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201. 再軍備はどのうに行われてきたのか(2)
警察予備隊の実体
2005年3月2日(水)
日本政府は内外の反発・非難を恐れて、あくまでも警察予備隊創設を警察力の増強ということで押し
通すことにした。国会開会中にもかかわらず国会にはかることなく、国会閉会後に「ポツダム政令
260号・警察予備隊令」として公布した。1950年8月10日のことである。
アメリカ軍との交替のため、予備隊の編成は急がれ、「警察予備隊令」が公布されたわずか一週間
後の8月17日には試験をおこない、合格者は決まり次第8月23日から全国六カ所の管区警察学校に入り、
ついで朝鮮出動で空になったアメリカ軍キャンプに収容され、アメリカ軍の指揮、装備のもとに訓練
に入った。
国会での審議もなく、国民的議論も封殺して警察予備隊は発足した。日本の軍隊はGHQの押し付
けで再スタートをしたことになる。押し付けだからという理由で憲法をおとしめている者たちは、自
衛隊の解体も主張しなければなるまい。
ところで、予備隊員募集に関して次のような経緯があったという。
隊員募集担当のウィロビー参謀第二部長は、その幹部に追放中の旧軍人の使用を考えていた。折り
しも服部卓四郎元大佐を中心とするグループが、アメリカの反ソ戦略から日本の再軍備を想定し、
「新国防軍」建設の計画案をねっていた。これを知ったウィロビーはこの服部を予備隊の幕僚長に予定し、
服部に主要幹部となるぺき人材の選考を命じた。服部は旧軍人約400名の名簿を提出したという。
しかし幹部選考の責任をもつ民政局がこれに反発した。また吉田首相も内外の世論の反響をおそれ
るとともに東条系の旧軍人の復活を好まなかった。結局はマッカーサーが旧軍人の採用はみあわせる
という裁断をした。
警察予備隊の主要な任務は「アメリカ軍の施設、軍需品貯蔵庫などの警備であった。つまり朝鮮戦争
のアメリカ軍後方基地の安全を護ることであった。」
一方マッカーサーの指令により8000名の増員をした海上保安庁はどういう活動をしたのか。
海上保安庁はすでに1948年5月に創設されて、旧海軍軍人らによって構成され、沿岸警備の任務を与
えられていたが、さらに機雷除去のために掃海部隊も活動していた。そして朝鮮戦争中にこの掃海部隊
は増強され、朝鮮の元山沖に派遣されてアメリカ軍に協力し、掃海作業に従事したのであった。
戦後わずか3年で、保安庁の方は旧軍人が復活しその要職を占めていたことになる。
そして、警察予備隊も保安庁も、もう立派(?)に、戦争に参加していたことになる。
さらに警察予備隊創設の翌年1951年3月に、予備隊は追放を解除された若手の旧将校たちを対象に
特別募集を開始し、6月に345名を幹部候補生に任命している。警察予備隊は佐官級の旧軍人たちがその
幹部を占めることとなった。
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202. 再軍備はどのうに行われてきたのか(3)
警察予備隊から保安隊へ改編
2005年3月3日(木)
今回から主に利用する資料は「岩波講座・日本の歴史23」所収・福島新吾「日米安保
体制と再軍備」。断りがない場合は引用文はその論文からのものである。
講和条約は日米安保条約と抱き合わせで進められた。再軍備の第2段階はこの講和条約・安保条約
締結の流れの中から浮上する。保安隊発足までの講和条約・安保条約関係の年表をつくってみる。
1951/03/30 アメリカ、ソ連ほか14ヵ国に対日講和条約草案を送付。
1951/03/31 ダレス米国務省顧問、対日講和条約草案概要発表。
ソ連の参加は不可欠でないと演説(ロサンゼルス)。
1951/05/07 ソ連、対日講和条約米草案に対する覚書を米に交付。
米英中との4ヵ国外相会議の開催を要求。
1951/05/19 アメリカ、ソ連が5月7日に交付した覚書、4ヵ国外相会議開催提案を拒否。
1951/07/13 米英の対日講和条約草案をGHQ(連合軍総司令部)発表。
1951/07/21 自由党、講和条約締結に関し共産党を除く各党派に協力を申入れ。
1951/08/15 周恩来中国政務院総理、対日講和条約草案について「沖縄、小笠原
の日本分離は如何なる国際協定にも規定されていない」と非難。
1951/09/08 日米安保条約(「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」)調印。
1951/09/18 周恩来中国政務院総理、中国不参加の対日講和条約は無効と声明。
1951/10/03 三木武夫、千島列島の領土権、奄美・琉球・小笠原諸島住民の国籍不変更等
の条件付きで講和条約批准に賛成、同時に安保条約の説明不十分を理由に批
准は延期すべきだとの民主党方針を表明。
1951/10/25 社会党、講和・安保両条約の賛否をめぐり第二次分裂。左・右社会党樹立。
左社:講和条約・安保条約反対。右社:講和条約賛成、安保条約反対。
1951/10/26 衆議院、講和条約を307対47、日米安保条約を289対71で各承認。
1951/11/18 参議院本会議、講和条約(174対45)、日米安保条約(147対76)で承認可決。
批准手続終了。
1952/04/15 トルーマン米大統領、対日講和条約批准書・安保条約批准書に署名。
1952/04/28 サンフランシスコ平和条約、日米安保条約発効。
GHQ(連合軍総司令部)解消。
1952/04/28 日米安保条約第3条に基づく行政協定発効。
1952/05/01 血のメーデー事件。逮捕者211人死亡2、重軽傷1500人以上、
警官重軽傷832人。
1952/06/24 吹田事件。大阪府吹田市で朝鮮戦争2周年記念集会後、
デモ隊と警官隊衝突。60人逮捕。
1952/06/25 新宿駅周辺でデモ隊と警官隊衝突、30人逮捕。
1952/07/31 公安調査庁法(法241)、保安庁法(法265)成立。
警察予備隊を保安隊に改編。
1952/10/15 保安隊発足。
5月〜6月の警察力による弾圧は、これも仕掛けられた謀略ではなかったかという説がある。
メーデーでは講和条約、日米安保への抗議も行われていた。
