<7>「伝示?世」
ここに示された用語も踏まえて、古田さんは解読結果を次のようにまとめている。
『ここには、下賜をしめす言葉も、献上をしめす言葉もない。自国の自負と助力の切望と
混交しながらも、本質的に同列、ないし同格の立場を保った苦心の用語法だ。わたしには
そのように見える。』
七支刀の銘文そのものからは、皇国史観による「献上説」もその反動とも言うべき「下
賜説」も否定されることになる。
では「献上説」の最強の論拠となっている「神功紀」の次の記述は何なのだろうか。
(神功)五十二年の秋九月の丁卯の朔丙子に、久氏(くてい)等、千熊長彦に従ひて 詣(いた)る。則ち七枝刀一口・七子鏡一面、及び種種の重宝を献る。
「古事記」の「応神記」に次のような記事がある。
また百済の国主照古王、牡馬壱疋、牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上(たてまつ)りき。 また横刀(たち)また大鏡を貢上りき。
この「横刀」は腰につける佩刀であって「七支刀」ではありえない。そして最も重要
なことは「古事記」の「神功記」には「七支刀」の記事はないということだ。今までの
論理と同様、「記紀」の史料性質からは次のような結論しかありえない。すなわち
『ない方が原形か、ある方が原形か。やはり、天皇家の説話の書である『古事記』が、
このようにはなはだしい献上記事をカットする。それは考えがたい。とすれば、
『古事記』の方が原形、『日本書紀』の方が、他からの挿入形。そのように考えるほか
はない。
では、その他とはどこか。前述来の論証、また後述の論証のしめすように、それは九
州王朝しかない』
最後に、「七支刀」銘文の解読を、古田さんは次のように締めくくっている。
第一。戦前の皇国史観以来の「献上説」、それは金石文そのものの解読からも、『日本書紀 紀』に対する史料批判からも、否定されねばならぬ。第二。「下賜説」は、右に対する否定、ないし挑戦として出現した。その研究史上の意義 は十分評価すべきだ。だが、金石文自身のしめす事実とは一致しなかった。
第三。これに対し、支持さるべきは「対等説」だ。金石文自身のしめすところ、それ以外 にありえないのである。
第四。もう一つの肝心の点。それはここに現われている「倭王」が、近畿天皇に非ず、九 州王朝であることだ。これはこの金石文自体からではない。「倭の五王」はどの王朝か、こ の問いに対する答えによって、はじめて確固とすべきものである。
(『日本書紀』における「七枝刀」記事が、「卑弥呼」や「壱与」と同一視された神功皇后の項に 入れられていること、この年代上の錯誤も、この「七校刀」記事が、本来近畿天皇家に非ざる一 傍証となろう。)
以上によって、この七支刀が、四世紀後半における百済と九州王朝との間の国交をしめす、 重要な金石文であることをしめしえた。
「好太王碑」の碑文は1800字余。古田さんのその読解は50ページ(朝日文庫版)に 及ぶ。論証部分を省いて、古田さんが読み解いた「事実」のポイントのみを列挙 する形で紹介することにする。なお、引用の碑文は古田さんの口語訳であり、『 』内の文章は 古田さんのコメントである。
<1> 書き出し―高句麗王家の出自
おもえば昔、始祖鄒牟王(在位紀元前37〜同20)が基を創めたときのこと、 王の出身は北夫余の地であった。父は天帝、母は河伯女郎であった。卵を 剖(さ)いて地上に降り、この世に生れきたったのである。
『北夫余の中心の神に対し、いったん「天帝」と漢語で表現するとき、見のが しえぬ問題が生ずる。なぜなら中国における「天子」とは、天帝から天命を受け た子の意味である。したがってこの碑文は、中国の天子と相並ぶ存在、そのよう に自家の始祖を、やがては代々の高句麗王を見なしているのだ。』
<2> 高句麗と「百済」「新羅」との関係
百残(百済)や新羅は、もと(高句麗の)属民であった。そこで由来、朝貢して きていた。
<3> 倭との交戦
倭が辛卯年(391あるいは331)に(百済・新羅の地に)やって来た。 (そこで王は)海を渡って百残を破り、新羅(と共に)、これを臣民としたので ある。
そしてこの新羅の奈勿王の364〜393年の期間、百済はあの七支刀の近肖古王
(在位346〜374)、およびそのあとの四代に当っていた。「七支刀」の銘文の
「百済と倭との友好が永く後世に伝えられるように」という末尾の文の通り、
両国の同盟は、右の期間も一貫して強固だったと考えられる。
『その上、好太王の晩年(405〜411)に当る百済王は、腆支王(405〜419)
だった。この王は、王子時代倭国に人質となり、その後、倭王の友好に守られ
つつ、人質の地から帰国して王位についた、というあの王だったのである。
以上によってみると、好太王の即位直前において、すでに「高句麗―新羅」
対「百済―倭」という対立関係、それが抜きさしならぬ状況にあったことが知ら
れる。
