日本は四面環海の島国である。しかもユーラシア大陸の絶東にあり、モンスーン・アジアの温暖な気候 にめぐまれ、日照と降雨に富み、農作物はゆたかにみのり、港の幸・山の幸にかこまれ、その中だけで 十分に自給自足できるという文字通り豊穣の島″であった。しかも、他からの侵略の恐れがほとんどな いという稀なる孤島であった。
大陸の各地から、沿海の北から南から、ながい人種戦争ときびしい自然の中での生活に疲れ、至福の大 地を求めてここに終着し、定住した人びとは、どんなにこの和やかな楽園を愛し、神々に感謝したことで あろう。(北方寒冷地や中央アジアの乾燥地帯に住んだ人びとの眼には、この大和こそ 天地のさきわう国、理想の地として映ったことであろう。) そうした移住民の喜びと賛歌とオプティミズムとが『古事記』の神代の巻などには溢れている。
この島では階級間の争いはあれ、生命の連続が根こそぎ断ち切られるということはない。(種族み な殺しになるような異民族の侵入は、13世紀のモンゴルの来襲の例外をのぞいて、ただの一回もない。) 時″は命の勢いそのままに永遠につづくものであって、この島の民はついに絶対否定の外的契機を 知らない。産霊( の神はたえず生産をくりかえし、人びとはそれを 産土( の社( にまつり、共同体 をつくって祖霊とともに永劫にこの大地で栄えようとねがった。来世も死も彼岸の外来観念も人びとを 虚無的にはしなかった。命は永遠で、永遠はこの今にあると思惟されてきた。その「歴史的オプティミ ズム」ともいえる信念は固有信仰となって、2000余年、いくたの世界宗教と習合しながらもヤドカリの ように一貫して生きつづけ、日本人の自然思想や生活思想の根を培ってきた。吉本隆明のいう土着的な 大衆「ナショナリズム」の原基も、歴史を遡ればじっにここにまで到るのである。
「倭寇」は全体として、西日本の海の領主・商人、済州島・朝鮮半島南部・中国大陸南部の海上勢 力の海を舞台とした結びつき、ネットワークの動きであった。前期倭寇には朝鮮半島の 「禾尺( 、才人( 」といわ れた賎民も加わったとされ、後期倭寇には日本列島人よりもむしろ中国大陸の明人の方が多かったと いわれている。そして一方で「倭語を解し、倭服を着る」といわれ、他方でその言語は「倭語でも 漢語でも」ないとされるように、「倭寇」は国家をこえ、国境に関わることなく、玄界灘・東シナ海 で独自な秩序を持って活動していたのである。
実際、日本国の政府−室町幕府はこれを弾圧しており、援助などしてはおらず、東日本の人々は 「倭寇」とはほとんど無関係といってよかろう。そして、高麗・朝鮮、明の政府も、室町幕府ととも に、陸の秩序を背景にこうした海上勢力を「倭寇」、「海賊」として禁圧したのである。
このように、「倭寇」の実態は国家をこえた海を生活の舞台とする人々の動きであり、「倭人」はけ っして日本人と同じではない。それゆえ「倭寇」を日本国による朝鮮半島に対する暴虐と見るのは、 まったくの誤りといわなくてはならない。
「倭人」と、日本国成立後の日本人とは、列島西部においては重なるとしても、けっして同一では ない。『魏志』倭人伝に描かれる三世紀の「親魏倭王」卑弥呼をいただく「倭人」の勢力は、たと え邪馬台国が近畿にあったとしても、現在の東海地域以東には及んでいないと見てよかろう。それ はのちの広義の「東国」の地域である。
さらに降って五世紀の倭王武、ワカタケルは宋の皇帝への上表文で、「東は毛人を征すること五十五 国・西は衆夷を服すること六十六国」といっている。ここで「毛人」といわれているのは「蝦 夷」の表現の一つとされ、「毛野( 」の「毛」をさし、この時期に は関東人・東北人など狭義の東国人であることは間違いない。「衆夷」は中部九州以南の人々であ ろうが、これらの人々のうち関東人と中部九州人は後にものべるように成立当初の日本国の国制の 下に入っているので「日本人」であるが、けっして「倭人」ではなかったのである。
また「倭人」と呼ばれた人々は済州島・朝鮮半島南部などにもいたと見られるが、新羅王国成立 後、朝鮮半島の「倭人」は新羅人となっていった。このように「倭人」と「日本人」とが同一視でき ないことを、われわれは明確に確認しておく必要がある。
「日本人」という語は日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉であり、 この言葉の意味はそれ以上でも以下でもないということである。「日本」が地名ではなく、 特定の時点で、特定の意味をこめて、特定の人々の定めた国家の名前 ―― 国号である以上、 これは当然のことと私は考える。それゆえ、日本国の成立・出現以前には、日本も日本人も存在 せず、その国制の外にある人々は日本人ではない。「聖徳太子」とのちによばれた 厩戸王子( は「倭人」であり、日本人ではない のであり、日本国成立当初、東北中北部の人々、南九州人は日本人ではない。
近代に入っても同様である。江戸時代までは日本人でなかったアイヌ・琉球人は、明治政府によっ て強制的に日本人にされ、植民地になってからの台湾では台湾人、朝鮮半島では朝鮮人が、日本人と なることを権力によって強要されたのである。
「民族」の問題をそこに入れると、ことは単純でなくなってくるので、それについては後に若干のベ るが、日本人について、これまで「民族」、人種、あるいは文化の問題などを混入させ、さまざまな 思い入れや意味を加えて議論されてきたために混乱がおこり、日本人自身の自己認識を混濁させてき たと考えられるので、私は単純に、今後とも「日本人」の語は日本国の国制の下に置かれた人々とい う意味で用い続けたいと思う。
そして、そう考えると「倭人」はけっして「日本人」と同じではないのである。
実際、私が15年間、勤務していた神奈川大学短期大学部と、その退職後3年間、講義をした同学経 済学部の学生諸君に、1980年代後半から毎年、講義の冒頭にこの質問を発し、世紀を数字で紙に 書かせるか、手を挙げさせるなどの方法で調査してみたが、紀元前1世紀から20世紀まで、各世紀 に数字が分散し、多数派はない。要するに知らないのである。これは京都大学経済学部の学生約100人 もまったく同じであり、キャリア組≠フ国家公務員50人の中の2、3名を指名したところ、19世紀、 15世紀、9世紀と正解はなかった。
なぜこのようなことになったのかについては、まことに根の深いものがあるが、その直接的な背景 として、明治以後の政府によって、記紀神話の描く日本の「建国」がそのまま史実として、国家的教 育を通じ、徹底的に国民に刷り込まれたこと、敗戦後、それを批判し、事実に基づく学問的な歴史像 を描くことを目指した戦後歴史学も、天皇については批判的な視点を持っていたが、それと不可分の 関係にある「日本」については、まったく問題にもしなかったことなどをあげなくてはなるまい。
1966年、政府が「紀元節」を継承する「建国記念の日」を定めたときも、これに反対し、もと よりいまも反対し続けている歴史研究者たちも、「日本国」成立についてはとくにとりあげることな く、一方で当然のように「日本の旧石器時代」「縄文時代の日本」「弥生時代の日本人」などの表現を 用いてきた点にも、戦後歴史学の盲点が端的に現われているといわなくてはならない。かくいう私自 身も20年ほど前まではまったく同様であったので、日本人の歴史認識を混濁させてきた罪を負って いる。
それが7世紀末、673年から701年の間のことであり、おそらくは681年、天武朝で編纂が 開始され、天武の死後、持統朝の689年に施行された飛鳥浄御原令で、天皇の称号とともに、日 本という国号が公式に定められたこと、またこの国号が初めて対外的に用いられたのが、702年 に中国大陸に到着したヤマトの使者が、唐の国号を周と改めていた則天武后に対してであったこ とは、多少の異論はあるとしても、現在、大方の古代史研究者の認めるところといってよい。
「縄文時代の日本」「弥生時代の日本人」の表現と同様、天皇号の定まる以前についても 「雄略天皇」「継体天皇」「崇峻天皇」「推古天皇」などの「天皇」が、教科書になん のことわりもなく、当然のように登場する。教科書だけではない。歴史学・考古学等の研究者 の研究書、叙述においても、こうした表現が広く見られるのである。これはやはり「天皇」が きわめて古くから存在したという誤りを、日本人に無意識のうちに刷り込む結果になっている といわざるをえない。
このようなことを気にかけるのは煩しいという意識も、研究者の中にはあると思うが、作家の方 がこの点では研究者よりきびしい場合も見られる。たとえば黒岩重吾氏は『茜に燃ゆ』という作品 をはじめとして、天武以前には天皇の号を作品の中で一切使用していない。これくらいのきびしさを、 歴史研究に携わるものも持つことが必要なのではなかろうか。
私自身、「日本」についても「天皇」についても、本当にものを書くときに意識しはじめてから、 まださほど年月はたっていないが、近年『日本社会の歴史』(上)(岩波新書、1997年)では、この ことを意識して叙述をしてみた。大王については「オホド王(のちに継体とよばれる)」という表現を し「アメクニオシヒラキヒロニワ(のちに欽明とよばれる)」としてからは以下、1大王については便宜 上、後年の天皇の漢風諡号( を用いる」と注記し、大王用明、女王推 古のように呼んでみた。また、皇太子、皇后、皇子の語も、天皇の制度の成立以前は使用せず、 太子、大兄( 、大后( 、王子と表記した。
もとよりこの方式が最良などといえないことはいうまでもなく、さらによく考えられなくてはならな いと思うが、いちおう、これで叙述することはできたのである。人それぞれの表現の仕方、考え方に 違いのあることはいうまでもないが、「日本」と「天皇」がそれ自体、歴史的存在で、始めがあれば 終りもありうることを明確にするために、こうした配慮が日常的に必要ではないか、と私は考えて いる。
しかしこの国号は、西郷信綱氏や吉田孝氏の指摘する通り、太陽神信仰、東の方向をよしとする 志向を背景としており、中国大陸の大帝国を強烈に意識した国号であることは間違いない。 「日本」は「日の本」、東の日の出るところ「日出づる処」を意味しているが、いうまでもなく それは西の中国大陸に対してのことであり、ハワイから見れば日本列島は「日没する処」に当るこ とになる。
この国号については、平安時代から疑問が発せられており、承平6(936)年の『日本書紀』の 講義(『日本書紀私記』)において、参議紀淑光( が「倭国」を「日本」といった理由を質問したのに対し、講師は『隋書』東夷伝の「日出づる処の 天子」を引いて、日の出るところの意と「日本」の説明をしたところ、淑光はふたたび質問し、 たしかに「倭国」は大唐の東にあり、日の出る方角にあるが、この国にいて見ると、太陽は国の中 からは出ないではないか、それなのになぜ「日出づる国」というのかと尋ねている。これに対し講師 は、唐から見て日の出る東の方角だから「日本」というのだと答えているが、岩橋小弥太氏も 「よほど頭の善い人だった」と評しているように、この淑光の質問はみごとにこの国号の本質を衝い ているといってよい。
このように、この国号は「日本」という文字に則してみれば、けっして特定の地名でも、王朝の創 始者の姓でもなく、東の方向をさす意味であり、しかも中国大陸に視点を置いた国名であることは間 違いない。そこに中国大陸の大帝国を強く意識しつつ、自らを小帝国として対抗しようとしたヤマト の支配者の姿勢をよくうかがうことができるが、反面、それは唐帝国にとらわれた国号であり、真の 意味で自らの足で立った自立とはいい難いともいうことができる。
それゆえ、穏健なナショナリストである岩橋小弥太氏は、この解釈をとると、自分が左の人からは 右さん、右の人からは左さんといわれることになり、「分裂症」的になるとして、ヤマトの枕詞に 「日の本」とある点に着目、そこに国号の淵源を求めている。しかし吉田孝氏のいうように、『万葉 集』の中で「日の本」がヤマトの枕詞となったのは一例しかなく、しかもそれは「日本」という国号 の決ったのちであり、岩橋小弥太氏の説は成り立ち得ないであろう。
この国号はまさしく「分裂症」的であり、中国大陸から見た国名であった。紀淑光の疑問はその点 を的確についたのであるが、それより前、延喜4(904)年の講義のさいにも、「いま日本といって いるのは、唐朝が名づけたのか、わが国が自ら称したのか」という質問が出たのに対し、その時の講 師は「唐から名づけたのだ」と明言している(『釈日本紀』)。実際『史記正義』という大陸側の書に は、則天武后が「倭国を改めて日本国」としたとあり、そうした見方も早くからあったのである。
