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301 日本の支配者は誰か(8)
政党にはどんな役割が振ってあるか。「改革」の意味はどこにあるのか
2005年6月14日(火)



 「以上のような前提をおいて、政党の全社会的な配置について簡単な描写を試みよう。」と、 論文の筆者は各政党の性質役割を次のように素描している。
自由党
  政府与党として、支配階級を正式に代表する。したがって全体的な立場は向米一辺倒が 本質となる。しかし党内分派は一種の野党とみるべきである。

改進党  幹部の大部分は向米一辺倒的な思想の持主だが、彼らの存在は野党である。軍事占領と 植民地化という条件の下では、反動主義者やボス、ダラ幹の類にも、それなりのフンマンや 不平がある。野党は政府に対してそれを鳴らさなければ政権の座につく可能性を失うことに なる。マーフィーにすすめられたという保守提携が容易にはかどらないのも、また党内「民族 資本派」が ―― この一派は見方によっては不当に進歩的であるかもしれないのだが ――  党を出たり入ったりしてつづけていられるのも、その根本は右にのべたような基本条件の反映 である。

右派社会党
 右派社会党は今では自由党の「社会主義分派」という色彩を強くしており、一部は完全に社会 ファシズムへ移行した。労働運動の中でも、愛労運動を中心とした労働組合の産報化と分裂工作 を受けもっているが、そのやり方が労働階級から嫌われはじめているので、たよりになる「支柱」 としての真価を疑われそうになっている。

左派社会党
 日本の左派社会党は、左右を区別する場合の国際的な基準である容共統一戦線派か、否か、という 点で特別の態度をとっている。民族革命の路線における統一という中心問題について、左派幹部 (とくに統制官僚を中心とする一派)は、思想の上では民族戦線の側へ改良主義的なやり方で接近 しているように見せながら、行動の上では共産党との統一行動を頑固に拒否している。これは共産党 が左派幹部の思想を叩きながら、傘下の勤労大衆に対して絶えず統一戦線を目ざす共同行動を呼びか けているのと正に背中合せの形になっており、このあたりが危機の激化と共に支配階級からの期待を 増しつつある所以である。しかし昨年下期の炭労ストあたりを境目とする最近の傾向は、下部の幹部 批判が盛んになった点にあらわれており、それが労働組合の政党に対する「不信」という形でひずん でゆくような危険性もあらわれている。左派社会党が統一への展開をはばめばはばむほど、大 衆をファシズムがさらってゆく可能性も強まるということを、すでに最近の情勢の発展が示している。

 自由党と改進党は55年に合同して自由民主党となり、憲法「改正」・再軍備をその基本政策とした。 その保守党の政策を阻止するために、同じ年に左右社会党も日本社会党に統一される。いわゆる55年 体制である。ちなみに、小熊英二さんはここまでを「第一の戦後」といい、その後の「第二の戦後」 と区分している。

 さて、「日本の支配者は誰か」はこの政党の分析を踏まえて、次のように続けている。
 支配階級の権力機関とみる場合、政党の配置は、議会主義の枠の中へ大衆の政治 的エネルギーを封じこむためにのみ、評価され、その目的に合するかぎりのエセ民 主化が取り上げられる。終戦後いまにいたるまでの経過は正しくそういうことだっ たのである。しかしブルジョア・小ブルジョア政党は権力機関の一部として育成さ れるものにはちがいないが、それぞれに社会的基礎(地盤)を維持してゆかねばな らないので、そこに一種の逆作用があらわれ、党の階級的本質と若干の喰違いをお こす場合が生ずることも敢えて怪しむには当らないわけである。しかるに支配階級 の基本政策が軍国主義と戦争準備体制を目ざしている場合には、このような逆作用 は決して消化されないわけで、矛盾はもっとはげしく内攻してゆかざるをえなくな る。矛盾の発展はブルジョア的代議機関(国会・政党)に対する国民の不満をこめ て、ファッショ化の危機をさらに前面に押し出しつつある、というべきであろう。

 「支配階級の基本政策が軍国主義と戦争準備体制を目ざしている」とか「矛盾の発展は ブルジョア的代議機関(国会・政党)に対する国民の不満をこめて、ファッショ化の危機を さらに前面に押し出しつつある」とかいう文言は、私には、まるで現在の状況を言い表して いるように読める。



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302 日本の支配者は誰か(9)
財閥はどのように生き返ってきたのか
2005年6月15日(水)



 敗戦直後の官僚と政治党派および天皇制の危機・動揺・復活の諸過程をたどって来た。 当然のことながら、現在の深刻な諸問題のほとんどが、第一の戦後のときにその種を 胚胎していたことがわかる。
  「日本の支配者は誰か」は次に経済構造(下部構造)に照準を向ける。戦後政治の性格をきめ ている日本独占資本主義の根本的な要求と特徴とを分析するのが目的である。

 まず、日本独占資本主義の再建が軌道にのってきたことが国外からの目にも明らかに なってきたことを示すものとして、ソ連共産党19回大会(1952年10月)でのマレンコフの報告 を紹介している。
 億万長者の連中はブルジョア国家を動かしてこれに新戦争準備と軍拡の政策を指令し、 今や厖大な利潤をえている。……イギリスの独占成金、フランス、イタリア、日本その 他各国の独占資本は、自国経済が長期にわたって停滞しているにもかかわらず、莫大な 利潤をあげた。

 それは莫大な利潤がふたたび生産されはじめたこと、したがって、また、強烈な搾取が 再現されたことを物語っている。どうしてそういう過程がひらかれたか。なぜそうならざるを 得なかったのかと問い、次のように分析している。
 まず第一に検討しておく必要があるのは、戦争の影響である。 戦争によって非常な打撃をうけたのは、国民大衆の富でこそあれ、 独占資本の蓄積ではなかった。戦災をうけたとか、戦時補償の打切りが痛かったとか、 表面的には非常な価値の喪失があったように言いふらされているが、たいていは事実を過大に 見積っていたのである。ことに安本統計などは、「科学的」な誇大宣伝を一手に引受けた感が あった。後になって「朝鮮戦争ブーム」がおこった時、安本関係の一資料は、日本経済がな ぜかくも急速に快復しえたかを示す理由の一つとして、彪大な遊休設備の存在をあ げていた。それこそ問わず語りというものである。

 「安本」なる人物をまったく知らないが、御用学者だろうか。いつの世にも支配者に揉み手をして近づき 支配者に都合のよい資料をでっち上げる御用学者がいる。そのような御用学者が垂れ流すインチキ情報 を見抜くためにも、政治社会の問題の歴史的論理的な解明を目指す営為に学ぶことは多い。
 だが、これほど大きな遊休設備をかかえたままで、軍事力は破壊され、輸送手段 は寸断され、植民地市場(原料・輸出)は喪失し、おまけに国民は窮乏のふちに喘 いでいるという状態は、たしかに経済体制そのものの危機期をあらわしていた。独占 資本の前には、荒廃し、破壊された経済諸条件を恢復し、生産諸部門が相互に市場 となり合うことができるような方向を見出さねはならぬという困難な課題がおかれ ていた。それを解決しなければ、独占資本主義は、「多かれ少かれ規則的に」拡張 再生産をつづけてゆくことができなくなってしまうだろう。つまり資本主義体制の 枠の中では、必然的な死滅がまっているということであった。

 そこで日本の独占資本主義は、火事場の荒かせぎからはじめて、あらゆることを やってのけた。まだほんのこの間おこなわれたばかりのことで、罪障消滅とはいか ないだろうから(どなたの記憶も全く消えうせてはいないだろうから)、時間的順序 などにはあまりこだわらないで思い出すままにならべてみよう。

