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591 唯物論哲学 対 観念論哲学(13)
夢・妄想・信仰
2006年8月28日(月)


 「観念的な自己分裂=もう一人の自分」という事実を正しく認識した 人には芸術と宗教、あるいは科学と宗教の違いは明確に把握することが できる。

 健康な人びとの夢の世界も精神病者の妄想の世界も無意識的に創造されるという 点で同じ種類の観念の世界です。これに対して芸術は、芸術家の意識的・計 画的に創造された夢(フィクション)の世界です。その創造の条件がちがってい るので当然別扱いしなければいけないが、観念の世界であることにおいては変 りはない。

 健康な人間は、無意識的に観念的な自分として夢あるいはフィクションの 世界に入りこみ、目覚めればまた現実の自分に戻ってくる。夢は夢と自覚し ている。あるいはフィクションはフィクションと自覚している。

 しかし、現実の世界と観念の世界が、現実的な自分と観念的な自分とが 分裂したまま二重化してしまい、観念的な転倒が行われることがある。実際に は目が覚めているのに現実の自分としての意識をとりもどせないで観念の世 界の自分のまま、つまり意識は眠ったままで目覚めないでいる。このときの 二重化された観念の世界を妄想という。

 健康を害して目を覚ますことができないのは精神病者です。新興宗教の 教祖は神がかり状態になって無意識的に夢の中で体験したことをそのまま現 実の世界のあり方と思い込んでいる。

 健康には異常がなくても目を覚ますことのできない者もいる。
 神や天使や悪魔やらが現実の世界のどこかに存在していると思いこむのは、 現実の世界と夢(想像)の世界とを二重化し、自分をも現実的な自分と観念 的な自分と二重化しているわけです。夢の世界での存在を現実の世界の存在 だと信じているのだから、自分の二重化も自覚できていない。夢の中で体験 したことをもとにした教義を説く教祖を信じて信仰に目覚め た(ヽヽヽヽ)信者は、現実的な自分が信仰に目 覚めて(ヽヽヽヽ)神をおがんでいるのだと思っている。 これも観念的な転倒で、精神病者の教祖にならって意識的に精神病の状態に なっているわけです。無意識的と意識的との違いはあっても、教祖(精神病者) とその宗教の信者とは精神構造が共通していることになる。

 教祖の妄想(夢)の世界に入るのを 目覚める(ヽヽヽヽ)と言うのは、宗教のさか立ち 的な性格をあらわしている絶妙な表現ですね。





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592 唯物論哲学 対 観念論哲学(14)
宗教論と言語論(1)
2006年8月29日(火)


(今回からのお手本はB「宗教論と言語論とのむすびつき」です。)

 宗教と言語との客観的なむすびつきは大きく分けて二つある。
(1)宗教に対する言語からのむすびつき。

 宗教的な幻想がつくり出す神とか悪魔とかいう超現実的な存在にして も、それらを現実的な存在と同じように客観的な対象として扱うから には、それぞれ命名することが必要である。そしてそれら超現実的な 存在は人間と交渉し合う存在であるから、人間とのコミュニケーショ ンに際してはやはり人間相互の場合と同じように言語を用いることに なる。呪文をとなえたり祝詞や願文を述べたりして人間から働きかけ ると、先方からはそれなりの「お告げ」があることになっている。

(2)言語に対する宗教的な解釈
 人間の創造した言語表現が自然物や他の人間の創作物と同じように 「物神」として扱われ、いわば言語についての神話ないし神学が成立する というむすびつきである。宗教を信ずる学者にとっては、「はじめにこと ばがあった」というような、宗教的言語観を拒否するわけにはいかない。


(1)について
 映画という空想の世界に登場する「ゴジラ」とよばれる怪獣は現実の 世界のゴリラとクジラとから空想的に合成された。このように、空想上の 生物や物体は必ずその素材を現実の世界から得ている。神の姿は人間に 似せて創られる。天使も人間と鳥のつばさとから空想的に合成されたも のでしかない。映画の世界も宗教の世界も同じです。

 私たちは「ゴジラ」が登場する映画を空想の産物と承知して楽しむ。宗教 を信じる人たちは宗教の神々を実在するものと信じてあがめうやまう。観念 的な転倒が行われているだけで、映画の世界も宗教の世界も同じです。

 どちらも空想の産物ですが、その空想の世界の中に身をおく限り現実の 世界と同じように客観的な存在として扱わなければならない。従って、現実の 世界の事物に命名するのと同じようにそれらにも命名しなければならない。 この点でも映画の世界と宗教の世界は同じです。

 したがって、神々の誕生した古代においては、それらの名称に現実の世界の 事物の名称が転用されたとしても、別に不思議ではない。たとえば、いまでは 七福神の一つとされ、「大黒」とならんで扱われている「えびす」の語源をた どってみると、女性の性器の名称であって、古代の性器崇拝から神の名称に転 用されたものと推論することができる。

 命名するということは、新しい言語規範を設定するということにほかならな いし、宗教をめぐるさまざまな語彙の成立とその歴史的な変遷も、言語規範の 問題として扱われなければならない。

 「かみなり」というのは「神鳴」すなわち雷鳴に対する神話的解釈によって 成立した語彙である。けれどもわれわれが「かみなり」というときには、もは や「神」の意識など存在してはいない。これは、「白墨」や「ワイシャツ」と か「薩摩芋」とかいう語彙が、はじめ「白」や「ホワイト」や「薩摩」などの 色彩や土地の意識を伴っていたのに、やがてそれらの意識が脱落して、筆記用 具や洋服を着るときのシャツや芋の一種の意識に変ってしまい、そこから 「赤い白墨」とか「縞のワイシャツ」とか「おさつ」とかいうようになったの と、似ている。

 かつては自然現象に宗教的幻想の産物を附け加えて「かみなり」とよんで いたのが、自然現象をありのままに受けとるようになり宗教的な意識が脱落し たのちにも、その言語規範の音声表象や文字表象は変ることなしにそのまま 維持されている。このように対象が変化し概念の内容が異っているからこそ、 「かみなり」を「雷」とも記して科学の術語として使っているのである。昔 も今も、「かみなり」の語を用いているという事実から、神話と自然科学を 混同することは許されない。

 宗教的幻想の消滅とそれによる概念の内容の変化という、言語の過程的構 造の変化を無視して、形式主義的に「かみ」の部分を解釈し、神話と自然科 学との連続性を主張するようなふみはずしをしてはならないのである。





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594 唯物論哲学 対 観念論哲学(16)
宗教論と言語論(3)
2006年9月1日(金)