したがってこの碑文のしめす国家関係、それが文字通り真実(リアル)である
こと、それは疑いえないように思われる。』
永楽九年(399)己亥、百残は太王への誓いに違(たが) い、倭と和通した。そこで太王 は平壌に巡下した。そこへ新羅が使を遣わしてきて太王のもとに訴えてきていう には、「倭人がその(新羅と倭の)国境に満ち、城池を潰(こわ)し破り、高句 麗の『奴客』であるわたし(新羅王)の民を(倭の)従属民としています。わた しは太王に帰属し、その命に従いたいと思います」と。
太王は新羅王の忠誠を受け入れた。そして自分がその訴えを聞き入れたことを 新羅王に報告させるため、新羅の使を本国へ遷した。
@韓は帯方の南に在り、東西海を以て限りと為し、南、倭と接す。(韓伝)
A(弁辰)其の涜盧国、倭と界を接す。(韓伝)
B(郡より倭に至るに)…‥其の北岸、狗邪韓国に到る。(倭人伝)
C倭地を参問するに、……周旋五千余里なる可し。(倭人伝)
『三国志』では「倭国」とは、朝鮮海峡という一衣帯水の海の「両岸」にまたがる国家
であった。もちろんヤマト王権が支配する国ではない。倭国の都は、一衣帯水の海の「南岸」
にあったのだ。博多湾岸だ。九州王朝の都である。
この三世紀の国家関係が、大わくにおいてそのまま四世紀末、五世紀初頭まで連続されて
いることを好太王碑の「国境」が示していることになる。つまり、高句麗・新羅と熾烈な
戦争を行っていたのは九州王朝であった。
<5>守墓人
国岡上広開土境好太王は存命中、教えて次のように言っておられた。「祖王・先王は、 但(ただ)遠近の旧民だけをえらんで、守墓・洒掃(掃除)をさせておられた。 (これに対し)わたしは旧民の能力が転(うた)た劣っていることを心配し、もしわたしの 万年のちも安らかに墓を守ろうとするためには、但(ただ)、わたしがみずから軍を率いて 攻略してきたところの、韓・穢の民を使って洒掃の役にあてさせるのがいいと思う」と。
高句麗軍はいったんは「任那・ 加羅」を征圧下においたのである。
(中略)
しかるに後半の「守墓人」の段になると、「任那・加羅」は、その守墓人の地に入れられ ている形跡がない。また「安羅」も、その名が出ていない。――ということは、これらの地 帯は結局、高句麗軍の支配下に入らなかった。いいかえれば、結局、高句麗軍はこれらの地 から撃退された。翻せば、最後はこの地帯では高句麗軍は倭軍とその同盟軍に敗退したこと が(全体の構文の中に)実は暗示されている。
けれどもこの石碑は「勲績碑」であったから、それらの敗退戦については、ここに刻され ていない。――そのように理解すべきであるように、わたしには思われる。
このような理解は、次の史実の光を混迷の暗影の中にクツキリと浮かび上らせる。――の ちの「任那日本府」「安羅日本府」の地は、好太王の遠征軍を撃退し、倭国軍に属する地と して(六世紀中葉までは)保全された。この重大な帰結である。
(神功摂政四十九年)春三月、荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)を以て将軍と 為す。即ち久?(てい)等と、共に兵を勒(ととの)へて度(わた)り、卓淳 (たくじゅん)国に至りて、将(まさ)に新羅を襲(おそ)はむとす。時に或(あるひと) の曰く「兵衆少くぱ、新羅を破る可からず。更復(また)、沙白(さはく)・蓋廬(かふろ) を奉り上げて、軍士を増さむことを請ふ」と。即ち木羅斤資(もくらこんし)・沙沙奴跪(ささぬき)(是の二人は、其の姓を知ら ざる人なり。但(ただ)し木羅斤資は百済の将なり。)に命じて、精兵を領(ひき)ゐて、 沙白・蓋廬と共に遣はしき。倶に卓淳に集ひて、新羅を撃ちて破る。因りて、比自?(ひしほ)・南加羅・?(とくの)国・安羅・ 多羅・卓浮・加羅、七国を平定す。仍(よ)りて兵を移して、西に廻りて古奚津(こけいのつ)に至り、南蛮の 忱彌多礼(とむたれ)を屠(ほふ)って百済に賜ふ。(「?」はテキストファイルでは表記できない漢字です。)
是に、其の王、肖古及び王子貴須(くゐす)、亦軍を領(ひき)ゐて来会す。時に比利・辟中 ・布彌支(ほむき)・半古(はんこ)の四邑、自然に降服しき。
是を以て、百済の王父子及び荒田別・木羅斤資等、共に意流村(おるすき)(今、州流 須祇(つるすき)と云ふ。)に会ひぬ。相見て欣感す。礼を厚くして送り遣はす。唯、千熊 長彦と百済の王とのみ、百済国に至りて、辟支山(へきのむれ)に登りて盟(ちか)ふ。復(また)古沙山(こさのむれ) に登りて、共に磐石の上に居す。
(中略)
即ち(百済王)千熊長彦を将(ひき)ゐて、都下に至りて厚く礼遇を加ふ。亦久?等を副(そ) へて送る。
実は私は、「改竄説」問題は古田さんの論考によって決着済みのことと理解している。 だからこのことには触れずに、今回から前回末尾に紹介した「神功紀」の記事の解読に 入る予定だった。しかしやはり「改竄説」のことを書きとめておこうと予定を変更するこ とにした。理由はこうだ。
