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91. 『「非国民」手帖』を読む(1)
『「非国民」手帖』は、国家に抗する社会を作るための教科書である。
2004年11月13日
表題(「非国民」手帖』は、・・・)は解説(宮崎哲弥)の最後の一行です。
まずこの教科書の成り立ちから説明しよう。
「反権威・反権力」を標榜する『噂の真相』が今年4月号で休刊になった。
『噂の真相』には93年4月号から時評欄「撃」が設けられた。それぞれ
「歪 (またはゆがみ)」、「鵠(」というペンネームで二人の匿名氏が
担当した。それを加筆修正の上まとめたものが『「非国民」手帖』である。
「撃」の時評はそれぞれ短文ながら、その時々の言説に激烈な舌鋒を浴びせて、その切り口は鋭い。
読んでいて胸のすく思いがする。逼塞した世界状況に抗い、ともすると深く傷つき鬱積
しがちな心を慰藉してくれる。しかし、そのような読み方だけで終わるわけには
いかない。いや、終わらせてくれない。
『どこまでも抗い続ける精神。決して権力にまつろわぬ言説。そうしたものが、あるときまで---
おそらく1980年代の初頭までは、いたるところに突出し、遊撃戦を展開していた。
ところがいまや満目蕭条、寂として声なき有様である。権力者たちは不祥に脅えることなく
高枕で熟睡している。良民たちはセキュリティ・ブランケットにしがみつき、惰眠を貪ってい
る。権力は睡魔に似ている。メディアは子守唄に似ている。
かつて安らかな眠りから見放された一群の人々がいた。悪い時代、うつつの闇によって熟睡
を奪われた。少なくとも彼らはそう信じていた。そうして誰に頼まれるでもなく、機嫌の悪い
不寝番を買って出、微睡む私達を揺さぶり起こしてまわった。「目を醒ませ。眠っちゃ駄目だ。
醒めた目で現実を見詰めよ」と。
いつのまにか、信頼できる不寝番は『サンデー毎日』の辺見庸「反時代のパンセ」と『噂の
真相』の匿名コラム「撃」の二つだけとなってしまった。自称不寝番は幾らかいるが、自分だ
けは醒めているつもりの夢遊病者ばかりだ。
然るに辺見庸はとうとう病に倒れてしまった。そして「撃」は『噂の眞相』休刊でひとまず
打留めとなる。ついにこの国は眠りに制覇されてしまうのか。皆挙って迷夢に退歩していくの
だろうか。辺見や「撃」の筆者たちからすれば「保守反動ブタ」に違いない私までも不眠症に
なりそうだ。(後略)』(宮崎哲弥・解説「眠れぬ夜の共和国のために」より)
『今となっては悲しいほどによくわかる。暴力的な圧政に抵抗しうるのは暴力的な言論だけだ。
9・11以降、加速する反動の波はとどまるところを知らず、憲法改正すら目前に迫っている。
堤防が決壊したのは1999年のことだった。
短期政権を予想されていた小渕内閣は自由党との連携を取りつけ、旧田中派に脈々と受け継
がれる公明党との太いパイプを用いて、「自自公」という巨大な《怪物》を作り出した。わた
したちはあの無能そうな笑顔の裏に潜むものを見逃したのだ。
かの政権は国家権力の強化につながる超重要法案を矢継ぎ早に成立させた。野党はもとより、
「反対」のスタンスをとる新聞メディアの《正論》や《客観報道》もあまりに無力だった。《敵》
は---例えば盗聴法が---憲法の精神に整合しない、欠陥だらけの法律であることなど承知の
上で国会審議に臨んでいたのだ。絡め取られるのは必然だった。
虚無と無関心がこの社会を覆い、慣れ、そして忘れた。
(中略)
だが、著者たちが撃とうとしている《本当の敵》は、狙上に載せられている言説
ではなく、それを称揚し垂れ流すメディアであり、ひいてはそれを許容し、無批判に受け入れ
ている《世論》、つまりわたしたち自身だ。
「撃」が数年前に撃ったはずの虚妄の言説が、姿を変え、今もなお蔓延(はびこ)っている。頼れるのは
あらゆる情報の政治性を自覚し、批判的に受容する、名も無き個人が紡ぐ《倫理》だけである。』
(編集部記「まえがき」より)
「撃」は、「虚妄の言説」は今もなお垂れ流されている、「目を醒ませ。眠っちゃ駄目だ。醒めた目で
現実を見詰めよ」と「私たち自身」を撃つ。
『「非国民」手帖』は、「虚妄の言説」に真っ向から相対するための「ものの見方・考え方」の宝庫だ。
「国家に抗する社会を作るための教科書」たる所以である。
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92. 『「非国民」手帖』を読む(2)
好んで《国家》を語るくせに
2004年11月14日
俎上の鯉:@江藤淳『日本よ、どこへ行くのか』
:A森嶋通夫『政治家の条件』(岩波新書)
料理人 :歪
料理記録日:92年4月号
@江藤について
『基調はあまりに単純。要するにこうだ。「日本はなにごとも自分で決めてアメリカに口出しされないようにしなければな
らない」
国家間の関係を人間関係の延長でとらえる程度の能力しかない。好んで国家を語るくせに
《国家》についてまともに考えたことなど一度としてないのだ。揚句に、日本が軟弱なのは海
部首相が軟弱だからだ、という短絡に陥る。』
と切り捨て、返す刀でリベラルと目されているA森嶋を料理する。
『江藤と同じ方法をとっている。やはり《国家》や《政治》の問題を全
て個人の性格に還元するのである。当然日本の国際的孤立は海部の性格がもたらしたことにな
る。ウエーバーを担ぎ出そうと、政治の本質は政治家個人の倫理に収斂されるものではない。
根底を欠いた《リベラル》など所詮《反動》の鏡像として立ち現われる他ないのだ。』
そして最後に止めの味付け。
『過剰なまでに国家が語られながら、だれも《国家》を理解していない。
《政治》が《政治家》という個人を媒介に顕現するのは確かだが、それは現象である。個人や
集団の意志が国家の意志として形成される過程と、国家の意志が個人や集団の意志を服従させ
ながら実現していく過程のふたつを統合的に分析すること。これが《国家》を、《政治》を語
るということなのだ。
しかし批判するのは知的怠慢によってだけではない。政治を政治家の占有に帰し、大衆を傍観者の圏内に封じる思想をこそ叩くのだ。』
「批判するのは知的怠慢によってだけではない。」は分かりにくい文だが、「江藤や森嶋に対して
その知的怠慢だけを批判しているのではない。」という意だろう。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
『個人や集団の意志が国家の意志として形成される過程と、国家の意志が個人や集団の意志を服従させ
ながら実現していく過程のふたつを統合的に分析すること。』
この部分(現実の政治過程の分析)の咀嚼とは、国家本質論を踏まえたうえでの統治形態論的な解明
ということになる。この問題についての最も良質な理論は、それをライフワークとする専門家が何年
もの研究を重ねたうえで構築するような質の事柄だ。
専門家にも品質の差がある。「虚妄の言説」と「本物の言説」とは、自分の目でとらえた現実の世
界のあり様や自らの体験と厳しく付き合せることによって見定めるほかない。
私が見定めた「本物の言説」、滝村隆一氏の国家論の助けを借りて咀嚼してみよう。
(次回に続く。)
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93. 滝村隆一の国家論
2004年11月15日
私は国家に関わる文を書いているとき、「支配階級、被支配階級、抑圧者、被抑圧者、支配層、
被支配層、国家権力などなど」の中からどの言葉を使うの
が適しているのか、迷うことが多々ある。それぞれの文脈に応じて一応は考えて選んでいるつも
りではいるが、その選択の基準はそれほど明確ではなくかなり直感的である。
わたくしにとって一つの課題であった。
しっかりとした選択の基準をもたないのは、「支配階級、被支配階級、抑圧者、被抑圧者、支配層、
被支配層、国家権力などなど」が、現実の政治過程でどのような相互関係にあり、どのように抗争したり共闘
したりして国家意志が形成されてい
くのか、という問題についての理解が曖昧なためであろう。今回のテーマにはその課題を果たす目的
もある。
滝村隆一著「国家論をめぐる論戦」(勁草書房)に「国家の本質と〈階級独裁〉」という一節が
ある。今回のテーマにぴったりの内容なのでそれを要約する。が、まずは以前に取り上げた
吉本隆明氏の「国家の本質」についての言説の復習から。
『国家の本質は共同的な幻想である。この共同的な幻想は、政治的国家と
社会的国家の二重性(二面性ではない)の錯合した構造としてあらわれる。』
『国家権力は、経済社会構成の上層に地位を占めるものがよりあつまっ
てつくられるものではないから、社会的国家に公的権力が存在するのではない
。社会的国家は、法によって政治的国家と二重化されるとき、はじめ
て権力をもち、普遍的な<階級>のもんだいがあらわれる。』
「国家権力=支配的階級(経済社会構成の上層に地位を占めるもの)の権力」
(これは俗流マルクス主義の国家観)ではないと言っている。
では国家権力とは何なのか。また「政治的国家と社会的国家の二重性の錯合した構造」
とはどのようなものか。それらの問題が少しでも解ければと思う。
(以下は「国家論をめぐる論戦」所収「国家の
本質と〈階級独裁〉」の要約)
まず論考を進める上での歴史的・現実的前提がある。「〈近代的〉市民社会」=「統ー的
な階級社会」の形成がそれである。
その形成を待って初めて国民的な統一社会が支配階級(プルジョアジー)と被支配階級(プロレタリ
アート)の二大階級を軸とした諸階級・諸階層へと分裂する。その結果必然的に、諸階級・諸階層の
〈特殊利害〉と統一社会的な〈国民的共通利害〉との構造的分裂が起こる。
支配階級と被支配階級は、その現実的な社会的・経済的利害や、観念的な(共同幻想上の)
政治的利害にもとづく独自の意志・要求を、それぞれ階級意志として押し出すことによって、
不断の対立と抗争を展開する。その対立・抗争は統一社会そのものを衰退や解体に追い込む
危機を孕んでいる。
そこで、社会全体の「一般的共通利害」の立場から、統一社会を防護するための強力で組織
的な実践的制御と干渉を行う権力が社会的に不可欠なものとして必要となる。これも
完成された統一的な階級社会を現実的前提とする限り、必然的な成り行きといえる。
従って、「一般的共通利害」の立場から、諸階級へと分裂した社会全体の秩序維持のため、
形式上は二大階級〈権力〉の上に立った〈第三権力〉が成立する。
これが国家権力である。すなわち国家権力は、
支配階級・被支配階級の如何を問わず、社会の全構成員に対して法的規範としての
〈国家意志〉への服従を強制する形態をとって成立する。
しかし、国家権力は形式上は第三権力という形態をとっているが、その実際の社会的
・階級的性格はどうなのか。実際には支配階級の階級意志=総資本的意志の支配下に置か
れているではないか。
まず、支配階級(プルジョアジー)の階級意志=総資本的意志はどのように形成されるのか、検討する。
ブルジョアジーは、日頃は産業の自由″の名の下に不断の相互的対立と抗争をくり返してい
る。だがこの自由競争は、競争の必然の結果として産業上の覇権と集中化をもたらす。
さらに、プロレタリアートの階級的結集・全国的組織化に対して対抗し闘争する必要からも、
国民的ないし統一社会的レヴェルでの資本の有機的な連合と中央集権的な統一的組織化が
必然となる。
従って総資本的意志は、このようなブルジョアジー全体の階級的結集と中央集権的組織化にも
とづいて形成されたものである。しかもそれは、資本制的生産様式全体に関わるもの
として市民社会全体に関わり、この意味で直接に〈政治的性格〉が付随している。
しかしプルジョアジーは、現実的にはあくまで個々の資本家として、
傘下の企業労働者を経済的に支配できるだけである。総資本的意志を、
プロレタリアートはじめ国民的諸階級・諸階層の全体に直接押しつけ、服従させることはできない。
それをなすためには、総資本的意志を特殊に、社会全体の秩序維持に任ずる法的規範としての国家
意志にまで、転成させねばならないのである。
その転成はどのようにして行われるのか。
一つは、国家は社会的国家として、各種公共土木事業や文教・福祉・医療等に関わる
社会的・経済的政策を〈国民的共通利害〉=「一般的共通利害」の履行として打ち出してくる。
しかし上述のように、第三権力という形態をとった国家権力による社会全体の法的秩序維持は、
全社会的規模における階級分裂と階級社会の形成の結果として
必然化されたものであるから、社会的・経済的政策の実質的な遂行は、たてまえとしては第三権
力による大きな政治的指揮・統制の下で行われるとしても、実際には個々の民間企業(プルジョア
ジー)に委託する他はない。つまり、〈国民的共通利害〉=「一般的共通利害」
である社会的・経済的政策が実質的にはプルジョアジーの階級的特殊利害によって支配され、主導
されることになる。
二つに支配階級は、支配階級を中心とした諸階級・諸階層の〈特殊利害〉を「国民的共通利害」=
「一般的共通利害」と仮構・僭称して強力に押し出し、被支配階級の相当な部分を取り込みな
がら、その総資本的意志を国家意志のなかに大きく反映させ、貫徹させていく。そして、〈政治的
(共同幻想的)〉と〈社会的・経済的〉の如何にかかららず、
支配階級を中心とした諸階級・階層の〈特殊利害〉が一般的諸法として、
あるいはそれを直接の法制的前提として展開される〈政策〉の形態をとった国家意志として現実化さ
れる。
これは、プルジョアジ一による階級支配が、政治的国家においても貫徹されるを意味している。
このように、プルジョアジ一による国家的支配(つまりプルジョア独裁)とは、その総資本的意志が
国家意志を実質上大きく支配することである。また、プルジョアジーはそのことによっ
てはじめて、経済的支配階級としての自己を、政治的な統治階級としても構成することができるので
ある。
これは、支配階級が、総資本的意志をプロレタリアートはじめ国民的諸階級・諸階層の全体
に直接押しつけ、服従させることが出来るようになったことを意味する。
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94. 『「非国民」手帖』を読む(3)
《天皇制》の隘路
2004年11月16日
俎上の鯉:宮内庁編『道〜天皇陛下御即位十年記念記録集』(NHK出版)
料理人 :歪
料理記録日:99年12月号
『《天皇制》は共同体に流通する価値を回収し、規範として再び共同体に提示する。いわばミラー
ボールのようなものだ。それ自身が光源であるわけではない。社会に存在する支配的な意識
を映し出し、反射させている。
本質を持たず、変容しながら、《空虚な中心》が支配の軸になりうるとはそういうことだ。
権力の生成の構造も知らず、支配者と被支配者を実体的に想定しても、敵の姿を捕捉するこ