 科学的な唯物論にもとづいた言語論に対して観念論にもとづいた言語論では 概念を対象の反映と理解することを拒否している。しかし、人間が概念を持つ という事実は否定しない。では概念が現実の世界の反映として成立することを 認めないならば、一体概念はどこから生まれてくるのか。何か別の説明を必 要となるが、観念論ではどう説明するのだろうか。

 人間が生れつき持っている能力の発動によって頭の中に出現してくるのだと か、宇宙のどこかに存在する概念が何らかの経過をとって人間の頭の中にしの びこんでくるのだとか、このような見解になるほかない。

 例えばカント主義者のカッシラー『言語と神話』より。

「ものを心に描いてみる機能つまり概念的な開化の夜明けというものは、現実 的にはけっして事物そのものからは引き出されるものではないし、またその客 観的内容上の性質を通して理解されうるものでもない。」

 「……知的形式の内容、意味およびその真実性を、そのなかに再現されると 想定される、その本質とは無関係なものによって評価するのでなくて、われわ れはそうした形式そのもののなかに、その真実性と内在的意味とについての評 価と規準とを見出さなければならないのだ。われわれはそうした形式を、なに か別のものの単なる模写と考えるののでなくて、そうした精神的形式のひとつ ひとつのなかに自発的な発生法則を見てとらなければならない。つまり最初は 実在的なものの固定的なカテゴリーのなかに与えられたものの単なる記録とい ったもの以上の、独創的方法と傾向とをもった表現形式をみてとらなければな らない。この観点からみれば、神話と芸術と言語および科学とは、シンボルに なってくる。しかもそれは、暗示および比愉的な表現手段によって、ある与え られた現実に関連するたんなる表象としての意味ではなく、そのひとつひとつ が固有の世界を形成し位置づける精神的なちからという意味においてである。 これら一連の領域において人間の精神は、いかなる『現実』もいかなる有機的 で明確な存在もまさにそれによってのみ存在しているあの内的に決定されてゆ く弁証法のなかに、はっきりと自らを提示しているのだ。したがってこの特殊 の象徴形式は、現実の模倣ではなくて、その器官なのだ。なぜなら、いかなる 現実的なものも知的理解の対象となり、われわれにとってはっきり目に見える ようなものになるのは、まさにそうした形式のちからによる以外にはないから である。どのような現実がこのような形式から分離しており、またその固有の 属性がどんなものであるかという問題は、いまここでは関係のない議論である。 人間の精神にとって、はっきりした形式をもっているもののみが目に見えるも のであるが、実在のあらゆる形式の根元は、その独特のものの観方、ある知的 な公式化と意味の直観に根ざしている。」

 現にカッシラーにしても、人間の精神活動のありかたについてはカントの解 釈に依存しながら、彼のいうところの「象徴形式」それ自体を世界の創造者だ と解釈するところに進んだのであった。

 神話の世界が「精神的なちから」によって形成されたということは、「キン グコング」や「ゴジラ」の活躍する世界が映画脚本家の「精神的なちから」に よって形成されたのと同じように、よろこんで承或しよう。しかしわれわれ は、ここから現実にアフリカに生きている「ゴリラ」や南氷洋で泳いでいる 「クジラ」などを、同じように誰かの「精神的なちから」によって形成された とは考えない。

 神話もルポルタージュも科学も同じように言語で表現されるという、表現形 式の共通性から、これらをすべて同じような性質の世界を扱っているものと解 釈し、「実在のあらゆる形式の根元」を「精神的形式」の中の「発生法則」か らひき出そうとするところに、カツシラーの特徴がある。「どの象徴形式も、 最初から分離し独立して認められるような形式として生じるのではなく、その ひとつひとつが最初が神話という共通の母体から発生しているにちがいないの だ」と、形式上の連続性からすべてをいっしょくたにし、共通した「本質的に その進化に関係を持っている一つの法則」の存在をでっちあげるところに、カ ッシラーの形式主義の特徴がある。


 宗教と哲学を調和させたり、神話と科学をいっしょくたに扱ったりするのは、 観念論に共通した発想です。
 観念論の言語論はカッシラーにみられるような形式主義的な発想ばかりでは ない。神話も科学も人間の頭脳の機能を媒介として成立し、これらは一つの世 界として扱われ役立てられる機能を持っているが、この機能における共通点か ら本質的に共通した存在と見る発想もある。それは機能を本質と混同する機能 主義です。

 さらに、言語それ自体に、「固有の世界を形成し位置づける精神的なちか ら」が存在するものと考えるならば、それは日本でも古代からとなえられて 来た言霊(ことだま)説と本質的に同一の発想である。すなわち言語の物神 化である。

 宗教が神をつくり出すときは、それに命名することを必要とするけれども、 この神の概念を表現する言語もこれまた物神化されてしまって、この言語表 現には神と同じような能力があるかのように解釈されたのである。日本でも、 いまもって、神の名を記した紙切れを持っていれば、身を保護し災厄を防ぐ ことができるという、「おまもりふだ」がつくられている。この「おまもり ふだ」は神聖なもので、粗末に扱ったり汚したりすれば罰を受けるといわ れて来た。

 忌詞(いみことば)といわれるものは、不吉なことを口にするならばその 言語の霊力によってそれが実現するという、言霊説にもとづいて忌避されそ れに代えて用いられた表現である。これもいまもって水商売に従事する人び との一部に信じられていて、「すりばち」と表現すると「する」すなわち損 失をまねくことになるから、反対に「当る」すなわち利益をもたらす意味の 「当りばち」と表現する。結婚の式場では、「帰る」といわないで「お開 き」というのも同じである。しかしながら、一般の人びとはもはや言語の霊 力に対する信仰を持たなくなっていて、忌詞も合理的に扱われている。結婚 式では「帰る」のような不吉なことばを口にすると、関係者たちが不吉なこ とを連想して不愉快になるから、そうした失礼のないようにエチケットとし て口にすることを避けようという発想に変っている。

 神話も芸術も科学も言語も、その創造に共通しているのは何かといえば、 それは人間の能動的な精神活動である。これらの解明にはこの精神活動の解 明が不可欠である。われわれが現実の世界について、知るだけでなく理解し ようと欲するならば、能動的な精神活動をしなければならないし、そこから 神話や芸術や科学や言語を創造する能力も育てられるのであって、生れつき の能力ではない。

 毎朝東から大陽が昇って夕方西に沈んでいくことは、誰でも知っているが、 それが毎日別のものが昇ってくるのかそれとも同じものが昇ってくるのか、 同じものだとするならどのようにして西から東へ移動していくのか、これら を理解するには直接目に見えない太陽系のありかたを頭の中に能動的に描きあ げる必要がある。そして太陽をわれわれに光と熱を与えてくれる神の化身だと か、神が動かしているのだと解釈するなら、そこに神話が誕生してくる。

