21. 「国家」について(2)
 2004年9月4日


 「国家権力は、経済社会構成の上層に地位を占めるものがよりあつまっ てつくられるものではないから、社会的国家に公的権力が存在するのではない 。社会的国家は、法によって政治的国家と二重化されるとき、はじめ て権力をもち、普遍的な<階級>のもんだいがあらわれる。」 (吉本隆明「自立の思想的拠点」所収「自立の思想的拠点」より)

 専門家には憫笑されそうなものだが、自分なりの国家観を素描してみる。

 現代の国民国家では、現実過程として利害を異にするさまざまな階層の間の抗争があり、 その抗争を調停する第三の権力として国家権力は成立している。しかし、政府を担当する 政党はその支持基盤の階層の利害を優先するから、社会的国家が行う諸事業は とても公平とは言えない。
 戦後一時期、労働者を支持基盤とする政党が政権を担当したことがあったが、 ほとんどは資本家よりの政党(現自民党)の独裁だった言える。
 しかし、独裁とはいえ圧倒的多数を占める被支配階級の支持をも得られなければ、 政権は維持できない。被支配階級にもおこばれ程度の恩恵は与える。 それをありたがる者たちが、現政府をあたかも自分たちのための政府と 錯覚し、独裁を支えている。
 しかし、おこぼれだけでは、民衆の支持は続かない。民衆に国家への服従の精神を植えつけねばならない。

 社会的国家のイニシアチブをとった政権政党とその支持階層は、抗争に勝ち続けるため には政治的国家としての権力を保持・強化し、その政治的国家権力を を最大限に利用して、すべての階層を支配しようとする。
 そのためには学校教育の支配とマスコミのの取り込みが最大重要課題となる。

 次の引用文(秋山清「反逆の信条」)が書かれたのは1970年前後だが、まだ賞味期限は切れていない。

 「国家の経済的繁栄が、そのまま日本人民衆の繁栄であるかのような錯覚に満ちわたっている。  日本の民衆は、自分たちが民衆にすぎないということすら、自覚していないのだ。 かくては、毎日の生活と生活環境への順応、治安の維持(支配のための)のための道徳と法律、 その法律をつくるための議会、議会のための選挙、われわれの坐臥、二十四時間、三百六十五日、 この国家という権力機構の操作の外に出ることはできない。繁栄といわれている現在ほど民衆の 精神生活が、わが精神環境の外側に吸収されて飢餓に瀕したことはなく、逆に国家権力がこれほど安定し ていることもない。国家が民衆のものであるなどと、ぬけぬけとしたいい方があり、しかもなお 民衆がそれを疑惑することすらできない。」

 「いわゆる経済的高度成長によってわれわれの国では、従順にはたらく者の生活は保証されてい るかのようであるが、これは現体制の枠内で、国家と法律による階級的現状に不信と反抗を表明 しない者だけにとっての保証にすぎないのである。そこでは自由そのものも、自由のための思考 すらよろこばれはしない。不信と拒否、否定から反逆へという自由の発展的方向を含む志向は、 常に反社会的として締め出されつづけている。」

 「われわれは国家というものが、大衆の意志などとまるでまったく無関 係な政府によって、政府をつくる政党によって、政府をバックアップする 階級によって、資本家によって、官僚によって、あるいは地主らの総合的 利益のためによって、つくられて運営されて、下級民衆にはそのための必 要によってのみ支配の手が緩急されるという事実をあまりにも痛 切に経験しつつある。(中略)

 国家、それは、社会主義を名乗ろうと王国であろうとデモクラシーの近代的国家であろうと、 その国家と民衆との関係は、圧制者と権力にしいたげられる奴隷との対立であることにかわりは ない、ということにつきる。」


 ここで国家の問題を考えるときに、もう一つ大事な視点があることがわかる。

 「わたしたちが認めうるのは、この世界には少数の支配と多数 の被支配が現実を領しているということだけである。この課題が 「社会主義」国家同盟と「資本主義」国家同盟の対立、矛盾と いう概念によっては救抜されないということだけはあきらかである。」 (吉本隆明「模写と鏡」より)

 この文が書かれたのは1963年。しかしこの文にも賞味期限はない。

 現在は「社会主義」国家同盟と「資本主義」国家同盟の対立にかわって、 「ならず者国家」と「自由主義国家」の対立が流布されている。 これは多分にブッシュが一方的に描いた構図に過ぎないのが、 この場合も「わたしたちが認めうるのは、この世界には少数の支配 と多数の被支配が現実を領しているということだけである。」

1. 国家本質を「政治的国家」と「社会的国家」の二重性として捉える視点
2. 国家と国家の対立などなく、少数の支配者と多数の被支配者の対立が あるばかりだと、国際情勢を捉える視点、
 この二視点を通して時代の情況を眺めるようになってから、私はとても深く遠く ま見通せるようになったし、大きく見誤ることはなかったと思う。進歩 的革新的を自称する多くの人が陥った陥穽には無縁だった。「ソ連」や 「北朝鮮」を労働者・被抑圧者の味方の国などと思ったことなど一度もない。

22. 読者への挑戦 
 2004年9月5日


 昨年10月23日に石原とその下僕たちが出した「通達」の内容を知って以来、私の怒りと危機感は一向に 収まりません。怒りは静かに沈潜させて長く持続し、根底から敵を打倒しようと言う意味で、 トップページの画像に広目天を選びましたが、これまでの私の怒り方では、むしろ東大寺三月堂 ・二力士像の中の阿形(あぎょう)像を掲げるべきだったかもしれません。「怒髪天を突く」ほどの怒りなのです。 私の頭はほとんどスキンヘッドなので、怒りのほどをお見せできなくて残念です。代わりに阿形さんのお姿をお借りします。

 初めから通して読んでくださっている方は、そろそろ私の語調が鼻についてくる頃でしょう。今回から 静かに深く怒ることにしました。肩肘の力を抜きます。
 そこで今回から、文体も変わったわけです。
 私はクソ真面目で、遊びが下手なのですが、時には遊びも取り入れようかと思います。

  「君が代日の丸の強制」と言う権力側からの攻撃は単に「君が代日の丸」だけの問題ではなく、 私たちの「国家観」や「教育観」への攻撃であると思います。私は私自身の「国家観」や「教育観」 を検証し、より強固なものにする必要があると感じました。そこで私なりの「国家観」や「教育観」 を改めてまとめ直してみようと思いました。他人の言葉を頼りのしどろもどろの言説でしたが、一応一通り終わりました。
たぶん欠陥だらけでしょう。必要に応じて修正・訂正・補強を随時やっていこうと思います。

   ということで一区切りつきましたので、そろそろ敵の論旨の全体を明らかにした上で、全面的な批判・反論を してみようと思います。いままで多くの人たちが行ってきた批判・反論に何か新しいものを 付け加えることはおぼつかないとしても、ともかく自分自身のために、一度は自分の 言葉でやってみる必要があると感じています。

 「市民が記者になってニュースを送るNPO型インターネット新聞」と謳っている 「JANJAN」( http://www.janjan.jp/)と言うサイトがあります。時折、マスコミが報道 しない情報が得られるので、一応毎日覗いて、関心のある記事を読んでいます。
 その「JANJAN」に、6月中ごろ、「君が代日の丸の強制」に賛意を表する記事が掲載されました。 「JANJAN」の基本姿勢にそぐわない記事だと、他の記者たちから非難の声がたくさん 上がったようです。

