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231 教師の戦争責任(1)
戦争責任回避のツケ
2005年4月3日(日)



 「君が代・日の丸」の強制に屈服しっぱなしの校長・教頭などの管理職ばかりではなく、その闘い を迷惑がる一部の教員の現今の言動に接するにつけ、皇国民教育の亡霊が蘇えってきているのが見えます。 これは教育界だけの問題ではありませんが、戦争責任を曖昧のままごまかし、皇国民教育の 体質を奥底に引きずったまま民主主義教育を接ぎ木しただけで戦後教育を始めてしまったツケでしょう。 戦後の教育の今日のていたらく、「君が代・日の丸の強制」に象徴される教育反動をを引き寄せてしまった のはけだし当然の成り行きというべきでしょう。「撃チテ止マム」の中に岡牧夫著「現代史のなかの教師」(1973年・毎日新聞社)からの 次のような引用文があります。
 この100年の間で果たしてきた教師の役割は決して小さいものではなかった。しかも、それは総じ て、国民の側にではなく、権力者の側にたたされ、いや、もっと率直にいうならば、権力者の尻馬にのって、 のせられたという形で、日本の現代史の汚辱の部分で大きな役割を果してきたとさえいえるのである。  「現代史のなかの教師」のなかには、その汚辱に組みこまれることを拒否してたたかった少数の人び ともいた。しかし全体として日本の教師たちは「皇国臣民」の道を日夜教壇で説き、ファシズムの暗い 時代には、教え子を戦場に駆りたてる役割をも果してきたのである。  今日の情況のなかで30年、40年前の教師たちの恥部にふれることは、まったく意義のないことで はないだろう。それは「学制100年」のその内側を照射することによって、「教師とは何か」を問い なおす素材が発見できるからである。  いま、私たちは、体制の側のうちだすさまざまな政策にひたすら順応し、文部省の学習指導要領にの み忠実に、与えられた授業時数を大過なくこなし、一日もはやく管理職に身をおこうと考えつつ、実は 子どもたちに対して加害者の立場にみずからをおいている教師が決して少なくないことを知っている。  そのような教師は、戦中に少年戦車隊や予科練や、はては満蒙開拓義勇軍に子どもたちを志願させ、 大陸や南の海の戦場に送りだした教師と本質的にかわることはない。そればかりではない、父母から遠 く離れたところに身をおいて、体制側の求める人づくりに積極的に手をかしていることをも意味しているのである。

 長浜功著「日本ファシズム教師論」のはしがきに同様な指摘があります。
 本書は前著『教育の戦争責任ー教育学者の思想と行動』の続編ともいうべきものである。今回は 戦時下教師レベルの問題にしぼって論述した。問題を掘り下げれば下げるほど、ますます教育界の病 巣の深さに驚愕する。
 日本の教育界はいつも目先しかみていない、という欠陥をイヤというはど見せつけられる。たまた まわたしはその病理を戦時下に求めているのだが、その本質は戦前も戦後も変わらない。そのことに 気付くだけでも教育界は進歩するのだが、実際はそういう発見でさえ教育界は不可能になっているの である。
 前著が出て以来、少なくない読者の激励の反応があったが、教育界は足並みをそろえたように黙視 した。それは予想していたことではあったが、正直いって淋しい思いはかくせない。ある程度、わた しの研究姿勢をわかってくれていると思っていたわたしと同世代の研究者までが「人を後ろから撃っ た」と表現した。真理と真実より周囲と恩師への気がねが優先されている土壌にわたしの入る余地は ないようであった。
 前著を世に問うてよかったと思うのは敵と味方が実にはっきりしてきた、ということである。ふだ んはものわかりのよさそうな論文を書いたり、いったりしている人間が、実はわたしの敵であり、相 手にする必要ないと思っていた人間が味方であったりした。もうひとことつけ加えるなら、いわゆる 革新・民主派″のなかにもっとも悪質な敵が伏在しているという実感をもったことである。
 なんとか力を寄せあって、いい教育、ほんものの教育を育てあげてゆきたいというのが、わたしの ホンネである。本書はともすれば教師のだめさ加減ばかりを述べていると誤解されるかもしれない。 しかし、敢えていいたいのである。ダメな所から出発することが道は遠くとも確実な解答になりうる、 と。わたしが教育界を批判するのは教育界がだめだからではなく、よくしたいからである。その批判 さえタブーになってしまったら立ち直るきっかけは見つかるまい。
 教科書に対する、政財界の攻撃は亡国をねらう悪質な姿勢としか思われない。その時期に本書が出 ることはタイミングを失する観があるが、わたしはむしろ本当の腐敗は外因より内因から生じるし、 それが最もこわいと思う。自己批判を返上したとき人と組織は野心と傲りにうちかたまる。
 本書が再び教育界の冷たい反応にあうことは忍びがたいが、道はそこから始まると信じている。

 このような指摘に対して私は忸怩たる思いを禁じえません。いささか遅きに失するきらいがありますが、 「わが内なる保守反動」と対峙するために、しばらく国民学校の教師と児童やそれを理論的・心情的に 教導した教育学者たちの言動を追う ことにします。今まで用いてきた山中さんの著書の他に、長浜功著「教育の戦争責任」「日本ファシズム 教師論」を利用します。それらの著書から皇国民教 育の当事者たちの証言・著作文・作品を書き出して読んでいくことにします。



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232 教師の戦争責任(2)
近代日本のスタート時からの病根
2005年4月4日(月)



「日本ファシズム教師論」から、まずかっての少国民の証言を読んでみます。

  小学校の思い出
   ―おりあらば、俺たちの前でS先生に
    読ましてやりたい詩

いまごろは
あいつはどこでなにをしているだろう
あいつは俺たちを四年間うけもった
しかし 俺たちは
あいつに教わったことをおぼえていない
俺たちの組には
友だちどおしのなかに先生代理というのがいた
君らがちゃんとしらべてきて
時間ごとにかわって教壇にたった
あいつはいつもすわっていた
あいつは自分勝手なことをしていた
そしてあいつは
時間中でも俺たちに肩をたたかした
順番をきめてたたかした
その順番で
あいつは自転車も掃除さした
靴みがきもさした
すすんでやったものは点数をもらった
それであいつはいつもすわっていた
ちょっとアゴをしゃくれば
俺たちはとびまわった
俺たちは点数がほしかったのか
俺たちはあいつになぐられるのがおそろしかったのだ
あいつは俺たちをびしびしぶんなぐった
あいつの気がすむまでぶんなぐられた
みがいた靴のそろえ方がわるいという理由で
着物がよごれているという理由で
顔の感じがわるいという理由で
試験の点数が三点たりなかったという理由で
あいつは俺たちを
床板にたたきつけるほどなぐりつけた
俺たちは 思い切りの悪い方法で あいつに反逆した
俺たちはあいつの太い腕がおそろしくて
あれが勢一ぱいの反逆だったのだ
俺たちは失敗した
あいつは俺たちをコン棒でぶんなぐった
俺たちのなん人かは
まっさおになってぶったおされた
俺たちのあるものは
頭のハダをたたきられて
まっさおな頬を紅の篠がつっぱしった
あるものは立ったまま小便してしまった
俺たちはわすれやしない
一人としてわすれやしない
あいつ あいつ
あいつは陸軍伍長だった
あいつはいまごろ
どこでなにしているだろう
そしてあいつは
俺たちの幼い魂がきずつけられたかなしさと
そのために一そう強くはねかえった今のこの俺たちの勇気を
ちょっとでもかんがえることがあるだろうか
   (こばやしつねお『こばやし・つねお詩集』解放社、昭和23年11月)