 雨が降ったり晴天になったりすることは、誰でも知っているが、晴天だったのが 空が曇ってそれから雨が降りだしてくるのはどうしてかを理解するには、や はり直接見ることのできない雨のしずくの成長過程を頭の中に能動的に描き あげる必要がある。雲の上に神が存在して、その活動で雨が降ったり止んだ りするのだと解釈するならば、晴天が続いて農作物が枯れかかっているの で何としても雨が欲しいという場合にも、神に雨を降らせてくれるよう祈 願することになる。

 何かわからない原因で疫病が流行し、多くの人びとが死ぬようなときにも、 なぜそんなことが起るのかその原因を頭の中に能動的に描きあげ、それが悪 魔のしわざだと解釈するならば、その悪魔を追払って疫病の原因を除いてく れるように神に祈祷することにもなろう。

 人間は生活の実践の必要から、現実の世界をひろく深く理解するための能 動的な精神活動を行わなければならないし、そこから宗教的幻想を正しい認識 と思いこむことも起れば、科学的理論をつくりあげることもできるわけであっ て、現実の世界に対する人間の認識の関係、その客観的な矛盾の発展のなかで 能動的な精神活動の所産をとりあげることが求められている。

 それにもかかわらず俗流唯物論の模写説すなわち俗流反映論は、この能動的 な精神活動を正しく説明できなかったことから、カント主義すなわちアプリオ リに能動的な精神活動の所産を解釈する哲学がそれに代ってもてはやされるこ とにもなった。





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593 唯物論哲学 対 観念論哲学(15)
宗教論と言語論(2)
2006年8月30日(水)


(2)「言語に対する宗教的な解釈」について
 科学的な唯物論では「はじめにことばがあった」というような宗教的言 語観は否定される。言語は人間がコミュニケーションの必要からつくり出 したものであって、人間以外の何ものかによってつくり出され与えられたもの ではない。

 言語によって直接に示されているのは認識であり、概念とよばれる。 この概念の成立をどう理解するかは、どんな世界観ないし認識観をとるかに よって大きく異なる。それが言語論の質を決定することになる。

 科学的な唯物論では概念を対象の反映と理解する。すなわち、個別的な対象はそれなりに特殊性を持っていて、ある一匹の動物は色も大き さもすがたかたちも他の動物とちがっているが、それらの特殊性を捨象して種 類という普遍性でとらえて「いぬ」とか「ねこ」などとか呼んでいる。

 唯名論とよばれる主張がある。現実の世界に普遍性が実在することを否定 し、普遍概念は一般的な記号(名前)として存在するにすぎないとう。この 種の主張は中世からあり、自然科学がとっくの昔にその種の発想を無効に している。しかしそれを自覚できないで、いまだに唯名論によって言語論を 語る言語学者があとをたたない。(たとえば鈴木孝夫著『ことばと文化』 岩波新書)

 この概念の形成過程に対応して、ある事柄を概念としてとりあげると きには「この種類の音声なり文字なりを使うべし」という普遍的な規定が 与えられることになる。これが言語規範(もちろん文法的な規範も含む。) です。現実に存在しようと、地獄に存在しようと、同じく「火」と表現する。

 概念はその対象が感性的な特殊性を持っていてもその特殊性についての 認識は捨象している。また、概念には人間関係とか所有関係とか感性的なも のを持たないものをとらえた場合もある。いずれにしても概念は超感性的です。 だからどの概念もそれを他と直接区別する目じるしはない。けれども、対象の 事物の種類がちがうなら音声・文字の種類もちがえるように規範が規定してい るから、規範の音声・文字の表象を借りて来てそれぞれの概念にむすびつける。 音声・文字は概念を感性的に区別するためのいわばレッテルの役目を果してい る。

 たとえば、未来の事物のあり方を想像するときには、その事物のあり方 から受けとったものとしていろいろな概念を設定しなければならないが、これ に音声・文字の表象をむすびつけて設定していけば、現実の世界の事物から 抽象して来たときと同じように概念を運用することができ、自主的に思惟す ることができる。

 ここで思い出したことがある。吉本さんの「心的現象論序説」の中に 「<言語>の<概念>構成へとむかう自己表現に心的な障害があるためにおこ る」と考えられる「概念運用」に障害をきたした例があげられていた。どう いうわけか、強く印象に残っている。目下のテーマとは直接関係ないが、 調べてみた。次のようです。いずれも、太田幸雄・岡田幸夫著『精神医学シノ プシス』からの引用です。

@ 観念が奔逸してしまう例
 入院ですか、それは私の弟が私のことを病気だ病気だといいましてね。弟は それはひどい人間なんです。小さい時にはよく山へ連れていってやりましたの にね。あの山には桜が綺麗に咲いていて、桜はいいですね、花は桜木人は武士 なんて、武士といっても今は兵隊もからっきし駄目になってしまいましたね。 アメリカから偉い大将がやってきて、あの何といいましたつけ、そうそうマッ カーサー、マッカーサー。マッカーサーや松かさやときますね。松かさといえ ば私0は昔松葉酒をのみましたよ。……

A 思考滅裂の例
 山羊は愛すべき動物ですが、本来の動物としての野性が鼠や犬にも存在する 程存在しない。病院の山羊は実験用の動物でむしろ人間と近いが私には近親感 がない。野性は人間にもあるが、私と山羊とは類似性があり、それは近親感で はない……

B 迂遠な思考の例
 この道をずつといって最初の横町を右へ曲るのですが、その角の家はそば屋 で、その向側は文房具屋ですからすぐわかります。もし左の方へ曲ると原にな ってしまって家がありませんから、戻って右の方へ行かなければなりません。 曲らずにまっすぐ行くと、もつとにぎやかになって、……(省略)ここまで来 ては行き過ぎですから、もどってさつきのそば屋のところを曲って、その隣り があんまさんで、格子のある二階家で、揉療法という札がかかっています。 ……

 これらの例は規範としての言語についての障害ではないので、文の意味はた どることができる。吉本さんは「規範としての言語の障害は外化されないで潜 在している」と考えている。しかし、目下のテーマから外れるので深入りしない。

 今すぐには例を挙げられないが、ある種の宗教家にこれらの例と似たような 言説がみられる。また、問題をはぐらかしたり、詭弁で言い逃れをするときの 政治家の言説にも似たものがみられる。もちろんこの場合は心的な障害がある ためではなく、相手を煙にまこうとする意図的作為的な概念運用障害です。 あるいは心的障害をもった政治家という例もあるかもしれませんね。