先日(24日)、偶然に「好太王碑を巡る論争・水谷拓本と新発見の墨本」と題する講演会のチラシ
を見た。講演者は「李進熙」(和光大学名誉教授)とある。チラシ裏面には2005年6月23日付
の毎日新聞の記事がそのまま掲載されている。その記事は中国社会科学院の徐建新・教
授が中国の学術誌「中国史研究」に発表した論文を紹介している。それによると改竄され
たものとされる「酒匂本」より古い墨本が発見されたが、それと「酒匂本」とには異同は
認められないという。記事は「洒匂本より古い本に旧陸軍士官の意向が働いたとは考えられ
ず、徐教授の見解に従えば改ざんは否定されることになる。」と書いている。
これに続いて記事は本文中で李進熙の意見を次のように紹介している。
これに対し、改ざん説を唱える李進熙・和光大学名誉教授は「新たな墨本は非常に貴重な 発見。洒匂本と同じく、最も早い段階のものだ」とした上で、「こけなどを取り除くため、 碑は1882年に焼かれている。新たな墨本の字も焼かれた痕跡が見え、それ以前ということ はありえない。抜文(新発見本の)は誇張が多く、書いてあることが正しいとは限らず、 論文は間違っている」と反論している。
墨本は縁取る時に文字をどう読むかという解釈が介在する。新発見の墨本と酒匂本の文 字が同じということは、同じ人やグループがかかわった可能性が高いことを示す。この墨 本が洒匂本より古いのなら、どちらも旧日本軍の意向とは無関係につくられたということ だろう。これで改ざん説はほとんど成立不可能となったと考える。
古田さんは今までに「改竄説」を巡って行われた調査・論考を検討しながらご自身の論考 を進めている。「改竄説」を巡る古田さんの論考は約10ページ(朝日文庫版「日本列島 の大王たち」)にわたる。例によってポイントのみの紹介をする。
「改竄説」が疑惑としている箇所の銘文は次のくだりである。
倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民(□□□は欠落部分)
改竄の犯人を日本の参謀本部と見なす立場から、「改竄説」はこの中の「倭」の一字
を問題の焦点としている。
これについての古田さんの論考は次のようだ。
ところが「倭」の字はこの碑面に九回出現する。@倭以辛卯年来 (第一面九行)
A百残達誓与倭和通 (第二面六〜七行)
B倭人満其国境 (第二面七行)
C至新羅城倭満其中 (第二面八行)
D官兵方至倭賊退 (同右)
EF倭満倭潰城 (第二面九行)
G倭不軌侵入帯方界 (第三面三行)
H倭寇潰敗斬殺無数 (第三面四行)
(今西龍の釈本による)この中で各種の拓本・写真等による文字のズレが指摘されたのは、先にあげた@の 個所をふくむ一部の「倭」であり、他の多くの「倭」は、それが見られないため、指 摘されていないのである。けれどもそれは改竄(もとの石の文字を削り、石灰による 造字を新たに行ったとする)が巧みに行われたため、いわばポロが出ていないように 見なされたようである。
ところがその後、いろいろな方面から、現碑を実際に調査した観察者の報告が数々も たらされた。
王氏の立論は、他にも多岐にわたり、種々興味深い論点をふくんでいる。しかし、そ れは他の機会に詳論したい。
しかし今は、次の二点を紹介するにとどめよう。第一
碑下に住んでいた初天富父子が、日本人の石灰を塗ったというような事実を知って いない。また碑の周囲にいた李清太もまたそのような事件を知らない。敵対性国家 (中国)の中で、このように大規模な「石灰塗布作戦」(李進熙氏の立論の一) を行って、人々に知られずにすむなどということは、不可能である。
第二
日本の参謀本部やその間諜、酒匂景信の、侵略と罪悪行為を明らかにすることは重 要だ。しかし、歴史は客観的存在であるから、その歴史を研究するには、実事求是が 必須である。双鉤本や拓本の文字の異同は、初父子の歴史知識の欠如によるものであ り、歴史を改変するためのものではない。以上、二点とも、わたし自身の年来の主張であった。本論文をもって、好太王碑文 の改竄間題は、一つのジ・エンドをむかえたようである。
なぜなら、従来の改竄論者は現碑にも接せず、現地の住民の証言も聞かず、ただ拓本 や双鉤本等からの類推にすぎなかった。これに対し、王論文は右の二原点に立脚した 確実、かつ安定した基礎研究だからである。
この部分は正しくはどう読むべきか。
「第402回」で述べてように、好太王碑碑文は好太王を「天帝」の子孫であると称している。
また当時は百済と倭は同盟関係にあった。この2点が重要なポイントとなる。
古田さんの読解をそのまま記載しよう。古田さんはまず「以為臣民」の部分
から読み解いている。
この碑面では、好太王は天子に匹敵する位置にあり、天子専用の術語が 使われている″。このルールを確認するとき、一つの重要な解決が現われてくる。
従来は、ほとんどの学者がこの「以て臣民と為す」の主語を「倭」と解してきた。