 明治政府は近代的な軍隊整備のための至上課題は兵士への一般的教養の付与であると認識していました。 徴兵令に先駆けて1872年(明治5)年8月に制定された「学制」は何よりも「強兵」作りのためだったので す。大日本帝国下の教育の暴虐な体質はそのスタートから決定づけられていたと言えます。(この 「学制」には激しい民衆の抵抗があったと言います。それが弾圧・鎮圧されていく経緯もいずれ調べたい と思っています。)
 その「学制」が敷かれたばかりの頃から教師をしていたという人が当時を回顧している文章が「御民 ワレ」に引用されています。その一部を孫引きします。
 併し当時の教師は、父兄からは神の様に尊ばれ、財産家などでは自分の家に居て貰うことを名誉の 様にしてよく世話をして呉れたので、今の様に生活は困難ではありませんでした。尚当時は実に自由 なもので、何時休みにしても旅行しても平気で、明日から盆であるから三日間休みだとか、何処の村 に芝居があるから休みだとか、校長の独断専行で何処からも指揮を受けるでもなく、認可を願うわけ でもなく、実に教師独尊時代とでも云う有様でした。
 児童の訓練などに就いてもその標準用語は「此の野郎、此のアマ」等の一言が万事の訓練語であっ て、実に簡単で十分に用が足りたのです。其の次は直ちに拳固・直立・留置等でした。直立には茶碗 に水を入れて持たせるか、又線香に火を灯ぼして消ゆるまで持たせるとか、又大算盤などを捧げ持た せる等で、罰の軽重に依って酌量すると云う有様でした。
 教師の持つ鞭なども、教鞭として用いられずして、黒板をたゝくとか机をたゝくとか児童を打つと かに用いられたものでした。そして其の鞭は児童に命じて、各児童の家の竹薮から、細くて節の密度 した根竹で、よくしなって打ってもたゝいても容易に折れぬものをさがして持参せしめるので、児童 は無邪気で何の気なしに先生様の気に入る様なものを選んで持参して呉れるのでした。 (『平塚小誌』1952年・平塚市)

 生徒を「此の野郎、此のアマ」と口汚くののしって殴ったり、「直立には茶碗に水を入れて持たせるか、又 線香に火を灯ぼして消ゆるまで持たせる」など陰湿にいびる事を「訓練」と言っています。「大東亜戦争」 下の国民学校では「皇国民の練成」と言っています。あきれたものです。
 「皇国民の練成」を理論づける教育学者たちの文章は後にまとめて読むつもりですが、ここでは当時 「東京第一師範附属校主事」という肩書きをもつ坂本一郎という教師の文章を掲載します。
 
 惟ふに、大東亜共栄圏の確立は、米英の非望を破砕して世界新秩序を建設したる後にはじめて可能 である。しかるに世界征覇を夢みる米英陣営はその財力と資源とに物言わせて、頑強に抗戦すること は必至である。高度国防国家体制はこの頑敵を殲滅するわが鉄壁の攻勢陣を意味するものであり、皇 軍は火弾を抱いてその第一線に奮進する。しかしわれわれは国民学校なる発射管に児童を装填して、 絶忠の火薬に火を点ずる第二線の重責に立つ。誰ぞ教育を不急の平和事業といふ。われわれの手許に 些かの緩みがあっても、それは直ちに操縦桿を振る神兵の精神に反映するものであることを思はねば ならない。(阪本一郎『少国民錬成の心理』はしがき)

 国民学校は発射管であり、児童は「絶忠の火薬」を以ってそこから戦場へ送り出す砲弾だと言うので すから驚きです。ちなみにこの坂本一郎という男は民主主義者ヅラして戦後も活躍したようです。 「児童文化功労賞」というのを受けているそうです。

 冒頭に引用した詩の中の教員Sは「陸軍伍長」とありますが、「大東亜戦争」当時の教員には 軍隊帰りが多かったようです。その頃の男性教師で徴兵検査甲種合格であったものの多くは、 兵役短期現役(5ヵ月)で下士官任官という特典により半歳を待たずに下士官になって学校に戻っています。 短期間で下士官に任官となるのですから、その教師たちが軍隊で受けてきた教育は相当に苛烈であったこと でしょう。そんな連中が「軍隊へ行ったら、こんなものじゃないぞー」と少国民を練成するのですからたまっ たものではありません。
 アッツ島の場合が昭和18年5月、サイパン島のそれが翌19年の7月だった。全校生徒を各自の座席に正 座着席せしめ、週番士官全員が手分けしてクラスごとにひとりひとりの頬を張って回るのだった。たるんだ空 気に活を入れ、奮起をうながすという触れ込みだった。
 「米軍の狂暴なる侵攻作戦のために、アッツ島守備のわが皇軍将兵は全員玉砕されたっ」
 週番士官が教壇に立ち、腰に両手をあてがって叫ぶように言う。
 「おんしらぁは、気がゆるんじょる。全員玉砕はそのためじゃっ。よって、皇国必勝のために週番士官が制 裁を加えるっ」
 今から考えれば三歳の童子にさえ判断がつく程度の非合理ぶりだが、当時の空気の中ではさほどおかしいと も思われぬ論理だったし、また、たとえおかしいと感じても異を立てるにはよほどの勇気を要したのだ。「動 くなっ ー 目を閉じよ。めがねを掛けちゅう者は、はずせ。ロをつぐんで、しっかり食いしばっちょれ」
 そうしないと、口内が切れて出血するのだった。注意事項が終わると、二名の週番士官が机の問をめぐりな がら叩き始める。平手で一人一回なのだが、態度のわるい生徒、ふだんからにらまれている生徒は、二回三回 とおまけがつくのだった(山川久三「反面教師としての軍国主義教育」広島平和教育研究所編『戦前の教育と 私』朝日新聞社、昭和48年11月)。

 「週番士官」というのは、教師が上級生のうちからお気に入りの「優等生」児童を任命した風紀の監視・ 取締まり係りです。実体は公的″な「ピンタ係」だったのです。  前にも書いたように、私は敗戦時には国民学校2年生でした。私の担任はまともな先生だったのでしょう か。殴られた記憶がありません。しかし戦後4・5年もたった中学生の時に一度ならず、クラス全員だったか一部だった か、廊下に並ばされて殴られた記憶があります。何が原因だか全く記憶がありません。きっと些細な事だった に違いありません。教育界には大日本帝国と新生民主日本との切れ目はなかったのかもしれません。いや、教育界 だけではなく、日本全体がそうだったのかもしれません。大日本帝国の亡霊が蘇える素地を残して しまっていたのです。



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233 教師の戦争責任(3)
児童は「常在戦争」の兵士
2005年4月5日(火)



 「御民ワレ」からの引用です。
 太平洋戦争期にはいると、学校は<皇国民ノ錬成道場>であるばかりではなく「常在戦争」(常に 戦場に在るとの意識で戦地銃後一体化のスローガン)が言われ始め、学校は<戦場>であるという意 識が絶えず植付けられた。教場では子どもたちは兵士であり、教科書、文房具の類は武器と看倣され た。忘れ物をしようものなら「武器を忘れて戦場に来る兵隊がいるか!」と厳しい体罰が科せられ た。つまり鉛筆一本、雑記帳一冊に、学校にいる限り、殺戮のための道具としての観念が与えられた のである。特に教科書に対する扱いは厳しかった。教科書を粗略に扱うことは絶対に許されなかっ た。地方の学校によっては、授業の始まる直前に、教科書を恰も勅語騰本のように拝礼させたり、お しいただかせたりした。教科書には天皇陛下のおさとしがしるされているというのである。まさに軍 隊に於ける<菊の御紋章>を付した小銃と同じ扱いであった。
 所持品検査などというのもしばしば行われた。これは学校へ持ち込むことを禁止された物品を摘発 するためばかりでなく、筆箱の中の筆記用具、あるいは教科書、雑記帳が<八紘一宇ノ聖戦>の武器弾 薬として、いかに丁重に扱われているかという検査の意味も兼ねていたのである。ちびたケシゴム、 鉛筆の類が武器弾薬に変化し、それを疑いもない当然のことと思いこませる教化の徹底度は、国民学 校期が最高のものである。