とはできない。
戦後の《天皇制》は、とりわけ1959年の所謂《ご成婚》以降、マス・メディアと結びつ
いたかたちで、《家族》の範型を提示することにおいて、大衆の支持と関心を集めてきた。
宮内庁編『道〜天皇陛下御即位十年記念記録集』は、平成の天皇明仁即位以
降、この十年間の天皇・皇后の発言集。本書に横溢する《護憲》《平和》《繁栄》などの言葉は、
これらこそが戦後の体制的言語であったことを示している。その一方で、折りにつけ天皇一家
の様子が報告されていることから、それが国家や社会と同じく重要な課題であることがわかる。
しかし、社会や家族の急速な変容の中で、《天皇制》が立ち尽くさざるを得ない地点に来て
いることも確かだろう。皇太后を家族全体で介護している姿を積極的にメディアに打ち出せず、
むしろ《隠匿》している印象を与えること。紀宮が未婚のままでいること。そして、陰に陽に
展開される皇太子妃への後継者プレッシャーもそうだ。国民が憧れる家庭像を提供してきたは
ずの《天皇制》が、いつしか時代の流れから乖離しつつある。とはいえ、天皇一家がこの現在
の《家族》像に迎合してその形を変えることもできまい。
《天皇制》が時代の共感を獲得し、次の世紀への延命をはかるには、この隘路を通過しなけれ
ばならない。
超越性にぶらさがることだけが秩序形成の唯一の途と、《国旗・国歌》の強制に血道をあげ
ながら、ロックミュージシャンの人気にすがろうとする、足元のふらついた保守には《天皇制》
も市民社会も見えていない。』
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
本質を持たず、変容しながら、《空虚な中心》が支配の軸になりうるとはそういうことだ。
権力の生成の構造も知らず、支配者と被支配者を実体的に想定しても、敵の姿を捕捉するこ
とはできない。
『「非国民」手帖』からこれを選んだ理由はもう皆さん、お分かりでしょう。
15日夕刊と16日朝刊と続けて、朝日新聞は天皇家の娘の婚約を一面トップで報じた。
おいおい、一面トップで報じるほどのことかよ。いや、新聞が報じることじゃあるまい。
芸能人のゴシップと同様、そんなことはどうでもよいこと、知りたくもねえや。
辺野古の過酷な闘いや権力の弾圧に対するさまざまな闘いが日々闘われている。国会では共謀罪という
とんでもない弾圧法の審議が行われている。それらには一行の記事も書かないくせに、民衆の味方づら
をするな。なんて、いまさら言っても始まらないか。他の新聞よりはいくらかましという理由で
購読しているに過ぎない新聞だから、まあそんなもんだろう。
しばらく、天皇制問題を取り上げた時評を取り上げていく。
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95. 『「非国民」手帖』を読む(4)
危険な言説の在り処
2004年11月17日
俎上の鯉:皇太子妃の懐妊をめぐる報道批判
料理人 :歪
料理記録日:00年4月号
『いま《危険な言説》はどこにあるのか。わたしたちが批判の対象とすべき、抑圧と統制を
招来する言説。それは、保守派オピニオン雑誌の中に見出せるのか。いや。むしろ誰も異論
をはさまない、至極当たり前の意見こそが、《危険な言説》に転化し得る。
皇太子妃の《ご懐妊》をめぐる騒動は、流産という結末を迎えることで、一転、報道批判
へと集約していった。天皇崇拝者からフェミニストまで。無論その論拠は異なっているが、
妊娠を報じること自体の必要性に対する疑問、とりわけ妊娠による身体的変化までを報じた
ことへの怒りでは共通している。
そして皇太子もまた、「医学的な診断が下る前の不確かな段階で報道され、個人のプライバ
シーの領域であるはずのこと、事実でないことが大々的に報道されたことは誠に遺憾であり
ます」 (2/22記者会見)と主旨を同じくする報道批判を語っている。
もちろん、妊娠をめぐる女性の身体的変化が子細にマス・メディアで報じられるのはグロ
テスクな風景である。また、非婚者や子どもをもたないことを選択したひとたち、不妊に悩
むひとたちへの抑圧として機能したことも間違いない。
しかし、メディアにそう語らせてしまうことも含めて、これはまさに《天皇制》の問題と
して考察されるべきなのだ。報道姿勢を批判することにとどまってしまえば、問題の淵源に
はたどりつけない。
《家》的な思考の下に女性を生殖の手段とし、《性》を国家的な事業として、公的な意味合い
を持つものとして位置づけているのは、《天皇制》そのものである。
報道があろうとなかろうと、皇太子妃は常に妊娠をうかがう視線に晒されているのであり、
報道があるとすれば、同じく低次元でしか展開されざるを得ない。。朝日新聞のスクープは《不
敬》ではなく、《翼賛》報道であるのは自明ではないか。グロテスクな風景はいずれまた再現
される。
皇太子妃《ご懐妊》報道批判は、《天皇制》そのものの考察へと射程を広げなければならな
い。そうでなければ、あらたな皇室タブーをつけ加えたことでしかない。』
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
これはまさに《天皇制》の問題と
して考察されるべきなのだ。報道姿勢を批判することにとどまってしまえば、問題の淵源に
はたどりつけない。
《家》的な思考の下に女性を生殖の手段とし、《性》を国家的な事業として、公的な意味合い
を持つものとして位置づけているのは、《天皇制》そのものである。
石原の「ババア」発言は同根の問題である。《天皇制》はあらゆる低劣な差別思想の根源なのだ。
石原の発言『“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババア”なんだそうだ。
“女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です”って。』
昨日、朝日新聞が「辺野古の過酷な闘い」について一行も記事を書かないことを批判した。
今日の朝刊の社会面にベタ記事でたった十数行の「辺野古」の記事が載った。しかしその内容は
「海底調査のため本格的な掘削を始める」ためのの「海上やぐらの組み立て準備作業」が波が高かったた
めに見送られたというだけである。
現地では「海上やぐらの組み立て準備作業」阻止を海上ヘリ基地建設阻止の正念場として、
さらに決死の闘いが行われている。その闘いについてはまったく触れていない。防衛施設庁提供の
情報をただ垂れ流しているだけなのだ。
この記者は、どうして激しい反対闘争が起こっているのか、全く考えたこ
ともないのだろう。いや反対闘争が行われていることすら知らないのだろう。知っていれば、
あんな垂れ流し記事で済ませることは出来まい。いずれにしてもジャーナリストとしてとんでもない
無知蒙昧な破廉恥漢だ。
「沖縄タイムズ」のホームページより
17日(水)朝刊
・辺野古調査、高波で作業見送り
・辺野古沖、決死の抗議/迫る台船 あわや衝突

(写真説明)作業船にぎりぎりまで接近し、進行を阻止しようとする抗議船=16日午
後2時40分ごろ、名護市・辺野古沖
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96. 『「非国民」手帖』を読む(5)
タブーを回避するゴーマニズムの矛盾
2004年11月18日
俎上の鯉:小林よしのり『ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論』(幻冬舎)
料理人 :鵠
料理記録日:98年9月号
今更本誌で小林よしのりを批判するまでもなかろうという気もするが、描き下ろしの新刊
の内容は相当に凄まじい。アジアの独立運動を促す「正義」があったとして「大東亜戦争」
を讃え、「八紘一宇」は白人の人種差別と戦う民族平等の思想だと主張し、「南京大虐殺」
や「従軍慰安婦」の強制連行を否定し、祖国のために死ぬ覚悟のない者は政治に参加する
資格がないと断じる、といった調子である。
矛盾だらけの暴論とはいえ、藤岡信勝や西尾幹二でもさすがにそこまで言い切れていないの
だから、それはそれで立派だという見方もあるかもしれない。だが、小林が戦後民主主義の空
気に逆らって自分の意見を主張する勇気ある発言者だと自認するのであれば、これを例えば中
国やアメリカで翻訳して出版すればいい。外国人が読まないことを見越して日本国内だけでゴ
ーマンかましているというのでは、彼自身が戦後日本人の特徴として批判する「臆病」以外の
何者でもない。そればかりか、内容においても小林が「臆病」に避けている決定的な部分があ
るのだ。
例えば小林は、敗戦後の日本人が「国民は軍部にだまされていただけ」などと言うのは「決
定する主体たる自分はなかった」と言っているに等しく、責任の回避であり、信念や覚悟の欠
如であると批判する。また、東条英機には多くの犠牲者を出した戦争指導者としての責任があ
るとした上で、誇りを失わずに東京裁判で戦い抜いた東条は立派だとも言っている。あるいは
特攻作戦で若者を次々と死地に送った責任をとるために自決した指揮官の「倫理観」を称賛し
てもいる。
これらは一つの考え方であるから、その是非については様々な意見があるとしても、論理的
に考えて決定的な欠如がある。小林の考えからすれば、責任を回避し、誇りを持たず、倫理観
が欠如しているのは、「国民」の誰よりも「天皇」ということになるはずではないか。ところ
が小林は一切それに触れていないのだ。もっとも重要なその認識を回避して戦後日本人の批判
をしたところで、何の説得力もない遠吠えでしかない。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
責任を回避し、誇りを持たず、倫理観
が欠如しているのは、「国民」の誰よりも「天皇」ということになる。
もっとも重要なその認識を回避して戦後日本人の批判
をしたところで、何の説得力もない遠吠えでしかない。
『責任を回避し、誇りを持たず、倫理観が欠如している「天皇」』という文に出会え
ば、いやでも思い出すことがある。
1975年、昭和天皇在位50年の年。戦前戦後をのっぺらぼうにして、「昭和」を一色にする
ための詐術が盛り沢山に行われた。敗戦直後にGHQの命令で教科書に墨を塗って使ったとい
うが、今度は支配者どもが歴史に同じ墨を塗って改竄しようという趣向。
その一環として天皇・皇后の訪米が行われた。天皇は真っ先に、天皇の延命に力を尽くした
GHQ最高司令官マッカーサーの墓を詣でたという。
10月31日、訪米から帰った天皇が日米記者クラブで初の公式記者会見をした。
記者からの質問:「戦争責任についてどのようにお考えですか」
天皇の答:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので
よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」
この空とぼけた答えはどうだ。天皇の名において理不尽な死を強いられた2000万強の死者に対する
冒涜ではないか。天皇教信者らにとっては天皇教の本山・靖国に祭られた死者だけしか念頭にないよ
うだから、靖国の「英霊」だけに限ってもよい。天皇教信者よ、これでは「英霊」はうかばれまい。
まこと「責任を回避し、誇りを持たず、倫理観が欠如している」ものの見本ではないか。
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99. 『「非国民」手帖』を読む(6)
天皇退位論を隠蔽する戦後史の詐術
2004年11月21日
俎上の鯉:『20世紀かく語りき』(産経新聞取材班著、扶桑社発売)
料理人 :鵠
料理記録日:01年1月号
内閣不信任案が否決されたその日に森首相が新社屋のお祝いに駆けつけるほど、保守の政
治家たちから「評価」されているらしい産経新聞が、ここ数年、歴史を新たに 「発掘」 し、
「見直す」 ことに熱心なのは周知のとおりだ。『戦後史開封』『教科書が教えない歴史』『親と
子の日本史』『国民の歴史』等に続いて刊行された『20世紀かく語りき』(産経新聞取材班著、
扶桑社発売)も、新聞紙上に連載された「歴史物」の一つ。「鉄は国家なり」「欲しがりません、勝
つまでは」 「もはや戦後ではない」等々、人口に膾炙した流行語や「名言」 の背景を探ること
で、今世紀の事象を読み取ろうというものである。
岸信介の再評価を促し、国交回復以来の対中外交に批判的な見方を示すなど、「産経らしさ」
は随所に窺われるとはいえ、「トンデモ教科書」 や『国民の歴史』 に比べれば、本書はニュー
トラルな立場を慎重に維持しているように見える。しかし、それでもやはり稚拙な歪曲を露
呈してしまう部分こそ、天皇をめぐる記述にほかならない。例えば、昭和天皇が 「先の大戦
突入の際、最後の最後まで戦争を避ける道はないかと心を砕かれた」などというのは、すで
に多くの実証的研究によって、戦争の遂行に天皇が大きく関与していたことが明らかになっ
た今では、そうであってほしいという「願望」 の表明でしかない。そして実際、そう思い込
まなければ戦後保守派の論理は根本的に破綻してしまうのだ。つまり、昭和天皇が戦争責任
を回避したことの倫理性を問わずして、「国民の道徳」を説こうとするのは明らかに矛盾だか
らである。
そこでまた歴史から隠蔽されているのは、天皇の戦争責任が、少なくともサンフランシス
コ平和条約締結の頃までは、保守の側からも問題にされており、例えば中曾根康弘らによっ
て、天皇退位諭が公然と主張されていたという事実でもある。それを知らないはずのない西
部邁から、小林よしのりに至るまで、保守派の論客たちが批判する「戦後民主主義の欺瞞」
は、侵略戦争の指導者が 「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という「名言」 へと還元され
てしまう歴史記述の詐術にこそ表れている言うべきだろう。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
歴史から隠蔽されているのは、天皇の戦争責任が、少なくともサンフランシス
コ平和条約締結の頃までは、保守の側からも問題にされており、例えば中曾根康弘らによっ
て、天皇退位諭が公然と主張されていたという事実でもある。
敗戦直後は保守側の連中もヒロヒトの戦争責任をはっきりと認識していたということだ。
ところで、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍」んで何を残したのか。言わずと知れた「国体」だ。
敗戦処理が曖昧に行われたため、いやほとんど行われなかったため、生き残った
大日本帝国の亡者どもが、いま魑魅魍魎のごとく湧き出している。そして