 しかし、その文は、それこそマスコミを通して石原や右翼新聞・雑誌が垂れ流している論点をそっくり なぞったようなもので目新しいものはないのですが、国家権力や石原からご褒美が出そうなほど、 よくまとめています。私の知る限りでは、敵にはそこに盛られている以上の論点はないと思われます。 権力に支配されることを喜びとする期待される正しい日本人の典型だと思い、記録しておきました。
 こういう意見をただ無視したり、問答無用で否定するだけでは、私たちのため にもならないでしょう。私たちの身近にいる多くの人たちの意見なのです。 やはり真正面から取り上げるべきです。
 これを紹介して、全面的は批判・反論の材料とします。段落とその番号は、便宜上、私がつけました。
 (権力を持ったものの口撃には遠慮は不必要ですが、ここでは、筆者を槍玉に上げるのが目的で はありませんし、筆者は私たちと同じ無名の一国民ですから、筆者の名前はあげる必要はないでしょう。)

「読者への挑戦」
 次の文を読んで、ご自分なりの批判・反論・論破を用意してください。
 あるいは下記の文にない敵の論点を知っていたら教えてください。 ディベートのつもりで、賛成の表明・賛成意見の補強でもいいです。 より手強い理論が出てくると面白くなると思います。
(「メールの輪」に投稿してくださると、さらにありがたいのですが。)


 
「国旗掲揚・国家斉唱は憂慮すべきこと? 」

(1)
 日本は卒業式や入学式のシーズンになると、国旗掲揚や国歌斉唱の是非が議論される不思議な国 である。諸外国の学校で、国旗や国歌に抵抗して、起立しないことがあるだろうか。植民地であれ ば統治国に反抗する意図は理解できるが、独立国であるのに、なぜ、国旗と国歌を無視できるので あろう。

(2)
 国旗掲揚と国歌斉唱の強要は戦前の軍国主義を連想させるので、思想・良心の自由を妨げると 憂慮するのであろう。しかし、戦後59年が経過し、国際社会の一員として見事に復興した日本が、 国旗掲揚や国歌斉唱をしたからといって軍国主義に戻るはずがない。

(3)
 むしろ、国際社会で名誉ある地位を占めたいと願うのであれば、国旗や国歌をないがしろに する振る舞いこそ、外国の支持を得られない。国際社会では、国旗や国歌はシンボルとして大 切に扱われる。起立して人に礼をつくすように、国のシンボルに起立して礼をつくすことが、 子供の教育に憂慮すべきことか。逆に起立しないことの方が、憂慮すべきことではないか。 それは、人に会って挨拶しないのと同じだからだ。会釈をして挨拶する習慣は、親が小さな 子供に教える基本的な躾である。

(4)
 また、国旗と国歌を憲法上の思想・良心の自由に結びつけるのは、あまりに飛躍しすぎる感 がある。国歌斉唱の時に生徒に起立しないように促した教師こそ、生徒の思想・良心の自由を 侵害したことにならないか。親の立場で見れば、自らの思想を生徒に押し付ける教員は願い下 げである。

(5)
 国旗と国歌が嫌ならば、オリンピックで金メダルを獲得した日本選手が、日の丸を持って観衆 に応える場面も批判したらどうであろう。君が代を涙で歌う金メダリストは憂慮すべき事態 なのか。
 今年の夏はアテネオリンピックが開催される。「日の丸」と「君が代」がテレビで放送され ればされるほど、日本中は感動で熱くなるのではないか。日本人がアイデンティティを認識する オリンピックである。




23. Kさんへの批判・反論(1) 
 2004年9月6日



 (「国旗掲揚・国家斉唱は憂慮すべきこと? 」の筆者を Kさんと呼ぶことにします。)


(1)
 日本は卒業式や入学式のシーズンになると、国旗掲揚や国歌斉唱の是非が議論される不思議な国 である。諸外国の学校で、国旗や国歌に抵抗して、起立しないことがあるだろうか。植民地であれ ば統治国に反抗する意図は理解できるが、独立国であるのに、なぜ、国旗と国歌を無視できるので あろう。

  Kさん、あなたは、まず最初に事実誤認をなさっています。日本は「卒業式や入学式のシーズンになると、 国旗掲揚や国歌斉唱の是非が議論される」から不思議な国なのではなく、「卒業式や入学式に国旗掲揚 や国歌斉唱を強制する」から、不思議な国なのです。不思議と言うよりばかばか しい国なのです。
 日本は民主主義国家あるいは自由主義国家を自称しているようですから、あなたが比較する諸外国も 民主主義国家あるいは自由主義国家に限りましょう。
 諸外国の学校では国旗掲揚や国歌斉唱などやらないのです。私にはいま 直接調べることができませんので、信用できる人の証言を信じることにします。

 「そもそもそうした儀式をしないという選択肢もありうるし、現場に任されるべきこと です。それをしたいという要求が教員や生徒の中で高まってくれば、それをすればよい のです。どういう形態をとるかはまったく自由です。それは異常なことでも何でもあり ません。私の娘は一年半ほどフランスの現地校に通ったことがありますが、そこでは儀 式的なものはほとんどありませんでした。イギリスやドイツヤフランスの学校行事で国 旗国歌が強制されるということはありません。」 (「良心的『日の丸・君が代』の拒否」の前文・高橋哲哉「この国の地金を変えていく一歩」より)

 こういう国家を民主主義国家あるいは自由主義国家とうのではないでしょうか。
あるいはあなたは、日本は民主主義国家でも自由主義国家でもなく、どちらかというと 「北朝鮮」に近い国家という認識をお持ちなのでしょうか。それならば、「諸外国の学校で、 国旗や国歌に抵抗して、起立しないことがあるだろうか。」というあなたの主張には 一貫性があります。

 Kさん、あなたはもう一つ、位相の違う概念を並列して論じるという過ちを侵しています。 「植民地」と「独立国家」です。「植民地」のままで「独立国家」を形成することは可能です。 「領土・人民・政府(国家権力」を国家を国家たらしめる三要素と言うようで す。植民地に欠けているのは国家権力です。従って、征服国家からの少数の入 植者階級が担っても、先住民が担当する傀儡政権であっても、植民地を直接 支配する独自の政府があれば、それはやはり「独立国家」ではないでしょうか。
 征服国家が植民地を自国の領土の一部に組み込み、直接支配する場合は、 まさにその地域は、あなたが言う「統治国」の一地方に過ぎないこと になります。現在ほとんどの植民地は独立していて、統治国に支配 されているという意味での植民地は十数地域ぐらいだそうです。
 しかし、かって植民地だった地域の多くは、独立国家となったとはいえ植民地時代の 問題を引きずっています。国家の権力を掌握しているのが、少数の入 植者階級(つい10年ほど前までの南アフリカ)であったり、先住民が担当 していても傀儡政権(これは枚挙にいとまないほど例があるでしょう。) であったりして、その国の国民の大多数を占める先住民たちは 植民地時代と変わらぬ状況におかれています。