ちなみに警察に機動部隊を設け、特殊放水車、金属カブト、ジュラルミンのたて、防弾チョッキ、
乱闘服、パトカー等々今日にいたる弾圧用装備を整備したのはこのときからのことだという。
これらの暴力による弾圧は功を奏して、国民の政治に対する批判は急速に封じられていった。
一方、政界の混迷は社会党のみではなく、保守政党も政策対立と利権を巡って派閥抗争を展開
していた。そのような状況の中でアメリカは日本に対して太平洋防衛機構の創設や、地上軍30万
の即時整備、防衛産業の育成、それらの裏付けとしてのきびしい均衡財政、予算支出の削減など
繰り返し強く要求していた。
「第188回」(2月17日)で引用した文章の中で鶴見俊輔さんが「吉田が、戦後に憲法を逆手に
とってアメリカに対抗しているのは、よくわかったね。」と言っていた。確かにこのとき吉田首
相は再軍備より経済復興を優先課題としていていた。
そしてこれ(アメリカの要求)に抵抗する吉田の内意を体して、池田が一人で渉外工作を引きう
けていたことも今では明らかになっている。
吉田はアメリカの要求にストレートに応じていたわけではなく、憲法のわくをたてにとって、
急速な再軍備を拒んでいた。これに反し鳩山は旧軍人の服部卓四郎元大佐(米軍と再軍備を画
策した)の意見を不用意に取り次ぎ、安易な自立再軍備と改憲をとなえた。改進党もその前身
国民民主党のころは三木武夫らの強硬な再軍備反対論がリードしていたが、重光総裁とともに
自衛再軍備に大きく傾いた。
それでは吉田は警察予備隊から保安隊への改編をどのように位置づけていたのか。
8月4日吉田は保安庁長官事務取扱いとして保安庁で本庁幹部および第一幕僚監部(保安隊)、
第二幕僚監部(警備隊)の制服幹部に訓示し、保安庁新設の目的は新国軍の建設であると述べ、
世論にショックを与えた。
再軍備をスローダウンさせていたが、本格的な軍隊への一過程と考えていたことになる。
またスローダウンしたとはいえ再軍備への道は、朝鮮戦争特需がしぼんだ後を継ぐ、
旧財閥系列企業の甦生と肥大化の道でもあった。資本は戦争を食い物にして肥えていく。今アメリカの
イラク侵略でどこの国のどの資本が肥えて続けているのだろうか。
吉田の経済復興政策は電力開発、海運・造船、鉄鋼合理化、石炭振興、道路網の整備などを重点とし
ていた。旧財閥系列企業を中心とする財界主流の要求に応えた政策と言える。
そしてこれらの政策が吉田側近派(それは池田派などに長く受けつがれる)に大きな政治資金ルート
をつくり出した。その資金は政治資金規正法によって届け出られるものばかりでなく、巨大な「裏金」
を生んだ疑いがあり、今日にいたる政治腐敗の発端をなしているようにみえる。有名な造船疑獄
(1954年1〜4月捜査)はその最大の実例であった。
また政府は旧軍用施設の払下、電力開発、兵器生産の保護育成、鉄鋼・海運等の合理化、企業の
整理統合などにあたり、旧財閥系企業の再結集に大きな援助を与え、対日援助見返資金、MSA見返
資金、世界銀行借款などをさかんに活用した。これに対して別の巨大な「裏金」が流れたときに、
吉田派の権勢が急速に傾いたように見える。
「裏金」という献金を多く獲得するものが権力を握る。なるほど立派な民主主義国家だ。
こういう事例と並べて読んでみると、例えば、次のような一節がよく理解できるように思う。
「民主主義とは、《関係者の全員が、対等な資格で、意志決定に加わることを原則にする政治制
度》をいう」のだと橋爪は定義する。なにも救抜するまでもない。この程度の凡庸な民主主義
観は蔓延している。
しかし橋爪などという大学教師より財界首脳や労組幹部の方が政策決定への影響力が強いと
いうのが、近代国家における民主主義のうんざりするほど陳腐で凡庸な事実である。政治的権
利が平等でも社会的に不平等なら、《対等な資格》はフィクションにすぎない。
(「第109回」・2004年12月1日)
選挙を通じて国政に民意が反映する、という神話は、あるフィクションを前提としている。
それは、個々人が一票というかたちで平等な権利を有している、ということだ。
しかし、政治的平等は市民社会における不平等に裏打ちされている。対等な個々人の主体
的な判断によって、政治の動向が決せられるなんて全くのうそっばちだ。政治を左右してい
るのは、企業献金の多寡であり、労組や宗教組織の動員数であることは明白だ。組織票より
浮動票の方が多いはずだ、てか。カネもヒトもなくてどうやって票を獲得するのか。社会的
不平等の中にこそ、《政治》の決定要因があるのだ。
(「第149回」・2005年1月10日)
このように、ブルジョアジ一による国家的支配とは、その総資本的意志が
国家意志を実質上大きく支配することである。また、ブルジョアジーはそのことによっ
てはじめて、経済的支配階級としての自己を、政治的な統治階級としても構成することができるので
ある。
これは、支配階級が、総資本的意志をプロレタリアートはじめ国民的諸階級・諸階層の全体
に直接押しつけ、服従させることが出来るようになったことを意味する。
(「第93回」・2004年11月15日)
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202. 再軍備はどのうに行われてきたのか(4)
保安隊から自衛隊へ
2005年3月4日(金)
朝鮮戦争は1951年3月から38度線での一進一退の攻防戦となり、膠着状態になった。
休戦会談は相互の駆け引きのため何度も休会・再開を繰り返し、停戦にこぎつけたのは1953年で
あった。
1953/07/27 朝鮮休戦協定に調印。22時に朝鮮停戦実施。
東西冷戦は緊張緩和期を迎えた。この国際情勢に助けられて日本の再軍備
はゆっくりとしたペースで、しかし、情報秘匿とウソと憲法の詭弁解釈で国
民を欺きながら、確実に既成事実を積み上げていった。
保安隊から自衛隊へと、名実ともに世界有数の軍隊になっていく経過を年
表にしてみる。
1953/06/09 保安庁長官木村篤太郎、記者団に警備5ヵ年計画案につき発言。
1957年度に保安隊二十万人、艦船十数万トン、航空機千数百機の
実現をめざす長期防衛計画、問題化。
1953/07/30 衆議院予算委員会で吉田茂首相と芦田元首相間に保安隊の自衛
軍化をめぐり防衛論争おこる。吉田茂首相、国力の充実まで自