(1)
 戦争に敗けた44年の財政支出は1582億円で、当時の国民所得の二倍に及んでいた。 これは出鱈目な価格で軍需品を買上げたり、出来もしない商品への前払いをやったりし たからである。進駐軍はその年の九月に、財政金融に対する厳格な統制を指令したが、 二ヵ月もするかしないうちに、方針を転換した。「和解」のテムポはずいぶん早かった わけである。

(2)
 新円交換による500円生活の強制。無力な国民は500円の枠の中でちぢこまっていたが、 独占資本主義は、財政支出や日銀貸出をうけて大いに自由を享受した。国民の「繰りの ペられた需要」は、これらの「措置」によって、国民のやせたふところから最高利潤率の 運動の中へあっという間に移転させられた。

(3)
 「進歩的」な学者が官僚と協力して経済復興のための傾斜生産を考え出した。これは賃銀 水準の「安定化」とも照合しあうものであった。この場合も他の場合と同じく、表面は技術 的な問題として ―― 少い「もの」を使って、いかに拡張再生産の筋道をつけるか、とい う風に ―― 説明されたが、その結果、莫大な利潤にあずかったのは事実として石炭、鉄、 肥料の独占諸部門である。

(4)
 財政上の価格差補給金などという手段もあった。これは、巨大独占資本が寄り集って、お手 盛りで原価計算をやり、通産省、スキャップとも然るべく連絡をとるというやり方だったから、 赤字をようやくトントンまでうめてもらっているはずの企業が、いつの間にやら工場設備全部の 補修を完了していた、などの事実が48年ごろにはもうあらわれていた。こういうお手盛り会議の 事例としては、鉄鋼資本の箱根会談、肥料資本のどこそこ会議などが今でも噂に上るほどである。

(5)
 復金融資。あまりにも有名だから説明を省略する。

(6)
 見返り資金。―― 粗悪な外国の食糧を買って、社会的な「動揺」を抑圧し、それを貧困なる 国内市場に流して、資本蓄積を促進した。その売上げは価格差補給の名の下に税金と合体され、 積立てられて、資本支配の原動力となった。まことに目覚ましいほどの一石数鳥ぶりで、戦後型 外資の範例とすべきものである。断わっておきたいが、この場合、範例となるかならぬかの基準は、 援助物資あるいは見返り資金が、アメリカ独占資本主義の最高利潤率の引上げにいかに貢献したか で決まるだろう。

 筆者は「まだほかにもあげろといえば、いくらでもあるが、あまり多すぎても無意味だから止め ることにしよう。」と述べている。以上の事例だけでも、国民からの搾取と資本蓄財のからくりがよく 分かる。それは資本主義の本性から発する必然的な要求であり、正に根源的なものにほかならない。
 「独占資本主義は重税をとり上げ、インフレーションを利用し、また従属産業に貸し倒れの苦しみを 味わせる。さらに彼らの利潤の大きな源泉を上げれば、独占価格、低賃銀と低米価である。――  つまり労働者たちは生産者としても消費者としても繰返し搾取の対象にならざるをえないのである。

 もちろん現在はその搾取がいよいよ露骨で、資本の膨張はいよいよ激しい。富を生み出してい るのは労働者の労働力(知的労働や精神的労働も含めて)だ。年収何億なんていうものがいる一方で、 毎日90名もの自殺者がいる。無論すべてが経済上の理由によるわけではないだろうが、これはもう狂った社会 というほかあるまい。
 資本主義の矛盾はますます深刻になっている。富への際限のない欲望とそれゆえの人民支配の冷血性から 自ら解放されない限り、支配階層には人間解放という根本的な解決をする能力はない。かって、『自己の 内部矛盾の解決を「乾坤一擲」の侵略戦争にかけて、まんまとやりそこなった日本資本主義』は、いまま た戦争を準備している。今度はどのような戦争を企んでいるのか。アメリカの尖兵をつとめるつもりか。



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303 日本の支配者は誰か(10)
その時、労働組合運動は?
2005年6月16日(木)



 当時の国民所得に関する統計は次の数字を残している。日本の総国民所得のうち、資本形成に当てられる分は二十数%、 増加国民所得についてみれば資本形成に入る分は実に四十数%。これについて筆者は次のように述べている。
 こんな比率は世界のどこの国にも全く例がない。これは国民が非常な低質銀と低米価と重税とを必然的なものとして背負 わされていることを明白に示している。それらがなければ日本独占資本主義もないというわけである。これはまことに困難な、 非人間的な圧迫を前提としないでは成立しない関係だといわねばならない。

 「非人間的な圧迫」は「非常な低質銀」だけではない。先日、JR西日本の列車事故に関する報道で、社員が「研修」という名の 屈辱的な精神的圧迫を受けている映像があった。人間性を圧殺し、企業の金儲けに従順に従うような鋳型にはめ込もうとしている。 ほとんど奴隷状況だと、私は胸が痛んだ。「日の丸・君が代の強制」と闘っている教員たちが強いられている無内容な「研修」も 然り。見せしめであり、思想変更を迫るものでしかない。
 それでは「非人間的な圧迫」を強いられている側の状況はどのようだったのだろうか。
 戦前の労働組合運動は、会社の労務課、警察の特高課、それに憲兵隊までを加えた野蛮至極な弾圧と真正面から対立し、異常に 真剣な、その反面きわめて犠牲の多い闘争を展開してきた。
ところが、戦後は打ってかわって、労働組合の設置が「奨励」されることになった。労働組合運動は「民主化」政策の中でも最 も重要な部分の一つだということだったからである。しかるに、初期の占領政策の中心になぜ「民主化」が入らねはならなかった かというと、それはひとロにいって、危機の深さと植民地的支配の困難さとが見越されていたからであって、その根本的な動機の 中に、「民主化」が民主化でなくなる、反対物に転化する契磯をふくんでいた。
 このことは何よりも事物の発展によって論証された。労働組合運動に合法性をあたえて、その自由な発展を保証したのはアメリ カ人であったが、戦後の再出発の当初から「教育と指導」 ―― 別の言葉でいえば、干渉と弾圧にのり出したのもまたGHQのア メリカ人顧問たちだったのである。(この体制は「独立」後は一応うしろの方へ引っこんだ。しかし現にアメリカ大使館のエド ガーという人が新聞記者に対して「最近の総評は反米的だから親米的な総評をつくるべきである」などと述べているところをみる と、それだけの根拠が残っているのかもしれない。)
 事実、占領期間中を通してアメリカ人は労働組合運動に対して、非常な関心をもち、「教育と指導」に力をそそぎ、それが一定 の溝の中へはまりこんでゆくように終始努力をおこたらなかったのである。

 GHQが「一定の溝の中へはまりこんでゆくように終始努力をおこたらなかった」という「教育と指導」とはどうのようなもの だったのか。「一定の溝」とあどのような「溝」だったのか。「日本の支配者は誰か」の筆者は五つの事例を挙げている。
(1)
 戦後労働運動は職制的な総同盟と自由な産別とに別れて発展したが、両者による運動の分割をもっとも支持したものの 一つはアメリカである。そしてその当時GHQとの連絡にあたった人たちの記憶によると産別に対してはサンジカリズム的な 非政治主義へもってゆく政策がとられ、その線で結実したのが細谷松太の産別民同だったという。

