248 日本のナショナリズム(1)
はじめに
2005年4月20日(水)
前回引用した戸井さんの文章に次の一節があった。
「どうしてそういう世の中になってしまったのです、してしまったのです」 ―ここの
ところがむずかしくて、わたしにもよくわからないのだが、ぼくの生まれるずっと前から、
長い年月かけて代々の大人たちがそういう世の中をつくってきたことだけは確かだ。そこ
がおそろしいのだが、そのへんを、もっと勉強するしかないと思う。
このホームページで私はもっぱら他人のことばの受け売りをやっている。それは私に人に語るべき
ほどの蓄積がないからだ。つまり私はこのホームページで戸井さんが言うところの「勉強」をしてい
るつもりなのだ。そして「もっと勉強するしかない」と思っている。
北村小夜さんの「危ない教科書・音楽」を取り上げていたとき、二つの課題が浮かび上がっていた。
一つは明治からこのかたの大衆の愛唱歌を素材に「日本のナショナリズム」を論じている吉本隆
明さんの同名の論文を読み直すことである。(この論文の一節を「第136回・2004年12月28日」で
引用している。)
もう一つはそれらの愛唱歌がなぜ愛唱歌になるのかという疑問をもった。日本語や日本人
の音楽的感性にどんな特質があるのか。この疑問に答えてくれそうな論考として菅谷規矩雄さんの
「詩的リズム」が思い浮かんでいた。これも読み直してみようと思った。実は「詩的リズム」には
吉本論文について論評している部分がある。
吉本さんの論文「日本のナショナリズム」はナショナリズムの岩盤にまで掘削を届かせたユニーク
でかつ優れたものと思っているが、その後、肯定的にであれ批判的にであれ、これを超えるナショナ
リズム論はないようだ。小熊英二さんの「<民主>と<愛国>」は戦後日本のナショナリズムがテーマ
なので吉本さんの「日本のナショナリズム」を取り上げる場ではないかもしれないが、本文では全く
触れていない。註でほんの少し言及しているだけだ。
「国定教科書」をテーマにしているとき、何かよい資料はないかと岩波講座「日本歴史17」をめくって
いたら、色川大吉さんの「日本のナショナリズム論」という論文に出会った。色川さんはそのはしがき
で吉本さんの論文「日本のナショナリズム」を高く評価している。
いまなぜ「ナショナリズム」を取り上げるのか、「ナショナリズム論」の状況はどうなっているの
か、その中で吉本論文はどう位置づけられるのか、色川さんの「日本のナショナリズム論」はどういう
動機と意図を持って書かれたのか。まずそれらの観点から色川さんの「はじめに」読んでみる。
色川さんはまず「日本のナショナリズムを総体として論じ、思想としての衝撃力を持った論文が戦後の
日本にどれほどあったろうか」と問い、日本史学会にはめぼしいものがほとんどないと嘆いている。
そして「よく戦後三〇年の風雪に耐え得たもの」(色川さんのこの論文が書かれたのは1975年前後)
として、「西欧近代のモデルを理念化し、自己否定の契機として日本のナショナリズムの病理を総体とし
て解析した丸山真男の「日本におけるナショナリズム」(『現代政治の思想と行動』)」と、「魯迅や
中国のモデルを否定の契機として日本ナショナリズムの特質を摘出した竹内好の諸論文(竹内好評論
集、第三巻『日本とアジア』)」をあげている。いずれも
戦後数年のあいだに書かれたものである。
それから約10年後(1964年)、「安保反対闘争の過程で大衆ナショナリズムという新しい概念を提出し、その
基底の視角から日本のナショナリズムの総体(支配層のナショナリズム、知識人のナショナリズム、大
衆のナショナリズムの関連構造)を逆照射して丸山らを批判した吉本隆明の論文(「日本のナショナ
リズム」)があらわれ、大きな影響をあたえた。」
それ以後、上山春平、神島二郎、橋川文三、松本三之介らのカ篇が書かれているが、本質的な方法
論上の論争に発展せず、思想的な衝撃力という点からするなら、丸山・竹内・吉本のそれに及ぶこと
はできなかった。右の三氏はそれぞれするどく現実とかみあい、本質的な視点を提起し、総説を展開
していたからである。
こんど私はそれらを通読して、あらためて日本のナショナリズムの問題が理論面でもまだ解決されて
いないことを痛感した。実証的な面における研究の不足についてはいうまでもない。この問題は日本文
化および日本社会の伝統的体質や近代化の理解と結びついているばかりでなく、何よりも天皇制の本質
と深く関連している。その上ナショナリズム生成の時期が近世中期から現代までの二世紀余にわたり、
しかも日本近代の思想史、政治史の骨格をなしているものだけに、その総体を歴史学的に実証してゆく
ことはきわめで困難なのである。
(中略)
だが、この詩人にして思想家なる人の大胆な「ナショナリズム」論は(かれのスター
リン主義批判や「自立」の理論と共に)、多くの読書人に衝撃をあたえたにもかかわらず、学界内部
の研究者には破壊力を及ぼすことはできなかった。学界内の研究者は亀甲のように厚い皮をかぶった
進歩主義史学なるもののパラダイムの中に安住し(しかも、ほとんど大学に職を得て保守化しており)、
吉本論文を気のきいたエッセイのたぐい、新左翼の口の悪い男の一評論ぐらいにしか受けとめなかった
のである。つまり、「私の近代史研究とは関係ない」「あれは学問ではないよ」
といった程度の反応であった。
私はそのことを同じ研究者の一人として残念に思う。その批判が学界外のどこから誰から来たものであ
ろうと、近代史の方法の本質にかかわるものであるなら、研究者は謙虚に受けて立つべきであった。吉本
論文中、もっとも激しい批判をあびた上山春平は、吉本の激語を冷静な学的態度でうけとめ、丸山真男
と対照して吉本隆明の思想的位置を確定し、吉本説を相対化しようとする論文を発表した。その態度は
立派だが、上山のその試みは見当はずれであって成功していない。だいいち上山は吉本の思想言語を理
解せず(たとえば「揚げ底」などについては全くの誤解である)、
吉本の思想を単純化しすぎたため、吉本の大衆ナショナリズムの視点から日本のナショナリズムの総体を関連づけて
把握したその方法上のメリットを評価できないで終った。そこで私もかれらが提起した仮説にたいして、遅ればせな
がらこの機会に研究者として発言してみたいと思う。
次回から吉本さんの「日本のナショナリズム」と色川さんの「日本のナショナリズム論」と菅谷
さんの「詩的リズム」を読み合わせながら日本のナショナリズムについての理解を深めていこうと
思う。ずいぶん欲張ったことを考えてしまった。私にとっては大変な難題で、うまく
いくかな?チョッと心配になっている。
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249 日本のナショナリズム(2)
「大衆」とは何か
2005年4月21日(木)
これからお世話になる論文を改めて書き留めておく。
吉本隆明「日本のナショナリズム」(「自立の思想的拠点」所収)以後吉本論文と呼ぶ。
色川大吉「日本のナショナリズム論」(「岩波講座・日本歴史17」所収)以後色川論文と呼ぶ。
菅谷規矩雄「詩的リズム」(大和書房)これはずばり「詩的リズム」と呼ぶ。
さて、吉本論文はまずナショナリズムと言う言葉の意味とナショナリズム論の混迷状況から
説き起こしている。
「ナショナリズム」というとき、ひとによってさまざまなかげりをこめて語られる。社会学・政治学
の範疇では、世界史が資本制にはいってから後に形成された近代国家そのものを単元として、社会や政
治の世界的な諸現象をかんがえる立場をさしている。近代資本主義そのものと相伴う概念である。
しかし、「ナショナリズム」という言葉が、世界史の尖端におくればせに登場した国家・諸民族に
よってかんがえられるばあい、民族至上主義・排外主義・民族独立主義・民族的革命主義などの、さま
ざまなかげりをふくめて語られる。そこでは、すでに規定そのものが無意味なほどである。
さらに、これが、日本の「ナショナリズム」として、明治以後
の日本近代社会におこった諸現象について語られるとき、天皇制的な民族全体主義・排外主義・超国家
主義・侵略主義の代名詞としての意味をこめて、怨念さえ伴われる。もちろん、この場合でも、桑原
武夫・加藤周一その他におけるように、近代日本資本主義社会の体制的表現としてのナショナリズムの
意味でつかわれ、その再認識が語られるばあいがないわけではない。しかし大抵は、日本のナショナリ
ズムは、天皇制を頂点とする排外主義・帝国主義・膨脹主義の権化としてリベラリスト・進歩主義者・
「マルクス主義」者の指弾の対象として取上げられるか、あるいは、この反動として日本近代天皇制
トオタリズムの再評価すべきゆえんとして語られるか、である。
さらに、日本の「ナショナリズム」が、政治や社会の諸現象のレベルをはなれて、体験のレベルとし
て、それぞれの個人によって語られるや否や、あらゆる論議は、冷静さを失い、その様相は一変する。
つまり、日本の「ナショナリズム」は、まだ論理的な対象として分離されない段階にあることがわかる。
戦後のナショナリズムについて、最近、小熊英二さんがそれを論理的な対象となして「<民主>と
<愛国>」という成果をあげているにもかかわらず、ナショナリズムをめぐる社会的・政治的状況は
吉本論文が書かれてから30年後の今日でもほとんど変わっていない。吉本論文は、謂わば、日
本の「ナショナリズム」を「論理的な対象として分離」する試みであり、現在でも意義ある論文だと
思う。
吉本さんはまず「大衆ナショナリズム」を解き明かそうと試みているが、ここで言う「大衆」の意味を
確認しておく必要がある。
個人的な体験から世界観にわたるこの思想性の錯綜を考慮にいれたうえで、日本の「ナショナリズム」
を系譜としてとりだすことは、不可能であるとおもわれる。やむをえず、わたしの問題意識をもとにし
て、これに接近するほかはない。
わたしがもっとも関心をもつのは、決して「みずから書く」という行為では語られない大衆の「ナショ
ナリズム」である。この関心は、「沈黙」から「実生活」へという流れのなかで消えてしまって、ほと
んどときあかす手段がない。
マス・コミュニケーション下にみずから登場する「知的大衆」を「大衆」と見なし、知識人にちかづく
ことを高次にあるものと見なすという一般的に流通している大衆概念に反対して吉本さんは
『「大衆」を依然として、常住的に「話す」から「生活する」(行為する)という過程にかえるものと
してかんがえ』ている。すなわち『けっしてマス・コミ下に登場しない「マス」そのもの』が吉本さんが言う
「大衆」である。
この大衆が知的に上昇していったとき、『すなわち「書く」という行為と修練に参加したとき、すでに
これらの大衆にとらえられたナショナルな体験の意味は、沈黙の行為から実生活へと流れる大衆そのものの思考
とはちがったものとなっている』。と吉本さんは言う。したがって戦没学生の手記、戦没した農民の
手記、疎開学童の記録、主婦の戦争体験といった記録にあらわれた体験と思想を、そのまま大衆の体験と
思想とみなすことはできないと言う。