けれども、この「臣民」という用語の「臣」は「君」の対語である。@君、君たれば、臣、臣たり。 (『論語』顔淵)
A諸侯臣伏す。 (『管子』四称)そして、諸侯の臣服すべき存在、それは当然天子その人だったのである。この点、「臣民」 という用語もまた、「天子に服従する者」という意義を本来とすべきこと、当然といえよう。
(中略)
このような術語の使用法から見ると、「太王」(好太王)を天子に準ずる位置におく好太王 碑の文面内では、「臣民」の主語となりうるものは、他にない。――好太王である。
ここのところは、上に三字の欠字があるから、明言はできないけれども、「海を渡って百 残を破り……臣民と為す」の部分の主語は、倭ではなく、好太王ではないであろうか(朝鮮 半島側の学者からも、その立場の説が出されている)。
その意味は、
百残や新羅は、もとは「属民」として「朝貢」してきていた。けれども、倭が来って、百 済と同盟を結んだり、新羅を侵犯したりするようになったので、渡海作戦を実行して百残を 破り、その結果、召残(や新羅)を直属下「臣民」とすることとした。″ ほぼ、このようであると思われる。
第一
好太王が渡海作戦を得意としたらしいことは、永楽14年(404)項にも見られる。すなわち、 倭軍がルールを破って帯方界に侵入したとき、好太王は、「船を連ねて」これを撃った、との べられているようである。
朝鮮半島の地形からして、このように海上を迂回して敵軍の背後を突く、そういう作戦は 当然考えられるべきであろう。
百済本紀の辰斯王の項に、(辰斯王8年=391)王聞く、「談徳(好太王)、能く兵を用う。出て拒むを得ず」と。
作戦と実行の天才として百済側からも認められていた好太王が、この点に着目しないはず はない。
第二
これに対し、倭軍は新羅に侵入するさいにも、渡海の必要など、全くないのである。 なぜなら、倭地は洛東江沿いにひろがっており、東は新羅と西は百済と共に「其の国境」を もっていたからである。このような「国境」認識は、好太王碑それ自身の地理認識であった。 したがって「渡海」を、すぐ「倭」と結びつけて考えるのは、後代人たる現代人が、現代の 国家関係(朝鮮海峡でへだてられている状況)をもとに、この四〜五世紀の文面を読んだ、そ のためではないであろうか。
この点からも、「渡海……為臣民」の主語は、「倭」ではなく、好太王である。第三
もう一つの問題は「破百残」である。
先ほどからのべてきたように、四世紀後半、百済は倭国との蜜月のさ中にあった。
時の、百済の辰斯王は、あの近仇首王の子供(仲子)である。「七支刀」を倭王に送り、 後世に伝示したのが、父の代であった。辰斯王の時代は、その「百済―倭」の同盟関係の中 にあった。さらに次の阿?(「草かんむり」+「辛」という字)王の 六年(397)、太子の腆支を倭国へ「人質」に送り、友好を深めようとしたのは、この 「辛卯年(391)」のわずか六年前である。『三国史記』のいずこを見ても、そこに見られる ものは「百済―倭」間の友好の片鱗である。その逆ではない。
このような当時の国家関係から見ても、「破百残」の主語を「倭」と見なすことは無理な のである。
(1)
(倭国側の)荒田別・鹿我別と百済人の久?(てい)等は軍を率いて卓淳国に至り、 新羅を襲撃しようとした。(2)
沙白・蓋廬(倭軍の将か)と木羅斤資(百済の将)と沙沙奴跪(倭人か)等が加わり、卓 淳国に集って新羅を侵犯した。(3)
その結果、比自?(ひしほ)・南加羅・?(とくの)国・安羅・多羅・卓浮・加羅という 洛東江沿いの七国は安定した(倭地)。(4)
この倭・百済連合軍は古奚津(全羅南道康津か。済州島に渡る要津)から忱彌多礼 (済州島)を襲い、これを百済のものとした。(5)
百済王の近肖古王と王子の貴須も、その地(忱彌多礼)に来て、右の連合軍と相会した。(6)
比利・辟中・布禰支・半古の四邑も、百済王に帰服した。(7)
そこで百済王父子と荒田別・木羅斤資等は意流村(百済国の聖地の一。漢城か)に相会 し、成功を祝した。(8)
さらに千熊長彦(倭軍の将)と百済王は、百済国の辟支山(全羅北道金堤か)に登って (倭国と百済国の)同盟を誓い合った。
さらに古沙山(全羅北道古阜)に登って、重ねて同盟の誓いを結んだ。(9)
百済王は都(漢城=尉礼城か)に千熊長彦を迎え、厚くこれを遇した。そして久? (くてい)等に(倭地への)帰国の途を送らせた。
論証一
「日本書紀」の文章配置のデタラメさ。
(一)
(神功)三十九年。是年、太歳己未。親志に云ふ。明帝の景初三年六月、倭の女王、 大夫難升米等を遣はして、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝貢す。太守揄ト 吏を遣はして将(ひき)ゐて送りて、京都に詣らしむ。
四十年。魏志に云ふ。正始元年、建忠校尉梯携等を遣はして、詔書印綬を奉りて、倭国 に詣らしむ。
