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1. 教育反動の足跡 2004年8月15日

 「国家権力にとって教育とは、大衆支配の基本的かつ有効な 統御装置であり、 そのためにこそ、権力側は教育の管理権の可及権を絶えず拡大させようと 、意図的に 問題を惹起しては、反権力側と確執をを持つのである。当時の国家権力は それを <天皇>の名において<教育勅語>という錦旗を押し立てて、 極めて暴力的に教育権 そのものまでも収斂せしめたのである(中略)
  現在の権力も また例外ではない。 権力側によって強力に恣意的に歪曲された民主主義の名に於いて、 中正・公正教育な る錦 旗を押し立て、国定さながらの教科書検定を行い、七一年六月中教審答申 に見られる 職務職階制導入による教職員の隷属管理化、そして教職員の政治活動禁止と 、まさに太 平洋戦争前夜を思わせるような状況を作り、なお進行しつつある。やがて、これは学校 教育の問題に限らず、教育に関連する全ての分野へ波及することは明らかである。 したがって、教育の開題を、教育本来を捉える概念だけで見るわけにはいかない。 検定を通過した教科書から、原爆の写真が抹消され、戦争の悲惨を訴える描写が削 除され、平和憲法の解説がなおざりになり、戦争責任の韜晦がなされ、反面、皇室 に関する記事がふえ、歴史上の忠君の武将が登場し、国益、公益なるものの強調が 始まったことの意図するものがなんてあるかを予知せねばならない。これは極めて 危険かつ、重大なのだ。権力側の意図するものが、かなり露骨になって来ていると いえるだろう。」
(中山 恒「ボクラ少国民」より)

  山中恒氏の「ボクラ少国民」は1974年に出版されている。ちょうど今から30年前である。 鋭い警鐘を打ち鳴らす人は中山氏のみではなく、事あるごとにさまざまな人が同様な発言をし続けて きているが、それらの警鐘に応える抵抗の大きなうねりは被支配者の側にはついになく、自由と民主を 僭称する政党を中心とする支配者側は少しずつだが、狡猾にかつ着実に時代錯誤とも言えるよこしまな目 論見を実現し続けてきた。とうとう厚かましくも心の中に土足で踏み込むように「君が代・日の丸の強制 」を打ち出してきた。そして憲法改悪を目論む勢力が大手をふってのし歩くまでになってしまった。その憲法改悪を米国が催促している。政治評論家・森田実氏のホームページ「MORITA RESEARCH INSTITTUTE CO.LTD(http://www.pluto.dtine.jp/~mor97512/)」によると、アメリカの狙いは、 憲法を改正して徴兵制を国民の義務にすることだという。「押付け憲法」を憲法改悪の理由の一つ とする連中がその米国の意を改悪憲法に組み込もうとしている。これじゃまるで日本は米国の属国じゃないか。


2. <4点セット>は不可分なもの 2004年8月16日

「<日の丸・君が代・教育勅語・靖国神社>は天皇制ファシストたちによってパックされた一連の理念の象徴であると同時に、一切の民主主義、社会主義、自由主義などの否定の上に成立する「臣民の道」として、天皇制ファシズム下の日本帝国臣民であるならば、何人といえども外れることの許されない関門であったことは、既に歴史的な事実なのである。
 その民主主義等の否定の上にしか成立しないはずのものであるにも拘らず、そうしたものを国家の名に於いて、ひとつひとつ復権し、権力の裏付けで国民に押し付けようと目論む者が、民主主義を標榜する国の権力中枢に在るということ自体、甚だ奇怪なことといわざるを得ない。」
(中山 恒「ボクラ少国民」より)

 (十数年前、学習指導要領に「君が代・日の丸」の義務付けが盛り込まれたとき、 次のような文を書いて、職場で配った。)

 スイスやアメリカの学校では始業式はな く、ただちにその日から授業が始まる。そして年度の始業の日は、「いろとりどりの個性が開花 へ向かう営みの始まり」にふさわしい行事、「知や情を刺激し」これからの学校生活への期待と 希望をふくらませるような行事が工夫されているという。生徒も教師もさまざまな個性・感性を持 った人間としてふるまえる始まりである。

  それにひきかえ、半世紀ほど前のわが国民 学校の教育は次のように始まった。かっての少国民・山中氏は述懐する。「入学して私達1年生が 最初に教えられたことは・・・敬礼だった。最敬礼だった。まず門をくぐったら、まっさきに奉安 殿にむかって最敬礼することだった。そして次に、日の丸に対して、直立不動の姿勢をとってから 、赤心こめて敬礼することであった。」 少国民錬成が入学と同時に始まるのだ。国家の忠実な 一員、忠良なる臣民になるための心身の修養の開始なのだった。

   今の私たちの学校の儀式も褒められたものではない。「一同、礼」で始まり、「一同、礼」で終る。 首尾一貫して、ただただ緊張ばかりを強いる。新入生や卒業生が主人公とはたてまえばかりで、 半世紀前のままではないか。あと「君が代・日の丸」があればもうほとんど半世紀前と同じである。 形式ばかりの事大主義が得意顔で号令をしている。

 <日の丸・君が代・教育勅語・靖国神社>は不可分の4点セット。教育勅語が昔の まま復活することはないとしても、その思想はすでに教育基本法に敵対して、大きい顔をして いる。「君が代はよくないが日の丸はよいのではないの」なんていう人がいるが、そんな考え は誰よりも天皇教推進派が認めない。4点揃わなければ意味がないのだ。

 ところでこんなつまらぬ人権抑圧的儀式の形はいつごろできたのだろうか。
 学校教育での儀式ははじめは天皇家の祝祭日だけであった。始業式や入学式は、もともとは式ではなく、単なる授業はじめであり学校開きであった。卒業式もただの卒業証書授与であった。天皇制国家の下、臣民教育を秩序だてるために新しい「礼法」「礼式」が必要と、その形をつくり始めたのは森有礼。1889年に、「生徒児童の徳を強化」する目的で礼式のための「訓令案」をつくる。礼の仕方まで事細かに規定している。これがそのまま学校生徒礼式として採用される。明治の終り頃には学校教育の中の儀式が完全に定着する。
いま広く無自覚に継承されいる卒業式の式次第や恭しく証書を受け取る形式は、日清戦争以後1894・5年頃に確立し、祝祭日の儀式と並び最大の式となる。
 学校行事の式次第や礼の仕方、はては参列者の並び方までを行政権力がこと細かに決めるなど、古今東西例があるまい。


これを書いたとき、「君が代・日の丸」強制の締め付けはより過酷になってくるだろうと予想はしいたが、まさか再び「式次第や礼の仕方、はては参列者の並び方までを行政権力がこと細かに決める」ような時代錯誤な愚行が行われるとは思っていなかった。
 実際に行われた卒業式の場ではさらにおまけがある。教頭が教師たちの後ろで本当に歌っているかどうか監視したとか、来賓として参列していた都会議員が起立しない生徒たちに大声で「立ちなさい」と恫喝したとか。

 都教育委員会の通達の内容を知ったとき激しい憤りとともに、まず出てきた感想は「恥知らずなバカどもだ」だった。

 噴飯ものの詭弁、権力を笠に着た傲慢な強弁、片頬を歪めてシニカルに冷笑している差別意識。それを恬として恥じない醜く歪んだ自分の心の形にまるで気づかず、自分を偉い人間だと思い込んでいるらしい者を、私はバカと呼ぶ。権力や財力が大きくなるほどにバカになるようだ。

 イラクに大量破壊兵器はなかったことが判明すると「見つからないからと言って、フセインがいないとは言えない」とか、独善的で憲法違反の通達を一方的に出しておいて「先生には、国が決めたことを順守して、それを教育の一つの事例として子供に伝える責任があるわけでしょう」とか、選手会が話し合いたいと言うと「無礼なことを言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が」とか。まるで「三バカ大将」だ。 
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3. 抑圧者の正体 2004年8月17日

 抑圧者にとっては、自分たちだけが人間であり、他者は物にすぎない。また、かれらにとって、権利はひとつしかない。つまり、かれらが平和に暮すための権利(現体制を維持強化する権利-仁平注)である。それは、必ずしも承認されているわけではないのだが生きのびるためにあてがわれている被抑圧者の権利とは、まったく対照的なものである。かれらがこうした権利を被抑圧者にあてがう理由にしても、ただ被抑圧者の存在がかれらの存在に欠かせないからにすぎない。 (パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」)

 パウロ・フレイレのいう「抑圧者(oppressors)」とは、私の用語で言えば、もちろん、「支配者」に他ならない。

 ところで次の文は誰の発言だと思いますか。

 「まず基本的なスタンスから述べたい。僕は自分の人生についていつも自由な人間でいたい。僕にとってそれしか価値のある生き方はない。(中略)自分の人生を束縛するものからは自分で守ろうと思う。今日の政治が手続きをすっ飛ばした全体主義的傾向にある温床も、こういう言葉狩りのような状況が作っていると思う。」 (斎藤貴男「非国民のすすめ」所収「差別主義者の無知」からの孫引き)

 「私は被支配者の一人であり、被支配者の側に立ち続ける」という私のスタンスからは、我が意を得たりと言いたい発言だが、なんと!!この発言者は衆議院議員時代の石原慎太郎なのだ。

  「自由」しか価値ある生き方はないと言いながら、教師や生徒の「自由」を扼殺しようとしている。手続きをすっ飛ばした「全体主義的政治」を憂慮する当人が手続きをすっ飛ばして「全体主義的政治」に猪突猛進している。

  彼の言う「自由」や「全体主義的政治」は、私たちが使うのとは意味が違うのだろうか。それとも彼は心にもないウソをついているのだろうか。
 彼は三浦朱門といい勝負の地に落ちた「腐れ文学者」だが、文学者には違いない。たぶん言葉が本来持つ意味で正しく使っていると信じよう。
 彼は他者の痛みや立場に無頓着に自分のあさましい思想心情を率直?に言葉にすることで負の大衆意識に取り入り票を集めたエセ政治家である。たぶんここでも思想心情を率直に語っていて、ウソはついていないと信じよう。

 彼にとっては「自分たちだけが人間であり、他者は物にすぎない。」のだ。それならばつじつまが合う。
 被抑圧者の自由や民主主義は、彼にとっては彼の自由を脅かす束縛であり、全体主義なのだ。

戦争は平和である
自由は屈従である
無恥は力である

(ジョージ・オーウェル「1984年」より)

   昨年の靖国神社参拝の折、記者の取材に答えて「俺にも俺の感情というものがある。 誰がなんと言おうと(靖国参拝は)やめない。」と言っている。
ここでも「尊重すべき感情」を持っているのは自分だけで、 他者のそれには一顧だにもしない。

 「君が代日の丸の強制」 を拒否する人たちはその理由を次のように言うといい。
  「私は自分の人生についていつも自由な人間でいたい。 私にとってそれしか価値のある生き方はない。 自分の人生を束縛するものからは自分で守ろうと思う。 また、私にも私の感情と言うものがある。誰がなんと言っても拒否し続ける 。これは偉大なる石原知事が認めざるを得ない理由なのだ。文句あるか。」
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4. 「君が代日の丸」が「考えるな、服従せよ」と恫喝する
 2004年8月18日

「プロレ(被抑圧者・・・仁平注)が強い政治的感受性を持つのは望ましいことではなかった。彼らに要求されるものといえば素朴な愛国心だけで、労働時間の延長や配給の削減を受諾させる必要が生じた場合には、その愛国心に訴えさえすればよかった。」 (ジョージ・オーゥエル「1984年」より)

 「1984年」はスターリン支配下のソ連に触発されて 書かれたと言われているが、私はこの本を読みながら、これは日本 国の近未来を描いているのじゃないかという思いを禁じえなかった。 目下進行中の反動的支配者どもの暴走をこのまま許してしまえば 「大日本帝国」よりひどい国家になりそうだ。

 いろいろなと ころで引用されているのでご存知の方が多いかと思うが、私も紹介しない ではいられない文がある。
 斎藤貴男著「機会不平等」にこんな発言 が取り上げられている。

 「学力低下は予測し得る不安と言う か、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がら ないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。 つまり、できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり 注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいのです。(中略)
それが゛ゆとり教育″の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ。」
(「ゆとり教育」についての著者の質問に対する三浦朱門・前教育課程審議会会長の回答)

 人間を貶めることで自分自身を非人間化していることに気づかない。差別意識でガチガチの鼻持ちならぬエリート。このような情けない「バカ」どもが権力の中枢を取り巻いている。

 三浦が期待している「実直な精神」とはどんな精神だ。「君が代日の丸」の押し付けが目指しているものだ。支配者の命令に唯々諾々と従う精神だ。「君が代日の丸」が「実直な精神」の鋳型だ。
儀式の度に繰り返し繰り返し教師・生徒に思い知らせる。「考えるな、だた服従せよ、愛国心だけをこころに刻み込め。」と。

 今阻止しなければ、「君が代日の丸の強制」はやがて儀式のときだけにとどまらないだろう。、実際に、日常的に校庭の「日の丸」に敬礼し、どこで何をしていようと、直立不動で「君が代」の放送を聞くことを強いている小学校が既にあると言う。

6. 石原が恋い焦がれている「国家」
 2004年8月20日


「われわれは、君が後へ引き返しょうもない点まで叩きのめしてやる。たとえ君が千年生きられたとしても、元の状態には戻れない程のことが君の身に起こる。君は二度と再び普通の人間らしい感情を持てなくなるだろう。君の心の中にあるものはすべて死滅してしまうだろう。君ほ二度と再び人を愛し、友情を温め、生きる喜びを味わうことも出来まい、笑ったり、好奇心を抱いたり、あるいは勇気を奮い起こしたり、誠実であろうとすることも出来まい。君は抜け殻になってしまうのだ。空っぽになるまで君を絞り上げてやる、それからわれわれを、その跡に充填するのだ」(ジョージ・オーゥエル「1984年」より)

    同じことの繰り返しになるきらいがあるが、同じような口撃(変換ミスではありません。)が執拗に仕掛けられてくるのだから仕方ない。抑圧者らが仕掛けてくる口撃には一つ一つ反撃しておこう。

 またしても石原だ。「君が代日の丸強制」の意図を、石原は正直?に次のように述べている。

(記者の質問)処分を中心とした方針で、知事がいつも言う、例えば健全な愛国心を持つことなどが教職員の中に本来的な意味で浸透していくとお考えか
(石原の応答)  「やっぱり物事には形というのがあってね。 つまりその形というものを極める、踏襲するということもですね、剣道だってそうじやないですか。 やっぱり素振りを繰り返すことでね、その素振りが違う形の技になって生きてくるわけですからね。 私はやっぱりそういう繰り返しというものは一つのフォームとして必要だと思いますね」
(6月8日付朝日新聞のコラム記事「石原知事発言録」から)

 ここでも得意顔で詭弁を弄している。
 まっとうな良心に苦痛を強いる (精神的な拷問だ)ための欺式(これも変換ミスではありません。)の形式と、剣道の身体修練の ための形式と、まったく位相の違うものを同列に並べて論じる詭弁だ。 こんな見え透いた詭弁に感心して説得されるのは、はなから抑圧者側に揉み手をしながらする 寄っている連中だけだ。

