ある労働者が私に問いかけてきたことがある。お前さんたちはアナキズムの 勝利を日頃から口にしているけれども、歴史のなかでアナキストというのはい つだって敗北を余儀なくされてきたのではなかったか、というわけだ。ポリシエヴィキとは違って、われわれの願いは目の前の権力闘争に「勝利」を 収めることではない。われわれは、ユートピアの実現を追い求めているのだ。た とえてみれば、水平線のようなものだ。ひとつの成果が達成できても、すぐさま 新たな目標がはるか彼方にまた立ち現われてくる。
8時間労働の達成には膨大な量の血が流されねばならなかったが、ともかく 8時間労働もアナキストの尽力もあって獲得された重要な成果のひとつだ。弾 圧を被りながらも、社会正義と友愛に基づく新しい世界の構築へ向かってわれ われが歩みを進めてきた点は、誰にも否定できないだろう。われわれの営みは 宗教ではないけれども、われわれの革命への信条にはある意味で宗教にも似た 一面がある。この信条がなければ、アナキストではない。
アナキズム的な社会主義は、歴史を前進させる風のようなものだ。今日や 明日にもアナキズムに勝利がもたらされるということはない。社会は常に公 正を追求し続けている。先に水平線になぞらえたように、その限りでアナキ ズムに完結はない。
アナキズムはいわゆる「理論」ではない。それはいわば精神に内在 する力であり、歴史のなかで生起する自然の営みだ。不正がある限り、その不 正を追及し、公正とは何かを問い続ける必要があるだろう。アナキズムという のは、より公正でより人間的なそうした企てのひとつの表現なのだ。混迷を 深める現代にあって、なかでも麻薬に手を出しアルコールに溺れる若者たちの 世代に、アナキズムは精神的な支柱を提供しうるかもしれない。
さて、そのマルクス主義について、パルさんは次のように言っている。
今日、誰がマルクス主義を擁護するだろう?
そんな人間は誰もいない。理由は簡単だ。マルクス主義というのは、19世紀 半ばの特定の経済状況のもとに、その経済状況に合わせて生み出された理論で あり、すでに効力を失って久しいからだ。マルクス主義では、21世紀のわれわ れを取り巻く現象を説明できない。
テーマ
現在の課題としてマルクスの思想はどのように継承されるべきか、あるいは
破棄されるべきか。その上で現在の状況を踏まえて、はたして実現を追い求め
るに値する「ユートピア」はありえるのか。
そこで次回から
吉本隆明著「マルクス―読みかえの方法」(1995年、深夜叢書社)所収の
同名の論考(インタビューの記録、聞き手=高橋順一)と
「未来国家のキーワード」(聞き手=「潮」編集部)
を読むことにする。
実はこの本、「つんどく」したままのものだった。購入10年後の再発見・再
会ということになる。思いがけないところで紐解くことになった。無駄な購入
ではなかった。とてもうれしい気分だ。
「マルクス主義」とは、「マルクスの思想」をロシア的に(レーニン〜スターリン と)展開したものをさし、「ロシア・マルクス主義」あるいは「スターリン主 義」と呼んでいる。このマルクス主義に対しては一貫して激しく鋭い批判をして きている。
「マルクスの思想」については『今のところ異議を申し立てるところはない。』 『優れたものは優れたものとして…それを信じる以外にない。』と手放しの評価 をしているが、もちろん『(異議を申し立てるところが)もし見つかったなら、そこは否定 すべきであるし、批判すべきであり、それは当然なんだ』という留保付である。 そして、スターリン主義の弱点の特質は、実はマルクスの<アジア的>という概念の展 開の不十分さに根ざしているのではないかと、最近の問題意識を提起している。
マルクス思想のその弱点の淵源を吉本さんは、マルクスが「ヨーロッパの近代
思想=世界思想」という前提の枠内で思想を展開していた点に求めている。
古田さんがマルクスの宗教批判の弱点(第481回 参照)を、マルクスが「キリ
スト教単性社会」という枠組みを出られなかったところに見ていたことと重なる。
アジアとかアフリカの問題については、マルクスの展開の仕方は不十分である とおもっているわけです。マルクスは、…、あくまでもヨーロッパの近代思想の 延長線に立ってかんがえを展開していますから、マルクスが<アジア的>とい うふうにいわざるを得なかった概念というのは、マルクスの中では割合に明瞭に あったとおもうんですが、その展開の仕方はとても不十分だったとぼくは理解し ています。共同体論としても、あるいは共同体的所有という問題としても、 もっとはっきりさせなければいけない。その中に全部、ロシアの問題も、アフリ カの問題もはいってくるだろうとおもうんです。
