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433 「アイデンティティ」について(1)
2006年2月6日(月)



 シリーズ「Kさんへの批判・反論」の最終回(第30回 2004年9月13日)で

 『ただ一つ宿題が残りました。「アイデンティティ」です。これは 一度きちんと考えてみなければならない問題だと思っています。 今は取り敢えず、それは国家権力への「アイデンティティ」であろうはずがない、 とだけ申し上げておきます。』

と自分自身に宿題を出した。
 この宿題を忘れていたわけではない。時々あれこれと考えてはいたが、私には独力で思考 を発展したりまとめたりする力がない。これまでと同様、他者の言葉を借りなが ら考えていくほかないと思っていたところ、格好のテキストに出会った。前回に 紹介した「正義論/自由論-寛容の時代へ-」だ。
 この本は、ジョン・ロールズ(1921〜2002年、ハーバード大学教授、倫理学・政治哲学者)の 「正義論」という著書を下敷きに自由と寛容を論じたものであり、二部に分かれている。

T リベラリズムの政治哲学
U 寛容の時代へ

 このうちの「T」を読んでいく。まず結論を提示する。

 コミュニティは、あくまでも個人相互の関係の集積としてあるのであって、なんらかの コミュニティのイデオロギーへの忠誠を前提にしない。
 相互の自由と平等への配慮によってのみ、コミュニティは成立する。
私たちが、ロール ズの正義論から学ぶことができるのは、このことである。
 また、その場面で、私たちは共同体論者とわかれるのだ。
 共同体論者の決定的な過ちは、いつでも共同体独自の価値を設定してしまうことである。 強固な中心のもとでの共同体を構想してしまうことである。

 私たちは、そうした立場をとらない。いえるならば、こういってしまうのがいい。「中 心なき統一性」と。あるいは、「中心なき共同性」ともいっていいだろう。
 これには、ただちに国家主義的な側からの反論が予想される。伝統主義の側からの反論 があるかもしれない。しかし、私はあくまでも強固な価値を中心にして構成された共同体 は、必ず人間を不幸にするといいきってしまおう。


 ここでいう「コミュニティ」はどんな種類どんな規模の集団としてもよい。しかし、今の私の 問題意識からは「日本国家」を想定して読むのが一番わかりやすい。「コミュニティの イデオロギー」とは、もちろん、「日の丸・君が代」に象徴される天皇制イデオロギーであり、 そのイデオロギーを中心においた国家を恋い焦がれて、そのイデオロギーへの忠誠を教育を通して 強要しようと愚昧な暴走をしている代表がイシハラということになる。イシハラは本人の 自慢に反して文学者とはほど遠い。単なる国家主義イデオローグである。そのよって立つ「共同 体論」は、本人は新しい独創と得意がっているようだが、大日本帝国時代に農本ファシズムに 対抗するすべなく萎んでいった社会ファシズムの亡霊である。

 次回から上記のような真っ当な結論に至る論理の道筋をたどってみる。






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434 「アイデンティティ」について(2)
「無知のヴェール」
2006年2月7日(火)



 シリーズ「自由について」の第1回(第138回2004年12月30日)で、「人権」思想はロックの 「自然法」に多くの影響を受けて形成されたことを知った。ロックの自然法とは次のようであった。

『人間は神の被造物として神から「自然法=理性」を与えられていて、それはあらゆる「人間の 立法」に優先するものとされる。その自然法に基づく権利は「自然権」と呼ばれてる。』

 さらにその「自然法」のもとでの人間のあるべき「自然状態」を次のように述べていた。

 『地上に共通の優越者をもたずに、相互の間で裁く権威をもち、ひとびとが理性に従ってともに 住んでいた状態が、正しく自然のままの状態である。』

 現代の人権思想へと繋がる理論のいわば公理とも言うべき「自然法=理性」を「神から与えら れて」たものとし、そこに正当性の根拠を置いている。信仰を持たない私はこのことになんともす わりの悪い違和感を抱いていた。

 ロールズもロックの「自然法」と同様な公理から理論を組み立てていくが、ロックの場合の ような神の介在はない。ロールズは次のような「自然状態」(ロールズは「原初状態」と呼んで いる)を仮定している。(「公理」「定理」という用語は私の好みによる。)