 植民地から独立したといってもカナダ・オーストラリア・ ニュージーランドは国土を先住民から奪い取って出来た国家です。 これらの国の先住民の人口比はカナダでは2%弱、オーストラリア でも混血も含めて1.5%ぐらい、ニュージーランドは 9%程度ということです。
 それにそれらの国家は紛れもない独立国家ですが、形式的にはいまだにイギリスを 宗主国とする植民地なのです。元首は英国国王で、総督までいます。
 そして、いま世界で一番危険な「ならず者国家」のアメリカも先住民を 虐殺しながら、国土を奪って立国した国家です。

 Kさん、植民地での統治国への反抗は理解できるが、独立国での反抗は理解できないというあなたの 立言の根拠の薄弱さをお分かりいただけたでしょうか。

 Kさん、それでもあなたはこう言うかもしれませんね。 日本は植民地から独立した国家ではないから、国家に反抗する理由はないと。 これはおそらくあなたの主張(2)と関連します。そこで論じることになるでしょう。
 そのとき、もう一つ論じなければいけないことがあります。あなたは植民地での反抗には理解を 表明されましたが、それは何故ですか。

 ところで、Kさん、毎日のように無辜の人たちが国家によって殺されています。 大学を卒業なさった知性あふれるお方のようですから、 たぶん無関心ではいられないことと推察いたします。
 この数日間は、毎日のように北オセチア共和国(ああ、事件が起きない限り、私はこの国名の国を知らなかった!) で起きた武装集団の学校占拠事件が大きく報道されています。昨日の報道写真のなかの 母親や姉や祖父らしい人たちの慟哭する姿に、私はつい落涙しました。 あなたは何をお感じになられましたか。日本とは無縁とお思いでしょうか。

 Kさん、あなたは小学生か中学生のお子さんをお持ちのお母様のようですが、 どうか、権力者やマスコミの言うことを鵜呑みにしてそれをそっくり真似るのではなく、ご自分の耳目を使って調べ、 ご自分の頭と言葉を使って考えてみてください。あなたの大事なかけがえのないお子さんのためにも。

ではまた次回に。

24. Kさんへの批判・反論(2) 
 2004年9月7日



 (2)
 「国旗掲揚と国歌斉唱の強要は戦前の軍国主義を連想させるので、思想 ・良心の自由を妨げると 憂慮するのであろう。しかし、戦後59年が経過し、国際社会の一員と して見事に復興した日本が、 国旗掲揚や国歌斉唱をしたからといって軍国主義に戻るはずがない。」

 Kさん、あなたは「日の丸・君が代」とは言わず「国旗・国歌」と言っています。 あなたには、「日の丸・君が代」は「国旗・国歌法」で法的に「国旗・国歌」 となった、だから、それに反対するのはけしからんと言うことを、 暗に強調したい意図があるのではないですか。 「日の丸・君が代」の議論をしているのではなく 「国旗・国歌」の議論をしているのだと。
 あなたは、はっきりとその姿を晒しても大多数の賛成が得られそうだと 判断したからでしょうか、オリンピックとの関わりを論ずるときは、「国旗・国歌」 という法の衣を脱いで、「日の丸・君が代」と本当の姿を使っています。 私には「国旗・国歌」と「日の丸・君が代」を意図的に使い分 けているように思えるのですが、私の勘ぐり過ぎでしょうか。

 ともあれ、日本の「国歌・国旗」は歴史的に特殊な負の遺産を引き ずっているので、はっきりと「日の丸・君が代」と言うべきだと私は 考えます。あなたもその負の遺産のことはご存知ですから、 法の衣を着た「国旗・国歌」というを言葉を使いながら、「軍国主義を 連想させる」危惧を表明しています。
 私は、以後は、「日の丸・君が代」と言うことにします。 あなたにも異存はないことと思います。

 本題に入ります。
  Kさん、それが何であれ、何かを連想すると思想・良心が 妨げられるとは、またずいぶんと珍妙な理屈ですね。
 何かの連想を強いられて、思想・良心が侵害されたと主張する人を 私は想像できません。
 思想・良心に反する言動を強いられて、初めて思想・良心は 侵害されたと言えます。そして今、良心的な教師たちが精神的な拷問 といってもよいほどに苦しんでいるのは、軍国主義を想像したなんて いうばかげた理由ではなく、 行政権力が処分を振りかざしてまで、思想・良心に反する言動を 強いているからなのです。

 次にあなたは日の丸を掲揚したり、君が代を斉唱したりしたから と言って、軍国主義に戻るはずがない、と自信を持って断言なさいます。
 日の丸を掲揚し君が代を斉唱するだけで軍国主義に戻るとしたら、いまそれを 目論んでいる支配者たちは諸手を上げて大喜びし、いま進めている面倒な政治的策略 の手続きを、すぐ放棄することでしょう。
 むろん、いま支配者たちが目論んでいるものは、大日本 帝国のような剥き出しでハードな軍国主義ではなく、耳目に入りやすいソフトな オブラートに包まれています。

 Kさん、一市民として「NPO型インターネット新聞」の記者を買って出 ていらっしゃるあなたが支配階層の方とはとても思えません。たぶん、私と同じ 被支配者の一人かと推察します。なのに、どうしてこうも物の見方考え方が違 うのか、と考え込まされます。

 あなたは植民地での被支配者の支配者に対する反抗には理解を示されました。 植民地には支配-被支配という対立があり、不当で理不尽な抑圧には反抗する権利があると 考えておられるものと推察します。
 しかし、日本国民の日本国家に対する反抗には嫌悪感を隠しません。 私にはとても不思議です。日本には支配-被支配という対立などないし、 不当で理不尽な抑圧を受けている国民などいないとお思いになっていら っしゃるのかもしれません。
 しかし残念なことに、世界のどの国家にも支配-被支配の対立が厳としてある というのが、正しい現実認識ではないでしょうか。むしろ、支配-被支配 を維持強化しようとする最強の権力が国家なんだと言ってもよいのでは ないでしょうか。
 こうした世界の現実認識を欠いたまま微温な日常に埋没している人たちが、 その自分たちの微温な日常の中に隠されている実態を暴きそうな人や事件や言行に出食らわすと、 あわてて集団的なヒステリーを起こします。最近では、イラクで活躍していた 人たちに対する「自己責任」バッシングがそうでした。

 Kさん、あなたが、支配-被支配という矛盾の解決を願って行動している 隣人たちに「非国民」や「反日分子」などのレッテル張りを するような卑劣な国家権力の手先にならないことを祈ります。老婆心ながら、 あなたがその一歩手前にいるように感じますので。

   さて、Kさん、「日の丸を掲揚したり、君が代を斉唱したりしたからと言って、 軍国主義に戻るはずがない」というあなたの論理は、部分を取り出して全体を 裁断するという、詭弁の一つです。
 しっかりと全体像を検証して、そのなかに「日の丸・君が代の強制」を 位置づけた上で判断すべきではないでしょうか。
 あなたが誇らしげに指摘している「戦後59年が経過し、国際社会の一員と して見事に復興した日本」の本当の在りようを検証してみましょう。

