トップへ戻る   目次へ戻る

348 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(1)
戦後史学批判
2005年8月1日(月)



 これからお世話になる古田武彦さんの著書を改めて挙げておく。
『「邪馬台国」はなかった』
『日本列島の大王たち』
『盗まれた神話 ― 記・紀の秘密』
        (いずれも朝日文庫版)

 さて、古代史解明のための文献(『記・紀』、中国の諸史書など) を「一切の先入観を排し、まず原文全体の表記のルールを見出す。つぎにそ のルールによって問題の一つ一つの部分を解読する。」という「もっとも常 識的な」研究方法を、古田さんは一貫して自らに厳しく課している。

 しかしこの常識的で最も実り多いはずの方法が戦後古代史研究からすっぽり と落ちている。なぜか。津田理論を金科玉条の大前提としているためである。 その大前提となっている「定見」はつぎのようであった。

 『記・紀』には造作が多い。つまり、その神話や説話は、後代天皇家の史官 が勝手に造りあげたもので、その記述を直ちに史実と認めることはできない。
 それでは何を基準に史実か否かを判別するのか。中国の史書を頼るほかない。

 一例。
 宋書(5世紀頃)に、「讃・珍・済・興・武」と呼ばれる倭の五王が南朝劉宋 の天子に使者を送っている。五世紀のこれら王者たちは『記・紀』に書かれ た「応神・仁徳・履中・反正・允恭.安康.雄略」の各天皇のいずれかに当る にちがいないとし、戦後の研究者はこの比定を大きな拠点とした。
 この方法(日中両記事の結びつけ″)は、すでに江戸時代、松下見林とい う民間の学者が『異称日本伝』の中で試みているという、この松下理論が、戦後 史学によって、ふたたび取り上げられることになったというわけだ。
 古田さんは戦後の古代史学をリードした井上光貞の文を引用している。

 原則としていうと、倭五王に該当する五世紀の天皇たち以後、仁徳または 履中以後は、天皇の名ばかりでなく、続柄も、皇居も、后妃も、皇子女も、 代々正しく伝えられた所伝を記録したものとみてよいであろう」(『日本国家 の起源』)

 つまり、津田理論の『記・紀』批判をふまえたうえで、「『記・紀』のこ この部分は信用できる」といっている。「倭の五王」以前が濃い霧の中 で混迷しているのは、けだし当然というべきか。

 ところで、『記・紀』の「応神〜雄略」の項には宋と通行していたという 記事はない。この不一致は一体どう説明すればよいのか。
 「『記・紀』の記事は信用できないのだから、一致しなくても一向に差し 支えない。一致するところだけ採用すればよい。」これが戦後史学が拠ってたつ 基本的な研究方法だ。自説と矛盾する文言に出会うと「それは後世の造作だ」 とか「それは記録者の誤記だ」とつじつまを合わせる合理化が研究と呼ばれて いる。単なるこじ付けとしか思えないような議論のもある。この方法の行き着く 極限として、古田さんは川副武胤という学者の例をあげている。「盗まれた神 話」から引用する。

 津田は「神武東征」の説話に対し、これは全く歴史事実とは関係がない。 皇室が「日の神の子孫」とされたため、たまたま字づらがそのイメージに合う 「日向」(宮崎県)という地名をえんで「神武東征の発進の地」に 仕立てあげた(ヽヽヽヽヽヽ)のだ″と主張した。 つまり、美しい文字づらがお話の展開のために利用されただけであって、実際 の宮崎県の地は、皇室の祖先とは全く関係がない ― こういうのである。

 このような津田の解釈の方法を『古事記』全面におしすすめたのが川副だ。 たとえば、神武以降各代の天皇の名に「日子(ひこ)」という字のつくものが 多い(カムヤマトイワレヒコ〔神武〕、シキツヒコタマデミ〔安寧〕等)。 これらはすべて「日の子孫」というイメージにもとづく作者の創作だ、という のである。それだけではない。「春日」「日下」をはじめ、「日」のつく 地名・神名・人名、また「日を背負って戦う」とか「末だ日出でざるの時」の ような「日」にちなむ句が『古事記』全面にちりばめられている。これらはす べて作者(丸邇臣(わにのおみ) の一族と推定)が造り出し、「日」をめぐる独自の構想をもって配置した 「天才的な頭脳の産物」にほかならぬ、というのである。

 川副があげた造語の秘密≠フ一例をあげよう。彼によると、出雲神話の 神名を連想させる「一言主神」という神名は、「天皇」という字の変形だ、 という。その理由はこうだ。
 (1) 「一言主神」と「天皇」とは、両者とも字画の総数が13である。
 (2) 両者とも左右相称の字から成り立っている。
 (3) 「天皇」の文字は「天」の第一画から数えて第七画は、かぎ (曲)形であり、「一言主」も「一」から数えて第七画は同様である。
 (4) 「天皇」の文字をつぎのように分析してみる。
     @一、A大、B白、C王。
 上のA、Bの「大日」は大いにまうす≠ニ読み、天皇の「言」(ことば )≠フ意味であり、「王」は「主」と同義だから、「一言主=天皇」である。 (川副「日本神話」341〜2ページ)。


 すごい!まさに天才的な分析だ。しかし、素人の常識はこんなご都合主義の 言葉遊びのような理論を肯えない。このような研究方法をもってしてはいかな る真実も掘り出すことはできないだろう。





トップへ戻る   目次へ戻る

349 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(2)
「倭の五王」とはだれか
2005年8月2日(火)



 ところで、「倭の五王」を「応神〜雄略」に比定する「定説」は教科書に も載っている。学者の結論を信じて、私たちはそれを受け入れていた。しかし、 割り当てられた『記・紀』側の各王「応神〜雄略」の和風の呼び名とも漢風 の諡号とも何の関係のない「讃・珍・済・興・武」という名をどのようにし て「応神〜雄略」に結びつけたのか、疑問に思っていた。知りたかったが、 その説明に出会ったことがない。
 ところが「盗まれた神話」にそのことが取り上げられていた。

 以上のべたように、津田史学を始発点とL、川副理論を終着点としたのが、 日本古代史の戦後史学であった。それは敗戦後から現在まで、この約30年間(「盗まれた神話」 の出版は1975年…仁平)に出現した一切の古代史研究中の「定説」の座を占めていた。
 その中では、史実と『記・紀』説話とのくいちがいは、−遠慮せずにいえば−真面目に 考えられることがなかったのである。なぜなら、すでにくりかえしのべてきたように、津田の 「記紀造作」説を自明の前提としてきたからだ。しかし、意外な地点から問題は急旋回すること となった。日本古代の史実を示す基準として、疑いなきものとされてきた倭の五王や高句麗好太 王牌か、実は近畿天皇家とは無関係だということ、その事実が判明してきたからである。

 古田さんは「近畿天皇家」という言い方をしているが、私はいままで通り「ヤマト王権」とい うことにする。また古田さんはこの節では「倭の五王」と「高句麗好太王牌」の2点の問題解明を しているが、まずは「倭の五王」の場合の驚くべき真相を伺おう。
 これまで五王を「仁徳〜雄略」と結びつけてきた唯一のきめ手は「人名比定」だった。たと えば、五王の最初「讃」を例にとろう。これには「履中」説と「仁徳」説がある。
 まず、履中天皇にあてる論者は、履中の名「去来穂別(いざほわけ)」の第二音「ざ」を中国側 が勝手に抜き出して「讃」と表記したのだ、というのである(松下見林『異称日本伝』)。これに対 し、この「讃」を仁徳天皇にあてる論者は、仁徳の名「大鶴鶉(おおささぎ)」の第三・四音に当 る「さ」または「ささ」を切りとって、中国側が「讃」と表記した、というのである。
 これらの説の背景をなす、暗黙の前提はこうだ。つまり、日本側の長たらしい王名は、中国側 の名のつけ方に合わないので、中国風の一字名称(たとえば、魏の曹操の名は「操」)の形に強 引に直したのだ、という想定である。

 いやー、びっくりしたな、もう。こんな恣意的で脆弱な理論が定説の根拠だったとは! 従来の古代史学がまったく信じられなくなってくる。
 それでは「一切の先入観を排し、まず原文全体の表記のルールを見出す。つぎにそ のルールによって問題の一つ一つの部分を解読する。」という古田さんの研究方法による 結論ははどうか。
 上記のようなこじつけに疑問を感じた古田さんは、『宋書』全体の夷蛮(中国周辺の国々)の王名を 調査した。すると、四字・七字といった長たらしい名前の王名が続々見つかった。一音勝手切 り取り表記″など、『宋書』中、例がないという。
 阿柴虜(あしりよ)(遼東鮮卑)とか 舎利不陵伽跋摩(しやりふりようがばつま)(?達国)といった風に 4字・7字といった長たらしい名前の王名が続々見つかってきたのである。だから、もし「イザホワケ」 なら、たとえば「夷坐補和卦」といった風な、五字表記をするはずであって、一音勝手切り取り表 記″など、『宋書』中、例がない。そういうことがハッキリしたのである。つまり、従来「仁徳〜雄略」 を五王と結びつける論証とされてきた唯一の鍵が、実は鉄の鍵ではなく、泥の鍵″だったというわけ である。

 「一切の先入観を排し」て判断すれば、従来の「定説」は誤りであり古田さんの説が正しいというこ とは、私には自明のことと思える。
 それでは「倭の五王」はどこの王なのか。
 そればかりではない。倭王武の上表文にあらわれている有名な文句、