そうすると何が根本的な問題なのかというと、…、18世紀以降、西欧の近代思想 イコール世界思想であるというふうにいえるから西欧近代思想が世界思想なんで、 たとえば18八世紀以前の西欧思想は、西欧思想というだけで世界思想ではないと いうところに、<アジア的>という概念が世界的な意味でたどれるのではない か。ぼく自身はそう理解します。
吉本さんは前に「アジア的なものについて」と題された講演をされて、 <アジア的>なものの中に、ある意味では人類史の理想的なものというのが孕 まれている、それと同時に、非常に迷蒙な部分もまたあり、この迷蒙な部分に ついては徹底的に解除されなければいけないとおっしゃっている。これは吉本さ んがずっと解明されてきた<天皇制>の問題とも関わってくるとおもうんです が。<アジア的>なものの中で救済すべき人類史の理想的な部分というものと、 迷蒙として徹底的に解除すべき部分というものが、弁別した上でひとつの歴史 概念として取り出し得るのかどうかというのが、ちょっとひっかかるところな んです。私はむしろ吉本さんが迷蒙といわれた部分も含めて<アジア的>なも のの思考とか、文化とか、共同体の組まれ方というのは成り立っているんじゃ ないか、その辺のことを、先ほどの問題との絡みでお聞かせいただければとお もうのですが。
それからいま、高橋さんのおっしゃった<アジア的>ということなんですが、 それはどこでかんがえているかというと、これはロシアのマルクス主義が、あ るいはレーニンがといってもいいのですが、共同体所有という問題を先験化し すぎた。つまりレーニンは、共同体所有というものを生産手段の社会化とか、 もっとひどい場合には国有化といっていますが、そういうことを資本主義から 社会主義へ移行する場合に、疑問の余地ない前提のように理解している。けれ どもこれはマルクスの思想の曲解だろうとぼく自身はおもうわけです。そのばあいの生産手段の社会的な所有というものが、共同体における個々の メンバーにとって利益である限りにおいて、共同体所有とか<アジア的>所有 というのは、復元し得る余地があるということで、前提なんかではちっともな い。マルクスも前提だというふうにはいってないとおもいます。
だからぼくは、<アジア的>共同体の組み方とかが弱点だけじゃなく利点と して、つまり迷蒙だけじゃなくて、開明的なものとして蘇生できるとすればど こまでできるか、どういうふうにできるかという原則が重要なのだとおもいま す。その原則は、個々の成員にとって利益である限りでだけ生産手段は社会化 されなければいけない、そこだろうとかんがえています。もっといいますと、 レーニンが社会主義イコール生産手段の社会化あるいは国有化というふうに理 解しているのはまちがいだとおもいます。
またもうひとつ指摘しておくと、「共同体における個々のメンバーにとって 利益である限りにおいて」という大原則は、アプローチの仕方の違いはあれ、 ロールズの「正義の原理」に通じていると思う。
『理想の未来国家としてイメージを提出されている唯一のもの』として、 吉本さんはコンミューン国家を取り上げている。シリーズ「ロシア革命の真 相」(第485回〜第498回)でその実践例を見てきたが、その国家の基本的な 骨格を箇条書きにすると次のようだろうか。
☆軍隊とか警察のような武力・暴力・抑圧機関を撤廃する。
☆管理システム(政府)の構成員(公務員)はいつでも大衆によってリコールするこ
とができる。
☆公務員の給料は一般大衆の給料をうわまわらない。
☆生産手段・生産物は労働者・農民の自主管理にゆだねられる。
これはいわゆる「国家」(近代民族国家)とは全く違うものであり、コミューン 国家という呼び方は矛盾した呼び方になるが、いまはそれは置くことにする。
さて、マルクスは資本主義から共産主義に行く過程にプロレタリア独裁という
のは必須だと言っているが、これを吉本さんは『そのプロレタリア独裁というこ
とと、コミューン型国家への国家の移行ということとはイコールだ』と
いう理解の仕方をしている。それに対してレーニンは「コミューン型国家への
国家の移行」をしようとはしないで、「プロレタリア独裁」の不可避性だけを
肥大化してしまった。コミューン国家を試みたマフノ運動をレーニンが圧殺し
てしまったことも私(たち)は「ロシア革命の真相」でみてきた。
そういうコミューン型国家へ近代国家というものを転換させるには、プロ独裁 というのが必要なんだと(マルクスは)いっているので、だからコミューン型 国家の形成ということとプロ独裁ということとはイコールだとぼくは理解して いるわけです。ところがレーニンは、そういう志向性はあったんでしょうが、ちっともコミ ューン型国家に転換させないで、それでプロ独裁ということを文字通りにこれは 不可避なんだというふうにうけとっているから、もうプロレタリアの前衛集団 による大圧制ということになっちゃったんで、プロ独裁ということを、片一方 だけで、つまり強圧・強制力という意味あいだけで理解しているというのは まったくナンセンスだとおもう。だけどレーニンはそうしちゃったんだから、 そこで問題がこじれてしまっているわけですね。