長くなりなしたから、それはまた明日。

25. Kさんへの批判・反論(3) 
 2004年9月8日


 支配者たちによる日本の戦前回帰の志向は、1950年の朝鮮戦争勃発に 誘発されて起こった一連の反動の嵐から始まります。
 GHQの指示を受けて、並行して行われた「レッドバージ」と「追放解除」。  革新勢力が追放され、戦前の日本を牛耳っていた政財官界人・言論界人 が復帰します。大日本帝国の敗戦後たったの5年目のことです。
 以来自由と民主の砦は、少しずつ、狡猾に、確実に、 削られ続けてきました。そして、多くの人が指摘していますが、1999年に状況は急展開します。 自由と民主の砦は大きく崩壊するほどの攻撃を受けました。支配者側から見れば、念願成就に 大きく近づいたことになります。
 時代の様相は、戦後が終わってついに戦前に回帰したようです。

 1999年に何があったのか振り返ってみましょう。

 日本の今後の進路を決定付けるような重要法案が、当時の首相・小渕の 人間的軽さを体現したようにホイホイと、なんとも軽々 しく成立してしまいました。
 実は小渕は私の高校時代の友人です。もっとも彼が代議士になったときから、付き合いはありません。 小渕は自分が率いる政府がやっていることの重要性をまったく自覚していなかったのではないかと、 私は疑っています。

5月24日 ガイドライン関連法(周辺事態法・改正自衛隊法・改定日米物品役務提供協定)成立
 対米軍事協力の項目を明文化し、米国による戦争に日本が自衛隊のみならず、民間まで 動員・協力させるを決めています。大日本帝国の「国家総動員法」に匹敵します。

8/9 国旗・国歌法成立
 「決して強制するものではない」というオブラートをかけて成立させています。それが現在、 人の心を圧殺するような法律になっています。
 また「君が代」の「君」は天皇のことだと、首相がはっきりと答弁しています。

8/12 盗聴法含む組織犯罪対策三法が成立
 国民の安全を守ると言う耳目に入りやすいものと抱き合わせで とんでもない法律を成立させます。このような抱き合わせ手法を権力はよく使います。
 この法律は大日本帝国の治安維持法に匹敵します。
 盗聴法(通信傍受法)は明らかに憲法第21条第二項「検閲は、これをしてはならない。通信の 秘密は、これを侵してはならない。」に違反しています。

8/12 改正住民基本台帳法成立
 国民総背番号法です。私たちは全員11桁の数に過ぎません。戦場での兵士の 標識番号みたいなものです。徴兵制がしかれたとき、さぞ威力を発揮することでしょう。

 さらにこの年の全国戦没者追悼式で、いままで演奏だけだった「君が代」が、 天皇・皇后の前で歌われたというのです。これはずいぶんグロテスクな光景 だと思いませんか。天皇の名において遂行された無謀な戦争の犠牲になった300万人に対する 冒涜ではないでしょうか。大日本帝国の侵略軍に殺されたアジア諸国の犠牲者は2000万人 と言われています。この人たちへの追悼の心は皆無です。
 もしかするとあなたには、感涙に咽びなくほどにうれしい光景でしょうか。

 1999年以降も戦争遂行するための法律と国民を管理統制するための法律の整備 が続けられています。
2003年12月から、とうとうイラクに自衛隊が派兵されました。イラクには何を自衛しに行ったので しょうか。
 全く憲法が無視されているような様相です。憲法を戴いた憲法違反だらけの国家 権力が、憲法の都合のよいところだけつまみ食いして自己正当化の具とし、 一方で憲法改悪のプログラムを着々と進めているのです。

 Kさん、如何でしょうか。「戦後59年が経過し、国際社会の一員と して見事に復興した日本」の行きついた先がどんなに無残なものか、 あなたには見えませんか。「日の丸君が代」が果たしている役割がま だ分かりませんか。
 日本はもう十分に立派な戦争遂行可能国家です。 自衛隊と言う軍隊は世界第三位の戦力を誇っているそうですね。徴兵制も 目論まれているようです。

26. Kさんへの批判・反論(4) 
 2004年9月9日


 Kさん、今日は初めにあなたにお礼を申し上げます。
 あなたの労作を通り一遍に読み捨てずに、一度きちんと批判しようと記録しておきました。 きちんと批判するためには文章を精読しなければなりません。精読すると、短い文章の中 にも実にいろいろな問題が含まれていることが分かってきます。それらの問題について、私は 調べたり考え直したりします。その過程で、びっくりするような新しい発見をします。
 憲法の前文を通して読んだのは、高校生のときでしたか、中学生のときでしたか、 定かでありませんが、いずれにしても通り一遍に読んだ、と言うより、 読まされたと言った方がよいでしょうか。今日、50年ぶりに精読しました。日本国憲法の 理念の中に、改めてびっくりするようなことを発見をしました。50年間に私が得た思想にぴったりの 理念が謳い上げられているのです。
 精読する機会を与えてくれたあなたのお陰です。


(3)の1
 「むしろ、国際社会で名誉ある地位を占めたいと願うのであれば、国旗や国歌をないがしろに する振る舞いこそ、外国の支持を得られない。」

 今回も本論に入る前にはっきりとさせなければならない概念があります。「国家」です。
 あなたは国家という言葉を使わず「国」といいます。このことで思い出した人があります。 小林よしのりです。ご存知ですか。読む前から言ってることの底は見えていて、 小林の著書を読む気は私にはまったくありません。しかし、他の著書での引用文で 小林の文?(漫画のセリフと地の文)に触れることがあります。そのとき、ああ やっぱり予想したとおりだ、底が浅いと思います。
 引用文で知った範囲でのことですが、小林は国家という言葉を使いません。 「国」か「公」か「公共」です。「国」と「公」・「公共」はまったく違う概念です。これをご都合 によって使い分けます。だからその論理はしっちゃかめっちゃかです。 しっちゃかめっちゃかでも、単純浅薄でも、すっぱりと割り切っている ところが受けるのでしょうか。小泉首相・石原都知事の場合と同じです。私には小林の読者が理解できません。
 「国」と言う概念は非常にあいまいです。その意味するところは、国土であったり、故郷であったり、 政府であったり、国家であったり、あるいはそうしたものすべてを含めた所謂「国」であったりします。 しかしあなたの場合も小林の場合もその指し示すところは 「国家」以外ではありえません。なぜはっきり「国家」と言わずに「国」というぼやけた 言葉で代えるのでしょうか。
 「国家」という概念にはかならず「支配−被支配」の問題が最重要な課題として付きまといます。 もしかすると無自覚なのかもしれませんが、あなたも小林もその問題を避けて、 見て見ぬ振りを決め込んでいるとしか思えません。お二人ともにその論旨全体に「支配−被支配」と いう観点が欠けています。
 あなたのいう「国」は「国家」であるということで論を進めます。

    「国際社会で名誉ある地位を占めたいと願う」

 小泉首相はイラク派兵を正当化するために憲法前文の文章をいくつか 利用しています。これはその一つですね。 憲法違反を平気で犯しながら、憲法の権威だけはちゃっかりと利用する。 しかも文脈から切り離して自分の都合のいいように意味を変えて。小泉の詐術は 聞く方も恥ずかしくなるような見え透いたものですが、本人は恬として恥じない。 破廉恥な男です。そうは思いませんか。
 Kさん、あなたはそうは思っていないのですね。詐術までそっくり真似ているのですから。 我らが首相はうまいことを言うな、と感心したのでしょうか。でも、真似るにしても、最小限、 原文を確かめてからすべきではないですか。