 冒頭の引用は、国家への反抗者の身体や神経や脳に想像を絶するような残酷な拷問を仕掛けながら、拷問を取り仕切る政府高官が吐くセリフだ。これに石原のセリフを重ねるのは大げさすぎるだろうか。
 儀式を「欺式」にするためのお仕着せの形式(精神的な拷問)を押し付けて、それを繰り返し仕掛けて、何を企んでいるのか。石原は、教師や生徒の良心を空洞化した上でその跡に「健全な愛国心」を充填する、と言っているのだ。

 ところで、「健全な愛国心」てなんだ?中身を曖昧にしたまま、人々のさまざまな考えや思いを十把一からげして、言葉だけを一人歩きさせる。これも抑圧者がよく使う詐術だ。
 まず「国家」をどのように捉えるかが問題だ。その捉え方によって「健全」の意味もまったく違ってくる。

 天皇に靖国参拝を懇願している石原の「国家」は推して知るべしだ。ことあるごとに「北朝鮮」に憎悪や敵意や嘲笑を剥き出しにする石原の「国家」はなんともよく「北朝鮮」に似ているか。石原の「北朝鮮」への憎悪や敵意や嘲笑は、近親憎悪だ。要するに「目くそ鼻くそ」なのだ。どちらが「目くそ」で、どちらが「鼻くそ」かは詮索すまい。

 「国家」については項を改めて述べようと思う。

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7. 「非才、無才」が反逆する
 2004年8月21日

 「人間の遺伝情報が解析され、持って生まれた能力がわかる時代になってきました。 これからの教育では、そのことを認めるかどうかが大切になってくる。僕はアクセプト(許容) せざるを得ないと思う。自分でどうにもならないものは、そこに神の存在を考えるしかない。 その上で、人間のできることをやっていく必要があるんです。
 ある種の能力の備わってい ない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報 に見合った教育をしていく形になっていきますよ。」
(斎藤貴男「機会不平等」より江崎玲於奈・教育改革国民会議座長の発言)

 江崎のこのナチス顔負けの選別思想には恐怖すら感じる。江崎はこのような思想をいつどのように 身に付けたのだろうか。江崎のように安易に遺伝などどは言うまい。ましてや神のせいになどに 出来るわけがない。難問にぶつかって、真正面から取り上げようとはせずに、 神で解決しようとはあきれた物理学者だ。

 また「ノーベル賞を取った日本人は私 を含めてたった五人しかいない。過去のやり方がおかしかった証拠ですよ。」とも述べて、 選別・切り捨て教育の論拠としている。
 ノーベル賞受賞がよっぽど自慢のようだが、 ノーベル賞がなんぼのもんじゃい。ノーベル賞受賞者が少ないことがそんなに憂慮することかね。
 物理学での功績と、人間抑圧に精を出している今の活動との足し算をすれば、江崎の人類 への功罪は大きくマイナスのほうに振れているじゃないか。
 同じノーベル物理学賞を受賞し た湯川秀樹や朝永振一郎は、私の知る限りでは、社会や人間に対する理解も深く、滋味溢れた人 間性豊かな方々だった。選別思想や優生学的思想などこれっぽちも持っていなかったろうし、難問 にぶつかって神にすがるようなこともしなかっただろう。江崎は両氏の爪の垢でも煎じて飲んだら よかろう。

  さて、「限りなくできない非才、無才」や「ある種の能力の備わっていない者」がいることは事実だ。 三浦や江崎の価値観から見れば、私はそういう者の一人だし、私の人生を豊かにしてくれている私 の家族や友人や生徒たちも私の仲間たちだ。

 人はだれも、その創造力や思考力や洞察力や精神力や感性や体力や運動能力や、総じて人間性を どのように獲得するのだろうか。それを遺伝せいにしてしまう単細胞的な思考力の持ち主はそうめ ったにいないだろう。
 人は母の胎内に宿ったときから、それぞれの家庭環境や経済状況など環界の制約の下で、さまざ まな人や事件や思想や芸術や自然と出会いながら、相互に影響を受けたり与えたりして成長してく る。もちろんその人となりの根幹には遺伝が大きな要素の一つとしてあることは論を待たない。そ れら人生のすべての総和として人の今がある。人の能力を、学科が出来るとか出来ないとかいうた かが学校の成績に矮小化したとしても、それはその総和の結果なのだ。
 だから「限りなくできない非才、無才」や「ある種の能力の備わっていない者」がいる社会的矛盾 はそういう者を切り捨てることでは解決出来ないし、それは非人間的行為として、やってはいけないのだ。

 江崎は生まれながらにして抑圧者なのか。私は生まれながらにして被抑圧者なのか。
たとえ江崎のような恵まれた才能を持っていても、私が抑圧者の側には立たないことは確かだ。
人類が落ちいてしまった陥穽・「支配ー被支配」とい矛盾を神のせいにして他者を切り捨てること で糊塗しようとせずに、矛盾の原因を現実の歴史の中で考え、自他をともに現実の中に置いて現実 の矛盾の中にその解決の糸口を見出そうとするのも確かだ。

  抑圧者・被抑圧者がともどもに、抑圧-被抑圧の関係の矛盾 (双方の非人間性)の真の克服(双方の人間性の回復)を課題とするような 生き方に思いも及ばない三浦や江崎のような者の人生の「総和」には致命的 に欠けているものがあるのだ。

 「確かな思考、つまり、 現実にかかわる思考は、孤立した象牙の塔のなかでではなく、交流のなかからだけ生まれる。」 (パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」)

 彼らには、現実にかかわる確かな 思考に必要な交流、とりわけ被抑圧者との人間的交流がたりなかった。彼らの精神は限り なく貧しい。


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13. 石原による都政の私物化
 2004年8月27日


 昨日、石原の忠実な下僕の都教委が、白鴎高校付属中学の歴史教科書に、 たった5分の委員会で予定通りに、扶桑社版の「新しい歴史教科書を作る (正しくは「捏造する」と読む・・・仁平)会」主導の狂科書 (変換ミスではありません。)を採択した。しかし、いまさら驚くにあたら ない。会議は単なる形式だけの手続きに過ぎない。もう既定の方針なのだ。

   同じく昨日、都教委が「ジェンダーフリー」と言う言葉を使用しない方針を 決め、都立学校に通知したことも報じられている。

 「君が代日の丸」の強制、「歴史狂科書」の採用、「ジェンダーフリー」をターゲット にした言葉狩り、全部、日ごろ吹聴している石原の持論じゃないか。 都教委も教育庁職員も、都民の公僕ではなく、石原のめちゃくちゃイデオ ロギー(漢字で、虚偽意識とルビを振る。)に拝跪する石原の下僕に成り 下がっている。
 都議会も、大勢は、石原に色目を使ってチェック機能を まったく放棄してしまった状況だ。情けない。

 石原のイデオロギーにかかると、同じことの言行が、自分の場合は正しく、他の者の場合は間違いになる。石原の頭の中には論理思考力のかけらもない。
 「ジェンダーフリー」運動の中には行き過ぎでおかしいと思える部分が確かにある。が、その部分の誤りを問題にして、全体を否定す るのもよく使われる詭弁の一種だ。
 しかも、小説での差別用語の使用をめぐって「言葉狩りだ、ファッショだ」 と喚き立てて非難していた石原が、こんどは自分が「言葉狩り」を平然と やってのける。私が「腐れ文学者」と悪態をつく所以だ。

 8月24日付の朝日新聞の「窓」というコラム欄に、小泉が持ち出した地方への「補助金廃止案」をめぐって紛糾した 全国知事会の様子が取り上げられていた。
 どうやら石原は少数派だったようだ。こんな発言をしている。

 「3分の2以上の多数で地方の意思表示になるのか。不合理。不自然。一種のファッショだ」

 自分のファッショぶりは棚に上げて、自分と異なる意見が多数派になると、ファッショだとわめく。

 石原イデオロギーによる都政の私物化はまだまだ続くだろう。私には、 いろいろな反動団体と綿密に連携しながら、石原イデオロギーを推し進めるか なり綿密なプログラムがあるよう に思われる。今度の「言葉狩り」も「狂科書採用」も その布石の一つに過ぎない。

 たとえば、、教科書の区市町村ごとの広域採択制は石原による改悪ではないが、 その改悪の上に決定的な悪巧みを付け加えている。2001年2月に石原の 下僕都教委は教科書採択手続きに関して「学校票」廃止の通知を出している。 現場教師の意見を封じたことになる。

 当然、現在学校単位で教科書を採択している高校への何らかの締め付けが 予想される。何しろ悪知恵ばかりにたけている連中だ。

 いままで学校で決めた採択教科書はそのまま採用決定になっていたので、 最終決定の仕組みには関心がなく、知らなかった。

 「平成17年度使用都立中高一貫6年制学校(中学校)用教科書、都立盲・ろう・養護学校(小・中学部)用教科書及び都立高等学校用(都立盲・ろう・養護学校高等部を含む。)教科書の採択結果について」というやたらと長い表題の教育庁の報告書をのぞいて見た。

3 都立高等学校用(都立盲・ろう・養護学校高等部を含む。)教科書の採択
(1) 各学校における教科書の選定

各学校は、都教育委員会の採択に先立ち、校長の権限と責任のもと、以下の手続きに則り教科書の選定を行った。
ア 教科書の専門的な調査研究及び適正な選定を行うため、各学校に校長を委員長とする「教科書選定委員会」を設置した。
イ 校長は新学習指導要領の各科目の目標等を踏まえ、都教育委員会が作成する「高等学校用教科書調査研究資料」を活用し、教科書の調査研究を行った。
ウ 校長は、学校での教科書の調査研究結果及び生徒の実情等を踏まえ、 「高等学校用教科書目録(平成17年度使用)」のうちから、 最も適切な教科書の選定を行った。
エ 校長は、教科書の選定後、所定の様式に具体的な選定理由等を明記し、教育庁指導部に報告を行った。

(2) 採択結果
ア 都教育委員会は、各学校の選定結果を全て適正とみなし、学校ごとに平成17年度使用教科書を採択した。


 行政権力の仕組みだから、当然といえば当然だが、最終決定権は都教委に ある。これもまた、いまや都教委の従順な下僕となっている校長 (そうじゃない校長のいることを期待したい)を締め付けるのはた やすい。現場教師の意思をいくらでも無視できる仕組みになっている。 都教委のわるだくみにとって今の仕組みで不都合ならば、お得意の一 方的な「通達」とやらで変更すればよい。
 杞憂に過ぎなければよいのだが、「教科書検定」の ますますの反動化とあいまって、教科書の実質的な国定化が進行するのではないか。

 1948年に、大日本帝国の独断的教育行政の反省から、教育行政の民主化がは かられ、一般の地方行政から独立した、市民から選ばれた代表によって構成された機関として 「公選制」の教育委員会が設けられた。
 それが、早くも1956年に、「教育の政治的中立と教育行政の安定を確保し、一般行政と教育行政の調和を図り 、国・都道府県・市町村が連携する教育行政制度を確立することを趣旨として」という欺瞞に満ちた 空疎な美辞麗句を掲げた国家権力の策略にまんまんとしてやられ、「任命制」に改悪された。 教育委員会は支配者側に取り込まれてしまったのだ。
 それが今、行政権力の下僕に成り下がって、独断的教育行政をほしいままにしている。何が中立だ。

 連綿と意思を受け継ぎ、じっくりと時間をかけて、楔を打ち込んでくる支配者どもの深慮遠謀は侮りがたい。

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16. ちょっと寄り道、2題。
 2004年8月30日


(1)
 5月末ごろ、イラクからの自衛隊の撤退と憲法九条の改悪反対を新聞紙上で訴えようと、 「市民意見広告運動」からお誘いの葉書を頂いた。ささやかながら一口乗せてもらったが、 広告掲載紙が私の取っていない毎日新聞なので、すっかり忘れていた。
 十日ほど前、8月6日に予定通り、全面意見広告を掲載したという報告の葉書が届いた。 実に配慮の行き届いた運動団体だと感じ入った。
 その葉書に、報告書と広告コピーを全国配送するための大作業に人手が欲しいとの訴えがあった。 全員に配送するとは、私のように該当新聞を取っていないものには、これもとっても行き届いた配慮だと、またまた感じ入った。
 作業日は昨日29日、日曜日で何も予定がなかったので、カミさんと連れ立ってお手伝いに行ってきた。 20坪ほどの狭い事務所に80名ぐらいはいたろうか。雨が降っていて外は涼しいのに、作業所は 人いきれで蒸し暑い。人一倍汗っかきの私には汗を流しながらの作業でした。
 参加者はほとんど50から80代で、若い人は事務を取り仕切っている方々だけ(この人たちも勿論、賃金なしの事務員)。若者が多いのではないかと予想していたのだが、見事に裏切られた。 「おれの情勢判断は甘いなあ」とつくづく思った。中高年ががんばるほかないようだ。
 いや,これはちょっと早まった判断だ。 急いで訂正しよう。若者が主体になっている運動もずいぶんたくさんあることを知って、感動したことがあるじゃないか。それぞれがそれぞれの場で、できることをやればよい。

 この「市民意見広告運動」の推進母体は「市民の意見30の会」と言う。恥ずかしながら、この市民運動の会を私は知らなかった。インターネットで調べたが、1987年から、息の長い活躍をしている。頼もしく信頼できる会であることを知った。



(2)
 繰り返しになるが、もう一度「バカ」の定義。
 噴飯ものの詭弁、権力を笠に着た傲慢な強弁、片頬を歪めてシニカルに冷笑している差別意識。 それを恬として恥じない醜く歪んだ自分の心の形にまるで気づかず、自分を偉い人間だと思い込ん でいるらしい者を、私は「バカ」と呼ぶ。権力や財力を笠に着た抑圧者を罵倒するのは、被抑圧者の権利であり義務であると、私は思っている。もっとも罵倒しているだけでは何も解決しないけどね。

「三バカ大将」というのは、「超バカ」に贈る称号のようなもので、何人いても「三バカ大将」。 これでいいのだ、とバカボンのパパは言っている。
 そこで、石原・小泉・渡辺・三浦・江崎に続いて、6人目の「三バカ大将」の登場。

 一昨日の朝日新聞の1面トップ記事は「小学生 校内暴力1600件」だった。まず、トップ記事にするようなニュースかね、と思った。 一面で報ずべき問題が山積してるのはずだ。
 つぎに、バカな政治家や有識者とやらがまたぞろ、ピンとはずれなコメントを出すんだろうなと思った。  今回の有識者コメントは「今回の結果だけで、小学生が凶暴化していると考えるのは早計で、さらに掘り下げて調べる必要がある。」(大学教授・森田洋司)と、ごくまっとうなものだった。他面の関連記事も同様な論旨で冷静なものだった。

 しかし、この記事で思い出したことがあった。

「教育基本法では個人の尊厳が強調されている。日教組の教育とあいまって、個人の尊厳が行き過ぎて教室破壊が起こり、生徒同士が殺し合いをする荒廃した状況になっている。」