公理1
 誰も社会のうちで自分がどの位置にあるかを知らない。階級・社会的身分・資産・知能や体力 といった能力などが生来どのように与えられているのかまったく知らない。
 さらに誰も自分がいだいている善の概念や自分に固有な心理的傾向がなんであるかも知らない。

 つまり『自然の運の結果や社会的環境の偶然の結果によって、誰も有利になったり不利になったり することはない、ということである。』この公理を「無知のヴェール」という。

 「原初状態」における人間について、もう一つの条件が加えられている。

公理2
 誰もが社会の一般的事実や差別の存在についてはすべて知っていて、しかも、他人の利害 に無関心であり、自分の有利な条件を追求している。

 この二つの公理から全ての定理(社会のなかでの関係の原理)を導くとしたら、どのような 原理が得られるだろうか。

 ここまでを土屋さんは次のようにまとめている。

 つまり、自分の利害のみに関心がある者が合理的選択をする場合に、かりに、自分がい ったいどんな階級に属し、あるいは、男であるか女であるかも知らず、ロックフェラーの 一族であるのか、ニューヨークのホームレスであるのかも知らず、あるいは、どのような 権利や名誉を大事であると思うのかも知らず、また、自分が野心的な人間であるのか、そ れとも控えめでシャイな人間であるのかも知らない場合に、いったいどのような正義の原 理、つまり、社会のなかでの関係の原理を選択するであろうか、とロールズはいう。

 その人間がエゴイストであればあるほど、自分が差別されたり、自由を奪われたりする可能性 を排除するにちがいない。しかも、自分がいったいどんな人間であるかを、男か女かということ すら知らないのだから、当然に、男が差別されたり、女が自由を奪われたりすることを認めるこ とはありえない。すべての人間の自由と平等を、当然に選択するのである。

 




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435 「アイデンティティ」について(3)
正義の第1原理
2006年2月10日(金)



 前回の結論を改めてまとめる。

 「無知のヴェール」のもとで(「公理1」「公理2」からの帰結として)、

定理1:正義の第1原理
 『人は「すべての人間の自由と平等」を選択する』

 このことを土屋さんは次のような比喩を用いて説明している。(土屋さんは「イチゴ のショートケーキ」で説明していますが、「アップルパイ」に置き換えました。「イチ ゴのショートケーキ」に特に恨みがあるわけではありません。)

 大きなアップルパイがテーブルにあったとして、五人でそれを食べることになった。 全員がアップルパイが大の好物であったので、全員が、人より大きいところを食べたいと 思っている。五人で分けるのに、ナイフを入れるのだが、ナイフでアップルパイを切る 人間が、最後に食べることにしておいた場合、いったいこのパイを切る人間はどのように パイを切るだろうか。
 答えは、均等に切る。つまり、大きさをちがえて切ってしまえば、自分より前に必ず誰 かがその大きいところを食べてしまう。自分には一番小さな部分しか残らない。ナイフで パイを切る人間が、どんな場合よりも自分が最大限食べるためには、アップルパイを均等 に切るしか方法がない。均等に切った部分が、彼にとっては一番大きい部分である。

 勿論これは比喩であり、現実はこんなに単純ではない。しかし、人が原初状態のもとで 社会を構成した場合、構成員は全員が相互の合意としてこの「正義の原理」を選択する ほかないという機制をよく説明していると思う。

 この「無知のヴェール」を前提としたロールズの方法は、発表された当時から激しい非難 をあび、今でも非難が絶えないという。土屋さんの解説を読んでみよう。

 こんなことはありえない、というのがもっとも単純な批判である。どんなに複雑な批判 があったとしても、やはりこの単純な批判以上のことをいっているわけではない。つまり、 ありえない虚構の前提に立って、社会の基本的な原理を導き出すことはできない、と。

 だが、このことは、ロールズの「無知のヴェール」を批判したことにはならない。そも そも、ロールズは、この「原初状態」を仮説であると認めているからである。ロールズに とっては、正義の原理への自発的なかかわりが生まれる条件を設定することによって、政 治社会における平等な市民の自由を基礎づけることができればいいのであって、社会にお ける、所得、富、地位、名誉といった、市民の生活の根本にあるものの配分のあり方を示 すことができればいいのである。
 そうした抑制が、ロールズにはある。なにごとにも、「正義の原理」が優先することを 主張することにおいて、ロールズの正義論は、きわめてイデオロギー的であるが、それを 導きだす手続きは、仮説された条件からの合理的選択によるのであり、その選択を取るか ぎりにおいて、誰もが認めざるを得ない結論が、正義の原理である。


