「日出ずる処の天子」が隋と対等に付き合おうとして煬帝の不興を買ったのに対して、
ヤマト王権は唐にたいしてひたすら朝貢外交に始終し良好な関係を維持していた。この
あたりの事情を古田さんは「日本書紀・舒明紀」と「旧唐書・倭国日本伝」の記事から
読み解いている。
まず、「舒明紀」の記事。
(1)(舒明2年=630)秋八月癸巳朔丁酉、大仁犬上君三田耜(みたすき)・大仁 薬師恵日(くすしゑにち)を以て大唐に遣はす。
(2)(舒明4年=632)秋八月、大唐、高表仁を遣はして三田耜を送らしむ。
(3)(同4年10月)便(すなは)ち高表仁等に告げて曰く「天子の命ずる所の使、天皇の
朝(みかど)に到ると聞き、之を迎へしむ」と。
時に高表仁対(こた)へて曰く「風寒き日に、船艘を飾り整へ、以て迎へ賜ふ、
歓愧(くわんき)す」と。
(4)(舒明5年=633)春正月己卯朔甲辰、大唐の客、高表仁等、国に帰る。
次は「旧唐書・倭国日本伝」の記事。
(A)貞観五年、使を遣わして万物を献ず。太宗その道の遠きを衿(あわ)れみ、所司に
勅して歳ごとに斉せしむるなし。
また新州の刺使高表仁を遣わし、節を持して往いてこれを撫せしむ。表仁、綏遠(すいえん)
の才なく、王子と礼を争い、朝命を宜(の)べずして還る。
貞観五年は西暦で631年に当たる。つまり(A)は(1)と(2)の間に入ることになり、 全てをヤマト王権と唐との外交記事と考えると時間の誤差が生じる。さらにそれ以上に (A)と(3)との外交の実態の決定的な相違点が大きな問題となる。
(A)の記事について岩波文庫版は『礼を争ったことは、日本の記録にないが、当時の 実状としてありそうなことである。』と注記している。このようにして「決定的な相違点」 の解明を試みる学者はいない。古田さんを除いては。
「近畿天皇家一元主義」(従来の古代学に対する古田さんの評語)を止揚した
古田さんの論述は次のようである。
(1)〜(4)のように、両者ともきわめて仲むつまじいままで、帰国に至っている。
これに反し(A)の場合、「王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」というわれている。 史書としては異例のことに属しよう。これも考えてみれば、当然のことかもしれぬ。なぜなら、多利思北孤は、みずから「日出 づる処の天子」を称していた。それが訂正された形跡はない。裴世清は口頭外交をもって、 事態の悪化を回避したにすぎぬ。
したがって、まともに、両者が自己の格式(ともに天子)を主張すれば、大唐の使者と倭 王と、相対するときの座の取り方一つで、衝突することであろう。そしてそれは原理上、和 する可能性はない。なぜなら、たとえば魏使と卑弥呼の対面の場合、必ず、魏帝の代理人たる魏使が上座、卑 弥呼が下座であったことと思われる。
この点、大唐の使者(高表仁)もまた、それを要求し、倭国側は対等(天子同士)を要求 するとすれば、高表仁が倭王に会う前に(前段階に王子と会ったさい)、すでに位取りをめぐ る紛争が生じることは自明だ。高表仁は、四角四面に大唐の立場を主張し、倭国の王子側の 大義名分論とおりあうことができなかったのではあるまいか。この点、舒明の方は逆だ。「天子→天皇」だ。これは前者が優位、後者が劣位なのである。 推古時代、「皇帝→天皇」であって、しかも朝貢の語が使われていた。推古側も、これを容 認して返報している。おそらく舒明時代も、これと同じ態度だったであろう。高表仁はここ に、和すべき相手を見出したはずである。
要するに、近畿天皇家の使者は、九州王朝の使者の配下(地方の雄者、分流)として、同 時に、あるいは前後して、大唐と交流した。しかし、両者の姿勢は、大唐側から見て、決定 的にちがっていた。一方は、戦うべき相手、他方は和すべき相手だったのである。
大唐側は、ただ漠然と決戦に突入したのではない。相手の内側を見定め、戦中と戦後への 手を打っていた。少なくとも、手を定めていたのではあるまいか。