 それにしてもひどかった。雨の日、始業前の教室で騒いでいたところ、道化たのがひとり、「先生 来たぞ!」と警告した。一瞬、教室は静かになり、みんなは廊下に目をやった。廊下に姿を現わした のは、ぽくらの担任教師ではなかった。みんなで道化者をなじってぶうぶう言った。ところがその教 師はいきなりぼくらの教室へはいって来るなり、「先生を犬猫同然に『来た』とは何事か!」と件の 道化者が鼻血を吹いてぶったおれるほどに殴りつけ、あまつさえ、そうした不心得者を出したのは連 帯責任であるとして、全員を廊下に二列横隊に並べ「前列一歩前へ進め、廻れ右」で<相互びんた> をやらせた。
 しかし、これなどは扱いはともかくとして、一応原因があるのだが、教師がわけもなく殴るという ことだってあった。ぼくらの学校ではなかったが、女子の学級で第一校時が始まると、教室へはいって 来て、やにわに竹の棒でクラス全員の頭をしびれるほどの激しさでぽかぽか殴って廻る教師がいたと いう。「これで少しは目がさめて緊張したろう、その引きしまった気持ちで勉強しろ!」というので ある。これが毎朝恒例であったという。これなどは体罰というよりも、まるっきり暴力でしかない。 もっとも、この学校の校長は、大東亜戦争も末期になると、毎朝、朝礼で日本刀の抜き身をふりまわ したというから、それぐらいのことがあっても不思議ではなかった。
 自分で体罰を加えるのが面倒なのか、級長、副級長あるいは学習班長を呼びつけ、手を出させ、竹  の棒でいきなりその手を殴りつけ、自分が指名する生徒のところへ行き、その痛みを忠実に伝えろと  命令した横着な女性教師もいた。

 国民学校のこの酷い状況に親たちはどう対処したのでしょうか。
 また、ぼくに限らず、学校で教師から厳しい体罰を加えられたとしても、余り名誉なことではなか ったから、子どもたちはそんなことを親たちには報告しなかった。何かのはずみで親が知ったとして も、親は親で、自分たちも多少似たような経験をして小学校を出ているので、教師が殴るのは当然の 教育的行為で、殴られるようなことをした子どもの方がよろしくないと頭から決めこんでいた。何か のはずみで、教師が全く不当な体罰を加えたとしても、子どもたちは黙っていた。そんなことで親が 学校へ抗議にでも来たりしたら、いい恥だと思っていたのである。<過保護>という言葉は無かった が、過保護のめめしい奴だと思われたくなかったのである。だから、実際に親たちはその実態を知ら なかった。

 それでも中には子どもがそんな酷い扱いを受けていることに抗議する親もいたに違いありません。 それに対して、前回登場した坂本一郎という主事がこんなことを書いています。
 時々新聞面を賑はす記事に、体罰を加へた先生を子供の親が告訴する事件があります。もちろん体 罰をみだりに加へることはよいことではありません。しかし、その鞭によって、子供は国の子として の覚醒を求められたのであって、さうするより外に手段がなかったとすれば、やむを得ぬことだとし なければなりません。それがたとひ先生の過失であったとしても、子供の非は棚にあげて、親の体面 を傷けたとか何とか息まき、表沙汰にするのは、先生に復仇することはできるかもしれませんが自分 の子供の魂はまったく親の手で虐殺するも同然です。その子供は将来、学校教育を素直にうけて国の 子として成長することは断じてできなくなります。のみならずその影響は広く他の子供にも及ぶので あります。いつまでも子供を、家の子として独専してゐては、決して有為の日本国民とはすることが できないのであります。子供をかはいがる心持の裏には、国の子としての頼もしい成長を念願すべき であります。そのため、家庭教育を、学校中心の教育方針に立ててゆくべきであります。 (坂本一郎『国民学校と家庭教育』)

 「体罰をみだりに加へることはよいことではありません。」と一応「体罰」を批判するポーズはとり ますが、「しかし」と今度は体罰批判を全面否定する理屈を書き連ねていく詭弁を展開しています。今でもよくお 目にかかるレトリックです。それにしても体罰批判が「子供の魂」を「親の手で虐殺する」ことと同然と は、まったくあきれた神経と頭脳の持ち主です。この男が児童文化の功労者というのですからこの国は一体どう なっているのでしょうか。
 若者たちの「脆弱ぶり」を嘆き、「軍隊(自衛隊)生活を経験させればすぐシャッキッとする」などと いうような発言が政治家の中から出てきています。政治家に限りません。教育とは「練成」であるとい う教育観は一般にも根強くはびこっています。教員の中にも、と私は思っています。もっとも今では 「練成」を「しつけ」と言い替えています。

  今はそれを論じる場ではありませんが、「しつけ」について一言だけ付け加えます。
 一般に「しつけ」という言葉によって期待されているものにはうさんくさいものもありますが 、私は全面否定しているわけではありません。しかしそのましな部分も訓練や説教によって押し付けるもの ではなく、人と人との深い関わりを通して一人一人が自ら考え選び取っていくものだと言いたいのです。 学校とは「人と人との深い関わり」を創る場でありたいものです。



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234 教師の戦争責任(4)
墨塗り教師
2005年4月6日(水)



 「日本ファシズム教師論」からの孫引きです。
 そのころは、まったく軍国主義教育であり、すばやく軍国の子に育てる目的のために、教師は幼い わたしたちを気が遠くなるほどよく殴った。教科書をたいせつにしない子にはとくにそうであった。
 それが戦争が終ったら「教科書を開くまえに一度教科書におじぎをしないと罰が当たるよ」とまで 教えてくれた同じ教師の命令で、わたしたちは教科書に墨をぬったのである。
 村に軍人はいない。軍人と教師のどちらが偉いのかはわからなかったが、とにかく軍人のいない村 に、教師以上の偉い人はいない。教師のいうことは、子どもにとってはもちろん、親にとっても絶対 であった。
 それゆえにこそ、教師に説得されると、数え年十五のわが子を軍隊や満州に送り出していたので ある。その教師が、こともあろうに教科書のなかでも特別に力をいれて教えた部分こそよけいに濃く 墨をぬらせたのである。
 教科書に墨をぬる ― ということは、それまでの教育をまっこうから否定することではないのか。 それまでの教育を否定するのであれば、それまでとは異った意識で以後の教育にあたらねばならないの ではなかったか。
 このことを、生徒も教師も忘れていいのか、忘れさることが許されるのか。そのときから四半世紀も 過ぎ去ったからといって忘れていいのか。ほんとうは、忘れることは罪ではないのか… (和田多七郎『ばくら墨ぬり少国民』太平出版社、昭和49年7月)。

