91. 『「非国民」手帖』を読む(1)

『「非国民」手帖』は、国家に抗する社会を作るための教科書である。
 2004年11月13日

 表題(「非国民」手帖』は、・・・)は解説(宮崎哲弥)の最後の一行です。


 まずこの教科書の成り立ちから説明しよう。

 「反権威・反権力」を標榜する『噂の真相』が今年4月号で休刊になった。
 『噂の真相』には93年4月号から時評欄「撃」が設けられた。それぞれ 「(ひ ずみ) (またはゆがみ)」、「(くぐい)」というペンネームで二人の匿名氏が 担当した。それを加筆修正の上まとめたものが『「非国民」手帖』である。

  「撃」の時評はそれぞれ短文ながら、その時々の言説に激烈な舌鋒を浴びせて、その切り口は鋭い。 読んでいて胸のすく思いがする。逼塞した世界状況に抗い、ともすると深く傷つき鬱積 しがちな心を慰藉してくれる。しかし、そのような読み方だけで終わるわけには いかない。いや、終わらせてくれない。

 『どこまでも抗い続ける精神。決して権力にまつろわぬ言説。そうしたものが、あるときまで--- おそらく1980年代の初頭までは、いたるところに突出し、遊撃戦を展開していた。
 ところがいまや満目蕭条、寂として声なき有様である。権力者たちは不祥に脅えることなく 高枕で熟睡している。良民たちはセキュリティ・ブランケットにしがみつき、惰眠を貪ってい る。権力は睡魔に似ている。メディアは子守唄に似ている。
 かつて安らかな眠りから見放された一群の人々がいた。悪い時代、うつつの闇によって熟睡 を奪われた。少なくとも彼らはそう信じていた。そうして誰に頼まれるでもなく、機嫌の悪い 不寝番を買って出、微睡む私達を揺さぶり起こしてまわった。「目を醒ませ。眠っちゃ駄目だ。 醒めた目で現実を見詰めよ」と。
 いつのまにか、信頼できる不寝番は『サンデー毎日』の辺見庸「反時代のパンセ」と『噂の 真相』の匿名コラム「撃」の二つだけとなってしまった。自称不寝番は幾らかいるが、自分だ けは醒めているつもりの夢遊病者ばかりだ。
 然るに辺見庸はとうとう病に倒れてしまった。そして「撃」は『噂の眞相』休刊でひとまず 打留めとなる。ついにこの国は眠りに制覇されてしまうのか。皆挙って迷夢に退歩していくの だろうか。辺見や「撃」の筆者たちからすれば「保守反動ブタ」に違いない私までも不眠症に なりそうだ。(後略)』
(宮崎哲弥・解説「眠れぬ夜の共和国のために」より)

     『今となっては悲しいほどによくわかる。暴力的な圧政に抵抗しうるのは暴力的な言論だけだ。
  9・11以降、加速する反動の波はとどまるところを知らず、憲法改正すら目前に迫っている。
  堤防が決壊したのは1999年のことだった。
  短期政権を予想されていた小渕内閣は自由党との連携を取りつけ、旧田中派に脈々と受け継 がれる公明党との太いパイプを用いて、「自自公」という巨大な《怪物》を作り出した。わた したちはあの無能そうな笑顔の裏に潜むものを見逃したのだ。
 かの政権は国家権力の強化につながる超重要法案を矢継ぎ早に成立させた。野党はもとより、 「反対」のスタンスをとる新聞メディアの《正論》や《客観報道》もあまりに無力だった。《敵》 は---例えば盗聴法が---憲法の精神に整合しない、欠陥だらけの法律であることなど承知の 上で国会審議に臨んでいたのだ。絡め取られるのは必然だった。
 虚無と無関心がこの社会を覆い、慣れ、そして忘れた。
(中略)  だが、著者たちが撃とうとしている《本当の敵》は、狙上に載せられている言説 ではなく、それを称揚し垂れ流すメディアであり、ひいてはそれを許容し、無批判に受け入れ ている《世論》、つまりわたしたち自身だ。  「撃」が数年前に撃ったはずの虚妄の言説が、姿を変え、今もなお蔓延(はびこ)っている。頼れるのは あらゆる情報の政治性を自覚し、批判的に受容する、名も無き個人が紡ぐ《倫理》だけである。』
  (編集部記「まえがき」より)

 「撃」は、「虚妄の言説」は今もなお垂れ流されている、「目を醒ませ。眠っちゃ駄目だ。醒めた目で 現実を見詰めよ」と「私たち自身」を撃つ。

 『「非国民」手帖』は、「虚妄の言説」に真っ向から相対するための「ものの見方・考え方」の宝庫だ。 「国家に抗する社会を作るための教科書」たる所以である。


92. 『「非国民」手帖』を読む(2)