それでは、『「みずから書く」という行為では語られない大衆の「ナショナリズム」』をときあかす手
段はあるのか。
このようにして、大衆のナショナルな体験と、大衆によって把握された日本の「ナショナリズム」は、
再現不可能性のなかに実相があるものと見倣される。このことは、大衆がそれ自体としては、すべての
時代をつうじて歴史を動かす動因であったにもかかわらず、歴史そのもののなかに虚像として以外に登
場しえない所以であるということができよう。しかし、ある程度これを実像として再現する道は、わたし
たち自体のなかにある大衆としての生活体験と思想体験を、いわば「内観」することからはじめる以外に
ありえないのである。
(中略)
ある時代のある文化のヒエラルキーは、大衆そのものからの、彎曲を意味している。ただ、この彎曲を
とおしてしか、ある時代思想は、すすめられることはないのである。文化を主軸とすればもちろん、歴史
体験を主軸とするとき、つねに大衆それ自体は、決して舞台に登場することのない主役としての存在であ
ろうか? この問いは切実である。
かくして吉本さんは自分自身の中にある『大衆としての生活体験と思想体験』への内観と、『大衆そ
のものからの彎曲』したものという認識を保持しつつ大衆の文化(愛唱歌)を、『「みずから書く」という
行為では語られない大衆の「ナショナリズム」』をときあかす手段として選んで論考を進める。
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250 日本のナショナリズム(3)
大衆ナショナリズムの原像(1)「戦友」
2005年4月22日(金)
吉本論文は「大衆ナショナリズムの原像」に二つの面からアプローチしている。
一つは政治に向かう心情表現で、「戦友」を代表例としてあげ、「広瀬中佐」、「水
師営の会見」、「婦人従軍歌」などの唱歌によって流布されたとしている。
もう一面は社会に向かう心情表現で、「二宮金次郎」を代表例としてあげ、「仰げば尊し」、
「はなさかじじい」、「冬の夜」、「故郷」などの唱歌をあげている。
まず第一の政治に向かうナショナリズムについて、「戦友」が戦後にリバイバルしたときの個
人的な感慨から書き始めている。
アイ・ジョージの唱う「戦友」を、わたしはテレビの画面を通じてたびたびきいた。そこにはいつも
総体的な暗い感銘がある。その歌をうたえば復古調であるといわれないか、それは好戦的と呼ばれまい
か、というようなつまらぬ知識人インターナショナリズムの理念に、わずらわされず、また、反対にこ
れらのもつ意味を忘れるべきではないというような知識人の逆の意味での理念にもわずらわされず、
きわめて「自然」にちかく、唱っていることが、暗いが総体性のある感銘を形づくつている。インタ
ーナショナリズムの立場からナショナリズムを評価するといった、花田清輝やその亜流のような、馬鹿げ
た理念からあたうかぎり遠ざかって、みずからよい曲と信じ、よい歌詞と信じ、またみずから通過した
体験を核にして、それは歌われている。
「戦友」の歌詞は14番まであるが、吉本さんは論述を進めるために必要な部分として、その3番から
6番の歌詞を引用している。
ここでふと疑問に思ったことがある。吉本さんは引用する唱歌の洗礼を受けた人たちとして
30歳から40歳(論文が書かれた当時の)ぐらいまでの人を想定している。吉本論文が書かれたのは
1964年だから1920年前後から1935年前後生まれ以上の年齢になる。現在では70歳から80歳ぐらい以上の人
に当たる。
このホームページを覗いてくれている人はどのくらいの年齢の人たちだろうか。若い人はあまりいない
だろうと想定しているが、もしかすると「アイ・ジョージなんて歌手、知らないよ」とか「戦友?聞いた
ことないな」という人もいるかもしれない。試みに身近にいる26歳の青年に尋ねてみたが「戦友」を知ら
なかった。当然といえば当然なことだし、そんなの知らなくても一向に差し支えないのだが、座興もか
ねて全歌詞と楽譜も紹介しよう思う。吉本論文や色川論文が歌詞を引用している唱歌については資料があ
ればそうしようと思う。

戦友
1 ここは御国を何百里
離れて遠き満洲の
赤い夕日に照らされて
友は野末の石の下
2 思えばかなし昨日まで
真先かけて突進し
敵を散々懲らしたる
勇士はここに眠れるか
3 ああ戦の最中に
隣りに居った此の友の
俄かにはたと倒れしを
我はおもわず駈け寄って
4 軍律きびしい中なれど
これが見捨てて置かりょうか
「しっかりせよ」と抱き起し
仮繃帯も弾丸の中
5 折から起る突貫に
友はようよう顔あげて
「お国の為だかまわずに
後れてくれな」と目に涙
6 あとに心は残これども
残しちゃならぬ此体
「それじゃ行くよ」と別れたが
永の別れとなったのか
7 戦すんで日が暮れて
さがしにもどる心では
どうぞ生きって居てくれよ
ものなといえと願うたに
8 空しく冷えて魂は
くにへ帰ったポケットに
時計ばかりがコチコチと
動いて居るも情なや
9 思えば去年船出して
お国が見えずなった時
玄海灘で手を握り
名をなのったが始めにて
10 それより後は一本の
煙草も二人わけてのみ
ついた手紙も見せ合うて
身の上ばなしくりかえし
11 肩を抱いては口ぐせに
どうせ命はないものよ
死んだら骨を頼むぞと
言いかわしたる二人仲
12 思いもよらず我一人
不思議に命ながらえて
赤い夕日の満洲に
友の塚穴掘ろうとは
13 くまなく晴れた月今宵
心しみじみ筆とって
友の最后をこまごまと
親御へ送る此の手紙
14 筆の運びはつたないが
行燈のかげで親達の
読まるる心おもいやり
思わずおとす一雫
『学校及家庭用言文一致叙事唱歌(三)』1905(明治38)年9月
唱歌を作詞作曲するのは知識人である。そこに表現されている理念は知識人によってとらえられた
大衆ナショナリズムであり、これをそのまま大衆のナショナリズムと考えることはできない。しかしこの
唱歌が大衆の心情をとらえたのは確かであり、だから愛唱歌として歌い継がれていった。吉本さんは
そのことを次のように言っている。
これをそのまま、日本「ナショナリズム」の大衆的心情とかんがえると、誤解を生ずるとおもう。
戦争はリアルなものであり、この歌曲とおなじ位相で、「友」を弾よけにして「我」は逃げるという
場面が、戦争のなかでなんべんも繰返されるということを想定できるからである。しかし、知識人に
よってとらえられた日本「ナショナリズム」の大衆的「連帯」の理念はこのようなもので
あった。そこでは「お国の為」が、個人の生死や友情と矛盾し、それを圧倒し、しかしあとに余情が
残るということが表現された。この表現には、いうまでもなく、その裏面に、他人のことなど、己れ
の生命のために構ってはいられない、また己れの利益のためには「お国の為」などかまっていられな
いという、明治資本主義が育てた理念を、かならず付着しているものである。
そして続けて「ウルトラ・ナショナリズム」に言及している。
おそらく後年、昭和にはいってウルトラ=ナショナリズムとして結晶した天皇制イデオロギーは、
己れのためには「天皇」や「国体」なぞは、どうなってもしかたがないという心情を、その底にか
くしていたのである。明治において、はじめにたんなる裏面に付着していたにすぎない個人主義が、
ひとつの政治理念的自己欺瞞にまで結晶せざるを得なかった実体を、わたしたちは、「天皇制イ
デオロギー」あるいは「ウルトラ=ナショナリズム」とよんでいる。このような自己欺瞞は、大な
り小なり、理念が普遍性を手に入れるためにさけることができないものである。
普遍性をもつ理念には何らかの自己欺瞞が含まれていると言っている。さらに吉本さんはこの政治へと向かうナショナリズムを流布していった唱歌「戦友」、
「広瀬中佐」、「水師営の会見」、「婦人従軍歌」などに関連して、戦前の左翼的知識人が
陥っていた陥穽にふれている。
現在(1964年当時・・・仁平)、四十歳をこえる者は、大方これらの心情を、肯定または反撥
として通過しているはずである。
第二次大戦前の古典時代に、日本の知識人が、少年期をへて長じて社会意識に目覚め、左翼イデオロ
ギーを獲取してゆくばあいは、ひとつには、このような意味で表現された大衆的「ナショナリズム」の
裏面に、どれだけの虚偽が付着しているかに気付いてゆく過程としてあらわれた。いいかえれば、社会
のリアリズムに目覚めていく過程として。そして、このリアリズムが、またどれだけの虚偽をスターリ
ニズムとして含むものであるかを知らなかったのである。
左翼イデオロギーの理念の中にも自己欺瞞と言う虚偽が含まれること知るべきだと言っていると思う。
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251 日本のナショナリズム(4)
大衆ナショナリズムの原像(2)「二宮金次郎」
2005年4月23日(土)
社会へと向かう大衆のナショナリズムの心情の象徴として、吉本さんは「二宮金次郎」を
取り上げている。

二宮金次郎
1 柴刈り縄ない草鞋をつくり
親の手を助(け弟を世話し
兄弟仲よく孝行をつくす
手本は二宮金次郎
2 骨身を惜しまず仕事をはげみ
夜なべ済まして手習読書
せわしい中にもたゆまず学ぶ
手本は二宮金次郎
3 家業大事に費(をはぶき
少しの物をも粗末にせずに
ついには身を立て人をもすくう
手本は二宮金次郎
「尋常小学唱歌(二)」1911年(明治44)6月
今では二宮金次郎を知らない人のほうが多いかもしれない。二宮尊徳といえばあるいは
知っている人が増えるだろうか。
この唱歌に対する吉本さんの分析は次のようである。
この歌曲の象徴するものは、現実としては都市下層大衆の一部、純農村の一部にしか、現在では、
通用しないかもしれないし、感性としては、ほとんどすべてに通用しなくなっている。
しかし、これは、近代日本の資本主義の膨脹期に、大衆によってとられた心情の「ナショナリズム」
の一面を表象する。刻苦勤勉し、節約家業にはげみ、立身出世せよという意味で、二宮尊徳の伝記の
なかの挿話が唱われる。曲は出処がわからぬが、ポピュラーな歌曲としていいものである。
これは、「戦友」とはちがって、政治にむかわずに、社会にむかう大衆の「ナショナリズム」をよ
く表現している。わたしの推定では、現在、日本の大衆は、刻苦勤勉し、節約家業にはげめば、社会
の上層に立ちうるということを、現実的にほとんど信じてはいまいし、またそれは不可能であること
をよくしっている。知識人もまた同様である。
しかし、現在、日本の産業資本・金融資本を支配している人物たちは、大なり小なりこのタイプの
人間であり、また、知識人は、ごく少数のものが、このモラルを信じているだけである。それにもか
かわらず、潜在的には、すべての大衆と知識人は、この資本制上昇期の大衆「ナショナリズム」をみ
ずからのうちにかくしていると、わたしにはおもえる。
次に「冬の夜」と「故郷」を取り上げ『これらはいずれも、社会にたいする大衆の「ナショナリズム」
の一側面をそれぞれ主題のうえに抽出しており、またそれ故に大衆の間に広く流布されたの
である。』(下線・・・仁平)と述べている。