 教師たちはGHQの命令に従って生徒たちの教科書に墨を塗らせました。ともかく命令には従ふ人たちです。 そのとき大方の教員たちは同時に自分の心にも墨を塗ったのです。軍国主義教育にどっぷりと浸かった自分の 思想・精神を厳しく検証して棄揚するのではなく、民主主義教育と言う墨を塗りこっそりと隠して敗戦をす り抜けていったのです。
 わたしが教師になりたての頃だから、確か昭和30年前後のことである。ある研究会で、授業を見 ようと階段を駈け登ったとき、二階から降りて来たA先生と、正面からばったりと出会った。十年ぶり で出会った恩師を見上げ、わたしは体じゅうの血が、逆流する程の憎悪を覚えた。先生は、しばらく わたしを見おろしていたが、高慢な勝利者の顔で、うす笑いを浮かべたまま、階段を降りて行かれた。
 その研究会の最後は、A先生の「民主主義教育の何とか」という、いかにもアメリカやヨーロッパだけ が教育の先進国のような、反吐の出そうな講演であった。この、時代の寵児に対して、わたしは唇を嚼ん だものであった。
 その十年前。わたしが小学校五年生だつたから、昭和19年のことである。
 担任のA先生に召集令状が来た。先生には、二度目の応召だった。襟の詰った黒い軍服を着、金色の ゴボウ剣を腰につけた、りりしい姿で、全校生徒の前に立たれた。「自分もきょうからまた、日本海 軍軍人であります。この非常時に、天皇陛下に召されて出征できることは、日本男児として本望であ ります。」
 先生のことばに、わたしたちは酔っていた。これ程の、興奮はなかった。
 教室へ来られた先生は、まず黒板の上に飾られた皇居の写真に向って、
 「まもなく、自分は天皇陛下のおそばへ参ります。」
 と、挙手の礼をされた。目深にかむった軍帽、白い手袋は、戦時下における「われら少国民」の、 もっとも憧れる海軍将校の雄姿であった。みんなも敬けんな気持ちで、写真に向って最敬礼をした。
 「いいか、みんな」その日、先生の顔には、いつもの笑顔はなかった。「自分はかならず死んで来る。 鬼畜米英を倒さん限り、生きては還らんぞ。」
 溢れる気持ちを鎮めようとしたのか、先生はー息つき、さらに「おまえたちも日本男児だ。かならず 後に続け。自分の教え子として天地に恥じない人間となり、皇国(みくに) のためにご奉公してくれ、今生の別れだ」と、疎開学童のため八十余名にふくれあがった教え子のひ とりびとりと握手をされた。
 わたしの番になったとき、思わず体が震えた。両手で先生の手を握って、
 「先生、死、ぬな。」
 泣き声になったとき、目の前に火花が散った。こめかみあたりを殴られ、倒れた。「女々しい事。……それ でもおまえは日本男児か、海軍軍人の教え子か。」
 その日、A先生は八紘一宇、滅私奉公ののぼりの中を、勇壮なブラスバンドに送られ(いずみ) ってしまった。
 そして終戦のよく年三月、先生は復員された。その時がまた、お別れのことばだった。
 「先生していても、まんまが喰えねえすけえ、のう。先生やめて、百姓になっさ。」
 方言まる出しで、完全な三枚目の挨拶であった。百姓でなければ、食料のない時代であった。
 六年生であったわたしは、割りきれなかった。折り目正しかった軍人の、この豹変ぶりに、軍国教 育を受けていた当時のわたしは、失望した。こういう場合、おとなという者は、日本男児と百姓の 距離を、子どもに説明してはくれないものなのだ。
 時代が落ち着くと、また復職された。そしてあの民主主義教育云々の、先生一流の論法が、時代を 先行しているという錯覚を他人にもたせ、栄達の道を進まれた。
 今でもわたしは年毎に、あの殴られ方を鮮かに思い出すのである。  (本間芳男「軍国教師の戦後転向」『昭和教育史の証言』山脈出版の会、 昭和51年8月)
 このA先生は墨で塗り隠した思想・精神と新たに与えられた民主主義とを自らの内部でどうように 闘わせたのでしょうか。そのおおよそのことは偶然出会った教え子に対する対応から推察できます。 「厳しく検証して棄揚」してきたとはとても思えません。墨の下はそのままで民主主義者に成りす まして出世してきたようです。
 次は国民学校(現・東京都府中市立府中第一小学校)で「おっかない」校長と生徒に畏怖されていた 吉田亮という人の手記(遺稿と書簡)の一部です。(「御民ワレ」から)
(前略)昭和十七年、国の施策として満蒙開拓青少年義勇軍の計画があり、全国から募集した。
 府中小学校からも九名応募参加した。卒業直前の三月内原訓練所に入所、約一年の訓練の後渡満し昌 図に入った。
 思えば十五歳、青雲の志を抱いて満蒙に骨を埋める決意、その意気懦夫を起たしめるものがあった。
 昭和十八年七月、東京府の慰問団(七名の校長)の一人に加わった私は、彼等の入植地昌図を訪ねて、 二日二晩生活を共にしたが、熾んな意気で艱苦欠乏を内原精神で堪えている姿に安堵したものだ。
 この旅行の日程は、朝鮮・旅順・奉天・ハルピン・孫呉・黒龍江・牡丹江などの慰問、見学で、 一か月で得ることも多大であった。



 小生も老来益々健康にめぐまれ、ヒョンな事から昨夏来、市の教育委員になり、殊に教育長たる 地位から、勤評の実施、これが反対闘争の組合行動に立ち向い、もって生まれた性格と信念で、 フン張り続けています。余事はさておき兄に満腔の敬意と謝意を表したいことがあります。というの は、昨日ゆくりなくも大国魂境内で、忠魂永存の碑を拝見したからです。
 裏面にまわりまして七百余名の方々のみ名を見て行く時胸がつまり目がしらがあつくなりました。  かうしたものは決して小生だけではなく、あまたの人がそうだろうと思います。それが「忠魂永存」 です。小生、二年ほど前、保谷天神で、やはり忠魂碑を見ましたが、その時もいゝ事がしてあるなと 思ったのですが、府中に於ては、一段も二段もそう思わせられました。
 小生も三〇年退職後直ちに、かつての任地拝島、深大寺、府中の、教え子を葬った寺二十数ヶ所の 墓参をし、線香を供え乍ら泣いて来ました。
退職したらと心に誓っていたので三〇年になりますと、度々夢を見ていたので、墓参後は重荷をおろした ような感がしています。(以下略)

 この人は自らの思想・精神をごまかしたのは墨を塗った一時だけで、塗った墨はいち早く拭い去って 旧態然の思想・精神のまま国家権力の忠犬として「フン張り続けて」いったようです。
 もちろん、墓前で流した涙は教え子を死地に追いやったことへの悔恨の涙ではなく、児童たちに押し付 けた忠魂への自己陶酔の涙です。外国の地で侵略者として死んでいった、いや祖国から見捨てられ殺され ていった人たちの無念さを感受する感性を欠き、その人たちの慟哭を聞く耳ももたず、自分が生き残った ことへの後ろめたさもこれっぽっちも感じない貧相な精神を得意がる忠犬です。
 今ほとんどの自治体では教育長とか教育委員とかは、この手合いの国家主義亡者で占められているのではないで しょうか。権力の犬として「フン張り続けて」いるのは都教委だけではありません。改めて恐ろしいこと と思わざるを得ません。



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235 教師の戦争責任(5)
墨を塗りきれなかった教師
2005年4月7日(木)



 「墨を塗った教師」のその後の生き方は三つのタイプに分類できそうです。「A先生」と「おっか ない校長」の二つのタイプと、今回はその三つ目です。

 1975年8月15日の読売新聞の投書欄<気流>に「戦争と平和/この日に思う」という特集がありました。 その投書の中の一編を山中さんが「撃チテシ止マム」で取り上げています。
過ち犯した教育者に時効はない
30年ぶり、教え子の同級会に欠席   無職 百武福寿 59
 三十年ぶりで、教え子たちの同級会が開かれるので出席していただきたいという意味の招待状が来 た。涙の出るほどうれしく、今すぐにでも飛んで行きたい気持ちだったが、辞退の手紙を出した。もち ろん、別の口実である。
 なぜ、せっかくの招待を断ったかというと、あの時小学校の五年生だったこの子供たちの担任だった 私は、だれにも負けず、熱心に、軍国主義をやったからである。戦争に負けた時、責任を自分なりに感 じて教員を辞めようと思いつめながら、ついにそれさえも実行出来なかったこのおれが、いまさら、何 の面下げて「恩師でござい」と彼らの前に出られようか。過ちを犯した教育に「時効」はないと思う。 それにしても、他の友達の元教員は、喜々として参加し、ごく自然に楽しく振る舞って、みやげ話など をしているが、余程自信ある教育をしたのだろう。
 ああまた、あのいやな敗戦記念日がやって来る。絶望に髪をかきむしった日が……。(山梨県富士吉田 市)

 この投書に「深い感銘を受けた。」と、山中さんはその感銘の根拠を分析しています。そのポイント 部分を引用します。
 この僅か400字程度の短い文章にこめられた書き手の<思い>の深さ、重さといったものはなみなみな らぬものであろうと思われる。これは単なる自己批判を越えて、戦時下教師への鋭い告発となって  いる。
さらに当時の時代情況を俯瞰した上で次のように述べています。
 そうした情況から判断すれば、あの時期に「だれにも負けず、熱心に、軍国主義をやった……」こと は、ある意味では不可抗力であったともいえる。もちろん、投書者はそんな弁解などしていない。そし て敗戦の折に教職を辞そうと思いながら、それが出来なかった自分、つまり自分なりに責任をとれなか った点をあげ、更に「過ちを犯した教育に『時効』はない」と結論している。まさにその通りなのであ る。教育という営為は、特に初等教育は取りもどしがきかないのである。その意味で、当然、気楽に同 窓会に出席する教師たちに言及せざるを得なくなる。  この投書者は、教育というおとなの営為のもたらす恐しさを知っている。特に戦時下の教育が<教 育>と呼ぶには余りにも非教育的でおぞましいものであったこと、それに積極的に手をかしてしまった ことを「過ち」として主体的に把握しているのである。

