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213 国民学校の教科書より(1)
巧妙な刷り込みの手口
2005年3月16日(水)



 私が教員をしている頃の卒業式はまだ日の丸も君が代もありませんでした。しかし私の勤務校の それは旧態然とした形式的なものでした。それを批判して私は次のような文を含む文書を書いて 同僚に配りました。

 「今の私たちの学校の儀式も褒められたものではない。「一同、礼」で始まり、「一同、礼」で終る。 首尾一貫して、ただただ緊張ばかりを強いる。新入生や卒業生が主人公とはたてまえばかりで、 半世紀前のままではないか。あと「君が代・日の丸」があればもうほとんど半世紀前と同じである。 形式ばかりの事大主義が得意顔で号令をしている。」(「第2回・2004年8月16日」にも掲載しました。)

 このあと数年で「日の丸・君が代」が強制されるようになり、半世紀前とほとんど変わらぬ 卒業式になってしまったのです。

 「心のノート」や音楽の教科書に「伝統文化の尊重、国民としての自覚」を刷り込むための 教材が盛り込まれて、教育現場を大手を振ってまかり通っています。「道徳を考えさせることや自然をめ でる歌を歌うことに何の問題があるの?」と思う人が、たぶん圧倒的多数でしょう。
 しかし私は上記の儀式に対して持ったと同じような懸念を教科書や副読本にも持っています。 「伝統文化の尊重」とか「国民としての自覚」とか「美しい日本語」とかを強調している連中は、 誰もが異議を挿しはさみそうもないものから始めて、そのあとに何を付け加えようとしているのでしょうか 。
明カルイ タノシイ 春ガ来マシタ。
日本ハ、春夏秋冬ノ ナガメノ美シイ國デス。
山ヤ川ヤ海ノ キレイナ國デス。
コノ ヨイ國ニ、私タチハ 生マレマシタ。
オトウサンモ、オカアサンモ、コノ國ニ オ生マレニナリマシタ。
オジイサンモ、オバアサンモ、コノ國ニ オ生マレニナリマシタ。

 季節・風物の賛美と、その地で連綿と営まれてきた家族のつながりと生活。とても幸せな気持ち になる文章じゃないか。なに文句があるの?
 自然は美しいばかりではない、地震や洪水やひでりで人に悲惨をもたらす事もある。それにどの家族に もいろいろと複雑な事情があり、そんなに幸せとは限るまい。なぞとまぜっ返してもせんかたありません。
 まだ白紙のような子どもの心には確実に肯定的な同意を刷り込むでしょう。そして上の文に唐突に次のような 詩もどきが続きます。子どもの心をさらっとさらっていきます。何処へ?
日本ヨイ國、キヨイ國。
世界ニ 一ッノ 神ノ國。
日本ヨイ國、強イ國。
世界ニ カガヤク エライ國。


 なお蛇足ながら、前半の「國」は「社会・国土・故郷」ですが、後半の「國」は「国家」である ことに注意したいと思います。

 杞憂に過ぎるでしょうか。しかし「つくる会」の教科書は戦前回帰を果たしていますし、 「心のノート」の徳目は戦前の「修身」とほとんど同じだということです。音楽の教科書について は「第208回〜第211回」でみた通りです。国語の教科書についてはどうなのでしょうか。

 上記の引用文は国民学校2年生用修身の教科書「ヨイコドモ・下」からのものです。
 しばらく国民学校の教科書にこだわってみようと思います。参考資料は山中恒著「ボクラ少国民第2部・御民ワレ」(辺境社) と入江曜子著「日本が『神の国』だった時代」です。以後それぞれ「御民われ」「神の国」と略称 します。


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214 国民学校の教科書より(2)
全教科総動員しての狂気
2005年3月17日(木)



 現実に目にしている自然を楽しむことと唱歌や教科書などがことさらに取り上げる自然とは 千里の径庭があります。唱歌や教科書が自然や風景の素晴らしさをめでるとき、その裏面にある 汚さ・過酷さ・悲惨さを取捨した上で何かしらの心情をそれに託します。その心情は自然への 共鳴共感でしょうか、没我没入への希求でしょうか、望郷の念でしょうか、あるいは共同性 への帰順でしょうか。ときにはその心情はナショナリズムとして暴威を振るいます。
 そういう意味で唱歌や教科書の自然や風景は現実に目にしているものとは違う虚構です。ことさら 言挙げして他国との差異を自慢するほどのことではないでしょう。ましてや「神の国」は児戯にも 等しいまがいものです。こんなものを本当に信じるあるいは信じたがる精神は未成熟な精神という べきでしょう。今大きな顔をしだしている保守反動は未成熟の謂いです。

 このことに関連して、次のような文章が目に留まりました。記録しておきます。
自分の国を凡そ不自然な具合に見て機会に恵まれなければそのことに気付きさへもしないでゐるのは それだけの空白が精神の世界に出来ることで自分の国と言つてもそれは結局は自分の周囲と同じなの であるからその不自然が一切を歪めずにはゐない。かういふ歪みには何か病的なものがあつてこれを 修正する試みにも病的に作用し、かういふことになつてからのさうした企てでは目星い所で神国日本 の説が行はれた。日本が他の国並に世界の一国であるのと反対にその国々の中でも特殊なものだとい ふのである。日本といふのがないのも同然の国だとするのも不自然であるが又とない大変なものであ る積りでゐるのも不自然であることに変りはない。さういふことになればどこの国も二つとないもの で特殊な点を探せば幾らでも出て来る。
(「ユリイカ1973年12月号」所収・吉田健一「覚書」より)

 さて、「御民われ」では「修身」以外の教科書の狂いぶりを紹介しています。まず『初等科地理・下』から。
 もともと、わが国は神のお生みになった尊い神国で、遠い昔から開けて来たばかりでなく、 今日も、こののちも、天地とともにきはまりなく、栄えて行く国がらであります。これまで、外国の あなどりを受けたこと一度もありません。遠い昔はいふまでもなく、近くは日清・日露の両戦役に よって、国威を海外に輝かし、更に満洲事変・支那事変から、大東亜戦争が起るに及んで、いよいよ その偉大なカを全世界に知らせることができました。

 「つくる会」の教科書もこんな調子です。日本の歴史を神話から始めています。少し紹介します。 (「子ども教科書全国ネット21」のパンフから)
(歴史p.62)
「天照大神とスサノオの命」
 そこで神々は策を考え、祭りを初め、常世の長鳴き鳥を鳴かせる。アメノウズメの命が、 乳房をかき出して踊り、腰の衣のひもを陰部までおしさげたものだから、八百万の神々 はどっと大笑い。

 歴史を神話から始めるデタラメさもさることながら、中学生になぜ「アメノウズメの命」なのか、 その意図をはかりかねます。これが強調したい「日本の伝統文化」なのでしょうか。
 また躍起になって戦争を正当化し賛美しています。
(歴史p.216)
 日本に向けて大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。当時、朝鮮半島が日本に敵対的 な大国の支配下に入れば、日本を攻撃する恰好の基地となり、後背地をもたない島国の日本は、自国 の防衛が困難となると考えられていた。

(歴史p.276)
『大東亜戦争(太平洋戦争)』
 自転車に乗った銀輪部隊を先頭に、日本軍はジャングルとゴム林の間を縫って‥快進撃‥わずか70 日でシンガポールを陥落させ、ついに日本はイギリスの東南アジア支配を崩した。

(歴史p.282)
 これらの地域では、戦前より独立に向けた動きがあったが、その中で日本軍の南方進出は、アジア 諸国が独立を早める一つのきっかけともなった。

(歴史p.278)
 アツツ島では、わずか2000名の日本軍守備隊が2万の米軍を相手に一歩も引かず、弾丸や米の 補給が途絶えても抵抗を続け、玉砕していった。

(歴史p.279)
 沖縄では、鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女までが勇敢に戦って、一般住民約9万 4000人が生命を失い、10万人近い兵士が戦死した。

 国定教科書の方に戻ります。『初等科理科三』です。
 戦争ヲスルニハ、軍艦・鉄砲・大砲・戦車・飛行機・弾ナドガイル。コレラヲ作ルニハ、イロ ィロナ種類ノ金物ガ必要デアル。私タチハ、イツモ氣ヲツケテヰテ、金物ヲムダナク使ヒ、少シデ モ捨テナイデオイテ役ニタテヨウ。

 次は『初等科算数・五』です・
神武天皇が、即位ノ礼ヲオアゲニナツタ年ガ紀元元年デアル。今年ハ紀元何年カ。
紀元千九百四十一年二、元の大軍ガオシヨセテ来タガ、ワガ国ハ、ミゴトニコレヲ撃チ破ッタ。 ソレカラ六百十三年後ニ、ワガ国ハ清卜戦ヒ、マタ十年タッテ、「ロシヤ」ト戦ツタ。ドチラモ、 ワガ国ノ大勝利デアッタ。昭和十六年十二月八日ニ、米・英ニ対スル宣戦ノ大詔ガクダサレタ。
コレラノ戦争ノオコッタ年ハ、ソレゾレ紀元何年デアルカ。

 山中さんは次のように述懐しています。
 どう考えても、この徹底ぶりは異常としか言いようがない。敢えて言えば狂気ある。しかし、 ぼくらはそれを狂気とは思わなかった。疑うには幼なすぎた。それが当然あるべき姿だと教え られれば、そうかと思った。そして、ひたすら、この狂気をまともに学ばされてしまったのである。

 集団狂気です。オウムの狂気と同質の宗教的な集団狂気です。いままたその集団狂気が蔓延し つつあります。大日本帝国時代のように、やがてその中で醒め続けるものが受難する最悪の状況 になるのではないかと懸念します。


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215 国民学校の教科書より(3)
皇国民練成の洗礼を受けた世代
2005年3月18日(金)