好んで《国家》を語るくせに
 2004年11月14日


俎上の鯉:@江藤淳『日本よ、どこへ行くのか』
    :A森嶋通夫『政治家の条件』(岩波新書)
料理人 :歪
料理記録日:92年4月号

 @江藤について

 『基調はあまりに単純。要するにこうだ。「日本はなにごとも自分で決めてアメリカに口出しされないようにしなければな らない」
 国家間の関係を人間関係の延長でとらえる程度の能力しかない。好んで国家を語るくせに 《国家》についてまともに考えたことなど一度としてないのだ。揚句に、日本が軟弱なのは海 部首相が軟弱だからだ、という短絡に陥る。』

 と切り捨て、返す刀でリベラルと目されているA森嶋を料理する。

    『江藤と同じ方法をとっている。やはり《国家》や《政治》の問題を全 て個人の性格に還元するのである。当然日本の国際的孤立は海部の性格がもたらしたことにな る。ウエーバーを担ぎ出そうと、政治の本質は政治家個人の倫理に収斂されるものではない。
 根底を欠いた《リベラル》など所詮《反動》の鏡像として立ち現われる他ないのだ。』

 そして最後に止めの味付け。

   『過剰なまでに国家が語られながら、だれも《国家》を理解していない。
 《政治》が《政治家》という個人を媒介に顕現するのは確かだが、それは現象である。個人や 集団の意志が国家の意志として形成される過程と、国家の意志が個人や集団の意志を服従させ ながら実現していく過程のふたつを統合的に分析すること。これが《国家》を、《政治》を語 るということなのだ。
 しかし批判するのは知的怠慢によってだけではない。政治を政治家の占有に帰し、大衆を傍観者の圏内に封じる思想をこそ叩くのだ。』

 「批判するのは知的怠慢によってだけではない。」は分かりにくい文だが、「江藤や森嶋に対して その知的怠慢だけを批判しているのではない。」という意だろう。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
『個人や集団の意志が国家の意志として形成される過程と、国家の意志が個人や集団の意志を服従させ ながら実現していく過程のふたつを統合的に分析すること。』

 この部分(現実の政治過程の分析)の咀嚼とは、国家本質論を踏まえたうえでの統治形態論的な解明 ということになる。この問題についての最も良質な理論は、それをライフワークとする専門家が何年 もの研究を重ねたうえで構築するような質の事柄だ。
 専門家にも品質の差がある。「虚妄の言説」と「本物の言説」とは、自分の目でとらえた現実の世 界のあり様や自らの体験と厳しく付き合せることによって見定めるほかない。
 私が見定めた「本物の言説」、滝村隆一氏の国家論の助けを借りて咀嚼してみよう。 (次回に続く。)


93. 滝村隆一の国家論
 2004年11月15日


   私は国家に関わる文を書いているとき、「支配階級、被支配階級、抑圧者、被抑圧者、支配層、 被支配層、国家権力などなど」の中からどの言葉を使うの が適しているのか、迷うことが多々ある。それぞれの文脈に応じて一応は考えて選んでいるつも りではいるが、その選択の基準はそれほど明確ではなくかなり直感的である。 わたくしにとって一つの課題であった。
 しっかりとした選択の基準をもたないのは、「支配階級、被支配階級、抑圧者、被抑圧者、支配層、 被支配層、国家権力などなど」が、現実の政治過程でどのような相互関係にあり、どのように抗争したり共闘 したりして国家意志が形成されてい くのか、という問題についての理解が曖昧なためであろう。今回のテーマにはその課題を果たす目的 もある。

 滝村隆一著「国家論をめぐる論戦」(勁草書房)に「国家の本質と〈階級独裁〉」という一節が ある。今回のテーマにぴったりの内容なのでそれを要約する。が、まずは以前に取り上げた 吉本隆明氏の「国家の本質」についての言説の復習から。

 『国家の本質は共同的な幻想である。この共同的な幻想は、政治的国家と 社会的国家の二重性(二面性ではない)の錯合した構造としてあらわれる。』

 『国家権力は、経済社会構成の上層に地位を占めるものがよりあつまっ てつくられるものではないから、社会的国家に公的権力が存在するのではない 。社会的国家は、法によって政治的国家と二重化されるとき、はじめ て権力をもち、普遍的な<階級>のもんだいがあらわれる。』

 「国家権力=支配的階級(経済社会構成の上層に地位を占めるもの)の権力」 (これは俗流マルクス主義の国家観)ではないと言っている。
 では国家権力とは何なのか。また「政治的国家と社会的国家の二重性の錯合した構造」 とはどのようなものか。それらの問題が少しでも解ければと思う。