東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。

は、中国の都(南朝劉宋の建康〔今の南京〕)を原点とした表記であり、近畿を原点としては理解 しえないことがわかってきた。
 なぜなら、倭王武は自分のことを二回も「臣」と書いている。中国の天子を中心にした大義名 分のもとに、この文面は作られているのだ。だから、「衆夷」とは、自分たち(東夷)をふくむ 周辺の倭人(九州)を指す表現であり、「毛人」はさらにその東(瀬戸内海西半分〔強〕)である。 近畿を原点とした従来の読み方では、倭王が自分を「天子」の位置におき、西を「夷」と称し、 すぐ東を「毛人」と称したこととなる。「東夷の国々」の一つとして記された倭国の記事として、 これはめちゃくちゃ≠ニしかいいようがない。こんなめちゃくちゃのままで、中国側が正規の 史書に記録する。こんなことは、断じてありえないのである。また、朝鮮半島南半部を指す「海 北」という表現も、九州を原点とした場合において、もっともスッキリすることはいうまでもあ るまい(これらの点、詳しくは「失われた九州王朝』第二章参照)。


 戦後の古代史学が深い霧の中で混迷し続けてきた大きな原因は「記紀は造作」説ばかりではない。 他の一つに、5世紀〜6世紀の王権が「ヤマト王権」だけであり、その「ヤマト王権」が近畿周辺だけではなく、西 は九州から東の関東地方ぐらいまでの征服を果たしていたという誤った思い込みがあった。「ヤマト王権」一辺倒 の陥穽に落ち込んでいたのだ。
 「倭の五王」は九州王権の大王たちだった。





トップへ戻る   目次へ戻る

350 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(3)
「建国記念の日」=「紀元節」のバカバカしさ
2005年8月3日(水)



 記録しそこなった幻のバックナンバー「第334回」(7月17日)に書いたことで 2点訂正したいことがある。

第一点。
 そのときイワレヒコの即位年月日を誰がどのように計算したのかという長年持っていた 疑問を提出した。そのときは古事記や日本書記に記載されているヤマトの王の年 齢や在位期間などをこねくり回して計算したのではないかと思い込んでいた。 さにあらず、だった。

 日本書記のイワレヒコ即位の記事は次のようになっている。

辛酉年(かのとのとりのとし)の春正月(むつき)の庚辰(かのえ たつ)の朔(ついたちのひ)に、天皇、橿原宮に即帝位す。是歳を天皇の元年 とす。

 日本古典文学大系「日本書記・上」(岩波書店)の補注にこの記述についての 学説の紹介があった。この紀年問題をめぐって「多くの学説があるが、学界で最 も広く受け入れられている代表的な説」ということで、那珂通世(1851〜1908) の説を紹介している。その部分を引用する。

 書紀が神武即位を上述のように定めたのは、中国から伝えられた讖緯の説に よるものであるとした。すなわち、三善清行の革命勘文に引用された緯書によ り知られる辛酉革命の思想では、一元六十年、二十一元一千二百六十年を一蔀 とし、その首の辛酉の年に革命を想定するのであって、この思想の影響の下に、 推古天皇九年辛酉より二十一元の前に当る辛酉の年を第一蔀の首とし、古 今第一の大革命である人皇の代の始年に当る神武の即位をここに置いたの である。その結果書紀の紀年は実際の年代よりいちじるしく延長され、不 自然に長寿の人物を多く巻中に出現せしめた。試みに神功・応神二代の紀 年を朝鮮の歴史と比較するに、両者の干支符合して、しかも書紀は彼より も干支二巡百二十年古いこととなっている事例が多多見出される、百済の 近肖古王以下の時代においては、彼の年紀に疑うべきところなく、これを 古事記に記入された崇神以下各天皇の崩年干支との関係と併せ考え、この 二代の書紀紀年は百二十年の延長あるものと考えざるを得ない、雄略紀以 後は大体朝鮮の歴史と符合するので、紀年の延長は允恭紀以前にとどまる とみてよかろう、干支紀年法は百済の内附後に学んだものと考えられ、朝 鮮との関係のない崇神以前の年代は推算の限りではないけれど、試に一世 三十年の率を以て推すに、神武は崇神九世の祖に当るから、崇神までの十 世の年数は三百年ばかりとなり、神武の創業は漢の元帝の頃(西暦一世紀 前半頃)に当るであろう、というのである。

 「蔀」だとか「首」とか知らない用語があるが、いまは「辛酉」の年に 「大革命」が起こるという中国の「讖緯(しんい)説」に依拠しているとい うことを知れば足りる。これをもって「建国記念の日」とは、笑わせるじゃ ないか。

 上記引用文中の「ヤマト王権」と朝鮮との関係、特に「肖古王」との関係は 「ヤマト王権」の詐術・欺瞞を解く大事な役割をする。いずれそれを取り上げ ることになる。

 ところで、この那珂説について古田さんが次のような辛辣なコメントを 寄せている。

 この那珂理論は、ことの、より重要な反面を故意か偶然か見落している。 あるいは欠落している。なぜなら「革命」とは、「前王朝を武力で打倒する」 事実を前提とした術語だ。その不法行為を「天命」によって合理化した言葉、 それが「命を(あらた)める」ことだ。すなわち、 これこそ天命が前王朝から我(打倒者)に移ったため、と称するのである。し てみれば、前王朝の存在なしに、この「革命」の語、もしくはその概念を用う ること、それは全くありえないことだ。
 だから、『日本書紀』の編者が神武即位に「辛酉」をもって当てたというこ と、それはとりもなおさず、「それ以前に、前王朝が存在した」という主張を ふくむことになる。むしろ、それを自明のこととして、前程しているのである。 その前王朝の仔細について書くのは、もちろん『書紀』の目ざさざるところ。 しかし、大義名分上の立場は右のごとし。疑う余地はない。

 してみれば、「わが国は、神武即位をもって建国された」というような思考 法 ― 本居宣長が強調し、平田篤胤が熱狂的に拡大し、明治維新政府が「紀 元節」としてこれを定式化した歴史観、そして今日の「建国記念の日」制定に 至るまで、これに盲従してきた人々の立場、それは決して『日本書紀』という 古典の立場ではなかった。八世紀の『書紀』の編者たち〔『古事記』はもちろ ん)は、後代の彼等ほどには、狂信的な皇国史観の持主ではなかったからであ る。(「日本列島の王者たち」より)


 「紀元節」のばからしさはさて置き、古田さんのコメントには 大変大事なことは含まれている。
 「それ以前に、前王朝が存在した」。「ヤマト王権」はその前王朝から権力 を簒奪したことになる。そのことについては、そ知らぬふりをしていたかった のに、日本書記がはからずもそのことを漏らしてしまったということだ。
 ではその「前王朝」とはどんな王権だったのか。





トップへ戻る   目次へ戻る

351 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(4)
倭人は1年に2度年をとった!
2005年8月4日(木)



 記録しそこなった幻のバックナンバー「第334回」(7月17日)に書いたことで 2点訂正したいことがある。その第ニ点。

 前回の那珂通世説の紹介文の中に、神武の即位を紀元前660年とした結果、 「書紀の紀年は実際の年代よりいちじるしく延長され、不自然に長寿の人物を 多く巻中に出現せしめた。」というくだりがあった。私もずーっとそのように思 い込んでいた。そこで「ヤマト王権」の初期大王の享年を古事記から調べて 在位合計年数を推測したものを、「第334回」の記事に掲載した。ところが、 である。

 魏志倭人伝の筆者・裴松之が倭人伝中に『魏略』から次の記事を引用している。

魏略に曰く「其の俗、正歳四節を知らず。但々春耕・秋収を計りて年紀と為す」

 古田さんの解説によると「正歳は陰暦の正月、四節は暦の上の春夏秋冬をさ す。つまり正歳四節とは陰暦の体系をさしている。」
 これに続く古田さんの論考は次の通りである。

 この文章は、すなおに理解すれば、倭人は「春耕」と「秋収」の二点を 「年紀」とする、つまり「一年に二回歳をとる」という意味だ。この解読の正当 なことを示すのは、倭人伝のつぎの記事である。

その人、寿考(ながいき)、或は百年、或は八、九十年。

 前にのべたように「或はA、或はB」の形は「AかBかである」という形だ。 つまり、倭人の寿命は平均「九十歳くらい」の長寿だ、というのである。従 来は倭人伝全体を「誇張のプリズム」を通して見てきた。だから、「ああ、 ここもか」で片づけられたのである。けれども、今はすっかりちがう。倭人 伝は実地の実際について、おそろしく正確なのである。一方『三国志』中、 死亡時の年齢の書かれているもの90名(全332名の2割7分)について、その年 齢を平均すると、「52.5歳」である。このうち、とくに高齢者であるた め記載された例をのぞくと、「30代と40代」が頂点となっている。
 これにくらべると、倭人は「約二倍の長寿」となっている。しかも、これを もはや簡単に「誇張」視しえない、とすると、どうなるか。その回答の鍵は、 先の『魏略』の文によって与えられる。すなわち、この「倭人寿命」の問題は、 魏使の「直接の調査・統計」によったとは考えられないから、当然「倭人の知 識」を聞いて書かれたのである。そのとき倭人の「年齢計算法」は、魏の「正 歳」の二倍、つまり「一年に二回歳をとる」方法だったのである(この間題は、 『日本書紀』・『古事記』の史料批判に対して深刻な影響を与えるものである。 これについては、別に執筆したい)。(『「邪馬台国」はなかった』より)


 たしかにこの事実は「『日本書紀』・『古事記』の史料批判に対して深刻な 影響を与え」ずにはおかないだろう。何の先入観にもとらわれずに『日本書 紀』・『古事記』の史料批判を綿密にやり直さなくてはなるなまい。古田さんの 諸説がその研究の結果というわけだ。