(2)
 「経済安定に関連する大きな問題の一つは、その政治的および社会的反響の問題である。問題は現在の実質賃銀を維持し、 あるいはわずかだけ増額を確保することによって、破壊的な名目賃銀増額の要求の口実を抑えつける点にある。」(1951年 会計年度ガリオア歳出要求に関するジョセフ・ドッジのステートメント)
 しかし生活水準が戦前水準をはるかに割っているときに、そのままこれを固定化しようとする要求が激しい抵抗を呼ぶの は当然であり、経済的な交渉の範囲内で片付かなくなることも必至である。こうして二・一スト以来、アメリカは労働組合に 対する圧迫と干渉の前面にたち、官公庁労組に対するベース賃銀(ベーシック・ウェィジが日本では平均賃銀になってしま った。言葉の魔術である)と職階性と人事院の確立、民間企業に対するへプラー勧告という形の弾圧、企業整備、行政整理を 名目とするレッド・パージなどが次々にあらわれた。なお暴力的な圧迫やスパイ政策とならんで職場内部の徽妙な対立を利用 するという方法も採用された。たとえは、賃上げ要求をおさえるための家族手当が、熟練・古参労働者の不満をよびおこして いることを見るや、生活給か能率給か、という問題を出して職階制再建への道をひらいた。

(3)
 この辺になると独占資本もGHQの袖の下から出て公然と振舞うようになった。政策の基調は改良主義的な幹部を買収又は懐柔 して、分裂政策を運動内部にもち込むこと。組合の闘争を中央に集約して、これを職場闘争と切りはなし、労組の官僚化、ひ いては会社組合への転化をはかること ―― であったが、そういう政策の必然的な結果は下部大衆の組合幹部不信を呼びおこ し、逆にいえば組合の「統制力」を骨抜きにする傾向を生む。しかも単独講和以後、客観情勢は急激に発展し、民同系で固め た総評が「にわとり」から「あひる」への転化をやってのけるにいたった。
 左派民同の幹部も、多くは職制出身でシンは小ブルジョア意識が濃厚だが、口先では革命的な大言壮語をやっている。組合 指導者はある程度までそうしないと大衆を引きずれなくなったのだ。

(4)
 こうして問題はふたたび職場組織のところへ下降してきた。労働組合の枠をこえて、勤労課特審部などというものが、直接職 制幹部と連絡して職場組織(「職場防衛」という名のスパイ・暴力機構)をつくり出す。これに対して総評幹部は、組合の統制 力を強化することによって職場の産報化に対処しようとしているが、下部の闘争は現にもうはじまっているのだ、という点を見 ることが重要である。

(5)
 職場の半軍事体制は職制幹部に基礎をおくものであり、また農村における封建制の残存、構成的な失業人口の圧迫などとの組合 せによって、労働者の上に重くのしかかっている。しかもこの際特に注意しなければならないのは、軍管理工場や基地の請負事業 場での労働が半軍事体制のイデアル・ティブス(典型)をあたえ、全国の工場をこれにならわせていることである。たとえは某基 地では、労働関係法規の無視は日常茶飯事である。また賃銀は民族別、性別をふくめて最高11万3640円から最低4400円までの287段 階になっている。(他の軍管工場では六、七千人の労働者の全給与の三割に等しいものを五十人の外国人がとっている)
なお、こまかいことをつけ加えると、このような職場ではアメリカ式の点数制度を採用しているが、それが職制の手でめくら報奨 金にかえられる。そこに職制の権威が生まれ、低質銀が保証される。

 「細谷松太」、「ガリオア歳出要求」、「へプラー勧告」『「にわとり」から「あひる」への転化』、前回にでできた「復金融資」 とか、いろいろ知らない人名や事項があるが、その当時の情勢は垣間見る事ができる。
 現在の労働運動の実態はまさにGHQと総資との企みどおりになってしまっていると思える。「日本の支配者は誰か」の筆者はその時 点でにおいて今日を次のように予測していた。
 国民経済の軍事化はいまのところ基礎部門を中心に展開されており、直接兵器生産については端緒がひらかれたという程度にす ぎない。それは敗戦後の再軍備という特殊な条件から来ているもので、従属的下請軍需工業の最大の利用者であり顧客であるはず のアメリカとの間にさえ、多くの問題点が存在していたし、今もって現存しているという状態である。しかし客観情勢の展開は、 米日両独占資本間の矛盾をここ当分は表面化させないで、むしろ急速に一致点をつよめる方向に作用するであろう。財閥企業が 全面的な軍事化にのり出すことはすでに日程に上りはじめたとみてよいわけで、それにつれ職場の軍事体制が一層普及化され、強化 されることは当然予想されるところである。




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304 日本の支配者は誰か(11)
農村の支配者・地主権力
2005年6月17日(金)



 「日本の支配者は誰か。」この論文の最後の対象は「地主権力」だ。資本の浸蝕を受けて、 旧来の共同体基盤を崩されてきたとはいえ、農村が保守政党の最も強力な支持基盤であることには 変わりがないだろう。また、地主が小作人や零細農民の生殺与奪の権を握っていた時代とはさま変 わりしているとはいえ、「地主権力」が温存されていることも変わりがないだろう。こう判断する 確かな根拠=情報を持たないが、私はそのように思っている。
 「日本の支配者は誰か。」の「地主権力」の分析を参考にしてみよう。
 戦後の日本政治の真の民主化に最強のブレーキをかけていたのはアメリカだが、「ブレーキを 狭い耕地の畔道で立往生させないように」手を尽くしたのはほかならぬ「地主勢力」であった。 「戦後7年間の経験でかなりはっきり判っている。」と筆者は述べる。地主たちは「耕地の畔道を手 引きするばかりではなく、保安隊の衛門を出入りし、軍管工場の職制幹部に目くばせをする。 日本政治のあるところ地主権力の陰気な姿を見ない場所とてはない。地主勢力はどうしてそんなに 珍重されるのか。」
 論文「日本の支配者は誰か。」はその答を、農村を外国帝国主義の視線と独占資本家の視線でな がめることで探っている。
 外国人から見れば、農村こそは豊富で勇敢な人的資源そのものである。また戦争が始ったとき には食糧の戦略備蓄でもある。
 独占資本の目からみれば、農村はタンス預金と税源であり、労働力の価値を切り下げるための 低米価であり、独占価格を実現するためのシェーレ(ハサミ状の価格差)であり、下請軍需工業と ダンピング的な輸出産業を成立させるための其の基礎条件でもある。
 だが、このような条件を帝国主義と独占資本のために充足させる農村とは、過少農制と過剰人口 の古い世界 ―― 半封建的な土地所有と高率地代によって支えられていた古い生産関係でなくて はならない。
 その半封建的な土地所有制度は、GHQによる最大の事績といわれた「農地改革」で崩されたのでは ないか。いや、農地改革はその古い世界を「揺り動かしただけなのだ。」と、「日本の支配者は誰か。」 の筆者は言う。
 冒険戦争をやりそこなって、体制的な危機に乗り上げた日本資本主義を救う道の 一つは ―― 農村の力を押し強く汲み出すことだった。しかし農村は戦争経済からう けた収奪のために荒廃し、従来からの矛盾が一層激化され、そしてついに供出拒否 の形があらわれ、46年3月には栃木県の芳賀郡で最初の強権発動がおこなわれた。 土地問題に手をつける以外には策のない状態だった。
 しかし、農地改革は小作地の所有権を置きかえただけだから、農民にとってその こと自体は何も与えないのと同じだった。ただその後のインフレーションと恐慌が 農民の階層分化をうながし、特に朝鮮戦争下におこった麦、野菜、柑橘、輸出農産 物などの価格下落が、貧農層の零落に拍車をかけた。中農の無気力化と貧農中心の 闘争が現在の特徴である。(中農といっても、日本の中農にはブルジョア的上向の 見透しがほとんどない。)

 農地改革によって地主の耕地に対する寄生化の根拠がせばめられたのは事実だ。次のような数字が 提示されている。
 終戦時、貸付農地をもっている農家の数は1251,000戸、その貸付反別は1258,000町歩だったが、 改革後の世界農業センサスでは(これは農家の数の取り方が少し違うが、一つのメルクマールと しては意味がある)、142,000千戸、446,000町歩となっている。
なお48年から50年にかけて耕地を売ったものの中で元地主の割合は22.5%、逆に買方の地主の割合 は1.2%であった。