 そのくだりは次のようです。

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと 努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、 ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

 あなたや小泉の主張と並べてみると、何が違うのかよく分かります。「国際社会」が違うのですね。 小泉が使うときの「国際社会」は「アメリカ国家とその同調国家」群のことです。あなたの場合は 地球上のすべての国家が対象でしょうか。いずれにしても諸国家の関係概念のようです。

    憲法前文の「国際社会」もそうでしょうか。
  前文の主語・「われら」は国民です。その前の段落ではっきりと「われら国民」と言っています。 「わが国家」ではありません。
 そして前文中の「国際社会」は「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと 努めてゐる」社会です。この文脈では明らかに「国家」ではありません。文字通り国際「社会」です。 ですから、次の文節でも「全世界の国民が」とあり、「全世界の国家」とはなりません。
   これはどういうことでしょうか。
 まず、国際社会にはいまだ「専制と隷従、圧迫と偏狭」があると認識しています。そしてそれを 「地上から永遠に除去」するのが国際社会の最重要課題だといっています。その課題を担うことにおいて 「名誉ある位置を占めたい」と言うのです。
 前文の次の段落は次のようです。

   われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視して はならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従 ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 ここで初めて「国家」が出てきます。「いずれの国家」も普遍的な「政治道徳の法則」に従う ことが国家の責務だと締めくくっています。
 ここで言われている普遍的な政治道徳の法則が、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫 と偏狭を地上から永遠に除去しようと努め」ることを指しているのは、文脈から明らかでしょう。
 つまり最後の段落で、国民が、国民に源泉する権力を国家に委託し、 国家にそのあり方を指示しているのです。

 よく言われるように、大日本帝国の欽定憲法とは異なり、民主主義国家・日本の憲法は、 国家が国民に下賜し管理支配するための法ではありません。国民が国家にその在り方を示し、 国家がそこから踏み外さないように歯止めをしている法なのです。「国家」があって「国民」 がある、という支配者たちがよく強調する思想を 真っ向から否定しています。まず国民があって、国民が国家に権力を委託しているのです。
 
 国家が本来の責務から踏み外して国民を隷属・圧迫しようとし、その道具として日の丸・君が代を 利用するなら、それに異議を申し立てることは、国民として真っ当な事なのです。

第十九条【思想及び良心の自由】思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 これは、踏み外しをした国家への異議申立てを保証するための条文だと、私は理解し直しました。


 「日の丸・君が代に対抗するネットワーク」( 略して「反ひのきみネット」)というサイトに出会いました。もう大きなネットワークを 形成しているようです。より広い場に出て行くことにしました。
 リンクを貼り付けるための問い合わせをしたところ、早速返事を頂きましたので貼り付けます。
 このサイトの「メーリングリスト(ML)」というのにも加わりました。多くの人と意見交換ができます。私もホームページの記事を 書き直したりして送り、より多くの方に読んでいただこうと思っています。
 私のホームページそのものを掲示板に掲載する申し込みものしました。(リンク集に加えてもらった方がよかったかな。) これは返事待ちです。
 ぜひ覗いてみてください。そしてよかったら「メーリングリスト(ML)」に加入してください。


27. Kさんへの批判・反論(5) 
 2004年9月10日


 Kさん、わたくしは憲法前文を精読して本当にびっくりしています。繰り返します。
 前文は「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」することを 人類普遍の最重要課題として掲げているのです。とても崇高な理念だと、私は思います。 そして国家はこの理念に基づいて責務を遂行せよ、と言っているのです。
 そしてもう一つ、「国家」があって「国民」があるという思想を真っ向から 否定しています。その底流に流れている思想は、まず国民があって国民が国家に権力を委託してい ると言っています。
 支配ー被支配の枠組みを維持・強化しようとしている抑圧者らは現憲法を眼の敵にする理由が、 改めてよく分かりました。まさに目の上のタンコブで、とても目障りなのでしょう。

 しかし、現実の日本国家は憲法が掲げている理想となんと遠いことでしょう。抑圧者らにとっては なんと居心地よい国家になってしまったことでしょう。いまや目の上のタンコブを取り去る 機が熟したと、憲法改悪の動きが急になってきました。

 憲法改悪の焦点に第九条ばかりが取り上げられていますが、彼らの 本当のねらいは前文じゃないかと、いま私はそのように思うようになりました。本当のねらいは、 憲法を、国家が国民に下賜し管理支配するための法に作り変えることです。例によって、 耳目に入りやすいおためごかしの改定と抱き合わせで、狡猾に作り変えようとするでしょう。

Kさん、如何でしょうか。あなたが憲法改悪に賛成されているのかどうか分かりませんが、 国家権力に支配される立場にある仲間として共に、この立派な憲法を守ろうではありませんか。

 いま私は立派な憲法と言いましたが、現憲法には改正すべき大きな瑕疵があります。 第一章の天皇条項です。私は第一章を不要と考えるものですが、たぶんこれはいくつもの意見に分かれる 種類の問題でしょう。いまはこの問題に深入りしません。機会を見つけて改めて考えることにします。

 憲法前文を精読しながら、そこに書かれている憲法の理念を崇高だと思う一方、 私は次のような疑念を抱いていました。
 平和を壊し、「専制と隷従、圧迫と偏狭」を強いるもっとも強力な張本人は国家です。 国家の本質とも言うべきその特質を、国家自身が取り除くことが出来るのでしょうか。 もし出来たとしたら、それは「国家の死滅」を意味します。

 Kさん、ここで、国家について、その本質に迫る理解が必要になります。私の知る限りでは 吉本隆明氏の国家論が一番本質に迫っていると思います。ちょっと復習させてください。
 吉本氏は「「国家の本質は共同的な幻想である。この共同的な幻想は、政治的国家と 社会的国家の二重性の錯合した構造としてあらわれる。」と、国家の本質を指摘しています。
 人間の生活の社会的経済的な現実過程は相互扶助的な共同体の形成を必然とします。 これを社会的国家と呼びます。小林よしのりが好んで使う「公」とか「公共」は社会的国家のことと 言えると思います。この社会的国家に共同幻想としての政治 的国家が覆いかぶさり、二重に錯合した構造となりさす。
 吉本氏はまた「社会的国家は、法によって政治的国家と二重化されるとき、はじめ て権力をもち、普遍的な<階級>のもんだいがあらわれる。」、 「あらゆる共同幻想は死滅すべきである。」とも言っています。
 私たちが「国家権力」と言うときの国家は「政治的国家」を指しています。「国家の死滅」 というときの国家も「政治的国家」です。
 「国家の死滅」なんてあり得るのでしょうか。これも稿を改めるべき問題ですが、  ここで思い出した国があります。デンマークです。この国の国家権力はその権力の行使を 必要最小限に抑制しているように思われます。「国家の死滅」への道筋の一つではないでしょうか。
 話が前後しますが、デンマークの小学生の入学の始まりを詳しく記述した文章を思い出 しましたので、それを全文紹介します。日本の小学校の入学式と比べてみてください。 日本の国家権力とデンマークの国家権力の在りようの落差がとてもよく分かると、私は思いました。