(以下は「国家論をめぐる論戦」所収「国家の 本質と〈階級独裁〉」の要約)

 まず論考を進める上での歴史的・現実的前提がある。「〈近代的〉市民社会」=「統ー的 な階級社会」の形成がそれである。
 その形成を待って初めて国民的な統一社会が支配階級(ブルジョアジー)と被支配階級(プロレタリ アート)の二大階級を軸とした諸階級・諸階層へと分裂する。その結果必然的に、諸階級・諸階層の 〈特殊利害〉と統一社会的な〈国民的共通利害〉との構造的分裂が起こる。

 支配階級と被支配階級は、その現実的な社会的・経済的利害や、観念的な(共同幻想上の) 政治的利害にもとづく独自の意志・要求を、それぞれ階級意志として押し出すことによって、 不断の対立と抗争を展開する。その対立・抗争は統一社会そのものを衰退や解体に追い込む 危機を孕んでいる。
 そこで、社会全体の「一般的共通利害」の立場から、統一社会を防護するための強力で組織 的な実践的制御と干渉を行う権力が社会的に不可欠なものとして必要となる。これも 完成された統一的な階級社会を現実的前提とする限り、必然的な成り行きといえる。

 従って、「一般的共通利害」の立場から、諸階級へと分裂した社会全体の秩序維持のため、 形式上は二大階級〈権力〉の上に立った〈第三権力〉が成立する。 これが国家権力である。すなわち国家権力は、 支配階級・被支配階級の如何を問わず、社会の全構成員に対して法的規範としての 〈国家意志〉への服従を強制する形態をとって成立する。

  しかし、国家権力は形式上は第三権力という形態をとっているが、その実際の社会的 ・階級的性格はどうなのか。実際には支配階級の階級意志=総資本的意志の支配下に置か れているではないか。

まず、支配階級(ブルジョアジー)の階級意志=総資本的意志はどのように形成されるのか、検討する。

   ブルジョアジーは、日頃は産業の自由″の名の下に不断の相互的対立と抗争をくり返してい る。だがこの自由競争は、競争の必然の結果として産業上の覇権と集中化をもたらす。 さらに、プロレタリアートの階級的結集・全国的組織化に対して対抗し闘争する必要からも、 国民的ないし統一社会的レヴェルでの資本の有機的な連合と中央集権的な統一的組織化が 必然となる。
 従って総資本的意志は、このようなブルジョアジー全体の階級的結集と中央集権的組織化にも とづいて形成されたものである。しかもそれは、資本制的生産様式全体に関わるもの として市民社会全体に関わり、この意味で直接に〈政治的性格〉が付随している。
 しかしブルジョアジーは、現実的にはあくまで個々の資本家として、 傘下の企業労働者を経済的に支配できるだけである。総資本的意志を、 プロレタリアートはじめ国民的諸階級・諸階層の全体に直接押しつけ、服従させることはできない。 それをなすためには、総資本的意志を特殊に、社会全体の秩序維持に任ずる法的規範としての国家 意志にまで、転成させねばならないのである。

 その転成はどのようにして行われるのか。

 一つは、国家は社会的国家として、各種公共土木事業や文教・福祉・医療等に関わる 社会的・経済的政策を〈国民的共通利害〉=「一般的共通利害」の履行として打ち出してくる。
 しかし上述のように、第三権力という形態をとった国家権力による社会全体の法的秩序維持は、 全社会的規模における階級分裂と階級社会の形成の結果として 必然化されたものであるから、社会的・経済的政策の実質的な遂行は、たてまえとしては第三権 力による大きな政治的指揮・統制の下で行われるとしても、実際には個々の民間企業(ブルジョア ジー)に委託する他はない。つまり、〈国民的共通利害〉=「一般的共通利害」 である社会的・経済的政策が実質的にはブルジョアジーの階級的特殊利害によって支配され、主導 されることになる。

 二つに支配階級は、支配階級を中心とした諸階級・諸階層の〈特殊利害〉を「国民的共通利害」= 「一般的共通利害」と仮構・僭称して強力に押し出し、被支配階級の相当な部分を取り込みな がら、その総資本的意志を国家意志のなかに大きく反映させ、貫徹させていく。そして、〈政治的 (共同幻想的)〉と〈社会的・経済的〉の如何にかかららず、 支配階級を中心とした諸階級・階層の〈特殊利害〉が一般的諸法として、 あるいはそれを直接の法制的前提として展開される〈政策〉の形態をとった国家意志として現実化さ れる。
 これは、ブルジョアジ一による階級支配が、政治的国家においても貫徹されるを意味している。