 自民党国会議員・平沼赳夫の、小学6年生の少女による同級生殺人事件に対しての発言だ。もし上記の記事について平沼にコメントを求めたら、待ってましたとばかりに、ほとんど同じ発言になることだろう。
 人と人との関係はそれほど単純じゃないが、「個人の尊厳」の思想が遍く行き渡っていけば、人を陥れたり、傷つけたり、殺したりなどの事件が無くなっていくいうのが論理の筋だろう。それに、何が今さら「日教組」なのだ。日教組はもうとっくに、体制の補完物じゃないか。(これには多くの異論が予想されるが、私はそう認識している。)私には「日教組の教育」と言うのがどんな教育なのか、さっぱり分からない。そんなものあるのかね。

 まったく支離滅裂なこんな滅茶苦茶なことを恥も外聞もなく言ってのける破廉恥漢が得意顔にのさばっている。この男、前の経済産業大臣だそうだが、こういう単細胞が政治家の大半を占めている。あきれてあいた口が塞がらない。
 いや、あるいは私たちが考える以上に彼らはずる賢いのかも知れない。 支離滅裂は承知の上で、計算ずくで発言しているのかもしれない。ただ単に「教育基本法」 をくさすための発言なのだ。お粗末であっても「教育基本法」改悪の正当性の主張なのだろう。 お粗末な耳目に入りやすい発言を繰り返しながら、同じく単細胞で権力に従順な草の根保守主義者を取 り込んでいく。単細胞権力従順保守主義者にはいまだに「共産党」や「日教組」は脅威で、「共産党」や「日教組」に対する批判を盛り込んだ政治的言説には、無批判に条件反射的に取り込まれるほどに支配者の思想を刷り込まれている。自民党の支持基盤を維持する重要な一要素になっている。
 これも、「銀行型教育」の成果の一つだ。あれ? 本道に戻っちゃった。

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77. 米長の憂鬱
 2004年10月30日



 実は昨日は、朝日新聞朝刊に報道された宮内庁主催の園遊会の記事を取り上げようと思った。新聞の次に インターネットの「お気に入り」に目を通すのが私の朝の習慣になっているが、私が新聞を読み終わったと きには(これも習慣で私は朝寝坊している)、例によって既に「澤藤統一郎の事務局長日記」が ちゃんとそのことを取り上げていた。

 しかし、私のホームページにもその記事を記録したいので、私なりの視点から取り上げることにする。
 まず記事の取り上げたい部分。

『 天皇陛下は園遊会の席上、東京都教育委員を務める棋士の米長邦雄さん(61)から 「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と話しかけ られた際、「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と述べた。
 米長さんは「もうもちろんそう、本当に素晴らしいお言葉をいただき、ありがとうご ざいました」と答えた。』


 石原の腰ぎんちゃくの6バカ都教委の代表として、よくバカさ加減を露呈してくれた。
 米長の発言は、その意図するところを私が翻訳すると、
 「私は陛下の忠実な臣下です。私の仕事は御意に沿ったものと確信いたします。このように 忠勤いたしております。」
となる。おべんちゃらを言って、激励かお褒めの「お言葉」でもいただけると思っていたのか。

 それに対する天皇の発言について、澤藤さんは「天皇が政治的な発言をしたことに ある。国旗国歌問題について、天皇がものを言う資格など全くないのだ。自ら望んだ 会話ではないものの、出過ぎた発言である。」と釘を刺してる。法的にもっともな指摘である。

 しかし私は、天皇の衣を剥ぎ取った明仁という一人の人間としての意見なら、 帝王学で育てられたにも拘らず、ごく常識的な感性の持ち主で、ごく当たり前の常識的な意見を述べており、 なんら問題はないと思う。
 また、明仁を天皇の衣をまとった存在としか見ることができない天皇教の信者たちにとっては、水を浴びせ られるような発言で、バカどもの頭を冷さす効果が少しはあるかもしれないと思っている。

 一方、次のようにも思う。
 明仁は本人の意志に関わらず、社会的には天皇の衣をまとった者としてしか在り得ない。 とすると、「強制になるということではないことが望ましい」という発言は、自発的な日の丸 掲揚・君が代斉唱を期待している意味に取れ、明仁は「君が代」の意味が指し示す当事者なのだから、 まさに厚かましい発言だ。
 強制であろうと自発的であろうと、私は君が代を歌わない。(過去にブギ調君が代を歌ってしまった 前科があるけど)
 いずれにしても、天皇がこの程度の事さえ自由に発言できない境遇にあるとすれば、その人と しての在りようを実に気の毒に思うほかない。けだし、日本不自由・不平等国家の象徴としてふさ わしいと言うべきか。

 天皇の言葉に対する米長の応答がまた振るっている。得意満面で伝えた自分の仕事がやんわりとたし なめられたというところだが、それでも感激をしている。天皇教の信者にとっては、天皇の言葉はどん な言葉でも「本当に素晴らしいお言葉」なってしまうのだろう。あるいは単なるおためごかしか。
 「もうもちろんそう」という天皇の言葉に対する慌てふためいた相槌を、米長がどう始末するのか 見ものだ。あるいは全く意に介していなく、舌を出しているだけかもしれない。

今日は朝から仕事。今朝はさらに寝坊をして、ここまで書いて日課を果たさず 仕事に出かけた。
 仕事を終えて帰り、新聞とメールを覗いたら、この話題について、言いわけ・取り繕い・批判・ 論評の花盛り。
 「反ひのきみネット」MLに、私の感情的な罵詈雑言と違って、冷静できちんとした論理的な論考が一つ あった。それを「メールの輪」で紹介する。
 しかし、私の感情的な罵詈雑言もこの問題の一面を抉っていると思うので、一つだけ追加して、 そのままアップロードすることにした。


「反ひのきみネット」MLに、天皇と米長のやり取りの詳細が報じられていた。

 天皇:教育委員会としては、本当にご苦労様です。
 米長:はい、一生懸命頑張っております。
 天皇:どうですか。
 米長:日本中の学校に国旗を上げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます。
 天皇:ああそうですか。
 米長:今頑張っております。
 天皇:やはりあの・・・、その、強制になるということでないことがね
 米長:ああ、もう、もちろんそうです。
 天皇:望ましいと
 米長:ほんとにもう、すばらしいお言葉をいただきましてありがとうございました。
 天皇:どうぞ元気で。
 米長:はい、ありがとうございます。

 天皇のとまどいと、米長の慌て振りがよく伝わってくる。つい噴き出してしまう。 今朝書いたことを訂正する必要はないようだ。


 ところで「園遊会」って、何だ?
 なぜ税金を使ってこんなことをやるのだ?
 もう既に支配階級にどっぷり浸かっている者にとっては大親分へのさらなる服従を確認する仁義の場 だし、一心に支配階級ににじり寄ろうとしている者にとっては親分子分の固めの杯に一歩近づく ための面通しの儀式だ。
 天皇の名において出す叙勲・勲章はさしずめ固めの杯というところか。


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80. 米長の欺瞞
 2004年11月2日



 「反ひのきみネット」MLでは、天皇の発言についての議論がまだ盛んなに行われている。
 私は米長がどう始末つけるのか、という関心から、米長のホームページを覗いてみた。
 「さわやか日記」というページの10月29日の記録では園遊会での天皇とのやり取りを 次のように書いている。

 『園遊会 投稿者:米長邦雄  投稿日:10月29日(金)16時57分9秒
10月28日は園遊会。雲ひとつない久し振りの日本晴でした。
父親の形見の紋付で出掛けました。
全く思いもよらず、天皇皇后両陛下からお声をかけていただきました。
さすがに緊張します。
将棋のことをお話ししました。
「現役はやめました。将棋盤を挟んで親子が楽しんでいる家族は幸せだと思います。 将棋の普及に務めております。陛下のお正月の昭和天皇と皇太子殿下とご一緒の写真は 大切な我が家の宝でございます」
「あの、もう随分前のことになります」
「教育委員として本当にご苦労さまです」
「はい。一生懸命頑張っております」
しばらくして隣の妻にもお声をかけて下さいました。
「ご苦労は大変なものでしょうね」
妻はその後は全くなにも覚えてはいない由です。
皇后陛下からは日本の文化、特に音楽についてのお話をさせていただきました。
又、養護学校についても心豊かな子どもの教育が大事と教えられました。』


 これで全部。もっとも大事なやり取りには全く触れていない。どうやら知らぬ顔の半兵衛を決め込む ようだ。「さわやか日記」どころか「ずる日記」である。

 米長の記録によると、皇后の「素晴らしいお言葉」は養護学校の教育についてだった。
 皇后は障害者などの施設をよく慰問する。「平和を愛し、お優しい」皇室のイメージ作り の一つであるが、皇后自身がハンディを持った人たちに本当に関心を持っているのかもしれない。
 将棋の米長相手に養護学校の話が出でくるのはいかにも唐突だ。やはり米長が都教委員を務めていること に関連しての話題ではないか。これは勘繰りすぎかもしれないが、都教委の養護学校いじめの 様子も天皇・皇后の関心事で、耳目に入っているのかもしれない。

 10月30日の日記はなく(お出かけのようでした)、次は10月31日の日記。

 『掲示板 投稿者:米長邦雄  投稿日:10月31日(日)14時28分32秒
土曜日に帰京しました。
掲示板への多くの書き込み有難うございます。
読みきれないくらいありました。
感動しました。感激しました。
陛下をご尊敬申し上げている人達のなんと多いことか。
お言葉の深さを本当に肝に汲みいるように受けとめている。
数々の書き込みを拝見して、心がひとつであるという氣が致しました。
胸を打つ書き込みが多く、重ねてお礼申し上げます。

陛下のお言葉には閣僚が相次ぎコメント。文部科学省は「強制ということではなく、 喜んで自発的に掲揚したりするありさまが好ましいということをお述べになったので はないかと考えている」と述べた。
私は都の教育委員として、残されている宿題を二つやりつつ、後任者へバトンタッチし たいと思います。』


 自分が天皇の政治利用という憲法違反をやらかしたという意識は皆無だ。
 米長を感動・感激させた「胸を打つ書き込み」を読みたいものと、「掲示板」の ページで探したが、ない。次いで「放談室」というページを覗いたら、次の記事を発見。

『HP更新 投稿者:米長邦雄  投稿日:10月31日(日)14時29分49秒
たくさんのご意見承りました。
これからHPを更新します。
更新したHPと日記を是非ご覧下さい。私の意見を書かせて頂きました。
この後は園遊会と陛下のお言葉についての意見は堅くお断りいたします。』


 なんと、折角のたくさんの「胸を打つ書き込み」を削除して、もう「胸を打つ書き込み」 はいらないと言っている。遠慮深く慎ましいお方だ。

 そこでまた「ずる日記」に戻った。

『非凡なる教育者と国旗 投稿者:米長邦雄  投稿日:10月31日(日)14時27分47秒
金曜日は富山県上平(かみたいら)村で仕事。これは本日更新のHP「まじめな私」 をお読み下さい。
教育の原点、国旗に対する姿勢についての意見を述べました。』


 忙しいお人だ。引用した3つの文章のアップロード時刻はそれぞれ14:28:32、14:29:49、14:27:47。 相当急いでたのだな。

 私も忙しい。次は「まじめな私」にアクセス。
 かなり長いので「教育の原点、国旗に対する姿勢についての意見」の部分だけを抜書きする。

『教育と国旗
 「米長先生、東京では卒業式に国旗を掲揚しない学校があるんですか」
「富山県では小中学校全校掲揚している筈です。国歌を斉唱しない?えっ、起立しない人がいる?」
「あ、そういえば以前起立しない教師が居ましたが、いつでしたか退職しました」
 帰路は富山市へ立ち寄る。どうも私の話は全くかみ合いません。
 そうか、東京を変えて日本を変える。これが間違いだったのか。心の東京革命は、 先ず首都東京を改革してから全国発信しようという意氣込みなのです。
 文部科学省よりも先に進み、全国へ波及させる。井の中の蛙とはこのことか。日本には 健全の自然と人間が共生している地方があるのをすっかり忘れておりました。驕っておりました。
 東京を変えることは、発信ではなく着信だったのか。東京こそ変らなければならなかったのか。
むしろ東京さえ変れば良いと言い切ってしまおう。
(中略)
 都教委の職務を全うして後任へとつなげてゆきたい。』


 どこに「教育の原点」についての意見ががあるの?お目にかかりたかったのに「非凡なる教育者」 も見つからない。
 どだいこの人にまともな教育論などあろうはずがない。まったく「ふまじめな私」だ。
 ぜんたい、粉飾と慇懃無礼にへりくだった美辞麗句だらけの気持ち悪い文章だ。

 それに、おいおいだいじょうぶかい?
 「東京を変えて日本を変える。心の東京革命は、先ず首都東京を改革してから全国発信しよう」というのは 親分石原が立てた方針でしょう。老婆心ながら、「これが間違いだったのか。」なんて勝手に判断して 親分の逆鱗に触れるよ。

 今回の不始末で詰め腹を切らされるのか、自分からの申し出たのか知らないが、ここへきて
「残されている宿題を二つやりつつ、後任者へバトンタッチ」
「職務を全うして後任へとつなげてゆきたい」
と辞任を示唆するような文が二度も出てくる。ほんとに辞めるとありがたいのだが、まあ後釜も 同じようなバカが座るわけで石原が辞めない限り、同じか。それに、抜け目のない石原のこと、詰め腹 を切らせる場合とこのまま居座らせる場合と、どちらがダメージが大きいか、世論の動向を窺いながら、 思案中だろう。

 直接会ったのか、電話で行なったのか分からないが、米長は石原と少なくとこの苦境をどのように 切り抜けようかぐらいの善後策は講じのだろう。

 今日の朝日新聞朝刊「石原知事発言録」の一節
 「政治家のコメントも出てるようだけど、私は中山君、文部(科学)大臣の言っているのはご く妥当で、ちょっと法務大臣はピントがずれているんじゃないのかね」

 米長が援護射撃と判断して飛びついたのも文部科学大臣の発言。

 なるほど、その線で沈静化をはかろうと言うのかねえ。

 だいぶ長くなったが、石原の詭弁・強弁(上記発言の続き)に一言いわずに済ますわけには 行かない。

『(都教委の方針は)これは強制じゃないんですよ。これは要するに国が決めたことをだね、 公務員としてですね、義務として行うか行わないかの問題であってね。一般的に強制する、 しないの問題とはこれまた違う。そこは今後混同しないでもらいたい。』

 スパイを派遣して監視させ、処分をして、どうして「強制じゃない」などとほざけるのか。 文学者が聞いてあきれる。お前は日本語の破壊者だ。

 おまえが日本国憲法をどんなに憎悪していてもそれはお前の勝手だが、おまえはその憲法の 下で選挙された知事なのだ。その憲法を無視すればその職を失う身分なのだ。
 自らは憲法を認めぬと公言していて、教職員に国が決めて事を行う義務があると、よく言えたもんだ。
 だいたいおまえたちが出した通達は、最高法規の憲法と、国の教育の基本的あり方を決めた 教育基本法との両方に違反している。国民には憲法違反の通達などに服従する義務など全くない。 その通達に屈服させようというのは強制以外の何ものでもない。