国民学校令は1941年3月1日に公布され4月1日より発効しました。その第1条に曰く。

国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的練成ヲ為スヲ以テ目的トス

 この皇国民の練成という目的にそって編成されたのが「第五期国定教科書」です。この教科書は 1946年3月まで使用されました。

 「神の国」で入江さんが次のような指摘をしています。
 1999年:「国旗国歌法」の制定、2000年:森首相の「日本は天皇を中心とした神の国」の発言、 2001年:「新しい歴史教科書をつくる会」による中学校の歴史教科書が検定に合格、などをあげて
 このような一連の国粋主義的、時代錯誤的な状況がつくりだされて、日本国内はもとよりアジアの 人々に衝撃をあたえている。日本の保守層が悲願としながら半世紀にわたって躊躇していたこ れらの情念が、今、つぎつぎと表出する背景には、ひとつの際立った共通点がみられる。
 それは人生の最初の学校教育を「皇民教育」という超国家主義イデオロギーにより、白紙の 魂に「刷り込まれた」世代、特に太平洋戦争がはじまる1941(昭和16)年の4月から1945(昭和20) 年までに国民学校で学んだ世代が、社会の中枢を占めはじめたことであろう。
 ちなみに小渕恵三元首相と森喜朗前首相が1937(昭和12)年生まれ、「新しい歴史教科書を つくる会」の代表であり執筆者である西尾幹二氏が1935(昭和10)年生まれである。

 少年時代に刷り込まれたものをそのまま引きずって人生の終点近くまで来てしまった人たちです。 私が彼らを未成熟という所以です。またこのことが第五期国定教科書を検証する意義 でもあります。

 さて、「御民われ」では第五期国定教科書の国語の全教科書の全教材を詳細に分析しています。そして 、「教育問題や教科書問題などについて論じられる場合、引用材料として比較的頻度数の高いもの、及び 如何にも軍国主義的な意図の露骨なものをひろいあげ」ています。
 教科書監修官だった井上赴という男が、国語の教科書は「上級に進むに従って文学 でなければならぬ」と言っているそうです。そして東京都視学官の久米井束らが絶賛したそうです。 その文学振りを、山中さんがひろいあげた教材を読みながらじっくりと検証してみましょう。

『ヨミカタ・一』(1年前期)より

ヘイタイサン 
ススメ ススメ 
チテ チテ タトタ テテ タテタ

 「チテチテタ…」を中山さんが解説しています。「これは、陸軍の進軍ラッパのメロディで、音 名に直すと、チ=ソ、テ=ミ、タ=ド、ト=一音階下のソ、である。」

「ヨミカタ・ニ」(1年後期)より

<ラジオノコトバ>
 日本ノ ラジオハ
 日本ノ コトバヲ ハナシマス。
 正シイ コトバガ、
 キレイナ コトバガ、
 日本中ニ キコエマス。

 マンシウニモ トドキマス。
 シナニモ トドキマス。
 セカイ中ニ ヒビキマス。

<日本のしるし>
 日本の しるしに
 はたが ある。
  朝日を うつした
  日の丸の はた。
 日本の しるしに
 山が ある。
  すがたの りっばな
  ふじの 山。
 日本の しるしに
 うたが ある。
  ありがたい うた
  君が代の うた。

「よみかた・三」(2年前期)より

<ニ重橋>
目の 前に をがむ 二重橋、
けだかい、美しい 二重橋。
おほりの 水は しづかに 明るく、
白い やぐらは くっきりと そびえ、
しげった 松の 間に、
おやねが かうがうしく 見えます。

さくさくと 小じゃりを ふんで、
女学校の せいとさんが 来ました。
きちんと 並んで さいけいれいを して、
こゑを そろへて 「君が代」を 歌ひました。

私たちも いっしょに 歌ひました。

「よみかた・四」(2年後期)より

<金しくんしゃう>
 軍人さんの胸は、
 くんしゃうでいっぱいです。
 花のやうなくんしゃう、
 日の丸のやうなくんしゃう、
 金のとびの金しくんしゃう。
 昔、神武天皇のお弓に止った、
 あの金のとびが、
 今、軍人さんの胸にかがやいて、
 りっばなてがらを
 あらはしてゐるのです。



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216 国民学校の教科書より(4)
肉弾三勇士
2005年3月19日(土)



「初等科国語・一」(3年前期)より
<支那の春>
 川ばたのやなぎが、すっかり青くなりました。つみ重ねたどなうの根もとにも、いつのまにか、 草がたくさん生えました。
 あたりは、うれしさうな小鳥の声でいっぱいです。
「もうすっかり春だなあ。」
「ここで、あんなにはげしい戦争をしたのも、うそのやうな気がするね。」
 どなうの上に腰かけて、川の流れを見つめながら、日本の兵たいさんが二人、話をしてゐます。 兵たいさんは、今日は銃を持ってゐません。てつかぶともかぶってゐせまん。二人とも、ほんたう に久しぶりのお休みで、村のはづれまでさんぽに来たところです。
「兵たいさん。」
「兵たいさん。」
 大きな声で呼びながら、支那の子どもたちが、六七人やって来ました。
「おうい。」
 兵たいさんがへんじをすると、みんな一度に走り出しました。子どもたちといっしよに、黒い ぶたや、ふとったひつじが二三匹走って来ます。
 兵たいさんのそばまで来ると、子どもたちは、いきなりどなうの上にかけあがらうとして、 ころげ落ちるものもあります。先にあがった子どもの足を引っばって、はねのけようとするも のもあります。
「けんくわをしてはいけない。」
「仲よくあがって来い。」
 大きな声で、兵たいさんがしかるやうにいひます。しかし、にこにこして、うれしさうな顔です。
 先にかけあがった子どもは、兵たいさんにしがみつきます。あとから来た子どもは、兵たいさん のけんにつかまったり、くつにとりついたりします。
「これは、たいへんだ。さあ、お菓子をあげよう。向かふで遊びたまへ。」
「氷砂糖をあげよう。橋の上で仲よく遊びたまへ。」
 兵たいさんたちは、ポケットから、キャラメルの箱や、氷砂糖のふくろを取り出しました。
「わあっ。」
と、子どもたちは大喜びです。ぶたもひつじも、いっしょになって大さわぎです。 お菓子をもらふと、子どもたちは、おとなしく川のふちに腰をおろしたり、ねそべったりしました。 さうして、お菓子をたべながら、歌を歌ひ始めました。まだ上手には歌へませんが、兵たいさんに 教へてもらった「愛国行進曲」です。
 川の水は、静かに流れてゐます。どっちから、どっちへ流れるのかわからないほど、静かに流れて ゐます。
 川の向かふは、見渡すかぎり、れんげ草の畠です。むらさきがかった赤いれんげ草が、はてもなくつづいてゐます。/どこからともなく、綿のやうに白い、やはらかなやなぎの花がとんで来 ます。さうして、兵たいさんのかたの上にも、子どもたちの頭の上にも、そっと止ります。
 寒い冬は、もうすっかり、どこかへ行ってしまひました。静かな、明かるい、支那の春です。

 イラクを圧制から解放したと言うブッシュのイラク侵略の正当化と二重写しになります。その父母兄弟姉妹 を虐殺しているかもしれない侵略先の子どもたちに「愛国行進曲」を歌わせる無神経さに気分が悪くなってき ます。

「初等科国語・ニ」(3年後期)より
<田道間守>
 垂仁天皇の仰せを受けた田道間守は、船に乗って、遠い、外国へ行きました。
 遠い外国に、たちばなといって、みかんに似た、たいそうかをりの高いくだものがあることを、 天皇は、お聞きになっていらっしやいました。田道間守は、それをさがしに行くことになつたのです。
 遠い外国といふだけで、それが、どこの国であるかは、わかりません。田道間守は、あの国この島と、 たづねてまはりました。
 いつのまにか、十年といふ長い月日が、たってしまひました。
 やっと、あるところで、美しいたちばなが生ってゐるのを見つけました。
 田道間守は、大喜びでそれを船に積みました。枝についたままで、たくさん船に積みました。 さうして、大急ぎで、日本をさして帰って来ました。
「さだめて、お待ちになっていらっしやるであらう。」
 さう思ふと田道間守には、風を帆にいっぱいはらんで走る船が、おそくておそくて、しかたがあり ませんでした。
 日本へ帰って見ますと、思ひがけなく、その前の年に、天皇は、おかくれになっていらっしゃいました。 田道間守は、持って帰ったたちばなの半分を、皇后にけん上しました。あとの半分を持って、 天皇のみささぎにお参りしました。枝についたままの、美しい、かをりの高いたちばなを、みささぎの前 に供へて、田道間守は、ひざまづきました。
「遠い、遠い国のたちばなを、仰せによって、持ってまゐりました。」
かう申しあげると、今まで、おさへにおさへてゐた悲しさが、一度にこみあげて、胸は、はりさける ばかりになりました。田道間守は、声をたてて泣きました。田道間守は、昔、朝鮮から日本へ渡って 来た人の子孫でした。しかし、だれにも負けない忠義の心を持ってゐました。
 泣いて泣いて、泣きとほした田道間守は、みささぎの前にひれふしたまま、いつのまにか、つめた くなってゐました。