もとよりこれは『旧唐書』の記事などから見て明白な誤りであるとはいえ、平安時代中期、すでに こうした誤解が学者の中にも生れている点に注意すべきで、それは「日本」という国号自体の持つ問 題であったといわなくてはならない。それゆえこれ以後、岩橋小弥太氏が「皆てんでんに勝手なこと を主張していたようにも思われる」と慨歎したように、国号をめぐる議論は錯綜をきわめている。
その中で江戸時代後期、この国号を「大嫌い」といった国家神道家が現われた。幕末、尊王攘夷論 によって知られた水戸学者東湖の父藤田幽谷の書簡に、「日本国号」について近ごろさかんに議論 があることにふれた一通があり、その中に「一種の国家神道を張」る「会津士人佐藤忠満」の「一奇 談」として「日本の号ハ唐人より呼候を、其まゝ此方にて唐人へ対候て称する所のみ」と主張する 佐藤が「国号を申候事、大嫌之様子」と記されている。幽谷はこれに対し、佐藤のいう通りだが、 唐人から呼ぶなら「日下( 」というだろうが、 「日本( 」の字を用いた点に「倭人」らしさが見えるから、 この国号は「此方」で建てたことは間違いないと答えたが、これは佐藤の方が筋が通っており、幽谷 の答えはこじつけといえよう(この書簡については長山靖生氏に教えていただいた)。
このように、後年の「国粋主義」につながる人が「日本」という国名を「大嫌い」といっており、 それはそれなりに筋が通っている。1996年、NHKの人間大学で「日本史再考」というテーマで 放送したとき、かつて一部の支配者がきめたこの国号は、われわれ国民の総意で変えることができる とのべたところ、「日本が嫌いなら日本からでてゆけ」という警告のはがき、手紙をいただいた。し かしこうした立場に立つ人々こそ、さきの「国家神道家」の「筋の通った」主張を継承し、「日本」 を「大嫌い」というべきであろうし、中国大陸側に視点を置いたこの国号など、ただちに変更すべし という運動をおこされるのが当然だと思う。私自身は、本書のように、千三百年続いたこの 「日本」の徹底的総括を不可欠の課題と考えているので、もとよりそうした運動にただちに与する つもりはなが。
アジア大陸の東辺には、北から南に、五つの巨大な内海が連なっている。
北米大陸のアラスカ、シベリアの最北東部、カムチャツカ半島東岸、そしてアレウト(アリューシ ャン)列島で囲まれた、ベーリング海が最北にひろがる。アメリカ大陸とアジア大陸はベーリング海 峡で結ばれている。
その南に、カムチャツカ半島西部、シベリア東部、サハリン東岸、北海道東部、そして千島(クリ ル)列島で囲まれるオホーツク海がひらけている。
それに続いて、サハリン西岸、日本列島の西岸、朝鮮半島東部、いわゆる「沿海州」にとりまかれ た「日本海」が、まさしく湖のような姿を見せている。
さらにその南には朝鮮半島西岸、九州西部、南西(沖縄)諸島、台湾、中国大陸の東岸に囲まれ、 黄海を内懐に抱く東シナ海の広い空間がある。
そして最も南に、台湾、フィリッピン群島、中国大陸南部、インドシナ半島、マレー半島、ボルネ オ島がかかえているのが南シナ海である。
この海から西に向い、マラッカ海峡をこえるとアンダマン海、ベンガル湾がひろがり、インドへの 道がひらけ、東に向うと、いわゆる東南アジア ―― インドネシアからオセアニア ―― ニュー ギニア、オーストラリアに海の道が通じている。
そしてさらに東には南太平洋の島々が連り、南米大陸に及ぶのである。
また、日本列島の東南岸、南西諸島、台湾、フィリッピン群島を結ぶ島々と、伊豆諸島、小笠原諸 島、マリアナ諸島、パラオ諸島に囲まれた広大なフィリッピン海がひろがっている。
しかしそれは日本国、日本列島が海によって他の地域から孤立していたことを意味するものでは 決してない。急がず慌てず、日和を十分に見定めて航行すれば、平穏な海ほど安定した快適な交通路 はないといってよい。それゆえ、長い時間をかければ多くの人も膨大な物も、海を通じて運ぶことが できるのである。荒れた海は、たしかに人と人とを隔てる障壁になるが、こうした穏やかな海は、人 と人とを緊密に結びつける、太く安定した交通路であった。
そして青森の三内丸山遺跡から新潟のヒスイや北海道の黒曜石が出土する事実、福井の鳥浜遺跡 から船が発掘されたことなどによってすでに証明されているように、船による広域的な活動は縄文 時代以前にまで遡る。とすれば、日本列島がまさしく列島になった縄文時代以後も、さきにふれた 周辺の海を通じて、多くの人や物がたえまなく、この列島に出入していたことは確実といわなくて はならない。
実際、日本列島はアジア大陸の北方と南方を結ぶ巨大な懸け橋の一部であった。

日本列島をアジア大陸から見るような形で、大陸の上によこたえ、富山を中心に250キロ、500キロ から1500キロまでの同心円を描いた地図で、実態は通常の地図と同じであるが、この地図からうける 印象はまことに新鮮で、ふつうの世界地図の中の日本列島とはまったく異なったイメージを うけとることができる。
なにより、サハリンと大陸との間が結氷すれば歩いて渡れるほど狭いことや、対馬と朝鮮半島の 間の狭さ ―― 晴れた日には対馬の北部から朝鮮半島がはっきり見えるほどの狭さを視覚的に 確認することができる。そして日本列島、南西諸島の懸け橋としての役割が非常にはっきりと浮 かび上がり、「日本海」、東シナ海は列島と大陸に囲まれた内海、とくに「日本海」はかつて 陸続きだった列島と大陸に抱かれた湖のころの面影を地図の上に鮮やかにとどめている。
そしてこの地図を見ると、北海道、本州、四国、九州等の島々を領土とする「日本国」が、海 を国境として他の地域から隔てられた「孤立した島国」であるという日本人に広く浸透した日本像 が、まったくの思いこみでしかない虚像であることが、だれの目にもあきらかになる。
縄文文化は日本列島が島になってからの「島国文化」であり、その文化圏は北海道から先島諸島を のぞく沖縄までといわれていた。縄文文化の範囲を示すそのころの日本地図には、宗谷海峡、朝鮮 海峡にきれいに線が通っており、ほぼ日本国の領土がふくまれていた。そして縄文文化こそ日本文化 の基底をなす文化という主張もなされていたのである。私もまた、当時はこの見方に立って生徒たち に教えたことは間違いない。
はじめて対馬に渡り、北端の比田勝( に行ったとき、私は 晴れた日には朝鮮半島がよく見えることを知った。そして、自衛隊のレーダー基地の性能の優秀 な望遠鏡で見ると、朝鮮半島の汽車の煙や乾してある洗濯物まで見えるという土地の人の話を聞 いたのである。もちろんこれは誇張であろうが、さきの地図にもみられる通り、対馬と朝鮮半島の 間の朝鮮海峡が、きわめて狭く、近いことをそのとき私ははっきりと認識することができた。後に 聞いたところでは、この海峡は泳ぎが達者なら、たやすく渡れるということであった。
これに対し、博多から壱岐を経て対馬に渡ったときの船は、天気もよく、さして海も荒れていた とは思われない状況であったにもかかわらず、とくに壱岐を出港してからはピッチング、ローリン グともに著しく、身体をよこたえて手すりにしっかりつかまっていないと、転がってしまうほどの 揺れ方で、酔いどめの薬をのんでどうやら無事、対馬に辿りついた。玄界灘の波は荒い、と私は 痛感したのであるが、この経験を経て、あるときフッと思った。これだけの荒い海を縄文時代の船で 渡れたのなら、なぜ、目の前に見える朝鮮半島に対馬の船が渡らなかったのだろうか。縄文文化の境 が対馬と朝鮮半島の間で引けるなどということが、ありうるのだろうか。朝鮮海峡を文化が渡らな かったことを証明するほうが難かしいのではなかろうか。
そしてこう考えてくると、日本列島、「沿海州」、朝鮮半島に囲まれた内海を、「日本海」と呼ぶの は僭称ではないかと思われる。秦がシナになり、地名化したシナとは違い、「日本」は地名ではな く、いまも特定の国家の名前だからであり、もとよりこれは「日本帝国主義」などとは無関係に、17 七世紀から西欧の地図に用いられてきた名称であるとはいえ、多くの国民のとりまくこの海に、特定 の一国家の国名を冠するのは、やはり海の特質になじまない。
いつかこの内海をとりまく地域のすべての人々の合意の下で、この海にふさわしくすばらしい呼称 のきまる日が、一日も早く来ることを、心から期待したい。すでに韓国の知識人から「青海」という 提案が行われており、これはエメラルド色の美しいこの海の特質をよく表現しえた名称と私は考える が、これをふくめてさまざまな提案が各方面から行われるとよいのではなかろうか。ただ当面、本書 ではこうしたことを前提にしたうえで、便宜、現行の「日本海」を用いることとする。
渡辺氏によると結合釣針、石鋸( といわれる黒曜石を用いた括、 曾畑式( 土器などの共通した文化を持つ海民が、縄文時代 前期から朝鮮半島東南岸、対馬、壱岐、北九州にかけての海で活動していた。少し時代が降ると、 その動きは東シナ海に及び、沖縄や山陰・瀬戸内海にもその動きが見られると渡辺氏は指摘して おり、縄文文化がけっして日本列島だけで完結などしていなかったことが、これによってあきらか にされたのである。
しかもこの列島西部の文化が、列島東部を中心に繁栄した縄文文化とは異質であった点も、重要で あり、こうした列島東部の文化はアジア大陸の北東部と関係があったことも、近年、証明されつつあ ると聞いている。
(日本列島は孤島という)虚像をあたかも真実であるかのごとく日本人に刷り込んだのは、とくに 明治以降の近代国家であり、さきの島々を領土として国民国家をつくり出すという課題を自らの課題 とした政府主流の選んだ一つの選択肢であった。政府は海が人と人とを結びつける道であることに目 をつぶり、海が人と人とを隔てる国境であることを国民に徹底して教えこみ、海軍力の強化を至上命 令として推進したのである。
アジア・太平洋戦争のさい、「大日本帝国」はこの広大な世界に対し、まさしく陸地支配のために 大軍を派遣し、はるか北から南までの島々を占領した。いまの若い人たちはこれらの島々の地名、と くに東南アジア・オセアニアの地名は観光地でなければ知らない。短大で教えていたとき、太平洋の 地図をみせて日本軍の占領していた範囲を示したところ、学生たちはまったく目をみはり、衝撃をう けたようだった。しかし私のように、戦時中を生きてきたものには、これらの島々、都市の地名は意 外なほどに記憶に残っており、ニューブリテン、ブーゲンビル、ガダルカナルなどの島の地図は、い まも頭に浮かぶほどなのである。このあたりに、現在の老人と若者との間の体験、知識の決定的な落 差があるといわなくてはならない。
それだけにあらためて強調しておきたいが、こうした日本軍による島々の占領によって、これらの 島々に住む人々が多大な犠牲を強いられるとともに、アメリカ軍との戦闘を通じて、膨大な数の両軍 の兵士たちが命を失ったのである。これは海の世界に、陸の支配の論理を持ちこみ、巨大な帝国をつ くろうとしたこの「大日本帝国」の企図が、いかに現実離れした無謀な試みであったかを、莫大な流 血の犠牲を通して白日の下にあきらかにしたのであり、もとより二度と、こうした愚挙がくり返され てはならない。
「総合世界史図表」(第一学習社)より
この日本の愚挙が明確に物語っているように、艦船などの海上輸送の手段が大きな発達をとげた近 代になっても、大軍が一定の期間に渡ったり、また渡海・上陸した軍隊に武器・食糧を供給するため に、海がきわめて大きな障害となることは間違いない。もとよりこれに敵対し、渡海を阻止し ようとする側は、こうした海の障害を最大限に利用したのである。それゆえ、アジア・太平洋戦争の さいの南方への兵員・物資の輸送が困難をきわめ、南太平洋の島々では餓死する兵士も少なからず いた。
中沢
いま期せずして国家という問題が出てきました。これは日本の思想という ものを考える時、一番のカギになる言葉だと思います。たとえば日本人の思想が どうしてお茶の思想とか、お花の思想というふうな、個別的で具体的な表現の形 態として出てくるかということにも、深く関係していると思います。日本人が何 か創造的な思想を試みようとすると、実感や情念がとらえているものと、仏教や 儒教や道教のような、超越的ないし普遍的な表現のちょうど中間のようなところ で表現を試みていたように思います。たとえば、仏教はとても普遍的な表現の体 系を持っているけれども、日本人の創造的な思想家は、その体系の中で作業をし たわけではなくて、自分の実感と普遍の体系との間( というか、ずれというか、そういうところに立脚して思想をつくり出そうとしてきて、 そのずれというようなものが、日本的な仏教とか日本化された儒教としてあらわれてきて、 そのことが一番出ているのが国家にかかわる問題なのだろうと思います。