<アジア的>という問題も、『(<アジア的>な)感性とか意識構造とか、 …そういうものがのこっている国家ではコミューン型国家への転換が、しや すいのであるか、しにくいのであるか。しやすいとすればどこであって、し にくいとすればどこなのか、それはヨーロッパ国家とどう要素が遠うかとい うことをはっきりさせるべき』問題として「コンミューン型国家」と関連さ せせて考えられている。
ところで、この「コンミューン型国家の形成=プロレタリア独裁」ということを、 マルクスの時代とは全く異なる現在の経済的・社会的状況下で考える場合、 どういう問題点があるだろうか。
まず、「プロレタリア」と言う概念。マルクスは資本主義社会の隆盛期の真っ只
中で、生産手段を持たずに賃労働をしている労働者、疎外され搾取されている人間
を「プロレタリア」と呼んだ。このときマルクスはこの言葉を「もっとも発達した
資本主義」を典型として使っていたのか、あるいはもっと一般的に無条件の
概念として使っていたのか、と言う疑問点を挙げて、吉本さんは次のように述べて
いる。
いまだったら、飢えて生活の再生産すら不可能であるような貧困から、先進 資本主義国の労働者みたいに、たとえば日本のばあいに、平均の貯蓄額が400万 円ぐらいあって、90%が中産階級意識をもっている、そういうプロレタリアート もいる。この格差というのは、これからもっと資本主義が発達していけば広が りますよね。そういったことを全部ひっくるめた上で、普遍概念としてプロレ タリアートということばが使われたのか、それとも、もっとも先進的な資本主 義国だけを扱うというふうにかんがえられていたのか。そのへんどうなってい たのかなという問題が、ぼくのなかにありましてね。プロレタリアートという概念は、これはもはや使っても使わなくてもいいんじゃな いか。これからますますそうなっていくんじゃないかとおもうわけです。だから プロレタリアートということばのなかで、確かに貧困で明日も飢えるかもしれな い人間というのが第三世界とかアジアにはいるわけですが、それとは別に、 もっと豊かなイメージで描かなければならないプロレタリアートというのがい て、その広がりをどうとらえるかが問題になってくる。プロレタリア独裁とい うのが問題になるとすれば、そこだとぼくはかんがえているんです。
これらの体制の経済社会をつかまえるばあいの共通のイメージは、企業や産業 の共同体、あるいは株式会社組織が高度になって巨大化し、それぞれ独立した 国家のようなシステムをもって運営していること、それから経済共同体が運営 上危機にひんしたとき、国家が介入してそのピンチを援助したり規制したりす ることなんです。この現在の社会主義国家と資本主義国家がが向かっている方向に、もちろん、 理想の国家は望めない。富(剰余価値)を集積するものが国家であれ企業であ れ、その配分がより平等となっていくとしても、それは「マルクスがその原 型として描いた社会主義」とは異なる。理想の社会とは『価値法則の揚棄され た社会』だと、吉本さんは言う。もうひとつ、独立王国的に企業体がなっていくと、ちょうど政府機関のよう に、頭脳部みたいなものもあれば手足みたいなものもある。このメカニズムは 資本主義であれ社会主義であれ変わっていない。つまり同じ問題に当面してい るんですね。
マルクスやエンゲルスがかんがえた、資本主義の興隆期のように富や権力は 資本家に集中するというよりも、現在では国家や産業の管理システムに集中し ていっているとみたほうがいい様相がでてきました。富の集中が個人や特定の 階級に独占的に集積していくことは大きな規模で行われず、それよりシステム 自体の方へ富が集約され、そこで管理されている。
すると、近代資本主義社会の興隆期にえがかれたイメージとはちがった問題 がでてきていることになります。つまり、資本主義と社会主義を区別するポ イントが、制度のメカニズムの点だけからいうとなくなっていきます。そこに いまの問題があるとおもいます。またそこをつかまえきれないかぎり、これか らの社会のイメージはつかめないだろうとかんがえます。
この理想として描かれる価値法則のない社会のイメージは、現在、資本主義 国と社会主義国が共にたどっていっている様相とギャップがひらいていく一方 です。そうすると理想の社会の原型を描くこと自体が空疎な無力な孤独な 徒労ではないかという問題がでてきます。これは、社会的な問題についても、 文化現象の中で個人の内面がどうあるかということは無力ではないのか、とい う問題としてあらわれます。こういう無力感、徒労感、孤立感に耐えてもなお かつ理想社会のイメージを描かなくてはならないのか。ほんとうをいえば、こ のことだけが現在の問題だとおもいます。