冬の夜
1 燈火ちかく衣(縫う母は
春の遊びの楽しさ語る。
居並ぶ子どもは指を折りつつ
日数かぞえて喜び勇む。
囲炉裏火はとろとろ
外は吹雪
2 囲炉裏のはたに繩なう父は
過ぎしいくさの手柄を語る。
居並ぶ子どもはねむさ忘れて
耳を傾けこぶしを握る。
囲裏炉火はとろとろ
外は吹雪
「尋常小学唱歌(三)」1912年(明治45)3月
1 兎追いしかの山
小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて
忘れがたき故郷
2 いかにいます父母
つつがなしや友がき
雨に風につけても
思いいずる故郷
3 こころぎしをはたして
いつの日にか帰らん
山はあおき故郷
水は清き故郷
「尋常小学唱歌(六)」1914年(大正3)6月
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252 日本のナショナリズム(5)
大衆ナショナリズムの原像(3)「青葉の笛」
2005年4月24日(日)
「二宮金次郎」「冬の夜」「故郷」などの唱歌が『社会にたいする大衆の「ナショナリズム」
の一側面をそれぞれ主題のうえに抽出して』いるのに対して、「青葉の笛」「夏は来ぬ」「すずめ雀」
「七里ケ浜の哀歌」などの唱歌は『大衆の心情そのものの核に下降した表現』と言える。そして、明治
の大衆「ナショナリズム」の表現のうち大正期の大衆の「ナショナリズム」に引継がれていったもの
は、政治や社会の主題をとり出したもののなかにはなく、『大衆の心情そのものの核に下降した表現』
であった、と吉本さんは述べている。
青葉の笛
一 一の谷の 軍破れ
討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞えしはこれか 青葉の笛
二 更くる夜半に 門を敲き
わが師に託せし 言の葉あわれ
今わの際まで 持ちし箙(に
残れるは「花や 今宵」の歌
『尋常小学唱歌』1906年(明39)
すずめ 雀
すずめ雀 今日もまた
くらいみちを 只ひとり
林の奥の竹薮の
さびしいおうちへ 帰るのか
いいえ皆さん あすこには
父様 母様 まって居て
楽しいおうちが ありまする
さよなら皆さん ちゅうちゅうちゅう
『幼稚園唱歌』1901年(明34)7月
七里ケ浜の哀歌
一 真白き富士の根 緑の江の島
仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
捧げまつる 胸と心
二 ボートは沈みぬ 千尋の海原
風も浪も 小さき腕に
力もつきはて 呼ぶ名は父母
恨は探し 七里が浜辺
三 み雪は咽びぬ 風さえ騒ぎて
月も星も 影をひそめ
みたまよ何処に 迷いておわすか
帰れ早く 母の胸に
四 みそらにかがやく 朝日のみ光
暗にしずむ 親の心
黄金も宝も 何しに集めん
神よ早く 我も召せよ
五 雲間に昇りし 昨日の月影
今は見えぬ 人の姿
悲しさ余りて 寝られぬ枕に
響く波の おとも高し
六 帰らぬ浪路に 友よぶ千鳥に
我もこいし 失せし人よ
尽きせぬ恨に 泣くねは共々
今日もあすも 斯くてとわに
1910年(明43)2月
『ここには大衆の「ナショナリズム」の表面にある心情のル・サンチマンが、きわめ
てよく表象されている』と吉本さんは言っているが、こうした唱歌に思い入れて感傷に耽る心情
=センチメンタリズムを私も多分に持っていることに思い当たる。
センチメンタリズムは『なぜ「くらいみちをただひとり」雀はかえるのか? なぜ帰らぬ十二人
の中学生のボート死に「胸と心」を「捧げまつる」のか?』などと問わない。問う必要はない。ひたすら
感傷に没入できればよい。
それらの歌詞は『敦盛が、熊谷から首をかき斬られたとき、どのように血が吹き出したか、雀はその巣にかえるとき
どのように本能的なものにすぎないか、ボートが沈んだとき中学生たちは、いかにもがき苦しみ、
われ先にと生きのびようと努めたか』というセンチメンタリズムの裏面に付着したリアリズムを忘却す
るように書かれている。しかし、と吉本さんは次のように述べている。
しかし、忘却しているのではない。このようなセンチメンタリズムの表現こそは、銅貨の裏表のよ
うに、大衆の「ナショナリズム」のもつリアルな、狡猾で計算深い(知識人などのような空想的にで
はない)認識をも象徴しているのである。大衆の「ナショナリズム」の心情は、そのセンチメンタリ
ズムをそのまま総体としてみることによっても、その裏を返しても、拾いあげることはできないだろう。
わたしたちが大衆の(「ナショナリズム」としてかんがえてい
るものは、この表面と裏面の総体(生活思想)を意味するもので、何らかの意味で、その表現にすくい
あげられている一面性を意味しているものでないことを強調しておかねばならぬ。
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253 日本のナショナリズム(6)
明治期の大衆教化=小学校教育と軍隊教育
2005年4月25日(月)
吉本論文は前回に紹介した内容に続けて「大衆ナショナリズムの変遷」と題して大正期・昭和期の
大衆ナショナリズムの論考へと進むが、大正期に入る前にここまでの吉本論文を補充したい。
色川論文を読んでみる。
吉本論文は、唱歌を素材にしている関係上、明治末期から説き起こしている。それに対して色川論
文はまず国家成立以前にまでさかのぼって風土的・歴史的条件によって培われてきた日本人の自然思
想や生活思想の特性を俯瞰する。その上で幕末期の知識人のナショナリズム、維新期・明治初期の支
配者のナショナリズムを論考し、次いで自由民権運動期の大衆ナショナリズムへと論を進めている。
江戸時代の知識人のナショナリズムがどのように維新期・明治期に継承され、近代日本国家の形成に
どのように関わり浸透していったかという問題は日本のナショナリズムを解明する上で一つの重要な
与件だが今はそれは割愛し、吉本論文と重なる論考部分を読んでいきたい。
色川さんは吉本論文を次のように評価している。
明治維新から自由民権期にかけてさまざまな民衆のナショナリズムが内からと外から触発され、
徐々に視園を拡大し、それぞれ異質な自己主張をもちだしたことは概観したが、それ以後、日露
戦争頃にかけてどのように展開(ないしは沈潜)していったかを具体的に明らかにすることはき
わめて困難である。(中略)いわゆる「底辺民衆」のそれや「最底辺の存在」のそれにいたって
は、手がかりとなる直接のものが無いだけに雲をつかむような状態である。そこで種々の歴史的
な類推の方法がとられるわけだが、吉本隆明は自分の原体験をもとに、当時大衆の心情をふかく
捉えていた「小学唱歌」や「童謡」などを素材として、その大衆ナショナリズムの表裏の心情構
造や、それが明治、大正、昭和とどのように変化していったかを鋭い直観で解析している。
その吉本の思考の背後にはかれなりの国家観や日本資本主義分析があるが、明治期をとりあつかっ
た部分はそれらとの関連がよくうかがえて、とりわけ説得力がある。
こうして吉本論文を受け入れた上で色川さんは言う。
文明開化−自由民権期から明治末にいたる底辺民衆(吉本のいう大衆)のナショナリズムは、
反「近代」・反「文明」の情念を内に包蔵しながらも、しだいに次のような諸力によってその
内奥をこじあけられ、異国にたいする国家的排外心や文明への漠然たる憧憬、あるいは物質的富
や平等を求める屈折した対外志向にと捉えられていったように私は思う。
そして大衆のナショナリズムの内奥をこじあけていった諸力として次の五点を挙げている。
1 小学校教育
2 軍隊教育
3 対外戦争
4 明治天皇をカリスマとして活用した家族国家論などの支配的思想
5 資本制商品経済等々による漸進的な浸透力
『大衆のナショナリズムは、これらの諸カとの対応−緊張と感応の過程で自己を変容させ、その測りしれ
ない土着的、野性的エネルギーを統御されてゆくのである。』
第一の力「小学校教育」について。
まず、明治中期以降の大衆を考えるとき、その大部分が小学校卒であることに、色川さんは注意を促して
いる。
義務教育の就学率は次のように推移している。
1877(明治10)年:男子45%、女子14%
1897(明治30)年:男子70%、女子39%
1907(明治40)年:男子94%、女子85%
大衆とはこの時期は「小卒」 の日本人をいう。そしてその小学校教育は天皇制国家が直接操作した
全国画一の「国定」教育であって、国策に合致する従順で勇敢な国民をつくりだすという点では世界に
も稀な成功を示した、よく組織され体系化された内容のものだったのである。私はかつてその一端を、
国定教科書の分析を通じて実証してみたことがあるが、明治三〇年代にはすでに完成されたそれ
らの国定教科書は、先に指摘した天皇制のキャパシティにみごとに照応するような縦深広範な容積を
持っていたものである。それはまた戦後の日本人が考えるほど反動的なものではなかった。「知識ヲ
世界二求メ大イニ皇基ヲ振起スべシ」との方針のもとに、「世界への開眼」を説き、進んで海外情勢
から世界史的な偉人や美談を教材にとりあげ、「進化論」などの新学説の紹介をはじめ人道主義的な
逸話さえ読本に採用している。つまり天皇制が許容する枠いっぱいに、前向きに体系化している。
西洋に追い着き追い越せの意気込みが感得できる。前に「大東亜戦争」時の第5期国定教科書を
取り上げた(「第213回」〜「第224回」)が、第5期国定教科書のような狂気はまだない。しかし
もちろん天皇制を浸透させ確立するための方策にも抜かりはない。
もちろんその中核は「日本の国体」を教えるところ(「大イニ皇基ヲ振起スべシ」)にあるが、
それも押し付け的なやり方ではなく、地理・音楽・自然教科などからの「日本の国土への愛」を
もりあげ、また祖先の美談や日本史上の偉人物語などを歴史、修身、国語の各教科の連携プレイに
よって積み重ねながら「祖先崇拝」や「忠臣孝子」の意味を情感的に染み透させるという方法を確
立している。「楠正行」−「桜井の別れ」「児島高徳」、「乃木大将」−「水師営の会見」、
「水兵の母」−「黄海の戦い」などの国語と小学唱歌との組み合わせは絶妙であった。しかも、それ
らの歌はいずれも哀調を帯びた佳品であり、大衆の心の奥深くに沈潜していった。
このくだりを私は現今の「日の丸・君が代の強制」「心のノート」の強制配布、音楽教科書の変容、
「つくる会」の社会科教科書などに代表される教育反動の動きを二重写しにして読んだ。
大衆のナショナリズムの内奥をこじあけていった第二の力「軍隊教育」について、色川さんは次のよ
うに述べている。
「軍隊教育」は徴兵令によって大衆の子弟を強制的にあつめ、世間と隔絶した軍の世界で二年間に
わたる猛訓練と精神教育をほどこすものであった。それは「軍人勅諭」を最高の教典として、たえず
「国難」を強調し有事にそなえることを心がけさせた。そこで大衆は絶対服従の規律と要領の精神を
体得するのだが、いったん郷里にもどれば在郷軍人として扱われ、草の根の軍の細胞″として巣ご
もり志向の強い大衆を国難予備≠フ方向にひきつけておく役割をになわされた。北一輝が『日本改