普遍的な国家という考え方を、近代日本人はヘーゲルなどを通じて知りますが、 一日本人にとって国家が実体性を持った意味を含み始めた時に、とても重要な 意味を持ったのは中国に発生した国家という考え方だったと思います。梅原さん は古代史をめぐるさまざまなお仕事をなさってきましたが、そのとき日本に起こ ることを、つねに広いアジア史の中でとらえようとしていらっしゃったように思 います。日本人の国家という概念は、ヘーゲルが考えたような国家とも違うし、 中国人がとらえていた国家とも違う。日本がおかれていた位置や環境とのかかわ りで、国家というものについて日本の特殊性が発生している。いつまでたっても 日本人には国家というものが、ヘーゲルや中国人が考えたようなものにはなり得 ない。その日本的国家という問題を、梅原さんはいつ頃を起点にして考え始めた らよろしいとお考えでしょうか。
梅原
私が日本研究に転向した時に、一番の問題は、戦争中からの日本主義はイ コール国家主義であった。そして日本の思想家も、非常にリベラルな思想家と言 われる人も、戦争中には完全に国家主義になった。日本的であることが国家主義 であるような、そういう日本主義とは無縁なものを私は探していた。だからいま 出たヘーゲル的な国家論は、日本でたとえて言うと和辻哲郎の『倫理学』にある。 あれは見事な哲学的体系なんですよ。人間を個人と考えず、人間の間柄で考える。 間柄という概念には個人主義を止揚する重要な思想が含まれている。私は儒教思 想の現代版だと思いますけど、現代でもなお十分傾聴に値する哲学的思想だった と思うんです。しかし結論は、全部国家の中に飲みこまれてしまう。最終的には 国家が万能であり、普遍的なものである。まあ、ヘーゲルの日本版だと思います けど、そういう和辻に対して、私は厳しく批判した。それから鈴木大拙ですら、 最後はやっぱり国のために死ぬことだ、それが無だというようなことを言ってい る。そういうことも一切私は許すことができなかった。私はそういうものの批判 者として登場した。
特に私が仏教をやったのは、明治以後の神道は完全に国家主義になってしまっ て、そういう神道に対するアレルギー反応を長い間脱却することができなかった からです。神道に対してアレルギーを脱却できたのは、アイヌの宗教を知ってか らです。仏教は比較的国家主義の色彩が少なかった。また、その時は万葉集にも アレルギーがあって、万葉より古今を、と言った私の最初の論文の『美と宗教の 発見』で、古今を日本美の中心においたというのも、一種のアレルギー反応でし てね。国家というものはとにかくかなわない、という意識が非常に強かった。そ んなことを考えていたのですが、偶然のように、七、八世紀の、吉本さんの言っ た日本国家成立期の歴史を勉強するようになった。そしてそこで『隠された十字 架』や『水底の歌』が書かれた。そこで私が見出したものは、国家成立期に権力 から排除されて、怨みを飲んで死んでいった怨霊の姿だった。たとえば、聖徳太 子は一度は体制側の人だったけど、やがて藤原氏が律令体制をつくると、それに 滅ぼされて、そして怨霊になった。柿本人麿も同じように一旦は律令体制で高い 地位につくがやがて失脚して水死刑死をする。聖徳太子とか柿本人麿の怨霊とい うような、国家形成の影に隠れた怨霊が十何年の間、私のパトスそのものだった んですね。怨霊がのりうつったわけですが、なぜ怨霊が外ならぬ私にのりうつっ たのかはよく分らない。
私の七、八世紀研究は、主として怨霊の研究に始まったのですが、しかし自ら 七、八世紀の日本の考察をせざるをえない。七、八世紀は、日本が中国から律令 制度を移入し、それで日本国家をつくった。しかしそれは中国の律令制度がその まま移入されたものではない。あれは中国から借りて国家をつくったんですけど、 その中国文化は変質させられた。変質させたのは、それよりも前に日本に存在し た何かだろうということに気づいたんですね。その前に何があるか、それからい ろいろ思想的に問い詰めると、どうも縄文文化がそれではないか。そして、アイ ヌと沖縄に縄文文化が残っているんじゃないかというふうに考えてきた。そうす ると、吉本さんと思弁の方法は違うんですけど、結論は大変似ているところに行 っているような気がしているんだけど。そういうふうに日本を奥へ奥へと掘り下 げてゆくことによって、国家という枠を超えた、むしろ普遍的なところに達した。 そういうところに達したことによってやっと神道に対するアレルギーを捨てるこ とができた。アイヌや沖縄の宗教に、神道の原初的な姿を見た。そこから見れば 明治以後の神道は、これは神道と言えないようなものだ。しかし神道の国家主義 化はすでに律令時代に始まっていて、だから神道は二度大きな国家主義化を受け た。ひとつは律令時代、ひとつは明治以後。明治以後の神道は、神道とさえ言え ない、プロイセン主義なりナポレオン主義に伝統の殻を着せただけのようなもの だといま考えているんですけどね。
中沢以上のやり取りで、梅原さんと吉本さんが、方法論は違っていても、同じ問題意識を持って 日本人の思想の原基にアプローチしようとしていることが分かると思う。
いま梅原さんから、同じ言葉が二度出ました。ふたつのちがう意味をこめ て、「普遍」という言葉を二回使われました。
ひとつは、実感を超えて超越である普遍。これはたぷんヘーゲルの国家概念 や中国の国家みたいなところにたどりついて行くんだと思います。ところが 最後に梅原さんが、たとえば神道のようなものを通して普遍へ行くんだとおっし ゃったその普遍は、まえの普遍とちょっと違うのでしょうね。
梅原
ちょっと違いますね。
中沢
その、あとの方の普遍というのは、いまとこれからの日本が超近代という ような形で出てくるものとして探っている普遍なんじゃないかと思うのですね。 それはひょっとすると日本の国家が、前方へむかってさぐっているものとつなが っているんじゃないか。梅原さんの考えてらっしゃるアイヌの神道などは、ヘー ゲル的な普遍とは異質な、もうひとつの普遍に触れているのかも知れませんね。
梅原
そうと言えるかもしれん。
中沢
それは神道以前のもので、ひょっとするとそれは、オーストラリア原住民 の神道とか、南中国の少数民族の神道とか、チベット人の神道とか、そういう神 道につながっていて、そういう形でもうひとつの普遍というものがいま大きく浮 上してきた感じがしますが、このふたつの普遍が混同されて、普遍という問題を 考える時に、日本人の思考を混乱させているのではないでしょうか。
これは吉本さんが超近代の問題として考えているテーマとつながっている、と 僕は思います。
古代の向こうにあるもの、アジア的なものの向こうにあるもの、それを吉本さん はアフリカ的という言葉で表現しようとしています。それは新しい普遍につなが る考えです。
いまお二人の話の中に期せずして普遍という言葉の、二通りの使い方というものが 浮上してきて、ヘーゲル的な普遍の国家や神道や日本国家に取り込まれてしまって、 見えなくなってしまうもうひとつの神道がそこで同時に出てきました。近代の原理を 解体していくものと、壊していくものと、縄文や南島のテーマが浮上してくるプロセス が、お二人の思想の中では同時進行しているような感じを受けるのですが。
吉本
僕はそうだと思いますね。梅原さんのアイヌについての論文は、柳田国男 の初期の仕事から延長していくと大変よくわかり、位置づけがしやすいんですが、 とても重要で、僕はずいぶん影響を受けたように思うんですね。
アイヌの問題や沖縄の問題は、いま「遡る普遍」という言い方をすれば、どうしても 出てくるんじゃないかなという感じです。それをヘーゲル、マルクス流の国家と直かに対応 させることはなかなかできないので、現在は、対応できそうな超近代のところを 睨んで持っていくよりしょうがないと思います。でも「遡る普遍」のところでは、 かなり確実に出てくるんじゃないかと思い込んでいるんです。
ちょうど中間のところで、梅原さんの言われた神道があって、それはふたつの 理解ができます。明治以降、天皇制神道、あるいは伊勢神宮神道と結びついた意 味の神道と、それからそうじゃなくて、田舎へ帰れば鎮守様があって、お祭りが あって、とてもいいんだ、というのと二重性があるような気がするんです。明治 以降の天皇制神道と結びついた部分は、僕も梅原さんと同じでアレルギーが多い。 つまり自分が戦争中イカレた分だけアレルギーがあって、ということになります。 そこで、遡る神道といいましょうか、あるいは村々の鎮守様へ行く神道とはちょ っと分けなくちゃいけないよ、ということになってくる気がします。鎮守様とし ての神道みたいなのは宗教というふうに言わなくて、もっと風俗・習慣というと ころで生きられる部分があるように僕は思ってます。これは国家神道にまで編成 されちゃったものと区別しないといけない。国家神道に収斂させられてしまった ものは、何となく第二次大戦までが生命だったという気がして、それ以降はある としても、そんなに生きられるものとしてあるというわけではなく、壊れつつあ る過程としてあると考えたほうがいいんじゃないか、僕はそう思ってます。
七、八世紀の神道は祓い、政の神道なんですよ。それが私、なかなかわからなんだ。 『古事記』の書かれた時代、国家に有害なやつは祓ってしまう。そしてまだ祓わんやつは禊を させて改心させる。やはりこれは律令国家体制の産物だ、という点を考えんと神道は理解でき ない、と思った。そこまでは行ったんですけど、それから向こうの神道が見えてこなかった。
そしてアイヌをやった時に、ほんとに目から鱗が落ちるようなショックを受けたのは、アイヌ 語の神の概念、神をあらわす言葉が全部、古代日本語と一致し、しかもその古代語の中にラマット なんていう言葉がある。ラマットというのはヤッコラマットという、祝詞や宣命にわずかに出てく る言葉で、本居宣長もこれは古代語が残ったんだと言ってる。そのラマットという言葉が魂という 意味でアイヌ語にある。それを知った時に、アイヌ語と日本語は同起源である、やっぱり日 本の古代語の縄文語がそこへ残ったんだろうということと同時に、神道の古い形 がアイヌの神道の中にあるという直観があったんですね。それでアイヌの神道を いろいろやってると、国家主義なんて全然関係ない。それはやはり森の中で人間 が宇宙の精霊と、魂たちと共存して生きて、その魂の力で自分たちの生活を守り、 そして死んでいき、あの世へ行ってまた魂がこの世へ帰ってくる。そういう信仰 であるということがわかった。
その眼で沖縄を見ると、沖縄の神道もアイヌと同じような神道ではないか。柳 田国男や折口信夫は、今まで日本研究の外におかれた沖縄を日本研究の中に取り 入れた。しかしそれは弥生時代で日本本土を沖縄と結んだ、米で結んだ。つまり 沖縄は弥生時代の古い米文化が残ったものだとした。これはいわゆるあの柳田の 南方の島を伝わって稲がやって来るという説ですが、この説は実証的に否定され ている。こういう沖縄と本土を結ぶと、米栽培しないアイヌは落ちて、それは日 本じゃないということになる。私は柳田も記紀の史観に無意識に影響されている と思う。私は、それは違う、沖縄と日本というのは縄文 でつながるんじゃないか。アイヌ、沖縄、日本、この三つを結ぶものが日本的じゃ ないかと。ずっと思弁してそういうふうになってきたんですけどね。私は そこへ来て初めて、この原理はどうもいわゆる普遍的なんじゃないかと思った。 それは恐らく、中沢さんのおっしゃったようにアボリジニーやアメリカ・インディ アンとも同じだし、あるいはシベリアの狩猟採集民族と同じ、あるいはケルトとも 同じもので、一時代前の、人類の普遍的な原理がまだ残っていたんじゃないか。そ れが日本国家をつくった後にわずかに日本に残ってる。
おそらく、〈南島〉という言葉の原イメージは、『日本書紀』まで遡るだろうと言われている。 ところで、〈南島〉という言葉の中には、どうしても〈北方の視線〉を感じてしまう。さらに言 えば〈中央/地方〉〈中心/辺境〉〈日本/沖縄〉という二項対立の思考と感性も。それ故私は 〈南島論〉という表現も、あんまり好きではない。
このことは些細なことのようだが、重要な問題を孕んでいる。結論から言うと、私たちは、北は奄美か ら南は八重山までの列島を何と自己表現していいのか、安定した呼び名を持っていないのである。一方、 この琉球列島から、北海道にいたる列島を何と呼んでいいのか、安定した呼び名としての共同幻想をいま だ形成していないのだ。「日本」とか「ニッポン」とかの国家幻想に安住した感性を信じる人々以外には。 周知のように、奄美から八重山にいたる列島を「琉球弧」と呼び、その〈琉球弧〉から〈北海道〉まで の列島を「ヤポネシア」と名付けたのは、島尾敏雄であった。その島尾の初源のイメージを引いてみよう。
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長いあいだ背中を向けていた海の方をふり向いてみると、日本の島々が大陸から 少しばかりはがれた部分であることもまちがいはないが、他の反面は広大な太平洋 の南のあたりにちらぱった島々の群れつどいの中にあきらかに含まれていて、その 中でひとつの際立ったかたちを形づくっていることも否定できない。ひとつの試み は地図帳の中の日本の位置をそれらの島々を主題にして調節してみることだ。おそ らくは三つの弓なりの花かざりで組み合わされたヤポネシアのすがたがはっきりあ らわれてくるだろう。そのイメージは私を鼓舞する。