社会主義のモデル
@賃労働が存在しないこと
A労働者・大衆・市民がじぶんたち相互の直接の合意で、直接に動員できない
ような軍隊や武装弾圧力をもたないこと
B国家は、存在しているかぎりは、労働者・大衆・市民にたいしていつも開か
れていること。いいかえれば、いつでも無記名の直接の票決でリコールできる
装置をもっていること
C私有では労働者・大衆・市民の障害や不利益になる「生産の手段」にかぎり、
「社会的な共有」とすること
Bで「国家は、存在しているかぎりは」と保留条件をつけているが、もちろん、 いずれ「国家は死滅しなければならない」。それが最終的な理想だ。
現実の国家はこの理想の社会像からはますます遠ざかっている。まさに『無
力感、徒労感、孤立感』が高じるばかりだ。しかし、理想なくしては現実を変
えることができないのも真だ。このことをめぐっての吉本さんの論述を抜き出
してみよう。少し長くなります。
現在、資本主義も社会主義も区別なしに進んでいって、集中された富が再び大 衆に還元される方法が、いずれにせよ両社会体制が共通にとろうとしている方法 だとすれば、いまの世界の体制をおおすじに肯定しながら部分的に異議申し立て をしたり修正を加えていく以外にないというかんがえもあるでしょう。また、理想の原型を描くのはムダだから、どちらの体制もとっていく共通の 考え方へむかって少しでもよくこしらえることのできるイメージをつくるのが 具体的かつ現実的であって、それ以外に無力感を克服することはできないとい う考え方もあるとおもいます。
現在のこういった状況のつかまえ方は、大ぎっぱであれば誰も似たりよったり です。ただ、それに対して理想のイメージの原型をどのように構築するか、ある いは理想のイメージの原型に近づかせるために部分的に補修していくことのほ うが重大なのか、という岐路に立つとき、はじめてぼくは、現在の思想の状況 的なきつさを体験する気がするんです。自分はどのようにそれを耐えるのか、 あるいはどこまで耐えてイメージを明瞭にしなければならないのか、というこ とがいちばん切実な課題になっているんですね。
(理想の未来国家は)近代民族国家のいくつかの柱を全部否定的にチェック する装置をかんがえた国家だとおもいます。
こうしたコミューン型のイメージは、現在まで、社会主義国家でも資本主義 国家でも実現されていません。これらの国家はむしろ現在、近代民族国家の イメージ内で軍備拡張や権力集中に精をだしている現状です。理想国家として のコミューン型国家のイメージは、実現されるべ きイメージとして固執する 価値はあるとおもっています。ただ、これに固執することは、現在も個人が単独に頭の中で描きうるだけの 現状ですね。どこかの国が、そのコミューン型国家にむかうというキザシはいま のところありません。どこをみても軍隊を増やそうという国ばかりだし、あち こちで小さな戦争をやっているし、人間を国家が管理するところまできていて、 やりきれない気持ちはつのるばかりです。でもぼく自身は、描くに値するイ メージだとおもっています。観念の中で描こうが、 孤立しようが描くに値す るイメージです。
さらにまたぼくは、もっとちがう国家のイメージをつくらなければならないの ではないかとおもいます。それは現在の資本主義国にも社会主義国にも追従する ものではなく、なおかつ古典近代期にマルクスがかんがえたものともちがって、 現在の産業構造の共同体のイメージをふまえられたうえでかんがえられてしか るべきであるとおもいます。それにはまず、各人が知識としてそのイメー ジをつくりあげる意思が必要でしょう。なぜかというと、マルクスがかんがえ たコミューン型の国家は理想だとはおもいますが、あまりに世界の趨勢とかけ 離れすぎており、コミューン型国家は、もともと不可能だったのではないかと いう疑問すら生ずる現状だからです。
ですから、コミューン型国家は固執するに値するけれども、まったくのユート ピアかもしれない。もっとちがう国家のイメージを生みだす必要があるというモ チーフは相当重要なことだとかんがえています。コミューン型国家の柱のひとつである、軍隊および警察のような抑圧機関は やめるべきであるというイメージは固執するに値するとおもいます。それはた んに守るということだけでなく、要求するに値するものだとおもいます。社会 主義国にむかっても資本主義国にむかっても軍隊と抑圧機関の撤廃は要求しな ければならない課題だとおもいます。そして、こうした要求をつきつけていく 場合、一個の知識人であれ大衆であれ、やはり世界に対して孤立していくこと は避け難い運命のようにおもわれます。それと同時に、ある意味ではまったく 現実離れしているということになるかもしれないことが前提としてなければな らない。したがって、知識が立たされる岐路にいつでも立たされることになる けれども、理想のイメージを退かずに指し示し、そう発言できる権利を保有し ておくことが本来的な知識の課題であるともいえるでしょう。