 「全ての人間の自由と平等」は神から与えられているというロックの「自然法」に代わって、 人間の論理的・必然的な選択としてそれは措定されている。私にはとってもよく納得できる。






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436 「アイデンティティ」について(4)
他者への眼差し
2006年2月12日(日)



 前回の論旨をもう少し詳しくたどってみる。まず公理2について。

 公理2は「一番大きなパイを得たい」という「エゴイズム」が人の「原初状 態」での偽らざるありようだといっていると思う。私は自分自身を振り返って、 この仮定を肯定せざるを得ない。
 しかしその「エゴイスト」には『一般の全ての社会的事実を知っている』と いう条件がついている。
 すなわち、社会にはさまざまな差別や不幸があることを知っている。それらは ときには他者の環境であるとしても、同時に自分をとりまく環境でもある。 他者と自分はいつでも入れ替わる可能性がある。エゴイズムの中に閉じこもって いるわけにはいかない。「他者への眼差し」が必然であり、原初状態での エゴイズムはそこに留まることなく、他者へと開かれていく。

 「無知のヴェール」のもとでは、自分がいったいなんであるかをまったく 知らないのだから、いつでも、他者は自分自身と入れ代わることが可能な存 在である。この他者の環境が存在しつづけ、しかもそれはけっして固定する ことなく、次々と新しい他者の環境があらわれるのであれば、自由の創出の システムは、けっして閉じることなく、他者の回路をとおして、他者の環境 へとひらかれていくことになる。その結果、私たちは、この世界を、「原初 状態」をとおして、他者とともに共有することになるのだ。

 この他者の環境の不確定さは、私たちが「原初状態」で行う選択を、さら に普遍的なものにするだろう。いかなる自由の抑圧も認めることはできない からである。そこに例外があるならば、その例外はいつでも自分にふりかか る可能性がある。

 こうして、私たちは、現実の他者の環境にコミットすることになる。自分 のエゴイズムは、反転して、他者への配慮に変わる。他者は、自分であるか らだ。しかも、けっして他者は、私と同じではない。不確定な変数として残 りつづけるのが、他者である。

 ここでは、私たちは、他者への同情や情緒から、他者との共生を考える必要 がない。私たちの自由が、神からの施しではなかったように、他者へのかかわ りが、社会による施しであるわけがない。それは私たちの選択と自発的なコ ミットメントによるものなのだ。

 他者の問題を、自分の問題として考えるといった、世間のルールは、ロール ズの正義論のなかで、正義の原理を選択する条件の自己創出としていわれたこ とになる。


 定理1:正義の第1原理(誰もがパイを平等に配分することを選ぶ。)は 同情や哀れみに由来するのではなく、必然の選択である。信仰上の義務的な 施しとは異なる。ましてや、社会的不平等の上にあぐらをかいて行 う貴族や資産家の同情や哀れみに由来する慈善という名の施しとはまったく 異なる。






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437 「アイデンティティ」について(5)
偶然性の排除
2006年2月13日(月)



 「第30回(2004年9月13日)」で私に「アイデンティティ」の宿題を与えて くれた文は次のようだった。

 『「日の丸」と「君が代」がテレビで放送されればされるほど、日本中は 感動で熱くなるのではないか。日本人がアイデンティティを認識するオリン ピックである。』

 「identity」の訳語には「自己同一性,自我同一性,主体性,自己確認, 帰属意識」などがあるが、上記の場合は「帰属意識」という意味で使われて いる。さらにそれだけにとどまらず、「自分の存在を保障する不可欠の与件」 というほどの強い意味合いを含んでいるように思う。そのとき前提として、 現在のブルジョア民主主義国家を固定的絶対的な存在とみなしている。さらに 日本人の場合は「万世一系の天皇」という虚偽意識(イデオ ロギー)がその根底にあるから、さらに度し難い。
 「アイデンティティ」という言葉を、このような絶対的な意味合いをこめて 使っているのに出会うと、『冗談言っちゃいけないよ、「国家」ごときにそん な大それた資格も条件もないぜ。』と言わざるを得ない。