 このように、ブルジョアジ一による国家的支配(つまりブルジョア独裁)とは、その総資本的意志が 国家意志を実質上大きく支配することである。また、ブルジョアジーはそのことによっ てはじめて、経済的支配階級としての自己を、政治的な統治階級としても構成することができるので ある。
 これは、支配階級が、総資本的意志をプロレタリアートはじめ国民的諸階級・諸階層の全体 に直接押しつけ、服従させることが出来るようになったことを意味する。


94. 『「非国民」手帖』を読む(3)
《天皇制》の隘路
 2004年11月16日


俎上の鯉:宮内庁編『道〜天皇陛下御即位十年記念記録集』(NHK出版)
料理人 :歪
料理記録日:99年12月号

『《天皇制》は共同体に流通する価値を回収し、規範として再び共同体に提示する。いわばミラー ボールのようなものだ。それ自身が光源であるわけではない。社会に存在する支配的な意識 を映し出し、反射させている。
 本質を持たず、変容しながら、《空虚な中心》が支配の軸になりうるとはそういうことだ。  権力の生成の構造も知らず、支配者と被支配者を実体的に想定しても、敵の姿を捕捉するこ とはできない。
 戦後の《天皇制》は、とりわけ1959年の所謂《ご成婚》以降、マス・メディアと結びつ いたかたちで、《家族》の範型を提示することにおいて、大衆の支持と関心を集めてきた。
 宮内庁編『道〜天皇陛下御即位十年記念記録集』は、平成の天皇明仁即位以 降、この十年間の天皇・皇后の発言集。本書に横溢する《護憲》《平和》《繁栄》などの言葉は、 これらこそが戦後の体制的言語であったことを示している。その一方で、折りにつけ天皇一家 の様子が報告されていることから、それが国家や社会と同じく重要な課題であることがわかる。
 しかし、社会や家族の急速な変容の中で、《天皇制》が立ち尽くさざるを得ない地点に来て いることも確かだろう。皇太后を家族全体で介護している姿を積極的にメディアに打ち出せず、 むしろ《隠匿》している印象を与えること。紀宮が未婚のままでいること。そして、陰に陽に 展開される皇太子妃への後継者プレッシャーもそうだ。国民が憧れる家庭像を提供してきたは ずの《天皇制》が、いつしか時代の流れから乖離しつつある。とはいえ、天皇一家がこの現在 の《家族》像に迎合してその形を変えることもできまい。
 《天皇制》が時代の共感を獲得し、次の世紀への延命をはかるには、この隘路を通過しなけれ ばならない。
 超越性にぶらさがることだけが秩序形成の唯一の途と、《国旗・国歌》の強制に血道をあげ ながら、ロックミュージシャンの人気にすがろうとする、足元のふらついた保守には《天皇制》 も市民社会も見えていない。』

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
本質を持たず、変容しながら、《空虚な中心》が支配の軸になりうるとはそういうことだ。  権力の生成の構造も知らず、支配者と被支配者を実体的に想定しても、敵の姿を捕捉するこ とはできない。

 『「非国民」手帖』からこれを選んだ理由はもう皆さん、お分かりでしょう。

 15日夕刊と16日朝刊と続けて、朝日新聞は天皇家の娘の婚約を一面トップで報じた。
 おいおい、一面トップで報じるほどのことかよ。いや、新聞が報じることじゃあるまい。 芸能人のゴシップと同様、そんなことはどうでもよいこと、知りたくもねえや。
 辺野古の過酷な闘いや権力の弾圧に対するさまざまな闘いが日々闘われている。国会では共謀罪という とんでもない弾圧法の審議が行われている。それらには一行の記事も書かないくせに、民衆の味方づら をするな。なんて、いまさら言っても始まらないか。他の新聞よりはいくらかましという理由で 購読しているに過ぎない新聞だから、まあそんなもんだろう。