 出典は、村上龍さんが編集長をしておられるJMM(Japan Mail Media)というメール新聞?の記事です。 JMMに配信申し込みをすると随時記事を配信してくれます。

http://ryumurakami.jmm.co.jp/

 ご紹介する記事の筆者は、高田ケラー有子さんとおっしゃるデンマーク在住の造形作家です。

「ゼロ年生の初登校」

 私の息子も8月9日から学校に通い始めました。以前にも書いたようにデンマーク では1年生から始まるのではなく、幼稚園クラスと呼ばれるいわゆるゼロ年生にあた るものがあり、そのゼロ年生になりました。入学式なるものはなく、初日は9時に集 合ということで、保護者も招待されて学校に行くという感じでした。遅い夏の到来で、 にわかに暑くなっていたので(といっても26度ほどでしたが)、先生も保護者もそ のほとんどがTシャツに短パン姿、サンダル履きといった格好でリラックスしており ましたが、何処も同じでビデオやデジカメで我が子のファーストスクールデイの記念 撮影をする保護者の姿がありました。

 これが普通なのだなとつくづく思ったのは、ほとんどが両親といっしょに来ていた ことです。もちろん平日な訳ですが、夫婦共働きの家庭が多い中で、90%以上が両 親に付き添われていたのは、自分も当たり前のように夫と2人で参加しながらも、父 親の育児や教育への関わり方を象徴しているようで、素敵なことだなと思いました。 今後も、またいろいろと学校の様子など観察しながらゼロ年生なるものがどのような ものなのか書いていきたいと思いますが、今回は初日の様子を中心に紹介しておきた いと思います。

 学校が始まる前の週の木曜日に、担任となる先生から息子宛に手紙が届きました。 内容は「9日からいよいよ学校が始まりますね。楽しみにしていることでしょう。先 生からみんなにお願いがあります。教室をきれいに飾りたいので、お花を持って来て ください。それと、床に座ってお話を聞くこともあるので、クッションも忘れずね。 では9日、9時に。ピア(先生の名前)」というものでした。そして9日、ゼロ年生 たちはお花とクッションを抱えて初登校しました。

 まず、入り口で校長先生が、「おはようニコラス」と息子の名前を言いながら握手 をしてくれたのには驚きました。校長先生はすでに全てのゼロ年生(といっても田舎 の小さな学校ですので全部で2クラス36名)の名前を覚えておられるようでした。 教室の前では担任の先生が校長先生と同じように子供の名前を言い、また自分の名前 を知っているかどうかの確認もしながら握手をしていました。校長先生、担任の先生 共に、もちろん私たち保護者もよろしくの握手を交わしています。

 教室に入ると、机の上にはネームカードがおかれ、ダネブロー(デンマークの国旗) のミニフラッグが付いたジュースにお菓子、そして太くて柔らかい鉛筆(この鉛筆に もゼロ年生の象徴である足跡のデザインが施されています)と消しゴム、練習帳のよ うなものが2冊と歌の歌詞ホルダー、それに連絡ホルダーがおかれていました。みな がそれぞれ持って来たお花を机の上に置くと、ほんとうに教室が一気に華やかになり、 天井いっぱいに飾られた色とりどりの風船とたくさんの手旗ダネブローも手伝って、 そこはすっかり居心地のよいヒュッゲリ(デンマーク語で快適な、心地よいの意味で すが、そこに人やなにかしらの暖かみを感じるような意味合いが含まれ、日本語でズ バリ言えません)な空間と化しておりました。


 素敵な入学行事ですね。Kさん、そう思いませんか。ジュースとお菓子に添えられたミニ フラッグ。こういう風に使われれば、子供たちも国旗さんも幸せですね。
 それにひきかえ日本の入学式では、子供たちは直立不動で日の丸を仰ぎ見ることを強いられたうえ、わけの 分からない歌のため口を無理にこじ開けられます。入学早々、「服従せよ!」 と威嚇されているです。



 先ほど「反ひのきみネット」を開いてみましたら、私が依頼していたこのホームページの紹介が 掲示板に掲載されていました。100倍ぐらい、人の目に触れるチャンスが増えたことになります。


28. Kさんへの批判・反論(6) 
 2004年9月11日


(3)の2
 「国際社会では、国旗や国歌はシンボルとして大切に扱われる。起立して人に礼 をつくすように、国のシンボルに起立して礼をつくすことが、 子供の教育に憂慮すべきことか。逆に起立しないことの方が、憂慮すべきことではないか。 それは、人に会って挨拶しないのと同じだからだ。会釈をして挨拶する習慣は、親が小さな 子供に教える基本的な躾である。」


 Kさん、このくだりに対する私の批判はいままでの議論の中で済んでいますが、改めてまとめます。
 君が代・日の丸を政治的国家が国民を支配・抑圧する目的で使用するとき、 私たちはむしろ異議を申し立てるべきなのです。 そしてそのように使われる君が代・日の丸を子供の教育に持ち込むことはおおいに憂慮す べきことなのです。

 Kさん、あなたのお子さんが、直立不動で日の丸を仰ぎみながらわけの分からない歌のため口 を無理にこじ開けられるような入学式・卒業式を、あなたは本当に望んでおいでなのですか。
 入学式・卒業式に限りません。入学式・卒業式での強制が定着すると、次は日常的に日の丸を掲揚し、 休み時間に君が代を放送で学校中に流すようになります。子供たちに、日の丸の前では最敬礼をし、 君が代が流れるとどこに居ようがその場で直立不動の姿勢をとることを強要されます。既にそういう 学校があるのです。あなたのお子さんが通う学校がそういう学校であって欲しいと、 本当に願っているのですか。
 そうだとすると、あなたを、国家イデオロギー(虚偽意識)に取り憑かれた偏狭なナショナ リストと呼ぶほかありません。お気の毒に思います。

 このくだりではもう一つ、指摘すべきことがあります。国家と個人の関係の問題と、 日常的な個人と個人、あるいは家族と家族の関係の問題とを、同列に並べて論ずる論じ方です。 前にも指摘しましたが、これは一種の詭弁です。
 Kさん、人と国家のシンボルとは全く違うもので、同列に並べて論ずることは出来ません。 人と挨拶するのために起立することと日の丸に向かって起立することが同じとは、全くあきれた 議論です。同様に「君が代日の丸の強制」に反対することと「人に会って挨拶しない」ことは 全く位相の異なる問題です。「君が代日の丸の強制」に反対している人たちだって、日常生活で の挨拶ぐらいはあなたと同じぐらいには出来ると思いますよ。

 Kさん、あなたの論理を逆手に取るとこう言えます。あなたは街中で日の丸に出会うたびに 最敬礼しているのですか。外国の国旗に出会うこともありますよね。それにもいちいち 礼を尽くしているのですか。そんことしないでしょう。大体無視するのが普通でしょう。 だから、あなたは街中で知人と出会ってもきっと無視するでしょう。
 これはあなたの主張の対偶です。あなたの主張が正しのなら、これも正しいことに なります。ばかばかしいでしょう。