 『仮に通達と法律とが矛盾しあうならば、法律に従うべきであり、法律と憲法が矛盾し ている時は、憲法に従うべきであるというのが私の行政官としての判断 である。』(都知事を務め ていたときの美濃部亮吉氏の言葉)

 美濃部亮吉氏の爪のあかでも煎じて飲んでおけ。



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81. 石原の陰湿で狡猾な弾圧
 2004年11月3日



 米長が、そのホームページに「残されている宿題を二つやりつつ、後任者へバトンタッチ」と書いて いた。この二つの 宿題とは何か。当然石原による都立学校の教育支配の完成を目指す最後のツーステップということになる。

 石原が都知事になってから都立高校の教育支配のために打ち込んできた楔のうち、教員たちの日常 の活動を 直接圧殺するような威力を発揮しているもを列挙する。(部外者の分析ゆえ、捉えそこない、取りこ ぼしがあ るかもしれない。指摘いただけるとありがたい。)

1998年 学校管理運営規則の改悪
    (特に「職員会議を校長の補助機関として明確に位置づけ」たこと。これにより今まで 職員会議によって決めてい たあらゆる重要事項が校長の独断によって決定することが可能になった。

2000年 人事考課制度の導入
    (教育にはなじまない成績評価主義を持ち込む。これは最後のツーステップへの布石。)

2003年 主幹制度の導入
    (教員の5段階分断の完成)

2003年 異動要綱の改悪
    (校長の意に染まない者を恣意的に異動させる事ができる。)

2003年 いわゆる「9・23通達」
    (「職務命令→処分」の前例作り。なにかというと「職務命令」が出されるようになるので はないか。)

 さて、最後のツーステップは何か。

@
 9月7日付で、都教委から都立学校長に「教職員の普通昇給に係る業績に基づく延伸の実施について」 という通達が出された。
 今年度の業績評価に基づいて来年度から実施される。評価がC,Dの教員は昇給3ヶ月延伸というもの。
 全教員について業績を評価するなど、教頭・主幹・主任などを手先に使っても不可能だろう。 大体個々の教員がやっている 授業の良し悪しを決めるのは生徒だし、校長・教頭・主幹・主任などのヒラメ教員に他者の授業の 適正な評価をする力量などあるものか。結局は、校長のやることや言うことに逆らったり反対する 教員への見せしめに使うのが目的だ。授業内容でのC,Dがあるとしたら、「問題提起型教育」 に対するものだ。

A
 「学校経営支援センター」の設立。
 地域ごとに、校長も含め、学校全体を監視する体制作りだ。そこから派遣される職員は校長級だそうだ。やがて、 大日本帝国時代の「視学官」のような猛威を振るうようになるだろう。

 どれもオブラートに包まれていて、権力側が出す情報を鵜呑みにして受け入れる大多数の 一般都民にはその真の狙い(権力による教育支配)は分からない。受けのよいスローガンを掲げ、「す べていいことじゃないか」としか受け取れないように企まれている。
 例えば、教育の場に「企業の論理」を持ち込んだ「人事考課制度」のパンフには「子供たちが、楽しく伸び伸びと学 ぶことができる学校づくりを!」とでかでかと書かれているが、「人事考課制度」と「楽しく伸び伸びと学 ぶことができる学校」を結ぶ論理は何にもない。

 大日本帝国時代の弾圧は、特高を初めとする官憲を使ってのあからさまな暴力的弾圧だった。今は、一応建前は民主主義国家 だから、一般国民の支持を得られないような無茶な暴力的弾圧を大々的にはできない。(個別的にはたくさんの例がある。 最近の例では、反戦ビラをポストに入れたり反戦の落書きだけで、家宅侵入とか建造物破損とかの矮小化した罪状で逮捕 されている。)
 そこで権力側は、オブラートに包んだソフトな形で、より陰湿で狡猾な弾圧を考え出していくだろう。石原がやっている ことはその典型という事ができる。

 これだけのすさまじい攻撃に対して、組合はただ拱手傍観するばかりなのか。
 大多数の一般都民がその事実を知らぬまま、もう都立学校は完全に石原に支配者されてしまったと言って もよいように、私には思われる。

 だからこれからの石原との闘いは、防御ではなく、奪還の闘いと位置付けるべきではないだろうか。
 一度奪い取られたものを奪還するのは容易ではない。勿論敵は石原だけではない。連帯すべき味方も 教育労働者だけではない。他の労働者も同じ状況に追い込まれている。全人類の課題である支配者 対被支配者の闘いである。長い闘いだし、広範な連帯を必要とする。


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89. ついに矛先は生徒に向かう
 2004年11月11日



   米長が言うところの「残されている宿題二つ」を、私は見誤ったようだ。
 都教委は教員の制圧は完了とみなしたか。「日の丸・君が代」を生徒 にまで強いようとしているのは周知のことだが、いよいよはっきりと矛先を生徒に向けてきた。
 全く次々と人間性を圧殺するような施策をよく出してくる。

 今日の朝日新聞朝刊の一面の見出しに『都立高「奉仕」必修へ 07年度から』とあった。
記事から抜粋する。

 『奉仕活動は、戦後教育の見直しを目指した教育改革国民会議で浮上。自 主性を基本とするボランティアと異なり、共同生活の中で義務付けるもの として検討された。
 都教委幹部は導入の狙いについて「内容はボランティア活動と変わらな い。生徒がいろいろな人と交流し、活動を通してより広いものの見方がで きるようになることを期待する」と話している。
 一方で都教委は、「ボランティア」でなく→奉仕」と呼ぶ理由につい て、「自主的・自発的に行うだけでなく、他教科と同じく教育課程に組み 入れて必修化するため」と説明する。』


 「奉仕」=「つつしんで仕えること」
 いやな言葉だ。一体誰に仕えろと言うのだ。広辞苑には第2の意味として 「献身的に国家・社会のためにつくすこと」とある。私には戦中の「勤労奉 仕」がすぐ思い出される。何から何まで大日本帝国下の教育と同じにしたいらしい。

 強制でやらせるのでは、ボランティアと言えないのは当たり前だ。
 「内容はボランティア活動と変わらない。」だって?冗談言っちゃいけない。内容と 形式は相互規定し合う不離一体のものだ。
 自らの内心の要請に従って行うボランティアと強制してやらせる「奉仕」とでは、 たとえやっている事が同じでも、雲泥の差がある。実行者にとって 生きる上での意味や意義、あるいは直接他者と関わる行為であれば、他者との人間的なかかわり から得る心の交流や 自他がともどもにそれを通して得る精神的な糧など、全く違ったものになるだろう。
 それに「ボランティア活動と変わらない」内容をふみこえないことを 誰が保障するのだ。現在の六バカ都教委ではやがて「勤労奉仕」的になるのは明らかだ。あるいは 「自衛隊体験学習」にもなりかねない。
   どだい、自分たちは権勢欲と私利私欲の塊のくせに、人に奉仕活動をせよなどと、よく言えたもんだ。

 「いろいろな人と交流し、活動を通してより広いものの見方ができるようになることを 期待する」のなら、教育委員会がなすべきは、何事も強制することなく、生徒が自由に羽ばた けるように環境を整えればよいのだ。教育の内容にまで口を出すな。要するに教育委員会は 余計なことをするなということだ。

 いつの時代でも、教育を支配しようと企む支配者とその腰ぎんちゃくは考えること が同じだ。その論理の指向も。

 戦中に文部省が出した「戦時学生自戒五条」の四に曰く「感謝奉公ノ念ヲ持シ進ンデ勤労 ニ服スベシ」
 「日本少国民文化協会」という少国民の練成と動員を目指した団体があった。 幼少年時から洗脳すべく「愛国いろはかるた」というばかばかしいものを制定している。 勇ましく強い皇軍の宣伝ばかりではない。その中には「勤労奉仕」の勧めもある。
 「は 「ハイ」ではじまる御奉公」「ぬ ぬぐふ汗水勤労奉仕」(以上「山中恒「撃チテシ止マム (ボクラ少国民第3部)」より」

   1938年の「教育審議会」の議事録から委員達の発言を拾ってみる。(山中恒「御民ワレ (ボクラ少国民第2部)」より)

「……最近マデハ個人自由主義二依ッテ大学ノ基礎ガ恰モ白蟻ガ崩スヤウニ崩サレテ来タノデアリマ ス、又資本主義ガ右ノ方カラ大学ヲ動揺サセ、共産主義ガ左ノ方カラ大学ヲ動揺サセル、此ノ三方カ ラ我ガ国ノ大学ハ動揺サセラレテ将二転落ノ危機ニ瀕シテ居ルノデアリマス……」

 自分達の利己主義は棚に上げて、自由主義・個人主義を攻撃する。「教育基本法」改悪 を目論むものたちも自由主義・個人主義を非難している。日本固有の歴史やら伝統文化やら を持ち出して、それを国家主義的なものに変えようとしている。
 自由主義・個人主義は社会を疲弊させ、国家を過たせる元凶だという。自分達の誤った 政治や富の独占や利己主義がその元凶だろう。利己主義と個人主義の違いをきちんとわき まえてものを言え。

 「……自分ノ境遇才能ヲ顧ミズシテ、争ウテ大学ノ門二蝟集スル、ソレデ高等学校ノ繁 昌トナリ、延イテ中学ノ教育ガ受験的トナリマシテ、斯クシテ画一主義、詰込主義、記憶偏重主義ノ 教育ノ弊ヲ助長シテ、精神教育ノ上ニモ体育ノ上ニモ尠カラヌ支障ヲ来シテ居ルコトハ顕著ナル事実 デアルト信ズルノデアリマス……」

 「画一主義、詰込主義、記憶偏重主義ノ教育ノ弊」だって?そのような「銀行型教育」は、 ものを考えない被支配者を創り出すために、お前らにとっては理想的な教育だろう。だいた い天皇教教育こそ「画一主義、詰込主義、記憶偏重主義ノ教育」の典型じゃないか。 「問題提起型教育」には「偏向だ」とわめくくせに、笑わせるな。
 「自分ノ境遇才能ヲ顧ミズシテ」だと! 何たる傲慢! 何たる浅薄さ!三浦や江崎と同類の バカがどの時代にもいる。

「……抑々行ノ教育卜云フモノハ生徒ガ実地二手ヲ下シテ体験シテ、又繰返シ練習スルコト二 依ッテ初メテ遂ゲラレルモノデゴザイマス、然ルニ我ガ国デハ前代ヨリノ因襲二依リマスカ手ヲ下シ テ物事ヲスルト云フコトハ劣等ナル階級ノ者ノ為スコトデアルト云フヤウナ考へガ浸潤致シテ居リマ シテ、中学校デ生徒ヲシテ学校ノ庭二木ヲ植ヱサセヨウト致シマスト、村会議員ナル父ハ之二抗議ヲ 致シマシテ、我ガ子二植木屋ノ真似ヲサセテ呉レルナト申シマス、実二行ノ教育コソハ勤労ヲ愛好ス ル習慣ヲ付ケマシテ、額二汗シ手二膏スルコト二依ッテ外界二接触シ、諸般ノ知識ヲ教師カラデハナ ク自ラ獲得スル方法デゴザイマス、軍隊教育ヲ受ケルト人物ガ一変スルト申シマスガ……」

 「行(ぎょう)」というのは説明を要することだが、ここでは置く。「行」を「奉仕」と 読み替えれば、都教委の「奉仕」が何を目論んでいるかよく分かる。「軍隊教育」がその理想 形態なのだ。


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126. 政治屋になると心性が下劣になるモデル
2004年12月18日



 久しぶりにイシハラだ。
   8日の都議会代表質問で憲法について質問されたときの答弁を取り上げる。(12月14日 朝日新聞朝刊「石原知事発言録」より)
質問の言葉が併記されてないので、それは推定して書く。

質問「昨今、憲法改定の議論や運動が盛んになっている。自民党の憲法調査会への自 衛官の関与も大きな問題になっている。憲法改定についての知事のご見解を伺い たい。」
 「憲法を変えるか変えないかの前に、今の憲法に正当性があるかないか、ただ それだけで国会議員の投票してもらえればいい。そういう国民の代表の国会議員 の憲法認識ってものを踏まえて、憲法を正面から議論することが必要だと思う し、そのための有効な前提だと思います。国民自身が自発的にどういう憲法をつ くるかということを、国会を通じて合議して、私たち自身の愛する日本語で正確 につづられた憲法を書くべきだと思う」
 「国会議員の投票」「国会議員の憲法認識」「国会を通じて合議」。国会議員が 「国民の代表」という虚妄に依拠した国民不在の議論だ。「国民自身が自発的に」 などと言い添えているが、それも虚妄でしかないことはイシハラ自身が先刻承 知だろう。
 しかしそれはまあいい。一応建前は間接民主主義(、、、、) 国家の枠内でしかことは運ばないのだから。

 問題は二つ。

 1.「憲法の正当性」を議論するのはいい。誰にも妨げる権利はない。しかしそれを 「国会議員の投票」で決めるというのはとんでもない踏み外しだ。そのような重要なことを 国会議員だけで決められてたまるか。間接民主主義(、、、、) でも、それを認めるのなら、せめてそれだけを争点に総選挙をやるか、あるいは 憲法改定と同様に直接国民投票をすべきほどの問題だ。
 イシハラは今の国会の勢力分布から「正当性」を否定する結果を想定、いや確信しているので、 以下の発言となる。
 「そういう(、、、、) ・・・憲法認識」が「有効な前提(、、、、)だ」とよ。ずいぶんと 手前味噌の論理だ。

 2. 「愛する日本語」。どのように改定されようとも、この国の憲法が日本語で書かれるのは 自明なことだ。ことさら「日本語」を持ち出す必要はない。ましてや「愛する」などという個 人的な感情を込めた形容を付ける魂胆はまるみえだ。
 イシハラが「私は文学者だから」と得意げに指摘していることだが、現憲法特にその前文は、 イシハラの指摘を待つまでもなく、悪文である。前文を貫いている理念をもっとストレートに つかめるような文にすべきだとは思う。しかし、イシハラはその文体を けなしながら、じつはその理念に我慢がならないのだ。
 このことが次の答弁の続きにつながる。

質問「知事は日頃、現憲法を認めない、護らないというような発言をされているが、 その真意を問いたい。」
 「ラッシュの時間に2カ所で、テロリストが天然痘のばい菌を盗み出して仮に 散布したとする、どう対応するかの図上訓練をしました。既存の法律というのは 全部憲法を踏まえてできてます。テロリストを捕まえたけど、目に見えない天然 痘はサリンと違ってその場で発病しない。(今の法律では)その間その電車に乗 り合わせた人は名乗ってください、これ言えないんでよ。名乗り出た人は蟄居し てください、それもできない。全部憲法に引っかかってくる。どうするか。 都知事としてその情報を公開することで、多くの感染を防ぐため、憲法を無視し てやる。超法規というのはそういうこと。私は首かけてやるんだ。命がけでやる んだ。命がけで憲法を破るんだ。当たり前のことじゃないか」
 いまさら「憲法を護らない」というは公言を取り消すことが出来ない。どうするか。 極端な場合を取り上げて正当化する。典型的な詭弁の一つだ。
 しかもその極端な例が、例によって都民(国民)の恐怖心に依拠しようとする意図 がまるみえだ。
 そして「憲法を破るのは「当たり前のことじゃないか。」と居丈高に自己正当化をはか っている。「命がけでやるんだ。」だって。無理してそんなにいきがるなよ。