造法案大綱』で着目したのは、この大衆ナショナリズムの釣ばりである。北はこの予備軍を革命志向
の方向に利用しようと考え、そのための服従価値の源泉である天皇を「一君万民」をたてまえに既成
権力の手から奪回しようとはかったのである。敗戦後、日本が徴兵制による「軍隊教育」のシステム
を失ったということは、どれほどナショナリズムの集中力の減退に作用しているか測り知れない。
「第1回」(2004年8月15日)で私は次のような記事を書いた。
『自由と民主を僭称する政党を中心とする支配者側は少しずつだが、狡猾にかつ着実に時代
錯誤とも言えるよこしまな目論見を実現し続けてきた。とうとう厚かましくも心の中に土足で
踏み込むように「君が代・日の丸の強制」を打ち出してきた。そして憲法改悪を目論む勢力が
大手をふってのし歩くまでになってしまった。その憲法改悪を米国が催促している。政治評
論家・森田実氏のホームページ
「MORITA
RESEARCH INSTITTUTE CO.LTD」 |
によると、アメリカの狙いは、憲法を改定させて徴兵制を国民の義務にすることだという。」
北朝鮮の脅威を過度に煽るマスコミや保守系政治家らの言動は憲法改悪のための布石の一つと考えても
考えすぎではないだろう。いまマスコミをにぎわせている中国の「反日デモ」について、こういう事態
を招くためにコイズムは靖国参拝を繰り返してきたのだと穿った見方をしている人もいるようだ。
中国の「反日デモ」も憲法改悪へと世論を誘導する格好の材料だ。週刊誌などは過度にセンセーショナルに
に取り上げている。今日の朝日新聞に掲載された世論調査の結果によれば、中国側が「日本の歴史認識
について反省を行動で示すよう求めた」ことに対して71%が「納得せず」と答えたという。
憲法改悪を許せば、次には当然、徴兵制が浮上してくるだろう。
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254 日本のナショナリズム(7)
大衆ナショナリズムの原イメージ
2005年4月26日(火)
色川さんは自分自身にとっての「大衆ナショナリズムの原イメージ」を提出している。そこからは
多くの重要な事柄がくみ取れる。かなり長くなるが、その部分の文章を全文掲載する。
まず、国定教科書による教育の成果を物語る悲しくもやるせない逸話を二つ紹介することから
始めている。一つは森崎和江「からゆきさん」からの逸話。
明治も末年であった。天草や山口県のどこかからせり落された一四人の少女が、朝鮮に向って
玄海灘を渡っていた。いずれも15歳未満の娘たちだったが、航海中も昼夜となく売春を強いられ、
うち12歳の子が衰弱して息絶えた。残された少女たちはその遺体にとりすがって泣き、おとむら
いをしてやろうと、みんなで相談のすえ、お経の代りに次の歌を甲板で合唱した。

青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木の下蔭に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の上に 散るは涙かはた露か
正成(涙を打ち払い 我子正行(呼び寄せて
父は兵庫に赴かん 彼方の浦にて討死せん
いましはここ迄来れども とくとく帰れ故郷へ
父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん 此正行は年こそは
未だ若けれ諸共に 御供仕えん死出の旅
いましをここより帰さんは わが私の為ならず
己れ討死為さんには 世は尊氏の儘ならん
早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国の為め
此一刀(は往(し年 君の賜いし物なるぞ
此世の別れの形見にと いましにこれを贈りてん
行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん
共に見送り見反りて 別れを惜む折からに
復も降り来る五月雨(の 空に聞こゆる時鳥(
誰れか哀(と聞かざらん あわれ血に泣く其声を
『湊川』1899年(明32)年6月
この歌詞のふるさと″へ向う情念にこそ少女たちのナショナリズムがこめられている。
そのふるさと≠ヨ「もうおショウバイをしなくてもよくなった」あの子は帰ってゆくのだと、
みんなは泣く泣くその遺体を海へ投げこんだという。私はこの逸話を森崎和江の『からゆきさん』
で読んで、複雑な感動にとらわれた。朝鮮人の周旋屋に国籍ごと売りとばされたこの文字通り奈落
の棄民たちの目から見かえされたナショナリズムが、楠公父子の永訣の歌(天皇への誠忠を誓う戦
前日本の最高の国民唱歌)であらわされたとはなんというアイロニィであろう。
この少女たちはやがて日本帝国主義下の朝鮮で、日本を見かえそうとした朝鮮人工夫たちに集団
で買われ、排尿のひまもあたえられぬほどの報復的な愛撫≠肉体に受けとめ、国家に代って狂
死していった。天皇の国家はこの忠良な赤子″たちの惨死を満洲の戦場で斃れた一兵卒に対する
ほどにも哀悼しはしない。それなのに女たちは優しく故郷を愛し、「青葉しげれる」をうたい次々
と草むす屍になっていったのである。
明治30年代末に完成した国定教育の浸透力のなんというすぱらしさであろう。天皇制の永続を
渇望して止まないこの作為的な歴史唱歌が、天皇への憐憫とたぐいまれなヒューマニズムの哀調を
帯び、なきがらとなって故国へ帰る幼ない棄民の子らへの鎮魂歌の役割をも果し得たとは! この
イメージの放射する思想史的な意味は悲惨なほどに豊かである。「日本のナショナリズム」を机上
で論ずる研究者の何人が、この放射するものをまともに受けとめ苦しむことをしてきたであろう。
二つ目は石牟礼道子「苦海浄土」からの逸話。
1931(昭和6)年、天皇が水俣のチッソ工場に来たさいには、沿道の部落から不浄だとして追いはら
われた同じ天草流れの婦人が、その後、激症の水俣病患者になり、はじめて都から視察の厚生大臣を
病室に迎えた。そのとき、ユキ女は興奮のあまり痙攣発作を起し、「て、ん、のう、へい、か、ぱん
ざい」と絶叫してしまった。つづいて彼女のうすくふるえる唇から、調子はずれの「君が代」がふる
ふるとうたい出されたという。この鬼気迫るシーンに大臣たちは逃げ出したが、この無明の奈落に発
する「日本ナショナリズム」のからみつきに、ただ「前期的」といって応えればよいのか研究者に問
いたい。
ここでいう「前期的ナショナリズム」とは丸山真男がその論文「日本におけるナショナリズム」で
明治期のナショナリズムを規定した概念である。「丸山説に同調する人も対立する人も無批判に援用
しており、学界では未だに生きつづけている。それへの根本的な疑問やそれに代る概念の提出もほと
んど行われていない。」と色川さんは、当時の学界・学者たちの怠慢さ・ふがいなさを批判している。
色川さんは学徒兵として徴兵されている。上記の二つの逸話に続いて、その軍隊体験を次のように
内観し、個人的体験を取捨した浅薄な論説に異議を申し立てている。
敗戦のとき私は軍隊にいた。まだ大学生であったが、「物を書く」という行為をはじめていた以上、
私は知識人であった。1945(昭和20)年6月、本土大空襲の下で、海をへだてた沖縄が断末魔の苦しみ
におちいり、一日々々皆殺しにされてゆくのを私は無電機にしがみついてジリジリと耐えていた。
沖縄の敗滅はそのまま日本の敗北に通ずることを疑わなかった。私のそのころの同胞と祖国にたいす
る憂慮の感情は、極端といってもよい異常なものに昂まり、「吉田松陰とてこれほどまでに憂いはし
ない」と日記に書きつけるほどであった。私は大戦期の知識人のウルトラ・ナショナリズムという
一括言語をきくとき、つねづね反発をおぼえてきたが、それは、いわゆる言論人(イデオロー
グ)のそれと、私たちのそれとを「混同するな」という実感がわだかまっていたからである。後に
なって、あの6月に沖縄で乳呑児をおぶった断髪の婦人が爆雷を抱えて米軍に突入したとか、鉄血
勤皇隊やひめゆり部隊が「海ゆかば」をうたいながら射殺されたという話を聞いたとき、「辺境」
の民のヤマトへの同化をねがう皇民幻想の悲劇をあげつらうまえに、その純烈なナショナリズムの
最期に打たれたのである。これを「近代的知性」とやらで、なんとでも非難し、批判し、切り刻む
ことはできる。だが、どのように言葉で寸断しょうと、これらの死者たちの存在のもつ重さや情念にとって代ることはできない。これらが私のナショナリズムにかかわる原
風景(なのである。
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255 日本のナショナリズム(8)
対外戦争とナショナリズム
2005年4月27日(水)
色川さんが大衆のナショナリズムの内奥をこじあけていった諸力の三つ目に上げたのは「対外戦争」
だった。「対外戦争」が大衆の情念をどのように収奪していったか、色川さんの言葉で言うと
「薫染((汚染)」していったかを色川論文から取り出してみる。
自由民権権運動期のナショナリズムについての論考で色川さんは「一般の村びと」が「真実、ナショ
ナリズムに燃え、わが身を自発的に国家の側にすりよせるようになったのは、民権期ではなく、日清
戦争時でもなく、日露戦争にさいしてであった」と指摘している。
そしてまた、天皇制教育の完成という面からも日露戦争(1904年〜1905年)が決定的な役割を果たした。
そのことが1910(明治43)年に改訂された第2期国定教科書の「読本」に顕著に表れていると、色川さ
んは次のように指摘している。
この完成された読本には各巻の一、二章にほとんど天皇″皇室″国体″に関するものが置かれ、
それと響きあうように家族道徳″祖先崇拝″郷土愛″模範村″の話などが配置されている。
いっぽうこの国土に住む国民の運命共同体的一体感″をおしえる材料として対外戦争″
(元冠、日清・日露戦争)が大きくとりあげられ、その国難を救った明治天皇や英雄たち、広瀬中佐
や橘大隊長、東郷大将や乃木将軍、それに勇敢な兵士たちの美談がうたいあげられている。さらに
労働者・農民の生活″や資本制社会への適応力″を育てる教材もたくみに配置されていた
のである。このように見ると、そこには天皇制の精神構造に包摂されたほとんどの要素が情緒化され、
整序され、総合的に体系化されているのが分る。
唱歌「戦友」が大衆のナショナリズムの一面を表現していることを指摘しつつ、『これをそのまま、
日本「ナショナリズム」の大衆的心情とかんがえると、誤解を生ずるとおもう。
戦争はリアルなものであり、この歌曲とおなじ位相で、「友」を弾よけにして「我」は逃げるという
場面が、戦争のなかでなんべんも繰返されるということを想定できるからである。』と吉本さんは
大衆の心情の裏側に付着しているリアリズムに注目を促していた。このことを色川さんは次のように
記述している。
明治の後期、あいつぐ対外戦争に勝利を得た国家が、その自信の上に、当時の全国民の精神的志向を
そっくり包みこんでしまうような最大限許容量(