 三浦さんの文に戻ります。

 実在する動物も空想の世界の動物も同じように「うさぎ」「かめ」とよば れ、現実に食卓にあるものも童話で白雪姫が食べさせられるものも同じよう に「りんご」とよばれるように、実在の世界も空想の世界も区別することな く同じ種類の事物は同じく概念でとりあげられ同じ種頬の音声で表現されるの であるから、レッテルのついた概念の運用も実在の世界と空想の世界の垣根を 超えて自由に往来しながら行われ、科学の理論も芸術の世界も創造されるので ある。

 これを逆立ちさせて、童話の「りんご」も科学の「りんご」も形式として同 じだから、童話の空想の世界も科学の現実の世界も異ったものではなく同じ性 質のものなのだと解訳してはならない。





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595 唯物論哲学 対 観念論哲学(17)
観念論哲学と宗教の共通性
2006年9月2日(土)


俗流唯物論の認識論がカント主義の認識論にとって代わられた後、ヘーゲルが カントの認識論を鋭く批判しる。

 『大論理学』は、概念について次のように述べている。

「むしろ抽象する思惟は、単なる現象としての感性的素材を本質的なものに 止揚し還元するものであり、本質的なものは概念のうちでのみ自己を顕現す るのである。」

 ヘーゲルは観念論者だけれども、この論述はむしろ唯物論の認識論に近い。 ヘーゲルはさらに「判断における繋辞の本性」について、「主語について、 個別的なものは同様にまた個別的なものではなくて普遍的なものであると陳述 する」と述べている。三浦さんはヘーゲルのこの論述を次のように解説して いる。

 たとえば、「富士は山である」というときに、「富士」とよばれるのはそれ 自体個別的な存在であると同時に個別的ではなく普遍的な「山」とよばれる種 類の存在の一つでもあるということを、「である」という判断において表現し ているのである。

 言語はこのように、対象の事物の構造についての概念と判断を示すもので あって、言語が現実の世界を形成し言語が現象の性質をつくり出しているの ではない。ヘーゲルはさすがに唯名論的な発想にふみはずした現代の言語学 者のようなオッチョコチョイとちがって、さまざまな分野でその偉大な思想 家であることを示していた。


 18世紀の俗流唯物論の立場からする宗教批判はいわば「神などを認めるのは ナンセソスだ」というような宗教否認であった。これは結論としては正当で あっても宗教の形成される過程をなんら明かにすることがなく、真の宗教批判 とはなり得なかった。

 宗教的な精神活動のさまざまなあらわれを理論的に克服する論考は19世紀 の唯物論哲学者フォイエルバッハによってなされた。フォイエルバッハの宗教 批判は、宗教を形成する人間の能動的な精神活動に立入って検討している。 宗教批判は新しい段階へと進展した。

 フォイエルバッハは、思惟、表象、想像の中にのみ存在するものを 観念的に分離し対象化して、思惟、表象、想像の外に存在するものとして扱 うことができるという人間の能動的な精神活動すなわち自己疎外の過程を 解明した。

 彼(フォイエルバッハ)は『キリスト教の本質』と『哲学的改革のための 予備的テーゼ』において、神の木質を明かにするとともに神学とヘーゲル哲 学の共通性を指摘するのである。

「人間は自己の本質を対象化し、そしてつぎにふたたび自己を、このように 主体や人格へと転化され対象化された本質の対象とする。これが宗教の秘密 である。」

「神とは人間のもっとも主体的でもっとも固有の本質が分離され抽出された ものである。したがって人間は自分自身からは行為しえない。したがって、 すべての善は神から来る。神が主体的・人間的であればあるほど、人間はそ れだけますます多く自分の主体性と人間性とを外化する。なぜならば、神 そのものは人間の自己が疎外されたものだからである。」

「神学における本質は、超越的な、人間の外部に定立された人間の本質であ る。ヘーゲル論理学の本質は、超越的な、人間の外部に定立された人間の思 惟である。」

 フォイエルバッハはこのように、唯物論の立場に立って人間の能動的な精神 活動をとりあげ、神学およびヘーゲル哲学の論理構造を解明したのであるか ら、精神のちからによって現実の世界が形成されたとする観念論者に対して も、それならば無から世界が創造されたことになると嘲笑する。

「なぜなら、精神は無より以外のどこから物質的、物体的素材をとってくるの か?」

というわけである。そして、

「事物はそれが存在するから思惟されるのではなくて、思惟されるから存在す るのだと主張することを恥としないならば、……事物が存在するから言語があ るのではなくて、事物は言語のゆえにのみ存在するのだと主張することをも恥 としてはならない。」(『宗教の本質に関する講義』)

と観念論者の言語論をも嘲笑する。


 フォイエルバッハをうけてさらにマルクスは、宗教の批判を「一切の批判の 第一の条件」であるとした。

 現実の社会、現実の国家は、逆立ちした世界であるために、逆立ちした世界 意識である宗教はその道徳的承認でありその補完物として、維持され再生産さ れている。宗教の批判は現実の世界の批判・変革につながる。

「キリスト教は、ユダヤ教の崇高な思想であり、ユダヤ教はキリスト教の卑俗 な適用である。しかし、この適用が一般的なものとなることができたのは、た だ、キリスト教が完成した宗教として、自分自身および自然からの人間の自己 疎外を理論的に完成してしまってからのことであった。そうなってはじめて、 ユダヤ教は一般的支配の地位に達し、そして外化された人間と外化された自然 とを、譲渡しうる・売却しうる・商品、利己的な欲求に屈従し・きたない商売 の食いものになる・商品にすることができたのである。」(『ユダヤ人問題に ついて』)

 宗教と同じ観念的な自己疎外が法律その他のイデオロギーにおいて、さらに は現実的な自己疎外が経済生活において存在している。宗教の論理はこれらに 通じる。

「宗教の批判は、したがって、宗教を後光とするこの苦界の批判をはらんでい る。……宗教の批判は、人間の迷いをさまさせるが、それは、人間が目覚め た・正気にもどった・人間として、思惟し、行動し、自己の現実を形成する ためである。」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)

 われわれが言語をめぐって論争している学者に向って、「一切の批判の第一 の条件」は宗教の批判なのだがあなたには宗教を正しく批判する能力がある か、と質問したなら、おそらくけげんな顔をされることであろう。マルクス 主義者と名のっている学者にしても、おそらく同じであろう。けれども多くの マルクス主義者が、言語についての科学的な理論をつくり出すことのできな かった重要な原因の一つは、ここにあったのである。