 また、  「その間その電車に乗り合わせた人は名乗ってください、これ言えな いんでよ。名乗り出た人は蟄居してください、それもできない。」だと。
 おいおいほんとかよ。専門家ではないから当たり前のことだが、私は法律の細部を ほとんど知らない。だから常識で考える。私の常識は、どちらも憲法に抵触すること などこれっぽちもあるまい、と考える。

 イシハラはずいぶんと無理な論理を構成しているな。焦っているぞ。


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129. 入都式で”君が代”練習を強制
2004年12月21日


 東京都の「日の丸・君が代の強制」と、それによる処分に対する訴訟が多数闘われている。
それにしても、それぞれの訴訟の進行・経過はどうなっているのだろうか。裁判の過程で新た にどんなことが明らかにされているのだろうか。

 昨日の予防訴訟第6回口頭弁論の報告会で『「再発防止研修処分取消し請求」 の本裁判の第1回公判』(2004年11月12日。於、東京地裁)のレポートをいただいた。 レポーター(配布者)名は「教育の国家統制に反対する会」。
 このレポートから2点を紹介したい。

 「再発防止研修処分取消し請求」訴訟は、卒業式等の「君が代」斉唱の時の不起立を理由に 不当処分された上、「服務事故再発防止研修」と称する懲罰研修を強制された教員たちが提訴 したものである。
 この第1回公判の中で、山中眞人弁護士が、都教育庁が新任教員の入都式で”君が代 斉唱の「練習(、、)」 をさせていたことを明らかにした。
 裁判で明らかにされたことと、さらに独自取材したことをまとめて、上記レポートは次のよ うに記している。
問題の入都式は2004年4月1日、都教育庁が、都立の高校・障害 児学校の全新任教員対象に、台東区上野の東京文化 会館で開いた。
 2003年の入都式までは、「開式の辞」直後、君が代”があったが、すぐと教育庁幹部 の話等に移った。しかし今年は、「開式の辞」の前、20〜30分間、新任教員を起立させたまま 君が代”斉唱の練習を強制。
 都教育庁指導主事とおぽしき中年女性が繰り返し繰り返し君が代”をピアノで伴奏するのに 合わせ、やむを得ず、起立や”口バク”はせざるを得ない弱い立場の人たちに、 都教育庁の中年男性指導主事から「声が小さい!」という”叱責”の言葉が飛んだ。 せめてもの抵抗か、体調不良からか、俯き加減の人には「(壇上正面に貼り付けた巨大な) 国旗の方を向いて歌いなさい」との言葉が飛んだ。
 私が都の教員に採用されたときのことを、一生懸命に思い出そうとしているのだが、 「入都式」なるものがあったのかどうか、定かでない。多分あったのだろう。
 あったとしても、記憶に残らない程度のものだから、もちろん「君が代」斉唱など なかったはずだ。
 夏休み中にあった初任者研修の方は、あまり内容がつまらないので1日か2日かサボって 校長からお小言をいただいたのを覚えている。
 上記レポートによると『2003年の入都式までは、「開式の辞」直後、君が代”が あったが、』とあるが、いつごろから「入都式」に「君が代」斉唱が盛り込まれたのだ ろうか。やはりイシハラが知事になってからだろうか。

 いまは多くの自治体が、自治体主催の儀式で「君が代」斉唱を行っているのかもしれない。 しかし、式の前に20〜30分もかけて、君が代斉唱の「練習」を強制するなど前代未聞である。 「東京から国を変える」といきまくイシハラの卑劣な「思想・良心」弾圧の一つだ。
 これはイシハラが目指している国家のありようを表徴している。こんなことがまかり通って しまう国家をなおも民主主義国家と呼ぶのか。
 前にもいったことがあるが、繰り返し言おう。イシハラの理想の国家は、彼が目の敵にして いる北朝鮮のような国家なのだ。斎藤貴男さんに「空疎な小皇帝-「石原慎太郎」という問題」 という著書があるが、まさにイシハラは空疎な小「将軍様」を気取っている。

 新任時からこのような思想・良心の弾圧の洗礼を受け、さらに度重なる行事を通して踏み絵を強いられ 、精神をずたずたにされ権力に屈服した教員たちが多数を占めていくことを想像すると、空恐ろしくなる。
 が、イシハラを選んだ300万都民は、こんな暴挙にも快哉を叫んでいるのだろうか。

 今回のことについてはもう一つ指摘しておかなければならないことがある。
 私たちにこの重要な情報が伝わるまでに7ヶ月の期間があった。ほとんどのマスコミはもう 頼りにならないことは繰り返し言ってきた。だが組合はなにをしている!
 レポートは次のように指摘している。
都立の高校・障害児学校の教職員組合は複数ある。が、中には組合執行部が、 山中弁護士の指摘があるまで7ヵ月間以上、この事実を公式の場では、組合所 属教員に一切知らせない教組もあり、良織ある市民にも伝わらず、都教育庁 への抗議の声が届くのを妨げる結果になった。
 現役の先生たちよ、あなたたちももう少し何か出来ませんか。


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162. 「公共の福祉」とはなにか。
2005年1月23日(日)


 私たちにとっては、現実の人間としての本来の生活(市民社会の生活)が目的であって、 公民としての共同幻想上の生活(政治的生活)はそのための一手段に過ぎない。従って 憲法をはじめ種々の法律がその目的である個人的人間の人権を侵害すれば、それはただちに破棄 されなければならない。理論上はこうだ。
 だが現実では逆転する。自由という人権が政治上の問題と矛盾すると、自由という人権が蹂躙される。 「手段」が「目的」となり、「目的」が「手段」となる。この逆転の根拠は、なんと 憲法が保障している。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利 については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の 上で、最大の尊重を必要とする。

 現今の民主主義国家の人権規定はフランス革命のときの憲法に範があるが、その当時から この「目的」と「手段」の逆転の問題が起こっていた。マルクスの「ユダヤ人問題によせて」に 次のような記述がある。
上記の記述も「ユダヤ人問題によせて」に負う。)

「出版の無制限な自由」が個人の自由という人権の帰結として保障されながら、出版の自由は 踏みにじられた。なぜなら、「出版の自由は、それが公共の自由を危うくする場合には、許され るべきではない。」(弟ロベスピエールの言葉)とされたからである。


 「公共の福祉に反しない限り」という、どうにでも拡大解釈ができる曖昧な文言を盾にとって、 権力は人権蹂躙をほしいままにする。つまり「公共の福祉」とは、なんのことはない、 「支配階級の都合」のことなのだ。

 さて、イシハラの人権無視はとうとう「集会の妨害」、「教師の配布物への検閲」を行うまで になった。(次回に続く)


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163. イシハラ・さらなる憲法無視の悪政
2005年1月24日(月)


 もう大方の人にとっては周知のことかもしれないが、私は1月10日の集会で知った。どうも情報に疎くていかん。
 チョッと遅きに失するが、イシハラの教育支配のための悪政の一つとして重要なことなので書き留めておく。

1  2004年12月3日、都高教組・都障労組・都校職組の3教職員組 合が日比谷野外音楽堂で「”日の丸・君が代”の命令・ 強制反対」の集会を開いた。主催者は学校の業務に支障がないよう配慮し 開催時間を午後5時30分〜7時に設定している。勤務地が集会場から遠い教職員 でも1時間ほどの有給休暇をとれば参加できるようにとの配慮でもある。

 ところが都教委は、この集会を「争議行為」だといい、イシハラの腰ぎんちゃく ・横山教育長の名で全都立学校長に集会を妨害する指示を出した。

多数の教職員が職場を離脱して集会に参加することは正常な学校運営を妨げるものである。よって、集会に参加す ることを目的とした年次有休休暇の請求については、時季変更権を直ちに行使し、申請を認めないこと。


 これは何だ?
 有給休暇をとるのに理由など言う必要は毛頭ない。労働基準法第39条4項に「使用者は、有給休暇を労働者の請 求する時季に与えなければならない」とある。
 またその理由が上記集会への参加であっても、有給休暇をとっての参加に とやかく言われる筋合いはない。集会は学校の業務に支障がないように配慮した時間設定をしている。勤務時間中に職場放棄を するいわゆるストライキではない。断じて「争議行動」ではない。百歩譲って「争議行為」だとしても「正当な組合活動」だ。
 イシハラと都教委にとってはおおいに疎ましい集会だろうが、憲法第21条が保障している集会だ。この集会への嫌がらせ・妨害 は明らかに憲法違反である。

2
 2004年12月10日、都教育庁は「学校から児童・生徒及び保護者に配布する文書の取り扱いについて」という通達を 近藤精一都教育庁指導部長名で全都立学校長に出した。

配布物の制限について
配布物については、すべて校長が責任を負う。したがって、以下に例示するような、校長が決定又は承認をしていない文書は、 児童・生徒及び保護者に配布してはならない。
 (1)職員団体等学校及び東京都教育委員会以外の機関が作成した文書で、校長が配布することを許可していない文書
 (2)学級通信、行事の案内等教育活動に関する文書のうち、作成に当たって校長が決定又は承認をしていない文書
 (3)公務に関係のない私的な文書

 これは何だ?明らかに「検閲」だ。

 イシハラは現憲法を認めないと公言している。これ見よがしに次々と憲法の条文を狙い撃ちしている。今度のターゲットは 第21条だ。改めて第21条を掲載する。

第21条(集会・結社・表現の自由,検閲の禁止,通信の秘密)
@ 集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する。
A 検閲(けんえつ)は,これをしてはならない。通信の秘密は,これを侵してはならない。

 憲法論議をおいて、このような事がまかり通る教育現場を想像してみよう。「茶色の朝」という絵本が評判になっているが、 まさに「茶色の学校」だよ、こりゃ。

 「学級便り」は生徒との問題共有の手段と同時に保護者とのコミュニケーションの一つでもある。話題は必要に応じてほとんど なんでも取り上げる。じっくり考えた上で、自分の責任において社会問題や政治問題についての意見だって述べる。 生徒は授業とはまた違った観点からものを考える機会になるし、自分の教師がどんな人物かも知る。
 私の先輩教師に専門科目外の見識も広く、深い思索をされる方がいた。その方は授業中に授業とはまったく無関係の 思索を記したプリントを配布していた。生徒にはとっても評判がよかった。
 私も「学級便り」を時々発行したり、飲み屋での議論だけではもの足りず、同僚向けの駄文も時々書いた。 (こちらはうるさがる同僚もいたに違いない。)もちろん校長・教頭にも配布している。
 生徒たちも生徒会報や委員会便りやクラブの同人誌などさまざまなプリントを通して意見を述べたり、情報を交換する。  PTAや保護者会が発行する配布物も重要な役割をする。
 教育委員会と教育庁からの配布物だけは百害あって一利もなしだ。

 生徒と保護者と教師の相互のかかわり合いは授業や部活や職員会議や保護者会や飲み屋での議論だけでなく、種々さまざ まな配布物の往来によっても深くなっていく。この配布物がすべて校長の検閲を受けるだって?
 学校は茶色になるだけではなく、骨と皮だけになってしまうよ。もうほとんど死に体だな。

 それに気の毒なのは検閲をする校長。学級便りを毎日書く人もいるぜ。私は全授業をプリントで進めた。毎時間数枚、 多いときは10枚ぐらいを配布した。検閲作業だけで寝る時間もなくなるだろう。それに学校では実にさまざまな分野の プリントが行き交うが、それを全部検閲する力量あるの?

 この件についての「孔の穿ち方」。
 全員でプリントを出しまくれ。


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206 奴隷犬の生態(1)

2005年3月8日(火)



 先日参加した集会で奴隷犬の生態を如実に物語る話を聞きました。イシハラが成し遂げている 教育支配、というより民主教育破壊がどんな成果を挙げているのか、その実態がよく分かるので 紹介しましょう。信じられないかもしれませんが、みんな本当の話です。信じられな いようなことが日常茶飯事として起こっているのです。




 私が勤める高校は校長・教頭がイシハラ教育行政の忠実な実行者で次々にとんでもないこと が起こるとても刺激的なあきることのない学校です。
 校長はとんでもない校長ですが、その忠実な子分の教頭はそれに輪をかけてとても凶暴で 狂っているとしか思えないような御仁です。朝っぱらから職員室では教頭の怒鳴り声が響き 渡ります。あるいは教員と教頭が怒鳴りあっています。とてもとても熱気あふれる学校です。
 主幹も4人もいます。そのうち2人はシュカン犬に変身しました。校長・教頭のとてもとても忠実 な奴隷として日々せっせと忠勤に励んでいます。

 校長は10.23通達に嬉々として従って職務命令を出しました。黄門さんの印籠を手に入れたかのよう にとても得意そうです。周年行事・卒業式・入学式と立て続けに3回、文書で出しています。その結果、 処分者が9名も出ました。もしかすると全都一位かも知れません。そのせいか、イシハラに大変気に入 られています。

 イシハラが都教委員という腰ぎんちゃく2名をひき連れて、お忍びで私たちの学校に抜き打ち の視察にやってきました。教員にも生徒にも知らされていませんでした。校長はきっとこのような得体の 知れない突然の闖入者を、都教委のマニュアル通り、建造物侵入で訴えるかと期待していましたが、 ただただ恐慌して揉み手をしながら迎えていました。
 教頭はさらに焦っていたようです。当日の朝初めて知らされたらしく、あわてて朝から一生懸命学 校中を掃除していました。
 イシハラたちは2時間ほど授業を参観して帰っていきました。都知事とか都教委員とかは よっぽどの閑職なのでしょうか。自分の本来の仕事を見失って、しなくともよい事ばかり、 いや、してはいけない事に精を出しているこうしたでかい面の公僕は早く辞めさせるべきです。

 イシハラは私たちの授業がよほど気に入ったのでしょうか。次に都庁からやってきたのは授業の ビデオ撮影班です。東京都の教育政策の検討に使う資料作りという名目でした。これも私たちの知 らぬところで決ってしまいました。どのクラスのどの授業を撮影するのかも校長が独断で決めて、 教員にも生徒にも知らされない秘密事項でした。

 さらに私たちの学校は「生徒指導充実校」に指定という栄誉に浴しました。そのためかどうか、 始業式には都教委からスパイがやってきました。都教委は「生徒の様子を監視するためではなく、 教員がちゃんと仕事をしているかどうかをチェックするための視察だ」と教頭に言っていたとい うことです。