 しかし、これによって地主勢力の物質的基礎がなくなったとは言えないという。なお「山林所有、 用水、役畜、農機具など」にもとづく半封建的な収奪の根が残存していた。また地方ブルジョアと して資本主義的な諸関係の中に半身を浸している地主層が農業生産の外側からの地主支配をつよめ ていた。結局生き残った地主層の構成は大体次のようであった。
 地主勢力の中核になるのは大きな山林をもち、地方産業に関係があるような大地主、そのま わりに中(富)農とか、あるいは没落をまぬかれた中地主がある。つまり地主的勢力の延長と して、乃至は保証としてあるわけだ。(もっとも基地問題などの場合に直接被害者の役割をさせ られた中小地主が、民族運動に参加しているという事例もある。今日の条件の下では、これを 偶然的なものと見ることはできない。)
 しかもこれらの勢力は分割地を別けてもらえなかった元通りの零細農民(中には中農として インフレ過程で若干の蓄積をすることに成功し、地主勢力に追随しているものもあるにはあるが) の間に配置されている。したがって、一つの村をとってみても、地主的土地所有が小さくなった からといって、また地主自身の村会議員が減ったからといって、すぐに地主勢力が無力化したとは いえないわけで、郡単位なり、県単位までもってゆけは、完全に地主支配の網の目にはまりこんで いることがわかる。エンゲルスがのべているように、バラバラにされたジャガイモを一つ の袋にいれているのは、正しく元の地主だ、というわけである。

 その地主勢力の実際の支配系統は、「県の地方事務所→村」という行政系統、「農協の県連→単協」 という生産関係の系統幾重にも重って強固な網の目をかたちづくっている。それを資本関係が外側から 援助する。また国家の警察力、占領軍の圧力など、内外の弾圧機構が大きな防御壁となってそれを保護する。
 こうなれば農村にあるすべての古い諸関係 ―― 本家・分家の姻戚関係や部落団体、 五人組など一切の亡霊どもが二度のつとめにかり出される。小作地や山林はいうまでもなく、 供出の場合でも、徴税の場合でも、農民が対決しなければならない相手は地主勢力とそれへ の追随者たちである。外国帝国主義や独占資本が道案内もなしに裸のままでくるわけでは ない。
 こうして農村では、現在、自由党の「全盛期」がデッチ上げられている。考えて みれば、地主党が勝つことに不思議はないのである。戦後の地主は、農村内部の物 的地盤をある程度まで弱めてきたが、日本資本主義と日本農村の危機をのりきるた めには、この弱化された地主層が反動的な支配者たちにとっての唯一の拠りどころ である。
 地主層は弱化された。それ故に、また危磯の深刻さの故にも大がかりなメカニズムが必 要になるのである。
(中略)
 農村の支配者である地主権力の政策は、アメリカの植民地支配の線にそって戦争 準備体制の方へ、農村をずるずると引きずってゆき、そこで何がしか目先の利益に ありつくというやり方にならざるをえない。農村の失業人口を、二、三男対策とい ぅ名で動員しようとする開発青年団、軍用道路建設のための土木工事などは、農業 危磯の急所をなでた仕事にはちがいないが、結果は農村の半プロレタリアートの手 に、都市の失業者に対する有名な「ニコヨン」以下の極端な低質銀をコポしてゆく だけである。
 はからずも「ニコヨン」という懐かしくも悲しい流行語?にであった。いまもなお失業者は 資本主義が自らが招いた危機を乗り切るための緩衝剤の役割を担わされている人的資源である。 支配層にとっては単なる消耗品に過ぎない。



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305 日本の支配者は誰か(12)
弱いは強い、強いは弱い
2005年6月18日(土)



 独占資本や地主などの支配階級は、戦前と比べて戦後は、いったい弱くなったのか強くなった のか。例えば独占資本の場合、資本の集中力はここで見れば戦前以下であるが総体では戦前より はるかに大きいという。だが、問題の核心はそこにあるのではなく、むしろ、「彼らは弱くなった、 そこで強い支配体制が必要になった」、という点にあると、「日本の支配者は誰か」の 筆者は指摘している。

 それに対して根本的な経済関係の矛盾の方はどういうことになるか。食糧問題を例にとって 次のように述べている。
 日本では食糧が不足ではないのに、外米外麦が輸入されて高い価格をはらってゆく。 それは戦略備蓄のためであり、またアメリカのいうことをきくシャムの反動政権に財源を あたえるためである。しかも一方で強制供出をやりながら、他方では米麦が朝鮮に送られ る。都市の大衆は戦争経済の影響をうけて次第に購買力を失い、そこから農村に過剰生産 があらわれているというときに、その打撃をもっとも深くうける貧農は高い飯米を買わね ばならない。
 農村における地主勢力の支配はこのような悪循環を無限に重ねてゆかざるをえな い。それは不可避的に一切の政治的自由から ―― 民主主義と自由主義からますます 遠ざかってゆく道であり、そのことによって社会の内部に現存する矛盾をとんでも ないところまで発展させてしまうやり方である。

 このような矛盾を糊塗するための支配階級によるさまざまな政治支配の方法の一端を 見てきたわけであるが、支配階級にとってもうひとつ重要課題があった。支配イデオロ ギーの再建問題である。それについては次のように述べている。
 それは植民地化の現況にふさわしく、古いショーヴィニズムの復活とタイハイ的なコスモ ポリタニズムの二様の展開を示している。ショーヴィニズムは農村から、コスモポリタニズ ムは都会からというわけで、それが基地を背景に全国いたるところで混り合い重なりあってい る。支配階級の目から見れば、それは、現実の矛盾に目をつぶりながら、国民を軍国主義と ファシズムの彼岸へたどりつかせるための興奮剤とみられるかもしれないが、ここにも 危機感はみなぎっているわけで、うけとる側の国民は生酔い本性違わずである。イデオロギー攻勢 の中身もむかしほどではない。けだし、支配的なイデオロギーというものも支配体制の有するす べての強さと弱さ、その矛盾を反映しないわけにはゆかぬからである。

 「ショーヴィニズム」=「排外的で偏狭なナショナリズム」、「コスモポリタニズム」= 「アメリカ一辺倒の単細胞的国際感覚」と解すれば、これも現在にまで尾を引いている日本の支配層の 陥穽である。いま日本の支配層はかってないほどの強固な体制を完成しているように思えるが、その 内実は、これもかってないほどの矛盾を抱え込んでいて、粗悪な上にチグハグな材質で建てられ た巨大ビルディングのように脆弱なのではないか。

 最後に、「日本の支配者は誰か」の「結び」の一節を引用して、このシリーズを終わる。
 われわれのリストによれば、日本の支配者たちは誰も彼も、ずいぶん古くさい帽 子をかぶっていた。世界で一番新しいというアメリカ人までが、この国の支配階級 にまじると、大名社会のサムライに似てくるように思われた。彼らは前方を見るこ とをやめたためにそうなったのであろうか。  だが思うに、中世紀の特徴は、住んでいる世界がせまいこと、世界の外が見えな いこと、明日も今日のごとしと思いこんでいること、等等である。中世紀が頭の中 にへばりついているかぎり、危機も、滅亡さえもが、其の意識には上らない。まこ とに物騒千万である。しかもわれわれにとっては、これを百年前のむかし語りと聞 き捨てることは不可能である。



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306 詩をどうぞ(20)

2005年6月19日(日)