 この詭弁がこのレベルで済んでいるのであれば、笑って済ますことも出来ますが、 これがもっと大規模なものになると笑って済ますことが出来なくなります。
 大日本帝国時代、全く位相の違う家族と国家を結びつけて、家族国家論という 俗論がおおいに幅を利かせていました。その結果が「国民は天皇の赤子である」 でした。だから「天皇のために喜んで命を投げ捨てろ」となっていきました。 心しなければいけません。

29. Kさんへの批判・反論(7) 
 2004年9月12日


(4)
 「また、国旗と国歌を憲法上の思想・良心の自由に結びつけるのは、あまりに飛躍しすぎる感 がある。国歌斉唱の時に生徒に起立しないように促した教師こそ、生徒の思想・良心の自由を 侵害したことにならないか。親の立場で見れば、自らの思想を生徒に押し付ける教員は願い下 げである。」

 この主張に対する批判は済んでいます。大事なことですから繰り返します。
 日の丸という旗と君が代という歌が存在するというだけの事実が 思想・良心に関わるなどと誰も主張していません。国家権力あるいは都の行政権力が、 本来の責務から踏み外して国民あるいは都民を隷属・圧迫しようとし、 その道具として日の丸・君が代を利用するなら、それに異議を申し立てることは、 国民として真っ当な事で、おおいに思想・良心の自由に関わるのです。
第十九条【思想及び良心の自由】思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
 この条文は、踏み外しをした国家権力や行政権力への異議申立てを保証しています。やはり まだ飛躍しすぎてすか。

   校長・教頭・都会議員(一種の圧力、監視のため招待されている)らが、 教師や生徒に「立ちなさい」と恫喝したり、 教頭が教師の後をうろちょろしながら本当に歌っているかどうかスパイしたりと言う例は たくさん聞いていますが、「国歌斉唱の時に生徒に起立しないように促した教師」がいるとは、 初耳です。そういう例があるのなら、ぜひ教えてください。
 このことで私が知っていることは新聞の記事や友人からの情報程度でしたが、 つい最近、詳細な報告を読む機会を得ました。Kさん、あなたには事実に基づいて 考えていただきたいので、引用します。

 「都議を式に招待せよという要請も徹底し、強制の急先鋒である土屋敏之都議(民主党)は、 招待された板橋高校で不起立の生徒たちに「立ちなさい」等と怒鳴り、校長・教頭も怒鳴り はじめ、式場は三人の怒声の合唱の場となりました。しかし生徒たちは従いませんでした。 式の最後に卒業生たちは目の見えないクラスメートのピアノ伴奏で息の合ったすばらしい 合唱を披露しました。」(「良心的『日の丸・君が代』の拒否」所収池田幹子「『「日の丸・君が代』 はどのように強制されてきたか」より)

 生徒たちはもう18歳ですよ。それぞれに判断力を身につけています。私はこの生徒たちに 敬意を表するものです。
 それにひきかえ、校長・教頭・都議のなんと言うぶざまさでしょうか。大日本帝国が 侵略戦争にのめり込んでいったとき、国家権力に媚びてより先鋭な言行を競い、父母 や生徒を恫喝して死に追いやったのはこうした権力の提灯持ちでした。
 先の引用文の筆者はこのような校長・教頭をナチス・ドイツの戦争犯罪人・ホロコーストの責任者 アイヒマンになぞらえています。アイヒマンは裁判で次のように抗弁したそうです。上司の命令を ただ下に伝えただけだ、命令にサインして伝えただけだ、自分は義務に 忠実であっただけで、ほめられることはあっても犯罪者ではないと。
 続いて筆者は次のように校長・教頭の姿勢を批判しています。

  「日本の学校特に都立高校で都教委の職務命令を通達に従って出してい る校長、同じように通達に従って不起立者を摘発している教頭は、すでにアイヒマンだ といっていいのではないでしょうか。
 こうした校長や教頭とアイヒマンの似ている点は、自分で判断する自由を奪われてい るだけでなく、自分で判断することを自ら放棄していることです。そして与えられた指 示をただ下に伝達するだけで、責任を免れようとしているところだといえます。
 こういったシステムは軍隊や官僚機構や全体主義国家の本質に他なりません。日本の 学校がそんな場になることを望む人はいないはずです。」


  自らの思想・良心に反して、屈辱感を味わいながらいやいや憲法違反の通達に従っている 教師たちを非難する気は、私には毛頭ありません。もし私がいま学校の教師だとしたら、 私はその中の一人だと思いますから。
 旧聞に属しますが、3月28日に放送されたTBS「報道特集」のまとめのコメント(野田正彰教授 ・心理学)で、次のような指摘がありました。
 「抵抗する教師ではなく、『40秒のことだ。形だけ従っておけばよい。歌うフリをしておけばよい』という 教師たちに、無気力な精神の荒廃が生じている。」
 やむなく憲法違反の通達に従っている教師たちの自分との闘いも過酷なものでしょう。 想像に余りあるものがあります。しかし 心までは売り渡さないで下さい。自らの思想・良心 をしっかりと保持し続けていって欲しいと願っています。
 それに引き換え、上記のような校長・教頭は確信犯でしょう。親の立場で見れば、 自らの思想・良心を放棄したこんな教師は願い下げです。そして、あなたのように 「日本の学校がそんな場になることを望む人」が父母の中にいることを、むき出しの 牙を向けて来る権力者よりも、私は恐ろしいと思います。

30. Kさんへの批判・反論(8) 
 2004年9月13日


(5)
 「国旗と国歌が嫌ならば、オリンピックで金メダルを獲得した日本選手が、日の丸を持って観衆 に応える場面も批判したらどうであろう。君が代を涙で歌う金メダリストは憂慮すべき事態 なのか。
 今年の夏はアテネオリンピックが開催される。「日の丸」と「君が代」がテレビで放送され ればされるほど、日本中は感動で熱くなるのではないか。日本人がアイデンティティを認識する オリンピックである。」


 Kさん、この段落になってあなたの気持ちはだいぶ高揚してきました。高ぶっている息遣いが行間 から聞こえるようです。オリンピックに絡ませれば、反対の余地はあるまい、と思っておいでのようです。 これが目に入らないか。黄門さんの印籠みたいですね。

   「金メダルを獲得した日本選手が、日の丸を持って観衆に応え」ようが、 「君が代を涙で歌」おうが、それを批判する必要はありません。それは選手の勝手でしょう。 ただ私はばかばかしいとは思います。私がこう思って、ばかばかしいからチャンネルを切っても、「処分だ」と 恫喝されることはありません。学校での「日の丸君が代強制」とは一緒に論じられません。
 選手は批判の対象にはなりませんが、オリンピックというスポーツの祭典になくても一向に差し支えない 国旗・国歌を持ちこむ意図は批判すべき対象です。前に私は スポーツと国旗・国歌について、次のように書きました。