衛軍を持たずと言明。
1953/09/27 吉田茂(自由党)・重光葵(改進党)会談。保安隊を自衛隊に
切替え、直接侵略に備える長期防衛計画に意見一致。
1953/11/03 吉田茂首相、衆議院予算委員会で、「交戦権がない以上、保安
隊は軍隊とはいえないが、しかし軍隊の定義いかんによっては
戦力にいたらしめないという制限のもとに保安隊を軍隊という
ことは自由であると思う」として「戦力なき軍隊」論提唱。
1954/02/01 保守3党防衛折衝で、自衛隊などの設置要綱につき意見一致。
1954/03/08 防衛庁設置法案・自衛隊法案を決定。
1954/03/11 防衛庁設置法案・自衛隊法案、衆議院提出。
1954/04/16 衆議院内閣・外務連合委員会で佐藤達夫法制局長官、
「自衛隊の海外派兵はその任務が平和的仕事に従事するものである
ならば、公務員の海外出張で憲法違反にあらず」と答弁。
1954/05/07 防衛庁設置法案・自衛隊法案、衆議院通過。
1954/06/02 防衛二法案(自衛隊法案、防衛庁設置法案)、84日間の審議のの
ち、政府原案通り可決。
1954/06/09 防衛庁設置法・自衛隊法公布。保安隊を改組して陸・海・空の3軍
方式とする。
戦後初めて外敵への防衛任務を規定。自衛隊16万4,538名となる。
1954/07/01 防衛庁設置法・自衛隊法施行。総理府内に防衛庁設置。自衛隊発足。
1954/12/21 衆議院予算委員会で外交方針、自衛隊をめぐる憲法論議(−23)。
1954/12/22 木村篤太郎防衛庁長官、憲法第9条に対する政府の統一解釈発表。
自衛隊保有は独立国の当然の権利であるが国際紛争解決のための武
力行使とは本質的に異なるのであり、侵略への対処のための「軍隊」
保有は違憲ではないとの内容。
1955/08/01 日本、防衛庁設置法・自衛隊法改正公布。自衛隊員19万5,810名となる。
サンフランシスコ会議でグロムイコ・ソ連全権は、講和条約を強く批判するとともに
自衛のための日本の軍備の限度を数字で示し、保有を禁止する兵器をあげていたという。
福島氏は自衛隊の戦力がグロムイコの数字を越えていく年度を調べている。
(1)〔陸軍15万〕1955年に15万。56年16万となった。
(上記年表によると1954年16万、55年19万・・・仁平)
〔戦車200台〕 53年7月には340台であった。
(2)〔海軍2万5000人〕58年。
〔総トン数7万5000トン〕魚雷艇、揚陸艇などまで加えて57年。
主要艦種のみでは61年。
(3)〔空軍2万人〕 56年。
〔戦闘及び偵察機200機〕 57年。
(4) 保有禁止。
〔原子、細菌、化学兵器、射殺30キロをこえる大砲、人間魚雷〕
公表のかぎり未だにもっていないはずである。
(これは1977年ごろの記述です・・・仁平)
〔ミサイル〕グロムイコのいう範囲が明らかでないが、56年ごろ
から対戦車誘導弾の実験が進められ64年制式化し、地上用ロ
ケット弾は67年、艦対空ミサイルは65年から、対空ミサイル
ナイキは59年から訓練を始め、63年から装備した。
空対空ミサイルは57年末に供与を受けた。
IRBM(中距離弾道弾)以上はもっていない。
福島氏は日本政府に再軍備を強要してきたアメリカの真の意図を次のように推測している。
それでは日本の再軍備とは何であったのか。アメリカにはもし朝鮮休戦会談が決裂して戦争
再開となった場合には、出兵を求めて米韓地上軍の補強とする計画があったに違いない。それ
には多分吉田が抵抗したであろう。だが、拒否しきれたかどうかは疑問である。前節で記した
政界の状況からすれば、吉田に代ってアメリカに協力する政治指導者をおしたてるクーデタを
計画することは容易だったと思われる。
一般に吉田はアメリカ一辺倒だったという評価をされているが、一応はある程度の抵抗をしていた。
アメリカはいざという時はその吉田を廃して、いわゆる傀儡政権を樹立することも視野に入れ
ていたというとか。保守政治家が虎視眈々と派閥抗争にうつつを抜かしていたのは事実だし、中には
歓んで傀儡政権の担当をしたがる者もいただろう。今のイラクのように。
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203. 再軍備はどのうに行われてきたのか(5)
再軍備の経過がはらんでいた問題点
2005年3月5日(土)
福島氏は「再軍備の経過がはらんでいた問題点」を5点挙げている。それぞれ長い文章なので
要約をして紹介する。
(1) 警察予備隊ほ警察の名で実体をおおったので、地上部隊のみに限られていた。しかし保安庁の下
で陸海二部門をそろえた上、航空部隊の準備を始めた。それらは54年7月には航空自衛隊に合流した。
(2) 保安庁発足時に大量に旧軍人が入隊し、編成、訓練等の主導権はたちまちかれらに移った。
54年5月の保安庁幹部級軍歴表(旧軍尉官以上)によれば、旧軍人は保安隊で24.4%、警備隊で
実に80.2%をしめた。隊内では昭和初期のファッショ的青年将校が愛好した「昭和維新の歌」が教
えられ、社会では在郷軍人会、戦友会が復活した。これら旧軍人はその後20数年自衛隊を指導し、
その下で新しい幹部自衛官の団体精神が養なわれたのである。
(3) それと関連してシビリアン・コントロールの問題が深刻となった。
保安庁法第16条6項では内局の課長以上の幹部は幹部保安(又は警備)官の経歴のない者のうち
から任用すると定めていた。これが審議中から旧軍人の激しい攻撃を受け、大橋国務相は修正
を考慮していたが、原案どおり制定され、批判は続けられた。54年6月の防衛庁法ではとうとう
この制限を撤廃するにいたった。そのことにより内局幹部は制服よりに立場が変っていったと
みられる。
そればかりでなく55年3月の第二次鳩山内閣では野村育三郎元海軍大将の防衛庁長官起
用を求め、内閣法制局の異論で断念している。
(4) その点にも示されたように政治指導層には軍事政策立案・検討能力がなく、在日米軍や
MSA軍事顧問団と直接連絡した部隊幹部の決定によって、重要な政策路線が既成事実として先行
的につくられる慣習が確立した。
例として
@ 海軍の設置は米軍からのフリゲート艦の半ば強制的貸与によって行われた。
A 航空部隊の設置も在日米空軍と旧陸海軍幹部との間で協議されていた。