しばらく、天皇制問題を取り上げた時評を取り上げていく。



95. 『「非国民」手帖』を読む(4)
危険な言説の在り処
 2004年11月17日


俎上の鯉:皇太子妃の懐妊をめぐる報道批判
料理人 :歪
料理記録日:00年4月号

 『いま《危険な言説》はどこにあるのか。わたしたちが批判の対象とすべき、抑圧と統制を 招来する言説。それは、保守派オピニオン雑誌の中に見出せるのか。いや。むしろ誰も異論 をはさまない、至極当たり前の意見こそが、《危険な言説》に転化し得る。  皇太子妃の《ご懐妊》をめぐる騒動は、流産という結末を迎えることで、一転、報道批判 へと集約していった。天皇崇拝者からフェミニストまで。無論その論拠は異なっているが、 妊娠を報じること自体の必要性に対する疑問、とりわけ妊娠による身体的変化までを報じた ことへの怒りでは共通している。  そして皇太子もまた、「医学的な診断が下る前の不確かな段階で報道され、個人のプライバ シーの領域であるはずのこと、事実でないことが大々的に報道されたことは誠に遺憾であり ます」 (2/22記者会見)と主旨を同じくする報道批判を語っている。  もちろん、妊娠をめぐる女性の身体的変化が子細にマス・メディアで報じられるのはグロ テスクな風景である。また、非婚者や子どもをもたないことを選択したひとたち、不妊に悩 むひとたちへの抑圧として機能したことも間違いない。  しかし、メディアにそう語らせてしまうことも含めて、これはまさに《天皇制》の問題と して考察されるべきなのだ。報道姿勢を批判することにとどまってしまえば、問題の淵源に はたどりつけない。 《家》的な思考の下に女性を生殖の手段とし、《性》を国家的な事業として、公的な意味合い を持つものとして位置づけているのは、《天皇制》そのものである。  報道があろうとなかろうと、皇太子妃は常に妊娠をうかがう視線に晒されているのであり、 報道があるとすれば、同じく低次元でしか展開されざるを得ない。。朝日新聞のスクープは《不 敬》ではなく、《翼賛》報道であるのは自明ではないか。グロテスクな風景はいずれまた再現 される。  皇太子妃《ご懐妊》報道批判は、《天皇制》そのものの考察へと射程を広げなければならな い。そうでなければ、あらたな皇室タブーをつけ加えたことでしかない。』
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
 これはまさに《天皇制》の問題と して考察されるべきなのだ。報道姿勢を批判することにとどまってしまえば、問題の淵源に はたどりつけない。

 《家》的な思考の下に女性を生殖の手段とし、《性》を国家的な事業として、公的な意味合い を持つものとして位置づけているのは、《天皇制》そのものである。


石原の「ババア」発言は同根の問題である。《天皇制》はあらゆる低劣な差別思想の根源なのだ。
 石原の発言『“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババア”なんだそうだ。 “女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です”って。』

 昨日、朝日新聞が「辺野古の過酷な闘い」について一行も記事を書かないことを批判した。
 今日の朝刊の社会面にベタ記事でたった十数行の「辺野古」の記事が載った。しかしその内容は 「海底調査のため本格的な掘削を始める」ためのの「海上やぐらの組み立て準備作業」が波が高かったた めに見送られたというだけである。
 現地では「海上やぐらの組み立て準備作業」阻止を海上ヘリ基地建設阻止の正念場として、 さらに決死の闘いが行われている。その闘いについてはまったく触れていない。防衛施設庁提供の 情報をただ垂れ流しているだけなのだ。
 この記者は、どうして激しい反対闘争が起こっているのか、全く考えたこ ともないのだろう。いや反対闘争が行われていることすら知らないのだろう。知っていれば、 あんな垂れ流し記事で済ませることは出来まい。いずれにしてもジャーナリストとしてとんでもない 無知蒙昧な破廉恥漢だ。


「沖縄タイムズ」のホームページより
17日(水)朝刊
・辺野古調査、高波で作業見送り
・辺野古沖、決死の抗議/迫る台船 あわや衝突

(写真説明)作業船にぎりぎりまで接近し、進行を阻止しようとする抗議船=16日午 後2時40分ごろ、名護市・辺野古沖





96. 『「非国民」手帖』を読む(5)
タブーを回避するゴーマニズムの矛盾
 2004年11月18日


俎上の鯉:小林よしのり『ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論』(幻冬舎)
料理人 :鵠
料理記録日:98年9月号

 今更本誌で小林よしのりを批判するまでもなかろうという気もするが、描き下ろしの新刊 の内容は相当に凄まじい。アジアの独立運動を促す「正義」があったとして「大東亜戦争」 を讃え、「八紘一宇」は白人の人種差別と戦う民族平等の思想だと主張し、「南京大虐殺」 や「従軍慰安婦」の強制連行を否定し、祖国のために死ぬ覚悟のない者は政治に参加する 資格がないと断じる、といった調子である。
 矛盾だらけの暴論とはいえ、藤岡信勝や西尾幹二でもさすがにそこまで言い切れていないの だから、それはそれで立派だという見方もあるかもしれない。だが、小林が戦後民主主義の空 気に逆らって自分の意見を主張する勇気ある発言者だと自認するのであれば、これを例えば中 国やアメリカで翻訳して出版すればいい。外国人が読まないことを見越して日本国内だけでゴ ーマンかましているというのでは、彼自身が戦後日本人の特徴として批判する「臆病」以外の 何者でもない。そればかりか、内容においても小林が「臆病」に避けている決定的な部分があ るのだ。
 例えば小林は、敗戦後の日本人が「国民は軍部にだまされていただけ」などと言うのは「決 定する主体たる自分はなかった」と言っているに等しく、責任の回避であり、信念や覚悟の欠 如であると批判する。また、東条英機には多くの犠牲者を出した戦争指導者としての責任があ るとした上で、誇りを失わずに東京裁判で戦い抜いた東条は立派だとも言っている。あるいは 特攻作戦で若者を次々と死地に送った責任をとるために自決した指揮官の「倫理観」を称賛し てもいる。
 これらは一つの考え方であるから、その是非については様々な意見があるとしても、論理的 に考えて決定的な欠如がある。小林の考えからすれば、責任を回避し、誇りを持たず、倫理観 が欠如しているのは、「国民」の誰よりも「天皇」ということになるはずではないか。ところ が小林は一切それに触れていないのだ。もっとも重要なその認識を回避して戦後日本人の批判 をしたところで、何の説得力もない遠吠えでしかない。
        