 「朝鮮から日本へ渡って来た人の子孫でした。しかし、だれにも負けない忠義の心を持ってゐま した。」と、こっそりと朝鮮人の皇国民化の露払いをしています。

「初等科国語・ニ」(3年後期)よりもう一編。
<三勇士>
「ダーン、ダーン。」
 ものすごい大砲の音とともに、あたりの土が、高くはねあがります。機関銃の弾が、雨あられの やうに飛んで来ます。
 昭和七年二月二十二日の午前五時、廟巷(べうかう)の敵前、わづか 五十メートルといふ地点です。
 今、わが工兵は、三人づつ組になつて、長い破壊筒をかかへながら、敵の陣地を、にらんでゐま す。
 見れば、敵の陣地には、ぎっしりと、鉄条網が張りめぐらされてゐます。この鉄条網に破壊筒を投げ こんで、わが歩兵のために、突撃の道を作らうといふのです。しかもその突撃まで、時間は、 あと三十分といふせっぱつまった場合でありました。
 工兵は、今か今かと、命令のくだるのを待ってゐます。しかし、この時とばかり撃ち出す敵の弾には、 ほとんど、顔を向けることができません。すると、わが歩兵も、さかんに機関銃を撃ち出しました。 さうして、敵前一面に、もうもうと、煙幕を張りました。
「前進。」
の命令がくだりました。
 待ちに待った第一班の工兵は、勇んで鉄条網へ突進しました。
 十メートル進みました。二十メートル進みました。あと十四五メートルで鉄条網といふ時、頼みに する煙幕が、だんだんうすくなって来ました。
 一人倒れ、二人倒れ、三人、四人、五人と、次々に倒れて行きます。第一班は、残念にも、とうと う成功しないで終りました。
 第二班に、命令がくだりました。
 敵の弾は、ますますはげしく、突撃の時間は、いよいよせまって来ました。今となっては、破壊筒 を持って行って、鉄条網にさし入れてから、火をつけるといったやり方では、とてもまにあひません。 そこで班長は、まず破壊筒の火なはに、火をつけることを命じました。
 作江伊之助、江下武二、北川丞、三人の工兵は、火をつけた破壊筒をしっかりかかへ、鉄条網めがけ て突進しました。
 北川が先頭に立ち、江下、作江が、これにつづいて走ってゐます。
 すると、どうしたはずみか、北川が、はたと倒れました。つづく二人も、それにつれてよろめきまし たが、二人は、ぐつとふみこたへました。もちろん、三人のうち、だれ一人、破壊筒をはなしたものは ありません。ただその間にも、無心の火は、火なはを伝はって、ずんずんもえて行きました。
 北川は、決死の勇気をふるつて、すっくと立ちあがりました。江下、作江は、北川をはげますやう に、破壊筒に力を入れて、進めとばかり、あとから押して行きました。
 三人の心は、持った一本の破壊筒を通じて、一つになってゐました。しかも、数秒ののちには、 その破壊筒が、恐しい勢で爆発するのです。
 もう、死も生もありませんでした。三人は、一つの爆弾となって、まっしぐらに突進しました。
 めざす鉄条網に、破壊筒を投げこみました。爆音は、天をゆすり地をゆすって、ものすごくとどろき 渡りました。
 すかさず、わが歩兵の一隊は、突撃に移りました。
 班長も、部下を指図しながら進みました。そこに、作江が倒れてゐました。
「作江、よくやったな。いひ残すことはないか。」
 作江は答へました。
「何もありません。成功しましたか。」
 班長は、撃ち破られた鉄条網の方へ作江を向かせながら、
「そら、大隊は、おまへたちの破ったところから、突撃して行ってゐるぞ。」
とさけびました。
「天皇陛下萬歳。」
作江はかういって、静かに目をつぶりました。

 「肉弾三勇士」とか「爆弾三勇士」とか呼びならわされています。その時代背景を年表にして見ました。

1932/01/03   関東軍、錦州占領
1932/01/07   陸軍、満州独立の方針を関東軍参謀板垣征四郎に指示
1932/01/28   上海事変@勃発
1932/02/05   関東軍、ハルピン占領
1932/02/22   「肉弾3勇士」戦死報道
1932/03/01   満州国建国宣言



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217 国民学校の教科書より(5)
君が代少年
2005年3月20日(日)



「初等科国語・三」(4年前期)より。
<君が代少年>
 昭和十年四月二十一日の朝、台湾で大きな地震がありました。
 公学校の三年生であった徳坤(とくけん) という少年は、けさも目がさめると、顔を洗ってから、うやうやしく神だなに向って、拝礼をしました。 神だなには、皇大神宮の大麻がおまつりしてあるのです。
 それから、まもなく朝の御飯になるので、少年は、その時外へ出てゐた父を呼びに行きました。
 家を出て少し行った時、「ゴー。」と恐しい音がして、地面も、まはりの家も、ぐらぐらと動きました。 「地震だ。」と、少年は思ひました。そのとたん、少年のからだの上へ、そばの建物の土角がくづれて 来ました。土角といふのは、粘土を固めて作った煉瓦のやうなものです。
 父や、近所の人たちがかけつけた時、少年は、頭と足に大けがをして、道ばたに倒れてゐました。 それでも父の姿を見ると、少年は、自分の苦しいことは一口もいはないで、
「おかあさんは、大丈夫でせうね。」
といひました。
 少年の傷は思ったよりも重く、その日の午後、かりに作られた治療所で手術を受けました。このつら い手当の最中にも、少年は、決して台湾語を口に出しませんでした。日本人は国語を使ふものだと、 学校で教へられてから、徳坤は、どんなに不自由でも、国語を使ひ通して来たのです。
 徳坤は、しきりに学校のことをいひました。先生の名を呼びました。また、友だちの名を呼びました。  ちゃうどそのころ、学校には、何百人といふけが人が運ばれて、先生たちは、目がまはるほどいそが しかったのですが、徳坤が重いけがをしたと聞かれて、代りあって見まひに来られました。
 徳坤は、涙を流して喜びました。
「先生、ぼく、早くなほって、学校へ行きたいのです。」
と、徳坤はいひました。「さうだ。早く元気になって、学校へ出るのですよ。」
と、先生もはげますやうにいはれましたが、しかし、この重い傷ではどうなるであらうかと、先生は、 徳坤がかはいさうでたまりませんでした。
 少年は、あくる日の昼ごろ、父と母と、受持の先生にまもられて、遠くの町にある医院へ送られて 行きました。
 その夜、つかれて、うとうとしてゐた徳坤が、夜明近くなって、ばっちりと目をあけました。さう して、そばにゐた父に、
「おとうさん、先生はいらっしやらないの。もう一度、先生におあひしたいなあ。」
といひました。これっきり、自分は、遠いところへ行くのだと感じたのかも知れません。
 それからしばらくして、少年はいひました。
「おとうさん、ぼく、君が代を歌ひます。」
 少年は、ちょっと目をつぶって、何か考へてゐるやうでしたが、やがて息を深く吸って、静かに 歌ひだしました。

  きみがよは
  ちよに
  やちよに

 徳坤が心をこめて歌ふ声は、同じ病室にゐる人たちの心に、しみこむやうに聞 えました。

  さざれ
  いしの

 小さいながら、はっきりと歌はつづいて行きます。あちこちに、すすり泣きの声が起りました。

  いはほとなりて
  こけの
  むすまで

 終りに近くなると、声はだんだん細くなりました。でも、最後まで、りつばに歌ひ通しました。
 君が代を歌ひ終った徳坤は、その朝、父と、母と、人々の涙にみまもられながら、やすらかに 長い眠りにつきました。

 この教材は「君が代」の歌詞を全文読む仕組みになっています。何が何でも感動させようと、 その歌詞を細かく改行をして行間に感動を溜め込むテクニックが施されています。また自国の子 どもたちに対して「台湾の少年でさえ・・・君たちはなおさら」という無言の語りかけをしていること が読み取れます。
 さらに第4学年では修身・国語・音楽の全てに「君が代」の歌詞が全文載せられているそうです。 集中的に繰り返し、いやでも覚え込ませてしまおうという魂胆です。

 ところで、国民学校発足にともなって朝鮮や台湾の教育はどんな扱いを受けたのでしょうか。
 朝鮮では1938年からこの新教育制度の実験的役割を担わされた。朝鮮総督府は 「国体明徴」「内鮮一体」「忍苦鍛錬」を教育の三大綱領としてかかげ、国民学校令の先取りをして います。1941年3月に「朝鮮教育令」を「朝鮮国民学校令」 に改めます。  この「朝鮮国民学校令」には「教授用語は国語を用うるべし」いう問題の一項があります。
 「神の国」から引用します。
 「国語を習得せずしては国民として完全なる生活を営むことが出来ない」との理由のもとに、 全国同一教科書使用を義務づけたその底意は、朝鮮においては「韓国併合」以来つづいてきた「朝鮮語」 の教科を廃止し、学校での朝鮮語による教授の禁止にあった。ただし在外邦人を中心とする学 校と非日本人を中心とする学校との間にはカリキュラムの編成には多少の配慮がみられる。
 台湾では第ニ課程校を台湾人、第三課程校を山岳少数民族のためのものと区分した。
 朝鮮における「創氏改政名」、台湾における「改氏名」の受付けは、その前年 ― 紀元2600 年2月11日の紀元節(現在の建国記念の日)を期して実施されている。天皇の「一視同仁」と いう恩恵的仮面のもとに、植民地の人々の姓名を奪い、さらにその母語をも奪ったのである。 その焦眉の目的は、日本語の通じる兵士を徴兵することにあったが、どうせ変えなければなら ないなら、一年生から日本の名前でと、この学校制度改革をきっかけとして改名に踏み切った 家庭も少なからずあったと聞く。


 台湾では「国語使用運動」の一環として、役所や学校だけでなく家庭でも日本語を使って生 活する家を「国語常用家庭」として総督府が認定し、戸口にかかげる認定証を発行した。
 『日本統治下台湾の「皇民化」教育』 の著者林貴明の家庭では、父母が教師であった立場上 「国語常用家庭」 に認定される必要から分家したという。日本語を使えない祖父を戸籍から外 したことになる。

 このような歴史の事実を直視することに耐えられない未成熟な者たちが、歴史の事実を直視することを 「自虐」と呼んで歴史を歪曲し、虚妄の伝統を担ぎ出して私たちに服従を迫っています。まさにその人た ちにとっては歴史の事実を直視することは「自虐」なのでしょう。
 保守反動はいま一大勢力を形成していますが、彼らには過去があるばかりで未来はありません。


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218 国民学校の教科書より(6)
詩・短歌・俳句
2005年3月21日(月)



 山中さんは「初等科国語・四」(4年後期)からは詩を2編書き出しています。 その中から1編を紹介します。

 <観艦式>

朝もやが晴れて行く
海 ― 見わたすかぎり、
くっきりと、 堂々と、
帝国の艦艇、 おお、 その雄姿。

第一列から 第五列まで、
旗艦長門以下百数十隻、
さんさんと秋の日をあび、
今日、 おごそかに観艦式。

皇礼砲二十一発、
御召艦比叡は進む、
巡洋艦高雄を先導に、
加古・古鷹をうしろに従へて。

マストに仰ぐ
天皇旗、ああ、天皇旗。
すべての艦艇は うやうやしく、
登舷礼、君が代のラッパ。

大空の一角に、
飛行機の爆音、
たちまち数百機が、
空をおほうて分列式、分列式。

御召艦ははるばると、
艦列をぬって進む。
青空ははてもなく澄み
秋風はさわやかに海をわたる。

軍国少国民に仕立て上げられつつある国民学校4年生にはそれなりの高揚した感動を与える 出来になっています。私はこれを書き写しながら、これと同じような調子の詩を読んだこと があるとに思いました。
 見つけました。