「伝統的精神文化」を僭称して、またぞろ死臭紛々の支配理念や支配規範やらを担ぎ出している。
加速する日本崩壊の根源を辿るとき、その原点にくっきり見えてくるのが、……日の丸や君が
代に象徴される理念や規範など、伝統的な精神文化の崩壊ではないか(田代京子「日の丸のこ
と、君が代のこと」)
「日の丸や君が代に象徴される理念や規範」が「伝統的な精神文化」とは笑わせる。「伝統
的精神文化」を語るのなら、縄文時代までさかのぼれ。
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109. 『「非国民」手帖』を読む(7)
学級会レベルの民主主義
2004年12月1日
俎上の鯉:橋爪大三郎『民主主義は最高の政治制度である』(現代書館)
料理人 :歪
料理記録日:92年10月号
橋爪大三郎『民主主義は最高の政治制度である』(現代書館)
の正式タイトルは「陳腐で凡庸で苛酷で抑圧的な民主主義は人類が生み出した
最高の政治制度である」という。この物言いにはある転倒が加えられているが、
もう一度引っ繰り返してみるべきだろう。つまりこうだ。「民主主義を人類が
生み出した最高の政治制度であると論じる事は陳腐で凡庸で苛酷で抑圧的である」
狙い目のよさは買いだが、踏み出す方向がずれているのはいつものことか。啓蒙を気取るね
ちっこさも芸のつもりだろうが、論理が凡庸なら鈍重なだけだ。
「民主主義とは、《関係者の全員が、対等な資格で、意志決定に加わることを原則にする政治制
度》をいう」のだと橋爪は定義する。なにも救抜するまでもない。この程度の凡庸な民主主義
観は蔓延している。
参院選をめぐつて投票率の低さから政治の現状を導こうとしたジャーナリズムが依拠したも
のも、《凡庸な民主主義》でしかない。
しかし橋爪などという大学教師より財界首脳や労組幹部の方が政策決定への影響力が強いと
いうのが、近代国家における民主主義のうんざりするほど陳腐で凡庸な事実である。政治的権
利が平等でも社会的に不平等なら、《対等な資格》はフィクションにすぎない。理念の閉域で
いくら論理を煮詰めようと、現実の政治構造には届かない。
ここに描かれた学級会レベルの平板な民主主義からは、その退屈さも苛酷さも、ましてや優
越性も感じられない。民主主義擁護の戦略は、私意性の保障たる社会的不平等の存在を確認し
た上ではじめて構築が可能となる。(後略)
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
政治的権利が平等でも社会的に不平等なら、《対等な資格》はフィクションにすぎない。
このフィクションに気づかずに、あるいはこのフィクションに目をつぶっての民主主義論議を
「学級会レベルの平板な民主主義」と揶揄している。
ここで揶揄されているような論議は典型的な「誤謬」に属する。この種の「誤謬」が
知を売り物にしている者たちの言説のいたるところに転がっている。かってエンゲルスによって
論破されつくしたはずのデューリング氏が絶え間なく再生しているいうことだ。ならば、
偽物の言説を見抜くためにも「誤謬」について復習しておくのも、あながち無駄ではある
まい。
ディーツゲンの著作、『一労働者の見た人間頭脳のはたらきの本質』が、こういう問題をどう論
じているか、しらべてみよう。
「真理はある一定の条件のもとにおいてのみ真理であって、ある条件のもとでは、誤謬がかえっ
て真理となる。太陽は輝くということは、真実な知識である。ただし空が曇っておらぬことを前
提としてである。まっすぐな棒は、水の流れに突っ込めば曲がるということも、もし視覚上の真
理ということに限るなら、右に劣らぬほど真理である。……誤謬が真理とことなる点は、誤謬は
それがあらわしている一定の事実に対して、感覚的経験が保証する以上にヨリ広い、ヨリ一般的
な存在を度はずれに認めるところにある。誤謬の本質は、逸脱ということである。ガラスの玉は、
本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。」
エンゲルスの著作、『反デューリング論』が、こういう問題をどう論じているか、しらべてみよう。
「真理と誤謬とは、両極的な対立において運動するすべての思惟規定と同じく、まさに極めて限
定された領域に対してのみ、絶対的な妥当性をもつ。われわれが真理と誤謬との対立を、右に述
べた狭い領域外に適用するや否や、この対立は相対的となり、従ってまた、正確な科学的な表
現の仕方のためには役に立たなくなる。しかるにもしわれわれが、この対立を絶対的に妥当なも
のとしてかの領域以外に適用しようと試みるならば、われわれはいよいよ破局に陥る。すなわち
対立物の両極はその反対物に変り、真理が誤謬となって誤謬が真理となる。」
(三浦つとむ「弁証法・いかに学ぶべきか」季節社)
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110. 『「非国民」手帖』を読む(8)
《自由》と《民主主義》
2004年12月2日
「政治的権利が平等でも社会的に不平等なら、《対等な資格》はフィクションにすぎない。」
これが資本主義下での「民主主義」の実態なら、資本主義下での「自由」とは何なのか。
俎上の鯉:小沢一郎『日本改造計画』(講談社)
料理人 :歪
料理記録日:93年10月号
小沢一郎は《自由》と《民主主義》を愛している。彼の政治改革の構想は《自由》と《民
主主義》の十全たる発現を願う想いに支えられている。
手練手管と権謀術数に長けた腹黒政治家のイメージに押し込めて、《自由》と《民主主義》で
断罪すれば、なるほどたしかに安心は買える。しかし、問題の所在には永遠に辿りつけない。《自
由》と《民主主義》の理念とともに射抜かなければ、とどめはさせないのだ。
『日本改造計画』(講談社)。小沢は言う。多数決原理を貫徹し、少数派を封じ込め指導者に
絶大な権力を付託することによって、民主主義を確立する、と。あるいは、政治が個人や企
業を規制することをやめ、自由を保障する、と。
これは、現在の政治にまつわる多くの議論と同様、拠って立つ原理も、社会に対する歴史
的な分析もない。ただ願望と嗜好だけで語っているに過ぎない。
多数派が少数派の意見に妥協するのは、温情ではなく、権力の形成と執行をスムーズにす
る為にすぎない。また国家が経済過程に介入することによって日本資本主義の《発展》はあ
ったのではなかったか。
しかし、《自由》と《民主主義》を体制への抵抗の原理としてきた側こそ、そのことばの意
味をまともに考えてこなかったことに気づくべきなのだ。
《民主主義》とは社会的不平等の上に成立する政治的平等の制度であるから、社会的強者が
多数を占有することは必然であるし、《自由》とは社会的不平等の謂いである。
《民主主義》や《自由》の批判者としての保守には、《民主主義》や《自由》ということばの
持つ幻想性だけで戦えた。しかし、政治のリアルに覚醒した、戦後民主主義の鬼子たる小沢
には通用しない。社会党ごときが取り込まれてしまうのは不可避だ。
もっとも小沢にも勝ち目はない。政権交代を生んだにもかかわらず史上最低の投票率に、《民
主主義》はその限界を露呈しつつあるからだ。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
《自由》と《民主主義》を体制への抵抗の原理としてきた側こそ、そのことばの意
味をまともに考えてこなかったことに気づくべきなのだ。
《民主主義》とは社会的不平等の上に成立する政治的平等の制度であるから、社会的強者が
多数を占有することは必然であるし、《自由》とは社会的不平等の謂いである。
私たちは社会的不平等を担保にして《自由》を享受している、と言っていると思う。
これは一体どういうことか。
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111. 『「非国民」手帖』を読む(9)
《平和と民主主義》の現在
2004年12月3日
前回「私たちは社会的不平等を担保にして《自由》を享受している、と言っていると思う。
これは一体どういうことか。」という問題を提出した。それについて書くつもりだったが、しばらく
自分への課題としておく。
「民主主義」を表題に含む論説をもう一つ。
俎上の鯉:元法相永野の《問題発言》に対する毎日新聞の論調
料理人 :歪
料理記録日:94年8月号
大日本帝国陸軍大尉永野茂門は、欧米の植民地を《解放》するために《大東亜》戟争を戦っ
た。このことは、本人が発言を撤回しようと、揺るぎない事実に思える。
多くの青年が、永野茂門と同じく《大東亜共栄圏》の《理想》実現のために従軍した。これ
は現在からの戦争に対する本質的評価と異なり、当時の当人たちの主観という次元では、事実
のはずである。
戦後の体制イデオロギーとなった《平和と民主主義》への背信として、懺悔させたところで、
何の意味もない。
問題は、《大義》のもとに侵略戦争へと駆り立てられていく精神のあり方を明らかにしていく
ことである。それだけが現在的な課題であり続けるということだ。
永野が「侵略戦争へと駆り立てられ」た思想を、敗戦によっても変わることなく一貫して持続
してきたのなら、誤謬に満ちた蒙昧な精神ではあるが、それはそれで立派なものだ。ただし、真面目に
戦争推進に加担し、敗戦で民主主義に鞍替えし、いま再び強い国家をなどとやたらと勇ましく
なっている連中よりは、である。
では、現在は元法相の肩書を持つことになった永野の《問題発言》を暴露した毎日新聞は、
どのような観点からこの発言を問題としたのか。「細川護煕前首相は先の大戦を『侵略戦争』
と位置づけた」のに「前内閣と違った突出発言が繰り返されると、新政権の位置づけを見直さ
ねばなるまい」と「法相の処分」を迫る(5月7日社説)。ここでは発言は単に国内政治ゲー
ムの道具立てとしてしか扱われていない。
発言を撤回しても《信念》は捨てていないだろう。かつて永野と同じ幻想を共有したものた
ちも、誤謬の歴史を擁護して生きていくに違いない。
《平和と民主主義》という理念が強固に確立された現在、《戦争》という名辞が忌避されている
だけで、真剣に考えることは逆に抑圧されている。
そしてその一方では、北朝鮮核疑惑を契機として、《戦争》への扇動が着実に隆起している。《国
土防衛》や《世界秩序維持》や《邦人救出》のために、と。これらこそ十五年戦争へと導かれた
セリフではないか。
《戦争》は強権と弾圧のみでは生まれない。大衆の諦観と熱狂によって遂行される。
永野発言騒動は、《平和》の浸透と解体が同時進行する現在を示唆している。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
問題は、《大義》のもとに侵略戦争へと駆り立てられていく精神のあり方を明らかにしていく
ことである。それだけが現在的な課題であり続けるということだ。
《戦争》は強権と弾圧のみでは生まれない。大衆の諦観と熱狂によって遂行される。
政治家の妄言・暴言は糾弾されるべきだが、ここでも最も問われなければならないのは、
私たち自身だ。私は「自分の生活の中から平和″に相反する行動原理を駆逐する」という
課題のことを言っている。
次回からしばらく「戦争と平和」に関する論説を読んでいく。
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112. 『「非国民」手帖』を読む(10)
戦争について考えるな
2004年12月4日
俎上の鯉:高市早苗・朝日新聞(8/13)のインタビューでの発言
料理人 :歪
料理記録日:95年10月
バカの伝播力は恐ろしい。ひとりのバカが許されていると、おれはバカではないかと自問
する契機が奪われてしまうからだ。
不戦決議をめぐって「わたしは当事者とはいえない世代だから、反省なんかしていない」
と発言したのは高市早苗である。たちまち同調者も出はじめている。やはりバカはきちんと
叩いておかなければならないようだ。
朝日新聞(8/13)のインタビューで高市はその稚拙な論理を得々と述べている。
「日本の動機が侵略かどうかは、国家意思決定の当事者にしか明言できない」と。戦争の性
格規定を、《動機》などという個人の主観の問題にすりかえることで棚上げしようとしてやが
る。つまらん詐術だ。動機は解放でも、やってることは侵略ということだって充分ある。
しかも、いろいろな資料や意見があって「結論が出せない」し、時代によって価値観は変
遷するものだから、「今の価値観」で五十年前の戦争について判断は下せないらしい。このよ
うな相対主義が受容されるなら、人間には一切の価値判断が許されなくなってしまうだろう。
高市になんら積極的な問題提起を見ることは出来ない。むしろ総体としてただひとつのメ
ッセージを読むべきである。すなわちこう言いたいだけなのだ。《戦争》について考えるな、と。
このような幼稚な論理が誘発されるのも《不戦決議》自体が低次元のものでしかなかった
からだ。高市も不戦決議も、《戦争》を五十年前の過去に封印し、《責任》を謝罪と同義にして
しまっている点では同じである。
しかし《戦争》はどこまでも現在の課題だ。《戦争》とはこの日本の《平和》の根拠として
世界で展開されているものであり、《平和》の内側で隆起しつつあるものである。「正しい歴史
を伝える議員連盟」という戦争を正当化する会に所属しながら、戦争について考えるなとい
うメッセージを送るこの女には、確かに《戦争》責任がある。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
《戦争》はどこまでも現在の課題だ。《戦争》とはこの日本の《平和》の根拠として
世界で展開されているものであり、《平和》の内側で隆起しつつあるものである。
「幼稚な論理」で詐術的な言説を得意になって語る国会議員らの鉄面皮にはほんとに
うんざりする。特に保守・反動の言説に接するとある種の苛立ちを感じる。
その苛立ちの誘引はなんだろうか。その言説の耳目に入りやすいことにあるようだ。
皮相だから単純にして分かりやすい。自ら考えることを知らない、あるいは考えることを
放棄したものの耳目にはすんなりと入っていくようだ。すんなりと広がっていく。
反対に、ラジカルな思考を繰り広げる本質的な言説は耳目に入りにくい。私が信頼してよく
読む著書はおおむねかなり難しい。勿論そうならざるを得ない理由があるわけだが、
これではなかなか広がりようがないな、と思うことがままある。
私はその落差にいらだっているようだ。量より質だよと思っているが、いささか心もとない
気持ちも払拭しきれない。結局、いわゆる世論を形成するのは耳目に入りやすい言説だから。
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113. 『「非国民」手帖』を読む(11)
教え子を戦場に!