 大古墳  安東次男

   古墳は盛土の労を少くする為に
   小山や丘陵を利用して造られた。

これは、
平地の
とりわけ低いところにある。
歴史のなだらかな傾斜に、
突如として
現れた
抵抗。

長さ四百八十六米
前方部正面三百五米
後円部直径二百四十五米
積土の高さ三十五米、
その周囲を
太古の色をたたえた
三重の堀をめぐらし、
墳丘から外堤に互って
幾重にも埴輪円筒が並んでいる、
その総面積は
四十六万四千坪
外堀の周囲は優に一里
大山陵という、
日本古代の大前方後円墳である。
墳墓の
大きさとその形は、
いつどこの国でも
権力の
象徴であった、
ここ和泉平野から河内大和丘陵にかけては
多くの古墳がある、
それは大小様々に入り乱れて
親兄弟を権力に替えてせめぎ合った、
血みどろの跡を
今に留める一大鳥瞰図。
それをうち率るごとく
それにうち臨むごとく、
この大前方後円墳はある。
ギゼーのピラミッドの三倍。
秦の始皇陵の一・五倍。
これの大古墳は、
塚面積十四万坪
それの墓築きのみでも百八十万人の
延人数を要すると計算された。
百八十万人といえば
千九百四十九年冬の
日本の顕在失業人口と競っている、
一年三百六十五日働きどおしに働くとしても
一日に五千人を要する
大土木工事ではないか。
それを彼らは
遠く金剛山脈や和泉山脈の横穴から

遠く河内平野の竪穴から、
でてきてやっただろう。
火うち石でカチカチと乏しい火を打ち出し
未明より日昏れまでの、
あるいはそれを超えての
雨の日の、
風の日の、
さらに冬の
ぬかるむ霙の日の、
積土と石搬びの三百六十五日は
どのようであったか、
どのような嘆きを持っていたか。
日本書紀に依れば、
工事は
ミカド
帝没年の二十年前より起されたという、
その二十年の
声の無い恨みは
どのようにつづいたか、
とぼくは念う。
石棺は
遠く金剛山脈二上山の凝灰岩
その蓋だけでも優に一千貫をくだらぬ
いま、冬、黄色に枯れた
生駒山から大和丘陵に続く尾根には、
天気のよい日には白鷺がとんでゆくが
ぼくにはいまも老いも若きも男も女も
一千貫の大石を
営営として蟻のように
曳いてゆく千五百年前の
彼ら部民の姿が見える。
金剛山脈の横穴から、
河内平野の竪穴から、
蟻のようにかり出されてくる姿が見える。
寒い寒い夜を幾夜も徹して、
曳いてゆく彼らの
かなしいうたごえが聞える。
下ッ端役人の笞の下で、
彼らの故里のアリランのようにかなしんでいる、
そのうらみつらみのうたごえが聞えてくる。
ぼくらの習った日本歴史は
仁徳天皇といえば民のかまどとおしえ
この大前方後円墳も
部民の切なる願いに依って造られたものとおしえた。
しかしそれによって裏切ることのできぬ嘆きが
ぼくの耳には聞えてくる、
千五百年前の二上山の凝灰岩の
地ずりする音が、
そのなかからとび出して死んだという
一匹の鹿の顔が。


  六十七年冬十月庚辰の朔甲申に、河内の石津原に幸して、
  陵地を定めたまふ。丁酉に、始めて陵を築く。是の日に
  鹿有りて、忽に野の中より起りて、走りて役民の中に入
  りて仆れ死ぬ。時に其の忽に死ぬるをあやしびて、其の
  痍をもとむ。即ち百舌鳥、耳より出でて飛び去りぬ。因
  りて耳の中を視るに、悉く咋ひ割き剥げり。故、其の処
  を号けて、百舌耳原と曰ふは、其れ是の縁なり。
  是歳、吉備中国の川島河のかわまたに、みつち有りて人
  を苦しむ。時にみちゆくひと、其の処に触れて行けば、
  必ず其の毒に被りて、多く死亡ぬ。是に、笠臣の祖縣守、
  人と為りいさおしくして力強し。ふちに臨みて三のおふ
  しひさごを以て水に投れて曰はく、「汝しばしば毒を吐
  きて、みちゆくひとを苦びしむ。われ、汝みつちを殺さ
  む。汝、是のひさごを沈めば、われ避らむ。沈むこと能
  はずは、仍ち汝の身を斬らむ。」といふ。時にみつち、
  鹿に化りて、ひさごを引入る。ひさご沈まず。即ち劒を
  挙げて水に入りてみつちを斬る。更にみつちのともがら
  を求む。乃ち諸のみつちの族、淵の底の岫穴(?)に満
  めり。悉に斬る。河の水血に変りぬ。故、其の水を号け
  て縣守淵と曰ふ。此の時に当りてわさわひやうやくに動
  きて、叛く者一、二始めて起る。是に天皇、夙に起きお
  そく寝ねまして、賦を軽くしをさめものを薄くして、お
  ほみたからをゆるやかにし、徳を布き恵を施して、困窮
  をすくふ。死を弔ひやむものを問ひて、やもをやもめを
  養ひたまふ。是を以て、政令流行れて、天下大きに平な
  り。二十余年ありて事無し。   (日本書紀、巻十一)


鹿はこの時代の奴隷の象徴であった。
その鹿が死んだと、
悪いみずちが鹿に化けてひさごを引入れようとしたが沈まなかったと、
それでみずちを斬ったら反乱が起ったと、
当時の
権力の正統のプロパガンディストであった
日本書紀でさえ書いている。
山陽から山陰へ
北九州から南九州へ
三河駿河を越えて
東は関東上野の辺りまで及んだ、
大和豪族の権力の光る目の下で
おずおずと書いている、
その事実をぼくは大事に思う。
おもうてもみよ。
千九百四十九年冬の、
日本の
顕在失業人口にもほぼひとしい、
延百八十万という人数を。
それの膏血の犠牲において
雨の日も、
風の日も、
営営二十年に互って
築かれた
大古墳と、
そのなかに眠る
ひからびたひとつの木乃伊を。
千五百年の暗黒のなかで
行き場を失ってきた、
千・万の
声々のいかりを。

「現代詩文庫 安東次男詩集」(思潮社)より


 「日本書記」からの引用部分は、テキストファイルでは表示できない 漢字や読めない漢字だらけなので、「日本古典文学大系 日本書記」(岩波書店)のものと 差し替えたうえ、全体の内容をつかむために必要と思われる部分は漢字をひらがなにしまし た。分からないままでは引用の意味がなくなると思いそのようしましたが、安 東さんの創作部分ではないので、お許しいただけるものと判断します。



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307 「日本」とは何か(1)
しりとり式迷走談論のはじまり
2005年6月20日(月)



 日本の支配階層とそのちょうちん持ちたちが推し進めている「共同幻想」面での戦略を一言で 言えば『「日本の伝統」や「日本の文化」を強く押し出し、正しい「日本の歴史」=「皇国史観」 を復活させ、「日本人としての自覚」=「愛国心」を励起し、非国民を排除する。』となろう。 (一言にしては、ちょっと言葉が多すぎたかな。)
 かれらが「国民の歴史」を僭称するなら、私たちは「非国民の歴史」を掘り下げることによって 「日本」という「共同幻想」をその根源から批判し、「国民の歴史」という虚偽と詐術の基盤を打ち崩す ほかはない。
 と考え、ためらいながら表題に『「日本」とは何か』と書いた。ためらうのは問題が大きすぎるから である。今までと同じくいろいろな人の「言葉」を借りて考えていくしか私には方法がないのだが、 今度はまるで構想が立てられないでいる。取り上げたい事柄は多岐にわたる。いま手元に集めた本は8冊。 進行に従ってまだ増えるかもしれない。そこでやぶれかぶれの見切り発車をすることにした。構想が立て られないのなら「しりとり式」に、その都度思いつくままにあっちいったりこっちいったり、気ままに 進んでみよう。どのくらい続くか分からない。もしかすると何度も中断するかもしれない。 あるいは2,3回で行き詰るかもしれない。
 言い訳はこのくらいにして、早速はじめよう。