 というわけなので改めて「記・紀」の初期大王(イワレヒコから16代ホンダ ワケまで)の享年と在位年数を調べてみた。 (在位年数は日本書記による。直接の記載がない場合、私が計算・推測したも のなので正確ではないが、大きく違うことはないと思う。)


   古事記  日本書記  在位年数
 1   137    127     76
 2    45     84     33
 3    49     57     38
 4    45     77     34
 5    93    113     83
 6   123    137     102
 7   106    128     76
 8    57    116     57
 9    63    115     60
10   168    120     68
11   153    140     99
12   137    106     60
13    95    107     60
14    52     52     9
15   130    100     69
16   130    111     41

合計  1583   1690     935

2で割ると
     792    845     467

平均年齢          平均在位数
     49.5  52.8     29.2

 平均年齢「52.5歳」「30代と40代」が頂点(度数のことだろう)という 同時代の中国の集計と比べて「誇大」という批判はあたらないことが分か る。
 また「第334回」で、イワレヒコの「東征」説話に歴史の投影があるとすれば、その時期は それは1世紀から2世紀ごろではないかと推測したが、その推測とも合いそうだ。




トップへ戻る   目次へ戻る

352 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(5)
会稽海外、東鯷人有り!
2005年8月5日(金)



 よく知られているように、弥生時代には二つの異なる文化圏があった。 「銅剣・銅矛・銅戈圏」(以下「銅矛圏」と略す。)と「銅鐸圏」であり、 その接した領域に「混合領域」がある。

 いわゆる「倭国」は北九州を中心とする銅矛圏の国家である。では銅鐸圏には 国家はなかったのか。もちろんあった。そして、もちろんそれは「ヤマト王権」 ではない。ヤマト王権が簒奪した前王朝である。その名は東鯷国(とうていこく)。「日本列島の大王たち」から引用する。

 倭国という呼び名が、中国の史書に現われていたように銅鐸圏の呼び名も、 同じくそこ(中国の史書)に出現しているのだ。

(A)
 楽浪海中、倭国有り。分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。 (『漢書』地理志、燕地)

(B)
 会稽海外、東鯷人有り。分れて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。 (『漢書』地理志、呉地)

 (A)は『漢書』の中の一文だ。古代史の本や教科書などの各所に引用されてい る。著名だ。だが、なぜか、一対をなす(B)の一文が盲点の中にあった。
 見れば一目瞭然、両者は同質の文章だ。『漢書』がすべてこんな文体なのでは ない。この二文だけなのである。したがって一方は燕地((A))、他方は呉地 ((B))にありながら、同一の原資料にもとづいた引文もしくは叙述であること、 これを疑うわけにはいかない。だから、もし(A)をとりあげるなら、そしてその 内容を論ずるなら、当然(B)とワン・セットの形でとりあげるべきだ。そうせず に(A)だけとりあげて、学問的な判断、つまり史料批判など、できるわけがない のである。しかるに、日本の古代史学界のほとんどは、平然と(B)の存在を無視 してきた。これは大きな欠陥だった。
 では、(B)の東鯷人とは、何を意味する名前だろうか。「鯷」は普通なまず″だが、これでは意味をなさない。魚へんをとると、「是」、これには「是非」の「ゼ」と共に、「テイ」と読んではし、かぎり″の意味がある。これだと、東のはしっこの人″の意となる(高句麗(『三国志』)は、高句驪(『同、帝紀』等)とも書かれる。馬の名産地であり、中国に馬を献上したからである。東鯷人も同類ではあるまいか。また、『三国志』の倭人伝でも、「度」と「渡」は共用されている)。


 この後、古田さんは「東鯷」という表記が現れる他の文献をも読み解いて、東鯷国が三世紀初頭までは中国の文献に現れているが、三世紀をもって中国への貢献 を断っている(つまりその存在を絶った)と結論している。
 ちなみに銅鐸圏も弥生末期(三世紀ごろ)をもって消滅している。





トップへ戻る   目次へ戻る

353 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(6)
『記・紀』の中の東鯷国
2005年8月6日(土)



 これから読む部分は「神武東征」(古田さんは「神武東侵」と呼んでいる。)の説話を 史実を反映したものとする古田さんの解読の結果が前提となる。「神武東侵」の論考は いずれ詳しく読むことになるが、いまはその解読の結果である初期の「ヤマト王権」成立 の経緯を簡単にまとめておく。

 奈良盆地に侵略したイワレヒコはその一画を占拠することに成功はしたが、それ以上の成果は なく、むしろ失意のうちに没する。とても「国家」といえたものではなく、やっと地方の 一小豪族として蟠踞したにすぎなかった。
 その後第2〜9代までの王の時代は大和盆地外への勢力拡大はできなかった。初期八代に ついての「記・紀」の記事が貧弱なのはそのためである。(記事らしい記事がないことを 理由に初期九代(イワレヒコも含めて)を「架空のおはなし」とみなすのがこれまでの 「定説」だ。)
 第10代(崇神)・11代(垂仁)の時代になって、大和盆地外への侵出戦争を開始し、 勢力拡大に成功した。銅鐸圏、すなわち東鯷国の中枢部を打倒し、その遺産を簒奪した のである。
 それに次ぐ第12代(景行)の拡大・安定期を経て、ようやく天皇家は、王朝 (正確には、九州王朝の分王朝)としての資格と実質をそなえるにいたった。

 本題に入る前に、一度表にしておくと何かと便利なので、イワレヒコ(神武)から ホンタ(応神)までの和風呼び名と漢風諡号を掲載しておく。(「日本書記」による)


 1 カムヤマトイワレヒコ(神武ジンム)     ⇒一世紀末頃?
 2 カムヌナカワミミ(綏靖スイゼイ)
 3 シキツヒコタマテミ(安寧アンネイ)
 4 オホヤマトヒコスキトモ(懿徳イトク)
 5 ミマツホコカヱシネ(孝昭カウセウ)
 6 ヤマトタラヒコクニオシヒト(孝安カウアン)
 7 オホヤマトネコヒコフトニ(孝霊カウレイ)
 8 オホヤマトネコヒコクニクル(孝元カウグヱン)
 9 ワカヤマトネコヒコオオヒ(開化カイクワ)
10 ミマキイリビコイニヱ(崇神シウジン)
11 イクメイリビコイサチ(垂仁スイニン)
12 オホタラシヒコオシロワケ(景行ケイカウ)
13 ワカタラシヒコ(成務セイム)
14 タラシナカツヒコ(仲哀チウアイ)
15 オキナガタラシヒメ(神功ジングウ)
16 ホムタ(応神オウジン)            ⇒四世紀末頃?

 なお、古田さんの論証によれば、五世紀の倭国の中心(首都圏)は
いまだ筑紫にあったという。

 さて、古田さんは『記・紀』の中から「東鯷国」の存在を裏付ける記事を拾い出して、 次のように論じている。

 成務記および成務紀には、次の有名な記事がある。

(1) 故、建内宿禰を大臣と為し、大国・小国の国造を定め賜ひ、亦国国の堺、及び大県・ 小県の県主を定め賜ひき。(『古事記』成務記)
(2) 五年秋九月、諸国に令し、国郡を以て造長を立て、県邑に稲置を置く。並びに盾矛を 賜ひ、以て表と為す。則ち山河を隔てて国県を分ち、阡陌に随ひて以て邑里を定む。 (『日本書紀』成務紀)

 ここでは、「県」や「県主」といった行政単位や称号が、天皇家によって定められたこと がのべられている。すなわち、創設記事である。
 ところが記紀ともに、成務時代以前に、「県」や「県主」の記事は頻出する。

(a) 此の天皇、師木県主の祖、河俣毘売をして生める御子……。 (『古事記』綏靖記)
(b) 此の天皇、河俣毘売の兄、県主波延の女、阿久斗比売を娶して生める 御子……。(『古事記』安寧記)
(C) 此の天皇、旦波の大県主、名は由碁理の女、竹野比売を娶して生める 御子…。(『古事記』開化記)
(d) 遂に菟田の下県に達す。(『日本書紀』神武紀)
(e) 此の両人は、菟田の県の魁帥なる者なり。(同右)

 創設記事以前に、これらの記事が遠慮なく出現する。これは一体どうしたことであろう か。矛盾だ。この矛盾に対して、本居宣長は苦悶した。ために『古事記伝』の中の成務記 において、長文を割いて弁じている。県に対する語解を種々試みた末、結局「県」とは「御 県の略」であって、天皇の直轄地″のこと、そのように彼は論じた。

 かゝれば県と云は、もと御上田より起れる名にて、又共に准へて、諸国にある、朝廷の 御料ふ地をも云フ、此に大県小県とあるは是なり。

 のごとくである。では、先の矛盾に対しては、いかに回答するか、いわく、

@ さて国ノ造と云物を、此ノ時初めて定メ賜ふには非ず。是レより前にも有りつれど も、此ノ時に更に広く多く定め賜へりしなるべし。(『古事記伝』〕
A さて此に県主を定メ賜ふとあるも、初めて此ノ職を置れたりとには非ず、かの国ノ造 を定メ賜へると同じことなり。(同右)

 このように「定める」とは、「補修」の意で、「創設」に非ず、として一気に中央突破を 図ったのである。
 けれども、冷静に再検証すれば、この企図が暴断であったことは、直ちに判明しよう。な ぜなら、

 第一、『古事記』の他の個所では、「定め(賜ひ)き」とある場合、補修の意ではない。 また宣長も、そのように解していない。

  又木梨之軽太子の御名代と為て軽部を定め、大后の御名代と為て、刑部を定め…… (『古事記』允恭記)