 宗教の幻想と芸術言語の幻想とが、法律とよばれる規範と言語における規 範とが、人間を支配し疎外をおしすすめているか人間の支配下にあるかのち がいはあっても、同じく能動的な精神活動の所産でありそれなりに共通した 構造を持っていることを予想して、フォイエルバッハからマルクスへの理論 の発展を理解しながら、それをふまえて解明をすすめようとはしなかったの である。





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596 唯物論哲学 対 観念論哲学(18)
宗教的自己疎外
2006年9月3日(日)


 宗教的自己疎外についての詳しい論述を読んでみたい。

(ということで、今回のお手本は『認識と言語の理論第一部・第2章 7「宗教的自己疎外」』です。)

 まず、人類が創り出してきた神々を概観して、自己疎外と言う言葉の理解を 深めておきたい。

 人類がまだ原始的な生活をいとなんでいた頃、自然についての認識には多く の空想が入りこんでいた。そのために太陽・月・火・風・雨などの自然 の事物にはそれぞれをつかさどる神がいると考えた。そして火山・雪崩・洪 水・落雷などの自然力の作用も、超自然的な存在である神の怒りのあらわれで あり、神の意志によって起ったのだと神秘的に解釈された。人間の外部 から人間の生活に影響を及ぼしてくるさまざまな自然の存在を認めながらも、 それらを人間のありかたに擬して、それらの活動を人格化して解釈した。

 生命は神によって授かるのであり、死は死神の訪れによって起るのだという 説明や、男と女とがむすばれるのは縁むすびの神のひき合せによるのだという 説明や、さらには貧しくて不幸な状態や富んで幸福な状態も神の意志によるの だという説明も、ひろく信じられるようになった。

 この自然の事物の擬人化と平行して、人間自身もまた神となっていった。人 間の脳の機能である表象や思惟なども「霊魂」よいう体の中に存在している 特殊な実体の機能と解釈された。そして、人間が死ぬときにはこの「霊魂」が 人間の身体から出ていくと説明された。

 また、夢の中で人びとの姿をながめ、その人びとが生きていたときと同じよ うに行動したり語りかけて来たりするのは、その身体から出ていった「霊魂」 にわれわれの夢の中に入ってくる能力があってわれわれに働きかけてくるから だと説明された。

 そうすると身体から出ていった「霊魂」には、身体の中に存在しているとき よりもさらに神秘的な能力があるということになる。生きているときに偉大な 才能を発揮した人びとの「霊魂」はこの意味で絶大な能力を持つものと考えな ければならなくなる。この人間の外部から人間の生活に影響をおよぼしてくる 人間よりも優越した存在が、神となっていった。

 自然の事物を擬人化するということにしても、これは自然の事物が感情や意 志を持つものすなわち「霊魂」を持っているものとして扱うことにはかならな い。この自然の「霊魂」は人間とのコミュニケーションを可能ならしめるわけ であり、人間の願いを聞いて雨を降らしたり風を止めたりすることができるの だと解釈されたのである。自然の「霊魂」も人間の身体から出ていった「霊 魂」も、このようにしてさまざまな神々となっていった。

 日本の風神や雷神も、ギリシァ神話の神々も、あるいはヨーロッパの伝説に 出てくる木の精や山の精も、すべて人間と同じような外貌を持ち同じような 服装をつけて登場してくる。そしてこれらが「霊魂」のありかたであり、また 人間の身体からも「霊魂」が出ていってこれらと同じ神々になるということ を、ひっくるめて人間の宗教的自己疎外という。それは人間の持っている本 質や機能やすがたかたちが頭の中で観念的に人間からひきさかれ、これらが 空想的に人間の「外部」に持ち出されたということです。

 いまでは風神や雷神を信じる人は皆無だと思う(もしかしているかも?)。 にもかかわらず、同じ自己疎外の産物である「貧しくて不幸な状態や富んで 幸福な状態」を左右する神や仏、あるいは時空を自由自在に行き来する超能 力的「霊魂」を信じる人はいまだに多い。ただただあきれるほかない。


 さて、自然宗教から一神教へと宗教が変貌していく筋道を考えてみよう。

 自然の事物を擬人化して創り出された自然宗教の神々はそれぞれ自然の事物 のありかたに規定されて、それぞれ限界を持つことになる。神々はいわばそれ ぞれの縄張りがあって自己の縄張りを超えて能力を発揮するわけにはいかな い。火の神と水の神とは、自然の事物のありかたに規定されて、対立を押しつ けられることにもなる。死神に生命を誕生させる能力はない。

 この自然の事物の擬人化も、個人的なかたちを与えられるだけでなくさらに 社会的なかたちをとり、人間の集団のありかたを空想的に神のありかたに持ち こむことも行われていく。雷神にもやはり女房があり子どももいるというよう に家族のありかたが持ちこまれる。神々に対してそれを支配するもっとも偉大 な大神が存在しているというように、人間の社会の権力者のありかたも持ちこ まれる。

 そして、縄張りに固定されて能力を制限されている多くの神々から、 縄張りを超えて無限の能力を持つ神へと抽象化がすすんでいくと、結局のと ころ宇宙全体を支配下におくところの万能の神という考えかたに落ちつくわ けです。いわゆる一神教です。

 キリスト教この段階の一神教です。しかしこの万能の神にしても、決して孤 独な存在ではない。神の原型である人間が孤独な存在ではなくすべて家族の 一人として存在しているという人間のあり方が、神のありかたにも空想的に 反映する。つまりそこには聖家族が存在する。「三位一体」とよばれる父・ 子・精霊の関係が説かれる。さらに聖母マリアすなわち母が加えられること にもなった。


 いまだに生き残っているさまざまな宗教がある。それを信じている人たちの それぞれの宗教との関わり方も一様ではない。宗教に入り込むとき、イデオロギー的に入りこんでそこから生活全体を規定 させていく場合と、生活的・儀式的に入りこんでイデオロギー的にはそれほど 深い関心を持たない場合とがある。

 前者が正しい意味の信者です。しかし、この場合は一つの宗教を信じることが他 の宗教を拒否する方向へとすすんでいく。キリスト教の神を信じるとすれば、 天皇を神として認めよといわれても拒否しなければならない。ある万能の神を 信じる以上、それと異った万能の神の存在を主張する宗教に対しては、イデオ ロギー的に敵対する立場に立つからであり、それは邪教だということになるか らである。

 後者の場合には、儀式に熱心に参加するところからかたちの上では熱烈な信 者に見えても、イデオロギー的に入りこんでいないために、その宗教の教理に 忠実に行動するとは限らない。また、他の宗教を特別に邪教だとも思わない。 家では毎朝仏壇をおがみ、自家用車には成田山のお札をはって交通事故の起ら ぬよう祈りながら、結婚式のときは教会でキリスト教の神の前に誓いを立て、 新婚旅行では神宮に参拝するというような宗教生活も、現実に行われている。 教理的に相いれない二種類以上の神々を、事実上認めているわけである。日本 人の宗教生活は、このような重層信仰において特徴的である。