 私は「第253 日本のナショナリズム(6)」(4月25日)で次のように書いた。

 『吉本論文は、唱歌を素材にしている関係上、明治末期から説き起こしている。それに対して色川論 文はまず国家成立以前にまでさかのぼって風土的・歴史的条件によって培われてきた日本人の自然思 想や生活思想の特性を俯瞰する。その上で幕末期の知識人のナショナリズム、維新期・明治初期の支 配者のナショナリズムを論考し、次いで自由民権運動期の大衆ナショナリズムへと論を進めている。
 江戸時代の知識人のナショナリズムがどのように維新期・明治期に継承され、近代日本国家の形成に どのように関わり浸透していったかという問題は日本のナショナリズムを解明する上で一つの重要な 与件だが今はそれは割愛し、吉本論文と重なる論考部分を読んでいきたい。』

 「日本と何か」を、この割愛した部分から始めたい。
 日本は四面環海の島国である。しかもユーラシア大陸の絶東にあり、モンスーン・アジアの温暖な気候 にめぐまれ、日照と降雨に富み、農作物はゆたかにみのり、港の幸・山の幸にかこまれ、その中だけで 十分に自給自足できるという文字通り豊穣の島″であった。しかも、他からの侵略の恐れがほとんどな いという稀なる孤島であった。
 大陸の各地から、沿海の北から南から、ながい人種戦争ときびしい自然の中での生活に疲れ、至福の大 地を求めてここに終着し、定住した人びとは、どんなにこの和やかな楽園を愛し、神々に感謝したことで あろう。(北方寒冷地や中央アジアの乾燥地帯に住んだ人びとの眼には、この大和こそ 天地(あめつち)のさきわう国、理想の地として映ったことであろう。) そうした移住民の喜びと賛歌とオプティミズムとが『古事記』の神代の巻などには溢れている。
 この島では階級間の争いはあれ、生命の連続が根こそぎ断ち切られるということはない。(種族み な殺しになるような異民族の侵入は、13世紀のモンゴルの来襲の例外をのぞいて、ただの一回もない。) 時″は命の勢いそのままに永遠につづくものであって、この島の民はついに絶対否定の外的契機を 知らない。産霊(むすび)の神はたえず生産をくりかえし、人びとはそれを 産土(うぶすな)(やしろ)にまつり、共同体 をつくって祖霊とともに永劫にこの大地で栄えようとねがった。来世も死も彼岸の外来観念も人びとを 虚無的にはしなかった。命は永遠で、永遠はこの今にあると思惟されてきた。その「歴史的オプティミ ズム」ともいえる信念は固有信仰となって、2000余年、いくたの世界宗教と習合しながらもヤドカリの ように一貫して生きつづけ、日本人の自然思想や生活思想の根を培ってきた。吉本隆明のいう土着的な 大衆「ナショナリズム」の原基も、歴史を遡ればじっにここにまで到るのである。

 問題点を二つあげることができる。一つは「日本は四面環海の島国」であるのは確かだが、「稀なる孤島」 だったのだろうか。
 二つ目は「産霊(むすび)の神はたえず生産をくりかえし、 人びとはそれを産土(うぶすな)(やしろ)に まつり、共同体をつくって祖霊とともに永劫にこの大地で栄えようとねがった」という記述から浮かび 上がるイメージは「その中だけで十分に自給自足できるという文字通り豊穣の島″」いわゆる 「瑞穂の国」=「農業国」だが、「日本人の自然思想や生活思想の根」は、はたして農業だろうか。



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308 「日本」とは何か(2)
「日本」という呼称について(1)
2005年6月21日(火)



 前回提出した問題に入る前に国名「日本」について確認しておきたいことがある。

  「日本」を「ニホン」と読むか「ニッポン」と読むかという問題もあるようだが、ここで問題にし ているのは「読み方」のことではない。が、ちなみに私はもっぱら「ニッポン」と読んでいる。とくに 理由はなくいつの間にかの習慣だ。うろ覚えの「シロジニアカク・・・」という「ヒノマル」の歌 では「アア ウツクシイ ニホンノハタハ」と「ニホン」だったと思う。スポーツ・ナショナリズム では「ガンバレ ニッポン」ともっぱら「ニッポン」を使っているようだ。まったく根拠のないあて ずっぽうだが、右翼系の人が使うのは「ニホン」かしら?「ニホン人ならはじをしれ!」とか「すば らしいニホン文化とニホンの伝統」とか「ニホンよい国カミの国」とかは、「ニッポン」より 「ニホン」のほうが合いそう。
 ヨタ話はこれくらいで。

 では「日本」という国名はいつから使われたのか。

 「日本人」は「倭人(わじん)」という呼称で、紀元前後に始めて文献に 登場する。
「夫れ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす。」(漢書地理志)
しかし、もちろん「倭人」は日本人ではない。

 いま「チャングムの誓い」という韓国ドラマを楽しんでいる。そのドラマに「倭寇」が登場するが、 ドラマでは「倭寇」を「日本人」として扱っており、扮装も日本の戦国武士風である。私はその 「倭寇」に強い違和感をもった。高校生のときに「倭寇」は一種の海賊だと習った。そのときは、 海を舞台に活動していた国際的な集団という印象をもった。

 読みさしのままの本をいま読み直している。網野善彦著『「日本」とはなにか』 (「日本の歴史00」講談社)。今回始めたシリーズの表題はこの本が念頭にあってのことだった。 しばらくこの本を利用させていただく。(なお、網野さんは惜しくも昨年2月27日に亡くなられた。 享年76才。合掌)

 『「日本」とはなにか』に「倭寇」についての記述がある。
 網野さんは日本の教科書が倭人=日本人のような記述をしていることを指摘している。また、 韓国・朝鮮においても日本人に対する蔑称に「倭奴」という言葉を用い、日本人による朝鮮への 暴虐として「倭寇・壬辰倭乱・日帝三十六年」をあげるのが韓国では常識だという。
 それに対して網野さんは「 しかし私は豊臣秀吉によって行われた二回にわたる日本国の朝鮮 侵略、「大日本帝国」が朝鮮半島を植民地とし、朝鮮民族の日本人化を強要したことについては、 一言の弁明もなく頭を下げるが、「倭寇」をこれに加えることについては、事実に反するとして 承服しない。」と述べている。そして今日までに実証されている「倭寇」の全体像を次のように 記述している。
「倭寇」は全体として、西日本の海の領主・商人、済州島・朝鮮半島南部・中国大陸南部の海上勢 力の海を舞台とした結びつき、ネットワークの動きであった。前期倭寇には朝鮮半島の 「禾尺(かしやく)才人(さいじん)」といわ れた賎民も加わったとされ、後期倭寇には日本列島人よりもむしろ中国大陸の明人の方が多かったと いわれている。そして一方で「倭語を解し、倭服を着る」といわれ、他方でその言語は「倭語でも 漢語でも」ないとされるように、「倭寇」は国家をこえ、国境に関わることなく、玄界灘・東シナ海 で独自な秩序を持って活動していたのである。
 実際、日本国の政府−室町幕府はこれを弾圧しており、援助などしてはおらず、東日本の人々は 「倭寇」とはほとんど無関係といってよかろう。そして、高麗・朝鮮、明の政府も、室町幕府ととも に、陸の秩序を背景にこうした海上勢力を「倭寇」、「海賊」として禁圧したのである。
 このように、「倭寇」の実態は国家をこえた海を生活の舞台とする人々の動きであり、「倭人」はけ っして日本人と同じではない。それゆえ「倭寇」を日本国による朝鮮半島に対する暴虐と見るのは、 まったくの誤りといわなくてはならない。