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
 責任を回避し、誇りを持たず、倫理観 が欠如しているのは、「国民」の誰よりも「天皇」ということになる。
 もっとも重要なその認識を回避して戦後日本人の批判 をしたところで、何の説得力もない遠吠えでしかない。


 『責任を回避し、誇りを持たず、倫理観が欠如している「天皇」』という文に出会え ば、いやでも思い出すことがある。
 1975年、昭和天皇在位50年の年。戦前戦後をのっぺらぼうにして、「昭和」を一色にする ための詐術が盛り沢山に行われた。敗戦直後にGHQの命令で教科書に墨を塗って使ったとい うが、今度は支配者どもが歴史に同じ墨を塗って改竄しようという趣向。
 その一環として天皇・皇后の訪米が行われた。天皇は真っ先に、天皇の延命に力を尽くした GHQ最高司令官マッカーサーの墓を詣でたという。
 10月31日、訪米から帰った天皇が日米記者クラブで初の公式記者会見をした。

記者からの質問:「戦争責任についてどのようにお考えですか」
天皇の答:「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」

 この空とぼけた答えはどうだ。天皇の名において理不尽な死を強いられた2000万強の死者に対する 冒涜ではないか。天皇教信者らにとっては天皇教の本山・靖国に祭られた死者だけしか念頭にないよ うだから、靖国の「英霊」だけに限ってもよい。天皇教信者よ、これでは「英霊」はうかばれまい。 まこと「責任を回避し、誇りを持たず、倫理観が欠如している」ものの見本ではないか。


97. 詩をどうぞ(2)
 2004年11月19日




四海波静    茨木のり子

戦争責任を問われて
その人は言った
  そういう言葉のアヤについて
  文学方面はあまり研究していないので
  お答えできかねます
思わず笑いが込上げて
どす黒い笑い 吐血のように
噴きあげては 止り また噴きあげる

三才の童子だって笑い出すだろう
文学研究果さねば あばばばばとも言えないとしたら
四つの島
(えら)ぎに(えら)ぎて どよもすか
三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア

野ざらしのどくろさえ
かた かた かた と笑ったのに
笑殺どころか
頼朝級の野次ひとつ飛ばず
どこへ行ったか散じたか落首狂歌のスピリット
四海波静かにて
黙々の薄気味わるい群聚と
後白河以来の帝王学
無音のままに貼りついて
ことしも耳すます除夜の鐘
   (「ユリイカ・現代詩の実験」1975年12月臨時増刊号より)

 茨木のり子さんが政治的な問題を素材にして、それをストレートに詩にするのは珍しい。 茨木さんの憤怒のほどが窺える。
 ちなみに、茨木さんは先日亡くなられた川崎洋さんと同人誌「櫂」を1953年に創刊し、現代詩の 隆盛の一時期を担っている。

 ところで、この詩を読むといつも「頼朝級の野次ひとつ飛ばず」の一行で頭が傾いでしまう。 「頼朝級の野次」ってなんだろう?
 分からないのは私だけかもしれない。ともあれ気になるので、今回はいろいろ調べて一応私なりの解釈を してみた。
 結論。次の歴史的逸話を下敷きにした一行ではないか。

 後白河法皇が義経に頼朝追討の宣旨を下したことを知った頼朝は激怒し、大軍を上洛させると後 白河法皇を脅した。後白河法皇は頼朝に、本意ではなく天魔のせいだと弁明した。この弁明に対して 頼朝は「あなたこそ日本一の大天狗だ。他に天魔は居らんぞ」と怒りの返書を叩きつけたという。

 どうだろうか。もし違っていたら、ご教示を。


98. 詩をどうぞ(3)
 2004年11月20日



 茨木のり子さんは私が好きな詩人のお一人なので、紹介したい詩がたくさんある。 しかし「詩をどうぞ」では、このホームページのテーマと共通部分があるかどうかを 基準に詩を選んでいる。そういう基準で選んだ茨木のり子さんの詩をもう一つ紹介したい。 比較的新しい詩集「倚りかからず」(筑摩書房)より。