B レーダー部隊の養成、スクランブルの航空自衛隊によって担当なども米軍との合意によって進められた。
などがあり、
このように重大な政策は国会はおろか閣議でも事前に検討されたことはなく、国民には全く知
らされなかった。
(5) MSA援助を受けるにあたってのアメリカからの強い要請にこたえようと、長期防衛計画
の立案が非公式に始められている。
@ 53年5月12日経団連は「防衛生産八ヵ年計画」を発表。
59年までに総額2兆9700億(米への依存2兆3200億)という大きな規模を示した。
A ついで木村保安庁長官が談話の形でやや小規模な「警備五ヵ年計画」を発表も吉田首相
に政府正式見解ではないと叱貴され、取り下げる。
B 9月2日あらためて保安庁が「防衛五ヵ年計画案」を発表。
C 経済審議庁もその頃さらにひかえめな「防衛六ヵ年計画」を作っている。
D 53年10月の池田・ロバートソン会談で「防衛五ヵ年計画池田私案」を示す。総経費9000億円。
E 最も極端なものは増原恵吉保安庁次長が同じ10月7日自由党総務会で理想案を説明。五ヵ年で
7〜80兆円と大風呂敷をひろげる。米顧問の希望意見と日本案がひかえめなものだと見せる演出をした。
これらの計画案の競演によって、再軍備が不可避であり計画的に進める義務を負っているという
国民的意識の刷り込みをはかっていた。
いずれにしても憲法第九条を無視し国民に対する説明と討議を行なわずに、すべて既成事実のつみ
重ねによって進められてきたという点が重要である。
前回の年表でも略記したが、池田・ロバートソン会談の直前9月27日に吉田・重光の自由・改進両
党首会談が行なわれた。吉田は重光に衆議院202名の少数与党の上に立つ第五次吉田内閣の防衛政策
への協力を求めた。両者の合意は、
1. 長期防衛計画を立て、自衛力増強の方針を明らかにする、
2. 保安隊を自衛隊に改め直接侵略にも対抗できることにする、
3. それに関する憲法問題を協議する、
4. 長期経済建設の政策も協議する、
というものであった。
上記の3.とは別に、53年11月17日吉田が分党派自由党をひきいる鳩山に復党を懇請
し、その条件として党内に憲法改正調査会を設けることを合意した。このときから、
憲法「改正」への歩みがふみ出されることになった。
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204. 再軍備はどのうに行われてきたのか(6)
再軍備の完成=九条改定
2005年3月6日(日)
吉田が鳩山と党内に憲法改正調査会を設けることを合意した53年11月17日が憲法改定へと
大きく踏み出すスタートラインだった。以来約50年にわたって、支配階層は軍備増強と平行して
改憲のための布石も積み重ねてきた。そして今、ようやくその念願をはたすときを迎えたと
勢いづいている。
3月4日、政府は昨年成立した「国民保護法」(正しくは「国家総動員法」という)に基づく
「国民の保護に関する基本指針」案を公表した。朝日新聞(3月4日付夕刊)の見出しに
「政府 武力攻撃時の対応を示す」とある。この見出しを目にしてすぐ思ったことは、
「一体どこの国の攻撃を想定しているの?」「脅威・不安を煽るのが真の狙いじゃないのかな」
ということだった。九条改定をスムースに運ぶための布石の一つだ。
隠蔽のためか怠慢の故か、いずれにしろマスコミが報道しない重要な情報はかなり多いと思っている。
情報補充の一つの手段としてインターネットを利用している。国際情勢については
「田中宇(さかい)
の国際ニュース解説」 |
を読んでいる。
そのサイトの3月1日の記事「中台関係と日本の憲法改定」で、2月19日の『日米の「2+2協議」
(防衛・外務のトップどうしの安全保障に関する協議)』を取り上げて解説をしている。
「2+2協議」について一般には「台湾海峡の問題を平和的に解決することが日米の共通目標であると
初めて両国が表明した。日本ではこの話が、日米が共同で中国を封じ込める姿勢を強めたことの証
しであると解釈されている。」
しかし、田中さんはアメリカの中国に対する長期的な政策傾向や、北朝鮮をめぐる問題での中国
への対応や台湾をめぐる中国・台湾双方の動きを俯瞰した上で
『この協議の前後のアメリカ側の対応を見ていくと、
実はアメリカは「日本と組んで中国を封じ込める」という動きを採りたがっていないように思える。』
『アメリカは2+2の宣言を発しつつも、中国を刺激する結果にはしたくない。このようなややこしい
状況になっている理由として推察できることは、宣言に台湾海峡問題を盛り込みたかったのは、ア
メリカではなく日本なのではないか』
と述べている。
そして、「そのように考え始めると、ほかにも思い当たることがある。」と、「竹島問題」・「東シ
ナ海の石油・ガス田問題」・「拉致問題」などに対する政府とその周辺の姿勢の硬化を挙げて「周辺
諸国との関係悪化の流れは、最近になって頂点に達し」たと指摘している。
以下、田中さんの記事をそのまま引用する。
ここまでそろって悪化すると、私には、何かおかしいと感じられる。日本政府には、
中国や韓国、北朝鮮と、わざわざ対立しなければならない特段の事情でもあるのだろうか、
と思っていたところ、国会で出てきたのが、日本国憲法改定のために必要な国民投票を行う
構想であった。
憲法を改定して日本が正式な軍隊を持てるようにする国民投票を成功させるには、周辺諸国
が日本にとって脅威である状態の方が良い。小泉政権は、憲法9条を改定するために、周辺諸国
との関係を悪化させる方向へと事態を微妙に動かしてきたのではないかと思われる。
小泉政権が憲法9条の改定を急ぐために周辺国との関係を悪化させているのだとしたら、なぜ
そこまでして急いで憲法を改定しなければならないのか。その理由はおそらく、すでに前回の記
事で書いたことだが、在日米軍が日本から撤退していくので、自衛隊を軍隊に格上げするなど、
日本は軍事的な行動の自由を広げて対応しなければならなくなっている、ということだろう。
九条を改定しなければ再軍備は完成したことにならない。九条改定はまさしく再軍備の画竜点睛
なのだ。再軍備完成のために、支配階層はさらに周到にあの手この手の布石をしてくるだろう。