 世界地図を見つめてゐると
世界地図を見つめてゐると
黒潮はわが胸に高鳴り
大洋は眼前にひろがり
わが少年の日の夢が蘇ってくる
われ海に生き海に死なんと
海軍兵学校を志願し
近視の宣告で空しくやぶれ去った
わが少年の日の夢が ―
万里 波涛を蹴り
わが鋼の艦は行く。
夜を日につぎ
われら民族の血と運命を賭けて
海の闘ひは陸の闘ひにつづく。
わが少年の日の夢が
新しい世紀を創る、刻々の
壮烈な現実となってかへってきた。―
(吉本隆明「叙情の論理」所収「前世代の詩人たち」より)

 教科書掲載の詩の第二連として置いても違和感はないと思います。この二つの詩の作者は もしかすると同一人物ではないかと、私は疑っていなす。最もこの種の詩はステレオタイプ にしか成りようがなく、誰が書いても似たようなものになってしまうのかもしれません。
 後者の詩人は岡本潤です。アナーキスト詩人が戦意高揚詩人になり、戦後はプロレタリア 詩人になりすまします。
 私はたまたま岡本潤の詩を思い出したので、岡本潤個人を貶めようとしているのではありません。 こうした精神的退廃は岡本潤だけの問題ではありません。大方の知識人と呼ばれる者たちが同じよ うな軌跡をたどっているのです。教育学者たち・教師たちも例外ではありません。いつかそれにも 触れようと思っています。
 どうしてそうなってしまうのかは検証すべき課題です。もちろん私にそんな力量はありませんし、 すでに若き日の吉本隆明さんが見事な分析をしています。それを引用します。同じく「前世代の詩 人たち」からです。
 岡本の戦争期におけるアナキズム的な立場は、その骨格をかえずに、ただちにファシズム理論 へ移行できるところに特徴があった。それは岡本が、内部世界を、外部の現実と相わたらせ、 たたかわせることによって成熟させ、その成熟させた内部世界を、外部の現実とたたかわせる相互 作用によって思想を把握したのではなく、内部的未成熟のうえにイデオロギイを接木したため、 現実の動向によって密通的に動揺できるものだったためである。したがって、岡本の立場は、永 久に、「日本庶民」プラス「イデオロギイ」であり、確立され、論理化された内部世界が、現実 と思想との間を、実践的に媒介することはないのだ。

 「内部的未成熟」というのは保守反動派だけの問題ではないのです。革新進歩派を自認している人たち の問題でもあります。私はそれを「わが内なる保守反動」と言ってきました。それを放置しているものは 時流に流されてどの方向にも流れていきます。
 今テーマにしている国定教科書に関連しても同じ問題があり、それは現在にまで引きずられてい るのです。次は「神の国」からの引用です。
 以上の特徴をもつ国民学校の教科書は、戦後の民主主義教育への転換とともに、「醜悪な教 科書」「軍国主義の生んだ鬼子」として、無視されてきた。扱われる場合にも、軍国主義時代 の例証として部分的に、あるいは人間形成上の加害者として情緒的に引用されることはあって も、教科書そのものを正面からとりあげての分析は、ほとんど行なわれていないといっていい。
 期間的に1941(昭和16)年4月から1946(昭和21)年3月までのごく短期間しか使用 されなかったこと、その間題部分はいわゆる「墨塗り」の対象となって抹消されていることを 挙げ、したがってそれほどの影響があったとは考えられないとする人もいる。
 しかしそのような理由で、問題を積み残してきたことによる禍根は、私たちの社会に多く残 されている。戦後第六期の教科書に、この戦中の教科書と同じスタッフがかかわっていること も含めて、この皇民教育のイデオロギーは地下水脈となって、文部科学省官僚のなかに受け継 がれているようだ。近年、教科書検定の度に問題となる付箋の文言もまた、この戦前の教科書 のイデオロギーに限りなくちかいものがみられる。



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219 国民学校の教科書より(7)
憲法前文中曽根試案の愚劣さ
2005年3月22日(火)



 山中さんは「初等科国語・五」(5年前期)からは詩・短歌・俳句を書き出しています。 また、山中さんは全ての教材について国体観念教材・軍事教材・共栄圏教材・情操教材・ 生産教材などの分類を示していますが、詩「大八州」は国体観念教材に、短歌「晴たる山」と 俳句「動員」は軍事教材に分類しています。

<大八洲>

この国を 神生みたまひ、
この国を 神しろしめし、
この国を 神まもります。

島々 かず多ければ、
大いなる 島八つあれば、
国の名は 大八洲国。

巌として 東海にあり。
日の出づる 国にしあれば、
日の本と ほめたたへたり。

島なれば 山うるはしく、
島なれば 海めぐらせり、
山の幸 海幸多く。

海原に 敷島の国、
青山に こもる大和、
春秋の ながめつきせず。

大神(おおみかみ) 授けたまひし、
稲の穂の そよぐかぎりは、
あし原の 中つ国なり。

黒潮の たぎるただなか、
大船の 通ひもしげく、
浦安の 国ぞこの国。

浦安の 安らかにして、
天地と きはみはあらず、
細戈 千足(くはしほこ ちたる)の国は。

<晴れたる山>
すがやかに晴れたる山をあふぎつつわれ御軍の一人となりぬ

父母の国よさらばと手を振ればまなぶた熱しますら男の子も

あふぎ見るマストの上をゆるやかに流るる雲は白く光れり

江南のしらじら明けを攻め進むすめら御軍うしほのごとし

蘇州までさへぎる山も岡もなしはるばるとかすみ水牛あゆむ

わらべらはちひさき笑顔ならべつつ兵に唱歌ををそはりてゐる

白々とあんずの花の咲き出でて今年も春の日ざしとなりぬ

<動員>
動員の第一夜なり明けやすき

秋晴れや旗艦にあがる信号旗

敵前に上陸すなり秋の雨

突撃を待つ草むらに虫すだく

敵遠し月の広野のはてしなく

幾山河愛馬と越えて月の秋

地図を見る外套をもて灯をかばひ

 「大八州」はいわゆる五七調で万葉集の長歌を擬しています。あれもこれもとだらだら継ぎはぎした 空疎な駄作です。内容も空疎なら形式も杜撰です。
 「この国を 神まもります。」と不用意に現代語が混じったりもしています。「巌として  東海にあり。」と漢語も混じります。このようにこの詩は変てこな日本語の見本市のような詩ですが、 「青山に こもる大和、」がその最たるものでしょうか。万葉集には美しい言葉が満ち満ちていますが、 この詩のような言葉は「美しい日本語」とは程遠いものです。
 さらに五七の音数律のまま唐突に終わりますが、五七はどこまでも続く音数律です。長歌は五七で終わるこ とはありません。この詩は知ったかぶりの時流迎合知識人の作ではないでしょうか。

 ずぶの素人にもかかわらずあれやこれや言い立てましたが、私も知ったかぶりの間違いを 犯しているかもしれません。しかしこの詩は、少なくとも私には何の感動もわかない詩もどきです。こん なしろものに陶然とする者もいるのが不思議です。昨今「美しい日本語」を言い立てている連中の 「美しい日本語」とはこの程度ではないでしょうか。

 「大八州」を読んで思い出したことがあります。先般発表された自民党の改憲案のうちの 中曽根による「前文」案です。次のような書きだしです。

 我ら日本国民はアジアの東、太平洋の波洗う美しい北東アジアの島々に歴代相承け、天皇を国民統合 の象徴として戴き、独自の文化と固有の民族生活を形成し発展してきた。


 虚偽と迷妄に満ちた文章ですが、今はそれは置きます。その根底にあるイデオロギー(虚偽意識)が 上の詩と全く同じであることを指摘したいのです。この前文案を書きながら中曽根の未成熟な心はさぞかし 高揚し、かつ得意になっていたことでしょう。
 こんな愚劣な前文をもつ憲法は憲法の名に値しません。

 私には政治家に対する抜きがたい不信があります。彼らが言う事にはあきれるか腹を立てるか ばかりで感心することなどほとんどありません。しかしたまには例外があります。
 3月8日付朝日新聞の「政態拝見」という欄で「党憲法調査会長で、政界の憲法論議をひっぱる 一人」だという民主党の枝野幸男という政治家の憲法についての意見を紹介しています。
 憲法は、あらゆることを決めているわけではない。ここに、多くの人の勘違いがある。憲法は 政治の枠組みを決めているだけである。どの党が政権をとっても従うべき「公権力行使のルール」 であり、共通の土俵である。

 自民党の改憲論は、土俵作りにあきたらず、相撲も取ろうとしている、そこをごっちゃにし ている。

 例えば、「国家目標」は政権によって異なる。憲法に書く話ではない。「愛国心」や「民族 の誇り」は、お望みならば法律に書けばいい話である。

 そしてこれに対して担当の根本清樹記者(企画報道部)は次のように述べています。
 この食い違いが正されないかぎり、改憲は実現しないだろうと枝野氏は見る。
 土俵と相撲の仕分け論には、異論もあるだろう。9条にまつわる問題を、この論法でどう仕 分けるかは、なかなか難しい。
 しかし「教育や家庭の荒廃」にはじまって、なんでもかんでも憲法のせいにしたがる論調へ の解熱剤としては、効き目があるかもしれない。
 「いまの憲法では、国民は夢も希望もない」。こんな議論が幅をきかせている。一人ひとり に夢や希望を与えるのは、政治家の務めかもしれないが、憲法のお仕事ではない。
 中曽根はじめ憲法改定で舞い上がっている連中がじっくり味わい考えるべき一つの見識だと 思います。


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220 国民学校の教科書より(8)
女子向け軍事教材
2005年3月23日(水)



 山中さんは「初等科国語・六」(5年後期)から詩「姿なき入城」と散文「病院船(抄)」を書き出 しています。どちらも女子向けの軍事教材です。女子向け軍事教材は5年・6年に集中します。 このことを入江さんが「神の国」で次のように解説しています。
 皇国民の錬成をかかげた国民学校の目的が、君国のために命を捧げる兵士の錬成である以上、 教育は低学年から男子上位で進められ、忠義をつくすことができるのは軍人となれる男子だけ であるかの観があった。しかし女子もまた同一の教科書によって「忠君愛国」 の精神は十分 に刷り込まれている。むしろ「大きくなったら大将になる」といえない分だけ、疎外感を抱かさ れ、あるいは男尊女卑の封建的価値観をうけいれた女子もまた少なくなかった。
 しかし五学年になって、教科書は女子にも「すめろぎにつかえまつれと男子を生む母」に なることによって「お国の役にたつ」道を示してみせたのである。
 そろそろ初潮をむかえ、「生む性」としての役割を意識せざるをえない十一歳から十二歳 ―  五年後には、民法がさだめた結婚年齢に達する女子児童は、軍国の母の予備軍と目されて も不足ない年齢といえる。
 その女子教育は、第一に、男子を生み育て、軍人として天皇とその国家に捧げることを無上 の光栄とする母性の賛美から始まった。