裴世清・高表仁と、相次ぐ近畿天皇家との交流は、そのための下見、あるいは根まわしだ ったのではあるまいか。なお、右のように考えると、一つの不審が生ずるかもしれぬ。大唐と近畿天皇家との交 流が『旧唐書』には現われていないことになるではないか″と。
しかし、実はこの点は不審でも何でもない。なぜなら中国としては、「夷蛮」の各国主の みならず、配下の各豪族とも、幾多交流の歴史をもつ。たとえば、匈奴の単于との交流のみ ならず、各配下の単于とも直接交流が存した。けれども、その一つ一つがすべて匈奴伝に書 かれるわけではない。むしろ、代表の単于との国交のみを記し、他は省略する。その方が原 則なのである。さて、倭国の場合。七世紀代では、中国側が日本列島代表の王者と見なしていたのは、九 州王朝、すなわち倭国の王者だった。「東西五月行、南北三月行」といった表現が、それを 物語っている。
したがって他(近畿天皇家以外にも、吉備や毛野や出雲など)の権力者も、それぞれ中国と の交流を求めたであろう。中国も、礼(上下関係)さえ守れば、こばむところではなかった。 しかし、それらは正史に必ずしも記載さるべきものではないのである。
660年(顕慶5年)
百済の僧、道?、旧将、福信、衆を率いて周留城に拠り、以て叛す。
使を遣わして倭国に往かしめ、故王子、扶余豊を迎え、立てて王と為す。
(百済伝)
(イ)八月庚辰、蘇定方等、討ちて百済を平らげ、其の王、扶余義慈を面縛す。
(ロ)十一月戊戌朔、?国公、蘇定方、百済王、扶余義慈、太子隆等五十八人を献
じ、則天門に俘とし、責(せき)して之を宥(ゆる)す。(帝紀)
百済の将・福信の策戦により王位についた「扶余豊」とは、倭国で人質生活
を送っていた王子である。
これに対し、唐側が擁立していた百済王は「扶余隆」という。上の記事で
福信を「旧将」と呼び、扶余豊を「故王子」と呼んでいるのは、その時点では
彼等は百済の正規な将でも、現役の王子でもなかった、という唐側の立場を
表明していることになる。
662年(龍朔2年)
(7月、扶余豊)又使を遣わして高麗及び倭国に往かしめ、兵を請いて以て
官軍を拒(ふせ)がしむ。
仁軌(帯方州刺史、劉仁軌)、扶余豊之衆に白江之口に遇い、四戦皆捷つ。其 の舟四百艘を焚き、賊衆大潰す。扶余豊、身を脱して走る。偽王子、扶余 忠勝・忠志等、士女及び倭衆を率いて並びに降る。百済の諸城、皆復(また) 帰順す。孫仁師(左威衛将軍)と劉仁願(郎将)等と、振旅して還る。 (百済伝)
いわゆる「白村江の戦」である。唐側が連戦連勝したことを伝えている。
しかし「旧唐書・帝紀」には「白村江の戦い」の記事がない。これについて古田
さんは次のように論述している。
ことは、本質的に、上の(イ)(ロ)の事件であり、顕慶五年という「白江の戦 の二年前」に、すでに、終結していたのである。
では、二年後の「白江の戦」とは何か。百済の叛徒を倭国や高句麗が救援 した。それを新しい百済王の扶余隆と共に、これを討滅した″。いわゆる残敵 掃討戦にすぎないのである。そして叛徒を支援した、高句麗は新羅に、倭国は日本によって、滅ぼされ、 併呑され、消滅した″。さらに新百済も、新羅に併呑された。
以上が、東アジアの中心国たる大唐の目から見た、戦後処理であった。
『旧唐書』『三国史記』によれば「白村江の戦」は662年に戦われた。天智元年に当たる。 しかし日本書紀は天智2年(663)8月としている。こんな大事件なのに一年のずれがある。 関係記事を、古田さんは次のように抄録している。
663年(天智2年)
(A)3月
前将軍、上毛野君稚子(かみつけののきみわかこ)・間人連大蓋(ましと
のむらじおはふた)、中将軍、巨勢神前臣訳語(こせのかむさきのおみをさ)・三輪君根麻呂
(ねまろ)、後将軍、阿部引田臣比邏夫(ひけたのおみひらぶ)、大宅臣鎌柄(かまつか)を
遣はし、二万七千人を率て新羅を打たしむ。
(B)6月
前将軍、上毛野君稚子等、新羅の沙鼻岐奴江(さびきめえ)、二城を取る。
(C)8月
13日
是に、百済、賊(新羅)の計る所を知り、諸将に謂ひて曰く、「今聞く、大日本国の救将、