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597 唯物論哲学 対 観念論哲学(19)
芸術と宗教
2006年9月4日(月)


 観念論哲学者は、宗教も芸術と同じような空想あるいはフィクションの 世界であることを理解できずに真理のあり方だと解釈する。そして芸術も 宗教も真理であるというところに共通点をがあり、宗教のほうがより高度の 真理だというところに差異があると主張した。

 科学的な唯物論では、芸術も宗教も認識のありかたであり、芸術のフィク ションも宗教のフィクションもフィクションであるというところに共通点 を認める。しかしそのありかたには、高度とか低級とかいうようなランクの違いで はなく、本質的に大きな違いがある。

 例えば小説の登場人物も宗教の神も、現実に存在しない空想の産物だとい う点では変りがない。けれども芸術のフィクションはフィクションであること を自覚して創造する。この創造は表現のための創造であるから、創造した 世界が表現に定着すればもはや用ずみとなる。消滅してさしつかえない。 これは鑑賞者の方も同じです。作品を鑑賞しているときはそのフィ クションの世界をある程度具体的に記憶していなければならないし、事件の 過程や登場人物の動きなどについて忘れたときには前のページをめくってみたり するが、鑑賞が終れはもう用ずみであって、消滅してもさしつかえない。 さらに鑑賞者はフィクションの世界から自由にぬけ出して現実的な自己の立場から そのフィクションの世界をとりあげることもできる。

 これに対して宗教は、そのフィクションをあくまでも「真理」として提出す るのであり、信者もまたこれを真理として受けとり、神が現に存在して自分の運命 を規定しているものと思っている。その「真理」を消滅させるのは「真理」 を放棄することであり許されない。だから信者はフィクションの世界へ入りこみっぱ なしなる。現実的な自己の立場での現実の世界のありかたと観念的な自己の 立場でのフィクションの世界のありかたとを二重化したままつなぎ合せ、つまり自己 を疎外し、この現実の世界の向う側に天国や地獄や神や悪魔が実在するもの、 現実の世界での毎日の生活はそのフィクションの世界とむすびつき相互に規定 されているものと信じている。

 宗教では現実の世界とフィクションの世界とがむすびつけられ、現実の世 界での真理や教訓や社会観や人生観もフィクションの世界のありかたとむす びつけてとりあげられるために、そこにさまざまな逸脱が生れてくる。

 人間がつくり出した道徳や掟も、神にむすびつけられて神の与えた道徳や 掟となり、同じく人間がつくり出した言語表現のための規範も、神にむすび つけられて神の与えた表現能力と解釈されることになる。しかも神という 観念的な創造の対象化は、芸術の場合とちがって、人間から引き裂き取り上 げるかたちで対象化されるから、人間はもはやそれらを失った存在に なってしまう。神が智慧であり道徳であり愛であり、人間はそれらを持たな い存在である。現に人間が持っている智慧や道徳や愛は人間自身がつくり出 したものではなく、神によって与えられたものにすぎない。つまり、神が 万能になるに従って人間は無能になっていく。神が偉大になるに従って人間 はみじめな貧弱なものになっていく。

 反対に人間持っている創造力や精神力を人間そのものに由来するものと 認めれば認めるほど、神の能力は制限されないわけにはいかない。神と人間 とは、この意味で敵対的な関係におかれているといわなければならない。

 芸術における作者の創造した人物が作者の統制の下にあるのとは逆に、宗教 における人間の創造した神は人間をその統制の下におく。人間は自己の観念的 に創造して対象化した存在に支配されるという転倒が行われている。





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598 唯物論哲学 対 観念論哲学(20)
自己疎外・労働と法律
2006年9月5日(火)


 ソ連を労働者の労働者による労働者のための国家と早とちりをしていた 連中がその国家社会主義の破綻と崩壊を目の当たりにして周章狼狽し、今度 はマルクス思想の最良の部分まで間違ったもの無益なものと早とちりして 捨ててしまった。

 マルクスが解明した資本主義の本質は、高度資本主義とよばれる現在の 資本主義をも貫いていることに変わりはない。現在、政府・財界・官僚の策動に よって拡大された経済的格差の底辺で何が起こっているのか、日々報道さ れる悲惨な事件がよくそれを物語っている。ようやくマスコミも拡大された 格差問題をいくらか取り上げ始めた。しかし、初期資本主義の頃よりも酷 いと思われる現在の労働者の奴隷化と労働の過酷な搾取状況をマルクス理 論の観点から批判糾弾する論者は、少なくともいわゆるマスコミに は皆無です。まるで資本主義が最善不変のシステムであるかのように扱わ れている。オコチャマ狆ゾウの「再チャレンジ」などという姑息な提言をまか り通らせてしまう素地は、マスコミに登場する識者たちの理論的退廃がつ くっている。

「疎外は、私の生活手段が他人のものであるということにも、私の欲求する ものが私の手に入らない他人の占有物であるということにも、またあらゆる 事物そのものがそれ自体とは別のものであるということにも、また私の活動 が他人のものであるということにも、最後に ―そしてこれは資本家にもあ てはまることだが― 一般に非人間的な力が支配しているということにも現 れる。」(マルクス「経済学・哲学草稿」)

 自己疎外は観念の世界だけで行われているわけではない。資本主義社会では 現実的に人間の本質が疎外される。そして、宗教の場合と同じような転倒 がおこなわれ、人間を非人間的に支配している。

 資本主義社会も、資本家は働く場所を持たぬみじめな労働者に仕事を与え、 賃金を払って、労働者の生活をささえてやり日々の幸福をつくり出す人間で あるという、非敵対的な見せかけを示している。だがその本質は、資本家の 利益は労働者の不利益、労働者に多く賃金を払うことは資本家にとって利潤 の減少を意味するという、敵対的な関係である。

 宗教では観念的に人間の本質が対象化されるのだが、資本制生産では現実的 に人間の本質が対象化される。すなわち生産における労働の対象化において、 労働者は自己の対象化した労働に支配されるのである。ここには現実の転倒が 存在している。対象化された労働は、生活をささえるだけの部分が復帰して来 るだけで、あとは少数の人びとの私有財産となって労働者の外部に存在し、資 本として自己増殖するために労働者を支配することになり、資本家はこの対象 化された労働の人格化されたものにはかならない。