四十三年。魏志に云ふ。正始四年、倭王、復(また)使大夫伊声者掖耶約等八人を遣はし て上献す。(二)
次に件の文(神功四十六年〜四十七年、五十年〜六十五年は略)。(三)
六十六年。是年、晋の武帝の泰初二年。晋の起居注に云ふ。武帝の泰初二年十月、倭 の女王、訳を重ねて貢献せしむ、と。
論証二
すでに論証済みの「七支刀」との関連。
さらにこの記事は、近肖古王に関する記事だ。つまり、すぐあとの神功五十二年 の項に出てくるあの七支刀(七枝刀)の記事と一連の記事なのである。
七支刀が「百済−近畿天皇家」間ではなく、「百済−倭国(九州王朝)」間の贈与品 であったことは、すでに証明した。とすれば、右の神功四十九年項もまた、当然倭国 (九州王朝)に関する記事とならざるをえない。
さらに、この記事は『古事記』には全く出現しない。『古事記』では、神功皇后 は新羅の海岸に到着し、その歓待を受けたにとどまり、一切戦闘など行ってはいない のである。
この点からも、『日本書紀』の右の文章の方が後からの付加、挿入であることが分る。な ぜなら、もし本来が『書紀』の形であったとしたら、『古事記』の方がこれを削り、天皇家 の軍の海外における一大戦勝結果をあえて削る、そんな道理はありえないからである。
そうだ。あの公理。――近畿天皇家の史官は、天皇家にとって有利に加削するのであっ て、不利に加削することはありえない″のだ。
右の説話自身の中にも、ことの真相を明らかにする、史実の鍵がひそめられている。
それは出発点だ。「卓淳国」(今の大丘県)が進軍の発進地とされている。ここは海岸部 ではない。洛東江もかなり奥地に当る。そこがなぜ進軍の出発地とされるか。これが問題だ。 確かに、もしこれが『書紀』の立場、すなわち神功皇后の進軍ルートであるとしたなら、 この形はおかしい。なぜなら神功皇后ははじめて朝鮮半島に渡海した、そのあとなのだから、 いきなりその奥地から発進できるはずはない。ここには飛躍がある。しかしながら、これが倭国(九州王朝)、つまり七支刀を近肖古王から贈られた倭王の軍 であったとしたならば、きわめて自然である。なぜならすでにたびたび強調してきたように、 少なくとも三世紀以来、洛東江流域には倭地が存在していた(腰岳の黒曜石の分布から見れ ば、その淵源ははるか縄文期に遡ることができよう)。
そして東側の新羅とは国境侵犯の紛争もくりかえしていた。それは四世紀末から五世紀初 頭の史実をしめす好太王碑中の「其の国境」問題によっても確かめられた。
このような歴史的前提から観察してみよう。この発進地、卓淳国は、「倭地」の突端部、 この地理的状況にピッタリ適合しているからである。
七支刀(七枝刀)記事と同じく、九州王朝に関する記事を切り取って『書紀』の編者がこ れを、近畿天皇家用に転用していること、その証拠がここでも歴然とあらわれている。以上にのべたこと、それは平たくいえば次のようだ。
『書紀』の編者たちは、他王朝(九州王朝)についての記事をもってきて、自分たちの 王(―分王朝)の記事の中に接ぎ木しようとした。ところが、その挿入の仕方がうまくゆ かず、結局接ぎ目をちぐはぐにしてしまった。″
こういうことなのである。この一見簡単なミスのもつ意味は意外に大きい。なぜなら『書紀』の編者たちには、この 説話の中に詳細に列挙されている洛東江流域や朝鮮半島南辺の地名に対して、およそ土地鑑 がなかったのである。「卓淳国」がどのあたりに位置するか、認識していなかった。あれほ ど海岸から奥まった地点だとは思ってもいなかったようである。いなかったからこそ、この ような接ぎ目のちぐはぐが生じた。――このように見るのが、筋の通った理解の仕方ではあ るまいか。
高句麗の好太王と晋の安帝の在位期間は下記のようになる。
391年 好太王即位
396年 安帝即位
412年 好太王没・413年 長寿王即位
418年 安帝没・恭帝即位
420年 東晋滅亡
好太王碑には好太王の最初の勲功の年は永楽5年(395)と記録されている。
一方、倭王・讃についての記録は次の通りである。
@ (396年〜418年)
晋の安帝の時、倭王賛有り。 (『梁書』倭伝)
A (413年)
(晋安帝、義煕九年)是の歳、高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師、並びに万物を
献ず。 (『晋書』安帝紀)
B(「義煕起居注」)倭国、貂皮・人参等を献ず。詔して細笙・麝香を賜う。 (『太平御覧』香部一、麝条)
C (421年)
高祖の永初二年、詔して曰く「倭讃、万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、
除授を賜う可し」と。 (『宋書』倭国伝)
D (425年)
太祖の元嘉二年、讃、又司馬曹達を遣わして表を奉り、万物を献ず。
古田さんの論証は次のようである。古田さんは「安帝の鎖の論証」と呼んでいる。
@で、倭王賛(讃と同じ)は、東晋の安帝のときに当るとのべられている。