 過去の自らの過ちに墨を塗っただけで済ますことができずに、その過ちと真摯に対峙している姿勢を 評価しています。そして山中さんは、この投書に対して<教え子の同級会>に出席する教師の側から反論や弁明 が出てくるであろうと予想していました。山中さんの「予想通り、四日後の8月19日の読売新聞に、神 奈川県藤沢市に在住の五一才の元教師の主婦による、つぎの投書が掲載」されました。
 軍国主義教育をした自責の念から、三十年ぶりの同級会に欠席したという元教員の「過ちに時効はな い」という投書を拝見して胸が痛みました。私も正にその一人だったからです。
 生徒と共に歴代天皇名を斉唱中、放送をきくようにとの紙片が回ってきて、歴史の授業を終えるや玉 音を聞きましたが、戻ってきたクラスで、まだ「百万人といえどもわれ行かん」と女だてらに意気まい てしまったのです。今考えれば、とても恥しく思いますが、しかし、あの当時の行為をだれが責め続け られるでしょうか。かえってそのような教育者の方が熱心に子供たちを導いていたのではないでしょう か。私も間もなく、自我に目覚めて、悔恨と共に真の意義を知り、教職から身を引きましたが、同窓会 の招待があれば、出来る限り出席しています。教え子たちにわびる機会でもあり、国家と個人とを考え るよい機会ともなるからです。
 こんなことから、より平和に対する認識を深め、より社会にも貢献しようと自覚し、励まし合えるか らです。いつまでも教師を責める教え子は一人だっていません。
 気持ちの転換はなかなか出来ないのは分かりますが、どうぞ識者や市井の声を糧とし、納得し、教え 子たちが失望しないようにお姿を見せてあげて下さい。今こそ教え子たちから教わる謙虚な気持ちで参 加して欲しいのです。

 山中さんは「皇国民の練成」という名の暴力教育をもろに受けた世代の一人です。それにもかかわらず 「ボクラ少国民」シリーズの論調には感情的になることを抑えて、できるだけ客観的に冷静に記述する 姿勢が窺えます。しかし上の投書に対しては、めずらしく感情をあらわにして怒りを爆発させています。 投書者の居直り・欺瞞・ウソを克明に分析しています。その居直り・欺瞞・ウソは「墨を塗った教師」の 第一のタイプの典型的な心性を表していると思われます。かなり長いのですがその部分の文章を全文引用し ます。「皇国民の練成」をもろに受けた人の怒り・無念を代弁する記述として、その怒り・無念を共有したいと 思います。
 正直なところ、こちらの投書を読んだときは、むかむかするほど腹が立ってきた。前の投書者の心情 を低い次元で捉えて、したり顔でお説教をぶったれている厚かましさに、文字通り唾棄したい気分にな った。「あの当時の行為をだれが責め続けられるでしょうか」などということを当事者本人の口から言い 出すに至っては、まさに笑止も甚しい。これはかなりたちの悪い居直りである。しかも、「かえってその ような教育者の方が熱心に子どもたちを導いたのではないでしょうか」に至っては、盗人たけだけしい 言い草である。
 あの<教育>というには、あまりにもおぞましい犯罪的営為を逆に高く評価しているの である。国民学校初等科一年生になったばかりの少女の防空頭巾がまがっているというだけで、一週間 もはれがひかないようなびんたをはった教師、他の学級ではやらないというのに其冬に上半身はだかに して町内一周のマラソンを毎日やらせた教師、奉安殿への最敬礼が粗略であると殴った上に足蹴にした 教師、授業中にポケットに手を入れたというので、用水桶の氷を割って、その中へ手をつっこませてお いた教師、こんな非人間的な例なら、それこそはいて捨てるほどある。
 はっきり言って、<ボクラ少国民>は彼等によって導かれたのではない。その恣意的暴力を伴う錬成 と称する体罰に怯えながら、唯唯諾諾と従わざるを得なかったのが本音である。それをなんの抵抗も なく「かえってそのような教育者の方が熱心に子どもたちを導いたのではないでしょうか」などと平気 で言える感覚には呆れてものが言えない。熱心にやりさえすれば、犯罪も許されるといったふうな論理 はなりたたない。だからこそ、前の投書者はその問題を「過ちを犯した教育に時効はないと思う」とこ だわり続けているのである。そうした本質的なところを見もせず、続けて「私も間もなく、自我に目覚 めて、悔恨と共に真の意義を知り、教職から身を引きましたが……」と述べているが、それすらも信じ 難くなってしまうのである。もしそれがこの文章の通りだとしたら、まちがっても前記のような言い草 が出て来るはずもない。
 そこまで疑ったら身も蓋もなくなるが、1945(昭和20)年8月15日は水曜日で、夏期錬成期間であり、 国民科国史は五年生以上の教科目であったが、当日はほとんどの学校で授業をしていなかった。一般 に高学年生は<田の草取り>とか<松根油採取>などといった勤労作業にかり出されていたはずである。
 それに、彼女は同窓会の招きには出来るだけ出席する、それは教え子たちにわびる機会でもある……と言っている が、そのことさえも悪意をこめて疑いたくなってしまうのである。仮にわびたとしても、酔っぱらいの 肩たたき的ななにわ節的なわび方でお茶をにごしたに相違あるまいなどと思ってしまうのである。「い つまでも教師を責める教え子は一人だっていません」などと、よくも言えたものである。一体、何を根 拠にこんなことを言い出すのだろう。 ぼく自身、満45歳になった今日でも、いまだに何かのはずみで、街のどこかでばったり顔を合わせる ようなことがあったら、実際に出来るかどうかは別として、ものも言わずに殴りつけてやりたいと思って いる教師がいる。
 それにしても、結びの文章のしたり顔のお説教には辟易させられる。「気持ちの転換はなかなか出来 ないのは分かりますが……」など親切ごかしに言っているが、実はこの人物、何もわかっていないから、 こんな後生楽が言えるのである。「今こそ教え子たちから教わる謙虚な気持ちで……」と、前の投書者に謙虚な気持ちがないかのよう な言い方をしている。こうした一見善意の倣岸不遜な押しつけには敵意以上のものを感じてしまう。
 ぼくがこの投書を読んで腹を立ててから数日後、<学童集団疎開>問題を追究し続けている佐々木直 剛から、この投書についての手紙をもらった。彼もまた、ぼくと同様に腹を立て、こうした人間がいる 限り、あの時期のことを刻明に記録し、告発すべきだと書いてきたが、まったく同感である。
 もちろん、ぼくは教え子たちの同級会に出席する教師たちをひとまとめにして非難しようなどとは思 ってもいない。ぼく自身、国民学校の同窓会に出席し、年老いたかつての恩師たちの涙を有難いと思っ た。教え子の肩をつかみ、何もいわずにぼろぼろ泣いていた恩師の姿は忘れられない。また、それを機会 になんどか個人的に恩師たちを訪問し、当時のことを取材させてもらった。個人的にはみんないい人た ちである。だがこういう人たちを、あの狂気の錬成にかり立てたものは何であったか、また何故に、それ をしてしまったのか……ぼくはその<過ち>は<過ち>として、明確にしておくべきだと思うのである。

 いまでも大方の教員は「個人的にはみんないい人たち」です。しかし「いい人」というだけでは 現在の危機的な状況に立ち向かえないでしょう。教師たちの過去の過ちから学ぶべきことは 多々あると思います。



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236 教師の戦争責任(6)
教育学者と教師の身の処し方の違い
2005年4月8日(金)



 「墨塗りをした教師たち」の次は「墨塗りをしなかった教師たち」、つまり敗戦のときに教壇を 去った教師たちに焦点をあててみたいのですが、その前に教育学者のことに触れておきます。

 長浜功さんの著書「教育の戦争責任」は教育学者の戦争責任の取り方、というより取らなさ方 を個人名を挙げて、一人一人について克明に追求しています。それぞれ著名な教育学者です。 いずれ詳しく紹介する予定です。
 「日本ファシズム教師論」はその続編で「第四章 教育における戦争協力の論理と倫理」では教師の 戦争責任の取り方あるいは取らなさ方を、ここでも個人名を明らかにして論じています。その人たちは これまでの人たちとは違い、それぞれ自らの著作物をもつ当時のオピニオンリーダー的役割を果たして いた人たちです。(「日本ファシズム教師論」の論述には部分的に多少異論があるのですが、この稿では それはおきます。)