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205. 詩をどうぞ(16)
2005年3月7日(月)
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205. 詩をどうぞ(16)
2005年3月7日(月)
犬 嶋岡 晨
T
尻尾はあるか
と振り向いてみなくてもいい
他人のさし出す汚ない手を
なめたくなったらきみはもう
犬だ
あやしげなことばの煮汁をぶっかけた
人生の残りものに涎をたらし
無意識に尻尾をふったときから
きみは首輪と鎖の従属物だ
ああ 変身はこんなにかんたんだ
かつて枯れ枝のように折って燃やした
あの夢の地平線にむかって
せいいっぱい遠吠えするがいい
きみの「故郷」は
飼い主のなかにもないのだから。
U
ぼくがこんなにいそがしげに尻尾をふり
きみたちの慈愛に甘えるからといって
ぼくの口がこんなに深く裂け
裏切りの牙を光らせ
しかもいじけた乞食の目をもってるからといって
ぼくを犬だときめつけないでほしい
ほんとうはぼくは
少しばかり毛深すぎ
みずからの動物性に忠実に
地面にへばりつくのが好きなだけだ
いやいやそんなに深刻に
考えないでほしい
きみたちとぼくが
生活の場を共有しているからといって
それほど関心があるわけじゃない
つまり「主従関係」や「家庭の事情」に
あるいは時代のいやな匂いに……
ぼくはただ
やむをえず犬の肉体を借りている
つややかな「自己愛」にすぎない
ときに
非人間的な疾走によって
センベイみたいな太陽にとびかかり
雲だらけになって帰ってくる
ささやかな「自由」のもちぬしにすぎない。
(「ユリイカ1974年6月号」より)
もれ聞くところによると、最近都立高校ではイシハラ犬とかトキョウイ犬とか、権力・権威
の薄汚れた手をよだれを流しながら舐めている犬が増えているとかいうことです。もう一つ下の
科で分類するとコウチョウ犬・フクコウチョウ犬・シュカン犬・シュニン犬とかがあるといいます。
フクコウチョウ犬・シュカン犬・シュニン犬というのは新種でしょうか。私ははじめて知りました。
そういえばキョウトウ犬というのは絶滅したのでしょうか。
これらの犬は総称して奴隷犬と呼ばれているそうです。奴隷犬は奴隷根性でヤニだらけになった
牙をむき出して、かっての自分の同胞に威嚇のうなり声を浴びせているそうです。そして、盗人
にも三分の理、いや、犬にもドッグの理ありと、あのヒットラー犬・アイヒマンの言い訳を密かに翻
訳しているということです。
いま都に増殖している奴隷犬の生態の一例でも紹介できればよいのですが、今日はこれにて
失礼します。ごきげんよう。
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206 奴隷犬の生態(1)
2005年3月8日(火)
先日参加した集会で奴隷犬の生態を如実に物語る話を聞きました。イシハラが成し遂げている
教育支配、というより民主教育破壊がどんな成果を挙げているのか、その実態がよく分かるので
紹介しましょう。信じられないかもしれませんが、みんな本当の話です。信じられな
いようなことが日常茶飯事として起こっているのです。

私が勤める高校は校長・教頭がイシハラ教育行政の忠実な実行者で次々にとんでもないこと
が起こるとても刺激的なあきることのない学校です。
校長はとんでもない校長ですが、その忠実な子分の教頭はそれに輪をかけてとても凶暴で
狂っているとしか思えないような御仁です。朝っぱらから職員室では教頭の怒鳴り声が響き
渡ります。あるいは教員と教頭が怒鳴りあっています。とてもとても熱気あふれる学校です。
主幹も4人もいます。そのうち2人はシュカン犬に変身しました。校長・教頭のとてもとても忠実
な奴隷として日々せっせと忠勤に励んでいます。
校長は10.23通達に嬉々として従って職務命令を出しました。黄門さんの印籠を手に入れたかのよう
にとても得意そうです。周年行事・卒業式・入学式と立て続けに3回、文書で出しています。その結果、
処分者が9名も出ました。もしかすると全都一位かも知れません。そのせいか、イシハラに大変気に入
られています。
イシハラが都教委員という腰ぎんちゃく2名をひき連れて、お忍びで私たちの学校に抜き打ち
の視察にやってきました。教員にも生徒にも知らされていませんでした。校長はきっとこのような得体の
知れない突然の闖入者を、都教委のマニュアル通り、建造物侵入で訴えるかと期待していましたが、
ただただ恐慌して揉み手をしながら迎えていました。
教頭はさらに焦っていたようです。当日の朝初めて知らされたらしく、あわてて朝から一生懸命学
校中を掃除していました。
イシハラたちは2時間ほど授業を参観して帰っていきました。都知事とか都教委員とかは
よっぽどの閑職なのでしょうか。自分の本来の仕事を見失って、しなくともよい事ばかり、
いや、してはいけない事に精を出しているこうしたでかい面の公僕は早く辞めさせるべきです。
イシハラは私たちの授業がよほど気に入ったのでしょうか。次に都庁からやってきたのは授業の
ビデオ撮影班です。東京都の教育政策の検討に使う資料作りという名目でした。これも私たちの知
らぬところで決ってしまいました。どのクラスのどの授業を撮影するのかも校長が独断で決めて、
教員にも生徒にも知らされない秘密事項でした。
さらに私たちの学校は「生徒指導充実校」に指定という栄誉に浴しました。そのためかどうか、
始業式には都教委からスパイがやってきました。都教委は「生徒の様子を監視するためではなく、
教員がちゃんと仕事をしているかどうかをチェックするための視察だ」と教頭に言っていたとい
うことです。
都教育庁が設定した来年度の生徒指導の重点課題は「全校集会をきちんとやること」だそうです。
なんと崇高な志の高い目標ではありませんか。「東京から日本を変える」というイシハラの秘策の一つに
違いありません。昨年は「勤労奉仕」が打ち上げられました。こんどは「軍事教練」というわけです。
教室から集会場までの往復、集会での聞く姿勢、たぶん軍事教練まがいの一糸乱れぬ集団行
動を目指すのではないでしょうか。もしかすると集会のはじめに日の丸掲揚・君が代斉唱
を盛り込むかもしれません。
それはあんまり穿ちすぎで冗談が過ぎますよというご意見があるかも知れません。しかし、