廬原(いほはら)君臣、健児万余を率ゐて、正に海を越えて至らむ。願はくは、諸将軍等は
預(あらかじ)め図るべし。我自ら往きて白村(はくすき)に待ち饗(あ)へむ」と。
17日
戊戌、賊将、州柔(つぬ)に至り、其の王城を繞(かこ)む、大唐の軍将、戦船一百七十艘
を率ゐ、白村江に陣烈す。
27日
戊申、日本の船師・初めて至る者、大唐の船師と合戦す。日本不利にして退く。大唐陣を堅
くして守る。
28日
己酉、日本の諸将、百済王と、気象を観ずして、相謂ひて曰く、「我等、先を争はば、
彼応(まさ)に自(おのづか)ら退くべし」と。更に、日本の乱伍の中軍の卒を率ゐ、進ん
で大唐の堅陣の軍を打つ。大唐、便ち左右より船を爽(はさ)んで繞戦(じょうせん)す。須臾(しゅゆ)の際、官軍敗続す。水に赴いて溺死する
者衆(おほ)し。艫軸(へとも)、廻旋するを得ず。……其の時、百済王豊璋、数人と船に
乗り、高麗に逃げ去る。
この記事に対する古田さんの論述は次の通りである。
「前・中・後軍」の陣立ての中で、「上毛野君稚子」が筆頭にあげられてある。第二巻 の好太王碑のところでのべたように、王と王子等が先頭に立って戦う慣例から見ると、 この人物のもつ役割は大きい、と見ねばならぬ。
しかし、右の(A)(B)の記事の以後、彼の名は一切現われない(この六将軍のうち、「巨勢 神前臣・三輪君根麻呂・大宅臣鎌柄」の三人も同様、他に現われない。これに対し、「間人 達大蓋・阿部引田臣比邏夫」のみは、あとに出現する。前者は、天武4年4月に「小錦中」を 与えられ、後者は、その前後、活躍したこと著名。斉明期には「筑紫大宰帥」だったようで ある。 ―『続日本紀』養老4年正月27日条)。
(D)690年(持統4年)10月
乙丑、軍丁、筑後国の上陽v郡(かみつやめのこおり)の人、大伴部博麻(おおともべのは
かま)に詔して曰く「天豊財量目足(あめとよたからいかしひたらし)姫天皇(斉明天皇)
の七年(661)、百済を救ふ役に、汝は唐軍の為に虜とせらる。天命開別(あめみことひらか
すわけ)天皇(天智天皇)三年(664)に?(およ)びて、土師(はじの)連富杼(ほど)・
氷連老(おゆ)・筑紫君薩夜麻(さちやま)・弓削連元宝(がんほう)の児、
四人、唐人の計る所を奏聞せむと思欲(おも)へども、衣粮無きに縁(よ)りて、達する能
はざるを憂ふ……」
「筑紫君薩夜麻」が唐側の捕虜となっている。おそらく白江の敗戦のとき(もしくはその 前後)であろう。ところが、戦いの時点には、この人物の名は一切出現しない。
出現するのは、天智10年(671)11月、「沙門道久・韓嶋勝裟婆(すぐりさば)・布師首 磐(ぬのしおといわ) 」と共に、捕囚生活から釈放されて帰ってきた記事がはじめてだ。妙 な話である。
その帰国の秘密の裏側には、(D)にしめされた大伴部博麻が、みずからの身を奴隷に売って、 彼等の帰国の資を得るという献身の美が存在したのであった。では、この「筑紫君」が、捕囚された経緯は何か。『日本書紀』は、明白にそれをカット しているから知りえない。知りえないけれど、分ることは、一に、先の「前・中・後軍」の 中に入っていないこと。入っていれば、1六将軍以上」の存在であることだ。そして先ほど もふれたように、「王」が陣頭に立つ。これが東夷の国々の武勇の伝統であった。好太王碑 にも『三国史記』にも、点々とそれはしめされていた。倭王済の父子も、同じ運命を辿って いたようである。
以上の考察からすれば、答は次のようだ。
(一)筑紫君薩夜麻(天智10年11月項では、薩野馬の卑字)は、対唐戦に参加していた。
(二)「前・中・後軍」の三軍の上にあり、これを陣頭で統率していた。すなわち、右の帰結は次のようだ。――"(A)の三軍派遣の主語は、本来「筑紫の君」であ った″ と。
以上のように理解するとき、この記事は、中国や朝鮮半島側の史書と一致するのである。
倭国の総帥・筑紫君薩夜麻は捕われた。権力と共に権威をも失ってしまった。
上毛野君稚子は騎下のおびただしい将兵と共に消息を絶った。。上毛野君は
かつて武蔵の国造の任命をめぐってヤマト王権と任命権を争ったほどの関東の