   母こそは、命のいずみ。いとし子を胸にいだきて
   ほほ笑めり、若やかに。うるわしきかな 母の姿。
 母こそは、み国の力。おのこらをいくさの庭に
   遠くやり 心勇む。おおしきかな 母の姿。
(『初等科音楽三』「母の歌」)
 (中略)
 徴兵制度が憲法で定められていた当時、国家が教育すべき「日本の母」としての心得は、わが子を君 国に捧げた()にあったのである。

 すなわち「日本の母」は「わが子を君国に捧げた後」次のようでなければならなっかたのです。 (ちなみに引用文中の「母の歌」の作詞者は野上弥生子です。)

<姿なき入城>

いとし子よ、
ラングーンは落ちたり。
いざ、汝も
勇ましく入城せよ、
姿なく、
声なき汝なれども。

昭和十六年十二月、
ラングーン第一回の爆撃に、
汝は、別動隊編隊機長として、
近郊ミンガラドン飛行場にせまり、
敵スピットファイヤー二十数機と、
空中戦はなばなしく、
陸鷲は、その十六機をほふれり。
更にラングーンの上空に現れ、
巨弾を投じたる一瞬、
敵高射砲弾は、
汝が愛機の胴体を貫ぬきつ。

機は、たちまちほのほを吐き、
翼は、空中分解を始めぬ。
汝、にっこりとして天蓋を押し開き、
仁王立ちとなって僚機に別れを告げ、
「天皇陛下萬歳。」を奉唱、
若き血潮に、
大空の積乱雲をいろどりぬ。
それより七十六日、
汝は、母の心に生きて、
今日の入城を待てり。
今し、母は斎壇をしつらへ、
日の丸の小旗二もとをかかげつ。
一もとは、すでになき汝の部隊長機へ
一もとは、汝の愛機へ。
いざ、親鷲を先頭に、
続け、若鷲。
ラングーンに花と散りにし汝に、
見せばやと思ふ今日の御旗ぞ。

いとし子よ、
汝、ますらをなれば、
大君の御楯と起ちて、
たくましく、
ををしく生きぬ。
いざ、今日よりは
母のふところに帰りて、
安らかに眠れ、
幼かりし時
わが乳房にすがりて、
すやすやと眠りしごとく。


 この女子向け軍事教材の思想的背景を入江さんは、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」の 思想と対比して解説しています。
 「君死にたまふことなかれ」と「神の国」からの引用文とを続けて掲載します。

  君死にたまふことなかれ
     旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
未に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思されむ。

あゝをとうとよ、戦ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守り、
安しと聞ける大御代も
母のしら髪はまさりぬる。

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を、
君わするるや、思へるや、
十月も添はでわかれたる
少女ごころを恩ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。

 日露戦争のさなか、与謝野晶子は「君死に給うことなかれ」という魂の叫びを残した。人の 道、人の教えに視点をすえ、君と親とを、忠と孝とを鋭く対立させた。
 しかし日本の学校教育は「忠孝一本」という独自の思想を説いて、戦闘で人を殺し人に殺さ れることの是非はもとより、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」 という儒教的矛盾から児童を「解放」した。
 五期の指針をさだめた例の『国体の本義』では、この点を次のように述べている。
 「支那の如きも孝道を重んじて、孝は百行の本といい、又印度に於ても父母の恩を説いてい るが、その孝道は、国に連なり、国を基とするものではない。孝は東洋道徳の特色であるが、 それが更に忠と一つとなるところに、我が国の道徳の特色があり、世界にその類例を見ないも のとなっている。従ってこの根本の要点を失ったものは、我が国の孝道ではあり得ない」とし、 さらに「すめろぎにつかえまつれと我を生みし我が垂乳根(たらちね) は尊くありけり」の歌を引き、「孝 が忠に高められて、始めてまことの孝となることを示すもの」「まことに忠孝一本は、我が国 体の精華であって、国民道徳の要諦である」と断言する。
 端的にいえば、易姓革命を説く儒教では、孝は君主にたいする忠と矛盾する。孔子も、「親 は取り替えられないが、天子君主は取り替えられる」と教える。儒教のこの思想にたいし、天 照大神の神勅と称する口承を唯一無二の国是として、日本は神の血をうけた天皇が統治するこ と、君臣の身分は生まれながらに永遠に定まっていることを強調し、われわれは先祖代々大君 に忠義をつくしてきた、という仮定のもとに、その先祖の志をつぐのが子孫としての孝行であ るという「忠孝一本」という道徳を創出し、時代のキーワードとした。
 国民学校教育では、天子君主は人民の父母に等しいから、君に忠をつくすのは親に孝をつく すのに等しく、忠孝は根本的に矛盾しない、と説く。
 しかしこれはあくまでも論であって、戦時下においては戦場に駆り出される兵士の生命をめ ぐって君と親との間に葛藤が生じることは、与謝野晶子の詩をひくまでもなくむしろ当然とい わねばならない。この間題を親 ― とくに兵士を生み育てる母の問題としてとりあげたのが五 学年、六学年に集中する一連の女子向けの教材である。



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221 国民学校の教科書より(9)
「ゆかしい心」が「御民われ」を育てる?
2005年3月24日(木)



 今回は「初等科国語・七」(6年前期)です。山中さんは軍事教材「ゆかしい心」と 国体観念教材「御民われ」を書き出しています。
<ゆかしい心>

  長唄
 第一線のある夜のことであった。  ラジオを敵の陣地へ放送する宣伝班員は、ざんがうの暗がりの中で、拡声器の点検をしてゐた。
 そのうち偶然にも、東京放送局からの電波がはいって来た。長唄の調べである。
 「フィリピンのざんがうの中で、日本の長唄を聞くなんて、うれしいことだね。」
と、みんなはにこにこしながら、長唄の音に耳を傾けてゐた。

  猫
 澄みきった大空のもとに、ナチブ山が青々とそびえてゐる。
 ナチブ山の項には敵の砲兵観測所があるが、山全体が熱帯の森林におほはれてゐるので、 飛行機からの偵察でもはっきりわからない。まして平原にある友軍陣地からは、それがどの 辺にあるか、ほとんど見当がつかない。
 バランガへ通じる白い道は、その観測所から手に取るやうに見えるので、わが軍の貨物自 動車は、一台一台正確な射撃にみまはれる。しかし、この道以外に部隊の進撃路はないので、 どうしてもこの難関を突破しなければならない。  トラックや戦車は、全部木かげにかくして、敵の砲撃の目標になることを避けてゐる。
 みかたの砲兵は、畠の中へずらりと放列をしいて、ナチブ山の頂をにらんでゐる。
 このはりつめた第一線の陣の中で、ふと猫の鳴き声を耳にした。こんなところに猫がゐるはず はないと思って、あたりを見まはすと、かたはらの貨物自動車の上に、三毛猫がうずくまってゐる。 兵隊さんが、どこからかつれて来て、かはいがってゐる猫であった。

  俳 句
 第一線に近い宿営に、待機してゐた時のことであった。すぐ隣りの宿営にゐた一人の兵隊さんが、 俳句を作ったから見てくれといって、夜中にやって来た。
 夜、灯火を用ひることは堅く禁じられてゐるので、窓から流れ込む空の明かるさで、兵隊さんの 顔もやっとわかるほどであった。兵隊さんがさし出す紙切れを手に取って、一字一字薄あかりにすか しながら読んだ。

 弾の下草もえ出づる土嚢かな
 密林をきり開いては進む雲の峯

といふ二句であった。  四十近いこの兵隊さんは、前線への出発を明日に控へながら、その前夜、自作の俳句を読んでくれ と、わざわざやって来たのである。「陣中新聞に発表してはどうですか。」とすすめると、  「いや、そんな気持はありません。」と答へた。
 「あなたの名前は。」とたづねても、だまったまま笑ってゐた。
 兵隊さんは、俳句を読んでもらった満足を感謝のことばに表して、部屋から出て行った。

 この教材は子どもたちにどんなメッセジーを届けようとしているのでしょうか。皇軍の兵隊は死と 隣り合わせの最前線でも心にゆとりがあり、それが皇軍の強さの秘密だとでも言いたいのでしょうか。 あるいは戦場の残虐さ・悲惨さ・飢えや死の恐怖などを隠蔽したまま、軍隊生活もけっこう 充実した楽しいものですよとでも言いたいのでしょうか。
<御民われ>

 御民われ生けるしるしあり天地の栄ゆる時にあへらく思へば
 天地の栄えるこの大御代に生まれ合はせたのを思ふと、一臣民である自分も、しみじみと 生きがひを感じるとよんでゐます。その大きな、力強い調子に、古代のわが国民の素朴な喜 びがみなぎつてゐます。昭和の聖代に生をうけた私たちは、この歌を口ずさんで、更に新し い喜びを感じるのであります。

 ひさかたの光のどけき春の日にしづこころなく花の散るらん
 のどかな春の日の光の中に、あわただしく散って行く桜の花をよんだ歌で、優美の極みで あります。平安時代の大宮人たちは、かうした心持を心ゆくまで味はって、都の春を楽しん だのでした。

 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ
 源実朝は、鎌倉時代のすぐれた歌人でありました。箱根山から伊豆山へ越えて行くと、向か ふの沖の初島に、白い波が打ち寄せてゐるのが見えるといふ、絵のやうな歌です。

 敷島のやまとごころを人とはば朝日ににほふやまざくら花
 さしのぼる朝日の光に輝いて、らんまんと咲きにほふ山桜の花は、いかにもわがやまと魂 をよく表してゐます。本居宣長は、江戸時代の有名な学者で、古事記伝を大成して、わが国 民精神の発揚につとめました。まことにこの人にふさわしい歌であります。