実際に冗談のようなことが次々と現実になっていく事例を次々と見せ付けられています。やがて
笑っていられなくなるかもしれません。
話はまだまだつきませんが、きょうはここまでにします。またあした。
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207 奴隷犬の生態(2)
2005年3月9日(水)
イシハラの目論みは行き詰まっている。
まず校長を服従させる。これはたやすかった。教育に対する高い志があって校長の道を選んだ、
なんていう校長はまれだ。ほとんどは出世したがりヒラメ校長だから権力には喜んで拝跪する。
次は教員だ。
ずいぶん以前のこと、「教員は臆病だから組合から脱退させて一人一人を孤立させれば何もできない
」というようなことを自民党の文教部会とかで言っていると、ある本で読んだことがある。
脱退させるまでもない。都高教が全くの腑抜けだから、組合はあってなきが如し。イシハラはほく
そ笑んだ。処分で脅す職務命令を校長に出させれば一件落着、と思ったことだ
ろう。ところがどっこい、まつろわぬ教師たちがいた。
それじゃ搦め手から攻めようと、生徒を使った戦術を加えた。ところが相当数の生徒が不服従を
貫いている。しかも事ここに到っては黙ってはいられない、自由が圧殺さると、保護者を始め市民
たちが立ち上がった。
市民を服従させるには警察力に頼るしかない。公安まで動員して「日の丸・君が代強制」に抗議する
ビラを配っている市民たちを逮捕し始めた。大日本帝国時代の思想弾圧を彷彿とさせる。イシハラの
目論みが行き詰まっている証拠だ。
イシハラが文字通りの意味で狂っているのかどうか分からないが、学校が狂ってきたのは確かだ。

私たちの学校の管理職は成績を上げて出世することしか頭にありません。イシハラや都教委のお気
に召すような事をすれば成績が上がるのです。何をすればお思し召しに適うのかと日夜一生懸命
考えているようです。
昨年度のことです。校長は突然重点指定校に立候補すると言い出しました。2期制にして1日7時間
授業にするというのです。教員はこぞって反対しました。私たちの学校の生徒には2期制・7時間授業
はふさわしくない、生徒のためにならないからです。しかし校長は私たちの意見に全く耳を貸そうとし
ませんでした。
今年度になっていきなり学校の体制が変わっているので生徒も保護者も戸惑っています。
重点校にならないとお金も人もこないからというのが重点校に立候補する理由の一つでしたが、
結局、お金の方は特別教室2部屋にエアコンが付いただけでした。人の方は逆に教員の数は減らされ、
講師時数も減らされ、開講できなくなった科目・講座が出てきました。お金も人もまったく好いこと
はありませんでした。
実績が上がらないことに焦った校長は、こんどは生徒の髪の毛に着目しました。「生徒の髪の毛を
真っ黒にする」と言い出したのです。髪の毛を染めている生徒は進級・卒業させないというのです。
もうここまでくると本当に狂っているとしか言いようがありません。もちろん私たちは激しく反対し
ました。
生徒の学校評価アンケートには「校長いらない」「校長出て行け」「校長・教頭ウザイ」などなど管理職
への不信・恨みの声が一杯です。
都の今年度の異動はひどいものでした。校長たちに都教委から「校長の学校経営方針に反対している
教員は異動させよ」という強い指導があったようです。私たちの学校も例外ではありません。職員会議
で校長は「1年目から私に反対意見を述べるような者は異動してもらう。」「私の学校経営方針に反対す
る教員はいらない」と言っています。さらに「50歳以上の教員はこの学校にはいらない」などという
とんでもない事まで言っています。自分より経験豊富で力量もある教員が目障りなのでしょう。
私たちの学校ではほとんどの教員が校長の学校経営方針に反対です。半数以上の教員が異動希望を出
しました。しかしめでたく異動がかなったものは強制異動の人と「日の丸・君が代強制」問題で処分さ
れた人ばかりでした。だから私たちの学校では「国家斉唱で座っていればよかった。」とか「今度の
卒業式・入学式では立たないでいようかな」なんていう会話が交わされています。
他の学校では不当異動で多くの人が激しく怒っていますが、私たちの学校では残留希望の人はいない
ので、不当異動もあり得ません。とてもうらやましい、いやうらめしい学校です。
また、今年度から業績評価がCかDだと昇給を3ヶ月延伸されることになりました。全くイシハラは
勝手放題なことをやります。議会もイシハラ翼賛でチェック機能皆無です。
業績評価は校長がするのですから、校長に逆らうと異動で不利なだけでなく、経済的な不利益を強い
られることになります。実質的に処分される事と同じです。イシハラは私たちに糧道を絶つぞと脅して
いるのです。頭を無理やり地面に押さえつけて服従せよと恫喝しているのです。
私は校長のへんてこりんな教育方針には協力しませんし、いつも反抗しているせいか「C,Dをつ
けるぞ」と2度もおどしを受けました。
12月にはこんな事がありました。
午後年休を取って学校を出たのですが、翌日教頭が「年休時間より早く学校を出ただろう。問題にするぞ。」と
言いがかりをつけてきました。
校門の所に防犯用の監視カメラが取り付けられているのいるですが、それでチェックしたようです。
私はその日は校門の立ち番だったので5分早く校門を出て学校の周りを巡回してから出かけたと説明しました。
教頭は「そんなのウソに決っている」といって全く取り合ってくれません。もしたとえ私が5分早く出かけたとして
「問題にするぞ」というほどの問題でしょうか。それに何よりも防犯用の監視カメラで教員を監視してい
るとは、そっちの方こそとんでもない問題です。校長も狂っていますが、教頭もそれに輪をかけて、
狂っています。彼らにはもはや教育の「き」の字もありません。こんな人たちが教員を指導する
立場に居座っているのです。これがかつては教師だった者のなれのはてかと思うと情けない気持ちで
一杯です。
ひどい事がまだまだたくさん起こっているのですが、時間がないのでお話できず残念です。
でも私たちはどんなことが起こっても一致団結して管理職と闘っています。それぞれの学校で理不尽な