A
つまり奄美諸島と沖縄島を中心にした沖縄諸島、宮古諸島、それに石垣島を主島 にした八重山諸島などをひっくるめてわたしは琉球弧と言いたいのです。沖縄と言 うと、どうも奄美が落ちてしまうし、宮古や八重山も、時によっては含まれてきま せん。琉球とだけ言った場合には、奄美を含めるかどうかに難点が出てくるので、 地理学上での琉球弧ということばが包括的でもあり適切だと思うのです。
すでに「日本国」成立以前、7世紀の中葉から「倭国」の支配者は北陸北部・東北の 「蝦夷( 」と呼んだ人々、さらに列島北方のツングース系の民族 ともいわれる「粛慎( 」の「征服」にのり出し、これらの人々 を一応、「朝貢」させていた。
しかし、「倭国」の国名を変更した「日本国」は、8世紀初頭になると、北陸北部の越後、東北南 部の陸奥に軍勢を派遣、東北の侵略を本格的に開始した。そして越後の北部と陸奥の西部を割いて、 東北の日本海側に出羽国を建て、「蝦夷」 ―― 東北人を圧迫しつつ国境をしだいに北上させる一方、 南島の人々多ね(「ね」の漢字はテキストファイルでは表示できな かった。)・夜久( ・奄美・度感( などを朝貢させるとともに、南九州の「隼人( 」と 呼ばれた人々も軍事力を背景に支配下に入れ、八世紀初頭には薩摩・大隅両国を置き、国郡の制を 一応、及ぼしている。
この「日本国」の圧力に対し、東北人も南九州人もただちには屈伏せず抵抗し、「蝦夷」「隼人」の いわゆる「叛乱」がおこっているが、「隼人」については比較的早く鎮静化し、8世紀末には班田制 が実施され、南九州は「日本国」の国制の下に入った。
これに対し、東北人は「日本国」の侵略に頑強に抵抗し続け、たやすく屈伏しようとしなかった。 「日本国」は一時期、東北南部に石城( ・ 石背( 両国を建てているが、神亀元(724)年に多賀城を設置、 ここに陸奥国府を置いてさきの両国を陸奥に吸収し、桃生( ・秋田に柵を設けて、北への圧力を強めた。しかしこれに反発した東北人は宝亀五(774)年、 桃生・胆沢城を攻撃し、ここに近年、古代史研究者によって「38年戦争」といわれている、長期に 及んだ東北人と「日本国」との戦争が始まった。
「蝦夷」――東北人は胆沢城を攻め、多賀城を焼いたのに対し、8世紀末の天皇桓武は本格的 に大軍を派遣するが大敗を喫したため、さらに10万の軍勢を投入して 志波城( を築き、国境をさらに北に進めようとした。 しかし東北人の粘り強い抵抗に阻まれ、「日本国」はついに東北最北部を支配下に置くことのできない ままに、東北人と妥協し、九世紀初頭、桓武は「軍事」――東北侵略を止めざるをえなかったの である。
その結果、奥六郡・山北( 三郡は、一応、「日本国」の国制の 下に入ったが、事実上、東北人の自治区――「俘囚の地」であり、東北の最北部、現在の岩手・秋田 の北部から下北・津軽にかけての地には国郡の制が及ばず、「日本国」の外にあり、むしろこの地域は北海道南部、 渡島( と深く結びついていた。
成人T細胞白血病(Adult T-cell Leukemia)ウィルス。
1981年に日本の研究者により、人の癌ウィルスとしてはじめて発見・確認されたレトロウィルス (遺伝情報を逆転写によっておこなうウィルス)。
感染力は弱く、母乳・精液を介しての母子・夫婦感染と、輸血による人工的感染の経路が考えられ る。感染後の発病率もきわめて低く、約0・05%程度。
人間以外にもサル(オナガザルの一部と類人猿の一部)から、ほぼ同様の構造を持つATLウィル スが検出され、感染の起源とそこからの進化・消滅の過程が推測される。
北海道におけるアイヌ人…… 45・2% 東北…………………………… l・0% 東京を含めた関東…………… 0・7% 近畿地方……………………… 1・0% 四国・中国…………………… 0・5% 九州地方……………………… 7・8% 八重山諸島…………………… 33・9%

このウィルス言語でわかることは、ひとつは天皇制の基盤は体内言語のひとつである ATLウィルス言語でいえば1・0%という数字です。つまり、1・0%という数字がいずれに せよ天皇制の根拠であるわけです。それにたいして八重山諸島を中心とする九州、南島 全般と北海道のアイヌはまさに天皇制の基盤にたいして断層をつくっています。このこ とは近年になってわかってきました。
僕がはじめて南島論をやろうとかんがえたモチーフは、天皇制の基盤となるものを崩 していくにはどうしたらいいかということでした。そして天皇制成立より以前の問題が 南島にあるんじゃないかということでした。それを突きとめてみたいとかんがえて十何 年くらい前だと思いますが南島論にはいっていったとおもいます。
いまはその問題はかなりな程度はっきりしてきました。天皇制の基盤はATLウィルスか らいえば、1・0%です。九州、それから南島、それから北海道のアイヌでは数倍から数 十倍の割合で天皇制の基盤にたいして、はっきりと断層を構成しているといえましょう。 さきほどの言葉でいえば、基層の映像として天皇制がつくった日本国家に比べれば、は るかに底の深いほうにはいって、まだ存在的な根拠をもっていることがとてもはっきりし てきたということです。それはATLウィルス・キャリアーは古アジア的な北方型のモンゴ ル系に固有なもので、いまのところこのウィルス・キャリアーは日本とアフリカだけに見 出されているものです。
十五、六年前、ある著名な洋酒会社の社長が、テレビの首都移転問題の討論で、仙台が名のりをあ げたのに対し、「あのような熊襲の住んでいる未開なところに、首都を遷せるものか」という趣旨の 発言をして大変な物議をかもしたことがある。これはまさしく、かつての征服者の流れをくむ関西人 の発言であり、関東人、東北人、中南部九州人は口がさけてもこのようなことは言わないであろう。 あろうことに、この社長は「熊襲」と「蝦夷」を間違っている。それは九州・東北それぞれに強烈 な反発をまきおこしたが、この直後、東北に旅をした私は東北人の怒りを直接、経験した。一生この 洋酒会社のウイスキーは口にしないといった友人はいまもそれを守っているし、この会社の商品の売 行はガタ落ちだったと聞いている。
列島の地域社会の「日本国」に対する姿勢がけっして一様でないこと、その背景には「日本国」と 各地域社会の「侵略」「征服」を含む長い歴史のあることをこの事件はわれわれによく教えてくれる。
Gm遺伝子
血液型の分類には、ABO式やRh式など赤血球の免疫反応にもとづくものの他に、血清中の抗体 の種類による分類がある。そのうち、IgG(ガンマ・グロブリン)抗体を指標とするものが、Gm (ガンマ・マーカー)型である。
Gm遺伝子はIgGを形成するアミノ酸の基本的な配列(H鎖)をつくりだす遺伝子。その組み合 わせの型は、人種・民族によって異なる。日本人を含む蒙古系民族では、四つの遺伝子によって 決定される九つの表現型を持つ。
これをすぐに結びつけるのがいいかどうかは別としまして、縄文人及び縄文人以前的な日本人 が、北方蒙古系として日本列島に分布していました。そのところに数千年前に、南中国あたりを 起源とする南方蒙古系の人たちが入ってきました。その人たちはいずれにせよ、九州に来たり、 北の方から来たかもしれませんし、朝鮮半島を経由したかもしれません。それが日本全土に分 布していきました。しかし、八重山諸島と北海道アイヌでは、分布の要素、混血の要素を可能 なかぎり少なくしながら、いってみればもっとも基層性をたもちながら、現在まで存続してき たとみると、いちばんいい見方になるとおもわれます。
天皇制は近畿地方に弥生時代以降に成立しているわけですから、天皇制の基盤は大体南中国 から入ってきた南方系でしょう。南方系の人達が8〜10%の割合を占めるようなGm遺伝子の割合 になったそのときに、天皇制の基盤は日本列島に成立したとかんがえられればよろしいとおも います。つまり、遺伝子的な言語からみましても、南島は北方とともに、日本国家の成立より もはるかに以前の基層を、確固として存在の基礎として保持しているといえることになります。
私の興味を呼んだのは、南島人の北方の人との共通性の指摘である。最近梅原猛氏などもアイヌと 南島を結びつける問題提起をいろいろ出しているが、研究の視野をひろげることは大いに賛成であり 研究成果を期待するものである。南島人の形質人類学上の先祖が北方につながるということは、稲作 などさまざまな技術文化が北からやってきたという考え方と並行するものである。「その営みは私たち自身がしなければならない」というときの「私たち」とは、琉球に生を受け継 いできた「私たち」という意味だと思う。前にその文章を引用させてもらった高良勉さんも琉球の人 だ。自分たちの手で琉球の文化的な基層を掘り起こそうとしている人たちだ。
天皇制を育んだ弥生以降の文化が南島モンゴル系に結び付くことは、天皇制神話のなかにある垂直 下降的な神観念など北方遊牧民文化の要素に関心を払う視点とは異なるものがあると思う。むしろア マテラス神話のなかでの東南アジア大陸部の文化につながる要素、例えば天の岩戸と鶏の鳴き声など の神話的要素などの存在からみると、この人種学的データは説得力がある。しかしながら、天皇制は 文化の問題であり、人種的な隔たりとは直接はかかわらないのではないか。人種学的な基層性やその 類似共通性だけでは国家を超える力としては弱いのではないか。国家、さまざまな制度は文化であり、 歴史的・後天的に形成された生活様式であり、遺伝子によって継承される先天的な身体の特質とはか かわりはない。制度としての国家、文化としての「日本」を超えるには、遺伝子による自己同一性を ふまえた基層を見据えるだけでは力にならないと思う。文化的自己同一言語をどう剔出し、どう見据 えるかが問われなければならない。その営みは私たち自身がしなければならないと思う。そうでなけ れば、日本国家成立以前から住んでいた人種の末裔というだけの自己同一になってしまうのではない か。
M系 八重山諸島………「ミディウ(ム)」 能登半島…………「メロウ」 アイヌ語…………「メット」「メチ」「マチ」
O系 九州、四国、中国、近畿地方……「オナゴ」 関東地方、中部地方………………「オンナ」 東北地方……………………………「オナゴ」
いま標準語のようにいわれているオンナという言い方になります。オンナとオナゴは、関 西か関東かとか、西か東かということで、一応の分布の説明が済むわけです。方言、ある いは言葉の分布の時間性をかんがえれば、オンナとオナゴのちがいはそんな大昔までさかの ぼらなくてもよろしいでしょう。でも多分M系の言葉とオナゴ系のO系の言葉との分岐は、か なり古いものだとかんがえてよろしいんじゃないでしょうか。
それはなぜかといいますと、この分布のパターンが、この場合にはウイルス言語の分布の パターンや、Gm遺伝子言語のパターンととてもよく似ているからです。つまり、おなじよう なとても似ているパターンをもっているので、M系とO系の分離の仕方は、南島を特徴づけ、 北方を特徴づけ、そして天皇制の支配が及んだ本土中央を中心とした地域と、はっきりした 断層をあらわしているだろうなとおもいます。

言葉の分布の仕方とか、訛りの仕方、それから歴史の時間に対応して、 必然的にかわっていく変化の仕方はさまざまで、簡単にいうことができ ません。しかし、そのかわり方に、共通のパターンをとりだせるとすれ ば、たぶん方言の分布は、たんなる方言の分布ではなくて、時間的な分 布、あるいは基層の深さの違いにまで拡大できるんではないかとおもい ます。もしー定の定数を設定しますと、方言の分布の仕方は基層の深さ、 あるいは時間的な相違に変換できるんじゃないかという気がします。
その定数が何かということは、なかなか難しいことです。これはたく さんの例と、たくさんのほかからの問題も含めた考察が必要だとおもい ます。でもある一定の定数を決定しますと、相互に転換してみることが できるんではないかとかんがえております。
普遍的な言葉からみた南島ということは、これからとてもかんがえて いきたいようなことです。ほかの隣接する分野からの智恵とか、助けと かをかりながら、どんどん突きつめていきたいことのひとつです。その ことをどうしてもお話してみたいとおもいました。そして、そこにはっ きりとある南島の基層の深さというものと、日本国の基盤の浅さという ものと、その両方の間にひとつの目安がつけられ、その目安から以前に ある基層に普遍的な映像と、普遍的な意味を与えることができれば、結 局は南島論は、単に南島だけの問題、あるいは日本国だけの問題ではな くて、世界史の問題につながるところまでいける可能性があるとかんが えます。