(ひな)ぶりの唄    茨木のり子

それぞれの土から
陽炎(かげろう)のように
ふっと匂い立った旋律がある
愛されてひとびとに
永くうたいつがれてきた民謡がある
なぜ国歌など
ものものしくうたう必要がありましょう
おおかたは侵略の血でよごれ
腹黒の過去を隠しもちながら
口を拭って起立して
直立不動でうたわなければならないか
聞かなければならないか
   私は立たない 坐っています

演奏なくてはさみしい時は
民謡こそがふさわしい
さくらさくら
草競馬
アビニョンの橋で
ヴォルガの舟唄
アリラン峠
ブンガワンソロ
それぞれの山や河が薫りたち
野に風は渡ってゆくでしょう
それならいっしょにハモります
 
   ちょいと出ました三角野郎が〜
八木節もいいな
やけのやんぱち 鄙ぶりの唄
われらのリズムにぴったしで


今日の夕刊(朝日新聞)の文化欄に「行動するリベラルを貫いて」という表題で 経済学者・宇沢弘文氏のインタビュー記事があった。その中に、現今の新聞紙面ではめったにお目にかかれない 歯切れのよい一節があった。
 でもいま、経済学は社会を悪くしてるよね。何の志もない小泉「改革」を持ち上げて、腐敗しきってい る。ブッシュを再選させたアメリカは建国以来、最悪の時代だけど、反対運動も反戦運動も起きない日本 は、もっとひどい。イデオロギー対立の時代が終わった今こそ、多くの人が共有できる価値を作り出す必要 がある。

 ただ、最後のくだりには疑義がある。
 「イデオロギー対立の時代が終わった」ということがよく言われる。しかし私は「ロシア・マル クス主義」の思想が、その誤謬を理論的にも現実的にも露わにして破産しただけのように思える。その 理論的誤謬は真摯でラジカルなマルクス学者や評論家などによってつとに指摘されていたことである。 それを現実が追確認したということに過ぎない。(その誤謬のためにどれだけ多くの人が虐殺されたこ とか!怠慢で無能な知識人は直接手を下さなくとも、大変な殺戮をやっていることになる。恥を知れ!)
 勿論「イデオロギー」という言葉で何を指すのかで認識が異なってくる。支配階級の「人間抑圧の 思想」と被支配階級の「人間開放の思想」をそれぞれ「イデオロギー」と呼ぶなら、いまは支配者のイデオロギー が一方的な暴力を振るっているが、その対立は断じて終わってはいない。 「イデオロギー対立の時代が終わった」というようなもの言いはその事実を隠蔽することになる。
 もしそうだとするなら、いま最も必要なのは、人類が陥ってしまった「支配ー被支配」という陥穽から 人類を解放するための万人に共通の「倫理」ではないのか。


99. 『「非国民」手帖』を読む(6)
 天皇退位論を隠蔽する戦後史の詐術
2004年11月21日




俎上の鯉:『20世紀かく語りき』(産経新聞取材班著、扶桑社発売)
料理人 :鵠
料理記録日:01年1月号

   内閣不信任案が否決されたその日に森首相が新社屋のお祝いに駆けつけるほど、保守の政 治家たちから「評価」されているらしい産経新聞が、ここ数年、歴史を新たに 「発掘」 し、 「見直す」 ことに熱心なのは周知のとおりだ。『戦後史開封』『教科書が教えない歴史』『親と 子の日本史』『国民の歴史』等に続いて刊行された『20世紀かく語りき』(産経新聞取材班著、 扶桑社発売)も、新聞紙上に連載された「歴史物」の一つ。「鉄は国家なり」「欲しがりません、勝 つまでは」 「もはや戦後ではない」等々、人口に膾炙した流行語や「名言」 の背景を探ること で、今世紀の事象を読み取ろうというものである。
 岸信介の再評価を促し、国交回復以来の対中外交に批判的な見方を示すなど、「産経らしさ」 は随所に窺われるとはいえ、「トンデモ教科書」 や『国民の歴史』 に比べれば、本書はニュー トラルな立場を慎重に維持しているように見える。しかし、それでもやはり稚拙な歪曲を露 呈してしまう部分こそ、天皇をめぐる記述にほかならない。例えば、昭和天皇が 「先の大戦 突入の際、最後の最後まで戦争を避ける道はないかと心を砕かれた」などというのは、すで に多くの実証的研究によって、戦争の遂行に天皇が大きく関与していたことが明らかになっ た今では、そうであってほしいという「願望」 の表明でしかない。そして実際、そう思い込 まなければ戦後保守派の論理は根本的に破綻してしまうのだ。つまり、昭和天皇が戦争責任 を回避したことの倫理性を問わずして、「国民の道徳」を説こうとするのは明らかに矛盾だか らである。
 そこでまた歴史から隠蔽されているのは、天皇の戦争責任が、少なくともサンフランシス コ平和条約締結の頃までは、保守の側からも問題にされており、例えば中曾根康弘らによっ て、天皇退位諭が公然と主張されていたという事実でもある。それを知らないはずのない西 部邁から、小林よしのりに至るまで、保守派の論客たちが批判する「戦後民主主義の欺瞞」 は、侵略戦争の指導者が 「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という「名言」 へと還元され てしまう歴史記述の詐術にこそ表れている言うべきだろう。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
 歴史から隠蔽されているのは、天皇の戦争責任が、少なくともサンフランシス コ平和条約締結の頃までは、保守の側からも問題にされており、例えば中曾根康弘らによっ て、天皇退位諭が公然と主張されていたという事実でもある。