権力と闘う取り組みの一つ一つが私たちの国の民主主義を守ることにつながると信じて、これからも闘い続けて
いきたいと思っています。

上記の記事の中で、とんでも校長が生徒の髪の毛を進級・卒業の条件の一つにしようという発想
していましたが、これに関連して蛇足を一つ。
[anti-hkm]MLの「ツバメ通信(7)」に次のような記事がありました。
本日足立東高校の卒業式。
計7人で正門でのビラまき。
教職員の受け取りは今一つだが、生徒・保護者の受け取りはすごくよかった。
教員がずっと7〜8人入り口に立って、生徒を入り口で止めて、頭髪検査。
髪を染めている生徒には黒スプレーを買いに行かせて、その場で黒くさせていた。
1〜2人のレベルではなく、ほとんど生徒全員。
その様子を見ていた保護者は凍りついていた。
反発して帰ってしまった3年生の親子もいた。
とんでもない人権抑圧に全員驚き、怒った。
生徒のファッションを規制するのは当たり前と考える教員は、もしかすると多数派です。
「第151回」(1月12日)で、青木悦さんの講演を紹介しましたが、その中で私は青木さんの指摘
したことを「わが内なる保守・反動」という言葉で受け止めました。まさにこれが教師の内にある
『生徒への「強制」がまかり通る素地』なのです。
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207 イシハラの思想弾圧の下地
2005年3月10日(木)
村上義雄著「暴走する石原流『教育改革』」を読んでいる。前回、前々回で現役のある教員の話を
多少アレンジして都立高校の現状を記録したが、昨夜読んだ部分にそれと同じような事例が次々と出
てきた。あの話は決して特例ではないのだ。
その部分の見出しタイトルを並べるてみる。
校長の権限は飛躍的に強化され、職員会議はものの見事に形骸化
押し付けられる研修
人事考課、人事異動---教師の士気を削ぐあの手この手
主幹---やる気をなくさせる縦型人事の立役者
このタイトルを見ただけで私たちはその内実が手に取るように分かる。
さて、前回、イシハラが市民たちを逮捕し始めたことに触れたが、これも実は用意周到に
準備されていたと思える。前提書の第4章「ここまできた都教委の”学校支配”」を読んで
得心した。
2003年6月、イシハラは竹花豊という人物を副知事に就任させた。竹花は2001年9月3日から2003年
6月13日までの広島県警で本部長をしていた。いくらか異論があったようだが、翼賛都議会はこの人
事をすんなりと認めた。
2003年8月、イシハラは竹花を本部長とする「緊急治安対策本部」を組織する。この対策本部での
論議の中で「子どもを犯罪に巻き込まないための方策を提言する会」を発足させた。この会の提言が
きっかけとなって具体化したとんでもないものがあったのだ。
以下「ここまできた都教委の”学校支配”」から引用する。
都教委の”学校支配”は、警察との連携強化にまで発展している。2004年4月5日、都教委と
警視庁の間で締結し、5月1日に施行した「児童・生徒の健全育成に関する警察と学校の相互連
絡制度の協定書」は、ちょっと黙視し難い。協定書の骨子を紹介しておこう。
まず、警察から学校への連絡事項は、@逮捕事案、A(犯罪をおかす恐れのある)虞犯事案、
Bその他、警察署長が学校への連絡を必要と認める事案など、となっている。
一方、学校から警察に提供する問題行動として都教委は、@深刻な暴力、A刃物使用の傷害、
B援助交際、C薬物使用、D暴走行為、E深刻な学校間抗争、F校長が警察に連絡する必要が
あると判断する問題行為などを例にあげている。
私は「問題行動」という言葉が気になる。教師と生徒の間で解決可能な事柄まで警察に連絡し
てしまう危険性はないのか。
かつて中学を舞台に「校内暴力」 の嵐が吹きすさんだとき、職員会議は、しばしば激論となった。
紛糾もした。
「なぜ、安易に警察を呼ぶのか。教師は生徒としっかり向かい合っていると胸を張れるのか。自ら
教育を放棄せよと校長は言うのか。教え子が警察に連行されるのを黙って見ていられるのか」
教師たちが校長ら管理職に詰め寄る光景を取材者として目撃したのを記憶している。生徒に寄り添
おうとする教師の思いに共感をおぼえた。「教え子を警察に売るのか」という激しい批判が耳の奥に
しみ込んでいる。
しかし、結局、各地域ごとに「学校警察連絡協議会」(学警連)が発足し、連絡を密にする旨、学
校(管理職)と警察が意思統一をはかる結果となっている。
(中略)
今回の協定は、まるで「中学生を見たら非行を疑え」と頭から決め込んでいるのではないかとさえ
思える。都教委の姿勢と、今回の「協定書」の使われ方を入念に監視しなければなるまい。
昨今、学校に侵入した部外者による殺傷事件が相次いでいる。圧倒的多数の人が上記の「協定書」
を歓迎するのではないか。 しかし心しなければいけない。他の項目にも問題点はあるが、「その他」
という項目がくせものだ。警察と学校が相互に連絡し合うとした項目の中でも「Bその他、警察署長が学校への
連絡を必要と認める事案」と「F校長が警察に連絡する必要があると判断する問題行為」が問題だ。
今回の市民を逮捕するに至る警察・学校の連携は、イシハラ・都教委の直接の指示があったようだ
、この「協定書」がその指示の根拠であったろうと思う。
村上さんは学校が安易に生徒を警察に引き渡すようになることをのみ杞憂している。まさかこれが
市民を弾圧するための項目になるとは全く思いも及ばなかっただろう。もっともなことだ。
こんなべらぼうなことは誰にも予測できなかっただろう。
もしも「協定書」作成時に竹花がその項目で市民弾圧をも想定していたとしたら、竹花というヤツは
イシハラが見込んだだけあって、相当な悪だ。
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208 北村小夜さんの講演から(1)
体のノート
2005年3月11日(金)
先週(3月5日)「板橋のつどい」という集会に参加した。その集会で北村小夜さんの『子どもた
ちをとりまく目に見えぬ「強制」』という講演があった。そのお話しの中に2点紹介したい話題があった。
それを紹介しようと思う
お話しは当日配られた資料(北村さんの論文)にそって進められたので、その資料からの引用