皆さんのあいだにはどんな考えが流布されているか存じません。都市 と農村を対立させるとか、自然と人工を対立させるとか、後進地帯と先 進地帯を対立させるとかという、二元的対立の仕方が流布されているか もしれませんが、僕らが主戦場とかんがえているのはそこじゃないとお もっています。国家がいま世界史のなかの最大の障壁のひとつだとかん がえれば、その障壁がどこからどうこえられるか、それは基層からこえ るか、そうでなければ、さきほどからいいます世界都市性からこえるか、 どちらかからこえる以外にないと僕はおもいます。つまり、それをこえ て、普遍性に到達する以外にないとかんがえるのです。ですから、僕に とって都市論と南島論(あるいは北方論でもいいんです)はちっとも別 の問題ではありません。しかし、もしも都市と農村、後進地帯と先進地 帯、第三世界と第一世界というふうに、これをたんに対立させる観点を もったならとてつもないところにいってしまうと僕はおもっております。
つまりすでにそこが主戦場だという時代は過ぎたというのが、僕など の認識です。国家の枠をこえていくには、上からも世界都市みたいなも のが必然的にそうなりつつあります。また、皆さんのおられる南島の基 層を国家よりさらに深いところまで掘ってそれをイメージ化できれば、 それはやはり国家をこえて、人類がまだ普遍性をもって、民族語とか種 族語とか、そういうものに分岐しない以前の母胎というところまでいえ れば、人類的な普遍性に到達する可能性を具えていると信じます。どう せいくんでしたら、そこまでいってほしいわけです。つまらないところ でへんな対立を設けて停滞しているのでは、ちょっと情けないような気 がします。もっと徹底的にいって、人類の普遍性に達するところまで基 層性を掘っていくのが、すでに現在の課題じゃないでしょうか。それが、 僕などの考え方です。
縄文人のつかう縄文語というのがあって、これはかなり日本列島全体に行き渡っていただろ う…‥。縄文土器が朝鮮半島にはほとんどないのに、日本列島にはほぼ全体に普及している。 そのように、だいたい同質の言語が南は沖縄から北は千島まで、多少のローカルカラーがあるけ れども、日本列島に普及していたのではなかったかと思います。
そして弥生人が入ってきて日本列島の中枢を占領した。そして弥生人はまったく縄文人とは違 う言語をもってきたけれども、言語学の法則として、少数の民族が多数の民族の中に入ってきて、 それを支配する場合、その言語は被支配民族の言語になるが、発音その他は相当な変更を蒙り、 そして、支配民族が新たにもってきた新文化や技術にかんするものの名称は支配民族の言語で呼 ばれる、というふうな法則がある。こういうことが弥生時代以後、起こったのではないでしょう か。
だから縄文語が弥生時代以来かなり変質した言語が倭人の言語であり、それが日本語の源流に なったのじゃないかと思うんです。そして南と北により純粋な縄文人が残っていて、縄文語がよ り純粋な形で生きのびて残ったのではないだろうか。琉球は朝鮮や中国とも近いから人種も混血 し、言葉もかなり変質しているけれども、あそこは稲作農業には不適な所なので、かなり強く縄 文文化が残っている。北の方は中国などとの交渉も薄いし、沿海州あたりとの接触があるにせよ 混血も少なく、縄文語がいちばん強く残った。それが小進化してアイヌ語になったと考えている んですけれどね。
東アジアで縄文人と似た人骨が判明した例は今のところない。ということは、特定の 集団が日本列島になだれこんで縄文人になった形跡はないわけだ。こう考えて、京都大学霊長類 研究所の片山一道教授(人類学)は科学誌『サイアス』(1997年5月2日号)に書いた。タイト ル「縄文人は来なかった」は刺激的だ。これまでに見つかっている縄文人骨の特徴を詳しく分析 したうえで、「縄文人は日本列島で生まれ、育った」と結論づけている。決着がついたとされる ルーツ探しより、これまでに数千体見つかっている縄文人骨の精査の方が大切だと考える片山さ んは、「混血しなくても体格が変わるのは、われわれ現代人も経験した通りだ。生活の変化も大 きな要素だ」。だから縄文人がどのように形づくられたか、生活の復元こそが問題だ、と強調す る。例えば「海民的な性格が加わるなど、大陸の人びととは別の道を選んだ結果なのだろう」。
確かに、縄文時代は独特だ。その次の弥生時代から現代までの五倍弱、一万年近くも続いた。 ところが北海道から琉球列島に至るまで、人びとの体格などに地域による大きな違いはなかった。 地域差より、時代の推移に伴う変化の方が目立つといわれる。アメリカ人の生物学者エドワー ド・S・モースが東京の大森貝塚を発掘調査し、七体の縄文人骨を見つけて以来、120年間に わたる調査や論争、研究の結果である。そして、「縄文人は先住民などではなく、現代日本人の 祖先だ」というのが、大方の研究者の見解になってきた。
(中略)
この年(1998年)、北海道の北西端の離島、礼文島にある船泊( 遺跡でも、同じころの縄文時代の人骨約三〇体分が発掘された。サハリンやバイカル湖周辺で見つかる のと似た形式の貝製装飾品、日本列島南方産の貝製品も副葬されていたため、「縄文時代に大陸から来 た渡来者か」と注目された。先の片山教授の説と食い違いが出そうだったが、専門家の詳しい鑑定によ る結論は「すべて典型的な日本列島の縄文人」だった。もちろん、縄文人の活発な行動力を印象づける 発見として、重要な遺跡が新たに分かった意義ははかりしれない。
調査は新たに黄河、長江の最上流部の青海省へ舞台を移す。「人と文化はおそらく、中国では大 河に沿ってつながるに違いない。これまでの南北の流れとは別の『東西の道』を探りたい」から だ。中国原郷説への自信がのぞく。
青海省での1998年までの日中共同調査でも、山東省に似た結果が出た。李家山など三遺跡から 出土した約3000年前などの人骨計約300体は、いずれも土井ケ浜や佐賀県の吉野ヶ里などから出た 渡来系弥生人骨の特徴をそなえていた。「黄河、長江上流の人びとが北部九州など一部の弥生人 の祖先だった可能性がある」という分析結果なのだ。
1999年の共同調査では、長江下流の江蘇省梁王城( 遺跡と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡出土の二体の人骨の、母系遺伝子に限定されるミトコンドリ アDNAの塩基配列がぴったり一致する例まで分かった。縄文時代の稲作伝播も長江との関係で考えら れており、重視されている。
縄文的な特徴をとどめた弥生人骨は、西北九州などからも出ている。ところが、遺物との関係 がつかめないことが多い。この新町や神戸の新方は数少ない例である。「朝鮮半島から渡来人が 稲作などをもたらした時、地元がそれらの中からいいものを選び取った。土器が激変しないのは 渡来人がそんなに多くはなかったためで、やがて在来人は彼らと融合しながら変わっていった」 と、中橋さんは見る。「大勢の渡来人が縄文人を追い払い弥生時代になった」という人もいる。 しかし近年、調査・研究が進むにつれて、ひとことではいえない複雑な様相が弥生当初、各地で 繰り広げられたことが浮き彫りになってきた。
中橋さんが数学者の飯塚勝さんと連名で1998年に『人類学雑誌』(106号)に発表した論 文「北部九州の縄文〜弥生移行期に関する人類学的考察」は、その面からも興味深い仮説といえ る。弥生時代の中期、渡来系弥生人と見られる人びとが占める割合は80〜90パーセントにの ぼっている。これは中期初めまでに形成された人口構成と見られる。しかし、初期の渡来人はこ れまでの発掘成果から見て、少数だったようだ。そうすれば、200〜300年間にこの逆転現 象が一体、なぜ起きたのか。その答えは「渡来系集団の人口増加率が、水田稲作などの進んだ文 化を背景に、土着系集団を大きく上回り、弥生中期には圧倒的になった可能性が大きい」という ものだ。弥生の開花期はこうして始まったようだ。その後、人びとの行き来は次第に頻繁になり、 多くの渡来人が来た、と歴史書にも記されている通りだ。
枕詞の中に地名を二つ重ねる枕詞がある。例えは「春日の春日」――「ハルヒノカスガ」と読みま しょうか ―― とか「纏向の檜原」とかね。これはとても古い、原型にちかいタイプの枕詞なん です。
『古事記』に、ヤマトタケルが東国へ遠征してきたところ、海が荒れ、オトタチバナヒメが海に 飛び込んで海を鎮めるという話がありますね。そこのところで、オトタチバナヒメが「さねさし 相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」という歌を詠んで飛び込むのですが、この 「さねさし相模」の「さねさし」というのは、どういう意味か全然わかっていないんです。アイ ヌ語に、陸地がちょっと海の方へ突き出た所という意味で「タネサシ」という言葉があって、僕は、 「さねさし」はアイヌ語の地名じゃないか、というふうに考えました。
つまり相模もちょっと出っ張った所ですから、そこに昔、アイヌあるいはそれに近い人たちが 住んでいたときに地形から「タネサシ」というふうに言われていた。それをもうひとつ重ねて 「さねさし相模の小野に燃ゆる火の」とした。「さねさし」という枕詞はアイヌ語だとするのが一 番もっともらしいのじゃないか、そこのところで、柳田国男の地名の考え方にちょっと接触して いくのです。
柳田は、アイヌ語の地名は自然の地形をそのまま名づけた所が多いのだという。なぜアイヌ語 の地名が残っているのかというと、それは単にそこにアイヌ人が住んでいたからではなくて、ア イヌ人またはそれに近い人たちが住んでいたときの地名があった所へ、後から移り住んで来た人 間がいる。先住民たちを完全に駆逐してしまったら、その地名はなくなってしまう。そこで地名 が残っているということは、アイヌ人たちと後から来た人間たちとが共存状態であったのだろう、 というふうに柳田は言っています。
つまり、アイヌ語の地名という問題はそういう意味でとても大切なことになってきます。先住 民と後住の人とが異なった人種であっても、共存していたか、駆逐してしまって新しい地名をつ けたか、またはこの「さねさし相模」みたいに、枕詞の形で残したか ―― そういうふうに分ける と微妙にいろんな段階があって、それはとても重要なことだなと、たしか『地名の研究』の中で 言っているんです。
枕詞の発生はそういう二つの異言語の接触、いってみれば「春日の春日」というのは、「カス ガ」をどうして「春日」と書いたかという謎を説明しているわけですね。そういう言語の違う二 つの文化が接触して、そこで生ずる言語のギャップを枕詞によって埋めようとしたという説はた いへん興味深いのです。私もぼんやりそういうことを考えていました。「さねさし」は「タネサ シ」から来ているだろうとおっしゃるのは、きっとそうでしょう。「タンネ」というのはアイヌ 語で「長い」という意味で、「種子島」も「長い島」ですからね。アイヌ語で解ける地名が東北 地方に広がっているのは当然ですけれど、もっとはるか沖縄にまであるということは非常に重大 な問題だと思います。
日本の真ん中にはなくて、北と南の両端にだけ残っている言葉がだいぶたくさんあるんですね。 例えば沖縄ではサンゴ礁と海の境目を「ヒシ」といいますが、アイヌ語でも、海と浜との境目 −海岸線を同じように「ピシ」というんです。ところが興味深いことには、『大隅風土記』に 必志の里というものがでてきて、その必志の里に「海の中の州は隼人の俗の語に必志という」と 註がついています。ということは、『大隅風土記』が作られた八世紀現在でもヒシという言葉は もう中央ではわからなくなっていたけれど、大隅の国では方言として残っていたということです。
そうすると、ヒシという言葉はアイヌと沖縄に現在も存在し、本土では八世紀にわずかに大隅 地方の方言として残っていた、この問題をどう考えるかということです。いまの「タネ」の問題 でもそうですが、そういうのがたくさんありますね。たとえば「ト」という言葉はアイヌ語では 湖あるいは沼を意味しますが、古くは海を意味したと知里其志保はいいます。ところが『おもろ 草子』に「オクト」とか「オオト」という言葉が出てきますが、それは「奥の海」「大きい海」 を意味します。本州の「トネガワ」とか「セトノウミ」の「ト」も海あるいは湖の意だと思いま す。利根川は海のような川、セトはおそらくセプト、広い海ということになります。
私も枕詞についてそういうことを考えることがあって、例えば「チハヤ」という言葉があるで しょう。「チハヤビト宇治」とか「チハヤフル神」とか、『古事記』には、「チバノカドノニ」と いう言葉がある。「チハヤフル」「チハヤビト」「チバノカドノニ」 ―― 全部神様につながってい るけれど、意味はよくわからない枕詞なんですね。