 しかるに、ここだけ、こちらの都合で意味を改変するのは、不当だ。

 第二、もしこれが「補修記事」なら、創設記事がどこにもなく、いきなり補修記事という のは不可解だ。

 第三、「補修」ならば、この回にとどまらず、何回もあったであろう。しかるに、ここだ け補修記事というのでは、おかしい。

 以上だ。宣長の長広舌も、新たな矛盾の馬脚を次々と露呈しているのである。  では、真の回答は何か。


 宣長のつじつま合わせの理論はいただけない。真の答は、当然、次のようになるだろう。
 (1)(2)の記事は、当然創設記事だ。それも、天皇家による創設の記事なのである。
 (a)〜(b)の記事の「県」や「県主」は、当然天皇家任命下のそれらではない。天皇家以前 の、あるいは天皇家以外の行政単位、また称号名である。「神武〜開化」の頃は、 とても行政単位や、その長の称号名を独自に設けるほどの分際ではなかったのだから。

 最後に古田さんは、以上の論定を裏付けるものとして次の2点を挙げて締めくくっている。 いる。

(A)
 先にのべたように『古事記』のしめすところ「神武〜開化間」は、大和盆地内の支配に とどまっていた。しかるに、右の(c)では、大和盆地外の豪族として「旦波の大県主」の名が ある。この称号が天皇家任命下の称号であるべき道理がない。
(B)
 『日本書紀』が語る「革命の論理」、「革命」前の覆された王朝には、行政単位も、その 長の称号名もない、そんなことが考えられようか。神武の前王朝の存在を自明とした 『書紀』の編者は、また天皇家以前の、また以外の、行政単位やその長の称号名の存在を 自明としていた。それゆえ、平然と成務紀に、天皇家による創設記事をおきえたのだ。 このように考えることが『書紀』という文献の事実に則すべき、唯一の見地ではあるまい か。

 以上によって、「神武即位」をもってわが国の建国記事と見なす歴史観、それが不当であ ること、わが国の歴史とは合致せざること、それが証明された。わたしにはそのように信ぜ られる。





トップへ戻る   目次へ戻る

354 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(7)
「日本書紀」がいう「一書」とはなにか
2005年8月7日(日)



「日本書記巻第一・神代上」は次のように書き始められている。

 古(いにしえ)に天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰陽(めを)分れ ざりしとき、渾沌(まろか)れたること鶏子(とりのこ)の如くして、 溟竅iほのか)にして牙(きざし)を含めり。

 そして、その段落の後に次のように「異伝」を記述している。

 一書に曰く、天地初めて判(わか)るるときに、一物(ひとつのもの)虚中 (そらのなか)に在り。状貌(かたち)言ひ難し。……」

 この「一書」とはなにか。
 古田さんは「日本書記」中の「一書に曰く」を丹念に調べ上げている。 各段ごとにいえば、最少1個(第三段)から最大11個(第五段)の「一書」 が引用されていて、総計実に58個もあるという。これは『日本書紀』の成立 以前すでに日本神話を記録した古典が少なくとも11個くらい、成立していた、 という事を意味している。古田さんのコメントを引用する。

これは当然だ。しかし、不思議はこの直後に発生する。巻第三の「神日本磐余 彦天皇(神武天皇)」以降は、バッタリとこの「一書に曰く」が消滅するとい う事実だ。時に「一に云う」といった形のものはあらわれるけれども、質量と もに神代(巻一、二)の「一書」群の比ではない(ただし、書名を明記した外 国史料の引用としては、『三国志』や百済系三史料〔「百済記」「百済新撰」 「百済本記」〕の引用がある。「神代」については、これほど国内に古典がす でに乱立していたのに、神武以降、ピタリとそれがなくなるのはどうしたわけ だろう。

(中略)

 しかしわたしは、『日本書紀』研究史上のいずれの研究書においても、その 理由を明白にのべているものに出会うことができなかったのである。
 一つの史料をあつかう場合、そこになにが書かれているか?″を論ずる前 に、その史料の成り立ちと素性、つまり「史料性格」を吟味しなければならぬ。 それをやらずに、内容だけ論ずるのでは駄目だ。 ― こう考えると、こんな に唐突な出没の仕方を見せている「神代」の巻々の「一書」を、その成立の謎 を解き明かさぬまま、その内容を論ずることは危険きわまりない。わたしには どうしても、そのように見えたのである。


 「一書」からの引用が「古事記」にはまったくないことを手ががりに古田さんは 次のような事実にいきあたる。(そこまでにいたる論証は省く。)
 『古事記』にない ― この事実はなにを意味するだろう。今まで辿り きたった論理に従えば、それは天皇家内伝承にはなかった!″ということ だ。
 では、天皇家内伝承の中にないものが、なぜ『書紀』にあらわれたのだろ う?これも、今までの論証のさし示すところ、他から取ってきて挿入され たもの″だ、 ― この帰結しかない。

 天皇家の神話伝承として、だれ一人今まで疑わなかった『書紀』の神代紀、 それまでが、他からの「接ぎ木」だとは!ある人は失笑しよう。ある人は怒り だすだろう。しかし、論理の筋道は厳としてその一点を指さしているのであ る。


 では「天皇家内伝承」でないのなら、「一書」はどこで創られたものなのか。 ずばり、それは「九州王朝発展史」なのだ。むろん九州王朝の神話も収録され ている。その「一書」の書名も「日本書記」に現れている。

 日本旧記に云わく。「久麻那利(こむなり)を以て末多王(またわう)に 賜ふ」と。蓋し是、誤りならむ。久麻那利は、任那国の下?埠呼?県 (あらしたこりのこほり)の別邑(わかれむら)なり。(雄略紀)

 この「日本旧紀」は「記・紀」以前にあったとされる天皇家の史書「帝紀」 や「旧辞」などとは、もちろん、異なるものだ。「日本古典文学大系」 (岩波書店)の頭注には「この書、他に見えず」とある。

 古田さんは「日本旧紀」という書物を分析し、文献資料として次のように 位置づけている。

 『古事記』や『旧事紀』と「日本旧記」との間には、大きなちがいが 一つある。それは前者が「古事の記」「旧事の紀」という書名をもつの に対して、後者はズバリ「旧記」である点だ。つまり、前者の場合古事 や旧事を今記した書″という意味だ。ところが、後者の場合、「旧」は 「記」にかかっている。つまり、古い時点ですでに記録された本の類集″ 古い記録類の集成書″という意味をもっているのだ(「古くから書かれ た一冊の本」そのものなら、今あらためて「旧記」と呼ぶ必要はない。もと の書名のままでいい。「旧記類の今の類集書」であるからこそ、今「日本 旧記」と名づけられたのである)。
 いいかえれば、この本の成立自体は先にのべたように六世紀中葉だ。だが、 その「六世紀中葉」という「今」において、旧来の伝承を記録した、そういう 本ではない。六世紀中葉から見て、より古い時代にすでに記録されていた資料 類がその内容だ。だから少なくとも五世紀段階に成立していた多くの記録類を 「今」(六世紀中葉)の時点で集大成した、 ― そういう性格を示す書名な のである。

 「日本書記」の「神代紀」の舞台は九州であり、九州王朝の神話である。だ から「神代紀」に頻出していた「一書」群が、神武以降つまり九州が舞台でな くなったとたんに、姿をけしてしまったのだ。つまり、この一線を境に依拠 すべき資料・史料がすっかりちがってしまったのだ。

 「日本書紀」は最も肝心なところで、「日本旧紀」からの接ぎ木、挿入、 改ざん、剽窃によって出来上がっている。そのように読むと、いままで「謎」 とか「矛盾」とかされながら解決されないまま放置されていた種々の問題が が濃い霧が晴れるように解決されてしまう。





トップへ戻る   目次へ戻る

355 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(8)
「古事記」対「日本書紀」
2005年8月8日(月)



 「記・紀」による古代史解読の論考に立ち入る前にもう一つ明らかにしておきたいこと がある。
 「一つの史料をあつかう場合、そこになにが書かれているか?″を論ずる前 に、その史料の成り立ちと素性、つまり「史料性格」を吟味しなければならぬ。 それをやらずに、内容だけ論ずるのでは駄目だ。」
 これは前回引用した文中の一説だ。「記・紀」についても、その「史料性格」を 知っておく必要があるだろう。

 古事記については「序文偽作説」とか「本文偽作説」とか研究史上(江戸時代から) 絶えることがないという。
 偽書説の主論拠は次の二点だ。

(一)

 『続日本紀』の和銅五年項に、『古事記』撰進の記事がない。他の項にも、一切出 現しない。
(二)

 『古事記』の写本は、奈良・平安・鎌倉期とも一切なく、南北朝期(14世紀)になって  やっと出現した(真福寺本)。

 この二点について、古田さんは次のように述べている。

 『古事記』ほどの本が本当に和銅5年に作られ、元明天皇に献上されたとしたら、 『続日本紀』にそれが全く記載されないのは不可解だ″ ― これがあらゆる古事記 偽書説の不滅の源泉″だった。たしかにもっともな疑いだ。そして従来のいかなる 偽書否定論も、この問いに対する明快な解答を用意しえなかったのである。
 けれども、今までの論証の立場に立つとき、これに対する答えは決して難解ではな い。その第一のポイントは、「削偽定実」という共通の「天武命題」に立ちながら、 これに対する具体的な実行方法は、『記・紀』両者全く相反している、という点だ。 『古事記』はその大体において、天皇家内伝承に依拠してそれを記録化した。しかし、 『書紀』はこれに満足しなかった。九州王朝の史書たる「日本旧記」、九州王朝と百 済側との交渉史たる百済系三史料(「百済記」「百済新撰」「百済本記」) ― こ れらを続々と切り取って″きて近畿天皇家そのものの歴史として編入し、新たに構 成した。 − 端的にいって実在の歴史ならぬ、仮構の歴史の「新作」の史書だった のである。