大王だ。(安閑紀、元年閏12月)。
ヤマト王権に対して上に立つ、あるいは並び立つ存在は、実質上消え去ったの
に対して、ヤマト王権の中枢は無傷のまま残った。斉明天皇は九州で病没したが、
権力の実質はすでに中大兄皇子(天智)や藤原鎌足の手にあった。
また、ヤマト王権の勢力の浸透した近隣領域も実勢力を温存したまま終戦を迎えた。
例えば、駿河の国造系の豪族とされる廬原君臣の軍一万の到着前に、「白村江の戦」
は起こっている。また、備中の国(吉備)の兵二万は、斉明の病没を理由に戦場に
赴いていない。それは、当時皇太子であった天智天皇の命によったという。
(「備中国風土記」)
上記のような状況を裏付づける記事が「日本書紀・天智紀」にある。664年(天智3年) 、「白村江の敗戦」直後の記事だ。
春二月、己卯朔、丁亥、天皇、大皇弟(大海人皇子、天武天皇)に命じて、冠位
階名を増換し、及び氏上(うぢのかみ)・民部・家部等の事を宣す。
其の冠は二十六階有り。大織(しき)・小職・大縫(ぶう)・小縫・大紫・小紫
・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・
小山上・小山中・小山下・大乙上、大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・
大建(こん)・小建、是を二十六階とす。
前の花を改めて錦と曰ふ。
もしもヤマト王権が「白村江の戦」の総帥だとしたら、敗戦直後のこのはしゃぎようは
異状だ。これを古田さんは「世にも不思議な物語」と言っている。(日本
古代新史)
「法隆寺の中の九州王朝」から、古田さんの詳述を書き出そう。
絢爛たるものだ。前の、推古朝の「冠位十二階」が、九州王朝(倭国)の「冠位 十二階」の準用とおぼしき姿をもっていたのに比べると、その豪華なる序列の施行 は、空前の盛事といっていい。ところが何と、これが白村江の惨敗の記事(天智2年9月)の直後なのである。その間、 わずか4カ月。
おびただしい将兵は異国の白村江に、その空しき屍をさらし、いまだその骨すら朽 ちやらぬとき、筑紫の君のような(たとえ彼を天皇家の配下とみなしてみたとしても)、 主要人物すら捕囚の身にあえいでいるとき、いわんや多くの将兵は、その生死さえ定 かでないとき、もし、近畿天皇家が、この戦の開戦の発動者であったとしたら、この 時期に、こんなきらびやかな、まるで祝典行事のようなものが、できるわけがない。不幸にも、わたしたちにも、経験がある。昭和20年8月、広島・長崎とつづいた原 爆投下のあと、敗戦の15日をむかえた。わたしは18歳を過ぎたばかりのときだった。
では、その4カ月あと、昭和20年の1月、わたしは何をしていたか。広島の廃墟の中 をさまようていた。生きているか、死んでしまったか、行方も知れぬ友人や知人を求 めて空しくさまようていた。広島の一角に、生きのびるためだけに朝を迎え、夕を 送っていた。とても、にぎにぎしい祝典気分ではなかった。その一点においては、廃 墟の中の一つのごみのように生きのびていたわたしと、政府当局のお歴々と、どれほ どの差があるものでもなかったであろう。むしろ開戦責任をもつ当局者にとって、 その悲痛さは、わたしたち庶民とは、また別段のきびしさがあったことであろう。このような経験からかんがえても、近畿天皇家主導の白村江の戦という命題と、 天智3年2月の「二十六階」制定記事とは、氷炭相いれぬものだ。だのに、従来の史学 は、戦前も戦後も、両命題を共に肯定してきた。
戦前の史学では、この白村江の敗戦にふれることが少なかった。しかし、戦後の 史学では、当然ながら、この大事件は、あるべき位置に復活した。ために、右の矛盾 は顕在しているにもかかわらず、それに背を向けたままで、今日に至っている。 しかし、もはやその欺罔は万人の目のまえに明らかにされたのである。
702年(長安2年)
冬十月、日本国、使を遣わして万物を貢す。(『旧唐書』本紀巻六、則天武后)
703年(長安3年)
其の大臣朝臣真人、来りて万物を貢す。