とその教化の様式を完成したのである。底辺民衆が幼児のころから、この組織的な国家教育によってい
かに強く深く影響され、ナショナリズムを喚起され、その奔出の方向を統御されたかは想像にあまりあ
る。だが、民衆はそれらの民族共同体への献身にともなう美的陶酔が、じつは一過的なものであり、た
てまえ的なものであり、感傷的なものであり、非現実的(
なものであることを成人するにつれて同時に理解していった。戦場での兵士らをしのんで日本国民が、
「ここはお国を何百里、離れて遠き満洲の、赤い夕陽に照らされて、…‥」と涙を
浮べて感傷的に唱おうと、じつさいに戦火をくぐってきた大衆は、喧伝された英雄的な
場面(のかげに、その数百倍もあるむきだしのエゴとエゴとの暗闘
の醜悪さ、汗や糞尿だらけの戦場の臭気と汚穢、ウジ虫の山と血の海、自傷兵となっての戦線離脱、
飢餓、恐怖、掠奪、婦女暴行、厭戦の自堕落を熟知していたのである。その熟知の上に、なお涙を浮
べて小学唱歌を斉唱する生徒の如く「戦友」をうたう大衆のナショナリズムの心情核こそ、天皇制国
家がもっとも依拠し、密着したいとねがった原点だったのである。
このような大衆のナショナリズムを大衆の迷妄と単純に断罪することは正しくないと、色川さんは
、多分自らの体験も内観しつつ、次のように書いている。
ナショナリズムがながく共同幻想としてのカを持続しうるためには、短期間であれ、ある一時期に
それが真実なものとして体験されることが必要である。つまりその体験が大衆間の共通の実感として
確認されることが一度はなくてはならない。たとえ戦場でのエゴや醜悪さと背中合わせであるとして
も、日本の兵士・大衆が真に自発的に国難″を感じ(背後の運命共同態と自己との一体感を信じて)、
祖国と民族のために献身しようと燃え立つことがあったことを私たちは日本近代史の中に確認する。
その一つは日露戦争の時であり、もう一回は日米戦争期の一、二年の間であろう。両者はもちろん歴
史条件が違うので同列に扱えない。また近代ナショナリズムの栄光の象徴といわれるフランス革命や
アメリカ独立戦争のさいの大衆ナショナリズムの自発性とも異質なものである。しかし、それにもか
かわらず、錯綜した戦争の性格の中に少しでも国民戦争的な要素や民族戦争的な一面があったかぎり、
大衆ナショナリズムの共同幻想はリアルなものとして実感されることもあり得たのである。

元 冠
一 四百余洲を挙る 十万余騎の敵
国難ここに見る 弘安四年夏の頃
なんぞ怖れんわれに 鎌倉男子あり
正義武断の名 一喝して世に示す
二 多多良浜辺の戎夷( そは何蒙古勢
倣慢無礼もの 供に天を戴かず
いでや進みて忠義に 鍛えし我がかいな
ここぞ国のため 日本刀を試し見ん
三 こころ筑紫の海に 浪おし分て往く
ますら猛夫の身 仇を討ち還らずば
死して護国の鬼と 誓いし箱崎の
神ぞ知ろし召す 大和魂いさぎよし
四 天は怒りて海は 逆巻く大浪に
国に仇をなす 十余万の蒙古勢は
底の藻屑と消えて 残るは唯三人
いつしか雲はれて 玄海灘月清し
「音楽雑誌」19号 1892(明治25)年4月
1892(明治25)年「元寇」の名で発表されたこの歌が、日清戦争のまぎわになって大流行し、小学生
たちまでが足を踏みならし机のフタをがたがた鳴らして熱狂してうたったという逸話はなにを物語るか。
「対外戦争」がいかに大衆的熱狂をひきだしやすいかということもあろう。そのことを権力者たちは
熟知していた。とくに軍の指導者や右翼系の革命家らはそこに日本人大衆のアキレス腱があることを
見ぬいていた。それゆえに日清・日露戦争を最大限に利用して国民の統合と国権の確立を達成しよう
としたのである。
政財官界とそのちょうちん持ち・保守論客と呼ばれているイデオローグたちがこぞって「日露
戦争」の再評価を言い出したのはいつからだったか。
他国をあなどり敵視する排外主義がやがて昂じて対外戦争を引き起こす。この国民を統合服従させる
ための政治的戦略の裏面には民衆の大量虐殺(
を糧に肥えていく資本主義の冷酷な計算が密着していることを忘れてはなるまい。いまイラクで起
こっていることを注視していこうと思う。
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256 日本のナショナリズム(9)
第2国歌「海ゆかば」
2005年4月28日(木)
ちょっと横道へ。
前々回、朝鮮人の周旋屋に売り飛ばされて異国の地で狂死していった少女たちの無残を色川さん
は怒りを込めて描き、「草むす屍」という言葉を用いた。この言葉からすぐ思い出したことがあった。
もちろん色川さんもそれを念頭に置いて用いていると思う。「海ゆかば」である。いつどう覚えた
のか、実は私はこの歌を歌える。
大伴家持が長歌(万葉集巻18・4094)の中で祖先が「言立て」た言葉だとして歌い込ん
でいる一節。
海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍 大君の 邊にこそ死なめ 顧みは せじと言立て ・・・
1937年(昭和12)年10月、国民精神総動員運動の一環として、これに信時潔が曲をつけた。

1937年10月13日(私はまだ生まれていなかった。)から1週間繰り広げられた「国民精神総動員
強調週間」の折、ラジオ放送に「国民朝礼の時間」という番組が設けられた。毎朝『「君が代」斉唱、
宮城遥拝、著名人の訓話、「海ゆかば」斉唱』という内容の番組が放送されたのだ。「海ゆかば」は
まずラジオ放送を利用して広められていった。
いまNHKの政治権力に対する脆弱な体質が問題になっているが、マスコミを掌中にした権力は絶大な
力を得ることになる。もちろんNHKだけの問題ではない。これも何度も指摘してきたことだが、
多くのメディアがいま権力の手先に成り下がっている。現今の反動的な政治状況を促進している推進力の
一つがマスコミなのだ。
さて、1942(昭和17)年12月15日、大政翼賛会が「海ゆかば」を国歌「君が代」に次ぐ「国民の歌」
に指定して各種会合で必ず歌うようにと通達した。いわば第2国歌というわけだ。
国民学校の教科書では「高等科音楽(1)」に収録されている。
狂気の大東亜戦争末期、敵性音楽撲滅運動の折、国民学校の卒業式ではそれまで歌っていた
「蛍の光」を取りやめている。敵国イギリスの民謡だから不適当だという理由だ。そして
「蛍の光」に替わって歌われたのが「海ゆかば」や「愛国行進曲」だった。これから社会人として
門出する卒業生に送るはなむけの歌が「海ゆかば」とはすさまじい。「海や野に屍となって身を晒
すことも辞するな、天皇のため死ぬことこそよろこびと思え」と送り出したのだ。
「海ゆかば」は第2国歌だった。「君が代」と「海ゆかば」は同じメタルの表と裏だ。「君が代」
の意味するところはこの2曲のセットでより明らかになる。
「君が代」の意味は「世襲君主の支配が永久に続くように」という意味以外のどんな解釈も
できようはない。「世襲君主」に服従することは、どんなに美辞麗句と理屈を連ねても奴隷の
思想だ。「主権在民」とは相容れない。「海ゆかば」がその行き着く果てを如実に表わしている。
「君が代」大好き人間はもとより、『「君が代」、平和な歌で、別にいいんじゃないの』という人たちは、常に
「君が代」と一緒に「海ゆかば」も歌うといい。歌わないまでも、「君が代」の裏にピタッと密着して
いる「海ゆかば」を常に意識すべきだ。天皇制の本質・「君が代」の隠された意味が明々白日の下に
表れることになる。
学校の先生へ提案。どうしても「君が代」を教えざるを得ないのなら、「君が代」の本質を
考えるてだての一つとして、一緒に「海ゆかば」を教えましょう。
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257 日本のナショナリズム(10)
洋楽の土着化(1)明治ミリタリイ・マーチ
2005年4月29日(金)
明治期の大衆ナショナリズムを牽引していった唱歌に、詩のリズムまたは音楽のリズムの面から
接近してみる。資料として利用する菅谷規矩雄著「詩的リズム」は副題を「音数律に関するノート」という。
日本語のリズム=音数律を論理的に解明しようとする意欲的な論考だ。愛唱歌がなぜ愛唱歌になるのかという問題には音数律
についての本質論が欠かせないと思うが、いまは吉本論文と関連する部分に絞って読んでいく。
文明開化によってもたらされた洋楽の土着様式を、菅谷さんは二つ上げている。その第一の
様式のメルクマールとして、菅谷さんは「寮歌」をあげている。
菅谷さんは「寮歌」にことよせて、帝国大学出身者という知的エリートの貧しい心性と、彼らがそ
の構成員の多くを占めている支配階層の思想的鈍感さを記述している。もちろん、これは現在の支配層
にも当てはまる。
あゝ玉杯に花うけて……をはじめ、旧制高等学校の寮歌なるものはほとんどが、やはりこの長短
長短のリズム形式でできていて、その単一さはおどろくほどだ。いまどき寮歌祭などと称して旧世代の
エリートたちが肩くみあって声はりあげ陶酔しているさまを、テレビなどでみているとわたしは
ただ、まずしいな……とやりきれなくなるばかりだが、さらにいえば、このまずしさをしかも、
陶酔(にさかだちせしめ〈青春〉にいなおっているところに、帝国
大学出身の上級官僚あるいは大会社の幹部……といったかれらの階級=特権はむきだしにされている。
これは現実の根柢がどれだけ動乱しても、なおその根源からあたうかぎりとおくはなれて持続し残存し、
支配に直通する上限のありようを端的にものがたっている ― そこにみえるのはいわばひとつの末路
いがいではないが。
知的エリートたちを陶酔させる寮歌のリズムの特徴を、菅谷さんは「長短長短のリズム形式」
と言っている。「長短長短のリズム形式」とはなにか。
わが国の〈近代〉における大衆の感性に、どれだけあらたな経験が附加されたかと問いをたて
て、リズム表出の基底をさぐってみようとおもう。連続する表出の基軸を、明治ミリタリイ・マ
ーチの形成とでもよぶべき主題においてみるとする。はたしてそれによく対位しうるべつの基軸
はありえたか ― この点にわたしのモティーフはかかっている。
文明開化によってもたらされた〈洋楽〉の土着様式は、第一につぎのようなものである ―
等時拍三音の土謡的発想を、強弱拍による二拍子へと変換すること、そのように変換され強化さ
れた〈時間〉がすなわち支配の理念とした〈近代〉であった。
ほんらい強弱をもたぬ日本語の拍を、西洋的な〈拍子(Takt)〉にのせようとすれば、強拍は
音をながく弱拍は音をみじかくとるという対応いがいにまずありえなかった。これはひとつの必
然的な撰択である。したがってそのリズム構成はおのずと
(勇敢なる水兵)
という長短型をなした ― 日清戦争期から日露戦争期にかけて定着したこのリズムは ― たと
えば明治24年山田美妙詩・小山源之助曲《敵は幾万》から明治38年真下飛泉詩・三善和気曲
《戦友》にいたるまで ― 明治大衆ナショナリズムの上限から下限にいたる定型化のほぼ全域を
おおいつくしているとみてよい。