2004年12月5日
板橋高校事件のことを書くべきだろうと思いつつ、これは澤藤さんが必ず
取り上げて下さるだろうし、法律がらみの問題だから私の及ぶところではないと
他人頼みを決め込んでいた。
期待どおり、今朝の澤藤さんの日記は「板橋高校事件」だった。
「澤藤統一郎の事務局長日記」
さて、『「非国民」手帖』は
俎上の鯉:『諸君!』『新潮45』(7月号)の《反日》歴史教育批判
料理人 :歪
料理記録日:96年8月号
反動陣営の鉄砲玉として鳴らす元法相奥野が 「従軍慰安婦は商行為」 とまたぞろ《問題発
言》を繰り返しているかと思えば、呼応するように、『諸君!』『新潮45』(7月号)といった
保守系オジサン雑誌が揃って、侵略戦争を否定的に扱う現行歴史教育の《反日性》を問題に
している。
『諸君!』では高校教師が大学入試センター試験を分析。朝鮮侵略から皇民化政策まで「日
本悪玉史観」で貫かれていると訴えている。一方『新潮45』は、『諸君!』執筆者も参加する
自由主義史観研究会主宰者が、戦後民主主義を脱して《反日》歴史教育批判を開始するに至
る過程をまとめた手記である。
ここでは従軍慰安婦や侵略性の有無を論じようというのではない。問題は事実認定ではな
く、彼らの言説の無効性をその根底において洗い出すことなのだ。
彼らは《反日》歴史教育を受けた子供たちが次のような見解を持つようになったことを嘆
いている。「自分の国のことだけしか考えていない国」「日本はずるがしこいことばかり」「心
が狭い国だと思う」。しかし。それは、歴史上の姿であると同時にまさに現在の日本そのもの
ではないか。
確かに歴史はひとつの《物語》である。だが、対抗する《物語》を紡ぐことで、自在に共
同性を編成できると信じているとすれば、あまりに幼稚すぎる。生徒は具体的な生活を通じ
て現実認識を養っているのだ。過去の悲惨さを隠蔽したところで、現在の醜悪さからは逃避
できない。「戦争=悪」の現行教育は「洗脳」らしいが、教育という制度そのものを疑わない
なら、所詮裏返しの発想。逆洗脳したところで、現実から遊離した受験知識にすぎない。こ
の教師たちは教育現場で何を見ているのか。
彼らのひとりは、《反日》教育批判に目覚めたきっかけは湾岸戦争だという。看護婦のひと
りも出せない日本に一国平和主義の破綻を見たそうだ。それなら話は早い。論理の帰結は明
白だ。要するにこう言いたいんだろ。「教え子を戦場に!」と。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
生徒は具体的な生活を通じて現実認識を養っているのだ。過去の悲惨さを隠蔽したところで、
現在の醜悪さからは逃避できない。
願わくば、右からのものであろうと左からのものであろうと教師の言うことを鵜呑みにせず、
「具体的な生活を通じて」得た現実認識とつき合わせて十分に咀嚼し、自らの養分にして
欲しいものだ。
しかし、これは生徒よりむしろ大人たちへの伝言と言うべきだろう。
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114. 『「非国民」手帖』を読む(12)
気楽な奴等だ
2004年12月6日
俎上の鯉:自由主義史観研究会・緊急アピール
料理人 :歪
料理記録日:97年2月号
おう、もう一撃いっとけ。自由主義史観研究会だ。いまこいつらこそ最も叩かれるべき対象
だ。
彼らは《反日自虐》歴史教育を排そうとする。その目的が、日本の《国益》にかかわる地域
紛争が勃発したとき、すすんで参戦し得る人材を育成することにあるのは、既に半年前に本欄
で明らかにしておいた。
昨年の夏からは、教科書から従軍慰安婦問題を抹殺する活動を展開し、小林よしのりや中野
翠といったバカどもが、尻馬に乗って騒ぎ出している。
強制連行という《部分》を否定することで、従軍慰安婦という《全体》をも否定しょうとす
る論理的詐述は、幼稚すぎて、改めて批判するにも値しない。
これは何より《現在》の問題だ。歴史に対する感覚が鈍いということは、《現在》をとらえ損
なっているということなのだ。
「彼らの真の動機が、……日本の国家や軍隊を敵視し、誹謗することにあるのは明白である」
(緊急アピール)と、憤っているが、はい、その通りです。しかし、語るに落ちるとはこのこ
と。そっちこそ、国家の論理に個を従属させ、戦争を賛美することが「真の動機」だというこ
とは明白だぜ。まさに《民族》と《国家》が世界的な課題となっている時に、偏狭なナショナ
リズムを煽動できるなんて、気楽な奴等だ。
彼らが問題の焦点とする強制連行の有無。研究会緊急アピールは「慰安婦が自由意志によっ
て戦地の仕事を選んだ」とする。おいおい。《自由意志》だってよ。自立的な個人の主体的判断
で職業選択が行われるなんて、戦後憲法上の理念に過ぎない。この社会では強いられた条件と
環境の下でしか職業を選べないに決まってるじゃないか。完全に《戦後民主主義》ボケだな。
こりや。
彼らには未来を提示する力はない。怖れるには足りない。ただ《現在》の閉塞だけはおさえ
ておかなければならない。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
[1] 歴史に対する感覚が鈍いということは、《現在》をとらえ損
なっているということなのだ。
[2] 自立的な個人の主体的判断で職業選択が行われるなんて、戦後憲法上の理念に過ぎない。
この社会では強いられた条件と環境の下でしか職業を選べないに決まってる。
[1]について、《反日自虐》ということを考えてみる。
反日、反米、反北朝鮮、反韓国、反中国、反ロシア、反英、・・・と並べていき、
自分の思想・理念とつき合わせてみる。
それぞれの後に「・・・国家権力」をつけて読めば、どれも私の同意するところだ。
それぞれの後に「・・・国民(被支配者)」をつけて読めば、どれも私と相容れない立場だ。
「反日」とは、その「日」の指し示すものをはっきり示さなくては、まったく無意味な概念だ。従って、
「反日自虐」も空疎な概念となる。私にとって「反日=国民(被支配者)」なら自虐と言えるが、
「反日=国家権力」は自虐ではない。現在の国家のありようからの当然の帰結である。
《反日自虐》を声高にいいつのる連中は、「国家対国家」という対立を世界の課題と思い込んでいる。
私は「支配者対被支配者」という対立が本質的な課題だと考える。
現在の世界総体に対するビジョンをとらえ損なっていることから、さまざまな錯誤・誤謬・欺瞞
が起こる。保守反動の言説が錯誤・誤謬・欺瞞のオンパレードとならざるを得ないのは当然のこと
なのだ。
[2]は自らに課している課題(「私たちは社会的不平等を担保にして《自由》を享受している」とはど
ういうことか。)と同根の問題だ。いずれ。
この課題は「自由について」で取り上げています。
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115. 『「非国民」手帖』を読む(13)
《繁栄と平和》の裏側に《悲惨》が貼りついている
2004年12月7日(火)
俎上の鯉:『朝までテレビ』での『サンデープロジェクト』藤岡信勝らと上杉聰などとの直接対決
料理人 :歪
料理記録日:97年4月号
しつこいようだが、今回も《従軍慰安婦》である。ただし、今までと違う角度から問題を提
起する。
この間さまざまなメディアを《従軍慰安婦》がにぎわした。とりわけ、『朝までテレビ』『サ
ンデープロジェクト』における自由主義史観研究会の藤岡信勝らと日本の戦争責任資料センタ
ーの上杉聰などとの直接対決は、本当の問題の所在を示唆したという意味で興味深いものだっ
た。
歴史から《従軍慰安婦》の存在を抹殺しようとする者たちへの批判が有効打となり得ていな
いのはなぜか。これらの番組で見る限り、批判者が歴史修正主義者と思考を共有している部分
があるからだ。即ちこの問題を、《歴史》に封印してしまっている点である。
《悲惨》な過去の事例をいくら集積したところで、現在に対して持つ意味は見えない。「アジ
アで商売するためには侵略の事実を認識しておかねばならない。」という趣旨の上杉聰の発言は、
現在への一つの視点である。これは日本政府とほぼ同じ観点といってよいだろう。現在の《繁
栄と平和》を維持するために、過去の戦争の《悲惨》を総括すべきというわけだ。
しかし。必要なのは《繁栄と平和》の裏側に《悲惨》が貼りついていることを知ることだ。
昨年十一歳のビルマ人少女への買春で大学教員が告訴された。81年に国会証人として教科書
の「左翼的傾向」を攻撃し、『朝生』軍人特集で慰安所を肯定した名越二荒之助もやはり同じ
大学の教員だったことにはある感慨を抱かざるを得ない。
かって軍事力によって女性たちの性を隷属させたと同様に、現在は経済力によって隷属させ
ている。
あるいは、小林よしのりは、慰安婦の肯定から戦争の肯定へとすすんでいる。彼の用いる論
理からすればこの展開は必然というべきであろう。
《従軍慰安婦》は現在の、そして未来の問題なのである。このことが繰り込まれなければ、批
判の停滞から脱し得ない。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
かって軍事力によって女性たちの性を隷属させたと同様に、現在は経済力によって隷属させ
ている。
《従軍慰安婦》は現在の、そして未来の問題なのである。
7日の朝日新聞に「元慰安婦ら証言集会」という小さな記事があった。その記事から。
『旧日本軍による慰安婦制度や強制連行・強制労働などを否定する政治家の発言が相次ぐ中、
証言に立った被害者らは「歴史の事実と向き合う誠意と勇気を持ってほしい」と呼びかけた。
川崎市の集会では台湾の鄭陳桃(チェン・チェンタオ)さん(82)が証言。女学校の学生だった
18歳の時、通学時に日本人警察官に「学校に送っていく」と声をかけられた。そして十数人の女性
とともに船でアンダマン諸島(現インド領)に連行され、慰安婦をさせられた−と訴えた。』
この記事の隣にこれまた小さな記事が、南京大虐殺の「生き証人」李秀英さんの死去を報じていた。
これらの記事に接するとき、大日本帝国の暴虐に憤り、被害者たちに連帯の気持ちを持つことが
どうして「自虐」なの?
これを「自虐」と感じている連中は、女性たちを「経済力によって隷属させ」ている現在の
「侵略」にもなんらの痛痒も感じていないに違いない。
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116. 『「非国民」手帖』を読む(14)
《戦争》の虚構、《平和》の虚構
2004年12月8日
俎上の鯉:皇后・美智子の平和像(文藝春秋11月号)
料理人 :歪
料理記録日:98年12月号
小林よしのりが描いているものは決して《戦争》ではない。
奥崎謙三が告発し、中内カリスマ″功が体験した屍肉を食らうほどの惨酷の隠蔽から攻め
ることもできる。ハイテク兵器が飛び交う湾岸戦争以降の軍事状況に照らし合わせてもいい。
国際政治のリアリティの欠落を嗤いとばすこともできる。愛と勇気に支えられた景気のいい戦
闘シーンだけで構成された《戦争》など、どのような意味においても現実に展開される戦争と
は無縁なのである。
小林は《戦争》を賛美することで、戦後社会を支えてきた理念を否定しょうと試みた。だが、
それは単に《平和》を絶対的価値としてきた《戦後理念》を倒立させて虚構を描いたにすぎな
い。その意味では小林もまた、《戦後理念》の内側にしか存在していない。
倒立像の《戦争》が虚構であるように、《戦後理念》が語る《平和》もまた虚構であったの
だ。例えば、最近、大きな注目を集めた《平和》に関するあの文章。自分と周囲とをつなぐ橋
が想定され、その橋が失われたとき「人は孤立し、平和を失」う、と述べられている(文藝春
秋11月号)。この文章が、姓を持たない「美智子」という筆者によって書かれたことは重要で
ある。このような無邪気な共同性の礼賛こそが、この社会においては、規範的なまでに、すぐ
れて典型的な《平和》像なのである。しかし《国家》や《権力》に行き当たらない《平和》論
など結局は寓話に過ぎない。筆者が宗教対立という強固な共同性の衝突の前に国外での講演を
取りやめざるをえなかったことがそれを証明している。
《戦争》論者も《平和》論者も可視的な戦闘だけを問題としている。日本のこの《平和》と
《繁栄》が、世界各地の《戦争》や《貧困》に裏打ちされたものであり、安寧を満喫しながら
も戦争の当事者であり得るということにいささかも気づいていない。
この社会で語られている《戦争》の虚構は、《平和》の虚構と同じメダルの裏表である。否定
の対象であるとともに思想的基盤をなしている《戦後理念》への批判へと連動しなければ、《戦
争》論の根底に触れることはできない。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
《国家》や《権力》に行き当たらない《平和》論など結局は寓話に過ぎない。
この社会で語られている《戦争》の虚構は、《平和》の虚構と同じメダルの裏表である。否定
の対象であるとともに思想的基盤をなしている《戦後理念》への批判へと連動しなければ、《戦
争》論の根底に触れることはできない。
『これらの理念上のロマンチシストである<お節介屋>たちは、ありあまる自国の国家権力のもとで
の課題に眼をそむけながら、ただ戦争と平和という理念をとおして世界の構図をみようとしているの
だ。しかし、現実の情況は桟敷席から見極められるようなおあつらえむきのものではない。現在の世
界は戦争が不可能なように平和が不可能であるという拘禁状態にその本質をもっている。かれらが戦争
をみているところにじつは平和な人間の存在の仕方があり、かれらが平和をみているところに、じつは
日常生活のような仮面をかぶった戦争があるといった現実の深い根拠を透視することができなければ、
主観の如何にかかわらず、わたしたちは世界の情況に迫る本質的な課題から、ただ逃亡しているにすぎ
ないというべきである。』
(吉本隆明「自立の思想的拠点」所収「戦後思想の荒廃」より)
これは40年ほど前、ベトナム戦争に対するさまざまな動向や言説に対して書かれた《戦後理念》
への批判である。『これらの理念上のロマンチシストである<お節介屋>たち』とは、その当時の革新
的党派や進歩的知識人を指している。『《戦争》の虚構は、《平和》の虚構と同じメダルの裏表で
ある。』という認識が書かれていると思う。
40年も前の文章がいまだに色あせていないのは、『理念上のロマンチシスト』たちがあいも変わらず
偉そうに空疎な言説を垂れ流しているからだ。多くの知識人は、知識人を自認しているが、擬似知識人
あるいは亜知識人に過ぎない。さもしい売文業者だ。この国には、不可避の課題を担って格闘している真の知識
人が一体何人いるだろうか。
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117. 『「非国民」手帖』を読む(15)
戦争は楽しく、美しかった
2004年12月9日
俎上の鯉:『国家と戦争』(飛鳥新社)
料理人 :歪
料理記録日:99年8月号
堕落せよ、と安吾は言った。
堕落こそが救いだ。戦争が終われば、特攻隊の勇士も闇屋になり、戦争未亡人は新しい男を
つくり、将軍は切腹もせず法廷にひかれる。敗戦によって出現した状況は、天皇制も武士道も
虚妄でしかなかったことを明らかにした。人間は生き、堕落する。そのことによってしか救わ
れない。坂口安吾の『堕落論』だ。
ところが、こんな平明な文章さえまともに読めない奴がいるらしい。小林よしのり批判に抗
するために『国家と戦争』(飛鳥新社)に結集した「知識人」たちだ。
歴史を改竄することだけでは飽き足らず、文学作品も捏造しだしている。
小浜逸郎の引用が『続堕落論』からとも知らず、そんな文章は『堕落論』に存在しない、と
はしゃぐ西部邁の無知などかわいいものだ。
福田和也は言う。『堕落論』は、戦争は楽しく、美しかった、と述べている、と。
確かにそう書いてある。しかし。戦争が美しく見えるのは、考えることを放棄していたから
であり、その美しさは「泡沫のような虚しい幻影に過ぎない」と論理は展開されていくのだ。
ほんとに読んだことあるのか。
おまけに「昔のほうが高かったのだという認識があって、はじめて堕落になるはず」などと
幼稚な解説を提示している。
《堕落》とは、欺瞞的な道徳や規範からの逸脱を肯定する倫理的態度のことだ。いささか退屈
なほどにストレートな逆説的表現さえも理解できていないようだ。
蓮田善明の敗戦時の自殺などという、《堕落》の対極に畏れ入っていることからしても、そ
の誤読は明白である。
これでよく《文芸評論家》などと恥ずかし気もなく名乗ってるものだ。こいつは自殺しない
現代の作家を嘆いているが、はっきり書かれていることをまともに読めもしない奴が文芸評論
家を称していることの方がよほど嘆かわしくないか。福田らの語る《国家》も《伝統》も、
『堕落論』においてあらかじめその虚妄性を批判されている。《歴史》を直視しょうとしない
者たちは、時間のかなたから撃たれていることにも気づかない。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
戦争が美しく見えるのは、考えることを放棄していたから
であり、その美しさは「泡沫のような虚しい幻影に過ぎない」
《歴史》を直視しょうとしない者たちは、時間のかなたから撃たれていることにも気づかない。
前回の知識人に対する罵倒は、一日早かったようだ。今回は「保守派論客」と持ち上げられている
西部邁・福田和也らの欺瞞ぶりが暴かれている。まさに「擬似知識人あるいは亜知識人」の見本だ。
戦争は楽しく、美しかった、だって?今イラクで行われている虐殺のどこが楽しく美しいのだ。
『二十年まえの戦争の死者や被害者や不具者を典型的に想定しようとすれば、わたしならば、
ざん壕で眠っているとき土砂が崩れおちて死んだ兵士とか、行軍中に病気にかかって行きたおれて
死んだ兵士とか、食事中流れ弾丸にあたって戦死した兵士とか、輸送船が沈められて海に没した兵
士とか、総じて無意味にたおれた大多数の兵士の死によって戦争の死をかんがえるだろう。おあつ
らえむきの戦闘に遭遇して死んだある意味でめぐまれた少数の死者で、戦争そのものの実相をかん
がえようとしないだろう。
また国内の死者や負傷者をかんがえるばあいでも空襲で無意味に死んだり負傷して不具になったり
したひとびとを典型的にかんがえるだろう。
戦争はおあつらえむきのものでもなければ、異常なものでもない。だからこそ戦争はおもしろい体
験だったとか、軍隊は結構愉しいところだったとかいう大多数の戦争参加者の声も、またジャ−ナリ
ズムの上ではなく、現実社会のなかに潜在的に流れているのだ。
こういった大衆の戦争体験の肯定が存在するがゆえに逆説的に戦争そのものの実体が悲惨なのであり、
また、戦争はやむをえない当然の国家行為だったと居直る政治権力が、現在もまだ存立しうる根拠があ
るのだ。
これが正当な想像力をもった人間が、戦争と全社会現実の考察からみちびきうる正当な前提である。
そしてこの前提から、すべての課題は出発する。』
(吉本隆明「自立の思想的拠点」所収「戦後思想の荒廃」より)
これが「考えることを放棄し」ない者に見える戦争の実体だ。
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118. 『「非国民」手帖』を読む(16)
「自覚的ナショナリスト」のユートピア
2004年12月10日
俎上の鯉:小林よしのり『新ゴーマニズム宣言 第6巻』(小学館)
料理人 :鵠
料理記録日:99年5月号
昨年後半の論壇で『戦争論』が大きく扱われたこともあって、小林よしのりはすっかり文化
人、知識人として遇されるようになったらしい。『戦争論』への批判に対する反論を中心にし
た新刊の『新ゴーマニズム宣言 第6巻』(小学館)がやけに金のかかった豪華装丁なのも、
もはやこれは立派な「思想書」だという宣言なのだろう。日本の論壇もずいぶんナメられた
ものだ。
小林の論理の粗雑さは相変わらずで、いちいちその無知や矛盾を言挙げしている余裕はない
が、実のところ論理の骨格はいたって単純である。つまり、一方で例えば学校問題などを題材
に、今の若者が甘ったれているのは親の躾けがなってないからだとか、もっと公共心を育てな
ければならないといった、誰もが口にしたり、納得するような「常識」を主張しておいて、そ
れを「国家」のレベルへと短絡するのが、小林の「思想」のレトリックにほかならない。要す
るに子供の世界とのアナロジーでしか考えていないのだ。
小林は、無自覚なナショナリズムは危険だとして、自ら「自覚的ナショナリスト」と名乗っ
ているくせに、国家やナショナリズムの意味や歴史について、明らかに基本的なことすら自覚
も理解もしていない。外国のジャーナリストのインタヴューでナショナリズムという言葉を使
った小林は、それはパトリオティズムのことではないかと質されたそうだが、まさしくそれを
混同しているのである。
パトリオティズムに本来「国家」の概念は含まれていない。小林は、自分の言う「国」とは
「国家システム」ではなく、「伝統・文化」や「日本語」のことだと言うのだが、直接会っ
たこともない多くの他人をそうしたイデオロギーによって同じ「国民」として組織するものこそが、
近代の「国家システム」であり「国家主義」なのだ。当然それは、この列島に広がる「文化」
や「伝統」の多様性を否定し、そこに馴染まない者、あるいはまた日本語を解さない者を「非
国民」としてそこから排除しようとするだろう。その「システム」を抜きに「愛国」云々を唱
えるのは、反動であるばかりか、それこそ小林が嫌う平和ボケのユートビア思想にほかなるま
い。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
直接会ったこともない多くの他人をそうしたイデオロギー(「伝統・文化」や「日本語」と
いった)によって同じ「国民」として組織するものこそが、近代の「国家システム」であり
「国家主義」なのだ。
私は『イデオロギー』と言う言葉を『虚偽意識』と漢字のルビをつけて読むことにしている。
上の文中の『イデオロギー』もそう読むと文意が明解になる。
また、『小林の「思想」のレトリック』は正しくは『論理的誤謬』、あるいはそれを承知で
使っているなら『詭弁』と言うべきだろう。「対象のもつ限界を無視して、その限界を超えた
ところにまで認識の在り方を逸脱させる」『誤謬』あるいは『詭弁』である。
こんなシロモノが「思想書」とは、ほんとに「日本の論壇もずいぶんナメられたものだ。」
ところで「ナショナリズム」ってなんだ?