ところが「チバ」というのは、アイヌ語では「ヌサバ」なんですよ。つまり神に祈る時にイナ ウというものを作るのですが、イナウが集まったものを「ヌサ」という。日本の古代語では御幣 そのものをヌサというけれど、アイヌ語では御幣の集合をヌサといいまして、ヌサのある所がチ バなんです。そうすると「チハヤフル」は神を祭るヌサのあるチバが古くからある、だから神に つく。「チハヤビト」というのはヌサ場で一族が集ってお祭をする、だから氏につく。「チバノカ ドノニ」というと、チバの多くあるカドノニ。平城京跡からたくさんイナウが出てきた。古代日 本にも到る所にチバがあったと思います。私はそういう解釈で、「チハヤフル」などの枕詞は理 解できるのではないかと思うのですよ。
だから、おっしゃるように、そういう異言語の接触で、枕詞として古い言葉を残しておくとい うのはたいへん興味深い解釈で、いま言われた「さねさし」が「タネサシ」から、というのは私 は気がつかなかったのです。これは柳田国男の洞察に敬意を表したい。枕詞をもう一度、アイヌ 語で考えてみることは必要なんでしょうね。金田一(京助)さんのようなアイヌは異民族でアイ ヌ語は異言語、アイヌ文化と日本文化とは全くの異文化であるという通説、その通説について私 は批判しましたが、その通説のタブーさえなくなればいまのような解釈は十分成立可能だし、そ う考えることによって、日本の古代語研究は飛躍的に進むと思いますよ。
これは地名の重ねと同じことになるんですが、琉球の古い歌謡の『おもろ草子』の中にも例がありますが、 古い問題ではないかと考えていることが一つあるのです。それは僕が考えたというよりも、その前に折口信夫 が「日琉語族論」などでいちはやく指摘していることなんです。
現在の常識でいえば、地名を呼ぶ場合、東京都中央区とか京橋何丁日というふうに、大きか地域の地名を先 に言って、だんだん小さくしていきます。
ところが、折口さんは古い形はそうじゃなくて逆語序になっていて、小さい地名を先にいって大きい地名を後 でいう言い方があったんだと指摘しているんですね。その例は『おもろ』の中にいろいろあります。
「ヒルカサリ(辺留笠利)」という場合に、「カサリ」村の中の何とかという意味で「カサリ」の方が地域的 に大きい。
逆語序の関連でいうと、「大工の吉本」というのが普通の語序ですが、『おもろ』の中では「吉 本」を先にいって「吉本が細工」のように、大工だから細工人というような言葉を後でいう言い 方がある。折口信夫は「それは古い言い方なんだ」といっているんですね。
たとえば「山があってその傍に村がある」とすると、それをヤマカタという。それをカタヤマというふうにいうと、 後世は「片山」という言い方になってしまって、片方が削げている山みたいに思うかもしれないけれど、本当は、 昔はそうじゃなくてヤマカタと、いって、山の傍という意味で、山の途中をそう呼んだと、折口さんは言っているわ けです。
それらを全部合わせて、いわゆる「逆語序の時代」というのがあったというのが折口さんのとても大きな指摘で、 僕らも初期歌謡を調べてその種の例をいくつか見つけて、折口さんの説が正しいということを論じたことがありま す。その種のことを考えていくと、これは梅原さんのご領域でしょうが、日本の古代あるいは古代以前のことは、 どうも半分だけわからないところがあるような気がしてしょうがないのです。
地名を小さい順から書くというのは、外国もそうですね。アイヌと沖縄の形容詞の書き方を比べてみると、 アイヌ語はわりと自由で、形容詞が名詞の前にきていたり後にきていたり、いろいろあると思うのです。どちらの 形が古いのか、そこのところはまだ検討していないのですが、たいへん面白い問題を含んでいると思います。これは少し大胆すぎる意見かもしれませんが、アイヌ語では顔のことを「エ」および「へ」といい、 お尻のところを「オ」あるいは「ホ」というんです。古代日本語でも上と下の対立を「エ」と「オト」で表現します。 「エヒメ」「オトヒメ」、「エウカシ」「オトウカシ」などです。また、「エボシ」とか「エダ」とか、上のほうを 「エ」あるいは「へ」という。それでお尻のほうも尻尾のことを「尾」という。「山の尾」というのも山の裾ではなく て、ちょうど山のお尻にあたる所と考えるとよくわかる。
ところでアイヌ語では動作を表すのに「ホ〜」「へ〜」というのが実に多いんです。人間の動作を、顔と尻の二点で だいたい表現している。それが名詞の前にもおかれ、「へ何々」「ホ何々」という。「へ何々」というのは、何々に顔 を向けて、何々の方へとなり、「ホ何々」は何々の方へ尻を向けて、何々から、ということになる。こういう言葉から、 さらに「へ」および「ホ」が言葉の後について、「何々へ」「何々ホ」「何々ヲ」となる。こうなると日本語の助詞 「へ」と「ヲ」に近くなる。日本語の助詞と非常に似ている。「東京を発って京都へ行く」は、東京に尻を向けて京都 へ顔を向けるという意味であるということになるわけです。
そういうふうに考えると、肉体の部分を表す「エ」あるいは「オ」が前置詞のように用いられ、 後に後置詞になって、助詞になってゆくという、そういう助詞の成立の過程がわかるように思う んです。さきの逆語序という問題とこの問題とはつながっているように思われて、私にはたいへ ん興味深い。
それから吉本さんが「わからない部分がある」とおっしゃったのは、まさにその通りでして、 私はついこの間まで、縄文文化というのはわからないと思っていたのですね。考古学ではある程 度物質生活は知ることができるが、精神生活を知りえない。いくら頑張っても、考古学だけでは 縄文人の精神生活や宗教意識がわかるはずがない。ところが私はいま、アイヌ文化を発見して、 沖縄文化との対比で考えると、あるところまで縄文人の精神構造や宗教意識が理解できるのでは ないかと思うようになったのですね。今までわからなかった縄文文化を解く鍵が多少みつかって くると思います。
吉本さんと梅原さんの対話は、ヤポネシアを広く覆っていたであろう天皇制以前の精神文化や 宗教意識の問題へと続く。吉本さんの問題提起から。
たとえば、中央部でも岩磐とか巨石とか樹木信仰というのがありますね。これはむしろ先住民 の信仰だと考え、そこに天皇家みたいなものが入ってきて、それをそのまま容認したんだという ふうに考えると、三輪山信仰でも考えやすいところがあります。それから、たとえば諏訪神社の信仰もそうですが、どうもこれは北方系あるいは東北からきて いるんじゃないかと思えるのですが、信仰の形として男の生き神様を造って、それは生涯不犯で 神事ばかり司って、その兄弟が政治を司るみたいな形がいろんな所に見えるのですね。諏訪地方 の信仰もそうですが、瀬戸内海でも大三島の信仰のあり方もそうです。
そういうのと、そうじゃなくて母系制で、耶馬台国のように女の人が神事を司り、その御託宣 によってその兄弟が――これは沖縄もそうですが――政治を司る、そういう形と両方あるような 気が僕はするんですね。
ですから神話の中でも、実在かどうかわかりませんが、神武というのがいて、その兄に五瀬命 (イツセノミコト)というのがいますが、これは神事を司っていた長兄と思われますが、遠征の 途中で登美の那賀須泥此古(ナガスネヒコ)と戦って撃退され、熊野の方に廻って転戦して、戦 死してしまうことになっています。この五瀬命が、神人というか神事を司っていたと考えると、 男系の匂いもするんですね。
そうはいうものの、たとえば神武が熊野から入っていって三輪山の麓まできて、その地の村落 共同体の首長の娘を嫁にもらうか入婿するかどちらかわからないが、それと結婚する。すると、 それはどうも母系制に従っているようにも思える。ところがいろんなところを見ていくと、男系 の神様を奉っておいて、兄弟が村落を支配するという形が、どこかにほの見えたりして、よくわ からないところがあるんです。 これをどういうふうに理解すればいいのかということです。それはつまり時代の差異とか、そ ういうものを象徴しているのか、あるいはまた先住・後住ということを意味しているのか、それ とも系統が違うということなのか、そこがよくわからないんです。
梅原 おっしゃるように、どれが縄文文化なのか、どれが弥生以後の文化なのか、またど れが記紀にいう神武天皇という新しい支配者が出た大和朝廷以後の文化なのか、それを分別する のは容易ではないですね。私は構造として縄文文化を根底において、次に弥生文化を――神武伝 承以前の弥生文化というものもあると思いますけれど――その次に神武伝承以後の大和朝廷の文 化を考えますと、三輪山はどこに属するのか。朝鮮などに行くと、そっくりそのまま三輪山みた いな山があって、同じように崇拝されている。こう見ると、これは端的に縄文文化とはいえない 。あるいは神武以前の弥生文化の遺跡ではないのかとも思われますが、それらは重層的に重なり 合っているので粘り強く一つ一つ解いていくよりしょうがないだろうと思います。最後に出された男系の問題ですが、男の司祭の問題は、私は気がつかなかったが、たいへん面 白い。それも父系社会と双系社会の問題と関係するのではないでしょうか。社会学者の中根千枝 さんなどの考え方でも、中国・韓国は父系社会であるけれども日本はそうじゃなくて、双系社会 だという。ところがアイヌも双系社会なんですね。どういうふうに違うかというと、父系社会と いうのは、本貫を同じくする氏により団結がたいへん固い。ですから当然大家族制になってくる。 そして同姓娶らず、その範囲では結婚はできない。中国や韓国は今でもそういう社会です。
そういう社会だと姓は増えないわけです。だから韓国は全部で二百姓ぐらいしかない。中国も 百姓といいますが、今ちょっと増えましたが、少数民族を含めても五百くらいでしょうね。こう いう父系社会では同姓を超えた団結はなかなか生まれません。会社でも同姓で集まるし、異姓の 人が入っても絶対に社長になれないから、どうしても会社に対する帰属感がない。ところが日本ではそうではなくて、父系社会の団結が弱い。古代では「物部鹿島」というよう な複姓がある。父は物部氏、母は土着の鹿島の人、そこで物部鹿島という姓ができ、物部氏から 独立する。だから姓は無数にふえる。日本の苗字というのはほとんど地名ですが、結局、氏、血 よりも今住んでいる土地のほうが大事なんです。だから苗字が何十万とあるわけです。
またアイヌでは、財産を継承するときに、男のものは父系で相続、女のものは母系で相続する のです。弓矢のような男の持ち物は男の血縁で相続され、女の持ち物は女の血縁のほうに行く。 上代日本もそうではないかと思われます。それから、「同姓娶らず」の韓国では本貫を同じくす る同姓のものが結婚したら、禽獣の行為だとされるくらいたいへんです。同姓を娶ったら法律で 罰せられて、監獄に行かなければならない。それを免れるためには亡命をしなくちゃならん。現 に最近でもそういう悲劇の実例があるのを私は知っていますよ。
ところが古代日本の場合は、父親が一緒でも母親さえ違えば兄妹でも結婚してもかまわない。 それは父系社会からみれば、まったくの禽獣の行為としかみえないかもしれないけれど、それは それで双系社会の掟はある。母親が一緒だったら、これはやはり畜生の行為ということになるわ けです。
いまの話でいうと、初期天皇家が父系的な社会であったか、双系的な社会であったか――私は、 入ってきたとき、初めは父系的であったと思います。けれど、いつの間にかだんだん双糸的に変 ってきたのではないかという気がしてしょうがないんです。
入婿の話が出ていましたが、父系社会では入婿は絶対あり得ないわけですね。吉本 あり得ないですね。
梅原 ところが、神武天皇が大和を支配するために入婿みたいな形になっていますね。
吉本 入婿ですね。三輪山の麓の長の娘と結婚して、そこに入婿していますから。そこ で僕は思うんだけれど、初期天皇でも、十代目ぐらいまでたいてい長男坊ではないですよね。 それは長子相続ではなかったという意味なのか、それとも長男というのは隠れているけれど、 宗教的な司祭をしていて、全然子孫を残さないことになっているから、長男ではなかったのか、 そこがよくわからない。
梅原 末子相続でしょう。
吉本 それに近いと思います。
梅原 アイヌも末子相続です。アイヌは家が小さいから、大家族はできないのですね。 長男が嫁さんをもらうと独立をしてまた家をつくる。兄弟がだんだん独立をすると、最後の子 どもが年とった親父さんと一緒にいる。だからアイヌは財産は子どもにみんな平等に分けるけ れど、最後まで親父さんと一緒にいるのは末子ということになる。ここに末子相続的な原理が 含まれていると思うんですね。