これまでに掲載してきた楽譜をみると「戦友」と「二宮金次郎」がこのリズムで作曲されている
ことが分かる。
ところで上記文中の「等時拍三音の土謡的発想」というくだりを理解するためには、菅谷さんが
日本語のリズム=音数律の論理的解明をしている論述部分を読まなくてはならない。しかしその詳細
を知らなくとも上記の文章の要旨は理解できると思うのでここでは割愛する。
この明治ミリタリイ・マーチという形成について菅谷さんはさらに詳述している。
《敵は幾万》や《勇敢なる水兵》などの軍歌、《箱根八里》などの中学唱歌、そして寮歌から《鉄
道唱歌》までをふくむおなじリズム型、すなわち単一強化の行軍リズムとでも名づけるべきもの
が明治ミリタリイ・マーチの本質であった。そして上限における強化にたいして、下限からの自
己解体をふくんであらわれたのが、テンポの二重化であり、〈規範―心情〉の乖離そして〈間の
び=おもいいれ〉であり、ついにそれは行軍リズムそのものを三拍子的にひきのばすにいたるの
である。
一方の極で、社会の基盤から遊離し根源を喪失して進化を完了してしまい、時間を停止させた
まま遺制のごとく残存しつづける行軍リズムの場が寮歌であったとすれば、他方の極にはおなじ
リズム原型をたもちながら、それを6/8拍子へ、さらには3/4拍子へとゆりうごかしてゆく促迫があ
った。
その分岐をなすのが明治38年の〈戦友》である ― この歌は、わたしが単一強化の行軍リ
ズムとよぶ明治ミリタリイ・マーチの可能と不可能とをともに最大限かつトータルに表現して、
上昇と下降の臨界をなしている。
この後、菅谷さんの記述は、「戦友」の分析、いわば「戦友」論ともいうべき論考へと続く。
これは次回取り上げよう。
なお、上記文中の〈間のび=おもいいれ〉という概念は「文明開化によってもたらされた洋楽
の土着様式」の二つ目の様式のことであり、次々回に詳しく取り上げる予定である。
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258 日本のナショナリズム(11)
「戦友」論
2005年4月30日(土)
日露戦争の〈勝利〉は、明治の大衆ナショナリズムにさいしょの挫折・敗退をもたらした ―
ポーツマス条約を不満とする暴動がつげているのは、ナショナリズムの単一強化がようやく局限
にいたり、そこに〈階級〉をみいだすことによって分解せざるをえないという危機である。言い
かえれば、近代天皇制国家〈像〉の確立にむかってひたすら強化され圧縮されていった現実の根
源じたいが、同時に社会=経済的に拡大していったために、もはや単一の〈局限=根源〉循環を
ゆるさなくなった。
色川さんが「真実、ナショ
ナリズムに燃え、わが身を自発的に国家の側にすりよせるようになったのは、民権期ではなく、日清
戦争時でもなく、日露戦争にさいしてであった」と指摘したのは、この「ポーツマス条約を不満と
する暴動」のことを指していると思う。
「ポーツマス条約を不満とする暴動」となって爆発した大衆の(色川さんの言葉で言うと)
「野性的な絶大なエネルギー」は、支配者たちをおおいに震撼させたことだろう。また同時に
この「野性的な絶大なエネルギー」を国家権力に直結させようと「大衆ナショナリズム」の収奪を
緊急の課題としたに違いない。明治の大衆ナショナリズムの「挫折・敗退」を吉本さんは次のように
述べている。
天皇制イデオロギーは支配層によって、もっぱら大衆の「ナショナリズム」の心情の一面を逆立ちし
た形で吸い上げながら、一面で「社会経済」的には、大衆「ナショナリズム」の社会的な基盤(農村)
を資本制によって現実的につき崩すという両面を行使したのである。大衆の「ナショナリズム」は、こ
こでは、天皇制イデオロギーに自己のイデオロギーが鏡にうつされるような幻想をあたえられ、一方で
自己の「ナショナリズム」の心情をつきくずすものが、資本制そのものであるかのように考える
ことを仕向けられた。憎しみは資本制社会に、思想の幻想は天皇制に、というのが日本の大衆「ナショナ
リズム」があたえられた陥穽であった。さればこそ、農本主義的ファシズムは、北一輝にその象徴を見
出されるように、資本制を排除して天皇制を生かす、というところにゆかざるを得なかったのである。
さて、「戦友」である。
あたうかぎり理念化され ― 加速的に進軍しつづけた明治的二拍子リズムは、そのピークをす
ぎていまや減速 ― すなわちなんらかの現実化をせまられる。いささか比喩的にいうなら、この
リズムじたいの内部に、いわばゆきだおれをふくまざるをえない ― それを象徴しているのが
《戦友》である。これが見捨てて置かりょうか、「しっかりせよ」と抱き起し……というように。
そしてそれ以後、この歌いじょうに〈総体的な暗い感銘〉(吉本隆明・日本のナショナリズム)を
もたらす歌はほとんど不可能になった ― 〈自然さ〉がトータルにうたいだされることがなくな
るのである。昭和期の軍歌は、一方で〈侍ニッポン》のように行進曲のリズムが自己放棄的な拡
散をみごとに表現してしまうといった事態をまえにしては、なんらかのモダニズムで仮装するい
がい、単一強化のリズムを〈自然さ〉をふくんで回復することはできなかった。
わたしが参照している《日本唱歌集》におさめられた《戦友》の曲譜には♪=114というテン
ポの指定がある。歌の主題からしてこれはむしろはやすぎるテンポであり、全曲をこのテンポで
通すことはほとんどかんがえられない。(中略)原曲の指定通りに♪=114のテンポでうたうか
ぎり、この歌(曲)はひどく軽薄で皮相なものとならずにいない。それは詩の主題がもとめると
ころとかならずずれるのである。このようなテンポの二重性〈規範―心情〉は、〈国家〉の勝利
にむかっている作者(作詩者・作曲者)の理念と、じっさいにこの歌をうたう大衆がそこにこめ
ようとするみずからの体験との乖離のはばをものがたっている。
この「テンポの二重性」「〈規範―心情〉の乖離」を、アイ・ジョージが歌う「戦友」を例に、
菅谷さんはつぎのように詳述している。
この歌の戦後的復活を可能にしたのは、ほかでもないアイ・ジョージの表現力であった。もっと
も注目に価するのは、かれが曲のリズムに本質的ともいうべき修正をくわえている点である。

譜Aのごとき反復パターンからなる原曲の長短型2/4拍子は、アクセントを強調すればするほど、
かえって一種の軽薄さをおびた加速度をもたらす。これにたいして、アイ・ジョージはその種の
惰性化にブレーキをかけ、加速度に抗して曲のテンポを恒常的に維持しうるリズム型をえらびだし
た。あきらかにかれは譜Bのように、さらにいえばブルースの4/4拍子にちかくうたっている。うら
の拍が強調されるので、ことばの拍音につよい指示力があたえられるのである。
この「テンポの二重性」「〈規範―心情〉の乖離」こそが 第二の「洋楽の土着様式」を解明する
鍵となる。
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259 日本のナショナリズム(12)
洋楽の土着化(2)センチメンタリズム
2005年5月1日(日)
文明開化によってもたらされた洋楽の第2の土着様式のメルクマールとして、菅谷さんは
「美しき天然」をあげて、その特質を3点指摘している。
(@)武島羽衣の詩《美しき天然》は、儀式的な叙景詩(
という以上の意味をもたない、いわば詩というより美文に類するものであり、わずかに〈調べ自在に
弾き給ふ神の御手の尊しや〉といったところに讃美歌的モダニズムのかげがうつっている程度のもの
である。
したがって曲からするかぎり、作曲者がこの詩のなにをみずからのモティーフとして表現しよ
うとしたかは不分明であり、それがこの歌に詩と曲との乖離をゆるさざるをえないところである ―
おのずとかえうた(をうみだし、さらには曲だけがもっぱ
らサーカスのジンタにのって流布するにいたる。しかもこの曲の真価はむしろそこにあらわれたの
である。そしてこの曲を愛好した大衆にとっても、〈空にさへづる鳥の声……〉云々の詩句は、楽器
も楽譜も手にしていないかれらが曲をおぼえるための音符=記号にすぎなかった ― ということは
その大衆のひとりとしてのわたしじしんの経験から言えるとおもう。わたしはこの歌のメロディはよく
しっているが、詩はほとんどおぼえていないのである。
朋友の死を弔うのにお経代わりに「青葉茂れる桜井の」を歌った少女たち(第254回・4月26日)に
とって意味のあることばは「とくとく帰れ故郷へ」の部分だけであり、歌詞の他の部分は音符=記号
に過ぎなかったのかもしれない。
(A)Valse Lento というテンポの指定にもあらわれているように、作曲者のほんとうのモティ
ーフは、歌曲をつくることではなく、なによりもワルツ曲をうみだすことにかかっていた。それ
以前にもこころみられてはいたかもしれないが、《美しき天然》は明治音楽史上さいしょの
国産(のワルツ曲といっていい位置をしめており、かつそれ以後も
日本の〈洋楽〉はこれに匹敵するワルツ曲をほとんどうみだしていないと、わたしにはおもわれる。
(B)さきに詩と曲の乖離といったが、曲じたいにも乖離を指摘できるだろう ― 当時の〈洋楽〉
の知識・技術を水準以上に身につけていただろう作者(軍楽隊長!)の〈近代〉的な意図と、曲
がじっさいに体現しえた〈せざるをえなかった〉ものとのずれである。それはごくテンポのゆる
い短調の3/4拍子でしかも基本のリズム型が
をいくらもでていないという、三つの要因の重層から必然的に派生せざるをえなかった。
ここで「第252回」(4月24日)の冒頭のテーマにつながる。再録すると
「二宮金次郎」「冬の夜」「故郷」などの唱歌が『社会にたいする大衆の「ナショナリズム」
の一側面をそれぞれ主題のうえに抽出して』いるのに対して、「青葉の笛」「夏は来ぬ」「すずめ雀」
「七里ケ浜の哀歌」などの唱歌は『大衆の心情そのものの核に下降した表現』と言える。そして、明治
の大衆「ナショナリズム」の表現のうち大正期の大衆の「ナショナリズム」に引継がれていったもの
は、政治や社会の主題をとり出したもののなかにはなく、『大衆の心情そのものの核に下降した表現』
であった、と吉本さんは述べている。
この吉本さんの論考を受けて菅谷さんは次のように述べている。
吉本はもっぱら詩を対象として歌を論ずるという方法をとっているために、じぶんの受感がなに
に根ざしているかを、うまくとらえきっていないきらいがある ― 心情そのものの核に下降する
表現は、外化された主題(詩)をまったくはなれて曲そのものにもっともよく体現されたばあいが
ありうる、というひとつの極をわたしは《美しき天然》にみいだすのである。この極から《七里ケ
浜の哀歌》にいたる領域、吉本の受感の根がなんであるかは、かれが例にあげている歌に、わたしが
あげる例をあわせてひとつの表をつくってみれば、ほぼつきとめることができるとおもう。
1 仰げば尊し 明17 6/8拍子
2 夏は釆ぬ 〃29 4/4 〃
3 はなさかじじい 〃34 2/4 〃
4 すずめ雀 〃34 2/4 〃
5 美しき天然 〃38 3/4 〃
*(戦友) 〃38 2/4 〃