 都教育庁が設定した来年度の生徒指導の重点課題は「全校集会をきちんとやること」だそうです。 なんと崇高な志の高い目標ではありませんか。「東京から日本を変える」というイシハラの秘策の一つに 違いありません。昨年は「勤労奉仕」が打ち上げられました。こんどは「軍事教練」というわけです。 教室から集会場までの往復、集会での聞く姿勢、たぶん軍事教練まがいの一糸乱れぬ集団行 動を目指すのではないでしょうか。もしかすると集会のはじめに日の丸掲揚・君が代斉唱 を盛り込むかもしれません。
 それはあんまり穿ちすぎで冗談が過ぎますよというご意見があるかも知れません。しかし、 実際に冗談のようなことが次々と現実になっていく事例を次々と見せ付けられています。やがて 笑っていられなくなるかもしれません。

話はまだまだつきませんが、きょうはここまでにします。またあした。


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207 奴隷犬の生態(2)

2005年3月9日(水)



 イシハラの目論みは行き詰まっている。

   まず校長を服従させる。これはたやすかった。教育に対する高い志があって校長の道を選んだ、 なんていう校長はまれだ。ほとんどは出世したがりヒラメ校長だから権力には喜んで拝跪する。

 次は教員だ。
 ずいぶん以前のこと、「教員は臆病だから組合から脱退させて一人一人を孤立させれば何もできない 」というようなことを自民党の文教部会とかで言っていると、ある本で読んだことがある。
 脱退させるまでもない。都高教が全くの腑抜けだから、組合はあってなきが如し。イシハラはほく そ笑んだ。処分で脅す職務命令を校長に出させれば一件落着、と思ったことだ ろう。ところがどっこい、まつろわぬ教師たちがいた。

 それじゃ搦め手から攻めようと、生徒を使った戦術を加えた。ところが相当数の生徒が不服従を 貫いている。しかも事ここに到っては黙ってはいられない、自由が圧殺さると、保護者を始め市民 たちが立ち上がった。

 市民を服従させるには警察力に頼るしかない。公安まで動員して「日の丸・君が代強制」に抗議する ビラを配っている市民たちを逮捕し始めた。大日本帝国時代の思想弾圧を彷彿とさせる。イシハラの 目論みが行き詰まっている証拠だ。

   イシハラが文字通りの意味で狂っているのかどうか分からないが、学校が狂ってきたのは確かだ。




 私たちの学校の管理職は成績を上げて出世することしか頭にありません。イシハラや都教委のお気 に召すような事をすれば成績が上がるのです。何をすればお思し召しに適うのかと日夜一生懸命 考えているようです。

 昨年度のことです。校長は突然重点指定校に立候補すると言い出しました。2期制にして1日7時間 授業にするというのです。教員はこぞって反対しました。私たちの学校の生徒には2期制・7時間授業 はふさわしくない、生徒のためにならないからです。しかし校長は私たちの意見に全く耳を貸そうとし ませんでした。
 今年度になっていきなり学校の体制が変わっているので生徒も保護者も戸惑っています。
 重点校にならないとお金も人もこないからというのが重点校に立候補する理由の一つでしたが、 結局、お金の方は特別教室2部屋にエアコンが付いただけでした。人の方は逆に教員の数は減らされ、 講師時数も減らされ、開講できなくなった科目・講座が出てきました。お金も人もまったく好いこと はありませんでした。

 実績が上がらないことに焦った校長は、こんどは生徒の髪の毛に着目しました。「生徒の髪の毛を 真っ黒にする」と言い出したのです。髪の毛を染めている生徒は進級・卒業させないというのです。 もうここまでくると本当に狂っているとしか言いようがありません。もちろん私たちは激しく反対し ました。

 生徒の学校評価アンケートには「校長いらない」「校長出て行け」「校長・教頭ウザイ」などなど管理職 への不信・恨みの声が一杯です。

 都の今年度の異動はひどいものでした。校長たちに都教委から「校長の学校経営方針に反対している 教員は異動させよ」という強い指導があったようです。私たちの学校も例外ではありません。職員会議 で校長は「1年目から私に反対意見を述べるような者は異動してもらう。」「私の学校経営方針に反対す る教員はいらない」と言っています。さらに「50歳以上の教員はこの学校にはいらない」などという とんでもない事まで言っています。自分より経験豊富で力量もある教員が目障りなのでしょう。

 私たちの学校ではほとんどの教員が校長の学校経営方針に反対です。半数以上の教員が異動希望を出 しました。しかしめでたく異動がかなったものは強制異動の人と「日の丸・君が代強制」問題で処分さ れた人ばかりでした。だから私たちの学校では「国家斉唱で座っていればよかった。」とか「今度の 卒業式・入学式では立たないでいようかな」なんていう会話が交わされています。
 他の学校では不当異動で多くの人が激しく怒っていますが、私たちの学校では残留希望の人はいない ので、不当異動もあり得ません。とてもうらやましい、いやうらめしい学校です。

 また、今年度から業績評価がCかDだと昇給を3ヶ月延伸されることになりました。全くイシハラは 勝手放題なことをやります。議会もイシハラ翼賛でチェック機能皆無です。
 業績評価は校長がするのですから、校長に逆らうと異動で不利なだけでなく、経済的な不利益を強い られることになります。実質的に処分される事と同じです。イシハラは私たちに糧道を絶つぞと脅して いるのです。頭を無理やり地面に押さえつけて服従せよと恫喝しているのです。
 私は校長のへんてこりんな教育方針には協力しませんし、いつも反抗しているせいか「C,Dをつ けるぞ」と2度もおどしを受けました。

 12月にはこんな事がありました。
 午後年休を取って学校を出たのですが、翌日教頭が「年休時間より早く学校を出ただろう。問題にするぞ。」と 言いがかりをつけてきました。
 校門の所に防犯用の監視カメラが取り付けられているのいるですが、それでチェックしたようです。
 私はその日は校門の立ち番だったので5分早く校門を出て学校の周りを巡回してから出かけたと説明しました。 教頭は「そんなのウソに決っている」といって全く取り合ってくれません。もしたとえ私が5分早く出かけたとして 「問題にするぞ」というほどの問題でしょうか。それに何よりも防犯用の監視カメラで教員を監視してい るとは、そっちの方こそとんでもない問題です。校長も狂っていますが、教頭もそれに輪をかけて、 狂っています。彼らにはもはや教育の「き」の字もありません。こんな人たちが教員を指導する 立場に居座っているのです。これがかつては教師だった者のなれのはてかと思うと情けない気持ちで 一杯です。

 ひどい事がまだまだたくさん起こっているのですが、時間がないのでお話できず残念です。
 でも私たちはどんなことが起こっても一致団結して管理職と闘っています。それぞれの学校で理不尽な 権力と闘う取り組みの一つ一つが私たちの国の民主主義を守ることにつながると信じて、これからも闘い続けて いきたいと思っています。


 上記の記事の中で、とんでも校長が生徒の髪の毛を進級・卒業の条件の一つにしようという発想 していましたが、これに関連して蛇足を一つ。
[anti-hkm]MLの「ツバメ通信(7)」に次のような記事がありました。
 本日足立東高校の卒業式。
  計7人で正門でのビラまき。
  教職員の受け取りは今一つだが、生徒・保護者の受け取りはすごくよかった。
  教員がずっと7〜8人入り口に立って、生徒を入り口で止めて、頭髪検査。
  髪を染めている生徒には黒スプレーを買いに行かせて、その場で黒くさせていた。
  1〜2人のレベルではなく、ほとんど生徒全員。
  その様子を見ていた保護者は凍りついていた。
  反発して帰ってしまった3年生の親子もいた。
  とんでもない人権抑圧に全員驚き、怒った。

 生徒のファッションを規制するのは当たり前と考える教員は、もしかすると多数派です。
 「第151回」(1月12日)で、青木悦さんの講演を紹介しましたが、その中で私は青木さんの指摘 したことを「わが内なる保守・反動」という言葉で受け止めました。まさにこれが教師の内にある 『生徒への「強制」がまかり通る素地』なのです。


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207 イシハラの思想弾圧の下地

2005年3月10日(木)



 村上義雄著「暴走する石原流『教育改革』」を読んでいる。前回、前々回で現役のある教員の話を 多少アレンジして都立高校の現状を記録したが、昨夜読んだ部分にそれと同じような事例が次々と出 てきた。あの話は決して特例ではないのだ。
 その部分の見出しタイトルを並べるてみる。

校長の権限は飛躍的に強化され、職員会議はものの見事に形骸化
押し付けられる研修
人事考課、人事異動---教師の士気を削ぐあの手この手
主幹---やる気をなくさせる縦型人事の立役者

 このタイトルを見ただけで私たちはその内実が手に取るように分かる。

 さて、前回、イシハラが市民たちを逮捕し始めたことに触れたが、これも実は用意周到に 準備されていたと思える。前提書の第4章「ここまできた都教委の”学校支配”」を読んで 得心した。

 2003年6月、イシハラは竹花豊という人物を副知事に就任させた。竹花は2001年9月3日から2003年 6月13日までの広島県警で本部長をしていた。いくらか異論があったようだが、翼賛都議会はこの人 事をすんなりと認めた。
 2003年8月、イシハラは竹花を本部長とする「緊急治安対策本部」を組織する。この対策本部での 論議の中で「子どもを犯罪に巻き込まないための方策を提言する会」を発足させた。この会の提言が きっかけとなって具体化したとんでもないものがあったのだ。
以下「ここまできた都教委の”学校支配”」から引用する。
 都教委の”学校支配”は、警察との連携強化にまで発展している。2004年4月5日、都教委と 警視庁の間で締結し、5月1日に施行した「児童・生徒の健全育成に関する警察と学校の相互連 絡制度の協定書」は、ちょっと黙視し難い。協定書の骨子を紹介しておこう。

 まず、警察から学校への連絡事項は、@逮捕事案、A(犯罪をおかす恐れのある)虞犯事案、 Bその他、警察署長が学校への連絡を必要と認める事案など、となっている。
 一方、学校から警察に提供する問題行動として都教委は、@深刻な暴力、A刃物使用の傷害、 B援助交際、C薬物使用、D暴走行為、E深刻な学校間抗争、F校長が警察に連絡する必要が あると判断する問題行為などを例にあげている。

 私は「問題行動」という言葉が気になる。教師と生徒の間で解決可能な事柄まで警察に連絡し てしまう危険性はないのか。
 かつて中学を舞台に「校内暴力」 の嵐が吹きすさんだとき、職員会議は、しばしば激論となった。 紛糾もした。
 「なぜ、安易に警察を呼ぶのか。教師は生徒としっかり向かい合っていると胸を張れるのか。自ら 教育を放棄せよと校長は言うのか。教え子が警察に連行されるのを黙って見ていられるのか」
 教師たちが校長ら管理職に詰め寄る光景を取材者として目撃したのを記憶している。生徒に寄り添 おうとする教師の思いに共感をおぼえた。「教え子を警察に売るのか」という激しい批判が耳の奥に しみ込んでいる。
 しかし、結局、各地域ごとに「学校警察連絡協議会」(学警連)が発足し、連絡を密にする旨、学 校(管理職)と警察が意思統一をはかる結果となっている。
(中略)
 今回の協定は、まるで「中学生を見たら非行を疑え」と頭から決め込んでいるのではないかとさえ 思える。都教委の姿勢と、今回の「協定書」の使われ方を入念に監視しなければなるまい。

 昨今、学校に侵入した部外者による殺傷事件が相次いでいる。圧倒的多数の人が上記の「協定書」 を歓迎するのではないか。 しかし心しなければいけない。他の項目にも問題点はあるが、「その他」 という項目がくせものだ。警察と学校が相互に連絡し合うとした項目の中でも「Bその他、警察署長が学校への 連絡を必要と認める事案」と「F校長が警察に連絡する必要があると判断する問題行為」が問題だ。
 今回の市民を逮捕するに至る警察・学校の連携は、イシハラ・都教委の直接の指示があったようだ 、この「協定書」がその指示の根拠であったろうと思う。
 村上さんは学校が安易に生徒を警察に引き渡すようになることをのみ杞憂している。まさかこれが 市民を弾圧するための項目になるとは全く思いも及ばなかっただろう。もっともなことだ。 こんなべらぼうなことは誰にも予測できなかっただろう。
 もしも「協定書」作成時に竹花がその項目で市民弾圧をも想定していたとしたら、竹花というヤツは イシハラが見込んだだけあって、相当な悪だ。


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452 今朝のニュースから
チョッと寄り道します。
2006年3月14日(火)



 この頃、「寛容」あるいは「不寛容」という言葉がよく目にとまる。偶然だろうか。 支配層とその阿諛追従者どもの不寛容がいよいよ狷獗を極めるにいたったことの反映ではな いか。

 今朝の朝日新聞のコラム「伝える言葉」の大江健三郎さんの言葉から。

 日本人がいかに寛容の精神ということに未熟であるか。なによりも人間らしいというこ とを根本におく、という態度から、いかにしばしば逸脱するか。そして機械にでもなった ように、いかに人々が、はやりの社会思潮にガラガラ動かされるか……

(中略)

 戦後四年目の一月、渡辺一夫と中野重治は、往復書簡をかわしました。(―また始まった! と 渡辺さんが最初の嘆声を発せられたのが、この年あたりだったかも知れません。)まず渡辺 さんのエッセイに感銘を示しつつ、中野さんがこう書かれるのは、真面目な懸念に発しての ことだったはず。

 《とかくペシミスティックなところへ引かれるのは、これは年齢、あるいはわたしたちの 年齢のものの経験のせいでしょうか。しかしくどくもいえば、もっとも浅はかなオプティミ ストたちが戦争をしかけたがっている以上、わたしたちペシミストは断乎として進まねばな らぬと思いますい》

 作家中野重治もフランス文学者渡辺一夫も、生涯をつうじて引きさがることはしませんで した。しかしいま、かれらが対抗しようとした勢いは、政治、経済、国際関係そして文化を (つまりは教育も)おおっていいます。なお中野さん渡辺さんが生きていられたなら、どう いう言葉を発せられるか?私がこのコラムで書いた多くは、その声に耳をすませてのことで しに。


 同じ新聞の社会面に、精神未熟の都知事と同じく未熟な揶揄追従者らの度重なる愚考が 報ぜられていた。
君が代斉唱 生徒起立「徹底を」 都教委 都立高校長に通達

 卒業式や入学式での「君が代」の起立斉唱を巡り、東京都教育委員会は13日、「生徒へ の指導を教職員に徹底するよう」命ずる通達を都立高校長らに出した。11日にあった都立 高の卒業式で、生徒の大半が起立しなかったことを受けた処置。職務命令にあたる「通達」 が出たことで、国歌斉唱時に起立を望まない生徒に対し、学校側からより厳しい指導が行 われることになる。(中略) 今回の通達で、生徒の不起立についても、教員を懲戒処分す る可能性が高まったことになる。


 続いて小さな見出しで次の記事が続く。
不起立教員 停職lカ月

 1月にあった学校の創立30周年記念式典で、国歌斉唱時に起立しなかったとして、東京都 教育委員会は13日、都立調布養護学校の女性教員(56)を1カ月の停職処分にした。この教 員の不起立を巡る処分は4回目で、都教委は「処分を加重した」としている。