 それゆえ、観念的と現実的とのちがいはあっても、宗教と資本制生産とは人 間が自己を敵対的に疎外するという点で共通した論理構造を持っているわけで ある。

 資本主義社会の経済は、絶えず人びとに脅威を与えている。激烈な競争の中 での没落や、恐慌や不景気のための破産や、職場から追われての失業に当面す るとき、人びとは外部から生活に影響をおよぼしてくる打ち勝ちえない力の 存在を感じないわけにはいかない。これを正しく理解できない人びとが、こ の力を自然力と同じように神秘化して、神の意志にむすびつけたとしても不 思議はない。


 さらにまた、法律も人間の自己疎外の所産にほかならない。このことは もちろん、ブルジョア民主主義社会に限らない普遍的な事実です。被支配者が 法律に救済を求めて訴訟を起こしても、その問題が支配システムの根幹に近 ければ近いほど敗訴は初めから目に見えている。

 法律とよばれるものは、のちに述べるように意志の一つのありかたであって、 国家によって制定されるところからこれを国家意志の表現と理解することがで きる。国家が能動的に、この意志に服従せよと国民に要求するかたちをとるの である。

 この国家意志は、国王個人から発することもあれば、議員が国民の意志にも とづいて議会で成立させることもあるが、いづれにしても人間の頭の中にしか 存在しない意志が観念的に対象化されて、すべての国民の「外部」に存在する ものとして国民を支配するのであるから、これもまた人間の自己が疎外された ものといわなければならない。

 歴史は、国王の意志が神の意志とむすびつけられて、神の意志→国王の意 志→国家意志という過程が存在するものと解釈された事実を教えているが、 これは神のありかたと国家意志のありかたとが共通点を持っていたからこそ 可能であったわけである。

 われわれが現に使っている「国家」という文字に は、「国」すなわち「家」であるという、国家のありかたを家族のありかた にたとえる発想法が明かに示されているが、国王あるいは支配者を親や父に たとえ、王妃あるいは支配者の妻を母にたとえ、国民を子にたとえる支配階 級のイデオロギ−政策は、古今東西にわたっていくらでも指摘することがで きる。

 これらにしても、家族が集団として協力し合いながら生活を向上させる ためには、秩序を維持するための何らかの掟が必要であるということから、 国家意志を合理化しようとするものである。共同体における掟は全体の利益 をはかるものであるが、階級社会における法律は支配階級の利益に重点をお いている。法律は原始共同体における掟が階級社会においてその性格を変え たものであり、形式的には全体の利益をはかるものとされてはいても内容的 にはそうではない。マルクスのことばをかりるなら、法律は「見せかけの共 同体」の掟にほかならないのである。


 かろうじて支配者に対する縛りの意味を持っている現憲法も支配者に 恣意的に解釈されたり無視され続けて、いまは破棄されようとしている。 ポチや狆ゾウに喝采している被支配者たちよ、いつ目覚めるのか。





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599 唯物論哲学 対 観念論哲学(21)
こども 対 大博士
2006年9月6日(水)


(このシリーズの最終回です。お手本は最初の @「哲学入門」 に戻りました。)

 身近に中学生ぐらいの子どもがいたら、質問してみてください。

「君のお父さんお母さんは、君がまだ生まれない以前に、この世のなかに生き ていたでしょうか?」

 こどもは何でそんな質問をするのか、怪訝そうな顔をするにちがいない。 そしてたぶん次のように答えるのではないだろうか。

「どのお父さんお母さんだって自分のこどもがまだ生まれない以前もこ の世のなかに生きていたことなんて、あたりまえじゃん!」

 こどもにはお父さんやお母さんからおしえられたり、他人のありさまを 見て確信している認識がある。ところがこの答に異を唱える大哲学者がい た。教授とか博士とかいう立派な肩書をもったえらい大先生です。文化勲 章ももらっている。この大博士は次のように述べている。

「歴史的実在の世界というのは、我々が行為によって物を見ると共に、そこ から生れる世界、即ち行為的直観の世界である。……我々が視覚的に物と いっているものは、眼の運動によって形作られたものである。」(西田幾 多郎『哲学論文集第二』)

 つまりこの大博士は、そのこどもがが見ることによってお父さんやお母さんが 生まれたのであって、もしこどもが見なければ、お父さんお母さんのからだ は実在してはいないと言っている。

 この学説に対して、こどもが実生活から得た認識を捨てきれずになお次の ように主張する。

「お父さんお母さんはぼくが見ようと見まいと実際にいるし、ぼくが何も 知らない赤ん坊のときにも、まだ生まれない前にもいたのだ」

 すると大博士は「あなたは自分の見たままをそのままうけいれていま す。それはまちがいですよ。それは素朴実在論です。」と教えてくれるに ちがいない。西田博士は「唯物論はこどもの哲学」だと嘲笑している。

 わたしたちの父母がわたしたちの生まれる以前に存在したいう認識 にとどまっているだけなら、確かにそれは素朴実在論であり「こどもの 哲学」です。しかし、その認識には「わたしたちの精神のはたらきから独立 してこの世界がある」という「おとなの唯物論」つまり「科学的な唯物論」 につながる認識を含んでいる。西田哲学は「見ることなしには世界はない」 という逆の立場に立っている。

 わたしたちの父母がわたしたちの生まれる以前に存在したとするなら、わた したちの精神のはたらきから独立して物があることを承認するのです。夜ねて いるときでもこの世の中が存在していると考えるなら、現にわたしたちの知ら ないところでいろいろな事件が起こっていると考えるなら、やはりこの精神か ら独立した物の存在を認めるのです。

 「腹はへらないと思えば、空腹ではなくなるか?」これは「眼をつぶれば お父さんお母さんは存在しなくなるか?」という質問と共通したものを含ん でいます。「勝つ勝つと思っていれば必ず勝つ」これは「見ることによって 実在の世界が生まれる」という説と同じ立場です。哲学の本はチンプンカンの 寝言をならべているように見えますが、実にこういう身ぢかな問題やもっとも らしい主張につながっているのです。

 こういう主張を信じた日本人が、いまは(敗戦直後のこと…仁平)、着るも のもなく街路をハダカで歩いているのです。


 そうそう、西田哲学はかって「日本の天皇は人間ではない」ということを証明 していた。改めてエンゲルスの次の言葉を噛みしめておこう。

「最初の素朴なみかたは、概して後の時代の形而上学的なみかたよりもヨ リ正しい」

 そういえば、裸の王様を「裸だ!」とはっきりと指摘できたのはこども だった。「あしながおじさん」の女子大学生ジュデイ・アポットさんもこ う言っている。

「あたしたちが今習っているうちで一ばんむずかしくってイヤなのは哲学よ  ― 明日はショオペソハウエルの哲学よ。教授は、あたしたちが哲学のほ かにもいろんな学課を習っているということなんかまるっきり考えていない らしいのよ。へンテコな老いぼれのアヒルよ。雲の中へ頭をつっこんでフワ フワあるきまわって、時々かたい地面にぶつかってはビックリしたような 顔をして目をパチパチさせているのよ。……教授は教室へ出る合間には、物 質は真に存在するものであるか、あるいはまた物質が存在すると自分が考え ているにすぎないのかどうかということをしきりと考えながらくらしている のよ。
 物質が存在するかしないか、そんなことは仕立物をしているあの娘に聞け ばすぐわかるわ!物質が存在するから、苦労も心配もあるんだわねえ?」