6 青葉の笛 〃39 3/4 〃
7 七里ケ浜の哀歌 〃43 6/8 〃
* (二宮金次郎) 〃44 2/4 〃
8 冬の夜 〃45 4/4 〃
9 故郷 大 3 3/4 〃
《二宮金次郎》は典型的な行軍リズムによってつくられているが、明治44年のものである ―
ということは、〈社会にむかう〉方向性は、単一強化のリズム型がその上限〈政治=国家〉から、
あらためて下限へむかう(むかわざるをえない)下降過程のうちにみいだされるのであることを
しめしているはずだ。この下降がゆきつくところの表現の典型を吉本はセンチメンタリズムとよ
ぶのである ―
(中略)
ここでいわれているセンチメンタリズムが、さきに〈間のび=おもいいれ〉のリズムとよんだも
のの発生をさしていることはたしかである。
表にならべた例からよみとれるように、社会にむかう大衆の「ナショナリズム」がセンチメン
タリズムとして表現されるにいたる過程とはすなわち、
とまったく同一のリズム原型を保持しつつ ― 2/4→4/4→6/8→3/4拍子……と変貌をかさねてゆく過程
である。なにが変貌し、それはどこへゆきつこうとするのか。
じっさいにとられたのはひとつの回帰の形態であった。上限からの脱落は、〈近代〉的強弱拍そ
のものの回避を意味した。そして強弱リズムをあらかじめ放棄した、土謡的な等時拍三音の発想
を西洋ふうの三拍子に癒着せしめそこに定住すること ― 《青葉の笛》がそうであり、また近代
唱歌のひとつの到達点というべき《故郷》がもっとも典型的にしめしているのも、それいがいで
はない。この過程が意味するのは、上限から下限へ、そしてまた下限から上限へ、〈根源=局限〉
がほとんど同一的に循環をくりかえしている定型様式の所在である。
現在でも「故郷」は広く好んで歌われている。テレビの歌謡番組のフィナーレに出演者・観客が、
一体感をかもし出そうと意図して、一緒になって歌う歌はたいてい「青い山脈」か「故郷」だ。
しかしこれらの歌曲は〈間のび=おもいいれ〉というリズムが呼び起こすセンチメンタリズム
とは別の系統に属する。
なぜ「故郷」は愛唱され続けているのか。詞が描き出している「ふるさと」はもはや壊滅状態だ
から、かろうじてウサギを追ったり小鮒を釣ったりした体験を持つ稀有な人たちのノスタルジア
を呼び起こす以外の意味はない。にもかかわらず、ウサギを追ったり小鮒を釣ったりなどの経験皆
無の都会生まれで都会育ちの人たちもなお愛唱しているのは何故か。この問いに対して、「強弱リ
ズムをあらかじめ放棄した、土謡的な等時拍三音の発想を西洋ふうの三拍子に癒着せしめそこに定
住すること」の一つの到達点だという「故郷」についての分析は腑に落ちる。この「強弱リズムを
放棄した」「土謡的な等時拍」という三拍子が日本の大衆の心情に共振を揺り起こす。
この「故郷」に代表される三拍子についてはさらに分かりやすい論述があるので、次回でもう一度
取り上げたい。
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260 日本のナショナリズム(13)
洋楽の土着化(3)3/4拍子とはなにか
2005年5月2日(月)
明治・大正期の唱歌のなかで、代表的な作品とみなされる3/4拍子の曲には、ひとつの共通した
発想形式がみられる。前章でもふれたが、ひとまずそれを等拍三音の発想型とよんでおこう。
〈間のび=おもいいれ〉の型とならんで、もうひとつの系をなすものであって、《青葉の笛》
《冬景色》《故郷》などをあげることができる。
2/4拍子のばあいには、長短長短……の反復によって、七五調のことば(
を音楽のリズムのもつ強弱アクセントに適合させるという定式がみいだされた。他方、3/4拍子の曲を
創作するばあいには、逆に曲(音楽)そのものからあたうかぎり強弱アクセントを排除しうるような、
独特の手法を小学唱歌の作者たちはあみだしている。いや、その功績は田村虎蔵という作曲家ひとりに
帰せられるものかもしれない。くわしく調べる手数をはぶいてものを言う怠慢をひとまずゆるしてい
ただきたいが、堀内・井上編《日本唱歌集》を、順をおってみてゆくだけでも、田村の存在はき
わだっている。《青葉の笛》を例にとってみよう―
「第252回」(4月24日)で「青葉の笛」の楽譜を掲載したが、ここに再度掲載する。

一の谷の 軍破れ
討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞えしはこれか 青葉の笛
いちの、たにの、いくさ、やぶれ……の音節構成にみられるごとく、作詩者(大和田建樹)と
作曲者(田村虎蔵)とのあいだには、おそらくひとつの前提的な了解があった。それは邦訳讃美
歌から継承したものとかんがえてよいだろう。創作曲のばあいには、旋律がさらにもうひとつの
要因をなす。土着の旋法にちかづけばちかづくほど、3/4拍子のリズムはきわどい均衡のうえにた
たざるをえなくなる。したがって《青葉の笛》から《故郷》にいたる経過を対象とするかぎり、
そこにこめられた意味はしだいに稀薄になってゆく ― 明治ナショナリズムの自己喪失がゆきつ
くところ、空白感じたいが仮象(を形成するにいたる。
《故郷》はその末期的な下限をしめしている。
つまり「故郷」の詞が描き出す「ふるさと」は既になく「そこにこめられた意味は」稀薄になったが
、その「空白感」じたいが形成する「仮象」が歌う者の心情を満たしている。その根拠は「土着の旋法」
に限りなく近づいた「3/4拍子のリズム」にある。
三拍子についてもう一つの分析がある。3/4拍子でしかも機械的に強弱々のリズムを強いるとどうなる
かという例。前回、「詩と曲との乖離」が「おのずとかえうた(を
うみだ」すという指摘があったが、それとも関連する、私にとっては懐かしくも楽しい例が挙げられて
いる。
《港》(空も港も夜ははれて)という唱歌を、小学校の何年生のときにおしえられたかはわすれた
が(三年生の歌か)、学校でならうよりはやく、わたしたち腕白小僧は、ドレミミソラソソ……
の階名をもじったかえ歌を、さかんにどなりちらしていた。小学校の音楽教育で階名唱法という
ことが一般に言われだしたのは、昭和に入ってからのことだろうとおもう。そして《港》のパロ
ディは、この教育にたいする子どもの反応の、歴史的なドキュメントともいうべきものである。
ドレミッちゃん耳だれ、目はやん目、
頭のよこちょにハゲがある……
という徹底した悪口雑言が、ほんとうはむしろそれをうたう子どもたちじしんの、正確な自画像
をなしたところに意味がある。戦前から戦後しばらくのころまでそうだったとおもうが、男の子
はみんな坊主あたまで、おできのあとの大小のハゲが目につかない子はほとんどなかったし、ト
ラホームや結膜炎やで目ヤニをいつもためているヤン目の子、耳だれをとめるために綿で栓をし
ている子は、いくらでもいた。そうした現実的な貧困にとざされた子どもの感性が、《港》の歌
に最大限の違和をしめし、パロディをうんだ。しかもそこで、大人たちのおもいもおよばないひ
とつの本質を直感した ― ことばが曲の指標をなすことの逆説がここにはある。
こどもの歌う替え歌は、どうしてどのようにかは分からないが、瞬く間に全国に広がるようだ。
この替え歌は私も子どものころ歌っている。試みに5歳年下の身近にいる女性(子どもの頃は別の県
に住んでいた)にたずねてみたら、知っていた。今26歳の身近にいる青年は、当然ながら知らない
ということだった。
わたしはこの稿を書きはじめるまで、空も港も夜は晴れて……の歌詞にえがきだされた風景の
現実的な(意味に注意がおよばなかった。子どものときから
なんとなく好きになれない歌という以上の関心をもたなかったせいだろう。いまからみると、これ
はなんとも人をくったような奇体なものである ―
空も港も夜ははれて、
月に数ます船のかげ。
端艇(のかよいにぎやかに、
よせくる波も黄金なり。
この歌は明治29年に発表されている ― その時代的なリアリティは、すでに昭和に入って
からの子どもにはピンとこないものであった。銭湯の壁に画かれたペンキ絵の風景にうかんでい
る帆かけ舟、五百石船とか千石船とかいわれた和船が、わが国の海運史上もっとも隆盛をきわめ
たのは、紀文大尽のミカン船どころか、じつはむしろ明治になってからのことであり、それも20年
代からほぼ30年代にまでつづくものであった。鉄道や汽船にとってかわられるまで、日本
の初期資本主義をささえたもっとも重要な国内交通が、ほかならぬこの和船による海運であった
ことをぬきにしては、《港》にあらわれたにぎわいはイメジをむすばないわけである。まさにそ
れは〈波も黄金〉の一攫千金をはたして、港はいつも春なれや……と、つかのまわが世の春を謳
歌した海運成金の時代なのだった。
いまでもこれは小学校三年生の音楽科必修教材だそうである。先生たちはどんなつもりで教え
ているのか、わたしには見当がつきかねる。昭和10年代においてさえ、子どもたちはこの歌の素
朴すぎるオプティミズムをうけいれなかった。ある歌曲がとくにかえ歌を生みだすにいたる理由
は、主として曲のリズムとことばのリズムが同一の根源を斥(
さないというすきまにもとめられる。譜面どおりの、3/4拍子でしかも機械的に強弱々のリズムで
うたうことを教室で強いられれば強いられるほど、曲とことばのズレにひそむインチキくさいもの
をかぎつけ、それでは歌えないのだと違和感を表明するにいたった。そのあげくは、かえ歌に
よって逆に、この曲にありうるはずの、またあるべきゆいいつの本源へとリズムの指向を変換して
しまった ― 出だしをアウフタクトに変えて、決定的なまでの強弱リズムを体現するのである。
_ _ _
ドレlミッ・チャン・ミミlダ・レ・メハlヤ・ン・メl●●
まさしくそれは、絵そらごとの背後にかくれたなにものかを斥した ― このイロニイはしかし
それからどこへ行ったのか。
「詩的リズム」のうち、上記の稿が書かれたのは1975年である。そのころの音楽教科書には「港」が
載っていたという。ちなみに「第210回」(3月13日)で掲載した小学校学習指導要領音楽の「歌唱共
通教材一覧」を見てみたが、その中にはなかった。現在この歌は教材として採用されていないようだ。
指導要領を編さんする御用学者や文部官僚の中にもこの歌の詞の意味を理解するものがいなくなって
きたのだろう。
(
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261 日本のナショナリズム(14)
大正期の大衆のナショナリズム
2005年5月3日(火)
吉本論文に戻る。
吉本さんはこの論文の方法論 ― 歌曲の表現をかりて、大衆「ナショナリズム」の原像とその変遷
の基本的な間題をかんがえる ― について改めて言及している。まずその確認をしておこう。
これは、単に、これらの歌曲が、その時代に応じて、広く大衆に流布されたものだから、という理由
によるのではない。これらの歌曲の作家たちが、あたうかぎりそのときどきの大衆の支配秩序に向う感
性に追従しているため、ある種の近似的な類推が可能となるという理由によっている。すくなくとも、