してみると、この安帝の治世とは、すなわち好太王の活躍した時代だ。したがって好 太王の敵手であった倭王は、まず倭王讃。そういう三段論法が成立するのだ。これが安帝の鎖の 論証である。もっとも、厳密に考えると、一つの問題がある。それは安帝の末年(412〜418)の六年間は、 高句麗では、すでに好太王の時代は過ぎ、次の長寿王(在位413〜94)の時代 になっている。だから同じ安帝といっても、倭王讃はこの六年間に当っていたとしたら、好 太王とはすれちがいに終ることとなろう。
けれども、もしそうであったとしても、少なくとも讃の王子(太子)時代は、好太王軍と の決戦に明け暮れていたことであろう。
肖古王と貴須王子のごとく、王と太子が共に闘う、これが当時は珍しくなかったよ うである。
倭王武の上表文でも、同様の状況が暗示されている。「父兄」が一緒に戦陣の間に死んだ、 というのである。
このような戦国のならいからしても、倭の王子讃が、好太王と相対峙し、決戦をくりかえ していたこと、それはほぼ確実だ。次は、高句麗と倭国が並び貢献したというAの安帝の義煕九年(413)の問題。それは 好太王の没した翌年、長寿王即位の年である。好太王碑の建立された年(甲寅年、414) の前年に当る。つまり、あの長大な一世の一大巨碑がまさに着々建造中。そういう年だった のである。
好太王の死、―それは東アジア世界を駆けめぐった一大ニュースだった。それをわたし は疑わない。
好太王はアレクサンダー大王やナポレオン一世のように、東アジアの一角の政治・軍事上 の大勢を一変させた一代の風雲児だった。倭・百済の連合軍の前に劣勢下にあった父(故国 壌王)、その形勢を逆転したのだ。
その好太王が死んだ。――次はどうなる。そういう未知にふるえる緊迫のとき、それがこ の義煕九年という年のもつ意味だ。だから「高句麗・倭国」と何気なく並べて書かれている けれども、両者の貢献への思惑は鋭く対立していたのである。
1 (396年〜418年)
晋の安帝の時、倭王賛有り。 (『梁書』倭伝)
2 (413年)
(晋安帝、義煕九年)是の歳、高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師、並びに万物を
献ず。 (『晋書』安帝紀)
3(「義煕起居注」)倭国、貂皮・人参等を献ず。詔して細笙・麝香を賜う。 (『太平御覧』香部一、麝条)
4 (421年)
高祖の永初二年、詔して曰く「倭讃、万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、
除授を賜う可し」と。 (『宋書』倭国伝)
5 (425年)
太祖の元嘉二年、讃、又司馬曹達を遣わして表を奉り、万物を献ず。
讃死して弟珍立つ。傍を遣わして貢献し、自ら使持節・都督、倭・百済・新羅・任
那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭国王と称し、表して除正せられんことを
求む。詔して安東将軍、倭国王に除す。珍、又倭隋等十三人を平西・征虜・冠車・輔
国将軍の号の除正せんことを求む。詔して並びに聴(ゆる)す。 (『宋書』倭国伝)
6 (430年)
(文帝、元嘉七年、春正月)是の月、倭国王、使を遣わして万物を献ず。《珍》
(『宋書』倭国伝)
7 (438年)
(文帝、元嘉十五年、夏四月)己巳、倭国王珍を以て安東将軍と為す。 (『宋書』帝紀)
8 (438年)
(文帝、元嘉十五年)是の歳、武都王・河南国・高麗国・倭国・扶南国・林邑国、並びに
使を遣わして万物を献ず。《珍》 (『宋書』帝紀)
9 (443年)
二十年(文帝、元嘉二十年)、倭国王済、使を遣わして奉献す。復た以て安東将軍・倭国王
と為す。 (『宋書』倭国伝)
10(443年)
(文帝、元嘉二十年)是の歳、河西国・高麗国・百済国・倭国、並びに使を遣わして万物を
献ず。《済》 (『宋書』帝紀)
11 (451年)
(文帝、元嘉二十八年)使持節・都督、倭・新羅・任那・加薙・秦韓・
慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍は故(もと)の如く、并びに上(たてまつ)る所の二十三
人を軍郡に除す。《済》 (『宋書』倭国伝)
12 (451年)
(文帝、元嘉二十八年)秋七月甲辰、安東将軍倭王倭済、安東大将軍に進号す。
(『宋書』帝紀)
13 (460年)
(孝武帝、大明四年、十二月丁未)倭国、使を遣わして万物を献ず。《済》 (『宋書』帝紀)
14(462年)
済死す。世子興、使を遣わして貢献す。世祖の大明六年(孝武帝)、詔して曰く
「倭王世子興、奕世載(すなわ)ち忠、藩を外海に作(な)し、化を稟(う)け境を
寧(やす)んじ、恭(うやうや)しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を