 私は上の文で教育学者の場合は「戦争責任の取り方、というより取らなさ方」と言い、教師の場合は 「戦争責任の取り方あるいは取らなさ方」と微妙に違った言い方をしました。教育学者の中には戦争責任 とまともに対峙したものが皆無だったと言うことです。このことに関して上提の 「第四章」のはしがきを読んでみます。

 長浜さんは「教育の戦争責任」で「国民学校の教師たちが悶々と、戦争責任者としての自分 の立場に悩みをかかえているとき、教育学者たちは平然と教壇に返り咲いていった。」と書いています。 「第四章」で教師の戦争責任を論述するに当たり「このことを避けて論述することはできない。どうして も触れていかなくてはなるまい」とし、本論に入る前に、この教育学者と教師の身の処し方の違いを、 悩み方の違い、研究室と教室という場の違い、返り咲き方の違い、の3点で論じています。
このはしがきを私は、現在「君が代・日の丸」の強制で踏み絵を強いられている教師たちと この事について口をつぐんでいる学者たちをオーバーラップして読みました。要約して紹介します。
 第一の悩み方のちがいについて、結論からいえば質的にも量(人数)的にも、教育学者と比べて、 教師たちのほうが深く傷つき、深刻に悩んだ、と いっていい。戦争賛美の論文をものした教育学者がほとんど戦後またぞろ教育界に、なんの自己 批判もなしに復帰して大活躍″したのに比べ、教師たちのなかには自らの戦争協力を痛烈に反省 し、責任をとって野におりた人間がかなりいる。むろん、量的にいえば居残りが圧倒的に多かった けれども、教育学者の百%の復帰からみれば、明らかに教師の反応は良心的だったということがで きる。(後略)

 第二の研究室と教室のちがいについていえば、(中略)教師は受け持っているこどもの生命を 預っている。こどもが喧嘩で怪我でも しようものなら、教師は名指しで非難される。学校での事故も同様だ。ところが研究室の論文は責任 の形が具体的ではない。侵略戦争を聖戦といっても、教師が親から責められるような形で批判されな い。とりわけわが国ではそうだ。杉靖三郎のように、空腹はかえって頭をよくするなどとのたまわっ ても、責任を追及されない。そうした責任追及の差が両者の差異である。本当なら、これは逆になら なければならないのだ。研究室で無責任なことを言ったり書いたりしたやつがなんの批判も受けず、 彼らの参画した教科書を使って教えた教師が非難を浴びるのは、どう考えても順序が逆だと、わたし は思う。

 第三の返り咲きのちがいについてであるが、これもまた実に対比的である。学者たちは時流にあわ せて、戦後民主主義の潮流に乗り移ったけれども、教師たちはそうはゆかなかった。学者は自分の書 いた本を庭で焼き捨てればよかったが、教師たちは昨日まで神聖無比と教えてきた教科書に墨をぬら せなければならなかった。教師たちには己れの良心に目をとざしていても、それを責めるこどもの目 があった。しかるに教育学者たちときたら、己れの良心を押し殺しておけば、誰も責めるものはいな かったのである。かくして学者は平然と復帰をし、良心的な教師であればあるだけ、教壇から身を遠 ざける結果を招いた。(後略)

 以上、みてきたような点からいってもなお、わたしは教師の戦争責任の所在を掘り下げてゆく必要 性を痛感する。学者と比べればその比重は、はるかに軽いといえるかもしれないが、しかし教師とい うものが、人間の生命を預かる固有の仕事である限り、歴史のなかで果たすべきこと、為すべきこと およびそれとはまったく反対の極としての犯罪と誤謬について学ぶことは重要である。その意味から いって、戦争中に果たした教師の仕事についての反省は、単純に割り切ることのできる問題ではない としても、先ず、この問題に取り組むということから、始まるのだと思う。

 次回は「墨塗りをしなかった教師たち」を取り上げてみます。



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237 教師の戦争責任(7)
墨塗りをしなかった教師たち(1)
2005年4月9日(土)



 「日本ファシズム教師論」の「第四章 教育における戦争協力の論理と倫理」を読んでいきます。
 まず、岩手の辺地で教師をしていた一条ふみという方の日記「淡き綿飴のために」からの引用文を 掲載します。1945年8月17日、敗戦からわずか二日後の記述です。
 「ね、先生。やっぱり辞職すべきでしょう。私、そう思うわ。だって責任というものがあるでしょう。 今まで子どもたちに押し付けるようにやってきた教育が、根こそぎひっくり返されて、全然別のものを、 同じ教育者である自分がそのまま子どもたちに与える……。そんなこと、とても私にはできない……。 良心の呵責にとても耐えられないわ……」
 「そうね、たみ子先生の考え方にも賛成。たしかにその通りよ。現在までにやってきた教育に責任を もつべきだと思うけど……。ただそのことにだけ責任を感じて辞職するということが、果たして許され るものかどうか。自分はそれで割り切れるかも知れないけど、子どもたちはどうなることかしら……」
 「子どもたちのことを考えていたならば、いつまでたっても辞職なんて、できゃしないじゃないの。 これはあくまで自分自身の責任の問題じゃないかしら。自分が、現在までのことについて責任をとると いう……」
 「責任というものは、それは自分自身がとるべきものなのよ。でも、今この敗戦という惨めすぎる現 実に遭遇して、現在までの教育に責任を感じて辞職しても、それで責任をとったとは言い切れないと思 うの。相手は日々成長していく子どもたちよ。その子どもたちを投げ出してしまったことにもなると思 うわ、自分たちの現在までにやってきた教育という仕事に責任を感じて、その責任をとるためにも、今 後子どもたちを見守っていくべき重大な責任があるとも言えると思うのだけれども」
 「そういう責任のとり方もあると思うわ。でも私は、自分という人間が生きていく過程の一つの段階 としての区切りをつけたくなっちゃったのよ。つまり自己の内部問題……」
  「そう。それは誰でもおんなじだと思うわ。自己の内部の転換を迫られることにおいては教師はみ んな逃げられないのよ。絶対、ということはありえないなどと言ったりしたけど、敗戦国となった今、 もうどんな人でも絶対だと思うわ。その間題を考える個人個人の差によって、責任の感じ方もずいぶん 違ってくると思うの。それは、現在までの生き方につながっていると思うわ。真剣に毎日を生き抜いた 者ほど、責任を強く感じるのは当然だと思うけど……」

 女教師の中にも「股を開け、歯を食いしばれ」と言ってピンタを張ったものもいたそうですが、 この会話の二人はそんな暴力とは無縁の人でしょう。むしろ児童たちに慕われるような教師だと 思います。
 軍国主義教育下にあってもどちらかと言えば良心的だった教師が真摯に自らの進退の是非を 悩んでいます。ただし、敗戦後二日のことでないものねだりになりますが、個人的な内部問題の みの議論で、責任の核心の議論がありません。つまり教育そのもの、これまで信奉してきた教育 内容や方法への反省・批判、さらにそれに取り込まれてしまった自らの思想との対峙という踏 み込みがありません。
 辞職という責任をとることは逆にこどもへの責任放棄ではないかという議論に対する長浜 さんの意見は辛らつです。
 このことに関するわたしのコメントは簡潔である。日く、そんなことはない。戦時下の教育は 惨憺たるものだった。勤労動員で授業がまったく停止したこともある。 しかし彼らは育った。いまの日本を支えているのがこの世代である。現代社会の評価はともかくとし て、へたな教育など行われないほうがいいのだ。いまでも、いやがるこどもを大学だけは、高校だけ は行けと強制的に送る親が多いが、そういう教育″のなかで、こども・青年はどれだけ歪められて いるかわからない。右も左もわからず、ただひたすらお上のいいなりにしかやれない教師は一人残ら ず教壇から消えてしまったほうが、こどものためになるのである。

