全く 変化させるようになったのである。


 「かつて社会主義的思想に関するものを取り扱った場合と、対蹠的ではあるが酷 似している」のは隠蔽の仕方ばかりではない。ある思想はいくら隠蔽してもしても 抹消はされない。社会主義思想が抹消されなかったように、皇国史観も隠蔽しても 抹消することはできない。思想には思想で真正面から対峙するほかない。皇国史観 の存在さえ知らず、ましてや皇国史観があの無謀で悲惨は戦争遂行に大きな役割を 担ったことも知らないで育った人たちは、いまよみがえろうとしている皇国史観の毒素 にたいして免疫がなく、むしろたやすく感染してしまうのではないかと危惧する。 今その毒素は中学教育の現場を侵蝕しようとしている。
 しかし純粋な史学の立場からすれば、政治的事情の変化によって、史的事象 の評価にまで変化を生ずることは、決して好ましいことではない。歴史的問題 そのものに政治的意味を付け加えることはもとより避くべきことである。伝承 の批判の結果、神武天皇の物語が後の時代に作られたものであるとするならば、 何故にそうした物語が作られたかということは、同時に新しい一つの課題とな る。そして大和朝廷の存在ということが否定することのできない事実である以 上、それがどうしてはじまったかということは、更に解明を要する問題となる。

 伝説上の神武天皇が歴史的に存在したか存在しなかったかということは、た だいくらか通俗的な興味をひくだけの問題に過ぎないが、日本の古代国家が、 どのようにして成立したかということは、少なくとも多数の日本人にとっては 知ることを要する、また知らんことを欲する重要な問題である。まして伝承の 批判にはまだ多くの検討の余地がある。神武天皇はこの意味から紀元節や建国 祭の復活から離れて、なお新しい研究の主題である価値を失わないのである。


 まったく真っ当な考え方だと思う。このような問題意識のもと、植村さんはこ れまでの記紀、特に「神武天皇の物語」をめぐっての諸研究が「物語そのものを 合理的に説明するに止まっていた」ことを批判している。そして記紀にはじめて 科学的な批判を加えたのは津田左右吉であると指摘して、その記紀批判の要約を 紹介している。次回はその部分を読むことにする。




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347 「日本」とは何か(32)
すごい本、みっけ!
2005年7月31日(日)



 一週間ぶりに『「日本」とは何か』に戻る。

 植村清二著「神武天皇」の中の津田学説の要約を読み、植村さん自身の 仮説を読んでいく予定だったが、急遽変更することにした。

  この稿はかなり混迷しているのでこれまでの内容をおさらいをしようと読み 返していたら、「第334回 ヤマト王権の出自(5)」(7月17日)の記事を 記録し損なっているのに気づいた。実は、その回に書いた内容の補充・訂正を して、そこにから改めて仕切り直そうと思ったのだった。それには次のような 理由がある。

 これまで「ヤマト王権の出自」についてのいろいろな手がかりや仮説を読んで きたが、どれにも満足できなかった。まったくの素人の勝手な感想でしかないが、どの論にも 大事なところではぐらかされたような感じが残った。私が最も関心があり、最も 解明してほしいと願っている疑問点にほとんどなにも答えてくれなかった。 戦後の「古代史」学の混迷振りは、どうやら津田理論を金科玉条の大前提とし ているところにあるようだ。

 新たな資料を求めて本屋の棚をのぞいていたら、古田武彦氏の著書が目に とまった。名前は存じ上げていた。一時期かなり話題になったことがある。 しかし、その頃私は古代史にさほどの関心を持っていなかったし、それまで の諸説と大同小異の理論だろうという先入観にとらわれていて、その著書を 手に取るまでにはいたらなかった。いま、その不明を恥じている。

 「盗まれた神話―記・紀の秘密―」(朝日文庫)を手に取りその目次をみた だけで、私が持っている種々の関心事に真正面から取り組んでいることが一目 瞭然だった。
 実際に読んでみてびっくりした。今までの諸仮説がはらんでいる問題点・ 矛盾点を克明に批判しながら、堅固な論証の上に自説を展開している。私は これまで知ったどの学説よりも正しいと思った。同時に、学者たちがこの 古田さんの一連の論文をほとんど無視しているらしいことを、いぶかしく思っ た。いや学者ばかりではなく、梅原さん、吉本さんもまったく触れていない。 ちなみにこの著書の初版は1975年に出版されている。(文庫本化は1993年)

【追記】(2005/10/16)
 吉本さんは古田説をご存じだった。『ハイ・イメージ論』の「地図論」で古田さんの神武実在説を取り上げてる。


 古田さんの解明した古代史を知った今、他の諸説は私には無用になった。 継承発展させるにせよ、批判的媒介にするにせよ、古田説をスタート台にする べきだと思う。(勿論私はただ啓蒙されるばかりの一読者に過ぎない。)教科書 も古田説に従って大幅に書き換えられるべきだと思う。

 古代史のより正しい全体像を描くことは、迂遠なようだが、「天皇制」の 欺瞞・詐術を暴くことでもあり、最近の反動的な状況への大事な対峙の仕方の 一つでもあると、私は考えている。できるだけ多くの人が、古田さんの解明し た古代史を知るようになることを願わずにはいられない。
 シリーズ『「日本」とは何か』は発展的解消(挫折したといってもいいかな。) ということにして、次回から表題も改めて古田さんの古代史を紹介して いこうと思う。ただし、古代史の全体像を描くことに重点を置き、厳密で 専門的な論証部分ははぶく。いわゆる「定説」を多く知っている人ほど 「そんなの信じられない」というような事柄に多く出会うかもしれない。 そのときはぜひ古田さんの著書を直接お読みいただきたい。
 さしあたって次の著書を利用する。

『「邪馬台国」はなかった』
『日本列島の大王たち ― 古代は輝いていたU』
『盗まれた神話 ― 記・紀の秘密』
        (いずれも朝日文庫版)