   さて、公理1「無知のヴェール」は端的に次のように言い換えることができ るだろう。

 なん人も自らのアデンティティを知らないし、必要としない。

 この場合の「アイデンティティ」はかなり広い意味で使っている。
 「男性・女性」といような性別の意識も「性」を基準とするアイデンティ ティであり、「上流階級・中流階級・下流階級」といったような階級意識も 「資産」を基準とするアイデンティティに他ならない。
 公理1はこうした意味でのアイデンティティ全てにたいして全ての人が まったく無知であると仮定している。すなわち、共同体の構成員のそれぞれ が持つ自然的要因や偶然性を排除した上で、共同体のあるべき姿を 探ろうという立場を表明している。
 この点についてのロールズの論述を土屋さんは次のようにまとめている。

 それを、彼(ロールズ)は、大略して、こんな言い方で示している。
 「無知のヴェール」のもとで、合理的な選択をする場合に、六フィートの 身長の人や晴れた日に生まれた人の権利を特別に尊重すべきであるといった ことを、誰も提案することはないだろう。それと同じで、誰も、基本的権利 が皮膚の色、肌の色で異なるべきだとも いわないだろう。

 そういわないのは、「無知のヴェール」と「原初状態」の条件づけのプロ セスに立った時、自分がいったい何であるかというアイデンティティについ てまったく無知であるのだから、自分がどうなるかもわからないままに、あ る特別な徴をもった者に有利な特権をあたえるべきだとは、けっして誰も選 択しないからである。

(中略)

 ロールズが、正義論のなかで、人間のアイデンティティを問わないのは、 「共同体」をこえた「共同体」の構成を視野に入れることができるからであ る。もっといえば、「共同体なき者の共同体」(否定の共同体)といったも のも、ロールズの正義論の果てに見ることができる。


 「共同体なき者の共同体」とはどういうことか。私は「アイデンティティ を持たない共同体」ととらえるとよいと思う。またここでいう「共同体」と は国家に限らない。会社・学校・家族など、およそ人が協働共生すべく寄り 集うどのような集団を想定してもよいと思う。

 アイデンティティという閉ざされた観念から自由になった者たちが形成する 共同体。個々人は分離されたまま、かつ相互に関係を持つ。自己に閉じこもるこ となく、かつ全体に融合することもない。土屋さんはこれを「無縁」の共同体 にほかならないと指摘している。(私は網野善彦さんの「無縁・公界・楽」の 副題が「日本中世の自由と平和」であることを思い出した。)

 ここで土屋さんは共同体論者のロールズに対する論難を取り上げ、それに 次のように反論している。

 サンデルをはじめとする共同体論者は、ロールズの「原初状態」に立つ人 間は、アイテンティティを失い、物語を失った、「負荷なき自我」であると いう。人間は抽象的な個人ではなく、家族、都市、国家といった共同体の物 語を背景にして、自らの物語を生きる者であるという。

 私は、共同体論は、いつでも過ちを犯すと考える。共同体論と個人のアイ デンティティとが結びつくとき、全体主義の過誤から自由であることは絶対 にできない。「絶対」にという言葉に強調符をつけよう。

 人間が自分の物語をもつことは、誰でも認めることだろう。しかし、その 個人の物語を、共同体の物語に還元するならば、共同体は物語に参加しない 者を排除することから出発せざるをえない。物語を共有する者だけが、共同 体を構成することになる。

 ロールズの正義論の社会は、その社会自身の目的をもたない。ただ、「原初 状態」における、正義の原理から出発するからである。平等な自由への権利は、 共同体の中心であるけれども、その先で人々がいかなる目的のために生きるの かを指示しない。この社会が、多数の物語から成立していて、それを統一する、 全体の物語へと収赦することができないからこそ、平等な自由への権利を人々 は選択するのである。いかなる物語を選択するかは、人々の自由である。






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438 「アイデンティティ」について(6)

2006年2月15日(水)



 目にとまった新聞記事があったので、今日はチョッと間奏曲。

 土屋さんによると、ロールズの『正義論』は「ケネディ政権以来の歴代のアメリカ 民主党政権の政治綱領であったといても過言ではない。」そうだ。
 ところで、日本政治家にも自由と寛容を説く政治家がいることを本日の新聞(朝日・14日 付朝刊)で知った。

  根本清樹(編集 委員)さんの『政態拝見 靖国問題の迷路 「心の自由」 ですむのなら』は、「心の自由」を言い募って靖国参拝に固執するコイズミの 頑迷さを指摘し、それをムハマンドの風刺漫画事件につなげて、最後に次のように述べている。