それと、いま吉本さんがおっしゃった、天皇家はだいたい末子相続ということとつながりが出 てくるような気がしますね。応神天皇の時、ウジノワキイラツコとオオササギノミコトが皇位を ゆずりあって困り、ついにワキイラツコが自殺したという事件がありますが、あれも伝統的な末 子相続と儒教的長子相続の争いと見られます。この場合、末子相続法によって皇位の相続の権利 を主張できるワキイラツコが儒教信者であり自分は相続すべきではないと考えたところに悲劇の 原因があったと思います。とすると古代日本社会はアイヌ社会に似ていた。だからいまの問題は 言語だけでなくて、習俗というものを考えても、アイヌと沖縄をみると古代日本のことがいろい ろわかってくることになるのじゃないかと思いますね。
吉本 そう、アイヌの問題を調べていくと、弥生時代から残っているいろいろな宗教的 な行事とか文化的なもの、風俗・習慣もそこに保存させている部分がありますから、そういうこ とがとてもわかってくるという問題があるわけですね。
梅原 しかし、アイヌにないものを調べることも大事だと思いますね。弥生時代にすで にあってアイヌにまったくないものは何かということです。それは外から持ち込んできたもので ある可能性が高い。アイヌでは消えてしまった可能性もありますけれど。そういうものをいろい ろと比較・検討してみると、今までわからなかったものが、少しずつわかってくるのじゃないか という気がしますね。
山の民=山人とは何か。
私たちは普通「山人」というと、木地師や 木樵などと呼ばれている人たち、さらに は狩猟を仕事とする
「マタギ」や「山窩」と呼ばれている人たちを考えると思う。しかし山人研究をしていた柳田国男は、
放浪の鍛冶屋とか 鉱山師、あるいは放浪の修験者とか放浪の宗教者みたいなものも山人として考えてい
たらしい。
柳田は山人研究を半ばにして放棄しているが、これについて梅原さんが次のように言っている。
吉本 柳田さんはそれ(山人)を異人種、人種が違うと考えていたんでしょうか。梅原 初期にはそうでなかったと思いますね。『山人の研究』で「自分の生まれたところは昔、 異族が住んでいたところだと『播磨風土記』にある記事を見て、自分も山人の子孫の血が入って いるのじゃないかと思った」という意味のことを言っている。それが彼にはショックだったと思 いますね。だから彼はたいへん厭世的になり、民俗学の研究に入っていく。あの玉三郎が演じた 泉鏡花の『夜叉ケ池』で竜の女と住む学者は柳田さんがモデルだといわれているくらいですから ね。自分の血とつながっているそういう山人の文化のすばらしさを明らかにし、里人をおどろか してやろうという気特が、山人の研究に入っていった彼の気持であり、それが『遠野物語』にな ってゆく。彼の民俗学の出発点は明らかに「山人研究」「異族研究」なのです。
しかし柳田さんは大正六年頃を境として変った。山人研究は完成しなかった。おそらく私は、 幸徳事件などが間接的な原因と思います。山人研究を続けていたらたいへんなことになると心配 し、それは天皇制とぶつかって危険だと、官僚でもある柳田さんはそこで転向し、山人研究から 里人、つまり常民の研究者となる。自分を山人じゃなくて里人と一体化する。そこで新しい柳田 民俗学が生まれたと思います。そういうふうに、柳田さんには微妙な転換があるような気がします ね。だから、初期の柳田さんはアイヌに対する関心が非常に強かったのだけど、どこかの段階 で捨ててしまった。柳田さんを考えるときに、そのへんがいちばん大事になってくるのじゃない か、と私は思うんです。
吉本さんと梅原さんの対話は、天皇制の基盤である農耕民とその古層の狩猟採集民との関係 を神話から読み解く議論に移っていく。
吉本 そういうところから考えますと、柳田さんは何を日本人というふうに見ていたのでしょう か。
『海上の道』でもそうですが、よくよく突きつめてみると、柳田さん流にいえば、稲作をもって 南の島からだんだんと東北の方に行った、そういうものを日本人と呼んでいるみたいに思えます。 これではとても狭い気がしますね。そうすると、ほとんどが日本人じゃない、ということになり そうな気がしてくるところがあるんですが、それはどうでしょう。梅原 柳田さんは農林省ですか、勤めていたのは。
吉本 農商務省ですね。
梅原 やはり農商務省の役人としての職業意識が強くなると、どうしても日本を農業国と考える。 稲作農耕民の渡来によって日本の国はできたと考えた。しかしその背後には記紀史観の影響があると思 いますね。
アマテラスオオミカミ、というのは明らかに農耕民族の神だし、その孫のニニギノミコトも農耕 民族として日本の国に来た。ところが土着のクニツカミ、というのがすでにいた。たとえばオオヤ マヅミというのは山民ですし、ワダノカミというのは漁撈民でしょう。ニニギとその子孫が、そ のオオヤマヅミやワダノカミ、の娘を娶った曾孫が神武天皇です。ですからあの神話は、農耕民が やってきて、山地狩猟民や漁撈民と混血して、日本民族ができたということを物語っている。
日本人は渡来の農耕民が土着の狩猟民を支配してつくった国家だ――こういう記紀史観が当時 の日本人の共通の史観になっていた。それに柳田さんも影響されているのではないかと思います。 だからどうしてもアマツカミ、主体の歴史観だった。われわれは今は、クニツカミを重視した歴史 観を考えていかねばならないと思いますよ。しかし記紀のニニギから以後の九州での話は、事実そのままではないとしても、日本人の成立 の過程についてたいへん正確に語っていると思われます。渡来した稲作農耕民を父系、土着の狩 猟採集民を母系に、その二つの混血によって日本人はできてきたということをその神話は示して いる。そのために出産のときにトラブルが起きたりする。文化が違うと出産がいちばん問題だと 思います。出産のときに必ず文化のトラブルが起きてくる――そういうものを、とてもうまく語 っていると私は思いますけれどね。
吉本 それから、柳田さんのいう山人の中に事実として、たとえば山の中腹から煙が立っている のを見て、「あれは山窩の人がまたやってきたんだ」というような言い方で出てくるけれど、山 窩というのは、つまり山人のうちにどういうふうに位置づけられるのでしょうかね。梅原 まあ、柳田さんを読むとびっくりするのは、大正天皇の御大典のときに、京都の若王子の 山の中腹から煙が出ていた、あれは天皇の即位を祝って山人がたいた火の煙だと書いてあるんで すね。僕は若王子の山裾に住んでいるんで、どうしてそんなことを柳田さんが考えたか、びっく りしてしまいますけれど。(笑)
山窩とかマタギという人たち――山窩とマタギとはどう違うのか。マタギというのは東北に住 んでいる狩猟民で、山窩というのはもうちょっと中部の山岳地帯に住んでいる狩猟民ですね。マ タギのほうがまだ農耕民との間の、ある種の友好関係があるけれど、山窩は差別され非常に迫害 されていた、と考えていいのではないでしょうかね。
ところがマタギ社会ですけど、ご承知のようにカメラマンの内藤正敏さんがダムで埋没する新 潟県のマタギの社会を撮っていますね。この間、私も山形県の小国町という所のマタギ部落へ行 って、マタギの熊祭を見てきましたよ。マタギ部落というのはもうどこでもほとんどなくなって しまいましたが、まだそこには少し残っているんです。
熊を獲るのに、今はライフルですから、かなり遠い所からでも撃てるはずなんですよ。ところ が、そんなふうにパッと撃たないで、やはり勢子が出て、熊を下の方から追い上げ、一の鉄砲、 二の鉄砲、三の鉄砲が待ちうける。そしてずーっと追い詰めてきて、一の鉄砲から順に撃って行 く。武器がすっかり近代的に変っても、昔、熊を追い込んで、槍で仕止めるのと同じ方法でやっ ているんです。ここにどうしてマタギ社会が残ったのかというと、彼らは片方で農耕をやっている。冬になっ て農耕ができなくなってからマタギの生活に入るんですね。ふだんは農耕をやって、冬の間だけ マタギですから、かえって純粋に残ったのです。
そこでいろいろ聞きましたけど、完全な共産社会ですね。分配が実に公平です。つまりマタギ の親方を能力によって、今度の熊狩りには誰がいちばんいいか相談して決める。一種の職能的な 秩序が完全にできていて、親方はご飯も炊かなくていいし、寝ていればいい。しかし親方の命令 には全部従う。その代り、親方は責任をもたなくてはならない――そういう形でやっているわけ です。ところが熊を獲って、熊の肉を分けるのはみんな平等で、狩りに参加できない未亡人とか 年寄りにもちゃんと平等に分けるんです。ですからマタギ社会は見事な平等社会で、長は機能に 応じてできる………というので、私は感動しましたね。そんな彼らが熊祭をしている。それがいつやるかというと、マタギをやめるとき、つまり熊が 冬眠からさめて出て来るときに熊を獲るわけです。ですから熊を獲り終ると春で、彼らはそれか ら農耕生活に入るんです。その熊祭もやはり、アイヌの熊送りに似ていました。熊の魂を天に送 るという、そういう意味が残っているようでした。同時に、熊祭を終えて、自分たちはこれから マタギをやめて農耕の生活に変るという、そういう意味ももっているけれども、どこかにアイヌ の熊祭の面影を保っていました。
ところで、そういうマタギとか山窩――山窩はまたちょっと生活が違うと思いますけれども ――彼らの生活習慣を見ていると、ふつうには、山人はやはり異民族だと考えられるんじゃない かと思うんです。しかし、分配の見事な平等主義の社会を実際に見ると、やはり感動しましたね。
夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁徴爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
通説ではこの歌を
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
と読み下している。そしてその意はおおよそ「八雲の幾重にも立ちのぼる出雲の宮の幾重もの
垣よ。そこに妻をむかえていま垣をいくつもめぐらした宮をつくって共に住むのだ」とするのが
通説だ。
学者たちは何故そのような読解と解釈をしたのか。
この歌は、「天津罪」を犯して高天原を追放されたスサノオが出雲を平定し、その地に宮を作ったという
物語に挿入されている。
故ここをもちてその速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまひき。 ここに須賀の地に到りまして詔りたまひしく、「吾此地に来て、我が御心すがすがし。」との りたまひて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云ふ。この大神、初めて須賀 の宮を作りたまひし時、其地より雲立ち騰りき。ここに御歌を作みたまひき。その歌は、
夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁徴爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
ぞ。
実はこの歌はサンカの社会にも伝承されていて、サンカの解釈はまったく違うという。吉本
さんが「サンカの社会」から引用している部分を孫引きする。
サンカは、婦女に暴行を加へることを「ツマゴメ」といふ。また 「女( 込めた」とか、「女込んだ」などともいふ。 この「ツマゴメ」も、往古は、彼らの得意とするところであった。そこで、「ツレミ」(連身) の掟( ができて、一夫多婦を禁じた。 それが一夫一婦( の制度( である。ここで問題になるのは、古事記・日本書紀に記された文字と解釈である。すなはち、
(古事記)夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微雨夜幣賀岐都久留骨能夜幣賀岐衰
(日本書紀)夜句茂多菟伊都毛夜覇餓岐菟磨語妹爾夜覇餓枳菟Q盧贈廼夜覇餓岐廻右に見るやうに、両書は、全く異った当て字を使ってゐるが、後世の学者は、次のやうに解 釈してゐる。
八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を
と、決定してゐるやうであるが、サンカの解釈によると、(昭和11年、富士山人穴のセプリ外 18ヶ所にて探採)次の通りである。
ヤクモタチ(ツ)は、八蜘昧断ち(つ)であり、暴漢断滅である。イヅモ、ヤへガキは、平 和を芽吹く法律で、ツマゴメ(ミ)ニは、婦女手込めにし、である。ヤへガキツクルは 掟( を制定して、コ(ソ)ノヤへガキヲ、はこの 掟( をこの守る憲法を―で、これが「一夫一婦」の 掟( である。
それで出雲族を誇示する彼らは、自分たちのことを、「沢瀉( 八蜘蛛断滅」だと自称して、誇ってゐるのである。