民族主義とか国民主義とか国家主義などの意味で使われているようだが、その概念の思想的内実を
問題にしている。
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119. 『「非国民」手帖』を読む(17)
国家のために死ねる精神を養うために
2004年12月11日
俎上の鯉:加地伸行「靖国神社をどう考えるか?」(小学館文庫)
料理人 :歪
料理記録日:01年10月号
《神》が人間を創造したと信じるのが宗教であるからには、それに対し、人間こそが《神》
を生み出したのだと転倒を加えることが宗教批判の基幹となる。
ならば、人間が《神》を悪意的に選別/認定する《靖国》の宗教意識はあらかじめ転倒し
ていると言わねばならない。果たして人間の基準で選定された《神》が、薄汚れた俗世の論
理を超越し得るのか。
靖国参拝推進者はいう。「靖国参拝は、日本人の伝統的な宗教意識にのっとった慰霊行為で
ある」と。反対を唱える陣営も、その論理を受容した上で、譲歩案ばかりを呟いている。
「A級戦犯が分祀されれば」「代替施設の検討を」……。こうした議論では《伝統》も《死者》
も、政治の《道具》にすぎず、《靖国》そのものへの考察は置き去りにされているかに映る。
しかし参拝推進者の主張する《伝統》や《宗教》を正面から検証してみるべきなのだ。そ
こにはじめて《靖国》の正体が浮上してくる。
そもそも人を神として祀ることは、けして神道古来のものではない。政治的敗北者の死霊
が崇らぬよう慰撫する《御霊信仰》は中世からあった。しかし権力者が死後、神となるのは
せいぜい近世に入って、豊国神社あたりからはじまったにすぎない。そして国家のために戦
死した者を《神》とするのはまったく近代の発明である。ましてや、例大祭やみたま祭とい
う神道儀式の実施日ではない八月十五日の参拝にどんな宗教的必然があるのか。
《靖国》も、それを支える宗教観もまったく近代の創作である。
八月十五日の靖国参拝とは、宗教とは無縁の、国家による政治的デモンストレーションそ
のものに他ならない。
参拝推進派の代表的論客である加地伸行はこう言っているではないか。
「参拝もしないというような指導者の下では自衛隊員も戦えまい。」 (『靖国神社をどう考える
か?』小学館文庫) そうそう。そうやってはっきり言ってくれよ。国家のために死ねる精神
を養うために《靖国》は要請されているのだ、と。
《靖国》は過去の戦争の死者のための施設ではない。未来の戦争による死者を待ち受けるた
めの施設なのだ。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
《神》が人間を創造したと信じるのが宗教であるからには、それに対し、人間こそが《神》
を生み出したのだと転倒を加えることが宗教批判の基幹となる。
この論説の主旨をはずれて、「最もおいしい部分」としてあえて言い古された冒頭部分を選んだ。
推進派であろうと反対派であろうと、「靖国」をめぐる議論は、私にはどうでもよ
いばかばかしい議論だ。
私にはまずもって、「靖国」を熱っぽく語る者たちはそもそも本当に霊なんてしろものを信じ
ているのかね、という疑念が起こる。ありもしないものをめぐって、いい大人が何を責め合ってい
るのか。私には「サンタクロースは本当にいるの?」というレベルの問題としか思えない。
コイズミもイシハラも、もしかすると舌を出しながら参拝しているのかもしれない。
宗教を信じるのも信じないのも自由だが、信仰を他者に強いたり、死者を神に祭り上げたり、
それを国家が護持したりするレベルになれば、やはり宗教はアヘンだし、迷妄だと言わざるを得ない。
「靖国」とは唯それだけの問題だ。
死者は、肉親や縁者や友人や恋人の心に刻まれた愛惜や無念や怨念のなかに生きるばかりだ。自らの
内部に死者を生かし続けることだけが、生き残ったものがなしえるすべてだ。むしろ「国家」
などに「私の死者」を収奪されてたまるか、と考えるべきではないのか。
国家によるジェノサイドを拒否する精神をこそ養なわなければならない。そして戦争時の殺戮
だけがジェノサイドではなく、日常的な緩慢なジェノサイドを見据えなければならない。
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120. 『「非国民」手帖』を読む(18)
修正主義者は薄闇をねらって跋扈する
2004年12月12日
俎上の鯉:秦郁彦(『諸君!』『正論』の掲載論文、『朝まで生テレビ』(11/29放映)での発言)
料理人 :歪
料理記録日:03年2月号
国家は《歴史》を必要とする。《歴史》の下に国民を統合する。しかし。個の体験によって
刻印された《記憶》までも回収することはできない。そこで、《記憶》が希薄になる頃合をう
かがって、《歴史》の修正にいそしむ輩が出現する。
軒並み北朝鮮特集が組まれた『諸君!』『正論』など保守系雑誌の掲載論文に加えて、『朝ま
で生テレビ』の秦郁彦(11/29放映)。共同歩調をとるがごとく、口をそろえてこう語ってい
る。「朝鮮人の強制連行はなかった」と。
またぞろ同じ手口だ。
修正主義者たちが言うように、《強制連行》という言葉は戦後になってはじめて用いられたも
のかもしれない。だからどうした。この言葉は、戦争からたいして時間的隔たりがない、《記憶》
が鮮明な時代には異論なく受容され、広く浸透していた。それがはるかな時間が過ぎた現在に
なって抹消されようとしている。
修正主義者は薄闇をねらって跋扈する。
「朝鮮人強制連行」はなかったという主張は数年前から浮上してきていた。まさにいまもう一
度彼らが力を入れているのは、現在の北朝鮮への戦略を進めるために、国家的威容を整えよう
としているからだ。
修正主義者たちは、時代により、状況により、自由に《歴史》を書き換えることができると
考えている。歴史や伝統の尊重を声高に叫ぶ者こそが、《歴史》は恣意的に操れると錯誤する
者であるのは滑稽だ。
《拉致》と《強制連行》を比較衡量してどちらかの罪の重さを言い立てるなど、馬鹿げた発想だ。
いずれにしろ問題は《国家》をめぐるものとしてせりあがってこなければならない。
《拉致》も《強制連行》も、国民を統合するための《物語》としての《歴史》の所産である。
《正しい》《あるべき》歴史を求める姿は《自分探し》の若者に似ている。現実とまみえること
なく永遠に浮遊し続けるしかない。《歴史》という《物語》を脱却する方途こそが模索されな
ければならないのに。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
《拉致》と《強制連行》を比較衡量してどちらかの罪の重さを言い立てるなど、馬鹿げた発想だ。
いずれにしろ問題は《国家》をめぐるものとしてせりあがってこなければならない。
《拉致》も《強制連行》も《従軍慰安婦》も国家による犯罪であるという一点をはずした
議論は空疎なものにならざるを得ないし、解決の糸口さへ得られまい。ここでも決定的に「国家論」
が欠けている。
「朝鮮人強制連行」はなかったなどという主張は、被支配者の側にスタンスを置く立場からは
決して出てこないだろう。
日本政府も北朝鮮政府も、《拉致》と《強制連行》を秤にかけて取引材料とすべきではない。
それらをともに国家による犯罪行為と認め、別個に誠意を持って解決するべき問題である。無論、
日本政府は北朝鮮民衆への経済援助を取引の材料にすべきではない。
両国の民衆=被支配者(北朝鮮の民衆には自由な発言を封じられているかもしれないが)が
なすべきは、国家の論理に振り回されて敵対感情を募らせることではなく、双方の政府に
それぞれの被害者への出来る限りの保障と真相の究明を迫ることであろう。
敵対すべきは日本対北朝鮮ではなく、支配者対被支配者なのだ。
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121. 『「非国民」手帖』を読む(19)
懐疑の精神こそ保守の敵である
2004年12月13日
俎上の鯉:『日本の論点』(文藝春秋)
料理人 :歪
料理記録日:92年12月号
ご大層な本である。総べージ数一二〇〇。江藤淳から大仁田厚にいたる多彩の執筆陣を擁し
て、改憲改定やらプロレスやら二一〇項目にわたるテーマを論じる。題して『日本の論点』。
何しろ文藝春秋七〇周年記念企画だ。力の入れようが違う。
詳細な執筆者リストに登場人物索引まで巻末に備えて、現代日本における社会と文化状況を
網羅した知的カタログを作成しょうとする狙いはわかる。しかし気負いばかりが肥大して、分
厚さと事大主義が《文藝春秋》しているだけだ。過剰を削ることが課題の現在に、情報を量で
勝負しょうとする編集姿勢が既に時代に遅れてるぜ。
膨大な論点の羅列は、逆に論点の不在をしか感じさせない。
どうやらこのような書物の登場を要請したのは、泰平な日常のなかで論点を持たないことに
不安を覚えるオヤジたちらしい。国を憂えるポーズをとるのが知的と思い込むのも、かわいい
勘違い。わざわざ学習しなければ見出せない論点にたいした切実さもあろうはずがない。
何とものどかな日本の風景を醸し出している。
いや。やはり論点はある。むしろただひとつの論点を隠蔽することで膨大な論点の濫造が可
能にされたのだ。
ただひとつの論点とは要するに、自分を問うということだ。「体制の選択」も「差別」も
「有害コミック」も「新宗教」も、のどかさを演出する小道具としてしか機能しないのは、読
む者の存在が決して問われることがないからだ。論点を外在的な情報として集積することでは
なく、論点を喪失した空虚な泰平に埋没する自己を問うことが、社会に自己を開く細い途なの
だ。
懐疑の精神こそ保守の敵である。表層的な事象の断片を陳列するだけで、本質への問いを回
避することで成立したこの書物こそ、なるほど文春七〇年に相応しい。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
論点を喪失した空虚な泰平に埋没する自己を問うことが、社会に自己を開く細い途なの
だ。
懐疑の精神こそ保守の敵である。
日常の生活とは国家意思の反映であり、規範意識の馴致過程の謂いである。「空虚な泰平に埋没する」
とはその日常になんらのささくれだちも感じなくなることである。それは支配権力への服従へ
通じるネットワークに絡めとられたことを意味する。そして、日常生活において感じるささくれだちを
掘り下げていく営為を「懐疑の精神」と言っていると思う。
先日久しぶりに本屋を覗いたら、「日本の論点」が平積みされていた。性懲りもなく新た
に編集されたらしい。またこの論説で俎上にあがっている12年前の「日本の論点」は文庫本になった
ようだ。
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122. 『「非国民」手帖』を読む(20)
現実への屈従のみを称揚する論法
2004年12月14日
「懐疑の精神こそ保守の敵」ならば、保守はどんな精神を「味方」と頼んでいるのか。「与党精神」
だとさ。
俎上の鯉:『小林よしのり論序説/ゴーマニズムとは何か』(出帆新社)
料理人 :歪
料理記録日:95年4月号
小林よしのりの名に便乗した評論集が出た。『小林よしのり論序説/ゴーマニズムとは何か』
(出帆新社)だ。
早とちりするなよ。ここで叩くのは小林ではなく、その威を借りた取り巻き連中だ。
序文で編者の呉智英が言っている。《言論の無効な時代》と。なるほど。確かに本書を読む
と納得させられる。何しろ執筆者自身がその身をもって証明しているのだから。
ここでは巻頭を飾る浅羽通明のインタビューを通じて、本書の《言論》がどの程度のもの
か、検証してみょう。『ゴーマニズム宣言』にも紹介された、代表的論考だ。
浅羽は《与党精神》なる概念を軸に論を展開している。「与党精神というのはね、言い換え
ればね、人の言動をね、その動機からではなくて、結果から判断するということ」だと。何
だい。『朝まで生テレビ』での西部や舛添の口真似じゃないか。内容以前に、批判や反対とい
う行為一般を封殺する。現実への屈従のみが称揚される、所謂保守派論客に重宝されている
論法だ。
言論に《有効性》なんてものがあるとすれば、言論によって言論をこえることだけだ。つ
まり、《よい結果》という評価を構成する《よい》や《結果》ということばを疑うことだ。
思想的・政治的対立が与党VS何でも反対戦後民主主義野党なんていう構図で表現できると
思い込んでやがる。与野党を成立させている枠組み自体が問題にされるべきなのに。
「与党を叩く以上は、おめえら政権担当能力あるんだろうな」て、何を意気がってるんだ。
浅羽自身は三流評論家であって、与党ではないだろうが。まさか社会党員か。
与党でもないのに与党気分。そりや、言論に《有効性》もなくなるわな。現状を追認し、
強者・権力者を賛美することに奉仕するだけなんだから。
三流評論家にとっての《与党精神》の体現とは、人気漫画家の提灯持ちを演じることなん
だな。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
「与党精神というのはね、言い換えればね、人の言動をね、その動機からではなくて、結果から
判断するということ」だと。
内容以前に、批判や反対という行為一般を封殺する。現実への屈従のみが称揚される、
所謂保守派論客に重宝されている論法だ。
「動機からではなくて、結果から判断する」何のことはない、単なる浅薄なプラグマティズム
じゃないか。
こうした「浅薄なプラグマティズム」を粉砕するには「《よい結果》という評価を構成する
《よい》や《結果》ということばを疑うこと」つまり本質的な思考を展開するほかはない。
思い出した文章がある。
わたしが思想的な敵対物とかんがえたものをとりだせば、ひとつは、〈敵〉に担われていよ
うと〈味方〉に担われていようと、あらゆる〈機能的な思考〉そのものであり、もうひとつは、
〈社会〉とその上層の〈共同観念)との相関をわきまえないで混同するあらゆる思想的な構築
であった。この二つは、現在も、それから今後も、おなじ一つの根幹からでてくる〈思想〉とし
て、もっともたたかおうとかんがえているものである。
(吉本隆明「情況」の「あとがき」より)
蛇足ながら、ここで言う「機能的な思考」は私の言う「浅薄なプラグマティズム」のこと
と同意である。
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123. 『「非国民」手帖』を読む(21)
これが『声に出して読みたい日本語』か
2004年12月15日
誰にでもそれなりの本に対する臭覚があるだろう。私の臭覚には、
『声に出して読みたい日本語』のような表題の本はプーンと胡散臭さが臭ってきて、
食指が動かない。
食指が動かない本ならただ捨て置けばよいし、内容を知らないのだから論評の資格もない。
しかし、最近目障りなほどこの著者の本が矢継ぎ早に出版されていて、新聞の広告をにぎわ
せている。どれもやはり胡散臭さが臭う書名だ。「歪」氏がその胡散臭さのでどころを論評している
のでを紹介しよう。
俎上の鯉:斎藤孝著『声に出して読みたい日本語』(草思社)
料理人 :歪
料理記録日:02年8月号