これらの歌曲は、その時代の知識人からは軽蔑されながら口ずさまれ、支配コマ−シャリズムからは、
広く流布される性格を見ぬかれて迎えられ、じじつ広い大衆が受け入れてきたものである。
さて、明治期のナショナリズムのその後の変遷を、吉本論文で、たどることにする。
大正期における大衆の「ナショナリズム」は、あきらかに、政治性としての「御国の為」意識と、
社会性としての「身を立て名を挙げ意識の主題を失った。おそらくこのことは、支配層において、
国権意識によって大衆を統合しうるという意織と、腕一本で支配層にもなりうるものであるとい
う資本制意識によって、大衆を統合しうるということが、潜在的には、信じられなくなったことの
象徴であり、おなじように、大衆にとってそれが信じられなくなったということを象徴している。
このようにして、眼に見えるような形で、政治あるいは社会的な主題が喪失したことは、
大正期の大衆「ナショナリズム」の表現の特徴である。
その主題を喪失した大正期の大衆のナショナリズムの表層をよく表している愛唱歌として次のような
歌をあげている。
「雨」(北原白秋) 1916(大正5)年
「かなりや」(西条八十) 1918(大正7)年
「浜千鳥」(鹿島鳴秋) 1919(大正8)年
「背くらペ」(海野厚) 1919(大正8)年
「靴が鳴る」(清水かつら) 1919(大正8)年
「叱られて」(清水かつら) 1920(大正9)年
「てるてる坊主」(浅原鏡村) 1921(大正10)年
「七つの子」(野口雨情) 1921(大正10)年
「赤蜻蛉」(三木露風) 1921(大正10)年
「夕焼小焼」(中村雨紅) 1923(大正12)年
「花嫁人形」(蕗谷虹児) 1923(大正12)年
「あの町この町」(野口雨情) 1925(大正14)年
どれも今なお愛唱されている歌曲だ。吉本さんは、代表として次の歌詞をあげている。傍線は
吉本さんが付したものである。
唄を忘れた金糸雀(は 後の山に棄てましょか
いえ いえ それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は 背戸の小薮に埋(けましょか
いえ いえ それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は、柳の鞭でぶちましょか
いえ いえ それはかわいそう (「かなりや」)
*
雨がふります 雨がふる
遊びにゆきたし傘はなし
紅緒の木履(も緒が切れた
雨がふります 雨がふる
いやでもお家で遊びましょう
千代耗折りましょう たたみましょう (「雨」)
*
夕焼小暁の
あかとんぼ
負われて見たのは
いつの日か
山の畑の
桑の実を
小籠に摘んだは
まぼろしか
十五で姐やは
嫁に行き
お里のたよりも
絶えはてた (「赤蜻蛉」)
*
きんらんどんすの帯しめながら
花嫁御寮はなぜ泣くのだろ
文金島田に髪結いながら
花嫁御寮はなぜ泣くのだろ (「花嫁人形」)
*
あの町 この町
日が暮れる 日が暮れる
今きたこの道
かえりゃんせ かえりゃんせ
お家がだんだん
遠くなる 遠くなる
今きたこの道
かえりゃんせ かえりゃんせ (「あの町この町」)
吉本さんは『これら歌曲はそれぞれ優れた部類に属している』と評価してその理由として、『大
衆の「ナショナリズム」の時代的な核を、ある的確な側面から抽出することに成功している』を
あげている。その詳論を読んでみる。
「切れる」、「棄てる」、「忘れる」、「絶えはてる」、「泣く」、「かえる」というような動き
の表現は、大衆の「ナショナリズム」の心情の側面を的確に象徴している。これら大正期の大衆歌曲
の伝える、凝縮と退化の感覚は、社会的主題をうしなったのちの心情の下降に対応している。政治・社
会といった主題がどこにもないが、ここに大正期の大衆の心情の「ナショナリズム」がよく表現されて
いる。これらの表現を大衆のル・サンチマンとしてよむのは古典的なモダニズムの愚物だけであって、
むしろこれらは、それなりに成熟期にはいった日本の資本制社会の物的な関係のすさまじさ、高度化と
停滞の逆立ちした表現にあたっている。これらの大衆的ル・サンチマンの背後には、物欲主義の臭
気がただよっているし、その物的な怖れが表現されている、というふうによまないかぎり、文学を社会
の動向に結びつける道はありえないのである。この大正期の大衆的「ナショナリズム」の表現にいたって、
ついに「御国の為」や「身を立て、名を挙げ」という当為は、まったく主題性を喪失するにいたった。
わたしは、それを、知識人のデモクラシー思想の普及や移植マルクス主義の影響であるという解釈をと
らない。デモクラシーや移植マルクス主義は、かつて大衆「ナショナリズム」の核をとらえたことはな
いのである。これらは、まさに支配層によってとらえられた現実の、鏡にうつされた姿にほかならなか
ったのである。
大衆の「ナショナリズム」は、その統一的な主題を喪失するやいなや、これらの歌曲が表現している
ように、すでに現実には一部しか残っていないが、完全にうしなわれてしまった過去の(いわば明治典
型期の)、農村、家庭、人間の関係の分離などの情景を、大正期の感性でとらえるというところに移行
した。そして、これは幼時体験の一こまと結びつかざるなえなかった。これらの作者たちは、知識人と
しては、北原白秋・西条八十のようにモダニストであり、野口雨情・蕗谷虹児のようにアナキストであ
った。しかし、かれらによって一面を抽出された大衆の「ナショナリズム」は、ひとつの現実喪失、
または現実乖離というような形で、はるかに間接的に大正期社会そのものの物的関係とつながっていた
のである。
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262 日本のナショナリズム(15)
昭和期の大衆のナショナリズム
2005年5月4日(水)
明治期から大正期にかけて大衆ナショナリズムはその主題を政治→社会→過去への郷愁(明治典型期の
農村、家庭、人間の関係の別離、幼児記憶など)と変遷していったが、昭和期にはいって、そのナショナ
ルな心情は、さらに農村、家、人間関係の別離、幼児記憶などに象徴される主題の核そのものにも、
心情としての実感性をうしないそれを「概念化」せざるをえなくなってくる。吉本さんは、その表徴と
して次のような唱歌をとりあげて、昭和期における大衆の「ナショナリズム」の特徴を解説している。
こうした昭和期における大衆の「ナショナリズム」の根源的喪失と「概念化」は、たとえば、
つぎのように象徴される。
おみやげ三つに 凧三つ
おみやげ三つは 誰にやる
さよならいう子に 分けてやる
背なかをたたいて ポンポンポン
おみやげ三つに 凧三つ
凧は凧でも いたい凧
背なかにしょわせる いたい凧
そらそらあげるよ ポンポンポン
(「おみやげ三つ」西条八十)1931(昭和6)年
*
かきねの かきねの
まがりかど
たきびだ たきびだ
おちばたき
「あたろうか」
「あたろうよ」
きたかぜ ぴいぷう
ふいている
(「たきび」巽聖歌)1941(昭和16)年
*
てんてん手鞠 てん手鞠
てんてん手鞠の 手がそれて
どこから どこまで とんでった
垣根をこえて 屋根こえて
おもての通りへとんでった とんでった
(「鞠と殿さま」西条八十)1929(昭和4)年
*
あの子はたあれ たれでしょね
なんなんなつめの 花の下
お人形さんとあそんでる
かわいい美代ちゃんじゃ ないでしょか
(「あの子はたあれ」細川雄太郎)1939(昭和14)年
これらは、いずれも、優れた歌曲として流布されているものである。しかし、ここに表現された
日本の大衆の情緒的な基礎には、すでにどのような裏目をかんがえることもできない。また、どのよ
うな実感の存在もかんがえることができない。たんなる「概念的」に把握された心情の表現にすぎな
くなっている。ここに象徴される大衆の「ナショナリズム」は、すでにそれ自体が、みずからを喪失
し、表現としての情緒的迫力を失っている。この意味では、歌曲に表現されたものに対応する現実的
基盤が、大衆の「ナショナリズム」からうしなわれていることを、これらの正直な歌曲作家たちは表
現したといえる。
こうした大衆ナショナリズムの情況が指し示している思想的意味を、吉本さんは次のようにまとめている。
一、
政治思想としての「ナショナリズム」は、それ自体としては、大衆のナショナルな核を包括するもの
となり得なくなったこと(ウルトラ=ナショナリズム化する契機をもったこと)。
二、
農村の資本化に対応するような生産力ナショナリズム(社会ファシズム)が、左右両翼の知識人から
生れる基盤が生じたこと。しかし、それは大衆「ナショナリズム」の心情を疎外しそれと対立している
ため、あくまでも知識人の思想であって、支配思想とはなりえなかったこと。
これらが、昭和期にはいって移植マルクス主義(スターリン主義)運動と、知識人「ナショナリズム」
運動が、社会ファシズム運動へ、また大衆の「ナショナリズム」が、支配層のウルトラ=ナショナリズ
ム(農本主義・天皇主義)に吸引された思想的な理由であった。
知識層の「ナショナリズム」思想によって、直接に大衆の「ナショナリズム」が表象されるのではなく、
逆に大衆の「ナショナリズム」が「実感」性をうしなってひとつの「概念的な一般性」にまで抽象され
たという現実的な基盤によって、はじめて知識人による「ナショナリズム」は、ウルトラ=ナショナリ
ズムとして結晶化する契機をつかんだのだ、と言っている。
そして吉本さんはさらに大衆のナショナリズムと知識層のナショナリズムと支配層のナショナリズム
の相克とその時代の動きを次のように記述している。
大衆の「ナショナリズム」が心情としての実感性をうしなったということは、すでに村の風景、家庭、
人間関係の別れ、涙などによって象徴されるものが、資本によって徐々に圧迫され、失われてゆく萌芽
を意味している。このような意味での資本制化による農村の窮乏化と圧迫と、都市における大衆
の生活の不安定とは、知識層によって、ウルトラ=ナショナリズムとして思想化され、それは満州事変
いらいの戦争への突入と一連の右翼による直接行動の事件の思想的な支柱を形成したのである。
(中略)
大衆の「ナショナリズム」の心情的な基盤の喪失こそは、知識層が、「ナショナリズム」を思想と
してウルトラ化するために必要な基盤であった。支配層は、これに対し、経済社会的には大衆の「ナ
ショナリズム」の最後の拠点である農村、家族にたいする資本制的な圧迫と加工を加え、政治的に
は、大衆の「ナショナリズム」の「概念化」を逆立ちさせたウルトラ=ナショナリズム(天皇制主義)
によってこれに吸引力を行使したのである。この支配層の二面の方法は、さまざまな錯綜と混乱を生ん
だ。どのような政治・思想勢力も、これに対応する方法をうみだすことができなかったほどである。
かくして大日本帝国は、支配層の思わく通りに大東亜戦争へと突き進む思想的道すじを獲得して
いったのだった。
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