 ムハンマドに帰依する人と、キリストに帰依する人の心に、優劣をつけることはできない。 宗教の尊厳も、表現の自由も、等しくかけがえがない。
 信仰上の、思想上の真実をそれぞれが貫き通そうとすれば、争いはいつまでも終わらない。 比べようのないものを比べようとする限り、人々は迷路の中をさまよい続けることになる。

 心や価値の問題は棚上げし、比較可能な利益の次元に、対立を絞り込む。政治的な共存は、 そういうやり方で、常に暫定的に実現されるほかない。
 内面の問題に深入りしないという政治の作法は、「人類の多年にわたる努力の成果」(憲法 97条)の一つだろう。日本の政治はなお、この流儀にうとい。憲法や教育基本法の改正論議 で、国民の「心」の中に国家が踏み込もうという主張が根強いことも、それを示している。

   03年の総選挙にあたり、当時の菅直人・民主党代表は、重要なメッセージを掲げていた。
 病気や貧困といった不幸の原因は、政治の力で相当程度取り除くことができる。これに対 し、幸福は精神的なものに支えられていることが多く、「権力が関与すべきでない」。
 従って、政治の目標は「最小不幸社会」の実現にとどまるべきであり、心にかかわる「『価 値』の実現」からは手をひく。

 あまり注目されなかった菅氏の政治哲学は、いま、むしろその意義を増していると思う。
 「小泉劇場」は、「心の問題の迷路」を舞台に残したまま幕を閉じるだろうからである。

 コイズミにもみ手をして「小泉劇場」をはやし立ててきた不定見なマスコミ、朝日新聞もその 例外ではない。そのことへの反省を表明することなく口をぬぐったままであることは今は問うま い。

 この記事の全体の論調あるいは菅氏の政治哲学は、政治権力はひとつの価値観によるアイデ ンティティの強要をすべきではないという、まさに自由と寛容を基調とする政治理念だ。

 この記事の隣のページに中日エジプト大使・ヒシャム・バドルさんの『私の視点 風刺画危 機 自由・寛容の社会をつくる契機に』という投稿記事があった。ずばり「自由・寛容」を表題 に掲げている。一部を抜粋する。

 イスラム世界で起きた騒動は、何もないところから生み出されたのではない。 イスラムが組織的な攻撃の目標になってきた、と信じているイスラム教徒も多く いる。パレスチナの占領が続いており、イラクへの侵攻や対シリア、イランへの 圧力の高まりがこの確信を強めている。それが正確で正当化できるかどうかはと もかく、イスラムに対する挑発は、何であれ事態をさらに悪化させるだけだ。

 風刺画転載の権利を主張して表現の自由を守ろうという人たちは、自分たちが 尊重し神聖だと思っていることの方がイスラム教徒が尊重し神聖とすることより も守るに足る価値があると言っているのと同じだ。

(中略)

 欧州のイスラム教徒が風刺画に反発して報復を叫ぶスローガンを支持したとす る言説は、すべての欧州人が風刺画掲載を支持したと主張するのと同様に不正確 だ。欧州諸国の穏健なイスラム指導者たちは、自制を呼びかけ、街頭での暴力を 非難し続けている。どの社会にも良識を持つ人がいるように、偏見を持つ人もい る。イスラム社会でも多数は穏健な人々だ。

 欧州であれどこであれ、イスラム教徒はそこに住み続ける。彼らが社会に早く 同化すればするほどいい。今できる正しいことは、穏健な人々に、彼らが期待す る民主主義はイスラムの神聖な象徴と感受性をも包み込むというメッセージを伝 えることだ。憎しみは憎しみを生み植え付けられた偏見や他者への本能的恐怖 を強めてしまう。

 風刺画危機は、不寛容と無知の世界に暴力が起こりうるという目覚まし時計で ある。イスラム世界と西側世界の亀裂の深まりは、誰の得にもならない。私たち は自由と寛容の民主主義社会を育てる必要がある。平和と繁栄のために近代的 で、多文化・多民族・多宗教の社会を築くこと。それが私たちの希望である。