暗諦と朗読の復権を掲げる斎藤孝に、いつもいらつきを覚えさせられるのは、《ことば》に対
するあまりの鈍感さゆえだ。
『声に出して読みたい日本語』(草思社)にはリズムやテンポのよい文章を採録したという。
しかし。その選択の結果には、逆にこの男がいかにことばのリズムやひびき、そしてその美意
識のもち方という点においても、無頓着かということがあらわれている。
なんのことはない。その大半は七五調である。「旅ゆけば」「赤城の山も」……指を折れば誰
にでもわかる。無自覚に、伝統的な音数律に心地よさを感じているだけだ。斎藤の鈍い感性で
とらえられないだけで、日本の文学にはもっと多様で豊かなリズムの実験はある。
この鈍感さは日本語や文学の歴史に対する無知によってもたらされているともいえる。その
ため、収録したテキストにも、編集の意図を裏切るような致命的な過ちを犯している。
『声に出して読みたい日本語』の最も巻末に収録されているのは「古事記」と「日本書紀」の
一節である。これは口承による記録と考えられている「古事記」で締めくくることで、暗誦が
伝統文化であることを示そうとしているはずだ。また、漢文で書かれた「日本書紀」と比較す
ることで大和言葉の《美》をより印象づけるねらいもあるだろう。実際、両者ともに表記は漢
字かな混じりだが、「古事記」にだけはすべて大和言葉でルビが振ってある。
しかし。悲しいかな、斎藤が引用した部分は稗田阿礼が語るところの「古事記」本文ではな
い。編者である太安万侶のつけた上表文なのだ。この文章は、当時の官の公文書の文体である
漢文、すなわち中国語で書かれたものである。これが『声に出して読みたい日本語』か。
斎藤が、言葉そのものではなく、通俗的な権威に依拠する教養主義にもとづいて文章を選択
しているのは明らかだろう。
《ことば》の危機は、言語規範が遵守されなくなるところから訪れるわけではない。
言語規範を逸脱する《ことば》は新しい表現の可能性をはらんでいるからだ。本当の危機は、
危機の到来を言い立てることで伝統的復古的な言語意識を持ち出し、《ことば》の冒険を封じ
ることによってもたらされる。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
言語規範を逸脱する《ことば》は新しい表現の可能性をはらんでいる。
《ことば》の本当の危機は危機の到来を言い立てることで伝統的復古的な言語意識を持ち出し、
《ことば》の冒険を封じることによってもたらされる。
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124. 『「非国民」手帖』を読む(22)
名作の破壊者
2004年12月16日
「新しい歴史教科書をつくる会」の幹部や会員の活動を調査・分析した小熊英二氏によると、
彼らのナショナリズムには核になる理念がないそうだ。自分自身の存在理由の希薄さと
社会の現状への不安や不満が彼らをナショナリズムへのと駆り立てたが、「天皇」には
もうリアリティーがなく、その核にはなり得ないと言う。
では何にナショナリズムの根拠を求めるのだろう。「伝統文化」「誇れる歴史」「美しい日本語」。
「『つくる会』の人たちは『エゴイズムの横行は戦後民主主義のせいだ』といった批判をしま
す。しかし彼らは、本当は戦後の思想も歴史もよく知らない。戦後の進歩派はエゴイズムに批判的
だったし、平和主義をナショナルな理念として打ち出していた。保守派のほうが、理想より
経済成長、平和主義より対米協調と言い続けてきた。その経済成長がエゴイズムをもたらしたとす
れば、彼らが批判すべきは保守派のはずでしょう」(朝日新聞のインタビュー記事より)
知らないのは「戦後の思想も歴史」だけではないだろう。「戦前の思想も歴史」も知らぬからこそ、
「伝統文化」とか「誇れる歴史」とか「美しい日本語」とかいうイデオロギー(虚偽意識)に容易に
囚われてしまう。
もう一つ、エゴイズムは資本主義イデオロギーの核心だぜ。彼らが批判すべきは資本主義のはずで
しょう。
さて、「美しい日本語」を喧伝している斎藤孝は『「非国民」手帖』の批判にどう応えているか。
俎上の鯉:斎藤孝のエッセイ「総ルビ百花繚乱」
料理人 :歪
料理記録日:02年12月号
過ちを認めたくないが、失態は世に晒されてしまった。なんとか正当化を弁解がましくなく
打ち出せないものか。
斎藤孝のエッセイ「総ルビ百花繚乱」(『週刊文春』10/24号「コロンブスの卵焼き」連載S)
は、そういう姑息さをにじませた文章だ。
八月号本欄と十月号本誌レポートは、斎藤孝『声に出して読みたい日本語』に対し、次のよ
うに指摘した。漢文で書かれた『古事記』序文を大和言葉で読み下し、これを《美しい日本語》
の代表として扱うのは誤りだ、と。
漢語を大和言葉で読むと「生き生きとしてくる」だとかズレがパワーになってイメージを
増幅させてくれる」だとか、この工ッセイでうじうじと書き連ねているのが、明示しない弁明
であることは明瞭だろう。
しかし。結局は斎藤が問題の所在を全く理解していないことを露呈しているだけだ。
斎藤が正当化のために紹介する立川文庫はもともとルビが振ってあるテキスト。一方『古事
記』序文に振ったルビは斎藤(あるいはゴーストライター)の創作だろ。それを当時の言葉に
見せかけてるのが詐欺なんだよ。
高島俊男はなぜ『お言葉ですが・・・」と声をかけないのか。
しかも。自分のやっていることの意味がわかっていないこの男は、他にも驚くべきことを
得々と語っている。
『走れメロス』をアンソロジーに収録する際、「嗄れ声」という表記がニヵ所出てきたので、
それぞれに「しわがれごえ」と「しゃがれごえ」という異なったルビを振ったという。太宰が
同一表記にしているものを、「この方がぴったりに感じられた」なんて理由で、異なったルビ
にしてしまうとは、おまえ何様だ。他にも自分の感性で読みを決定した例が紹介されている。
読みが示されてない漢字を作者がどう読ませようとしたか、はそれだけで立派な文学研究のテ
ーマになるくらい重要な問題だ。
こいつのアンソロジーに採録されている作品は、恣意的にルビを振りまくられることによっ
て、創作や改竄を受けていることになる。
文学や言葉の擁護を掲げて、保守・伝統派のジジイの支持をとりつけた斎藤。
それが他者の表現を軽んじ、古今の《名作》を破壊していく様を見るのも、結構愉快かも。
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125. 『「非国民」手帖』を読む(23)
「かつて」や「昔」とはいつなのか
2004年12月17日
「美しい日本語」ブームの胡散臭さについて、もう一回取り上げる。
「鵠」氏が歴史的な観点からその胡散臭さを論評している。
「美しい日本語」をめぐってはしゃいでいる者らは、ここで指摘されているような
歴史的な事実を知っているのか知らないのか、いずれにしても気楽なおめでたい人たちだ。
俎上の鯉:「日本語の朗読、音読ブーム」の一連の言説
料理人 :鵠
料理記録日:02年9月号
歴史教科書に続いて今度は国語教科書をめぐる議論が喧しい。斎藤孝の一連のベストセラー
に始まる反動的ナショナリズムの流行は誰の目にも明らかだが、「文学界」七月号では島田雅
彦、山田詠美、奥泉光という面々までが 「小説家がつくる『国語』教科書宣言」という座談会
を開いている。「歴史」と「国語」を一元化して「国民」を統合することでナショナリズムが
生まれるのだから、「理想の」歴史教科書や国語教科書を作ろうという発想自体がそもそも国
家主義的ではないか。
さらには斎藤の『声に出して読みたい日本語』を契機として、日本語の朗読、音読がブーム
なのだという。それ自体が悪いことだとは言わないが、無邪気な「憂国」の士たちは、それが
持つイデオロギーを顧みることもしないらしい。「かつては、暗誦文化は隆盛を誇っていた」
と斎藤は言う。あるいは、「美しい日本語を体で味わうために」と副題された幸田弘子『朗読
の楽しみ』でも、「わりあい最近まで、本を読むとは、文章を声に出して読むことでした」と
され、「昔はさかんだったラジオなどの朗読番組も、いまではほとんど姿を消しています」と
述べられている。
しかし一体、はっきり特定されないまま曖昧に理想化される「かつて」や「昔」とはいつなのか。
例えば中学生らに対する朗読教育がさかんに行われたのは、「美しい日本語」のためと称し
て「国語醇化」の運動が推進された戦時体制の下であり、ラジオの朗読番組は、大政翼賛会文
化部や日本文学報国会による愛国詩の朗読放送とともに大きく発展している。それがナチス・
ドイツのプロパガンダに倣ったものであることも言うまでもない。
一九四三年に大政翼賛会が編集した『朗読文学選』には、古事記をはじめとする「声に出し
て」読むべき作品が収められ、序文では「眼で読まれるだけの文学はどうしても独りよがりに
なり易い」し、「言葉も本来の美しさをあらわし得ないであろう」と述べられている。
まさにその口移しの現代版とも言うべき著作で斎藤孝が唱える「世代や時代を超えた身体と
身体とのあいだの文化の伝承」こそが、戦争に向けて国民を「国体」へと同一化するために必
要とされたのである。
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127. 『「非国民」手帖』を読む(24)
大衆に潜在する暗鬱な憎悪
2004年12月19日
『「非国民」手帖』からイシハラを俎上に載せている論説を取り上げる。
素材は「三国人」発言。健忘症の都民(国民)にはもうそろそろ忘れられてい
そうな失言だが、イシハラの政治手法をよく象徴している失言だから、その
分析には格好の材料だ。
俎上の鯉:石原慎太郎の「三国人」発言
料理人 :歪
料理記録日:00年6月号
問題は「三国人」発言を超えて、《石原慎太郎》をどう撃墜するのかということだ。
石原の発言は「三国人」という言葉が含まれているから《差別》的になったのではない。《差
別》的な文脈が「三国人」という蔑称を招来したというべきだ。
いや。全体像を踏まえて、もう少し正確に言えば、こうだ。
常に《差別》を欲望している石原だからこそ、外国人を語る上で「三国人」という蔑称を
不可欠としたのだ。それが死語であり、必然性がなく、誤用であろうとも、だ。
なぜなら。《石原慎太郎》とは《差別》を再生産しつづけることではじめて自己を維持する運
動体だからである。
《政治》的に見ろ、ということだ。つまり。どのように共同の意識が編成されようとしてい
るか、ということを露出させなければならない。《敵》をつくりだし、それを攻撃と排除の対
象とすることで、自己への支持基盤を形成する。それが石原の政治手法である。
石原は都知事に就任以降、都庁役人、銀行、そして、中国や北朝鮮、「三国人」と《敵》の名
をメディアでぶち上げ、陰に陽にその排撃を指示してきた。そして《敵》との厳格な対峙を
強力な指導力として印象づけている。
大向こうの絶賛を浴びた、銀行への外形標準課税がまさに好例。大衆の銀行への怒りは組
織され、石原の強力な指導力への賛美と結合した。
石原の《差別》は、突出して異常な偏見を有する者の《暴言》や《失言》ととらえること
はできない。むしろ、大衆に潜在する暗鬱な憎悪に呼応し、それによって力を付与されてい
るのである。
石原「三国人」発言への支持の高さから目を背けてはならない。閉塞した時代状況の中で、
強力な指導者の登場と、異分子の排除によって共同意識の編成を期待する、大衆の気分が台
頭してきている。
《差別》によって大衆への統合軸を据える《石原》的《政治》を解体するとともに、新しい
《政治》像の提示が切望されている。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
《敵》をつくりだし、それを攻撃と排除の対
象とすることで、自己への支持基盤を形成する。それが石原の政治手法である。
閉塞した時代状況の中で、強力な指導者の登場と、異分子の排除によって共同意識の
編成を期待する、大衆の気分が台頭してきている。
イシハラ個人への反撃だけではなく、むしろ大衆の劣情の共同意識をこそ撃たなければな
らない。では大衆とか誰なのか。私であるしあなたである。そして全てを疑い自らを問う姿勢を
持続することが、大衆のひとりとして、私たちに出来ることすべきことの核であろう。
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131. 『「非国民」手帖』を読む(25)
日本の「荒廃」は誰の「責任」なのか
2004年12月23日
ポチ校長の「ガン」発言は鳥海巌の口真似だが、どうやら鳥海の発想も借り物のようだ。
そのおおもとの出どころと思われる本が『「非国民」手帖』の俎上にあがっていた。
もしかすると支配者どもの日常会話では常套句になっているのかもしれない。
俎上の鯉:前野徹『戦後・歴史の事実』(経済界)
料理人 :鵠
料理記録日:00年9月号
歴史とは単なる事実の記録ではなく、過去に遡行することで現在を説明しようとする物語
のシステムにほかならない。とりわけ共同体のアイデンティティが揺らいだ時こそ、それを
再構築するために「正史」と称するフィクションが発動され、新たな「憂国の志士」が次々
と現れるというわけである。
小林よしのり、西尾幹二らの「正史もの」に続いて、またまた「国民必読の書」と称する『戦
後・歴史の事実』(経済界)が、よく読まれているらしい。著者の前野徹は、東急グループ総
帥だった五島昇の「懐刀」で、自ら「国士経済人」を名乗る人物である。例によって、都合
のいい資料だけを並べながら、「大東亜戦争は侵略戦争ではなかった」「日本民族のプライド
を取り戻せ」等々の主張を繰り広げるお決まりの内容に加え、「頻発する青少年の凄惨な殺傷
事件、家庭内暴力、学級崩壊、登校拒否児の激増」など、子供たちをめぐる現在の問題も、
すべての元凶は「東京裁判により真実がねじ曲げられ、日本人の心そのものが否定された」
ことにあるというのだから、牽強付会も甚だしい。
それほど「日本人の魂が荒廃している」と憂うのであれば、むしろ戦争遂行の責任をとる
べき人物が、それを認めないまま死んでしまったことこそ元凶だと考えるほうが、はるかに
説得力があるだろう。「アメリカ大統領はヒロシマ・ナガサキへの原爆投下を謝罪せよ」と言
うのなら、昭和天皇もまた、アジア諸国に謝罪すべきだったし、東京裁判が政治的に歪めら
れた違法な裁判だったとすれば、その最大の問題は、政治的な意図によって天皇が免責され
たことにある。そこに触れるのを周到に避けながら、「責任問題、賠償問題などは一切不問に」
などと言うのでは、倫理の荒廃を嘆くほうがおかしいというものだ。
そうした論理の非整合性を、「先に旅立たれた先輩たちの心の慟哭が聞こえます」などと情
緒に訴えることで誤魔化し、また、戦後の護憲派勢力は「日本の国の病原菌」や「国賊」呼
ばわりされる。その一方で、「日本の救世主」とまで持ち上げられ、著者の盟友として本書の
序文を書いている人物こそ、他ならぬ石原慎太郎なのだから、馬鹿馬鹿しいにも程があると
いうものだ。
本当に馬鹿馬鹿しい。保守反動の「論客」は底が知れていて、やつらには全く脅威はない。