 ひとつもて君を祝はんひとつもて親を祝はんふたもとある松
 明治時代の学者であり、歌人であった落合直文が、元旦に門松をよんだ歌です。二本の門松 のうち、その一本を以て聖寿の萬歳を祝し奉り、その一本を以て親の長寿を祈らうといふ意味 で、新年に持つわれわれ日本人の心持が、すらすらと品よくよみ出されてゐます。私たちはこ の歌を声高く読んで、その何ともいへないほがらかな、つつましい心を味はひたいものです。

 なんとも平板で、しかも押し付けがましいつまらない解説です。特に最後の歌などは「声高 く読」む気になど全くなれないつまらない駄作です。
 最初の万葉集の歌は、山中さんがその初句を著書の題名に取っています。少国民たちは どのようなことに「生けるしるし」を感じとったのでしょうか。これは次回に触れること になります。
 また、この歌はメロディーが付けられて唱歌になっています。その楽譜がありますので、 座興に紹介します。



 実朝の歌については、これも寄り道ですが、安西均さんの詩を紹介します。上記の歌と

大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも

の二首を素材にしています。
 自らの運命までもが見えてしまう実朝の孤独で悲劇的な澄んだ心にまで思いをはせています。 私の好きな詩の一つです。


 実朝

その目は煙らない
その目は寂しい沖にとどく
遙かなる実存の小島へ
その目は ずい! と接近する
それから島のまわりで
波が音もなくよろめいているのを
その目はズームレンズのように見る
その目は鹹い永劫が
しなやかにうねり
割れ
砕け
裂け
散ってしまうところまで細かく見る
その目はいつも涙に磨かれている
その目はなんでも見えすぎるために憂愁の光がともる
だから その目は雪の階段にひそむ暗殺者の
後ろ手に隠した白刃まで見ていなければならなかった。



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222 国民学校の教科書より(10)
御民われ生けるしるしあり
2005年3月25日(金)



 山中さんは「初等科国語・八」(6年後期)からは3篇書き出しています。みな有名?なものらしいの で3篇とも掲載しようと思います。
 教材はそれぞれ、フィリッピン、シンガポール、ジャワでの戦闘を素材としています。 それぞれの教材を読む前に、この一連の戦闘の呼称についての山中さんの意見を聞いておこうと 思います。

 1931年の満州事変からをひと続きの戦争と見て、「昭和の15年戦争」と呼ぶことがあります。 私のあやしげな記憶によると、この呼称は小田実さんの提唱でした?
 一般には1941年12月8日の「宣戦の大詔」を以って開戦として「太平洋戦争」と呼んでいます。 しかし当時の日本ではそれを「大東亜戦争」と呼んでいました。「太平洋戦争」という呼称は 「昭和の15年戦争」と同じように戦後の歴史記述の過程で作られたものだと私は思っていましたが、 そうではないようです。その辺の事情も含めて山中さんの記述を読んでみます。
 ところで今日では一般的に「太平洋戦争」と呼ばれているこの戦争の呼称について、海軍が最初 「太平洋戦争」を主張したが、陸軍は単に太平洋海域だけの問題ではないし、大東亜共栄圏確立に端 を発する戦争ということで「大東亜戦争」を主張し、結局は陸軍側の主張が通り12月12日、つぎ のように発令された。
 内閣陸甲第九十六号(昭和十六年一二月一二日、文部次官宛、内閣書記官長)
 今次戦争ノ呼称並二平戦時ノ分界時期等二関スル件
標記ノ件本日別紙ノ通閣議決定相成侯条為念此段及通牒候
 今次戦争ノ呼称竝二平戦時ノ分界時期等二付テ
一、今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移二伴ヒ生起スルコトアルへキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜 戦争卜呼称ス
二、給与、刑法等二関スル平時、戦時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス
三、帝国領土(南洋群島委任統治区域ヲ除ク)ハ差当り戦地卜指定スルコトナシ
  但シ帝国領土二在リテハ第二号二関スル個々ノ問題二付其地ノ状態ヲ考慮シ戦地並二取扱フモノトス

 はっきり言って、この戦争は『大東亜戦争』として戦われたのであって、〈THE PACIFIC WAR〉というア メリカ製の呼称で戦われたのではない。多分、アメリカ人は『太平洋戦争』という名で戦争したのだろう が、ぼくらは「太平洋戦争」のために〈皇国民ノ錬成〉を強いられたのではない。「大東亜戦争」が聖戦 であるという観念のもとに、またそれ故に、あのファナチックな教科書を学び、教師の暴力を当然の 錬成として耐えたのである。その意味で『大東亜戦争』という呼称にこだわりたいような気がする。 「太平洋戦争」という言い方で、歴史的年表の事項として客観的に処理されてしまうには、あまりに も口惜しいと思う。しかし一般的には 「大東亜戦争」 の名称を使用しているものは、例えば林房 雄の「大東亜戦争肯定論」といったような、いわばぼくたちにとっては、何としても連帯しかねるよ うなものが多い。
(中略)
全く逆の立場で『大東亜戦争』という呼称を、ぼく自身の中に存続させたいと思うのである。 「太平洋戦争」というのは、アメリカが日本に不意打ちを食わされ、受けて立ち、勝利した戦争なので ある。「大東亜戦争」というのは、日本が積極的に仕掛け、その名で日本が戦い敗れた戦争なのである。 そして「太平洋戦争」は1941年12月7日午前7時55分、アメリカ合衆国領土ハワイで開始された戦 争であり、「大東亜戦争」は昭和16年12月8日、「未明西太平洋に於て」開始された戦争なのである。

 侵略戦争を聖戦と言い紛らわして行われた「少国民練成」の暴虐をもろに受けた世代の人のこだわり がよく分かります。侵略戦争を「八紘一宇」の聖戦と言い紛らわして行われた「大東亜戦争」の呼称を 欺瞞的な呼称として批判的に使うことを私もうべないます。今アメリカが手前味噌な自由と民主主義を イラク人民を殺戮しながらイラクに押し付けているのと同じで、「八紘一宇」の聖戦などアジアの国々にとっては余計なお世話だっ たに違いありません。

 さて、山中さんによれば、1941年12月8日の開戦の臨時ニュース以来国民はラジオの前に釘づけに なったといいます。そして山中さんは12月8日以降の臨時ニュースを次のように拾い出しています。
12月10日(午前2時放送)フイリッピンに敵前上陸を敢行。(午後4時20分放送)海軍機、マレー半島 東岸クワンタン沖に於いて英東洋艦隊の主力、戦艦プリンス・オブ・ウェルズを撃沈、戦艦レパルス を轟沈。両艦とも世界最強の不沈海城、海の要塞と称せられていた。(午後7時放送)ハワイ海戦の海 軍に偉功嘉尚の勅語下賜。

12月11日(午後4時放送)マニラ方面にて米空軍の大半81以上を撃墜破。

12月12日(午後7時放送)今時戦争の呼称を「大東亜戦争」とする。(午後9時放送)マレー沖海戦の 偉功に勅語下賜。

12月13日(午前9時放送)陸軍、九龍半島攻略。12月14日(午後1半放送)陸軍機、ビルマ敵飛行場 大空襲。(午後4時放送)マレー方面陸軍、英軍機械化1師団を撃滅。

12月15日(午後2時放送)陸軍機、フィリッピン=デルカルメンその他の飛行場を急襲。同じくマレー、 ペナン方面のアエルタワル、イボー飛行場を急襲。

12月16日(午後2時20分放送)陸海軍部隊協同で烈風(風速20メートル)を衝き英領ボルネオに敵前上陸。

12月17日(午後4時放送)海軍、香港で敵艦艇7隻撃沈。

12月18日(午後3時45分放送)ハワイ海戦の綜合戦果。初めて「特別攻撃隊」登場。我が方の損害、飛行 機29、未だ帰還せざる特殊潜航艇5。

12月19日(午後2時放送)陸軍、香港島に上陸猛攻を展開中。

12月20日(午後1時放送)海軍機、デルモンテを急襲。(午後6時放送)陸軍、ミンダナオ島に上陸。

12月21日 海軍、開戦以来敵潜水艦9隻を撃沈。

12月22日 ルソン島新方面に上陸開始。

12月23日(午後6時放送)ダバオ完全占領。

12月24日(午前11時半放送)ウエーキ島に敵前上陸、完全占領。

12月25日(午後9時54分放送)香港島の英軍降伏。

12月26日(午後2時放送)陸軍機、第三次ラングーン空襲、敵機40機撃墜。


 これらのニュースの内容の信憑性の問題はともかくとして、緒戦の捷報は日本国民を徹底的に 酔っぱらわせ、真実、日本は神の国であり、日本軍は神兵であると思いこませることにかなり効 果的であった。

 斯くして運命の1941年は興奮のうちに終るのだが、ぼくらはその運命の12月8日にめぐりあえたこ とを幸せに思えと、くり返し教えこまれた。

  御民われ生けるしるしあり天地の
      栄ゆる時にあへらく思へば

 その日が12月8日であるというのであった。

 さて、「初等科国語・八」(6年後期)からの教材の一つを掲載します。上記の臨時ニュースに 「12月23日(午後6時放送)ダバオ完全占領。」とあります。その「ダバオ」です。