 私の知る限り、今回のムハンマド風刺漫画事件についての諸論評の中では最も出色 のものだ。この事件は「表現の自由」だけで論ずるべきものではない。中近東の民衆が 強いられている過酷な政治軍事情勢イスラム的な価値観に対する欧米的価値からの 一方的な裁断、マスコミが作り出しているイスラムに対する偏見。これらをを踏まえ た公正な論評だと思う。結語にあるように、その根底にある思想はまさに「正義の原理」に 他ならない。






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439 「アイデンティティ」について(7)
正義の第2原理
2006年2月17日(金)



 公理1・公理2から導かれる定理がもう一つ挙げられている。

定理2:正義の第2原理
 『もしなんらかの不平等が存在するならば、その不平等によって有利を得たものは、 社会にうちでもっとも不利益をこうむっている人間のために、その有利を配分しなければなら ない』

 この章では「不平等」を、『生まれながらの資質において優れた者が、他人の 不利を考えることなく、自分の有利を享受することができるか。』という問題を設けて、もっぱ ら生得の「才能・資質の不平等」に焦点をあてて論じている。

 公理1・公理2をもう一度確認する。
 「原初状態」のもとで最も適切な原理を選択しようとしている人間を仮定している。 すなわち人間は自分のアイデンティティに対してまったく無知である。自分の性別、 人種、社会的地位、あるいは、自分自身の才能・資質・性格といったものについても無 知である。
 しかも、他人の利害にはまったく無関心で自分の利害のみを考えている。
 しかし、現実に社会のうちには性的差別や人種的差別や社会的地位や資産による差別など、 社会的な不平等が存在することは知っている。

 そうであれば人は、現実に社会のうちにある性的差別や人種的差別や社会的地位や資産に よる差別などを自分が受ける可能性のある原理を採用することはない。
 自分の才能・資質・性格についても無知であるのだから、その才能・資質・性格のゆえに 有利と不利が決定されるようなことは、回避するであろう。そこで正義の原理の第2原理が成 立する、という。

   この「正義の第2原理」はなんとなく納得しがたいもやもやが残る。定理1の「パイ の配分」のような明瞭さがなく、説得力に欠けると思うのは私だけだろうか。
 多分その理由は、「社会の不平等」と「才能・資質・性格の不平等」は明らかに別問題だ という点にある。その区別があいまいである点にその理由があるようだ。土屋さんの次のよ うな解説の中にもその問題点が表れていると思う。

 ここでの社会の不平等は、それぞれの才能、資質において、社会のなかで不可避的に生 まれる不平等である。ロールズはそれを否定しない。ただ、その不平等をそのまま放置す るならば、社会には限りなく差別が広がり、社会のモラルは下降する。

 それでも、生まれながらの資質をもつ人間は、この資質における才能を特権化して、自 己の利益のみを追求することを認めろというかもしれない。
 はたして、それだけを理由にして、まったく他人の不利益を考えずに、その生来の資質 による有利を享受していいのか。

 ロールズは、違うという。
 ロールズは、そもそも生まれながらの資質というものを否定してしまう。天才を否定す る。もし、そうした天才を主張するとしても、多くはその人間が生まれた環境、幼年期の 幸運に由来するのだという。


 ロールズが「天才を否定する」にいたる理論的な手続きが詳しく書かれていないので、その 当否については軽々に判断すべきでないが、どうやらそのあたりに定理2の不明瞭な原因のも う一つの理由があるように思う。
 すべてを「生まれながらの資質」とするのも極論なら、すべてを「その人間が生まれた 環境、幼年期の幸運に由来する」とするのも極論だ。しかしこれは稿を改めるべき問題であり、 この点の議論は今はおく。

 いずれにせよ、定理2を公理1・公理2からの帰結とするのは苦しい論理だと私は思う。 しかし次のようなことわりを定理2の論拠とするのなら、納得できる。

 生来の資質といっても、社会のなかでの、他人との社会的協働なしにはありえない。そ こでは、むしろ、その才能は、社会の「共通資本」である。その才能によって得た有利は、 才能がないゆえに不利な立場にいる者のために配分される必要がある。

 物的な社会の富とともに、人それぞれが持つ「才能」をも「社会が共有する富」ととらえようと 主張している。第2原理の成り立つ理由をこの点に求めるとすると、ロールズの「正義論」は ほとんど「相互扶助論」と同じではないかと思えてくる。しかし、「相互扶助論」については、 これも稿を改めるべき問題だろう。いまはロールズの「正義論」に集中しよう。