「朝臣真人」は、猶(なお)中国の戸部尚書のごとし。冠は進徳冠。其の頂、花を為し、
分れて四散す。身は紫鞄を服し、帛を以て腰帯と為す。真人、好んで経史を読み、属文を
解す。容止温雅。則天(則天武后)之を麟徳殿に宴し、司膳卿を授け、放ちて本国に還ら
しむ。(『旧唐書』日本伝)
中国史書では701年以降、「倭国」ではなく「日本国」が正式の国名として使用されるよう になる。この長安元年は、則天武后の年号である。またこれと時を同じくして日本国の天皇も 年号を持つようになる。近畿王朝の最初の年号は文武天皇の大宝(大宝元年=701年)であ る。
また、日本国の公式史書は文武天皇の項から「続日本紀」に引き継がれる。そして、 上記703年の記事のような中国への使節の記録は、中国側と日本側の記録(続日本紀)とが ピッタリ一致し始める。
「世にも不思議な物語」(白村江の敗戦直後のヤマト王権のはしゃぎぶり)を解明した文の
最後で古田さんは次のように述べている。
中国側(唐朝)の対倭国外交記事は貞観22年(648)で終り、そのあと「白江の戦」の記事 につづいている。これに対し、代って「日本国」との友好的な国交記事が長安3年(703)から はじまっている。
つまり、中国側(唐朝)の目から見て、明らかに相手国は交替した。白江の戦の「主敵」と もいうべき「倭国」は七世紀未、崩壊した。そして「倭国の別種」と記されている「日本国」、 すなわち近畿天皇家によって吸収されてしまった、というのである。
これなら、これが史実なら、先のような「不思議」はない。きわめて通常である。人間の 理性でうなずくことができる。
『「邪馬台国」はなかった』
『盗まれた神話 ― 記・紀の秘密』
『風土記にいた卑弥呼 ― 古代は輝いていたT』
『日本列島の大王たち ― 古代は輝いていたU』
『法隆寺の中の九州王朝 ― 古代は輝いていたV』
最後に「日本古代新史」(新泉社)の最後の一節を掲載して結びとします。
人々よ、「世にも不思議な物語」と、「人間の理性でうなずける話」と、いずれを自分の国 の歴史事実として認めようとするのか。それは、すでに敗戦の日、わたしたちが心に刻んだ真 実への憧憬、それによって見れば、疑う余地はない。「神風」がはばをきかせるような、いた ずらに奇蹟をうけ入れるような歴史観、それにわたしたちは決然と別れを告げたのではなかっ たか。占領軍が、戦前の教科書を墨で塗らせたとき、かれらはそこまでは考えていなかったかもし れぬ。当然のことだ。かれらなどに、わたしたちの奥深い歴史の真相などわかりようはない。 それは知れ切ったことだ。
そんなこととは無関係に、かれらの思わくなどとは何のかかわりもなく、わたしたちは、真 実を見よう、そう望んだのだ。虚偽の歴史では満足すまい、そう心に誓ったのだ。それは少な くともわたしの青年の日の、他にたぐいなき「事件」であった。今、わたしは見る、歴史の真相を。日本列島の古代の新たな山並みを。そして心の底で叫びか けることができる、「歴史よ、こんにちわ」と。
わたしが別れを告げたのは、天皇家一元主義という虚偽の史観だ。だが、九州王朝中心主義を もって、これに代えるべきか。 ――否。近畿においても、すでに天皇家以前に銅鐸国家があった。九州には、天皇家の母国があった。 沖縄列島やその彼方には、そのさらにはるかなる祖源の地があったのかもしれぬ。
また関東や東北、北海道には、卓抜にして秀麗な縄文文明があった。甲・信・越にももちろん。
それらの全光景を視野におさめつつ、わたしはいわねばならぬ。 ――多元的な古代世界が、 わたしたちの愛する山河、この日本列島の上に存在していた、と。そのような展望の中でこそ、近畿天皇家がその中で果した、相対的な、適正な位置、それが ハッ キリと浮かび上がってくるのである。そしてよき面も、悪しき面も、冷静に、 真実に理解することができるのだ。そのような新鮮な目が 若い人々の中に誕生したとき、新たな数々の独創の湧き上がる時代、そのような豊かな未来が わたしたちの眼前に待ちかまえていることとなろう。