授くべく、安東将軍・倭国王とす可し」と。 (『宋書』倭国伝)
15 (462年)
(孝武帝、大明六年、三月)壬寅、倭国王の世子、興を以て安東将軍と為す。
(『宋書』帝紀)
16 (477年)
(順帝、昇明元年)冬十一月己酉、倭国、使を遣わして万物を献ず。《興》 (『宋書』帝紀)
17 (478年)
興死して弟武立ち、自ら使持節・都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・
慕韓七国諸軍事、安東大将軍・倭国王と称す。順帝の昇明二年、使を遣わ
して表を上る。曰く「封国は……(中略)……以て忠節を勧む」と。詔して、武を使
持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・幕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭王に除
す。 (『宋書』倭国伝)
18 (478年)
(順帝・昇明二年)五月戊午、倭国王武、使を遣わして万物を献ず。武を以て安東大将軍
と為す。(『宋書』帝紀)
19 建元元年(479、高帝)進めて新たに使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦 韓・(慕韓)六国諸軍事、安東大将軍・倭王武に除し、号して鎮東大将軍と為さしむ。 (『南斉書』倭国伝)
20 (502年)
(高祖武帝の天監元年)鎮東大将軍倭王武を進めて征東将軍に進号せしむ。(『梁書』帝紀)
21 (502年)
高祖即位し、武を進めて征東将軍と号せしむ。(『梁書』倭国伝)
〔付〕22(522年あるいは519年―「三年くり上げ」問題)
継体天皇十六年。武王。年を建て、善記といふ。是九州年号のはじめなり。
(『襲国偽僣考、鶴峯戊申』)
これだけの記録があるのに「日本書紀」にはこれらと一致する記録がまったく
ない。この事実をあやしまずに、単なる語呂合わせに過ぎない脆弱な論拠(「第
349回」参照)で「倭の五王」をヤマト王権の天皇に当てて定説としている
学者たちの知的退廃を改めて思う。
ふと思いついて手元にある森浩一著「記紀の考古学」を調べてみた。「倭王興から倭王武の
ころ」という章がある。その中で曰く。
「安康天皇は『宋書』にあらわれる倭王興であることは定説とみなしてよい。」
「倭王武と推定されるワカタケル(雄略天皇)」
この著名な考古学者の著書は1996年〜2000年にかけて執筆されている。
一方、古田さんの主な著書は既に1970年頃から1980年代に刊行されている。 古田さんの論証になんらの反証もせずに、古田さんが論破した定説に相変わらず しがみついての論考はもはや学問とはいえない。それは単なるイデオローグ に過ぎない。古田さんの論考に対して「採択せず・論争せず・相手にせず」の 「三セズ」を決め込んで書かれている論文はすべて反故に等しいと言ってよい と、私は思っている。
天皇の名を漢風諡号ではなく和風の呼称で論述する見識を持つ森教授もまた「三セズ」一派の 学者なのか。やんぬるかな。
倭王が中国に送った国書、それがこれだけ長文で掲載され、保存されている例は他にない。 日本古代史上、無類の貴重な史料だ。『三国志』の魏志倭人伝に載せられた「魏の明帝の 詔書」に匹敵し、対をなすべき第一史料である。
中国から倭王の任命をうけてきたわが国は、はるかかたよった遠いところにあり、中国の 外において、一つの藩(はん=地方を鎮めて天子のまもりとなる国)となってまいりました。
昔より、わたしの先祖の倭王は、みずから甲(かぶと)や冑(よろい)を身につけ、山川を かけめぐり、やすらかなところとてないありさまでした。
東のかた、毛人(倭国の東隣の蛮族。倭種)の55国を征伐し、西のかた、衆夷(倭国の 本拠を指す。東夷の一)の66国を帰服させ、さらに海を渡り、海北に当る韓地の95国を平らげ ました。
中国の天子が天下を統治する道はやわらぎ、かつゆったりとしています。わが先祖は(天 子の配下の国として)その統治領域をひろげ、畿(天子のいる中心領域)からはるかにへだた ったところまで、天子の威令が及ぶようにしたのであります。
そして(各王朝の)代々にわたって天子に拝謁し、朝貢の歳をたがえることはありませんでした。
臣下であるわたしは、至って愚かな者でありますけれども、かたじけなくも、祖先の偉業をうけ つぎ、馬を駆って統一した国々を率い、自然の大道に帰し、これをあがめております(南朝の天子 を中心とする秩序に従ってきました)。
道は、はるか百済の彼方につらなり、武装して軍船をととのえてまいりました(朝鮮半島への出 兵の用意をととのえてきたことを指す)。
しかるに、高句麗はその大道をうしない、企図して(楽浪・帯方郡から百済に至る地帯を)現在の みつくそうとしております。辺境の民を奴隷としてかすめとり、殺害して止むことがありません。