 行政権力によるこんな暴挙がまかり通っている。大日本帝国時代と同 じではないか。情けない国だ。いや情けない国民だ、と言おう。もちろ ん私もその一人だ。

 [anti-hkm]MLに<「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」並びに「都教委包囲首 都圏ネットワーク」の渡部(千葉高教組)>さんの次のようなメールが届いていた。

 本日(3月13日)、周年行事で4回目の不起立を貫いた河原井さんに対する都教委の処 分が発令されました。

 処分は3月13日より停職1ケ月です。これからの卒・入学式を含む年度末から年度初め にかけての期間です。
 根拠法は「地方公務員法」第29条第1項第1号、第2号及び第3号で、<職務命令違 反>と<信用失墜行為>です。

 しかし、基本的人権を踏みにじる<職務命令>そのものが明らかな憲法違反であり、 また、教育基本法が禁ずる「不当な支配」です。

 河原井さんこそ、処分の脅しにも屈せず、身をもって憲法を守り、教育基本法を守り、 子どもたちを守り、教育に対する<信用>を守っているのです。

 すでに福岡地裁では、減給さえやりすぎ、という判決が出ています。にもかかわらず、こ のような無法な処分を繰り返す都教委は、自分たちがやっていることを客観視することさえ できなくなっているのです。
 頭を冷して考えれば誰にも分かることです。正気の沙汰とは思えません。彼らはいずれ 厳しく裁かれなければなりません。

 河原井さんは今朝、自分の考えと立場について、職場の教職員に訴えた上で、処分発令 場所である水道橋の産業技術教育センターにきました。
 河原井さんを支援する都高教の被処分者たちや労働者・市民が約50人くらい集まりまり、 処分に抗議しました。

 河原井さんは「今回の静かな『不起立』は教員としての良心、教育労働者としての誇り です」、「処分ではなく対話を切望しています」と言っています。すでに勝負はついてい ます。

 にもかかわらず、本日(13日)、都教委は臨時の校長連絡会を開き、さらに「新たな 通達」を出したようです。教員の生徒への指導義務をさらに強化する内容のものと考えら れます。

 彼らの暴走は自己破滅に至るまで、とどまるところを知らないようです。


(このあとに卒業式での闘いの報告記事が続きますが、それは掲示板「メールの輪」の方に 転載しました。)



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614 イシハラに鉄槌くだる
予防訴訟・全面勝訴!!
2006年9月21日(木)


 今日は予防訴訟(国歌斉唱義務不存在確認等と損害賠償を求めた訴訟)の判 決日。行ってきました。しかし残念ながら、傍聴券47枚に286人が参集、私は くじに外れて直接判決を聞くことができませんでした。裁判所の前での思 いがけない勝訴の報告を聞いてひとしきりわいた後、弁護士会館の記者会見に参加しました。

 記者会見の会場で配られた「声明」を掲載します。(読みやすいように、段落は私が設けました。)


声明

 本日、東京地方裁判所民事第36部(難波裁判長)は、都立学校の教職員らが原 告となって、東京都と都教育委員会(都教委)を被告として、国歌斉唱義務不存 在確認等と損害賠償を求めた訴訟(いわゆる「予防訴訟」)について、原告らの 訴えを全面的に認め、10・23通達を違法とし、

@原告らに卒業式等における国歌斉唱の際に、起立・斉唱・ピアノ伴奏の義務が ないこと

を確認し、

A起立・斉唱・ピアノ伴奏をしないことを理由にいかなる処分もしてはならない

とし、

B10・23通達によって原告らが被った精神的損害に対する慰謝料の支払いを命ず る、

極めて画期的な判決を言い渡した。

 本件は、都教委が2003年10月23日付けで、卒業式、入学式等の学校行事に おいて、教職員に対し「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」ことを命じ、 それに違反した場合は、懲戒処分を科すとした全国的にみても異常ともいえる 「国旗・国歌」を事実上強制する通達(「10・23通達」)を出したことに起因す る。原告ら教職員は、教育現場での「国旗・国歌」の一律の強制は、教職員一 人一人の思想・良心の自由、教育の自由等を侵害することになるとともに、生徒 の思想、良心の自由をも侵害することになるとの思いから提訴に至ったのであ る。

 判決は、義務不存在確認請求、処分差止請求に訴えの利益が認められることを 前提に、10・23通達の内容が、過去の歴史的事実から、国民の間にさまざまな見 解が存する「日の丸・君が代」を教職員に対して一律に職務命令や懲戒処分等の 手段をもって強制するものであって、 憲法19条の保障する思想・良心の自由を侵 害するものであると明確に判示した。

 また、都教委による10・23通達とその後の校長らに対する指導名目の締め付け が、卒業式や入学式について、各学校の現場における創造的かつ弾力的な教育の 余地を残さないものであることなどを理由に、 教育基本法10条1項で禁止される 「不当な支配」にあたるとした。さらに、判決は、都教委の「不当な支配」の下 で裁量の余地なく出された校長の職務命令は、教職員の思想・良心の自由を侵害 する「重大かつ明白な瑕疵」があり、違法なものであることを認めた。

 今回の判決は、憲法で保障された思想・良心の自由の重要性を正面からうたい あげたもので、わが国の憲法訴訟上、画期的なものである。

 また、判決は、今まさに改悪の危機にさらされている現行教育基本法の趣旨を 正しくとらえ、行政権力による教育への不当・不要な介入を厳に戒めたものであ り、教育基本法改悪の流れにも強く歯止めをかけるものといえる。

 都教委は、判決に従い、違法な10・23通達を直ちに撤回し、教育現場での 「日の丸・君が代」の強制をやめるとともに、生徒や教職員の自主性、教育の 自由を侵害するような教育政策を直ちに改めなければならない。

 この判決を機会に、われわれの訴えに対し、国民の皆様のご支援をぜひとも いただきたく、広く呼びかける次第である。

2006(平成18)年9月21日
      国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟原告団・弁護団
      「日の丸・君が代」強制反対予防訴訟をすすめる会



 イシハラの教育支配と闘っている人たちの訴訟は、これまで全部敗訴でした。 私は、この国の裁判官は法の番人ではなく権力の番犬に成り下がったのか、と なじってきました。今日も重い思いを引きずって出かけましたが、行ってよかった。 なんと、憲法の精神をしっかりとわきまえた裁判官が健在でした。全面勝訴を 聞いたときは思わず涙が出てしまいました。この国にはまだ、まやかしの 「美しい国」などではなく、まともな美しい国に成長できる確かな根が残って いた。あきらめるのは早い、とつくづく感じました。

 イシハラは、命がけで憲法を破ると嘯いているのだから、憲法違反と判決されて さぞ本望でしょう。しかし、卑怯なヤツ、例によって裁判官を口汚く貶めたりのの しったりするに違いない。そして、憲法を破っておきながら、控訴して法にお墨付 きをおねだりする矛盾を犯すだろう。あるいは今回の判決を徹底的に無視して あいかわらず憲法違反を続け、初心を貫徹するだろうか。見ものです。

 闘いはこれからです。われながら歯がゆいほどの非力ですが、闘いの末尾の くっついていこうと、改めて思っています。「9・21判決」はこの国始まって 以来の画期的な判決です。「10・23」を「9・21」で塗り換えていこう!





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479 イシハラ・イデオロギー
2006年4月20日(木)



 昨日、マルクスの文章を引用した。そのとき『歴史というものは徹底的 であって…』というくだりで、現在の日本の危うい状況を重ねて読んでいた。
 大日本帝国は愚劣なイデオロギーに引きずられて奈落に落ちて一度死んだ。アジア (もちろん日本を含めて)の人民に悲惨で膨大な犠牲を強いて、悲劇的に。日本の 人民がその過去の亡霊に再び絡めとられようとしている。もしもその愚かな道を切り捨 てられなければ、この国はもう一度死ぬ。その時の死は、その二度目の死は喜劇的というほ かない。

 マルクスの深い思想と比べようもない醜悪なイデオロギーを、イシハラが相変わら ず得意になってしゃべりまくっている。自公の教育基本法改悪の合意内容を批判して言う。

「国に対する本当の愛着が生まれる教育をしていない。歴史の教育が間違っている。関心が なければ愛着が出るわけがない。自分のじいさんばあさんが命をかけて戦った大戦争があった ということを知らない(学生がいる)。平和の毒に耽溺していた私たちの責任で すよ。近現代史すら子どもたちに教えない」

 俺たちのじいさんばあさんは「命をかけて戦った」のではない。否応もなく駆り出されて 戦わされ殺されたのだ。「平和の毒に耽溺して」正しい近現代史を学んだことのない 脳天気な太陽族が、あわてて学んだ教科書が『その本質を別の本質の外観のもとに包み隠そ うとしたり、偽善や詭弁に救いを求めたり』している扶桑社版の教科書じゃ、大日本帝国に 恋い焦がれるようなイデオローグになるほかあるまい。正しい近現代史を学んだことのないから、 自分が目の仇にしている北朝鮮が大日本帝国のミニチュア版だということすら分からないオッチ ョコチョイだ、イシハラは。

「国会議員たちが今頃慌てて教育基本法変える、『愛国心という言葉よくないから祖国愛にし ろ』とか、そんな小手先で物事変わるわけじゃない。『必ず入学式で日の丸掲げて君が代歌 え』って、それはそれで必要だが、一つの手がかりで、本質はそんなことではない」

 イシハラが言う「本質」とは何だ。
 不当な教育支配のたくらみをおしすすめてきたイシハラの忠実なイヌども(都教委)が今度 は都立高校の学校長に「 職員会議(成績会議等も含む)において、「挙手」「採決」等の方法 を用いて職員の意向を確認するような運営は不適切であり行わないこと」というとんでもない 通達を出してきた。着々と大日本帝国時代の学校に近づいている。
 これまでの不当な教育支配のための施策をたどれば、イシハラが言う「本質」は自ずと明ら かだ。一度死んだイデオロギーを担ぎ出しただけじゃないか。国民は国家に従順に隷属してい ればよいということ以外にイシハラのイデオロギーにどんな本質があるというのか。

 上記のイシハラのおしゃべりは「公立学校長を対象にした都教育委員会の教育施策連絡会」での ことだという。校長連中はイシハラのおしゃべりもイヌどもの通達もありがたく押し頂いている だけなのか。イヌのまたイヌじゃ、もう教育者ではない。たんなる「権力の意向伝達ロボット」 だ。

 下品なイシハラに関わると、なんだか、こちらまで下品になってしまう。ここら辺でよして おこう。

 と、パソコンから離れて新聞に目を通していたら、イシハラと同類の愚劣な国会議員どもが自公 合意の教育基本法「改悪案」をさらに醜悪なものにしようと、自民党議員を対象に、 「修正要求」のための署名活動を始めたという記事が目にとまった。その「修正要求」は 次の通りだ。

@
 国を愛する「態度を養う」を「心を養う」に改める。

 「君が代」をイヤイヤ歌ったり、歌っている振りをするのはけしからん。「態度を養う」 だけではそういう不心者が絶えない。問題は「こころ」ですよ。心から改心してまごころ を込めて歌うような「心を養う」ことが肝要だ。――というわけだ。

A
 道徳心の育成につながる「宗教的情操の涵養」を「宗教教育」の項に明記する。

 道徳心など持ち合わせていない連中にかぎって他者には道徳心を要求したがる。しかも空疎な 徳目道徳を。
 だいたい、この連中はどのような「宗教教育」を想定しているんだ。すぐ思いつくのは「靖国神 社」をシンボルとする「エセ神道」 だ。あるいは安部晋三が心酔している「慧光塾」か、 はたまた「幸福の科学」か。支配階層には「幸福の科学」の信者の少なくないと聞く。 いずれにしても、全国民を「アヘン」中毒者にしたいらしい。
 「エセ神道」や「新興宗教」についてはいま連載中の『「良心の自由」とは何か』でいず れ取り上げる予定だ。

B
 「教育は、不当な支配に服することなく」を「教育行政は」に改め、「不当な支配」を 受ける対象が教員ではなく行政であることを明確にする。

 初期の自民党案に明記されていた。大方の失笑を買ってすごすごと引っ込めたのかと思って いたが、せっかく思いついたすばらしいアイデアだという思い切なのだろう、どうにもあきら めきれないらしい。
 これによると、イシハラとそのイヌたちがやっていることが「正当」で、教職員と生徒との 討議や合意を基本に行ってきた戦後の学校運営は「教育の不当な支配」というわけだ。イシハラとそ のイヌたちは教育基本法違反を指摘されると、「教育基本法はいずれ変わるんだ」とうそぶくらし い。

 ああ、議会制民主主義は、ほんとうにすばらしい!!





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614 イシハラに鉄槌くだる
予防訴訟・全面勝訴!!
2006年9月21日(木)


 今日は予防訴訟(国歌斉唱義務不存在確認等と損害賠償を求めた訴訟)の判 決日。行ってきました。しかし残念ながら、傍聴券47枚に286人が参集、私は くじに外れて直接判決を聞くことができませんでした。裁判所の前での思 いがけない勝訴の報告を聞いてひとしきりわいた後、弁護士会館の記者会見に参加しました。

 記者会見の会場で配られた「声明」を掲載します。(読みやすいように、段落は私が設けました。)


声明

 本日、東京地方裁判所民事第36部(難波裁判長)は、都立学校の教職員らが原 告となって、東京都と都教育委員会(都教委)を被告として、国歌斉唱義務不存 在確認等と損害賠償を求めた訴訟(いわゆる「予防訴訟」)について、原告らの 訴えを全面的に認め、10・23通達を違法とし、

@原告らに卒業式等における国歌斉唱の際に、起立・斉唱・ピアノ伴奏の義務が ないこと

を確認し、

A起立・斉唱・ピアノ伴奏をしないことを理由にいかなる処分もしてはならない

とし、

B10・23通達によって原告らが被った精神的損害に対する慰謝料の支払いを命ず る、

極めて画期的な判決を言い渡した。

 本件は、都教委が2003年10月23日付けで、卒業式、入学式等の学校行事に おいて、教職員に対し「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」ことを命じ、 それに違反した場合は、懲戒処分を科すとした全国的にみても異常ともいえる 「国旗・国歌」を事実上強制する通達(「10・23通達」)を出したことに起因す る。原告ら教職員は、教育現場での「国旗・国歌」の一律の強制は、教職員一 人一人の思想・良心の自由、教育の自由等を侵害することになるとともに、生徒 の思想、良心の自由をも侵害することになるとの思いから提訴に至ったのであ る。

 判決は、義務不存在確認請求、処分差止請求に訴えの利益が認められることを 前提に、10・23通達の内容が、過去の歴史的事実から、国民の間にさまざまな見 解が存する「日の丸・君が代」を教職員に対して一律に職務命令や懲戒処分等の 手段をもって強制するものであって、 憲法19条の保障する思想・良心の自由を侵 害するものであると明確に判示した。