ソ連の崩壊、中国の市場原理の導入などを根拠に、社会主義国家は資本主義国
家に敗北した、あるいは資本主義国家が社会主義国家に勝利したという言説が
流布している。現在の時代を逆行するような反動的な趨勢はそのよう言説と
無関係ではないだろう。
なぜコイズミやイシハラのような反動が我がもの顔にまかり通ってしまってい
るのか。右からのものであれ左からのものであれ、社会主義国家は資本主義国家
に敗北したという言説に、何を基準にして敗北や勝利を判定しているのか、
その「基準」への問いが欠けているからだ。
一般大衆の生を、その経済的にあるいは文化的にあるいはまた思想的に、どれ
だけ解放したか。吉本さんの基準はこのようである。私(たち)も理想の社会の
イメージもこの基準によって追ってきた。
この基準から見れば、現存の国家では、社会主義国家より資本主義国家の方が
よりましである。「今のところよりましである」ということで、それ以上でもそれ以下でも
ない。この「基準」をまったく考慮せずに、「資本主義の勝利」だけをことさら
言あげしているだけの言説が反動を許している。「反動」とはこの「基準」にてら
して反動なのだ。
吉本さんによる「社会主義のモデル」のCもこうした観点から考えるとき、より はっきりと了解することができる。
C私有では労働者・大衆・市民の障害や不利益になる「生産の手段」にかぎり、 「社会的な共有」とすること
産業経済機構の国家管理あるいは公共管理が社会主義の必須の条件のように
言われている。また先進的な資本主義国家でもすでにその30%〜40%が国家管理
下にあるという。この点においても社会主義国家と資本主義国家の差は縮まって
きているわけだが、どちらも「価値法則を揚棄した社会」という理想のイメージ
からは違った方向に進んでいるとしか言えない。
「社会主義国家体制の崩壊と一般大衆の理念」(「マルクス―読みかえの方
法」所収)で、吉本さんはこのことを詳述しているのでそれを引用する。
(このインタビューは1990年6月に行われた。)
一般論でいえば、資本主義が勝利したって意味がないけれども、社会主義が 一般大衆の解放闘争において世界史的に敗北したとはおもってますね。市場原理というふうにみていきますと、もともと、ゴルバチョフでも資本主 義の市場に代わっているのが国家の官僚機構だというだけで、別段そんなにち がったものだとおもわないんです。
問題にしてみているのはそういうことじゃなくて、主として生産手段なんで す。生産手段の私有化と国有化あるいは公有化というのがあるでしょう。
レーニン以降の社会主義国は何をしてきたかというと、国有と公有、あるい は共同所有、コルホーズ,ソホーズというようなものが、先験的に作られねば ならないという理念です。だけどぼくのかんがえている社会主義の理念という のはそうじゃなくて、個々の大衆にとって私有であるよりも有利であるという 生産手段についてだけ、公有化するというのが大前提だとおもうんです。それと関連することで根柢的にいえることは、土地所有というのは私有で あるほうがつごう悪いというところだけ、公有でありさえすればいいとおもう んです。あとは私有でいい。私有のほうがよければ私有でいいというのが社会 主義の大前提だとおもうんです。私有をみとめればもちろん必然的に市場原理 が導入されますね。だから市場原理云々とみるんじゃなくて、私有と国有・公 有をどういうふうにかんがえるかというのが基本的な問題で、私的所有のほう が基本になるので、私的所有だったら個々の大衆にとって損である、利益にな らないという場合に公有とか部分的な社会所有にすればいいというふうにおも います。
つまり、何が社会主義の原理なのかというと、国有あるいは公有が原理じゃ ないんですね。個々の民衆がどう解放されるかというのが原理なんで、そのほ うが都合がよければ私有のほうがいい。究極の理念からいえば全部が私有に なって、相矛盾しなければそれが一番いいのです。それが理想の状態、コミ ュニズムですから。だから市場原理をどこまで導入するか、部分的にどう導 入するか、全面的に導入するかというのは、かくべつぼくには資本主義にか えることを意味してるとはおもえないんです。
軸足を一般大衆の「人間解放=自由」のための道筋に置いていること。
では「右翼」とは? おのずと明らかだろう。
「第461 自由社会(3月26日)」の最後の文を次のように結んだ。