そこで、いつも秩序がとどこおり、そのために従来の良い風俗が失われています。(楽浪・帯方 郡等への)道を進むということになっても、あるときは通じ、あるときは通じないありさまでござ います。
臣下である、わたしの亡父済は、まことに高句麗のあだをなす来寇が、天子の領地(楽 浪・帯方郡など)への道をさえぎりとどめているのを、心からいきどおり、弓をひく兵士百 万を率い、天下の正義の声に感じ、ちょうど大挙して出発しようとしたとき、(不慮の事故 で)父兄をともにうしなうこととなりました。そのため、すでに完成しようとしていた(高 句麗遠征の)功を、成功寸前で挫折することとなりました。
時、おりしも諒闇(りようあん=天子の喪。南朝劉宋の孝武帝の死。大明8年<464>か)に当って おり、(その時の倭王興 − 武の兄は)兵を動かしませんでした。そのために、兵力をやすめ、 いこわせて、まだ(高句麗に)うちかつことができずにいました。
(わたしの代になって)今いよいよ甲や兵器をきたえととのえ、無念の中に没したわたしの 父兄の志を再び実現させようと思います。天子の先陣としての正義の士である虎賁(こほん)の 士(周以来の官名。天子の出入の儀式に先後でこれを守る兵士)として、文武に功をたて、白い刃が 眼前にきりむすばれるときも、また危険などかえりみないつもりです。
もし天子の徳をもって万物をおおい、この強敵、高句麗をくじくならば、やすきに流れる ことにうちかち、困難にたちむかい、(代々中国の天子に仕えてきた)祖先の功にかわること がないようにしましょう。
ひそかに自分を開府儀同三司(「府」を開く特権をえた者の称号)の任の者と見なし、わた し以外の配下の者にも位や称号を授け、それによって中国の天子に対する忠節を尽くすよう、 すすめることとしております。
夏四月(うづき)に呉国(くれのくに)、使(つかひ)を遣(まだ)して貢献(ものたてまつ)る。
とある。以後全て相手の国名は「呉国」となっている。しかも「呉国」が日本に 朝貢してきたという。
私のような素人でも「はてな?」と立ち止まってしまう。今までにも明らかにされてきたように、
このように明々白々な矛盾はここだけではない。日本書紀のいたるところに露呈している矛盾をその
まま放置して、都合のよいとこだけを紡いで「定説」をでっち上げてきたのがこれまでの「学会」古代史
なのだ。古田さんの解読によれば、全ての矛盾は解決するのに、学会はいまだに古田さんを無視し続けてい
る。
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ところで、この頃の中国の政治状況は複雑だ。私は世界史を通して学んだことがなく、 日本書紀の編纂者と同じくらい混乱している。まずこの頃の中国の 状況を年表で確認しておく。
(第一学習社「総合世界史年表」より)
倭王・武を記録している中国史書は次のようであった。(前回掲載)
17 (478年)(『宋書』倭国伝)
18 (478年)(『宋書』帝紀)
19 (479年)(『南斉書』倭国伝)
20 (502年)(『梁書』帝紀)
21 (502年)(『梁書』倭国伝)
いずれも南朝である。「日本書紀」はこれら南朝の国々のことを十把一絡にし て、三国時代の「呉」の呼称を用いているようだ。 さて、ワカタケの治世は456〜479年である。中国の史書では 「17 (478年)」に「興死して弟武立ち」という記事があり、 「21 (502年)」には「武」を「征東将軍と号せしむ」とある。
この年代の大きなずれを「定説論者」はどのように言い逃れをしているのか。
雄略の治世は四五六〜七九年だ。雄略のあと、清寧・顕宗・仁賢・武烈と つづき、上の502年は、この武烈(498〜506)の在位期間だ。いくら『日本 書紀』の紀年が信用できないといっても、雄略をここまで下げたのでは、あと (継体以降)がつかえてしまう。だから、雄略天皇の治世は六世紀初頭までつ づいていたという論者は、さすがにいない。そこでこれに代って、『梁書』の、倭王武への授号記事は信用できない″ 倭王武の死を知らず、形式的に授号しただけ″といった遁辞が現われる。 ――まさに遁辞だ。なぜなら、その記事そのものが客観的に見ておかしい、 というのではない。すなわち、それは「高句麗王、高雲→車騎大将軍」 「百済王、余大→征東大将軍」といった記事と一連の記事だ。だが、これらの 記事を敢えて疑う論者はいないのである。
それどころではない。これにつづく、同じ武帝紀(下)の、普通二年(521)十二月戊辰、鎮東大将軍、百済王余隆を以て寧東大将軍と 為す。
の記事は、武寧陵碑の墓誌によって裏づけられている。金石文の保証付きだ。 そのように信憑性ある『梁書』の授号記事を疑う、それは筋が通らない。その 筋の通らないことをなぜしなければならないか。その理由は他にはない。 「倭王武=雄略」とするためだ。
こんなやり方で成り立たせねばならぬ定式とは、一体何だろう。要するに 無理を犯しているのだ。