 「チャングムの誓い」の「倭寇」はこのような学問的に実証された歴史的事実を踏まえない 「無知」あるいは「偏見」の故の描写だ。アメリカ映画でもよく噴飯ものの「日本人像」に出会うが、 むろん目くじらを立てるほどのことではない。私にもたくさんの「無知」や「偏見」があるだろう。 しかし、「無知」や「偏見」はいずれ解消されるべきだ。いや、積極的に解消を心がけなくて はいけない。お題目として「平和」を唱えるより、そうした地道な努力のほうが数等重要だと思 う。

 さて、紀元前後に文献に現れた「倭人」に戻る。
「倭人」と、日本国成立後の日本人とは、列島西部においては重なるとしても、けっして同一では ない。『魏志』倭人伝に描かれる三世紀の「親魏倭王」卑弥呼をいただく「倭人」の勢力は、たと え邪馬台国が近畿にあったとしても、現在の東海地域以東には及んでいないと見てよかろう。それ はのちの広義の「東国」の地域である。
 さらに降って五世紀の倭王武、ワカタケルは宋の皇帝への上表文で、「東は毛人を征すること五十五 国・西は衆夷を服すること六十六国」といっている。ここで「毛人」といわれているのは「蝦 夷」の表現の一つとされ、「毛野(けぬ)」の「毛」をさし、この時期に は関東人・東北人など狭義の東国人であることは間違いない。「衆夷」は中部九州以南の人々であ ろうが、これらの人々のうち関東人と中部九州人は後にものべるように成立当初の日本国の国制の 下に入っているので「日本人」であるが、けっして「倭人」ではなかったのである。
 また「倭人」と呼ばれた人々は済州島・朝鮮半島南部などにもいたと見られるが、新羅王国成立 後、朝鮮半島の「倭人」は新羅人となっていった。このように「倭人」と「日本人」とが同一視でき ないことを、われわれは明確に確認しておく必要がある。



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309 「日本」とは何か(3)
「日本」という呼称について(2)
2005年6月22日(水)



 続いて網野さんは「日本人」という呼称について、あらためて強調しておきたいと、次のよう に述べている。
「日本人」という語は日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉であり、 この言葉の意味はそれ以上でも以下でもないということである。「日本」が地名ではなく、 特定の時点で、特定の意味をこめて、特定の人々の定めた国家の名前 ―― 国号である以上、 これは当然のことと私は考える。それゆえ、日本国の成立・出現以前には、日本も日本人も存在 せず、その国制の外にある人々は日本人ではない。「聖徳太子」とのちによばれた 厩戸王子(うまやどのみこ)は「倭人」であり、日本人ではない のであり、日本国成立当初、東北中北部の人々、南九州人は日本人ではない。
 近代に入っても同様である。江戸時代までは日本人でなかったアイヌ・琉球人は、明治政府によっ て強制的に日本人にされ、植民地になってからの台湾では台湾人、朝鮮半島では朝鮮人が、日本人と なることを権力によって強要されたのである。
「民族」の問題をそこに入れると、ことは単純でなくなってくるので、それについては後に若干のベ るが、日本人について、これまで「民族」、人種、あるいは文化の問題などを混入させ、さまざまな 思い入れや意味を加えて議論されてきたために混乱がおこり、日本人自身の自己認識を混濁させてき たと考えられるので、私は単純に、今後とも「日本人」の語は日本国の国制の下に置かれた人々とい う意味で用い続けたいと思う。
 そして、そう考えると「倭人」はけっして「日本人」と同じではないのである。

 それでは「日本」という国名はいつ定められたのか。
 この「日本人の自己認識の出発点ともなるべき最重要な」事柄が「天から降ってきたように、古く からいつのまにかきまっているという曖昧模糊たる認識」にとどまっていて、「現代日本人のほとんど が、自らの国の名前が、いついかなる意味できまったのかを知らないという、世界の諸国民の中でも、 きわめて珍妙な事態が現在もつづいている」と、網野さんは次のようなエピソードを記載している。
 実際、私が15年間、勤務していた神奈川大学短期大学部と、その退職後3年間、講義をした同学経 済学部の学生諸君に、1980年代後半から毎年、講義の冒頭にこの質問を発し、世紀を数字で紙に 書かせるか、手を挙げさせるなどの方法で調査してみたが、紀元前1世紀から20世紀まで、各世紀 に数字が分散し、多数派はない。要するに知らないのである。これは京都大学経済学部の学生約100人 もまったく同じであり、キャリア組≠フ国家公務員50人の中の2、3名を指名したところ、19世紀、 15世紀、9世紀と正解はなかった。

 こういう不正確な知識、というより無知が「日本の伝統」というたくさんの虚偽を含んだ概念に 呪縛され、偏狭なナショナリズムを流通させていく。
 国会議員などは官僚のキャリア組≠ニ同程度かそれ以下だろう。だからこそ「建国の記念日」な どというウソをまことしやかに制定してしまう。その連中が「誇りある歴史、伝統を持つ日本を次代 に伝える」とのたまう。(超党派の日本会議国会議員懇談会というたいそうな名の無知蒙昧集団の設立 趣意書で「高らかに」うたっている。)私たち支配される者からみれば、搾取と殺戮の歴史じゃないか。 (伝統については留保をつけよう。いずれ詳しく述べる機会があるだろう。)

 では、国号がいつ決まったかというような重大な事柄を日本人のほとんどが知らないという、きわめ て驚くべき事態がなぜいままで放置されてきたのか。網野さんはご自身の反省も込めて次のように述べて いる。
 なぜこのようなことになったのかについては、まことに根の深いものがあるが、その直接的な背景 として、明治以後の政府によって、記紀神話の描く日本の「建国」がそのまま史実として、国家的教 育を通じ、徹底的に国民に刷り込まれたこと、敗戦後、それを批判し、事実に基づく学問的な歴史像 を描くことを目指した戦後歴史学も、天皇については批判的な視点を持っていたが、それと不可分の 関係にある「日本」については、まったく問題にもしなかったことなどをあげなくてはなるまい。
 1966年、政府が「紀元節」を継承する「建国記念の日」を定めたときも、これに反対し、もと よりいまも反対し続けている歴史研究者たちも、「日本国」成立についてはとくにとりあげることな く、一方で当然のように「日本の旧石器時代」「縄文時代の日本」「弥生時代の日本人」などの表現を 用いてきた点にも、戦後歴史学の盲点が端的に現われているといわなくてはならない。かくいう私自 身も20年ほど前まではまったく同様であったので、日本人の歴史認識を混濁させてきた罪を負って いる。

 「日本」という国名がはじめて現われ、日本人が姿を見せるのは、ヤマトの支配者たちの抗争= 「壬申の乱」に勝利した天武朝廷が「倭国」から「日本国」に国名を変えたときである。網野さんは 次のように詳述している。
 それが7世紀末、673年から701年の間のことであり、おそらくは681年、天武朝で編纂が 開始され、天武の死後、持統朝の689年に施行された飛鳥浄御原令で、天皇の称号とともに、日 本という国号が公式に定められたこと、またこの国号が初めて対外的に用いられたのが、702年 に中国大陸に到着したヤマトの使者が、唐の国号を周と改めていた則天武后に対してであったこ とは、多少の異論はあるとしても、現在、大方の古代史研究者の認めるところといってよい。