 往々にしてひとは透きとおって底まで見える池より、底の見えない濁った池を深いと思 い違いする。観念論哲学はとっても難解で深遠なことを誇りにしているようです。 しかしそれは見せかけの深遠さです。

 私(たち)は見せかけの深遠さ、見せかけの平等、見せかけの正義、見せかけの 自由…等々を見破るためには自然成長的に身につけさせられたものから 常に脱皮し続けなければならない。最後に引用する次の文は、まともな労働組合 がほんの一握りしかないない今、その再生のための原点を示していると私は思う。 もちろん、労働組合だけの問題ではない。私は「労働者」を「被支配階級」と 読みかえて読んだ。

 いま、わたしたちの生活している世の中は、新聞雑誌ラジオ映画その他その 他、サギ師の言葉でみちみちています。「子供」たちはただでさえそれに圧倒 され、それをうけいれがちです。たとえ自分が多くのことを眼で見、その見た ままをすなおにうけいれるにしても、そこから直ちに「サギ師をつかまえる」 という実践的な結論はでてきません。「子供」にはやはり「学校」が必要で す。

 労働組合は「労働者の学校」といわれます。労働組合の一員としての実践 は、たしかに偉大な教育です。しかし、ただ自分の行動によって学ぶにとど まり、よい「教師」とよい「教科書」とをもたなければ、「かしこいがゆえ にあやまる」危険をのがれることはむずかしいでしょう。理論は実践におい てつくられるという原理を一面的に度はずれにとりあげて、先駆者が彼の 実践からうみだしてわたしたちにのこした貴重な理論的遺産から学ぶことを 忘れると、労働運動の指導者はハダカの王様になるでしょう。わたしたちの 偉大な教師はいいました。

「純労働者運動というものは、自分自身で独立したイデオロギーをつくりあ げることができるし、事実またこれをつくりあげていると思っている。そこ にこそ、深刻な誤謬がある。…… われわれの任務は、自然成長性とたたかう ことにある。 ……労働者階級は自然成長的に社会主義におもむくと、しばし ばいわれる。……もしその理論にしてこの自然成長性の前に屈服しなかった ならば、もしその理論にしてこの自然成長性を克服するならば、労働者は非 常に容易に社会主義理論を自分のものにする。……しかし、きわめて広く流 布された(そしてもっとも多種多様なかたちをとって蘇ってくるところの) ブルジョア・イデオロギーは、それにもかかわらず、自然成長的に、特に労 働者を圧倒し去るものだ。」(レーニン『何をなすべきか』)





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600 吉本隆明著「ほんとうの考え・うその考え」

2006年9月7日(木)


 「第542 2006年7月3日」に私は「普遍宗教」という副題をつけた。「普遍宗教」 という言葉を、例えば柄谷行人さんは世界に広く普及している宗教つまり「世界宗 教」という意味で使っている。(「世界共和国へ」第U部第3章)もしかすると 多くの場合はその意味で使われいるのかもしれない。しかし、私が言う「普遍 宗教」はそういう意でない。

 宗教が人類にとって有意味な面があるとすれば、それはその中に含まれている 「倫理性」です。私が宗教を認めるのはその「倫理性」においてであり、その 「倫理性」の質がその宗教に対する私の評価の基準です。

 既存のあらゆる宗教の倫理性を包含しかつ超えている宗教があるとすれば、 それは従来の意味での宗教とはまったく異なるものになるかもしれないが、 それを「普遍宗教」と呼びたい。そして「第542回」で私は『そのとき「普遍宗教」の神は自然 にほかならないのではないか。』と述べたように、そこには従来の宗教で言うところの 神は不在になっているだろう。そういう意味では「普遍宗教」=「普遍倫理」 と言ってよい。

 吉本隆明さんの著書「ほんとうの考え・うその考え―賢治・ヴェイユ・ヨブを めぐって」の中表紙の裏に小さく一行「普遍宗教性の問題として」とあった。 この著書は私が言う意味での「普遍宗教」=「普遍倫理」の可能性についての 論考だった。

 宮沢賢治の作品「銀河鉄道の夜」(初期形)にブルカニロ博士が語る言葉 の中に次のような一節がある。

「みんながめいめいじぷんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれ どもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。そ れからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつか ないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんた うの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も 化学と同じやうになる。

 この一節の中の「ほんたうの考とうその考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も 化学と同じやうになる。」という一文をめぐって、吉本さんはこの著書のモチーフを次のように述べている。

 このばあいの「信仰」というのを宮沢賢治のように宗教の信心と解さずに、 それも含めてすべての種類の<信じ込むこと>の意味に解して、この言葉 を重要におもってきた。つまり<信仰>とは諸宗教や諸イデオロギーの現在ま での姿としての<宗教性>というように解してきた。宗教やイデオロギーや政 治的体制などを<信じ込むこと>の、陰惨な敵対の仕方がなければ、人間は相 互殺戮にいたるまでの憎悪や対立に踏み込むことはないだろう。それにもかか わらず、これを免れることは誰にもできない。人類はそんな場所にいまも位置 している。こうかんがえてくるとわたしには宮沢賢治の言葉がいちばん切実に 響いてくるのだった。

 このばあいわたし自身は、じぶんだけは別もので、そんな愚劣なことはした こともないし、する気づかいもないなどとかんがえたことはない。それだから もしある実験法さえ見つかって「ほんとうの考え」と「うその考え」を、敵対 も憎悪も、それがもたらす殺戮も含めた人間悪なしに(つまり科学的に)分け ることができたら、というのはわたしの思想にとっても永続的な課題のひとつ にほかならない。


 この著書は三部構成になっている。

T 宮沢賢治の実験―宗派を超えた神
U シモーヌ・ヴェーユ―深遠で隔てられた匿名の領域
V ヨブの主張―自然・信仰・倫理の対決

 副題で明らかなように、それぞれ「普遍宗教」への可能性をテーマにしてい る。

 次回からこの著書を読んでいくことにする。私の勝手な思い込みから、著書の 順とは逆に、V→U→Tの順序で読むことにします。