 上記の会話では辞職に否定的だった一条ふみさんは結局はこの年の12月に「まるで私の魂は宙に浮い ているわ。とてもこのままでは、自分が失われてしまい、子どもたちに何もしてやれないことに気づい たのよ」と同僚に告げて教壇を去ります。その日の日記に
 「国民をここまで引きずってきた巨大な権力機構の責任などというものの存在とは、まったく別に、 私は、子どもたちに対して、自分自身の今迄の生き方に対して、深い責任をはっきりと感じとめていた」
と書きとめています。
 その後は岩手で民衆の文化運動の記録という活躍を続けたと言うことです。



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238 教師の戦争責任(8)
墨塗りをしなかった教師たち(2)
2005年4月10日(日)



 長浜さんが次に取り上げたのは「ある教師の昭和史」という著書をもつ荻野末という人です。
 まず荻野氏が「墨を塗らなかった」いきさつはこうです。
 敗戦のとき、荻野は国民学校から青年学校に転じていて、川崎の軍需工場内の教育課長をつとめて いた。だから敗戦と同時に工場も閉鎖となり、彼は失業する。この前後、彼には戦争責任の自覚は生 まれていない。
 しかしやがて教師として復職し、新しく戦後教育を「おのれの良心をかけ」て実践する中で 「戦争責任の自己追求」がなされていきます。
 荻野は、しかし、自分の戦争責任をやや抽象的ながらも自己の責任に据え、これと正面から向きあ った数少ない教師の一人であったことは疑いようのない事実である。彼の教師としての戦争責任に関 する結論はこうである。「たんに戦場へ送ったというだけではなく、あの子どもたちの、あの頑強な、 とりかえしのつかない天皇制意識を、かれらのなかにつくった教育というもの、その太い綱の端を、 教師として力強く振っていたのだという犯罪行為が、二重にさばかれなければならないのだというこ とを思い知らされたのです」
 長浜さんは荻野氏の著書を「戦争責任の自己追求」という点で脱帽に値すると評しています。

 ところで荻野氏が再び教師の道を選んだ動機を長浜さんは二つ読み取っています。
 ひとつは散歩の途中、写生会に出てきていたかつての同僚と思いがけなく出会って、その女教師から こういわれる。「先生! 先生は小学校へおかえりにならないのですか、これからはきっと、学校も おもしろくなると思うの……」この一言は荻野をかなりゆきぶる。そのときに彼はたとえ「おもしろ くなくってもいい、もう一度子どもを教えたい」と決心をかためる。
 いまひとつは憲法と「新教育指針」である。これを目にしたときのことを荻野はつぎのように述べ ている。
 憲法と「新教育指針」に対する 荻野氏の驚き・感動・憧れの文が続きますが、略します。

 この二つ目の動機について長浜さんは次のように論述しています。現在「君が代・日の丸」の強制に どう対応すべかという問題とも重なる内容なので全文引用します。
 ところで、この荻野の教壇復帰について、わたしは一点、問題点を指摘しておきたい。それは荻野 の教壇返り咲きが、憲法と教育指針を読んだからだとしている点である。逆にいえば、それでは憲法 や教育指針というものがなければどうだったのか、という疑問が生じてくるのである。もっといやみ な言い方をすれば、これは教育における杜子春ではないか、と思うのである。金のあるときだけいい 寄るのは真の友人ではあるまい。状況が悪ければなおそれだけ、その状況をかえるための思想と人間 が必要なのだ。仮に憲法が改悪されたとして、そこで辞職する教師が出るとしよう。また教職にとど まる人も出てこよう。そのさい、どちらが正しいかということになると、早急な結論は出せない。し かし、こういうことだけはいえるであろう。辞職するのも抵抗の一つだが、踏みとどまるというのも一 種の抵抗になるだろう、ということである。というのは現実問題として辞職する人はごく少数に限ら れる。ふみとどまった人のなかには甲羅のないカニみたいな無思想の木偶がかなりいるだろう。そう なると教壇はそういった連中にふりまわされることになる。「歯をくいしばれ、股開け」としかいえ ない教師ばかりになったら教育界は暗闇である。こどもにとっての救いもなくなる。こういう事態は 極力、避けなければならない。
 さらに、もうひとつのことをいっておく必要がある。それは教育の自主性ということである。憲法 がどう、教育基本法がこういっているから教育が存在する、というのでなく、こどもの生命を預かり、 彼らの人権を守るという点に、教師の独自性が存在するのであって、憲法や教育基本法はそのための ひとつの示唆でしかない、ということである。
 生命と人権のまえでは憲法や教基法もただの文言でしかない。荻野は教壇への返り咲きを、こうし たものに求めたが、たとえ憲法や教基法がどうあっても、自分はこういう教育をやるのだ、という決 意が本来なら先行しなければならないのである。



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239 教師の戦争責任(9)
墨塗りをしなかった教師たち(3)
2005年4月11日(月)



  一条ふみ、荻野末に次いで金沢嘉市、黒沼光翁、鈴木源輔、東井義雄、林進治、とそれなりに有名な 人たちの戦前・戦後の検証が続きますが、いわゆる「墨塗りをしなかった教師」ではないのでこの稿では 割愛します。
 さて、「墨塗りをしなかった教師」で、そのまま黙って身を引いていった教師も少なくないだろうと 思います。その人たちは「黙って身を引いた」ので自ら書いたものを残していません。その人とたまた ま縁があった人が書きとめたものが残っている場合しか知るよすがはありません。そのような人たち についての断片を「第四章」から拾い出してみます。
 「もう、ぼくのやる教育は終った。まちがったことを教えたとは思わないが、これからの教壇に立 つことはできない」(金沢嘉市『ある小学校長の回想』)と、戦時下の教育を肯定したまま、田舎に 帰っていった丹葉節郎のような教師。

 「終戦と同時に、今まで最も嫌った個人主義、自由主義が、もっとも正しい生き方の基本となったの だから、一八〇度なんていうものでない転換だったからね。殊に私などは、全体主義にこり固ったも のだったから、ついてゆけないものがあったし、すでに戦のために死んだ男らのことを思うと、なん と申訳してよいか判らなかった」(菊地利助の発言『小松小学校百周年記念誌』)といって、辞表を 出した教師。

 次の引用文は、敗戦直後自らの責任をとって辞職した野路当作という方の述懐です。野路さんは 罪亡ぼしと生活のために日雇いをやって生活をしのいだと言います。
 周辺をみるや「軍国教育に指揮刀を鳴らして狂奔した同年輩の教師たちが、敗戦となるとその日から 学校の看板を塗替えて、平和国家文化国家建設の先達に納まり、追放された者でさえ、解除後は悠々 と高い地位に舞戻り、今や功成り名遂げて莫大な退職金と恩給とに豪勢な老後」(「前途は明るい」『世 界』昭和33年8月号)を送っている連中をみる。そしていう。「あえて自分を戦犯者の一人なりと決め つけ、余りにも世間を知らず浪曲的な仁義にかたまって、愛と真実一点張りで教壇生活を棄去った私 は、退職金もその当時封鎖で二百円、恩給も彼等の何分の一。彼と言い此と言い、考えれば考えるほ ど、責任をとることのみに燃えていた私は、結局バカ正直の素ッ裸を新しい太陽の下で、見せつけら れた」。

 この野路さんの生き方について、長浜さんは次のようにコメントしています。
 道理を貫くことが人間の行為のなかでどんなに崇高なことか、という価値観をもたない人間は野路 当作をあざ笑うだけであろう。そしてまた道理を貫くことの大切さを教え得るのもまた教育の場にお いてであろう。わたしが教育の戦争責任を考えるうえで「辞職」にこだわるのは、教師は正義や道理 を観念のうえだけで教えてはならない、と思うからであり、こどもたちもまた観念だけの教授によっ ては正しい意味で人間を大切にするということを学びはしないと思うからである。

 「教師は正義や道理を観念のうえだけで教えてはならない」という指摘を、私は「君が代・日の丸の強制」問題に 引きつけて読まざるを得ません。思想・良心・表現などの自由だって「観念の上だけで教えてはならない」 と思います。