なぜこういう解釈に吸引力があるかといえば、スサノオが追放されるにさいして負わされた〈天 つ罪〉のひとつは、農耕的な共同性にたいする侵犯に関しており、この解釈からでてくる婚姻につ いての罪は、いわゆる〈国つ罪〉に包括されて土着性の濃いものだからである。『古事記』 のスサ ノオが二重に象徴している〈高天が原〉と〈出雲〉における〈法〉的な概念は、この解釈にしたが えば大和朝廷勢力と土着の未開な部族との接合点を意味しており、それは同時に〈天つ罪〉の概念 と〈国つ罪〉の概念との接合点を意味していることになる。
サンカの人たちは出雲族を誇示しているという。出雲族というのは歴史的な信憑性のある
種族だろうか。
出雲神話はまったくの作り話だというのがこれまでの通説だが、梅原さんはこの通説にも疑問を
呈している。
実はこの間、出雲にすばらしい銅剣がたくさん出たので見に行きました。銅剣が356本。 これは今まで日本全土で出ているより多い数です。それに銅鉾が16本、銅鐸が6個――ちょっ と日本の古代史を書き換えなくてはならない。われわれもそうですが、長いこと「出雲神話」は フィクションだと考えてきた、これは津田左右吉に影響された日本の古代史家が一様にもってき た考え方です。
ところが、「出雲神話」の中心地である斐伊川の近くの、ほんの小さい丘からそれだけのもの が出てきて、国譲りの話をそのままあらわしているようなことになってきた。
それから、和辻哲郎の銅鐸文化圏、銅剣・銅鉾文化国の対立で弥生文化を、近畿文化圏と北九 州文化圏の対立と考える図式もすでにおかしくなってきましたが、この荒神谷遺跡の出現でもう 一度大きく問い直されなければならなくなった。
そこで、どうしてそんなものがそこに埋められていたか、いろんな説が出ていますが――最 初、銅鐸を使って地の祭をしていた。ところが今度は太陽を祀る宗教になったから、要らなく なって埋めたという説が有力のようですが、埋めたにしては数が多すぎる。それと同時に、地 の神から太陽の神へと、そんな簡単に信仰の対象が移るものかどうか。どうにもうまい説明が つかないんですね。私はこの遺跡がヤマトタケルと関係する記紀や『風土記』のタケルべの里 であることを考えて、やはり出雲権力の大和権力への降服儀式ではないかと思いますね。
島根県松江市に弥生時代の戦場跡らしい遺跡がある。田和山遺跡という。この田和山の西約
40kmに出雲大社、約17km西南西に神庭荒神谷と加茂岩倉の両遺跡がある。
この田和山遺跡は標高46mの丘陵にあり、2100年あまり前の弥生時代前期後半につくられ、200
年ほど続いた不思議な遺跡だという。まるで砦か、聖地のようだという。人が住んでいた形跡はない。
こんな弥生遺跡はきわめて珍しい。見晴らしの良い丘陵に、倉庫にしてはあまりにも小規模、しか
も厳重な防衛態勢をとって営まれた形跡が濃い。いったいどんな施設だったのだろうか。神庭
荒神谷遺跡はこうした周辺の遺跡とも関連して考えなければいけないだろう。
神庭荒神谷遺跡から大量の銅剣、銅鉾、銅鐸が発掘されたのが1984年。梅原さんがそれに
注目して上記のような発言をしたのが1986年のこと。その後、1998年には吉野ヶ里遺跡
から九州初の銅鐸(高さ約26cm)が発見されている。さらに99年6月、これまで6種類以
上の鋳型が出土している大阪府茨木市東奈良遺跡から、朝鮮式小銅鐸と日本式銅鐸双方の特
徴をもち、「日本式が考案される過程でつくられた祖形のひとつで、絶滅してしまった型の
遺物」ともいわれる古い銅鐸(高さ14.2cm)が出土している。同じ年の9月には奈良県田原
本町の唐古・鍵遺跡で、類例のない文様の銅鐸鋳型が見つかった。このように近年、銅鐸関
係の新発見が続いている。しかし、鋳型が見つかった約35ヵ所のうち、30ヵ所を近畿地方が
占めている。
このため、春成秀爾・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は「近畿に銅鐸の中心部があったこ とは依然、揺るがない」という。そして「高度で繊細な技術やデザインなどから見ても、銅鐸は 当時の地域集団にとって、格別なものだった。とても対価を支払って入手できるものではなく、 製作も限られていた。贈り主と贈られた相手の間には、半永久的に従わざるを得ないような関係 ができたに違いない」とし、社会統合の象徴とも考えている。銅鐸はこれまで、その用途や埋納目的に関心が向きがちだった。奈良国立文化財研究所は、加 茂岩倉銅鐸の原料産地などの科学分析を始めている。詳しい分布状態や製作推定地、兄弟関係な どから、銅鐸の「動き方」が解明されれば、ここからも弥生社会の実態が見えてくるだろう。
、農耕があると富の蓄積がきくわけですね。狩猟社会というのは絶えず移動していますから、富 を一カ所に貯蔵することはなかなか困難ですね。だから例のオオクニヌシノミコトが袋を背負っ ていくというのは、狩猟民族の移動方法を示しているのではないかと私は思います。
獲物があった場合でも食べられない分は腐ってしまいますから、自分だけ一人占めにすること はできないだろうし、部族の全部に分ける――そういう、非常に共産主義的な社会だったと思い ます。ところが農耕が発明されて、富の集中が可能になり、そしてそこから国ができる。国ができれ ば国家を統一する大宗教、世界宗教が出てくる。そして巨大な神殿ができてくる。それからそれ に対して必ず文字が出てくる――ということになると思うのですが、縄文文化というのは、そう いう意味でいうと、すでに世界の他の地区にそういう大文明が出現しているのに、一時代前の生 産方法のもとにかなり精神的に高い文化を発展させた特殊な文化であったと思いますよ。
日本では農耕の成立が遅れ、巨大な国家の出現が遅れたために、富の集中する社会が出てくる のがたいへん遅かった。それから文字の出現も遅かったと思いますが、それはいいことではなか ったか、といま僕は考えているんですよ。
国家のできるのが遅かったからよかったという考え方です。巨大国家が造られたときは富の集 中があって、階級社会ができて、うんと金持と貧乏人の差ができる。そういうところから生ずる 人間の心の歪みがたいへんきつい。そのきつい歪みを世界宗教が反映しているのではないかと、私 は思うんです。
さて、いきおい、お二人の話題は「日本国」ということになる。
梅原さんの要請に従って、吉本さんが「共同幻想論」のモチーフと方法論を次のように語って
いる。「第323」(7月6日)で一度話題になったことで重複するきらいがあるが、より詳しい論述
になっているので引用する。
吉本
制度的というか、政治的というか、そういうところから考えると、日本人の歴史と、日本 国家、つまり初期の大和朝廷成立以降の国家らしい国家が農耕を基礎にしてできあがったことは 同じではありません。つまり日本国の歴史と日本人の歴史は違って日本人の歴史の方がずっと古 いわけです。それこそ縄文早期、あるいはもっと前から始まっているかもしれませんから。日本 人の歴史と日本国の歴史――もっといえば天皇家の歴史とを全部同じものとして見るのは不当で はないかという感じ方はあったのです。
だから、天皇家の始まりが日本国の始まりというのはまだいいとしても、天皇家の始まりが日 本人の始まりだ、というのは少なくとも違うから、日本人の歴史というところを掘り起こしてい けば、天皇家を中心にしてできた日本国家の歴史のあり方を相対化することができるのではない かということが問題意識の一番初めにあったわけです。
ですから初めの頃、熱心にやったのは、天皇家の即位の仕方とか宗教の作り方というもの――僕は主と してそれを琉球・沖縄をみて、沖縄にずっと後まで、十世紀以降まであった聞得大君 (キコエオオキミ)という女官の制度的な頂点にいる、宗教を司る女性たちの即位の仕方と比べ ると、たいへん似ているところがあるのではないか、そこを知ろうとしました。
『共同幻想論』の中では何を考えたかというと、能登半島などの田の神が来訪してくるという田 の神の儀式と、大嘗祭の神事のやり方とがわりあい似ているのではないか。同じ型があるのでは ないか――それを調べて研究すると、日本人の歴史という問題と天皇家の成立以降の国家の歴史、 あるいは天皇家の祭儀や祭の中に残っている制度的な名残りなどを類型づけられるのではないか というふうに考えて、初めはそんなことばかりつつき回していたように思います。初期の天皇家が大和盆地に入ってきて、そこで地域国家らしきものを造っていくときの信仰の ありかたは、沖縄の聞得大君の即位のときの信仰のやり方と似ていて、いずれもはっきりいえば 一種の巨石信仰あるいは樹木信仰みたいなもので、その巨石や樹木、あるいは小高い丘の頂点か ら神が降りてくるという感じがあって、それは同じ類型づけができるのではないかと考えたんで す。
それが、天皇家あるいはもっと普遍化して農耕民に特有な信仰だったのか、あるいはそれ以前 からあった信仰を継承したのか、そこがわからないから、初めは農耕民のいちばん古い祭の仕方 を、天皇家が大和盆地で継承して最初にやったのだと考えたのですけれども、後になるにつれて、 それは前からいた先住民の信仰ではないのかと思えるようになってきているんです。でも本当は、 そこがよくわからないんです。
つまり初期の天皇をみていても、相続は少なくとも長子相続ではない。しかし婚姻になるとい つでも姉と妹がいて、入婿的で、女系的な匂いがするのは確かです。そうすると、そこのところ はどういうふうに理解したらいいか。つまり宗教的な為政と、現実に一族のあり方としてとって いる相続の形とがどうしても混合していて、よくわからないというのが問題です。これと異質なのは、縄文時代からの狩猟民的な祭式といわれる、諏訪湖のほとりの諏訪神社の 祭のあり方と相続の仕方です。あれは男系の子どもを連れてきて、何十日かその子どもを籠らせ たあと、岩盤みたいなものの上で相続の儀式をする。それは一種の生き神様の役割をさせるとい う形で、大和朝廷が近畿地方、大和盆地でやったやり方とちょっと違うんですね。
それと、瀬戸内海の大三島神社の古くからの相続の仕方――河野氏の祖先でしょうけれども ――あのやり方が、兄が生き神様を相続して、それは生涯結婚できず子孫を残すことかてきない ことになっていて、弟が支配するという形を強固に保ってきた――わずかにその二つぐらいが異 質だということがわかっていた。
江上(波夫)さんのいうように、もし大陸からやってきたのが天皇家だというのならば、その とき大勢の原住民がいて宗教的な形態も決まっていた、そこに支配的な民族が土着の人たちより 少人数という形で入ってきた場合に、自分たちの宗教を押しつけるものなのか、あるいはそこに 元からあったものをうまく使うのか――僕は、そこのあたりの解明がとても重要ではないかとい う感じがします。
梅原
記紀の記事を尊重すると、神武天皇の次に重要なのは崇神天皇でしょう。神武天皇も崇神 天皇も、どちらもハツクニシラススメラミコトといわれている。どうして二人に同じ名前をつけ たのかという問題が生じてくるけれども、政治支配は神武天皇から始まっている。記紀の記述に 従って南九州からやってきて、巨大な統治政権を固めたのが神武天皇だとすれば、それの宗教的 な基礎を固めたのが崇神天皇であるということになる。そういう意味で崇神天皇が神武天皇とと もにハツクニシラススメラミコトと呼ばれるのだと思います。
崇神天皇の時代に疫病がはやってたいへん多くの人が死んだことがある。どうして疫病がはや るのか占ってみたら三輪の神様が崇っている。そこで三輪山の神様の子孫であるオオタタネコを 見つけ出して三輪山を祀らせたら、疫病はおさまって日本の政治はうまくいったという記事が 『古事記』にも『日本書紀』にも出ているんです。
これは、神武天皇以後九代までの天皇が向こうからもってきた、近くは南九州、その前はおそ らく朝鮮半島からもってきた宗教で交配しようとしたけれどうまくいかない。そして世の中がい ろいろ乱れたので、結局、先住民が信仰していた宗教を祀ることによっておさまった、というこ とではないかと私は解釈するんです。三輪山の宗教が縄文時代までさかのぼるものか、それとも 弥生時代に始まるものか、これまた難しい問題ですが……。
一応、日本の国を考えるときに、言語だの宗教だのはだいたい土着のものを基本にして、それ を継承したのではないか。そうしないと、少数の支配者が多数の被支配者をうまく治めることは できないだろうと、そう考えているんです。
それでは先住民、縄文住民の宗教はどうであって、弥生初期にどう変って、再びいまの天皇家 の祖先が来たときにどう変ったかということはなおわからない。私は、いわゆる神様が山の峰に 天降って、それが現在の支配者の祖先だという考え方は、天皇家が大陸のほうからもってきた思 想ではないかと思っていました。ところがそれもやはり、それ以前の縄文時代の人たちがすでに もっていた考え方ではないか――沖縄やアイヌの例もあって――そういうふうに今は考えて おります。
アイヌでもかれらの祖先が降った山が必ずあるところを見ると、天上から神が降臨すると いうのがアマツカミ渡来農耕民の考え方であるとはいえないようです。