 その切り取って″編入した説話や史実を解読していく見事な論考の数々を次回から 読んでいく予定だ。ここで古田さんがあげている例は「景行の九州大遠征」。これは、 『書紀』においては完全な史実″として記載されているが、『古事記』には全くない。 つまり『古事記』においては史実″ではないということなのだ。
 現代の学者たちなら、どうせ作り話だから……″とか、それぞれ、そのような異 伝があったのだろう″として、さして抵抗感もなく、物わかりよくこれに対応できるか もしれぬ。
 しかし、『書紀』は決して歴史理解の一説″として書かれているのではない。これ が真の歴史である″という、近畿天皇家の「正史」として、書かれたのである。つまり、 近畿天皇家にとって以後、これが史実であり、これ以外は史実ではない″として、決定 されたもの、いわば検定ずみの書、国定版の「公認の歴史」なのである。
 これに対して『古事記』はどうだろう。そのような歴史の大がかりな虚構操作≠ニ 新編成≠ノは与せず、内面から近畿天皇家の正統性を語る ― そこにとどまっている。 つまり、和銅5年(712)から養老4年(720)に至る元明・元正の間において、少なくとも 二派の立場が存在したのだ。権力による積極的、全面的な歴史変造を実行しょうとする一 派と、そこまでは踏み切れない一派と。
 そして「帝王本紀」の業績を承けた前者の立場が「正史」としての権限をにぎったので ある。 ― これが『書紀』だ。

 検定不合格の『古事記』の運命はどうなるか。
「正史」なる『書紀』の内容が事実である限り、それに反する『古事記』の内容は事 実ではない。つまり、権力の手で検定された、公認の「正史」が『書紀』なら、これ に反する『古事記』は「偽史」なのだ。一言にしていえば、この両書は倶に天を戴 くことのできぬ″関係にあったのである。とすれば、同じく「正史」たる『続日本紀』 に、どうして両者の成立を並載できようか。
 一般に、『続日本紀』は記録性が高い、といわれる。それは事実だ。しかし、それは そこに書いてあることは事実だ″というにとどまる。決して権力検定の手がこの 「正史」には、とおっていない″という意味はもたぬ。それは当然だ。だから、「九州 王朝の歴史統合(盗用)」の道が権力の方針として決定されたあと、「正史」として正 面に出ることを拒否された『古事記』、それは書かれなかった ― それだけなのだ。 書かれている″としたら、その方がよっぽど奇妙″なのである。

 この「記・紀」の「史料性格」についての論考にも、私は全面的に賛意を表すほかない。 そうすると、生き残っていた真福寺本が姿をあらわすまでの約600年間、 「古事記」が存在しなかったことも何ら「謎」ではなくなる。
 近畿天皇家は『古事記』を「公認」せず、流布させなかった。奈良・平安期に朝廷で盛ん に行なわれたのは、『書紀』の講読であって、『古事記』の講義など一切なかったのであ る。
 だから、『古事記』が南北朝期になって突如として″出現したのは、近畿天皇家内の 公的なルートではなく、一種秘密のルート″、つまり、私的なルートから流れ出た″ ものと見られる。おそらく、太安万侶自身の家の系列にながらく「秘蔵」されており、そ の線から、長き時間の暗闇を経過して、やっと「浮上」した写本。それが真福寺本なのでは あるまいか。もちろん、その伝来の詳細は一切不明であるけれども、『古事記』出現の仕方 が『書紀』の公然たる流布と全く異なるというこの事実は、『記・紀』の性格のちがいと、 そのためにたどった両書の運命の隔絶を知りえた今、あえて不審とするにはあたらないので はないだろうか。
 今、『記・紀』と並称される、この二書の間には、権力によって公認されたものと、され ないものと、その差別がハッキリと横たわっていたのである。




トップへ戻る   目次へ戻る

356 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(9)
熊襲はどこか(1)
2005年8月9日(火)



 古田さんによると、「日本旧記」という古記録のアンソロジー本は6世紀中頃 に成立したという。「ヤマト王権」が「日本」という国名や「天皇」という大王の呼称を 用いるようになったのは7世紀中頃〜8八世紀初めだから、それ以前の書名に「日本」 が使われるのはおかしいと思った方がいるに違いない。私もそう思った。しかしこれも 訂正しなければならないようだ。「日本」や「天皇」はヤマト王権の独占用語 ではなかったのだ。
 百済系三史料(「百済記」「百済新撰」「百済本記」)には 倭国との交渉史が記録されているが、そこに「貴倭・倭国・日本」「天王」「日本の天 皇」等の名称が記載されているという。その交渉史上の「倭国」は九州王朝だから (このことは追々明らかにされるだろう。)そこに記載された各種名称も当然九州王朝 を対象としたものとなる。

 前著(『失われた九州王朝』)で明らかにしたように、「百済記」等の百 済系三史料がいう「貴倭・倭国・日本」「天王」「日本の天皇」等の名称は、いずれも九 州王朝のことである。近畿天皇家のことではない。
 とすると、「日本旧記」という場合の「日本」も、当然、九州王朝のこととなるほか ない。この「日本」という国号について、前の本をふりかえってみよう。近畿天皇家が 「日本」という名称を使いはじめたのは、七世紀の半ば、もしくは八世紀のはじめからだ (『三国史記』によると670年。『史記正義』によると、八世紀初頭、則天武后のとき)。 そこで従来の論者は、「日本」という国号の使用自体、七世紀以前にはなかった、と信じ てきた。これは、近畿天皇家至上主義と唯一主義の大わくの中にみずから知らずして、 しっかりととらえられてしまっていたからである。(「盗まれた神話」より)

 次々と確かだと信じられてきた「定説」がくつがえされていく。実にスリルがある。 ミステリー小説より面白い。いま私の趣味の一つであるミステリー読書が すっかりお留守になってしまった。

 さて、「記・紀」からこぼれ落ちてくる史実を救い出していく古田さんの見事なお手並 みを楽しむことにしよう。まずは九州王朝とは何か。
 ヤマト王権が日本征服を進める上での最大の難敵が熊襲だった。古田さんがまず問題に 取り上げたのは「熊襲」だった。その熊襲はどこにあったのか、と古田さんは問う。
 「定説」は南九州である。この「定説」の史料上の根拠は何か。『古事記』の国生み神話 の中に出てくる次の記事だ。

 次に筑紫島を生みき。比の島も亦、身一つにして面四つ有り。…筑紫国は…、豊国は…、 肥国は…、熊曾国は…。

 なるほどこれは明瞭だ。この配置なら、疑う余地もなく、「熊襲=南九州」という定理 が成立できる。従来、疑われなかったのも、無理はない。
 しかし、わたしは考える。蝦夷は東へ移動する″という、有名なテーマがある。 「蝦夷」というのが、東方における「天皇家の未征服民」を指す以上、天皇家の征服領域が 拡大すれば、「蝦夷の住地」もまた、東へ移動するのは当然のことだ(そこで蝦夷と呼ばれ ているものの実体が、同じ種族であるか否かを問わず)。とすると、西なる「熊襲の住地」 も、同じではあるまいか。時代によって、歴史の変転の中で、指す場所が変ってきているの ではないか。つまり、北から南へ移動しているのではないか″というわけだ。――この 考えが、一つの突破となった。
 もし上のようだとしたら、『記・紀』を通じてたった一つしかないこの『古事記』の政治 地図にあてはめて、『記・紀』の全熊襲説話を解読してゆくとしたら、これは危険きわまり ない。

(中略)

 この政治地図の生まれや素性、つまりこれがいつ、どこで、だれによって生み出さ れたかは、不明だ。これらを明らかにしない限り、この孤在した一枚の政治地図に頼って 全熊襲説話を読解する、それは、史料操作のやり方として、慎重さを欠いてい る。―わたしはそう判断するほかなかった。
 では、熊襲の位置を実際に判定するには、どうしたらいいか。この出自不明の地図は一応 わたしの手もとに「保留」しておいて、これとは別個に、熊襲説話自身のさし示す熊襲の 地理的位置を求めねばならない。これがわたしの新しい方針となった。


 そこで古田さんは『記・紀』中の次の三つの熊襲記事全部を精読することとなる。

 @ 景行天皇の熊襲大遠征〔『日本書紀』のみ)
 A 日本武尊の熊襲暗殺説話(『記』『紀』とも)
 B 仲衷・神功の熊襲遠征説話(『記』『紀』とも)





トップへ戻る   目次へ戻る

357 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(10)
「熊襲」とはどこか(2)
2005年8月10日(水)



 古田さんは『記・紀』の説話を解読する際の前提事項として二つの原則をあげ ている。
 わたしは『記・紀』を見る場合、つぎの二つの原則を大前提とする
(1) 『記・紀』は、天皇家中心の「大義名分」に貫かれた本である。
(2) したがって『記・紀』は古来の伝承に対して、天皇家に「有利」に改削・新加 (新しく付加)することはあっても、「不利」に加削することはない。

 まず、(1)について説明しよう。
 すでに前の本で詳しくのべたように、天皇家は永遠の昔から、この日本列島の中心 の存在だったのだ″という「大義名分」が『記・紀』を貫いている。それは「歴史事実 の実証」以前の、いわば「観念」としての大前提なのである。それは国内問題だけではな い。たとえば、