<ダバオヘ>

ダバオヘ、ダバオヘ。
 一万八千名の在留邦人を、一刻も早く救ひ出したいと、北方から疾風のやうに、皇軍はダバオをめ ざして押し寄せた。
 武装した兵士を満載したトラックが、ダバオ市内に突入して、町の十字路にさしかかると、梶棒を 持った二三人の男がとび出して来た。
 「萬歳、萬歳。」
 シャツもズボンも破れて、泥だらけだ。足も手も顔も、ほこりにまみれ、目だけが異様に光ってゐる。
 「日本人か。」
 トラックの上から勇士がどなった。もちろん日本人であった。その人々の顔には、感激の涙がとめどな く流れた。さうして、声をふるはしながら、
 「ありがたうございました。」
 と、何べんもくり返すのであった。
 「日本人は、みんな無事ですか。どこにゐますか。」
 と、トラックの上の兵士たちは口々にたづねた。
 「みんな無事で、学校に監禁されてゐます。」  といふ答へを聞くが早いか、トラックは、市の中央部へ突き進んで行った。  ダバオ攻撃部隊は、ダバオ州政庁・市役所・裁判所・電話局などの要所をまたたく間に占領して、 屋上高く日章旗をかかげた。  兵士を載せたトラックが、帝国領事館の横へ来ると、そばの学校から、黒山のやうな邦人の群が、 わあっとなだれを打って道路へ押し出して来た。大東亜戦争開始以来、この学校に監禁されてゐた 約八千の邦人が、皇軍の入場を知って、狂喜してこれを迎へたのであった。
 トラックの上の兵士たちは、高く手を振って挨拶しながら、敵を急追してフィリピン中学校附近 まで前進した。すると、今までしんと静まり返って死んだやうになってゐた校舎の中から、どっと ばかりに四千名の邦人が出て来た。校庭は、「萬歳、萬歳。」の声で埋った。
 トラックは、校庭の中央に止った。
 部隊長は、トラックの上に立ちあがって、やさしい、いたはりの心のこもったことばで訓示を した。人々の中からは、かすかにすすり泣きの声がもれた。
 部隊長の訓示が終ると、林のやうに静かになってゐた邦人の間から、厳かに君が代の合唱が起った。 不動の姿勢をしたトラックの上の勇士も、校庭に居並ぶ邦人も、頬を伝ふ涙を払ひもせず、泣きなが ら歌ひ、歌ひながら泣いた。



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223 国民学校の教科書より(11)
消えた西欧世界
2005年3月26日(土)



 「第217回」(3月20日)で書いたように大日本帝国は朝鮮や台湾で日本語使用の強制を行ってい ます。引用してきた教材では「第216回」の<支那の春>、「第219回」の<晴れたる山>にその政 策の一端がうかがえます。
 さらに日本語を「大東亜共栄圏語」の共通語とする構想がありました。「神の国」から引用します。
 1942年、「満洲国」政府文教部が建国十周年を記念して主催した東亜教育大会の言語教 育部門でも、大東亜共栄圏の共通語を日本語とすることを前提として、その実施にともなう問 題が討議されている。しかし一貫して「わが国語には、祖先以来の感情・精神がとけ込んでお り」「国語を忘れた国民は、国民ではないとさえいわれている。国語を尊べ。国語を愛せよ。 国語こそは、国民の魂の宿るところである」(『初等科国語八』「国語の力」)というような文部省の 精神論のまえには、歴史仮名遣い、送り仮名、たとえば五日をイツカ、十五日をジュウゴニチ、 二十日をハツカと読みわける発音上の問題など異民族にたいする日本語教育の難点を指摘し、 日本語の合理化こそが大東亜共栄圏の共通語としての日本語の利益、という現場のベテラン教 師たちの提言は単なる提言として終わった。
(中略)
 このような言語についての認識 ― 日本語をつかうのが日本人だ、という発想は、当然日本 人が使用している外来語へもはねかえる。つまり外来語をつかうこと自体が非国民である、と  いう発想に短絡したとしても不思議ではない。

 この「外来語をつかうこと自体が非国民」という発想は、まず外来語として定着している英語 を敵性言語として禁止して日本語に言い換えさせるという政府通達となって現れます。そして敵 国音楽の禁止・野球用語などの言い換え・芸能人の外国名の改名命令などなど、狂気の域にまで エスカレートしていきます。この狂気の様子は稿を改めて詳しくたどって見る予定です。「美し い日本語」という掛け声がかしましくなってきている今、決して無駄なことではないと思います。

 さて、「外来語をつかうこと自体が非国民」という発想は国定教科書にはどのように反映されたので しょうか。「神の国」の記事を要約します。

 「音楽では音階呼称をドレ、、、ファソラシドからハニホへトイロハに切替え、小学唱歌とし て親しまれたスコットランド民謡やアイルランド民謡のメロディーを抹消」します。
 国語、修身の教科書からは同盟国のドイツ・イタリアも含めて西欧の地名が消えています。それば かりか満州などの占領地を除いて中国地名も抹消されています。「満洲国」と「大東亜共栄圏」内の 占領地だけという狭い世界に引きこもってしまった様相です。
 人名の方で五期の教科書にひきつがれたのは、ジェンナー、ガリレオ、ベートーベンのわずか 三人ということです。その3人についても、「ガリレオはイタリア、ベートーベンはドイツと国籍を 明記しているが、イギリス人であるジェンナーについては『ジェンナーという人がありました』とし て、その国籍を明記することを避けている。」という病的な神経の使い方をしています。
 そして、外国人として新たに教科書に登場したのは無名の3人を除けば、「満洲国」皇帝・愛新 覚羅薄儀ただ一人です。

 ここで山中さんが「初等科国語・八」(6年後期)から書き出した3編のうちのあとの2編を紹介す ることになります。その2編は「神の国」でも取り上げていて解説をしていますので、それも合わせて 掲載します。

<シンガポール陥落の夜>

この夜、 満洲国皇帝陛下は、 大本営の歴史的な発表を聞し召し、 やをら御起立、 御用掛吉岡少将に、 「吉岡、おまへもいっしょに、  日本の宮城を遥拝しよう。」 と仰せられ、 うやうやしく最敬礼をあそばされた。 御感涙の光るのさへ拝せられた。 更に、皇帝陛下は南方へ向かはせられ、 皇軍の将兵、戦歿の勇士に、 しばし祈念を捧げたまうた。 深更を過ぎて、 お電話があり、 吉岡少将がふたたび参進すると、 「吉岡、今夜、おまえはねられるか。  今、日本皇室に対し奉り、  慶祝の親電を、  書き終ったところである。  あす朝早く、  打電の手続きをしてもらひたい。」 と、陛下は仰せられた。 この夜、 陛下のおやすみになったのは、 午前二時とうけたまはる。 あけて二月十六日、 寒風はだへをさす満洲のあした、 皇帝陛下は、 建国神廟に御参進、 天照大神の大前に、 御心ゆくまで御拝をあそばされた。

 「シンガポール陥落という緒戦のもっとも輝かしい戦果と、二度にわたる訪日で知名度の高い 皇帝薄儀の日本皇室への忠誠とをむすびつけた巧妙なプロパガンダである。」

<もののふの情>(抄)

野戦病院にて
昭和十七年二月十九日、わが陸軍の精鋭は、ジャワのバリ島を奇襲し、その上陸に成功した。
 バリ島の敵の野戦病院には、アメリカの航空将校が、白い寝床の上に横たはってゐた。顔から腕、 腕から胸へかけて焼けただれ、視力もほとんど失はれてゐた。かれは、アメリカから濠洲へ派遣さ れた四十名の航空将校の一人で、わがジャワ攻略に先立ち、濠洲からジャワのバンドンへ移り、偵 察隊として出動の途中、この島に不時着して負傷したのであった。
 病院がわが軍に占領されたことを知った時、この将校は、恐怖と失望とでがっかリしたやうすで あった。しかしー日、二日とたつうちに、その気持ちはだんだんなくなって行った。
 上半身にやけどをした敵の将校は、夜となく昼となく、しきりに苦痛をうったへた。目が見えな い上に、手の自由もきかない。食事は子どものやうに一々たべさせ、繃帯は日に何回となく取り代 へ、傷の手当てをていねいにしてやることは、並みたいていのことではなかった。しかし、二人の わが衛生兵は、代る代る徹夜して、心からしんせつに看護してやった。
 椰子の葉越しに、窓から月の光が美しくさし込む夜であった。この敵の将校は、寝床の上に半身 を起して、さめざめと泣いてゐた。英語の少し話せる衛生兵の一人が、片言の英語で慰めてやると、
 「私の今の身の上を悲しんで泣いてゐるのではありません。あなたがたが、私に示されたしんせつ と、あなたがた同志の友情のうるはしさに、しみじみ感じて泣いてゐるのです。かうした温い心は、 アメリカの軍隊には決してありません。私は、日本の軍隊がつくづくうらやましくてならないので す。」
 といって、二人の衛生兵の手を、自由のきかない両方の手で、堅く握った。


 「残る無名の三人の一人は日本軍の捕虜となった米兵である。角度を変えて、敵兵のロをかりての 日本軍の称賛である。しかしその彼は『架空』というニュアンスにかぎりなく近い無名のアメリ カ人であり、『つくづく』という形容もすでに何箇所かでふれてきた『しみじみ』同種の、この教 科書が用いるみえすいた感情移入の同義語に他ならない。」




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224 国民学校の教科書より(12)
再び過たないために
2005年3月27日(日)



 最後にかなり長い引用になりますが、「御民われ」と「神の国」の双方から締めくくりの一文を 書き出します。

 教科書だけでは少国民練成の狂気の教育を貫徹できません。それを直接になった教師たちがいます。 教科書の分析を終えた山中さんの感想と回顧の文です。
この内容のそらぞらしさには、とても井上のいうような文学など感じられない。確かに、ある種の 緊張感と名付けたくなるような〈気張り〉は感じられる。だが、この押しつけがましい〈気張り〉 が、前にも書いたように、果して監修官たちの本心であったのか、それとも軍部に対する政治的な ゼスチュアであったのか、それは現在のところ、確かめようもない。しかし、井上は自分が退官す るまでに編纂した教科書に対しては、必ずしも否定的な評価は下していないし、石森についても 同様である。また、そうした製作側の内部に於ける政治的な駆け引きの存否が確認し得たとしても、 これらの教科書が〈皇国民ノ錬成〉のための絶対的権威を持った教材として、国民学校生徒であっ たぼくらの前におかれた現実の歴史的事実は変らない。
 とにかく、ぼくらは、この、およそ人間的な個性の感じられない、べたっとした、事務的で、 平均的な文章でつづられた、そらぞらしい〈気張り〉を己れの本音に注入すべく錬成されてしまった のである。そこに多少とも共鳴を引き出す人間的情感でもあれば、それはそれとして効率のよいアジ テーションにもなり得たであろうが、それがないから、ぼくらはそのそらぞらしさを、ひたすらお題 目として、やみくもに暴力的に学習させられてしまったのである。
 ある教師は自分の気に入った部分を、子どもたちに暗唱させ、暗唱の際、まちがいがあると「教科 書の文章は、陛下のおさとしである。それをきもに銘じていない証拠だ」と鉄拳をくらわせたという 現実や、教科書の漢字にふりがなの書き込みをしたというので、「神聖な教科書を汚したことをお許 しください」となんどもなんども教科書に謝罪させたという現実があったことを、教科書の監修官た ちはどのように考えただろうか。先にあげた井上赴の回想にしても、石森延男の回想にしても、ぼく がなんとしても額面通りに受けとれないのは、彼等の意識の中には、教科書作製の過程での自分たち の立場やその政治的状況に対する確認(これ自体また政治的でもあるが)があっても、現実に彼等の 作った教科書を絶対教典として学ばされた当時の国民学枚生徒の存在が感じられないからである。
 もちろん、この人たちには、それなりの苦労があったと思うし、当時のその立場もわからないでは ない。ひたすら〈職域奉公〉で、上からの命令を絶対として、ファナチックな天皇制ファシズムの教 典としての教科書を作らざるを得なかったであろうという点も理解できる。ただし理解できるのであ って、容認できるということではない。現実にこれらの教科書を学ばされてしまったぼくとしては、 それだけですまない何かにこだわらざるを得ない。しかも、これらの教科書を作り上げた図書監修官 たちが戦後も民間の教科書出版会社の要請に応じて教科書を作り続けていることを考えるとき、戦時 中の彼等の立場が「巳むを得ざるものであった」とされる次元で、既に〈ボクラ少国民〉国民学校世 代は切り捨てられていることを認めざるを得ないのである。また、切り捨てることにより、彼等は抵 抗なく、その後も教科書を作り得たのである。