しかし、この馬鹿馬鹿しい薄っぺらな論理にとらわれていく大衆は恐ろしい。
「124回」(12月16日)で、小熊英二氏の「新しい歴史教科書をつくる会」会員に対する分析
を紹介したが、それによると彼らの自己認識は次のようだ。
『私たちは普通の市民だ。異常なサヨク(左翼)ではない』
「異常なサヨク」って何なのか分からないが、保守反動にとらわれた彼らが
「普通の市民」ではなく、「異常なウヨク」なのは明らかだ。
彼らの今後の動向について、小熊氏は次のように分析・予想している。
「有力な社会運動に発展するほどの組織力があるとはあまり思えません。実は彼ら自身が、非
常に個人主義的ですから。ただし、投票行動で雪崩を打つとか、いやがらせメールを大量に送る
といった行動に出る可能性はある。石原慎太郎氏が大量得票するといった現象に、それが部分的に
現れていると思います」
組織力がないからこそ恐ろしい。ありもしない恐怖を煽られて衝動的に集団心理を形成する。関東大震災のときの
朝鮮人大虐殺のように。あのときの殺人者は「普通の市民」だった。
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134. 『「非国民」手帖』を読む(26)
このネタは聞き飽きた
2004年12月26日
俎上の鯉:『VOICE』1月号の座談会「憲法改正の行動計画」
料理人 :歪
料理記録日:02年2月号
場末の寄席ではいつも同じ芸人が同じネタをかけている。やる方も観る方もよく飽きないねえ。
『VOICE』1月号の「憲法改正の行動計画」という仰々しいタイトルでの座談会もそうだ。
中曽根康弘、石原慎太郎というおなじみの面子に鳩山由紀夫が参加しているのだけが、いささ
かの目新しさか。
中曽根は「憲法は……それ自体が借り物であり、日本人の伝統からくる価値観が反映された
ものになっていません」と相も変らぬアメリカの押し付け憲法という論理から、まず戦後憲法
を否定する。ハンバーガーを食い、コーラを飲んで、ロックを聴く者達にとって、アメリカ製
だから駄目だという論理が最早説得力を持つはずはない。
世界がマクドナルド化するとともに、マクドナルドは土着化する。テリヤキバーガーはまさ
に日本オリジナルの食べ物である。戦後憲法もまた同様に日本オリジナルなのだ。外来文化を
土着化することこそが日本の伝統ではないのか。日本の伝統なんて、たまねぎの皮を剥くよう
にはがしていったところで、何も残らない。
現憲法がアメリカの押し付け憲法なら、明治憲法だってドイツの猿まね憲法だよ。所詮《鹿
鳴館》文化の所産に過ぎない。
律令制まで遡ったところでやはり中国からの輸入品だ。
いったい何処に帰れというのか。
反対しないことが現実的対応と勘違いした鳩山はいう。「いざというときには必ずアメリカ
に守ってもらえるという、非常に安易な発想……によって虚構の体系」の無効性が、アメリカ
での《テロ》によって証明されてしまった、と。
もちろん「虚構の体系」は明らかとなった。しかし、それは戦後憲法の有効性をこそ明らか
にしたのだ。
世界最強の軍事力を誇る国家もその軍事力によって国民の生命を守ることはできない。むし
ろ、湾岸戦争にも参戦せず、金で済ませざるを得ない選択を強いた戦後憲法こそが、日本を《テ
ロ》から防衛したのだ。
重要なのは、成立過程ではなく、《戦後》を《国民》と《憲法》がどう生きてきて、何をもたら
し何をもたらさなかったのかということなのである。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
重要なのは、成立過程ではなく、《戦後》を《国民》と《憲法》がどう生きてきて、何をもたら
し何をもたらさなかったのかということなのである。
「126回」(12月18日)で「憲法を変えるか変えないかの前に、今の憲法に正当性があるかないか、ただ
それだけで国会議員の投票してもらえればいい。」というイシハラの憲法改悪についての
発言を取り上げたが、ここではそれを「憲法改正の行動計画」と言っている。憲法改悪に踏み込む大きな
ステップとして憲法改悪派のスケジュール表に載っていることなんだな、と改めて得心した。
イシハラは衆議員のとき(2000年11月30日憲法調査会)すでに次のように発言していた。
「国会ですべきことは、いまの憲法を歴史的に否定すること」
(憲法の前文は)「醜悪」「私は文学者ですから、文章として許すわけにいかない。
致命的な日本語の乱れがある」
(前文や九条の平和主義に対して)「他国の人間が見たら皆笑う」
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136. 『「非国民」手帖』を読む(27)
すべてはメディアの中の話
2004年12月28日
俎上の鯉:『諸君!』(2003年3月号)「『日本ナショナリズム』の血圧を測る」
料理人 :歪
料理記録日:03年4月号
朝日新聞が「不健康なナショナリズムが目につく」と北朝鮮をめぐる状況を危惧し、石原慎
太郎がW杯に関して「日頃我々が意識無意識に抱えていた国家と民族に対するものの激しい噴
出によるエクスタシー」と「健全なナショナリズム」の成育を喜ぶ。《右》も《左》も《ナショ
ナリズム》の台頭を認知する中で、『諸君!』(2003年3月号)が「『日本ナショナリズム』の
血圧を測る」と題したアンケート特集を組んだ。
まあ、もっと行けるぜ、と煽ってるだけだけど。「一層の後押しが必要だ」(鈴木孝夫)、「ナ
ショナリズムが広がっているとすれば、大変結構なこと」(中島嶺雄)……と大半がこの調子。
何とも《愛国》知識人たちのノーテンキなことよ。《国家》も《ナショナリズム》もおよそま
ともに考えたことがない。
家から郷土まで、生活に馴れ親しんだ集団に愛着があるのは自然なこと。近代国家成立以前
の太古の昔からある。しかし、それは《ナショナリズム》の基盤ではあるが《ナショナリズム》
そのものではない。普遍的な自然感情と強固な国家への憧憬のないまぜになったものを整理も
つかず、自分の都合のいい言葉をあてはめているだけにすぎない。
国家という幻想共同体に包摂された自己が、他者への優越性を排外主義的に吐き出してはじ
めて《ナショナリズム》と呼べる。そんな感情が現実の大衆の生活レベルで形成されていると
は思えない。
ワールドカップをめぐる熱狂や、北朝鮮への憎悪などといったところで、すべてはメディア
の中の話だ。ワールドカップは言わずもがな。拉致問題も、北朝鮮という奇怪な世界の情報を
娯楽として消費するための正当化の根拠として、拉致被害者への同情が持ち出されているだけ
だよ。
メディアによって演出された消費行動が《ナショナリズム》かい。
おとぼけ《愛国》知識人の《過激》でわかりやすい言論が恐ろしいのではない。
メディアの演出空間を浮遊する言論が不透明化させてしまう《国家》をもう一度あぶりだす、
そういう言論の不在こそ問題なのだ。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
国家という幻想共同体に包摂された自己が、他者への優越性を排外主義的に吐き出してはじ
めて《ナショナリズム》と呼べる。そんな感情が現実の大衆の生活レベルで形成されていると
は思えない。
吉本隆明は「日本のナショナリズム」で次のように述べている。
大衆の現実上の体験思想から、ふたたび生活体験へとくりかえされて、消えてゆく無意識的な
「ナショナリズム」は、もっともよくその鏡を支配者の思想と支配の様式のなかに見出される。
歴史のどのような時代でも、支配者が支配する方法と様式は、大衆の即自体験と体験思想を逆さ
にもって、大衆を抑圧する強力とすることである。
このような問題意識にたいして知識人とは、大衆の共同性から上昇的に疎外された大衆であり、
おなじように支配者から下降的に疎外された大衆であるものとして機能する。
わたしたちは、日本の「ナショナリズム」を、この大衆「ナショナリズム」と、そこから上昇
的に疎外された知識人の「ナショナリズム」と、大衆「ナショナリズム」の逆立ちした鏡として
の支配者の「ナショナリズム」に区別した位相で、つねに史的な考察の対象としなければならない
のである。
このような位相からは、ある時代のある文化のヒエラルキーは、大衆そのものからの、彎曲を
意味している。ただ、この彎曲をとおしてしか、ある時代思想は、すすめられることはないので
ある。
さしずめ現今の「ナショナリズム」というハヤリ病は、
『知識人の「ナショナリズム」』が『大衆の「ナショナリズム」』を『支配者の「ナショナリズム」
』に直結しようしている浮かれ熱のことなのだな。
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137. 『「非国民」手帖』を読む(28)
次世代にとって教訓的な書
2004年12月29日
俎上の鯉:『心のノート』
料理人 :歪
料理記録日:03年8月号
シリーズ総計で1200万部。こどもたちはみんな持ってる『心のノート』。知らないよ、
てか。そりやそうだろ。去年から文部科学省が配布している道徳教育の副教材だ。目次には
「礼儀知らずは恥知らず」「自分だけがよければいい……そんな人が多くなったと思いません
か?」 「我が国を愛しその発展を願う」などの項目が並び、《道徳》や《公共心》、《愛国心》を
育成する目的がうかがえる。
しかし。ここで、国家意志のイデオロギー的背景について語るつもりはない。
『心のノート』はまず《作品》として批評されるべきなのだ。『心のノート』自身が《文学》と
して、また《芸術》として、《心》に影響を与えようとしている以上、まさに《文学》や《芸術》と
しての低劣さこそが問題とされなければならない。
「自分さがしのたびに出よう/カバンに希望をつめ込んで/風のうたに身をまかせ」とはじま
る巻頭言(中学校版。以下同じ)。河合隼雄監修ならではの、《自分探し》の迷路に中学生を迫
い込もうとする主題の提示もあんまりだが、なによりその言語感覚の通俗さには暗澹たる思い
に襲われる。手垢にまみれた紋切り型の比喩に七五調のリズム。分かち書きさえすればそれだ
けで《詩》の要件を満たしていると思っているのか。このような《詩》まがいが、全編を覆っ
ている。漱石、芥川、そして吉行淳之介やらの文学作品の一節を恣意的に引用して、道徳標語
として散りばめるという手法に見る権威主義とこけおどしも、原典への裏切り以外のなにもの
でもない。
樹木や葉っぱをモチーフとして緑を基調にした装丁に、柔らかな線を持った解説的なイラス
トや写真の多用も、イメージの貧困をさらしているだけ。イラストに326(を起用する、ずれた迎合的姿勢も哀しい。
いったいこのような低劣なことばとイメージによって、どのような《心》が育成されると期
待しているのか。まさに、『心のノート』は、この国の政治家や御用文化人たちが、いかにみ
すぼらしい文化と精神しか持ち合わせていないかということを露呈した《作品》である。その
意味では、確かに次世代にとって教訓的な書といってもいいだろう。
教育行政が子どもにしかけてきたこれまでの策略をまとめるとこうなる。
「心のノート」で従順で実直な精神を養い、「奉仕活動」という科目で無賃金労働の喜びを
知らしめ、「日の丸・君が代」で忠誠心を刷り込み、最後にそれらを総合して「国を愛する
心情」として評定する。
参考資料として
子どものための民間教育委員会
というサイトから「心のノート」全国送付時の掲載文を紹介する。
文部科学省は2002年4月1日、「心のノート」を発表し、全国の小・中学校に送付した。
同ノートは「小学校1・2年」「小学校3・4年」「小学校5・6年」「中学校」の4種類で、
小学校はそれぞれ約260万部、中学校は約420万部の計約1200万部が作られた。この作成費用とし
て同省は01年度予算に総額7億2980万円を計上しているが、これは同省の01年度・道徳教育関
連予算(約8億6000万円)の約84%にも上る。
文科省初等中等教育局によると「心のノート」は「教科書や道徳の副読本に代わるものではな
く、日常生活や全教育活動を通じた道徳教育の充実を図るために用いる教材として作成したもの
で、児童生徒が自己の生活や体験を振り返る「生活ノート」的な性格や、家庭との「架け橋」と
しての性格を有し、児童生徒の道徳学習の日常化を目指したもの」であるとしている。
同ノートの様々な問題点については、今後検証していくが、概ねその内容は、森・前首相の
「教育改革国民会議」のナショナリズム高揚思想の流れを具現化した「国定修身教科書」と
も言えるもので、「教育のことは各自治体・各学校にお任せ」という文科省の建て前と、修身
復活で子どもたちへの思想のすり込みを国という権力が行うという明らかに矛盾した状況とな
っている。
また同ノートは当初、小学校2種類・中学校1種類とし、3年計画で作成する予定で、その費
用として1億9000万円が概算要求されたが、最終的には小学校3種類・中学校1種類を一括配布
することとなったため、7億2980万円に増額されたという経緯もある。
今後、このページでは「心のノート」の問題点について検証していく。
(2002/07/28)
なお、「心のノート」(中学校版)は次のサイトからダウン・ロードできる。(PDFファイル)
http://cebc.jp/data/education/gov/jp/konote/cyu/
また、「心のノート ガラガラポン」というサイトを今日からトップページにリンクした。
教員や父母たちの、「心のノート」をめぐるさまざまな議論を読むことができる。
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141. 『「非国民」手帖』を読む(29)
赤き烙印を受けた者たちへ
2005年1月2日(日)
俎上の鯉:いわゆる《大衆》すなわち私たちだ
料理人 :歪
料理記録日:04年4月号
「なにしに生れてきたと問はるれば/躊躇なく答へよう。反対しにと」とうたった漂泊の詩人。
間違いなくその胸には《反対》の赤き烙印が押されていた。
同様に赤い烙印を受けた者たちが、叫びを呑み込んだまま、互いを血族とも気づかずすれ違
いながら、彷徨している。ほら。疼きのなかで赤い文字が浮かび上がってくるのを感じないかい。
そう。テーマはいつも《権力》をどうぷっ叩くかだ。
攻撃力は、憎悪の深さとパンチを繰り出すリズム感が左右する。
で、問題は結局《権力》って何だよ、ということに帰結する。
権力者と支配される無垢な大衆という三流《左翼》的な図式。あるいは、投票で選ばれた市
民の代表が政治を司るという能天気な《民主》的図式。こうした平面的な《権力》観とは訣別
しなければならない。
下から権力が組織される上向の過程と、上から《権力》が支配する下向の過程を、統合
的に把握する必要がある。実体としての敵を求めるのは安易な方途だが、媒介的な関係として
しか《権力》は存在していない。
したがって。批判の対象としては常に回避され、隠蔽されているもの、ここまで射程を有さ
なければ《権力》には届かないのだ。それは《権力》を支え、それにすりよることで、暗鬱な
欲望を満たそうとするものたち、つまり《大衆》だ。
おまえの《敵》はおまえだ。だから、わたしの《敵》はわたしだ。坊主懺悔としてではなく、