冬十月に、呉国、高麗国、並に朝貢す。(仁徳紀58年)
夏四月に、呉国、使を遺して貢献す。(雄略紀6年)

とあるように、中国(や高麗)との通交さえ、あちらが日本の天皇家に臣従L、朝貢してき たように書いてあるのだ。だから、これは「朝貢」の事実を示す記事ではない。『記・紀』 『記・紀』の大義名分に立った筆法なのである。

 (2)については、健康な常識をもってすれば自明の判断だといえよう。もっともなにが 有利か不利か、理屈をいえば種々疑いが生じよう。たとえばこれは一見「不利」に見える。 しかし、そのような「不利」な事件をのりこえてきたところに天皇家の歴史のすばらしさが あると見えるように、わざと一見「不利」に造作したのだ″といった風に。
 しかし、『記・紀』はトリックにみちた近代の推理小説ではない。天皇家が公的に開示し た正規の史書(ことに『書紀』の場合)なのだから、あまりまわりくどくひねた解釈で強い て「有利」ととる″のではだめだ。簡明率直、万人に与える直裁な印象が問題なのである。

 以上二つの自明の命題、これをわたしは「二つのフィルター」と名づけよう。『記・紀』とい う本の記述には、すべてこの二つのフィルターがかかっている。だから、わたしたちは逆にいつ もこのフィルター越し″に、問題の真相を見つめねばならないのだ。この本の進行の中でいつ も・この方法を厳正に適用してゆくとき、この方法のもつ「深い意味」をわたしたちはくりかえ し思い知らされることとなるだろう。


 さて古田さんの解読を読んでみよう。古田さんは時代の新しい方から始めている。つまり

 B 仲衷・神功の熊襲遠征説話(『記』『紀』とも)

から。

 この説話には地名はただ一つだけ出てくる。「橿日(かしひ)の宮」。 北九州の福岡市の東にある現在の香椎宮(かしいぐう)。タラシナカ ツヒコ(仲哀)がここで死んでいる。ところがその死に方には二通りの説がある。

(一)
(a)
其の大后息長帯日売命(オキナガタラシヒメノミコト=神功)は、当時神を帰(よ) せき。故、(仲衷)天皇筑紫の討志比宮(かしひのみや)に坐(ま)し、将に熊曾国を撃た んとせし時、天皇御琴を招きゐて、建内宿禰大臣、沙庭に居て、神の命を請ひき。
(中略)
爾(しかる)に稍(やや)其の御琴を取り依りて、那摩那摩邇控(なまなまにひ)き坐し き。故、未だ幾久(いくだ)もあらずて、御琴の音を聞かず。既ち火を挙げて見れば、既 に崩じ訖(おわ)んぬ。(『古事記』)
(b)(仲哀)天皇忽(たちま)ち痛身有りて、明日崩ず。(『書紀』本文〉

(二)一に云ふ、天皇親(みずか)ら熊襲を伐ち、賊の矢に中(あた)りて崩ずるなり。 (『書紀』の「一云」)

 『古事記』では「神がかり死」あるいは「自然死」している。『書紀」本文は「病死」だ。 この二つに対して、(二)の『書紀』「一に云ふ」の方はまったく違う。熊襲征伐中に敵 の矢に当って戦死している。古田さんは問う。「どちらが本当だろう。いいかえれば、どちらが 本来の伝承だったのだろうか。





トップへ戻る   目次へ戻る

359 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(12)
「熊襲」とはどこか(3)
2005年8月11日(木)



 わたしは「戦死」の方だ、と思う。この点、あるいはある人々には、論証などなくとも、 直観の力で賛成していただけるかもしれぬ。しかし今必要なのは、論証だ。煩をいとわず、 吟味してみよう。

 古田さんは他の説話の例も援用して「二つのフィルター」越しの論証を展開しているが、 その部分は割愛して先に進む。
 仲哀が賊の矢に当って戦死したとすると、橿日宮の地で、仲哀は賊と「接戦」していたことと なる。とすれば、南九州の熊襲とどうやって接戦できるのであろう。橿日宮と南九州との間の戦 場名など一切出現しないのであるから。とすると、「熊襲=南九州」という先入観なしに、端的 にこの説話内容自身を読めば、この熊襲は北九州の存在″に見えてくるだろう。もっと切りつ めていえば、博多湾岸(太宰府、基山付近をふくむ)を本拠とする熊襲に対し、近畿から襲来し た仲哀軍が、博多の東の側面に当る橿日宮領域まで接近し、そこで「接戦」した。そしてその接 近戦の中で、指揮者仲哀は戦死した。――このように考えると、この説話はまことに 現実的(リアル)な、緊迫力を帯びてくるのではあるまいか。

 熊襲=南九州ではつじつまの合わないことが、仲衷・神功の説話の中にもう一つある。
 『書紀』本文によると、仲哀の死の前、神功皇后が神がかりしたとき、神はつぎのようにいった という。

 熊襲討伐がうまくいかないといって心配することはない。この国以上の宝ある国が海 の向こうにある。新羅の国だ。自分(神がかりした神)をよく祀ったら、平和的にその国は従うだ ろう。そしてまた、熊襲も自然に従うだろう。″

 いいかえれば、熊襲討伐がうまくいかないのは、新羅がその背後にあるからだ、といわんばかりの 口吻である。少なくとも全く無関係の二国ではないように見える。
 では、新羅と熊襲を結ぶ″具体的な関係はなんだろうか。たとえば、軍需や物資の交流があ ったのだろうか。そしてなによりも、そのさいの地理的関係はなんだろう。
 このさい、かりに熊襲を南九州の存在とした場合を考えてみよう。はるか九州の西方海上を通 じて連絡しあっていたのだろうか。それではあまりにも、迂遠な関係であり、「熊襲討伐難渋」 の背景とはなりにくい。
 それに対して、この熊襲を博多湾岸に本拠をもつ存在として考えてみよう。

狗邪(こや)韓国(釜山近辺) ― 対海国(対馬) ― 一大国(壱岐) ― 末盧(まつろ)国(唐津)  ― 伊都(いと)国(糸島郡)

を結ぶ、古来の幹線道路(『三国志』魏志倭人伝)があって、博多の西側に通じている。 だから、いくら仲哀軍が東から切迫して攻撃しても、この西のルートの確保されている限り、熊 襲は容易に陥らないのである。こうしてみると、熊襲討伐の難渋″から、その背後の新羅の存 在へと目をむける、いわば必然性があるのではあるまいか。

 このようにみてくると、旧来の熊襲=南九州″説に立った場合、この説話の全体はなにかピ ントがボケている。ちょうどわたしたち素人が時々やらかすピンボケの写真でも見せられている ように。ところが、いったん熊襲=北九州(博多)″という目から見た瞬間、説話全体はにわ かに生動し、各部分は必然の脈縛をうちはじめる。 ― それをわたしは疑うことができない。







トップへ戻る   目次へ戻る

360 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(13)
「熊襲」とはどこか(4)
2005年8月12日(金)



 熊襲三説話のうちの第二の説話「日本武尊の熊襲暗殺説話」の論考に 進む。
 これは、小碓(おうす)命が熊襲国へ行き、少女に変装してその国の首長の 酒宴にもぐりこんだ。そして油断に乗じて熊襲の首長兄弟を刺殺した、 という話だ。この説話には「地名」は出現しない。 (『書紀』の場合、熊襲の首長は「川上梟帥(たける)」と呼ばれているが、 この「川上」についてはのちにのべる)。
 この説話では注目すべき点として次の二点を挙げている。

第一
 熊曾建〈『古事記』〉が死のまぎわに、暗殺者である小碓命に「倭建命 (日本武尊)」という名を贈ったという点。
第二
 『古事記』によると、熊襲国の統治形態が兄弟統治であったという点。  第二点については古代史の問題を解く大きな鍵の一つとして、吉本隆明 さんも注目していた。(第335回・7月18日)

 さて、第一の点の何が問題なのか。このくだりの「記・紀」の記事は次の ようになっている。

@熊曾建白す、「西の方に吾二人を除き、建く強き人無し。然るに大倭国に 吾二人に益して建き男坐しけり。是を以て吾、御名を献(たてまつ)らむ。 今より後は、応(まさ)に倭建御子と称すべし」と。是の事白し訖(おわ) れば、即ち熟?(ぼぞち)の如く振り析(た) ちて殺すなり。〈景行記〉

A即ち啓(もう)して曰く、「今より以後、皇子を号して応に日本武(やま とたける)皇子と称すべし」と。言ひ訖(おわ)りて及ち胸を通して殺しき。 〈景行紀〉

 暗殺されたものが暗殺者に称号を献上したという行為がもんだいなのだ。 「記・紀」には他に例がない。当然学者たちもこの点に注目した。しかし、 この問題についても「定説」は「後代の大和朝廷の官人の造作」であった。

 『記・紀』において名前が「A→B」と渡される場合は、「上位者→下位者」 という一方向の例にみちている。その中で、なぜ、後代の官人がこれに反する 話を造作したのか。それが問題である。七、八世紀段階で地方豪族が天皇に 名前を献上する″といった慣例ができていた様子もないから、これは変だ。 日本武尊の方が相手(またはその子)に熊襲建という名前を与え、以後、 彼等はよく服従した″といった話なら、いい。だが、これは話が逆なのである。 この点、「後代造作」説には、致命的な矛盾があるのではないだろうか。