アナーキズムはヒエラルキー型の政府を否定する。しかし政府に替わる管理 システムは必要だ。その管理システムは、「政府レベル」に限らずいろいろな レベルの組織に必要とされるし、現行の政府とは全く異なる性質のシステムだ から「政府」と呼ぶのはよそう。端的に「管理システム」と呼ぶことにする。
今回からこれを引き継いだテーマに移る。上記のことを吉本さんの言葉を借り て言うと次のようになる。
管理システム・装置は不要なのではない。管理されている者の優先性に反し ない限り(つまり使用することか便利な限り)、使用すべきものとおもえる。 素朴な原始帰りは、個人としての個人の好みの問題に帰着してしまう。それは 個人にとっては自由なものだが、社会としての個人の問題とはなり得ない。
「(管理システムは)使用することか便利な限り使用すべきもの」だというこ とを「国家」に敷衍して言えば、『事務的にあったほうがいいんだという限りに おいて、国家はあったほうがいい』(「社会主義国家体制の崩壊と一般大衆の 理念」より)ということになる。
理想の管理システムのあり方を探っていくことが今回からのテーマだが、その
場合、産業経済構成の変化のほかにマルクスの時代にはなかったもう一つ重要
な無視できない要素がある。『専門的な情報科学者、電子的な交通装置の技術、
装置の進歩』による「管理システムの高度化」である。この現状を踏まえて、
現在の社会を「高度管理社会」と、吉本さんは呼んでいる。この高度管理社会が
人間の精神に及ぼしている弊害と実際に起こっている精神上の障害について吉本
さんは言及しているが、今はそれは割愛する。(いつか稿を改めて取り上げたい。)
さて、吉本さんは、ユートピアと喧伝されている「山岸会」の管理システムを
検討することから論述を始めている。
数年前、偶然に伝説されていたユートピア山岸会の会員と出会って話を聞く 機会があった。これはいい機会だとおもって、聞いてみたい関心のあるところ をたずねてみた。その肝要なところを記してみる。わたしが知っているのは山 岸会がまわりを一般社会に囲まれたユートピアだということだけだった。質問(吉本)
もし会員のなかの若い女性が現在の優れた流行の服装(例えばそれしか 知らないからコム・デ・ギャルソン)を着てみたいと望んだらどうするのか。答(山岸会の会員)
もちろん係りが望み通りのものを求めて着てもらう。欲求はすべて叶えられ る。(わたしはゼイタグ品だからダメという答えを予想していた。)
質問(吉本)
それぞれの会員はユートピアに叶うためにどんな等価労働をしているのか。答(山岸会の会員)
自分の得意な労働をすればよい。掃除が得意な者は掃除、洗濯の好きな者は 洗濯、大工仕事の得意な者は大工といった具合だ。(それでは等価労働にならないのではないか。たぶん経済的に成り立つには主 催者は別の等価源が要るはずだ。)
質問(吉本)
もし会員の子弟が特殊な分野の勉強がしたくて一般社会にしか教えてくれる 先生や専門家がいないので、そこで勉強したいといったらどうするのか。答(山岸会の会員)
そんな子はいませんよ。(なぜという疑問を感じたが、会員も反対の意味で疑問を感じたらしい。)
質問(吉本)
自分の欲しいものは自身で購入したいからその額のお金を渡してもらって買 いに行きたいと求められたらそうしていいのか。答(山岸会の会員)
係りがいて要求通りのものを必ず購入してくれるのだから不必要です。(わたしは一般社会に囲まれたユートピアにとってこれは重大なカギだなと感 じた。)
吉本さんは根本的な特色を2点取り出している。
(1)
『管理組織の首脳がこのユートピアの成立のために会員の等価労働など求めて
おらず、自己財産かまたは別途利潤を用いていることだ。山岸会の場合、養鶏
と卵の販売などが伝わっている。』
私は「山岸会」という組織があることは知っていたが、その内容については
全く知らなかった。インターネットで調べてみたが、なんと山岸会の生産物
(たぶん農業の)の年間売り上げは240億円(1991年度)とあった。
また会員からの財産提供もあるようだ。1996年に「総額2億6000万円余りの
財産返還を求める裁判」を提訴した人がいる。
(2)
『労働作業を求めても、欲求を充たしても、会員がそれを方法として習熟し、
自分がいつでも組織首脳やその下僚にとって代わる主体的可能性を教えること
はない(係りと欲求会員の完全な分離)。』
山岸会はその組織についての理念を次のように述べているが、その理念は 実行されていないことになる。
『会の組織といっても、同じ目的を持った会員同士が自発的に活動を行い、
一人でやってもよいのですが、個々別々にやっても効果が薄いから、提携し
たり協力したり、互いの異なる考えを忌憚なく話し合って(研鑽)一致点を
見いだしながら活動を行う上意下達的な組織ではありません。
ですから本部といっても、意志決定機関ではなく、会員間の意見調整のため
の連絡機関であったり、個々の実践活動を支援するための世話をする補助的な