 「オリンピックで人は何に感動するのか。選手たちが持てる力を出し切って記録や勝負に挑む姿 、その過程で見せてくれる見事な技、限界に挑戦する精神力。総じてたゆみない日ごろの厳しい修練の 結実に感動する。 それがいつのまにか「君が代日の丸」に感動してるように錯覚している。
 表彰台上の選手自身も、目的を見事に成し遂げた達成感と、そこに到るま での苦楽のすべてを反芻しての感動のはずなのに、「君が代日の丸」に感動してる ように錯覚して、実際にそんな感想を述べたりする。ばかばかしい。 国家権力の思う壺にはまっている。」

 「『素朴な愛国心』育成のために権力者はスポーツも利用する。 スポーツの利用はもしかすると教育利用以上に効果的かもしれない。 対象が子供だけでなく圧倒的に大人が多い。成人してからの意識の変革はむずかしいが、たいした反対 に出っくわすこともなく、当人にそれと気取られることもなく 、いつのまにか「素朴な愛国心」の「刷り込み」が出来てしまう。 利用しない手はない。」

 オリンピック開会間近の8月5日付朝日新聞夕刊に評論家の多木浩二氏が 「オリンピックの憂鬱」という一文を寄せています。その中から。

 「アテネの市民にとって迷惑な状況なのか、歓迎す べきことなのかは情報不足で分からない。たったひとつ今からでも期待できるのは、選り抜き のアスリートたちが力を出し切って記録や勝敗に挑む姿だろう。それはスリリングでもあれ ば、美しくもある。これは本質的に個人の争いなのだ。不思議なことに多くの人間が応援する のは自国の選手なのである。これはメディアを介して選手を知っている人間の自然かもしれな い。だがそれがメダル、日の丸、君が代とエスカレートしていくと、もう無邪気だと見のが すことはできない。思想の自由を確信する学校の教員たちが教育委員会からのどのような締め 付けにあっているかをわれわれは知っている。この陰険さにくらべて、メディアが「日の丸、 君が代」と言いつのるのはあまりにも楽天的ではないか。」

 これがオリンピックと国旗・国歌についてのまともな考え方ではないでしょうか。
 だいぶ以前に、国際オリンピック委員会の中のなにかの機関でだと思いますが、 オリンピックでの国旗・国歌をやめようという議論がされたと、新聞報道で読んだ 記憶があります。いつの間にか立ち消えになりました。もし、オリン ピックに政治を持ち込むなというなら、まず第一に国旗・国歌の使用をやめることだ というのは常識でしょう。

 折りしもほとんど時を同じくして、8月6日、ニューヨークのテレビラジオ博物館 で、「オリンピックとナショナル・アイデンティティ」というテーマで、シン ポジウムが行われました。JMM配信の「五輪と国のアイデンティティ」 (from 911/USAレポート)という記事で知りました。レポーターは 米国ニュージャージー州在住の作家・冷泉彰彦氏です。
 そのシンポジウムは、「開催国が威信をかけて大会の成功を目指すのも、 選手が国や国旗を背負って戦うことも、政治的行為に他ならない、 そうした醒めた判断に基づいて」オリンピックと政治問題の歴史を 論じています。

 オリンピックと政治といえば、私はすぐ1968年のメキシコオリンピックを思い出します。 表彰台上で自国の国旗(星条旗)に向かって拳を振り上げて抗議行動をした黒人選手がい ました。私はその行動に深い共感を覚えました。しかし、その映像だけが記憶に 残っていて、選手の名前やそのときの種目など忘れてしまいました。
 上記のレポートに、その日のシンポジュームの目玉として、そのことが 話題になったと言うことです。その部分を引用します。

 「当日の目玉は、何と言ってもトミー・スミス氏でした。1968年のメキシコ五輪の 陸上200メートルで優勝した際に、表彰台の上で星条旗に対して抗議行動を行った スミス氏のことは、五輪の歴史の中で多くの人の記憶に残っていると思います。銅メ ダルを取ったジョン・カルロス氏と一緒に黒手袋をした拳を振り上げた写真は、「怒 れるブラックパワー」というイメージで全世界に伝えられました。

 「そのスミス氏も、すでに60歳。往事の激しいイメージは消えていました。ですが、 穏やかな微笑を浮かべながらも冷静な弁舌を駆使するスミス氏には、ある種のオーラ が漂う感じがありました。パネリストや会場からは、多くの質問が寄せられ、それに 丁寧に応える中で、歴史に名前を刻んでしまった男の人生が浮かび上がってきた、シ ンポジウムの流れは、そんな趣がありました。」

−−そもそもどうして、国旗への抗議という激しい行動に出たのですか?
 「熟慮の結果でした。あの時代、黒人の社会的な地位は本当に低かったんです。私も 親や祖父母からは、白人に反抗しては殺されるから、言われるままに生きなくちゃい けない、そう教えられて育ったんです。でも、大人になり、大学に入る頃からは、そ うした差別への怒りというのが生まれてきた、やがて、怒りそのものが自分が自分で あることになって行ったんです。ですから、今の私という存在も、あの時の行動が基 になっているのを感じます。今でも全く後悔していません。」


 トミー・スミス氏はアメリカのオリンピック委員会 から除名されて、開催地のメキシコからも追放されました。 その後の人生では、無視や差別や嫌がらせなど、さぞ多くの艱難辛苦に見舞われた ことでしょう。それでも「今でも全く後悔していません。」と言い切るスミス氏の姿勢bノ、 敬意と安堵の入り混じった大きな感動を覚えます。

 Kさん、これで私のあなたへの批判・反論を終わります。普段あいまいのまま放置していた多 くの事柄を、考え直す機会となりました。その機会を与えてくださったことに、 再度お礼申し上げます。

 ただ一つ宿題が残りました。「アイデンティティ」です。これは 一度きちんと考えてみなければならない問題だと思っています。 今は取り敢えず、それは国家権力への「アイデンティティ」であろうはずがない、 とだけ申し上げておきます。
 では、この国が、あなたも私も共々に自由で生き生きと生きることが出来る国になることをを 願いつつ・・・ごきげんよう。




 私が加入した「反ひのきみネットML」の会員数は約500人だそうです。ここにメールを 送ると、そのメールが約500人の全会員に送られる仕組みになっています。
 送られてきたメールのうち、特に私がより多くの方々と共有したいと判断した情報を 随時、紹介していきます。この色の文は仁平のコメントです。
 「反ひのきみネットML」に加入されている方には重複する情報になりますが、ご容赦下さい。


『予防訴訟』第五回口頭審理に結集してください!

(日 時)9月16日(木)午後13時頃までに集合/13時30開廷
(場 所)東京地裁 民事第36部;103号法廷
(報告集会)14時過ぎから弁護士会館で報告集会
 毎回、傍聴券で少し並ぶようになってきていますが、今回は参加者が少ない傾向 にあるようです。103号法廷は100人ほどが入る大きな法廷です。是非皆 さんの参加をお願いします。
 今回は、尾山弁護団長から「上申書」を提出し、弁論して頂きます。同弁護士 は、裁判全体について進め方を述べます。この中で、何が立証されねばならない か、教育とは何か、人権とは何か、自由と民主主義・平和等々、全般について原 告側の主張の基本を述べます。教科書裁判をはじめ沢山の有名な裁判を手がけて 来られた尾山弁護士の信念に満ちた弁論が聞けます。必見・必聴です。


 時間が取れたら行ってきます。