 では古田さんはこの問題をどう読み解いているか。
(一)
 まず、名前の献上″というときのの「献上」という言葉。先にあげた例 (前回に掲載した)で、中国の天子から「朝貢」をもってきた、と書かれて いた。これと同じく、天皇家の方が得た″ものは、『記・紀』ではすべて 「献上」なのである。だから、このような大義名分上のイデオロギー用語 を根拠にして、両者間の実際の上・下関係を論ずることはできない。

(二)
 だから、要は「熊曾建→小碓命」という方向で、名前(日本武尊)が贈られ たのである。

 (三)
 このことは、『記・紀』全体の授号の定式(上位者→下位者)から見ると、 この説話は熊曾建(川上梟帥)が上位者であり、小碓命(日本武尊)が下 位者である″という上・下関係を背景にして成立していることとなる。

 これは、従来千有余年の天皇家至上主義の「常識」から見れば、まことに 驚倒すべき非常識≠ナあろう。しかし、古代説話は古代通念の中で理解 する″――これを、わたしは自明の真理と考える。そしてこの場合の「古代 通念」とは、『記・紀』の示すところ、名前は上位者から下位者に与える″ という不動の命題にあった。
 『記・紀』だけではない。中国の天子にとって、夷蛮の王に「称号を与え る」ことは、その重要な権限だった。このことは、「漢の委奴(いど)の国 王」という志賀島の金印や「親魏倭王」という卑弥呼への称号授与の例に見 る通りだ。そして他の何人にも天子はこの権限を許さなかった。『三国志』 によると、遼東の公孫淵がみずから「百官を置い」たとき、魏の明帝は断乎、 これを討伐したのである。
 これと同じ例は『記・紀』自身の中にさえ見出される。菟狭の川上にいた 「鼻垂(はなたらし)」は、「妄(みだ)りに名号を仮した(勝手に名前を名 乗り、授けた)」として討伐されたのである(景行紀12年項。この点、のちに 再びのべる)。

 このような「古代権力社会における厳格な授号の論理」から見ると、わたし は「日本武尊」の名号問題も、この論理にもとづいて考えるほかはない。






トップへ戻る   目次へ戻る

361 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(14)
「熊襲」とはどこか(5)
2005年8月13日(土)



 「日本武尊の熊襲暗殺説話」の第二の問題、『古事記』によると「熊襲国の統治形態が兄弟統治であった」という点 についての論考を読む。

(天皇)「西の方に熊曾建二人有り……」……爾に熊曾建兄弟二人、其の嬢子を見感でて……。

 前回の暗殺場面でも熊曾建は「吾二人」と言っている。

 古田さんはこの説話の内容を、『盗まれた神話』の前著『失われた九州王朝』で明らかにしたという九州王朝の史実と 比べている。(『失われた九州王朝』を入手できず、まだ読んでいない。とりあえず「九州王朝の史実」の論証を正し いとして読み続ける。)
 まず、九州王朝は、中国の天子に対して「臣」と称しながら、国内に対しては「仮授の権(称号や名前を授ける権限)」 を行使していたことを指摘している。例として、『宋書』倭国伝の倭王武の上表文の一説をあげている。(「倭王武」 はヤマト王権の王ではなく、九州王朝の大王である。(「第348回・8月1日」参照)

窃(ひそ)かに自ら開府儀同三司を仮し、其の余は咸(み)な仮授(ヽヽ)して、以て忠節 を勧む。

 つまり、熊曾建が小碓命に「ヤマトタケル」という称号を贈ったとして、熊曾建を「仮授の権」の所持者として 描いていることとよく相応しているという。
 つぎに兄弟統治の件についても、九州王朝は「兄弟執政」をその政治形態の一つの特徴としていたという。 また、卑弥呼が「男弟」と共に統治していたことは周知の事実だ。(卑弥呼の「邪馬() 国(やまゐ)」は現在の博多あたりにあった。(古田さんの著書『「邪馬台国」はなかった』参照。この本は読みました。 この本の論証も見事なものです。)次のような例文をあげている。

(1)名づけて卑弥呼と曰う。……男弟有り、佐(たす)けて国を治む。〈『三国志』魏志倭人伝)
(2)(倭国の使者言う)「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、 伽扶(かふ)して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と」〈『隋書』倭国伝〉
(3)戊寅(558年)、兄弟と改元す。〈『海東諸国記』〉

 (1)は卑弥呼の「姉弟統治」として著名の一節である。
 (2)は九州王朝七世紀前半、「日出ずる処の天子」の自称で有名な多利思北孤(タリシホコ)の使 者の言である。兄は未明の宗教的祭祀権、弟が昼の行政権をそれぞれ分担しているさまが描かれ ている。
 (3)は、前著『失われた九州王朝』で明らかにした「九州年号」の一つである。

 このような「兄弟執政」の点もまた、九州王朝は熊襲説話の所伝とよく一致しているのである。

 以上によって、
(一)地理的位置(北九州博多湾岸)
(二)大義名分(授号権)
(三)統治形態(兄弟執政)
の三点とも、中国史書の中から分析された史実としての九州王朝と、『記・紀』の所伝の熊襲の性格と、両者 一致していることがハッキリした。

 なお、問題点をさらに立ち入って追跡しよう。
 この説話が「日本武尊の熊襲征伐」と呼ばれることがしばしばある。わたしのように戦前に小 学校を出た者には、ことに教科書でおなじみ″の表現だ。しかし、これは「神功皇后の三韓征 伐」と同じく、説話内容の事実からはなれた、いかにも軍国主義好みの誇大宣伝″だ。天皇家 の皇后や皇子に、やたらといさましい「征伐」を行なわせたいのだ。
 ことにこの日本武尊の場合、単独でのりこんで「刺殺」したのであるから、遠征軍を派遣し て攻略する″意の「征伐」とは、およそかけはなれている。要するに「熊襲の首長暗殺譚」なの である。

 さて、「暗殺」のさいの「公理」はつぎのようだ。
 AがBを「暗殺」するとは、第一にAの実力はBより劣であり、第二に、したがってAは通常 の方法(大軍派遣)による攻撃を、強力なるBに対してなしえない。そういうときに行なわれる 行為ではないだろうか。つまり「征伐」と「暗殺」とは、その意味では反対語なのである。
 いいかえれば、この段階では、天皇家は実力においていまだ熊襲に及ばなかったのである。つ ぎの段階の仲哀でさえ、遠征軍を主導したけれども、勝つことができず、みずから「敗死」して しまったのである。すなわち、筑紫の九州王朝は近畿の天皇家に対して、大義名分をもつととも に、軍事力においてもまた、まさっていたのである。
 さらに、暗殺に関する第二の「公理」がある。暗殺によって大義名分は移動しない″。これを わたしは自明の真理だと考える。すなわち、

(一)
 この暗殺によって大義名分は近畿天皇家(近畿の強大豪族)に移動しはしなかった。つまり、依然として、 この後も、客観的には大義名分は熊襲の側にとどまっていた。
(二)
 ただ、この伝承はこの事件によって大義名分は天皇家側に移ったのだ″と、天皇家側が主観的に主張しようと している説話なのである。そこに、瀕死の熊曾建に苦しい「断末魔の授号」を行なわせねばならなかった、この 説話の苦肉の秘密がある。





トップへ戻る   目次へ戻る

361 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(15)
「熊襲」とはどこか(6)
2005年8月14日(日)



 今回から、熊襲説話の中では一番年代の古い「景行天皇の熊襲大遠征」の解読だ。
 この説話は、これまでの二つの熊襲説話とは全くちがった性格が二つある。

第一
 「景行天皇の熊襲大遠征」は『書紀』にだけあって、『古事記』には全くない。
第二
 「仲衷・神功の熊襲遠征説話」ではただ一つであり、「日本武尊の熊襲暗殺説話」では皆無 であった地名が「景行天皇の熊襲大遠征」ではやたらと出てくる。
 発進地の周芳(すおう)の娑麼(さば)(山口県防府市佐波付近)をはじめ、九州内部約20 個の地名が進路順に次々とハッキリ書いてある(下の地図参照)。

 この点について古田さんは次のような戸惑いを述懐している。

 後代の研究者であるわたしたちにとって大変ありがたい話なのだが、実はそのことが変なので ある。なぜなら、時代的にあとに出てくる日本武尊(景行天皇の代)や仲哀・神功の方に地名が たった一つしかあらわれないのに、より古い景行の方はこんなに詳細をきわめているとは! 率 直にいえば、日本武尊や仲哀・神功の方はたしかに古代説話らしい無邪気な大らかさ(粗放さ) をもっているのに、こちらの方はこれではまるで逐一の遠征記録≠セ。少なくとも伝承の素朴 と記録の精緻と、両者はすっかり性格がちがうのである。

 以上の二点の特徴に加えて、古田さんは「景行説話」の内容上の問題点を四点あげている。

その一 「筑紫の空白」問題。
 景行の遠征路ほぼ九州の全域にわたっているのに筑紫だけはほとんど全く立ち入っていない。 それも、筑紫南辺はくりかえし往復していながら、肝心の筑紫中心部へは入っていない。『「こ の奇怪な「筑紫の空白」は一体どうしたことだろう。』

その二 「浮羽ー日向」間の大飛躍問題。
 『「娑麼――浮羽」間は、順を追って進む地名が約20も列記されている。ところが、最終点の浮 羽に来て突如、「天皇、日向より至る」〈景行紀19年項〉という文面に転換している。「浮羽 − 日向」間は距離も相当遠い上、その間は阿蘇山地にさえぎられている。そ れなのに、途中のルートや経過地を全く書かず、いきなり「日向より」では、あまりにも唐突だ。 これまでの詳密な地名列記と、鋭い断層がありすぎるのである。これも奇怪というほかはない。』