 また、都教委による10・23通達とその後の校長らに対する指導名目の締め付け が、卒業式や入学式について、各学校の現場における創造的かつ弾力的な教育の 余地を残さないものであることなどを理由に、 教育基本法10条1項で禁止される 「不当な支配」にあたるとした。さらに、判決は、都教委の「不当な支配」の下 で裁量の余地なく出された校長の職務命令は、教職員の思想・良心の自由を侵害 する「重大かつ明白な瑕疵」があり、違法なものであることを認めた。

 今回の判決は、憲法で保障された思想・良心の自由の重要性を正面からうたい あげたもので、わが国の憲法訴訟上、画期的なものである。

 また、判決は、今まさに改悪の危機にさらされている現行教育基本法の趣旨を 正しくとらえ、行政権力による教育への不当・不要な介入を厳に戒めたものであ り、教育基本法改悪の流れにも強く歯止めをかけるものといえる。

 都教委は、判決に従い、違法な10・23通達を直ちに撤回し、教育現場での 「日の丸・君が代」の強制をやめるとともに、生徒や教職員の自主性、教育の 自由を侵害するような教育政策を直ちに改めなければならない。

 この判決を機会に、われわれの訴えに対し、国民の皆様のご支援をぜひとも いただきたく、広く呼びかける次第である。

2006(平成18)年9月21日
      国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟原告団・弁護団
      「日の丸・君が代」強制反対予防訴訟をすすめる会



 イシハラの教育支配と闘っている人たちの訴訟は、これまで全部敗訴でした。 私は、この国の裁判官は法の番人ではなく権力の番犬に成り下がったのか、と なじってきました。今日も重い思いを引きずって出かけましたが、行ってよかった。 なんと、憲法の精神をしっかりとわきまえた裁判官が健在でした。全面勝訴を 聞いたときは思わず涙が出てしまいました。この国にはまだ、まやかしの 「美しい国」などではなく、まともな美しい国に成長できる確かな根が残って いた。あきらめるのは早い、とつくづく感じました。

 イシハラは、命がけで憲法を破ると嘯いているのだから、憲法違反と判決されて さぞ本望でしょう。しかし、卑怯なヤツ、例によって裁判官を口汚く貶めたりのの しったりするに違いない。そして、憲法を破っておきながら、控訴して法にお墨付 きをおねだりする矛盾を犯すだろう。あるいは今回の判決を徹底的に無視して あいかわらず憲法違反を続け、初心を貫徹するだろうか。見ものです。

 闘いはこれからです。われながら歯がゆいほどの非力ですが、闘いの末尾に くっついていこうと、改めて思っています。「9・21判決」はこの国始まって 以来の画期的な判決です。「10・23」を「9・21」で塗り換えていこう!





617  9.21判決:イシハラの反応
2006年9月23日(土)


 難波名判決に対するイシハラの談話は次のようでした。 (私に知る範囲では「ライブドア・ニュース」が一番詳しかったのでそれを 用います。)


 この日の会見で石原知事は開口一番、「当然控訴します」と発言。

 ごく平均的な高校を生徒に分からない形で2回視察したという知事は、 「あの裁判官は、東京の都立高校の実態を見ているのかどうか。全部が 全部とは言わないが、乱れに乱れていて先生の言うことを全然聞かない。 授業を受けているのは前列の2列か3列だけ。あとはワイワイ弁当食った り、勝手なことをしていたよ」と自らの体験を披露した。

 その上で、「そういうものの規律を取り戻すために、ある種の一つ の統一行動は必要だ。その一つが式典に応じての国歌・国旗に対する 敬意だと思う」との考えを示し、「指導要領でこういうことをしなさ いといわれている限り、教師としての義務が生じる。教師というのは 子どもに範をたれるのだから、俺はこれは気に入らないでは済まない。 指導要領で要求されていることを行わなかったら、教師の義務を怠った ことになり、処分を受けるのは当然だ」と語った。

 「当然無視します。」と言ってほしかったなあ。控訴はせず判決を無視して、教育支配の目論みを完成すべく悪政を 押し通したならイシハラは首尾一貫した立派なファシストだと、少しは 見直そうかと思っていたのですが、何のことはない、控訴だってさ。「命がけで 憲法を破る」という勇ましさは影を潜めて、その「醜悪だ」と蛇蝎のごと く嫌っている「憲法」を頂点とする法体系に救済を求めてきました。しかし、 あいかわらず法的論拠は文部科学省の告示に過ぎない「学習指導要領」 だけで、憲法や教育基本法といった最高法規を全く無視していますね。

 教育行政の言いなりになるのではなく、「思想と良心の自由」に 基づいて不当は支配とは闘うことを教えるのが民主主義国家の 教師の務めだよ。教育行政に唯々諾々と従う方こそ「義務を怠った」こと になるのですよ。

 控訴する関係上、憲法や教育基本法や難波裁判長をこき下ろし口汚く ののしるのはまずいと悟ったか、今回はただ一つだけ、難波裁判長に 対して「あの裁判官は、東京の都立高校の実態を見ているのかどうか。」 と、トンチンカンな不満を述べているだけでした。

 何かトンチンカンかというと、まず第一に、今回の裁判の争点には「都立高校 の実態」は全く関係ない。教育の完全支配を目論むイシハラのファッショ的 な教育行政が問われているのですよ。これは、コイズミまがいの「問題の すり替え」という詭弁ですね。一番の狙いは 教師を従順な手先にすることでしょう。

 この裁判では裁判官が知るべき実態は、都教委のロボットとなった校長の 独裁が物言わぬ教師を作り、職員会議が単なる上意下達の場となり、 生徒・教師の創意工夫による生きた教育を壊し、学校を硬直した管理飼育の の場になってしまったことです。そしてその実態は、原告の教師たちの生々しい 証言により、つぶさに裁判官の知るところとなったのす。その結果の 判決です。憲法や教育基本法を無視して、イシハライデオロギー を押し頂いてきた教育庁のロボット連中が1パーセントも考えていなかったと、 難波判決に驚きあわてたのは当然のことでした。

 でもせっかくイシハラが「乱れに乱れていて」る高校の実態にどう対応すべくかという 問題提起をしていますから、少し付き合いましょう。

 この問題を解決 するために、「日の丸・君が代の強制」のような「考えるな!服従せよ!」 といった「統一行動」が必要だと考えているようですが、これがまたトン チンカンなのですね。
 まず何よりもそれは教育ではない。管理・飼育です。そして現在の教育の 混迷は、点数という学力の一側面だけで生徒を分断し、教育ではな く管理・飼育をしてきた自民党の文部政策の失敗の結果なのです。「乱れ に乱れて」いる教室は、小学校以来劣等性の烙印を押し続けられてきた生 徒の叛乱なのですよ。子供の夢や希望を根こそぎにしてきた結果なのですよ。


再チャレンジだって?成蹊小→中→高→大、君に言われてもなぁアニメGIFバナー

( このアニメバナーは雑談 日記より拝借しました。)

 もちろん、年間自殺者3万人が象徴する殺伐とした格差社会の状況も影響し ています。家庭の問題もあります。その家庭の問題の根源には、低賃金で しかも家族が団欒する時間を奪っている過酷な労働条件の問題もあります。全て失政の結果で す。国家権力が憲法や教育基本法をしっかり生かせなかったからであり、 憲法や教育基本法のせいでは断じてありません。

 さらにもっといろいろなものが複雑に絡んでいると思いますが、さしあ たって学校教育という点に限って考えましょう。当然、イシハラの皮相な 教育理念で何とかなる問題ではありません。イシハラなどの日本新ファシスト の教育理念は教育課程審議会会長だった三浦朱門があからさまに語ってい ます。


「できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限り なくなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を 引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神 だけを養っておいてもらえばいいのです。」

 進学重点校、中高一貫校、エンカレッジ校などという、分断をさらに拡大 固定化するようなイシハラの教育施策ではさらに困難校が増えることは日を見るより 明らかなのです。で、それを糊塗するために「日の丸・君が代の強制」とか 「奉仕活動」とか、なのですね。

 では、どうすればいいのでしょうか。私に処方箋が創れるわけはありません。 でも問題の掘り下げはしています。興味がある方は読んでみてください。

教育について

教師とは何か

ブログ版では「イシハラの教育支配の実態」と「教育とは何か」が該当します。



618 世界の国々での学校における国旗・国家の扱い
2006年9月25日(月)


 「日の丸・君が代の強制」擁護論批判 の中の「2004年9月6日」付記事の一節を再録します。

(1)
 日本は卒業式や入学式のシーズンになると、国旗掲揚や国歌斉唱の是非が 議論される不思議な国である。諸外国の学校で、国旗や国歌に抵抗して、起 立しないことがあるだろうか。植民地であれば統治国に反抗する意図は理解 できるが、独立国であるのに、なぜ、国旗と国歌を無視できるのであろう。


(この意見に対して、私は次のように書きました。)

 Kさん、あなたは、まず最初に事実誤認をなさっています。日本は「卒業式 や入学式のシーズンになると、国旗掲揚や国歌斉唱の是非が議論される」から 不思議な国なのではなく、「卒業式や入学式に国旗掲揚や国歌斉唱を強制す る」から、不思議な国なのです。不思議と言うよりばかばかしい国なのです。
 日本は民主主義国家あるいは自由主義国家を自称しているようですから、 あなたが比較する諸外国も民主主義国家あるいは自由主義国家に限りましょう。
 諸外国の学校では国旗掲揚や国歌斉唱などやらないのです。私にはいま 直接調べることができませんので、信用できる人の証言を信じることにします。



 この後、高橋哲哉さんの文章を引用して、「イギリスやドイツヤフランスの学校行事で国 旗国歌が強制されるということ」が全くないを指摘しました。さらに後の方記事で デンマークの小学校の 入学日の「儀式」の全くない素敵な行事を紹介してます。そのとき、もっと他の国々ではどうなっているのか、知りたいと思っていましたが、 そのまま調べる機会を逸していました。

  ところで昨日、はからずも阿修羅というサイトの 掲示板(政治部門)でその資料に出会いました。それを紹介します。

阿修羅アニメバナーGIFご尊顔

 出典は『内閣総理大臣官房審議室、および外務大臣官房儀典官室による1985年 資料「諸外国における国旗国歌について」』です。なんと政府がきちんと 調査していたのですね。


1)学校教育での国旗国歌の取扱い(主要40ケ国在外公館調査)

a.ヨーロッパの立憲君主国では学校での国旗掲揚や国歌斉唱をすること が殆ど無い。

イギリス:
 普通の歴史と音楽の授業で取扱い、学校行事では掲揚せず歌わない。

オランダ:
  特に教育する事はない。学校行事で掲揚や歌唱という事も特にない。

ベルギー:
  国旗掲揚の義務はなく慣例もまちまち。国歌は教育されていない。

スペイン:
  学校での規定はない。

デンマーク:
  特別の教育はしない。普通の授業で言及。国歌は行事で殆ど歌わない。

ノールウエー:
 特別な教育はしていない。両親が教えて子供はすでに歌っている。

スウエーデン:
 教科書に無い。国旗は教師に一任。国歌は学校で特別に教えない。

b.ヨーロッパの共和国ではむしろ革命をおぼえて( ママ)国旗国歌を強調する。 しかし、例外がいくつもある。次のとおりである。

ギリシャ:
 学校での規定はない。

イタリア:
 教科書には書かれず、それによる儀式は行われない。

スイス:
  学校内で実際に国歌を歌う事は殆ど無い。

ドイツ:
 各州の権限で決められる。

オーストリア:
 国旗は学校で特に扱われない。

ハンガリー:
 教科書では取り扱われていない。

旧ユーゴ:
 強制はない。教科書での取扱いも学校行事での使用もなかった。

c.アジア・アフリカ地区では、学校での 教育を求めている事が多い。

d.米州・オセアニア各国での例

カナダ:
  国旗も国歌も学校と特定の関係が見られ無い。

アメリカ:
 国旗が掲揚されるが儀式強制はない。国歌は学校と特定の関係が無い。

キューバ:
 国歌は学校での規定はない。

オーストラリア:
 国旗を政府が提供。掲揚も国歌も各学校に委ねられている。

ニュージーランド:
 学校のための統一された規準はない。

2)国歌を国民の慣習に任せ、政府が追認指示するの みで、正式の法律・勅令・大統領決定・最高議会決定で制定していないおもな 国

大韓民国・インドネシア・タイ・イスラエル・エチオピア・エジプト・ イギリス・オランダ・イタリア・スイス・デンマーク・ノールウエー・ スエーデン・フィンランド・オーストリア・ハンガリー・ブルガリア・ キューバ・ニュージーランド旧チェコ・旧ルーマニア
(40ケ国中21ケ国:1975年調査を1985年修正)



 日本の学校教育での「日の丸・君が代の強制」がたいへん異常であることが 浮かび上がってきます。「アジア・アフリカ地区では、学校での教育を求めて いる事が多い。」とありますが、おそらくはいまだ政情不安定な所謂「発展途 上国」でのことでしょう。日本では為政者たちの意識がいまだ「発展途上国」 並なのでしょう。

 ブッシュ父子が政権を担当して以来、アメリカの民主主義があやしげに なってきているが、過去の国旗や国歌に関するアメリカでの判例はさすがです。 これも資料「諸外国における国旗国歌について」からの引用です。


■アメリカでの判例

1943年 バーネット事件 連邦最高裁判決
 「国旗に対する敬礼および宣誓を強制する場合、その地方教育当局の行 為は、自らの限界を超えるものである。しかも、あらゆる公の統制から留 保されることが憲法修正第1条の目的であるところの、知性および精神の 領域を侵犯するものである」(ウエスト・バージニア州 vs エホバの証人)

1970年 バンクス事件 フロリダ地裁判決
 「国旗への宣誓式での起立拒否は、合衆国憲法で保障された権利」

1977年 マサチューセッツ州最高裁
 「公立学校の教師に毎朝、始業時に行われる国旗への宣誓の際、教師が子 どもを指導するよう義務づけられた州法は、合衆国憲法にもとづく教師の 権利を侵す。バーネット事件で認められた子どもの権利は、教師にも適用さ れる。教師は、信仰と表現の自由に基づき、宣誓に対して沈黙する権利を 有する。」

1977年 ニューヨーク連邦地裁
 「国歌吹奏の中で、星条旗が掲揚されるとき、立とうが座っていようが、 個人の自由である」

1989年 最高裁判決(国旗焼却事件)
 「我々は国旗への冒涜行為を罰することによって、国旗を聖化するものでは ない。これを罰することは、この大切な象徴が表すところの自由を損なうこと になる」

1989年 最高裁判決
 上院で可決された国旗規制法を却下。「国旗を床に敷いたり、踏みつけるこ とも、表現の自由として保護されるものであり、国旗の上を歩く自由も保証さ れる」

1990年 最高裁判決
 「連邦議会が、89年秋に成立させた、国旗を焼いたりする行為を処罰する 国旗法は言論の自由を定めた憲法修正1条に違反する。」



 今回の9.21難波判決を非難・指弾する論調が多いが、その論者たちが偏頗な ナショナリズムという「井の中」で騒いでいる「蛙」であることが如実に示さ れています。





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