 敗戦直後は保守側の連中もヒロヒトの戦争責任をはっきりと認識していたということだ。
 ところで、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍」んで何を残したのか。言わずと知れた「国体」だ。
 敗戦処理が曖昧に行われたため、いやほとんど行われなかったため、生き残った 大日本帝国の亡者どもが、いま魑魅魍魎のごとく湧き出している。そして 「伝統的精神文化」を僭称して、またぞろ死臭紛々の支配理念や支配規範やらを担ぎ出している。
 加速する日本崩壊の根源を辿るとき、その原点にくっきり見えてくるのが、……日の丸や君が 代に象徴される理念や規範など、伝統的な精神文化の崩壊ではないか(田代京子「日の丸のこ と、君が代のこと」)
 「日の丸や君が代に象徴される理念や規範」が「伝統的な精神文化」とは笑わせる。「伝統 的精神文化」を語るのなら、縄文時代までさかのぼれ。


100. 心優しきロッカーたち
2004年11月22日



 「anti-hkm」メールで

反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉ANTI-WAR AND RESISTANCE FESTA

11/20(土)13:00―17:00
パネルディスカッション+デモ

11/21(日)17:30―
「黒色エレジー梅島騒擾2004」

というイベントの案内メールを受け取った。
 本当は20日の方のイベントに参加したかったのだが、時間が取れなたった。
 21日は予定がなかったので20日の代わりということで行ってみることにした。 イベントの名称の過激性に好奇心を引かれたこともある。

 私には違いが分からないが、「Punk」とか「HardCore」とか「Mixture」とか「HeavyRock」とか のライブだった。私のようなオジサンには場違いなようだが、けっこう楽しんできた。

 参加者は50〜60名ぐらい。もちろんのこと、ほとんど若者。ごく普通のいでたちの者の方が 多かったが、茶髪、モヒカン、ピアス、いろいろな凝った異装の者もいて、なかなかにぎやかである。 年配者もチラホラ。

 参加者はほとんどが立ちんぼで、所狭しとひしめいていた。すみのカウンターに4脚椅子があった。 私はその一つを獲得、バーボンのオンザロックを楽しみながら参加した。

 音響はこれ以上大きな音はあるまいと思われるほどで、ポケットに入れたものにそっと触れると それが振動していた。私はとても耐えられず、ティッシュで耳栓を作って防戦した。それでもかなり大 きな音だったが、一応耐えられるぐらいにはなった。

 歌っている言葉は、私には楽器の音のひとつでしかなく、全く聞き取れない。しかし、曲と曲の 間のコメントによるとそれぞれ、イラク派兵、日の丸君が代の強制、天皇制などへの異議申し立てや レジスタンスを訴えていたり、コイズミやイシハラへの批判・非難もあり、 それらをテーマに作曲されているようだ。反権力・反権威の姿勢が貫かれている。
 攻撃的なライブにかかわらず、時折見せる恥ずかしげな素振りや照れた笑顔にその 心根の優しさが窺えた。

 立ちんぼの人たちは全身でその激しいリズムにのっている。身体で連帯と共感を表現しているのだと 納得した。私たちとは表現する方法は違っているが、そして過激でちょっぴり粗暴ではあるが、 まさしく同じ方向を目指して闘う仲間だと認識した。

 狭い空間でがなりたてているだけでは、単なる仲間うちの憂さ晴らしに過ぎない。しかし、 各バンドとも、デモに参加したり、孤立無援で闘っている人を支援したり、署名運動をしたり、 新潟中越地震の「benefit gig」なども行っているようだ。12月5日には「出てこい小泉」とい う首相仮公邸をターゲットにしたデモを企画しているという。
頼もしい若者たちではないか。