実務機関であるという性格をもっています。』
『一般社会に囲まれた閉ユートピア』は山岸会のような方法以外では成立し
ない、と吉本さんは指摘している。
欲求はどんなものも叶うが、自分が金銭を手にしてその欲求を遂げることは できない(しない)。それはユートピアの外界を見聞させて、その汚れに染ま らせたくないからではない。「役割」を分担させたいからだ。そういうことに なる。この「分離」は、外側の一般社会を雑種社会とみなしその内側に「ユート ピア」とみなした「社会」や「国家」を作ろうとするすべての管理システムを含 む「社会」に当てはまる。けれどはじめから一般社会から閉じられた「ユートピア」は成り立たない。 それはレーニンのロシア革命のように主宰者主権(集団)の利益を最優先する 反ユートピアに終わるほか理路がないからだ。レーニンをはじめロシア共産党 の成員が個人利益を優先する弱さをもっていたからではない。つまり人間とは そんなものだからではない。理念とその遂行にはじめから誤りがあったから だ。
これは深刻な問題を提起する。何となればわたしの考察ではこの山岸会の 方式は、現在あらゆる管理社会(「国家」)、部分社会のモデルになってい ることがすぐにわかったからだ。大は「国家」(「社会」)から小は思考、 宗教、教育の自由化、ユートピア化にいたるまで、大なり小なりこの方式の 模倣だといえる。
例えば管理首脳が下僚を意のままに動かせる「鉛の兵隊」に仕立てれば、 すぐにファシズムやスターリン主義に変貌するし、嘘と競争とを激化すれば 資本主義の政治に変貌する。これを防ぐ方法は管理制度を変える以外にない。
山岸会では独自の教育機関(学校)も設立している。しかし、これに ついても「児童生徒への虐待の事実」があり「子どもの人権侵害」が問題にさ れているようだ。
(1)
欲望を叶えられる者とその欲望を求めて手に入れてくる者とは別人で分離さ
れている。
(2)
一般成員はどんな仕事にたすきわるのも自由だが、ユートピアの経営に直接関わる
ことに無関係の位置に置かれる。
このような高度な管理システムをどこかに含む組織集団(国家、社会、 あるいは部分社会)を『擬似ユートピア』と吉本さんは呼んでいる。そして 『わたくしの乏しい知見からは、この擬似性を免れている高度社会は現在まで 存在していない。』という。
ではこの擬似性を回避するのにどのような処方箋がありえるか。
管理社会の首脳の側面から考えると現在の高度管理に異論をもち、自己の発 想、現役割、もしかすると収入と支出の自由と規模から考えて自己修正した管 理システムを実現しようとする首脳など存在しないといえるかもしれない。わ たしもはじめそう考えてもはやどんな修正意見も先細りになってゆくし、反対 や改善にまわることはあり得ないとおもえた。絶望するほかないとおもえた。
どうすればこの擬似性を免れるか。わたしなりにぎりぎりのところまで考え てみた。なぜなら管理システムの高度化は今後電子装置、交通装置の発達と情 報科学者たちの無自覚な寄与や関与によって加速加重をかけられることは疑い ないからだ。
科学のもつ中立性は押しとどめることはできないし、またこの科学の中立性 は人間の倫理性とは無関係に、どんな資本主義の競争にも社会主義の独裁にも 利用され得るからである。率直にいって現在の擬似ユートピアを超える方法は 皆無ではないかという絶望感に襲われる。しかしこの絶望感、言い換えれば科 学のもつ中立性こそは、また大きな利点であることが見出される。それは絶望 の希望ともいうべきものだ。
大なり小なり政治的(つまり社会集団的)理念と論理に関わりをもつ思想は はじめから開かれていなければ「ユートピア」社会を作り得ない。別の言い方 をすれば、一般社会のもつ雑種性の自由度と管理システムより優れた管理社会 を作り得なければ何の意味もない。つまりは開かれても引き入れる利点をもた ないならばどんな口先の当たりがよくても意味をもたない。「開かれた社会」とか「国家を開く」とかいう言い方で使かわれている 「開く」という言葉は吉本ユートピア論の最も重要なキーワードだ。 一般成員の無記名投票によって管理首脳をいつでもリコールできる仕組みを 備えることを「開く」といっていたと思う。しかしここでは管理システムを運 営する上での理念が問題になっている。開かれた上にさらに『引き入れる利点 』を備えるのには何が必要かと問うている。
管理される者の利益、自由度、志向性、意志をいつも最優先に置くこと。言 い換えれば管理制度がそのために必要である当のことを第一義とすることだ。 そうでなければ当の管理社会は廃棄されるか改善きれる以外に意味をもたない。たった一つの希望とは、繰り返しになるが次のような原則だ。
「すべての管理システムをもっている国家、社会、部分社会は管理される者の 利害、健康、自由を最優先すること。これに反する管理システムは破棄される か、または修正されること。」