その三 「討伐と巡行」問題。
 この説話の遠征路は前半(討伐)と後半(巡行)に分かれている。
[討伐]=娑麼(山口県)→襲の国(鹿児島県)→日向(宮崎県)
[巡行]=日向→葦北(あしきた)(水俣市付近)→高来県(たかくのあがた) (島原半島)→浮羽(福岡県)
 『つまり、前半の九州東・南岸部は「討伐」、後半の九州西岸部は「巡行」という形である。 これは変だ。なぜなら、もし近畿の都を原点として見た場合、この逆ならば自然であろう。より 近い地域が巡行、より遠い辺境が討伐となるべきだからだ。』

その四 「日向、非聖地」問題。
 神武東征の出立地、つまり「ヤマト王権」発祥の地である日向へ来ても、景行は何の感慨も持 たない。『一度もそれらしい言葉をのべないのだ。シーザーの名句「来た、見た、そして勝 った!」ではないが、わたしは今、わが祖先の発進の聖地に来た!″ こういったたぐいの 感激の辞が一行くらいあってもいいではないか。ところが、一片すらない。』

 これらの疑問点については、とうぜん、従来の論者たちもふれている。その理論と古田さんの 批判は次のようである。
 まず「その一」について。

 従来の論者も、この間題に時としてふれている。そしてつぎのようにいう。筑紫はもはや天 皇家にとっては安定した勢力範囲となっていたので、今回の討伐の対象ではなかったからだろ う″と。しかし、この理由づけは、よく考えると一層おかしい。なぜなら、近畿からの遠路の征 討軍だ。筑紫がそんなに安定した領地だったのなら、まずここに立ち寄り、遠路の疲れをいやし、 補給をすませ、ここを根拠地として、九州の東・南部への征討に出発するのが当然ではないか。 また、もしかりに先を急いで筑紫に立ちよらず、直ちに九州東・南部で征討戦を行なった、とし よう。それなら、それが完了したあとは、その安定した領域″たる筑紫へ堂々と凱旋して、当 地の大歓迎をうけるべきではあるまいか。それもせず、目と鼻の先の「浮羽(うきは)」から、 そそくさと日向へひきかえすとは! 不自然きわまりない。こう考えると、従来の論者の説明は、 率直にいって説明になっていない″のではあるまいか。
 しかも、大切なのはつぎの点だ。すなわち、このような大矛盾は、例の津田学説――戦後史学 の得意とする後代造作説をもち出してみても、なんの解決にもならない、という一点である。 7、8世紀の大和朝廷の史官など、こんな矛盾にも気づかぬ、そんな程度の頭のやからだ″ ――もし、こんな軽侮″の概念をもちこんで解決するとしたら、それは史料解読上、フェアで はない。

 次に「その二」について。

 津田左右吉も、この点を疑い、「あの物語を書きとめた人の頭には、さういふことが思ひ浮ば なかったものと見える」(『古事記及び日本書紀の新研究』514ページ)といっているが、 『記・紀』の中でもっとも印象的な大叙述「神武東征」の発進の地について、「思い浮ばなかった ものと見える」という、安易な消し方で果たしてすむことだろうか。ここには重大な謎がいまだ に生きているのである。
 また、この景行紀に日向聖地記載のないことから、神武東征説話の方が新しい成立である証拠 だ、とする方法もある。つまり、古く景行説話が成立した時点には、まだ神武東征説話は成立し ていなかったのだ、とするのである。この見地は、たしかに深い示唆をふくむ(この点、以下の論 証で明らかにされる)。
 しかし今、では、7、8世紀の『記・紀』の作者はなぜ、そこに「造作」の手をのばし、前 後つじつまのあうようにしなかったのか?″と聞かれれば、たちまち窮しよう。またもや津田流 の思い浮ばなかった″説に逃避するほかはない。この点、7、8世紀の「後代造作説」の論者 にとって自縄自縛の謎″となるのである(従来、日向の地とされてきた「天孫降臨説話」から も、同じ問題がおきよう)。
 それなのに、津田の論断に安住して、すべて解決ずみ″のように見なしてしまい、これを再 び疑いかえすことがないとしたら、それは探究心の大いなる怠慢というほかないのではあるまい か。

 古代史学会の「権威」・「定説」がこんなに稚拙な論理で組み立てられていたとは! 学閥という轍に足を取られた学者たちの情けないことこの上ない。




トップへ戻る   目次へ戻る

362 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(16)
「熊襲」とはどこか(7)
2005年8月15日(月)



 以上の謎を解く鍵を古田さんは「景行紀」の次の一節の中の「巡狩」という 概念に見出した。

十八年春三月に、天皇、将(まさ)に京に向ひ、以て筑紫国を巡狩せんとす。

 「巡狩」とは「天子が辺境を巡行すること」であり、中国の史書に頻出する 言葉だという。(岩波の日本古典文学大系「日本書紀」では「巡狩す」を「めぐりみそな はす」と読んでいる。)

 さて、導きの糸はこうだ。この「京」は、近畿の都のことだとすると、近畿 を原点として、「筑紫国」を「巡狩」する、というのなら、当然筑紫国自体を 「辺境」と見なしていることとなる。とすると、筑後から筑前にむけて、つま り筑紫国を南北に巡るのでなければ、この語の内容にふさわしくない。
 ところが、巡行の事実は、熊本県から島原半島へ行き、このあと「筑紫の 南辺」(福岡県の南辺)を往復しているのである。「筑紫の南辺」だけをめぐ ることが、なぜ「筑紫国巡狩」となるのだろうか。変だ。
 この問いを正確に見つめて、論理的におしつめてゆくと、その帰着は意外な 地点にゆきつく。――これは、筑紫の中央部(たとえば太宰府近辺)を原点 として、筑紫国の辺境(ヽヽヽヽヽヽ)たる「南辺」 を「巡狩」しているのではないか、と。そう考えると、「巡狩」の語の用法に まさにピッタリだ。すなわち、この場合「京」とは、筑紫の中央部(ヽヽヽヽヽヽ) にあるのである(この文は、率直にいって、「京」に向かう、その行路の途中 に「筑紫国南辺巡狩」がある、そういった感じだ)。

 以上の「巡狩」をめぐる考察から、いままでにあげられてきた問題点・疑問点は 次々と解きほぐされてくる。
 第一、「筑紫の空白」は当然だ。この謎の遠征軍の、真の出発地は「筑紫」 そのものだったのだから。筑紫を「本国」とする遠征軍なのだ。筑紫は現在 の福岡県が示しているように奇妙な形をしており、その東端は関門海峡にと どいている。当然、この海峡をおさえるため、両岸を占拠していたであろう。 とすると、その東岸(山口県西部)に「周芳の娑麼」という、この遠征軍発 進地があったこととなるのである。

 第二に、九州東・南岸は「討伐」、九州西岸は「巡狩」という形態もなんら 不思議ではない。この筑紫国は、熊本県をすでに「安定した領域」としており、 未征服地たる東・南岸を討伐するのが、この遠征軍の目的なのである。

 第三に、「浮羽」がこの大遠征の終着点になっているのも当然である。 「辺境巡狩」はここで目的を達した。あとは辺境でなく、「京」である筑紫 中央部(たとえば太宰府近辺)に入れば、それでいいのだから。すべてきわ めて自然な巡路だ。いきなり阿蘇山地群を大飛躍して「日向」から再出発す る必要などいささかもない。

 第四に、「地名の詳述」という点。日本武尊命や仲哀天皇・神功皇后の説話 は明らかに近畿天皇家を原点とする説話だ。出現地名も乏しい。ところが、そ れと全く異質の地名群詳述。それは異質の系列の説話記録であることを物語る。 つまり、これは筑紫を原点とする、筑紫の王者の九州東・南岸平定譚だ。 だから、九州内部地名にきわめて詳しいのも当然なのである。

 さらに第五に、以上の景行天皇の熊襲遠征説話は本来近畿天皇家の説話で ないものを、あとからはめこんだものだ″という命題には、最大の証拠がある。 それは、この説話が『古事記』に全く出現しない、という、その一事である。  考えてみよう。この説話は『記・紀』の中で全く異色の存在だ。なぜなら 「神武東征」をのぞけば、近畿なる天皇家にとって、天皇自身による、最初に して最大の遠征譚、しかも唯一の完全勝利譚だ。先にのべたように、日本武尊 の場合は「暗殺譚」にすぎない。仲哀遠征の場合は「天皇敗死譚」だ。これら に比べて景行遠征の場合は文句のつけようがない輝かしき大武功≠セ。
 それなのに、なぜ『古事記』はこれを載せないのだろう。もし、この伝承が 真に「近畿天皇家内伝承」として七、八世紀まで伝承されていたのなら、 なぜ、だれが、これを削除するだろうか。近畿天皇家自身の庭の真只中で。
 天武天皇が「削偽定実」だ、といって削るだろうか。この「実」とは天皇家 中心主義という大義名分上の「実」である。それなのになぜ、この輝く大武功 を削る必要があろうか。稗田阿礼が暗誦し忘れたというのか。考えられない。 太安万侶が独断で削ったのか。それも到底許されることではない。
 その答えは一つ。一この説話は本来、近畿天皇家内の伝承には存在し なかったのである。それは、先にあげた「利害のフィルター」を通して見ても、 疑いえぬ、自明の帰結である。
 では、どこから取って″こられたのか。それはこの説話内容の示すとこ ろ、筑紫を原点とする「九州王朝の説話」でしかありえない。すなわち、まず 筑紫を基盤とし、その上でさらに九州一円を勢力範囲におさめた、その時点の 征服譚にほかならないのである。