 次の例は本多顕彰著『指導者』からの孫引きです。長浜さんのコメントがあるので合わせて掲載します。
 私は、終戦直後に配給所で会った山の小学校の先生のことをいまはっきり思い出す。
 その先生は、私がだれであるかを知ると、それまでしていた雑談をやめて、私にむきなおり、 「私は学校をこの夏休みかぎりやめます。私は、いままで教えてきたことが、全部ちがっていた、 と、いまさら児童たちにいえませんから」といった。彼は、学校をやめて百姓になり、二度と人 を教えるような言葉は口にしないといった。私はだまってうなずいただけだったが、心の中では、 ひどく感動した。私はこの本を読むひとが、もしも、小・中学校の先生のなかにいたら、このくだ りを日教組の総会の席上で朗読していただきたいと思う。
 本多顕彰が辞職する教師に感動を覚え、それを日教組に伝えようとしたのは、上にあげたいく つかの例ような姿勢が日本の教師たちに欠如していたからである。いや、もっと正確にいえは、 教壇を降りていった人間に心の支援を送るどころか、バカなやつだ、ソンなことをしおって、と いう反応の方が多かったのである。

 くり返しになるが、しかし、それにつけても身を挺してこどもに、そのことを示そうとした教師は あまりにも希少であった。それを見送る教師もまた、その意味と価値を己れに刻みこもうとはしなか った。そのことが日本の教育の不幸をもたらす遠因となった。
 教壇に居残った教師たちには、二つの型があった。ひとつは、辞めるべきだが残るという型である。 いまひとつは、やめるべきではないから残るという型である。結果の形は同じだが、両者は本質にお いてはかなりの差がある。そして、この両者が戦後日本の教育を実質的に担ってきたのであるから、 このふたつの差異を論じることは価値のないことではない。

 「日本ファシズム教師論」は1981年の出版です。長浜さんはそのとき既に日本の教育の状況を 「不幸」な状況と認識していたことになります。そしてその不幸の遠因は教育の戦争責任を曖昧 にやり過ごしてしまったことにあると言っています。

 「教壇に居残った教師たち」の「二つの型」についての論述は「第四章 戦争責任の論理と倫理」の まとめに当たります。次回はそれを読みます。



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240 教師の戦争責任(10)
墨塗りをした教師たち再論・二つのタイプ
2005年4月12日(火)



 「第235回」(4月7日)で次のように書きました。『「墨を塗った教師」のその後の生き方は三つの タイプに分類できそうです。「A先生」と「おっかない校長」の二つのタイプと、今回はその三つ目 です。』その三つ目のタイプの代表は「過ちを犯した教育者に時効はない」を書いた百武福寿さんで した。
 長浜さんの分類に当てはめると「A先生」は第一のタイプで「おっかない校長」は第二のタイプに 当たります。この二つのタイプについての長浜さんの論述を読みます。
タイプ1:「辞めるべきだが残る」型=出直し型
 やめるべきであるが残る ― という論理はその前提として、戦争責任の自覚 がある、ということである。それを踏まえたうえで「民主教育」をやっていこうという、いわば出直 しの思想をそこにみることができる。しかし、荻野未・金沢嘉一などのように、その出直しの思想は 教育基本法や新教育指針といったものに拠る出直しであって、己れの思想から出発したものではない。 教育界においては、たとえば荒正人が戦後間もなく叫んだような「戦後の世代は、正直のところ他か ら(それがどんな権威であるにせよ)教えられることに飽いているのだ。また、だまされたくはないぞ、 という心理なのだ」(「二十代の不信」『中央公論』昭和22年12月号)といった徹底さはみられない。
 東井義雄が十幾年の沈黙を破って教育界に名乗りをあげたとき、友人の国分一太郎が東井のその著 『村を育てる学力』に序文を寄せ、つぎのように述べた。「そこで東井さん。私もあなたも弱かった のだ。弱いものはあやまりやすいのだ。しかし、あやまりだったと知ったとき、教師たるものが悔い 改める道はどこにあろう。いま目の前にいる子どもに正しく新しく奉仕する以外に、ほかの道はない のではないか」。
 この論理はこの型をすべて包摂しているが、問題は「正しく」奉仕する基準をどうつくっていくか、 ということであって、「目の前にいる子ども」に奉仕することを先行させている国分一太郎の認識で ある。「弱いものはあやまりやすい」といういい方も問題とすべきであろう。教師を弱いものの側に 位置づけたなら、こどもはどういう場に位置づけるのだろう。戦時下、教師たちはまったく無抵抗の こどもに鉄拳と制裁の嵐を加えたのである。そういう立場を「弱いもの」と規定する論理はまさに傲慢 不遜であり、そういう認識にしか立てない人間が、どうして「正しい」方法を身につけることがで きよう。この出直しの型は表面的にはわかりやすく、きこえはいいが、その内実は右のようなもの だったのである。

 このタイプの教師について問題点が二つ指摘されています。
 一つは教育の内容や方法を「己れの思想から」考えるのではなく「教育基本法や新教育指針とい ったものに拠る」ことです。これは「民主主義」を接ぎ木しただけなのでその「民主主義」が他の 何かに容易に変わってしまう危うさを引きずっています。「君が代・日も丸の強制」に屈服した ある学校の教頭が「私は今まで間違っていた。」と言い、卒業式で大声で君が代を歌った という話を確か『良心的「日の丸・君が代」拒否』で読みました。
 二つ目は教育を営む根拠を「いま目の前にいる子ども」だけに限定してしまう危うさです。 この考え方は批判的に「二十坪の論理」と言われています。かなり以前から論じられていることがらで、 私も30年以上も前にこの問題について文章を書いたことを思い出しました。探し出して読み返してみま した。少し気負いすぎが鼻につきますが、基本的なところでは考えは変わっていません。(要するに 進歩していないということです。)これまで長浜さんの論考をたどるだけで私自身の考えをほとんど 述べていませんので、もう30年以上も前の文章ですが、加筆訂正をしないでそのまま次回から掲載す る予定です。

 タイプ2:「やめるべきではないから残る」型=居直り型
 この教師たちの最大の特徴は命令があればどんなことでもやる、ということである。さらにいえば 国や校長のいうことには絶対服従で、こどもに対しては絶対支配権をふりかざす、もっとも悪質なタ イプである。量的にいえば、この型がもっとも多かったのだから、考えてみればおそろしい話である。
 いまひとつこの型の特徴は記録に乏しい、ということである。沈黙を守り通しているのである。自 己批判をさけているのだから、あたりまえといえばあたりまえだが、たとえば鈴木源輔に至っては 『戦時国民教育の実践』(昭和17年)から『民主教育の実践』(昭和21年)の間には無気味な沈黙が 横たわっている。思想の決算と新たな形成には苦悩と葛藤が不可欠だが、このタイプはそれらを経験 しない。そういう無節操な人間がこどもに接するのである。こどもがどんなふうに育っていくかは 予想がつく。思想のない人間ほど、上から操られても走狗であることを自覚しないし、そういう人間 ほど、こどもに悪い影響を与えるものである。

 敗戦時にどう身を処したのかという特殊条件をはずして一般化しても、上の二つのタイプは 教員の類型として有効だと思います。私が教員だった頃と変わりがなければ、まことに残念なが ら、現在の教員構成もこの第二のタイプが多数派だと推測できます。はからずも「君が代・日の丸の 強制」がそのことを証明しています。特に管理職に限れば、もうほとんど全員といってよいでしょう。 今は管理職を目指すのはこういうタイプの教員だけだといったらよいでしょうか。あるいはこういう タイプの教員しか管理職試験に合格しないシステムになっているといったらよいでしょうか。
 「自己の内部の世界を現実とぶつけ、検討し、理論化してゆく過程」 とその逆過程をたゆみなく歩んでいる 第三のタイプの教員たち(「第42回・2004年9月25日」を参照してください。)に期待するほかありま せん。しかし、第三のタイプを加えてその構成比は3:6:1ぐらいでしょうか。私の教員体験だけを 根拠のあまり当てにならない勝手な推量ですが、一抹の寂しさを感じています。
 なんども繰り返し言ってきましたが、教育に限らず全ての面で「戦争責任」をあいまいにして敗戦 をやり過ごしてしまったツケがいま露呈してきたのです。



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