 入江さんは結びの一節を「アジアへの視点」と題して著書を閉めています。
 第二次世界大戦は、日本によるアジアの解放のための戦争だった、とする認識が、いま日本人のなかに ひろがりつつある。「侵略」という精神的な重荷を背負いつづけることに倦き、あるいはまったくその自 覚がないままに「親たちの世代」の責任をわが荷物として負わされることに不満を感じる戦中派以後の人 々にとって、それは目から鱗が落ちる思いの新しい説明であり、耳ざわりのいい救いであるだろう。
 その「歴史観」がひそかに囁かれはじめたのは、1966年、かつての紀元節が自民党政府によって建国記 念の日と名だけ改め、国民の祝日として復活をはたしたころから、と記憶する。つづいて1979年、元号法 が国会を通過し、主権在民の現憲法のもとにありながら、これら一連の時代錯誤的法律が論をつくさずに 制定されたことによって、第二次世界大戦の意味もまた変容していくのは、むしろ予定された結果といわ なければならない。
 ことに侵略戦争のスローガンである「八紘一宇」と不可分の関係にある紀元節の復活は、いま新たに アジアのリーダーをもって任じている日本人に、過去のすべての「みそぎ」が終わったという錯覚をあ たえたようである。
 経済大国という金看板を背に、「日本は大東亜戦争で果たせなかったことを、いま経済で果たした」と 豪語する人たち、あるいは、戦後の経済援助と重ねて「日本はわれわれを助けてくれたのだ、と現地の人 たちも言っている」と外交辞令ぐるみで(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)確信をもって 語りはじめた人たち、あるいは東南アジアの街で、「見よ東海の空明けて……」の愛国行進曲をいまな お正確に歌える老人に出会った感動を語る人たち。さらには中国東北部の大都市を訪れ、当時の日本よ り遥かに進んだ都市計画の一端にふれて、日本は戦争で悪いことをしたのではなかったと短絡する人た ちを輩出した。その傾向はいま「侵略」を「解放」と言い換える口当たりのいい国家主義的方向へ収斂 されつつある。

 本書との関連でいうなら、「満洲国」、朝鮮、台湾の植民地での義務教育の普及率を数字とし て挙げて、あたかも日本人が善政をほどこしたことの証左とする人々である。
 しかしそこで行なわれた教育がどのような目的をもち、どのような内容であったかについて は問われていない。このような一見客観を装った指摘は、過去の過ちのうえにさらに新しい過 ちをかさねる行為といわなければならない。
 詳論を必要とするので、ここではあえてその存在の指摘にとどめるが、1945年8月15 日の詔勅のなかにも「朕ハ帝国卜共二終始東亜ノ解放二協力セル諸盟邦二対シ遺憾ノ意ヲ表セ ザルヲ得ズ」の文言はある。しかしその実態が真に「解放」の名に値するものであったか、と いえば、盟邦以上の関係にあった「満洲国」の実態を見れば明らかであろう。実態とまでいわ なくても、その目指すところは同時代の教科書によって窺い知ることができる。
 ことに国民学校の教科書は、終始神代からの「歴史」による天皇の「御稜威」なるものを説 き、その天皇をいただく日本国民の幸福を説き、同じ恩恵を「コレヲ中外二施シテ悖ラズ」の 教育勅語の一節を支えとして「大東亜共栄圏」の人々に施そうとしたものである。しかしこの 「理想」の裏には、「社会主義思想から天皇制を護る」という、教科書では触れない隠された動 機が存在した。1912年に清朝を、1917年にロマノフ王朝を倒壊させた社会革命が日本 に波及することを怖れて、その温床と信じた自由主義思想の根絶に目標があったのである。
 第一章でふれたように、国体明徴運動がもたらした不条理きわまる言論弾圧と表裏一体の、 やみくもな天皇への帰一、「日本は神代の昔から天地のつづくかぎり君臣の身分がさだまって いる」ことの強調。近代国家の歴史とするには論拠薄弱な神代からの口承を、唯一無二の国家 の理念とし、天皇のために死ぬことを当然と信じる「赤子」なるものを錬成するために教育制 度を改変し、国民学校という「皇国臣民錬成の場」を創出したという一事をとりあげても、国 家権力が抱いた「赤化」の恐怖の大きさを察することができる。
 その社会主義思想の防波堤として構想されたのが、変革の対極にある永続、すなわち「万世 一系」であり、「神の国」という日本独自の価値観によって日本民族の優秀性を強調し、「八紘 一宇」という欺瞞的な言葉の融合を名分として、その影響のもとにアジアの国々を置くという 大東亜共栄圏であり、その遂行のための戦争であった。
 現在もっとも説得的に語られる太平洋戦争開戦の原因「連合国による経済封鎖」は、そこま でに至る紆余曲折はあるにしても、以上の政策がもたらした結果にすぎない。いわばアジアの 国々を天皇制の防波境として位置づけたのが大東亜共栄圏であり、そのために東南アジアにす でに芽生えていた独立への動きを利用した、というのが事実であろう。
 したがって、言葉こそ「解放」と美しいが、その実態は、これまでの西欧の植民地支配とは 別種の支配下に組み込むことにほかならない。
 無知は犯罪、という近代の格言がある。それはあらゆる知識に通じるということではない。 知らないでいることに、学ぼうとしないことに値する罪が、この世にそれほど多く在るとは思 わない。しかし大東亜戦争における日本の真意に目をつぶって、「学校で教えなかった」「自分 が直接参加したわけではないから」という類の言訳のもとに、過去を知ろうとしないことを正 当化してアジアと関わるのは、どのような世代に属するにもせよ罪であると思う。
 たとえばこの時代のスローガンに「一視同仁」「内鮮一体」「五族協和」「日満一心一体」な どがある。「八紘一宇」「一億一心」「天皇に帰一」「万世一系」とむやみに「一」の文字が重用 されたが、「内鮮一体」の実態にふれず、「あのときは日本人だったのだから」と名目上平等で あったことを楯として「朝鮮」の痛みを理解しない有識者もみられる現在、この一体の意味は やはり解いておく必要があるだろう。
 たとえば朝鮮総督府より公布・実施された朝鮮国民学校令とそれに付帯する学校教則には、 第一章でもふれたように以下の独自の文言がある。
 「一視同仁ノ聖旨ヲ奉体シテ忠良ナル皇国臣民タルノ資質ヲ得セシメ内鮮一体信愛協力ノ美 風ヲ養ワンコトヲ力ムルコト」
 この項目に含まれた「内鮮一体」 についての方針が、『朝鮮国民学校教則の実践』の一節に 記されている。その言葉についての註を引用しておきたい。
 内鮮一体という事について之を内鮮平等という風に誤解してはならぬ。之は民主主義的 個人主義的観念から来るもので一体という事とは凡そ正反対の概念である。即ち平等感が 強くなれば一体感は弱くなり、一体感が強くなれば平等感が消滅するというように、氷炭 相容れない考え方である。平等感は一対一の対立関係を示し、二元的存在を前提とするも のであって、その均等関係に於いて安定を求めるのである。故に一度均等が破るれば不安 定となり反目嫉視相争うに至る可能性を内包するのである。一体感はかくの如く二元的対 立関係ではなく最も緊密な有機的、内面的結合であって信愛同情を基礎とするのである。 従って権利義務などの平等関係、均等関係でなく一体不二、相互に協力と感謝によって喜 悦を同じくするような有機的に不可分の結合をなすことを意味するのである。

 同じ例は「満洲国」における「五族協和」にも見られる。この場合の協和とは、五つの民族 がそれぞれ対等な国民として協力するのではなく、指導民族の日本人の下に、朝鮮族、満洲族、 蒙古族、漢族の順位が定められ、それをふまえた上での協和であった。
 一視同仁、内鮮一体を唱えながら、朝鮮民族を同時代の「満洲国」においては第二民族とし て位置づけたという事実が、一視同仁、内鮮一体の矛盾を語っている。
 スローガンとは政治の言葉であるという一面は、否定できないが、しかし過去に日本人がか かげた理想と実際の乖離を知る人々は、それを忘れることができるだろうか。戦時中の問題が、 いまだに(うず)み火のようにアジアの人々の心から消えないのは、 日本人が過去に用いた言葉にたいする不信に根ざすところが大きいからであろう。
 そして問題は、同じことが日本人の中から消えつつある、あるいは敢えて忘れられつつある ことであり、と同時にこれらの言葉と意識を支えた特異な歴史観が、完全に過去のものとして 葬られていないという点にある。昨今、私たちの国の教科書問題といえば「歴史」教科書であ った。問題は「歴史」教科書以外にはないかのようであった。しかし、その歴史観を違和感な く受け入れるための初等教育の過程もまた、問われなければならないと思う。
 かりにアジアの人々が問わなくても、自ら問いつづけなければならないことのひとつと思う。 またいつの日か別種の大義名分による大号令にからめとられないためにも……。




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