 国号を「日本」としたとき、「大王」を「天皇」という称号に変えている。「日本」が唐帝国に 認められ東アジア世界に通用したのに対して、「天皇」の方は公的な外交文書では用いることがで きなかったようである。この問題には今は深入りしないが、「天皇」という称号の使用に際して、 「日本」という国号の使用と同じ混乱がはびこっている事は指摘しておきたい。このことについての 網野さんの論述には網野さんご自身の呼称方法も書かれていて参考になる。
 「縄文時代の日本」「弥生時代の日本人」の表現と同様、天皇号の定まる以前についても 「雄略天皇」「継体天皇」「崇峻天皇」「推古天皇」などの「天皇」が、教科書になん のことわりもなく、当然のように登場する。教科書だけではない。歴史学・考古学等の研究者 の研究書、叙述においても、こうした表現が広く見られるのである。これはやはり「天皇」が きわめて古くから存在したという誤りを、日本人に無意識のうちに刷り込む結果になっている といわざるをえない。
 このようなことを気にかけるのは煩しいという意識も、研究者の中にはあると思うが、作家の方 がこの点では研究者よりきびしい場合も見られる。たとえば黒岩重吾氏は『茜に燃ゆ』という作品 をはじめとして、天武以前には天皇の号を作品の中で一切使用していない。これくらいのきびしさを、 歴史研究に携わるものも持つことが必要なのではなかろうか。
 私自身、「日本」についても「天皇」についても、本当にものを書くときに意識しはじめてから、 まださほど年月はたっていないが、近年『日本社会の歴史』(上)(岩波新書、1997年)では、この ことを意識して叙述をしてみた。大王については「オホド王(のちに継体とよばれる)」という表現を し「アメクニオシヒラキヒロニワ(のちに欽明とよばれる)」としてからは以下、1大王については便宜 上、後年の天皇の漢風諡号(しごう)を用いる」と注記し、大王用明、女王推 古のように呼んでみた。また、皇太子、皇后、皇子の語も、天皇の制度の成立以前は使用せず、 太子、大兄(おおえ)大后(おおきさき) 、王子と表記した。
 もとよりこの方式が最良などといえないことはいうまでもなく、さらによく考えられなくてはならな いと思うが、いちおう、これで叙述することはできたのである。人それぞれの表現の仕方、考え方に 違いのあることはいうまでもないが、「日本」と「天皇」がそれ自体、歴史的存在で、始めがあれば 終りもありうることを明確にするために、こうした配慮が日常的に必要ではないか、と私は考えて いる。



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310 「日本」とは何か(4)
「日本」という呼称について(3)
2005年6月23日(木)



 今回は、国号として「倭」や「やまと」ではなくなぜ「日本」が選ばれたのか、という問題 を取り上げよう。

 この問に対して誰もがすぐに思いつくのは7世紀初頭に遣隋使が持参した倭王の国書に書かれて いた次の文言だろう。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」
 今国書に対して、時の皇帝・煬帝(ようだい)は機嫌を損ねている。
「蛮夷の書、無礼なる者有り、復た以って聞する勿れ」
と言ったと伝えられている。(隋書倭国伝)

 これについて、網野さんは次のように解説している。
しかしこの国号は、西郷信綱氏や吉田孝氏の指摘する通り、太陽神信仰、東の方向をよしとする 志向を背景としており、中国大陸の大帝国を強烈に意識した国号であることは間違いない。 「日本」は「日の本」、東の日の出るところ「日出づる処」を意味しているが、いうまでもなく それは西の中国大陸に対してのことであり、ハワイから見れば日本列島は「日没する処」に当るこ とになる。

 これに次いで、この国号について過去に行われてきたいろいろな議論が紹介がされている。 私には初めて知ることばかりで、大変興味深く読んだ。少し長いがそのくだりを全文掲載する。
この国号については、平安時代から疑問が発せられており、承平6(936)年の『日本書紀』の 講義(『日本書紀私記』)において、参議紀淑光(さんぎきのよしみつ) が「倭国」を「日本」といった理由を質問したのに対し、講師は『隋書』東夷伝の「日出づる処の 天子」を引いて、日の出るところの意と「日本」の説明をしたところ、淑光はふたたび質問し、 たしかに「倭国」は大唐の東にあり、日の出る方角にあるが、この国にいて見ると、太陽は国の中 からは出ないではないか、それなのになぜ「日出づる国」というのかと尋ねている。これに対し講師 は、唐から見て日の出る東の方角だから「日本」というのだと答えているが、岩橋小弥太氏も 「よほど頭の善い人だった」と評しているように、この淑光の質問はみごとにこの国号の本質を衝い ているといってよい。

 このように、この国号は「日本」という文字に則してみれば、けっして特定の地名でも、王朝の創 始者の姓でもなく、東の方向をさす意味であり、しかも中国大陸に視点を置いた国名であることは間 違いない。そこに中国大陸の大帝国を強く意識しつつ、自らを小帝国として対抗しようとしたヤマト の支配者の姿勢をよくうかがうことができるが、反面、それは唐帝国にとらわれた国号であり、真の 意味で自らの足で立った自立とはいい難いともいうことができる。

 それゆえ、穏健なナショナリストである岩橋小弥太氏は、この解釈をとると、自分が左の人からは 右さん、右の人からは左さんといわれることになり、「分裂症」的になるとして、ヤマトの枕詞に 「日の本」とある点に着目、そこに国号の淵源を求めている。しかし吉田孝氏のいうように、『万葉 集』の中で「日の本」がヤマトの枕詞となったのは一例しかなく、しかもそれは「日本」という国号 の決ったのちであり、岩橋小弥太氏の説は成り立ち得ないであろう。

 この国号はまさしく「分裂症」的であり、中国大陸から見た国名であった。紀淑光の疑問はその点 を的確についたのであるが、それより前、延喜4(904)年の講義のさいにも、「いま日本といって いるのは、唐朝が名づけたのか、わが国が自ら称したのか」という質問が出たのに対し、その時の講 師は「唐から名づけたのだ」と明言している(『釈日本紀』)。実際『史記正義』という大陸側の書に は、則天武后が「倭国を改めて日本国」としたとあり、そうした見方も早くからあったのである。

 もとよりこれは『旧唐書』の記事などから見て明白な誤りであるとはいえ、平安時代中期、すでに こうした誤解が学者の中にも生れている点に注意すべきで、それは「日本」という国号自体の持つ問 題であったといわなくてはならない。それゆえこれ以後、岩橋小弥太氏が「皆てんでんに勝手なこと を主張していたようにも思われる」と慨歎したように、国号をめぐる議論は錯綜をきわめている。

 その中で江戸時代後期、この国号を「大嫌い」といった国家神道家が現われた。幕末、尊王攘夷論 によって知られた水戸学者東湖の父藤田幽谷の書簡に、「日本国号」について近ごろさかんに議論 があることにふれた一通があり、その中に「一種の国家神道を張」る「会津士人佐藤忠満」の「一奇 談」として「日本の号ハ唐人より呼候を、其まゝ此方にて唐人へ対候て称する所のみ」と主張する 佐藤が「国号を申候事、大嫌之様子」と記されている。幽谷はこれに対し、佐藤のいう通りだが、 唐人から呼ぶなら「日(×)」というだろうが、 「日(×)」の字を用いた点に「倭人」らしさが見えるから、 この国号は「此方」で建てたことは間違いないと答えたが、これは佐藤の方が筋が通っており、幽谷 の答えはこじつけといえよう(この書簡については長山靖生氏に教えていただいた)。

 最後に次のように、「日本大好き」右翼を皮肉っている。
 このように、後年の「国粋主義」につながる人が「日本」という国名を「大嫌い」といっており、 それはそれなりに筋が通っている。1996年、NHKの人間大学で「日本史再考」というテーマで 放送したとき、かつて一部の支配者がきめたこの国号は、われわれ国民の総意で変えることができる とのべたところ、「日本が嫌いなら日本からでてゆけ」という警告のはがき、手紙をいただいた。し かしこうした立場に立つ人々こそ、さきの「国家神道家」の「筋の通った」主張を継承し、「日本」 を「大嫌い」というべきであろうし、中国大陸側に視点を置いたこの国号など、ただちに変更すべし という運動をおこされるのが当然だと思う。私自身は、本書のように、千三百年続いたこの 「日本」の徹底的総括を不可欠の課題と考えているので、もとよりそうした運動にただちに与する つもりはなが。



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