管理者やその下僚は、管理される者の利害得失にたいして等価以上の支払い を求めないこと。言い換えれば管理首脳群と下僚がそれ以上の利得を得たいと きは(つまり等価以上の利益を得たいときは)別途の方法によること。
『管理される者の利害得失にたいして等価以上の支払いを求めないこと。』
という文が分かりにくい。私は「公務員の給料は一般大衆の給料をうわまわら
ない。」と同じ意と読んだがどうだろうか。
『管理者やその下僚』とは、言うまでもなく国家の場合は「政府と官僚」を
指す。ここで述べられている理念はコンミューン国家あるいはリバータリアン
社会主義社会の要件の一つである。しかしここでは『管理者やその下僚』が固
定化されていることを前提としているようだ。したがってこのシステムは階層
的である。コンミューン国家あるいはリバータリアン社会主義社会とはこの点
で異なる。現状の枠組みとは関わりなく言えば、当番だから仕方なしに『管理
者やその下僚』をやろう、というのが理想だ。これも実はどこかで吉本さんが
言っていた事だった。
ソ連におけるスターリンによる「粛清」という惨劇は、スターリンが冷酷無比で
残虐な性格をしていたからではない。日本赤軍による「総括」という惨劇も、
彼らの性格に重大な欠陥があったからではない。いずれもその思想を支えている
「理論」あるいは「理念」にその淵源を求めなければならない。
重大な誤謬を含んだ「理論」はさほどに恐ろしい。こうした事件に対して
当事者たちの性格のせいにして済ます論者ばかりがマスコミをにぎわすが、
全く浅薄としか言いようがない。そのような浅薄な理論からは未来への希望は
何にも生まれない。
ここで「第489回」で書いたことにつながる。
『ロシア革命がスターリン主義へと堕落していく根源的な要因はレーニンに
あった。一つは理論上の誤謬である。「レーニン矛盾論の誤謬」が「欠落の理論」を生み、
「粛清の論理」へとつながる。これは三浦つとむさんが「レーニンから疑え」でつ
とに指摘していることだ。この問題は稿を改めて取り上げたい。』
というわけで、今回から三浦つとむ著「レーニンから疑え」(芳賀書店1964年 なんと 42年も前の本だ!)所収の同名の章を読んでいくことにする。
レーニンが1909年に公刊した「唯物論と経験批判論」に対する三浦さんの評価から
入ろう。
当時のレーニンの哲学研究はまだ十分ではなかった。ゴリキーあての手紙にも、 「私たちは単純なマルクス主義者です。哲学はよく読んでいません。」とのべら れているが、マルクスおよびエンゲルスの著作にもられた哲学思想を十分にくみ とるだけの条件を持っていなかったにももかかわらず、同志たちが観念論にまど わされているのを知って、マルクス主義擁護のために立ち上ったのである。とこ ろが官許マルクス主義にあっては、レーニンのこの本はマルクスおよびエンゲル スをさらに前進させたものとして聖書あつかいされている。ソ連の哲学者はつぎ のようにのべている。「レーニンは、客観的に存在する世界の反映論としての弁証法的唯物論の認識論 を全面的にしあげた。彼は、認識の歴史的発展過程の複雑な弁証法的性格を示し、 絶対的真理と相対的真理の弁証法の基礎をきづいた。」(『哲学教程』)
事実はこのような信仰的解釈とまったく反対なのである。レーニンは決して 「全面的」にしあげていないばかりでなく、後退させているのであり、絶対的 真理と相対的真理の弁証法の基礎をきづいたのもエンゲルスであって、レーニ ンはそれを修正してしまっているのである。
このレーニンの神格化には、スターリンが一役買っていた。彼は自分が 「レーニンの弟子」であることを、そのもっともすぐれた弟子であることを、 一枚看板にしたのである。革命運動におけるレーニンの同志たちが、哲学的 論文を書いたとき、レーニンと肩をならべるだけのものを書けなかったこと は事実であるが、彼らがレーニンを神格化しなかったこともまた事実で ある。スターリンは、彼らの哲学的論文にあやまりがあったことと、彼ら がレーニンを神格化しなかったことを意識的にむすびつけ、彼らは「反レーニ ン的」だと攻撃した。レーニンの哲学活動を過大評価しないことと、彼の革 命運動への功績を高く評価することとは別の問題である。けれどもソ連の国 民が革命の指導者としてのレーニンを崇拝している中で、この「反レーニン的」 というレッテルをはることは、「反革命的」ないし「反ソ的」と受けとられる ようなムードを生み出していく。スターリンは、かつてのレーニンの同志たち を「反レーニン的」だとよぶ一方、自らを「レーニンの弟子」だとよぶことに よって、国民が一方を「反革命的」分子、他方を「革命的」指導者だと拡大解 釈するようにしむけ、そこから粛清へと持っていったように思われる。