外部と内部の《敵》を同時に撃つために、《闘争》は言語による批評という形態を必然的に招来
する。そして言語の《闘争》は《政治》の枠を超えて、《文化》へと拡大し、生活の中で全面化
する。
赤き刻印を負った者たちよ、《闘争》は可視に、不可視にすぐそこで展開している。
この《闘争》は永遠だ。何も終わってはいない。終わらせるためには、はじめなければなら
ない。
何のためにか、つて。叫びを解き放つために、だよ。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
おまえの《敵》はおまえだ。だから、わたしの《敵》はわたしだ。外部と内部の《敵》を同時に
撃つために、《闘争》は言語による批評という形態を必然的に招来
する。そして言語の《闘争》は《政治》の枠を超えて、《文化》へと拡大し、生活の中で全面化
する。
「121回」(12月13日)で書いたものを再録する。
『日常の生活とは国家意思の反映であり、規範意識の馴致過程の謂いである。「空虚な泰平に埋没する」
とはその日常になんらのささくれだちも感じなくなることである。それは支配権力への服従へ
通じるネットワークに絡めとられたことを意味する。そして、日常生活において感じるささくれだちを
掘り下げていく営為を「懐疑の精神」と言っていると思う。』
「下から権力が組織される上向の過程」とは規範意識に馴致された大衆の日常生活が権力を支える過程
であり、
「上から《権力》が支配する下向の過程」とは国家意思が日常の生活に浸透してくる過程である。
したがって、日常生活の中で全面化されるような言語による闘いとは、日常の生活で法や規範や四角な
しきたりを強いられたり、それに抗ったりするときに「感じるささくれだちを掘り下げていく営為」
にほかならない。
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142. 詩をどうぞ(11)
2005年1月3日(月)
前回のテーマを詩で読んでみる。もちろん、胸に《反対》の赤き烙印を押された漂泊の
詩人・金子光晴だ。「反対」と「おっとせい」
反対
僕は少年の頃
学校に反対だった。
僕は、いままた
働くことに反対だ。
僕は第一、健康とか
正義とかが大きらいひなのだ。
健康で正しいほど
人間を無情にするものはない。
むろん、やまと魂は反対だ。
義理人情もへどが出る。
いつの政府も反対であり、
文壇画壇にも尻をむけている。
なにしに生まれてきたと問はるれば、
躊躇なく答えよう。反対しにと。
僕は、東にゐるときは、
西にゆきたいと思ひ、
きものは左前、靴は右左、
袴はうしろ前、馬には尻をむいて乗る。
人のいやがるものこそ、僕の好物。
とりわけ嫌ひは、気の揃ふことだ。
僕は信じる。反対こそ、人生で、
唯一つ立派なことだと。
反対こそ、生きていることだ。
反対こそ、じぶんをつかむことだ。
おつとせい
一
そのいきの臭えこと。
くちからむんと蒸れる。
そのせなかがぬれて、はか穴のふちのやうにぬらぬら
してること。
虚無(をおぼえるほどいやらしい、
おお、憂愁よ。
そのからだの土嚢のやうな
づづぐろいおもさ。かつたるさ。
いん気な弾力。
かなしいゴム
そのこころのおもひあがつてること。
凡庸なこと。
菊面(。
おほきな陰嚢(。
鼻先があをくなるほどなまぐさい、やつらの群集にお
されつつ、いつも、
おいらは、反対の方角をおもつてゐた。
やつらがむらがる雲のやうに横行し
もみあふ街が、おいらには、
ふるぽけた映画(でみる、
アラスカのやうに淋しかつた。
二
そいつら。俗衆といふやつら。
ヴォルテールを国外に追ひ、フーゴー・グロチウスを獄
にたたきこんだのは、
やつらなのだ。
バタビアから、リスボンまで、地球を、芥垢(と、饒舌(で
かきまはしてゐるのもやつらなのだ。
嚔(をするやつ。髯のあひだから歯くそをとばすやつ。か
みころすあくび、きどつた身振り、しきたりをやぶつ
たものには、おそれ、ゆびさし、むほん人だ、狂人(だ
とさけんで、がやがやあつまるやつ。そいつら。そい
つらは互ひに夫婦(だ。権妻だ。やつらの根性まで相続(
ぐ忰どもだ。うすぎたねえ血のひきだ。あるひは朋党
だ。そのまたつながりだ。そして、かぎりもしれぬむ
すぴあひの、からだとからだの障壁が、海流をせきと
めるやうにみえた。
おしながされた海に、霙のやうな陽がふり濺いだ。
やつらのみあげるそらの無限にそうていつも、金網(があ
つた。
…………けふはやつらの婚姻の祝ひ。
きのふはやつらの旗日だつた。
ひねもす、ぬかるみのなかで、砕氷船が氷をたたくのを
きいた。
のべつにおじぎをしたり、ひれとひれとをすりあはせ、
どうたいを樽のやうにころがしたり、そのいやらし
さ、空虚(しさばつかりで雑閙しながらやつらは、みる
まに放尿の泡(で、海水をにごしていつた。
たがひの体温でぬくめあふ、零落のむれをはなれる寒さ
をいとうて、やつらはいたはりあふめつきをもとめ、
かぼそい声でよびかはした。
三
おお、やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よ
りくらい、やつらをのせたこの氷塊が、たちまち、さ
けびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめる
のを、すこしも気づかずにゐた。
みだりがましい尾をひらいてよちよちと、
やつらは氷上を匐ひまはり、
………文学などを語りあつた。
うらがなしい暮色よ!
凍傷(にたゞれた落日の掛軸よ!
だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろ
へて、拝礼してゐる奴らの群衆のなかで、
侮蔑しきつたそぶりで、
ただひとり、
反対をむいてすましてるやつ。
おいら。
おつとせいのきらひなおつとせい。
だが、やつぱりおつとせいはおつとせいで
ただ
「むかうむきになつてる
おつとせい」
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164. 『「非国民」手帖』を読む(30)
2005年1月25日(火)
『「非国民」手帖』は百二十数編の小論を収録している。そのうち約四分の一を読んできたこと
になる。まだ四分の三を残しているが、シリーズとしてはひとまず閉じることにする。
このページで今後どういう事柄を取り上げるか、いきあたりばったりで私には予定がない。今後取り上
げる論題と関わるものが『「非国民」手帖』の読み残しの中にあれば、その時はまた援用させて
もらうことにする。
さて、一応の締めとうことで「あとがき」を読むことにする。筆者は「歪」氏。
本コラムは、資本主義に耽溺しながらも、けして満たされることのない淋しき《プロレタリ
アート》の魂を抱えた《同志》にあてて書き継がれてきた。
時評コラムに、いまさら総括でもない。足すべき言葉は、本来不要のはず。だが、まあ、せ
っかく与えられた「あとがき」の場だ。もうひとコラムのつもりで付き合ってくれ。
まずは、資本主義の愉楽をしゃぶりつくせ、ということだ。
資本主義が《商品》とそれに対する《欲望》そのものをも同時的に生産しつつ、《欲望》の充
足を達成したのに対し、《左翼》はそれを超える《世界》像を提示し得なかった。
《左翼》の想像力は資本主義の発達のスピードに遅れをとったのだ。
ならば、資本主義のあり方にその身を根底から洗われ、深く沈潜させないことには、どんな
《思想》もはじまりはしないはずだ。
私はここで言われている意味での《同志》と自認する。そして「資本主義の愉楽」をみみっちく
楽しんでもいる。いくらかの後ろめたさを覚えながら。
「歪」氏はそんな私のみみっちさを蹴っ飛ばしている。後ろめたさなど覚えるからみみっちくなる、
後ろめたさなど不要だ。必要なのは「資本主義」の正体を透徹して見据えること。そのためにこそ
「しゃぶりつくせ」とアジっている。
マルクスは『ユダヤ人問題によせて』でこう記している。「普遍的利害と私的利害との衝突」
即ち「政治的国家と市民社会との分裂」と(引用は岩波文庫版。傍点は原文)。
本来なら、マルクスのご託宣をビリッと挿入しとけばそれだけのことだ。しかし、マルクス
もとんと近頃は遠景に追いやられてることだし、ここはケーモー的にいこうか。
つまりこうだ。
『ユダヤ人問題によせて』について、「自由について(1)(2)」(2004年12月30日、31日)で私が
参考にした部分と同じくだりを「歪」氏も取り上げている。ただし私のは単なる要約に過ぎなかったが、
「歪」氏の論考は自分の言葉で噛み砕いているので分かりやすい。次のように論じている。
近代では《国家》と《市民社会》は分裂している。あるいは《政治》と《経済》の分裂とい
いかえてもよい。《国家》の成員という側面から人間を捉えた場合、それは共同的で普遍的な存
在といえる。政治的には、すべての国民は、同じ重さの一票を有し、平等の立場で共同体に参
加している。一方、《市民社会》の構成員という側面から見れば、バラバラな《個》が、全く不
平等な経済条件下で、個別的な利害を衝突させ、永遠に解消されない対立を展開している。
それが、人間は、《国家》という《幻想》上では共同性を有しつつ、現実の生活では相互に対
立する《個》でしかあり得ない、ということだ。
《国家》という共同性を疎外することで《個》に解体されるということ。それがまさに資本主
義社会における《自由》の由来だ。この社会では誰もが否応なしに《自由》であらざるを得な
い。富裕があれば貧困もあり、栄光があれば悲惨もある。それが《自由》な社会ということだ。
制約や管理がない社会のことのはずだ、てか。それはもちろん《自由》だろうさ。そこでは
私意と私欲が剥き出しでぶつかり合っているはずだからな。
(次回に続く)
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166. 『「非国民」手帖』を読む(31)
2005年1月27日(木)
前々回(1月25日)の続きです。
この社会ではすべてが個別的で、私意と私欲を構成要素としているとすれば、どのような意
味でも普遍的な《正義》をうち立てることはできない。結局そんなものは私意のひとつに過ぎ
ないからだ。
普遍的《正義》をうち立てようとする者は、現実に根拠を持たない普遍性を求めていること
において《信仰》を求める者であり、そして、個別的利害を普遍性に仮装して強制しようとい
う点において、絶対的な《敵》である。普遍的《正義》が虚構であることをあらかじめ暴露し
ているだけでも、資本主義は《愛》の対象になり得る。
ある個別的利害を根拠に打ち出された正当性をその個別性の範囲を逸脱して主張したり強制
したりすれば、それは不当な主張、不当な行為といわなければならない。
そして、剥き出しの私利・私欲を存立基盤にして成り立つ資本主義社会では個別的利害しか
その現実的根拠はない。この社会で打ち出される普遍的《正義》は虚構としてしかありえない。
私はイデオロギーに「虚偽意識」というルビを振っている。あるイデオロギーを普遍的正義と
してかざすのものは、虚構の正義を普遍的正義と錯誤しているのだ。イデオロギーはまさに《信仰》
という「虚偽意識」の謂いである。
「個別的利害を普遍性に仮装して強制しようと」する「絶対的な《敵》」とは、資本家であり、
国民のためを偽装する政治政党であり、イシハラであり、コイズミであり・・・
なんのこはない、敵だらけだ。
では、個別的利害による個別的正義しか成り立たないこの社会に真の共同性を打ち立てる可能性は
あるのか。真の人間解放は可能なのか。
抑圧者には真の人間解放の契機はない。それは被抑圧者だけが担える課題だ。
普遍的な《正義》が不在のこの《世界》で生きるためには、ささやかな《倫理》が個々に紡
がれ、その《共感》をゆるやかに広げていくしかない。《共感》の細い糸を浮かび上がらせるた
めに、《敵》をひとつひとつ撃っていくしかないのだ。
ここで言われている「個々に紡がれた」《共感》を「ゆるやかに広げていく」というイメージは、
私の中では、水田ふうさんの「無数の水溜りと水溜りがプチップチッとくっいていく」(第160回・1月21日)
という「潮が満ちてくる海」のイメージと重なる。
そこで、だ。
成熟し、膨化する資本主義のもとで、進行する《個》への解体と共同性の希薄化に耐えられ
ない者が出てくる。まさに《大義》を掲げて、共同体への郷愁を《国家》幻想を強化する言説
で支えようとすることは、言葉の真の意味での《反動》に過ぎない。やつらが永遠に《勝利》
を獲得することがあり得ないのは、はなから明らかなことである。この社会のあり方どころか、
好んで口にする《国家》も《歴史》も《伝統》もまともに考えたこともなく、その知識も誤謬
に満ちたものでしかない。
「進行する《個》への解体と共同性の希薄化に耐えられない者」がその矛先を、逼塞状況の根源である
「資本主義」に向けるのではなく、手前勝手な《国家》とか《歴史》とか《伝統》とかにす
がりつく。その典型がイシハラであり、イシハラの腰ぎんちゃくであり、イシハラのポチども
である。
一方、資本主義社会においては、私意の解放や欲望の充足に過ぎないことを自覚もせずに要
求される《市民的自由》など、いかに《反体制》のポーズをとろうと、ロマンティックな幻影に
支えられた概念で終わるしかない。「自由な市場経済」なんてもの言いを思い浮かべればすぐ
わかる。それは《個》の対立と社会的不平等を必然的にともなうものだからだ。国家の管理か
らの解放にとどまらない《自由》への構想がなければ、《市民的自由》の要求が資本主義社会
のしたたかさの証明としてしか機能しないこともまた、確かなのである。
《右》も《左》も現実に立脚しない空虚な言葉を垂れ流しているだけだ。ものを考え、ものを
書くことで生きていることになっているはずの、大学教師や売文業者たちの怠慢と不真面目は
どうだ。それらは全て本書で明らかにされている。
思想の風俗への迎合を《権威》と勘違いし、たぶらかされて舞い上がっている《大衆》とや
らも、また耳ざわりのいい言葉と戯れることで現実から逃亡しているに過ぎない。
遠くへ跳ぶための想像力と、それを語る言葉なんだよ。要請されているのは。
もちろんここに収められた文章は時評であり、その時々の事件や現象を扱っている。しかし
それだけにとどまらない射程は有しているはずだ。
まだまだいける。おら。もう一撃かましてやれ。
そう、特にマスコミをにぎわす言説は「《右》も《左》も・・・空虚な言葉」だらけだ。それ
に対して『「非国民」手帖』は最後まで切れ味鋭い舌鋒で、私の期待を裏切らなかった。
「解説」で宮崎哲哉さんが書いているように「豊かな教養と緻密な推考と潔い倫理に裏付けされ
た批判」だ。私はすっかり「歪」さんのファンになってしまった。「歪」さんは今なお何処かで舌鋒を
振るっているのだろうか。正体を知らないが、是非再び出会いたいものだ。
「歪」さん、隠れていないで、私たち《同志》(と言っても私はいまだ「保守反動ブタ」と如何ほども
違わない浅薄者だが)激しく鼓舞し、《敵》を正鵠に撃つために、出てきてくれないかなあ。
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