という形で紹介する。資料は『逆らわない心・丈夫な体 改憲と教育基本法「改正」のめざすもの』
(以下「論文1」と呼ぶ。)と『危ない音楽教科書』(「論文2」と呼ぶ。)
北村さんはご自身が軍国少女に仕立てられていった経験とつき合せて現在の状況を読み解いて
いる。その現状認識にはとても説得力があると私は感じた。
まず「心のノート」の徳目が戦前の修身の教科書のそれとほとんど同じことを指摘する。また、
修身の場合はほとんどが上から指図する説諭の形を取った教育方法であったが、「心のノート」は
徳目ごとに自己点検を強いると言う方法でこころを改造しようとしている。その点では修身以上に
問題だと指摘している。そして、一方的な配布についても大問題だとして「論文2」」で次のように
言っている。
文科省は02年4月、全国の小・中学生に「心のノート」を配った。我が国を愛しその発展を
願う国民を育てようというその内容は勿論であるが、手続きも不届き極まりない。
いま、教育現場で子どもたちに教材を渡すのは生易しいことではない。教科書なら検定制度
があり合格しなければならない上、教育委員会に採択されなければならない。補助教材に
してもさまざまな手続きが必要である。
ところが「心のノート」は、現場の意向などに関わりなく送りつけ、使用を強制している。
このことについては国会でも問題になり、中川智子議員や神本美恵子議員などが質問し
ているが、文科省は「地方教育行政の組織及び運営に関する法律(略して地教行法と呼ばれ
ている)の中にある、文科大臣は地方公共団体に対して、教育行政にかかわって、必要な指
導・助言、援助を行うことができる権限に基づいたものである」といっている。
しかし、地教行法48条は1項に「文科大臣は都道府県又は市町村に対し、都道府県委員会
は市町村に対し、都道府県又は市町村の教育に関する事務の適正な処理を図るため、必要な
指導、助言又は援助を行うものとする」と、権限を「教育に関する事務の適正な処理を図る」
に限定している。どう考えてもこの法で国定教材ともいうべき「心のノート」を作成し、配布
して使用を強制するのは無理である。
こんな製作や配布や使用強制を許していたら次に何が現れるかわからないと憂慮されていたが、
現れたのが、「体のノート」ともいうべき「元気アップハンドプック」というしろものである。
発行文部科学省、製作協力(財)日本体育協会とある。文科省生涯教育課によれば、今年
(04年度)は小学校1、3、5年生に配った。次年度からもそうしていくという。文科省がそう
いうのに、まだ受け取つていない該当学年の子がたくさんいるのは、教育委員会を含め、多く
の現場が求めているものではない証拠である。
「心のノート」ほど豪華ではないが、やはり低学年用・中学年用・高学年用がある。いまのと
ころ中学生用は出ていないようであるが、かわりに幼児用がある。
一見して戦時中の国民体力法に基づく体力手帳を彷彿とさせるが、その手法は全く違う。
「心のノート」同様、自己点検させ、自ら一国民として健康と体力アップをめざそうと思
い込ませるよう仕組まれているし、家庭に責任を持たせようという意図もみえる。特に低
学年はカレンダー方式で、365日保護者によるチェックを要求している。
このところ学校の内外で、子どもの健康に関することがかしましい。
学習指導要領では77年改訂以来、総則で、道徳教育と体育に関する指導を教育活動全体を
通して行うものとして、各教科にさきだって、徹底の必要を述べてきたが、98年改訂では、
その「体育に関する指導」を「体育・健康に関する指導」に改めている。すでに「健康は
国民の責務である」という健康増進法も施行されている。もう健康を保てない者は非
国民である。障害や病気を持つ人々が生きにくくなってきた。
学校現場における栄養教諭の新設もきまった。間もなく、知育・徳育・体育の基礎となるべきも
のとして食育基本法が成立する。
「論文1」の冒頭は次のように始まっている。
心と体が国に奪われた。このところ「心のノート」と「健康増進法」による体制をこう呼ん
できた。「体のノート」ともいうべき「元気アップハンドブック」も配られた。
戦争をするには、国民の逆らわない心と丈夫な体が必要である。その育成は多く教育に
求められる。ほぼその仕組みは完成している。
すなわち、憲法も教育基本法も「改正」された状況にある。
自分の不明を白状すると、私は「健康増進法」とか「少子化社会対策基本法」とかに
全く関心を持たなかった。北村さんはこれらは戦時中の「国民体力法」とか「国民優性法」に
匹敵すると言う。
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209 北村小夜さんの講演から(2)
国家による健康管理
2005年3月12日(土)
前回終わりに引用した北村さんの文は次のように続く。
04年6月16日、与党の教育基本法改正協議会の中間報告(以下、与党案)がまとめられた。
これによると、第一条の教育の目的をむきだしで「教育は、人格の完成を目指し、心
身ともに健康な国民の育成を目的とすること」としてしまっている。教育の目的を国の法律
できめること自体いかがわしいことであるが、現行は、前文の「個人の尊厳を重んじ」、
一条の「個人の価値をたっとび」と、個人の尊厳と価値を強調し、「国民の育成」には
「平和的な国家及び社会の形成者としての」という限定をつけているが、与党案はここを削除
して、戦争をする国の求める「心身ともに健康な国民の育成」こそが教育の目的だと押し出している。
憲法改悪と同様、教育基本法改悪も現実の方がそれを先取りして進行している。「心のノート」
で素直で実直な精神を養い、「元気アップハンドプック」で兵士となるための基礎体力の養成をはかる。
かくして「心身ともに健康な国民の育成」が遂行される。
これは決して穿ちすぎではない。北村さんは「それが現状であることを認識しなければならない。そのことは、
かつて日本が戦争をするに当たって、国民の健康をどう管理してきたかを辿ってみるとよくわかる。」
と述べ、戦中の国家による国民の健康管理の諸施策を辿っている。
1928年 いまも続いているラジオ体操が始まる。
昭和天皇の大礼記念事業としてであった。
1930年 朝日新聞社主催の「日本一健康優良児」表彰制度がスタート。
一新聞社の主催であったが、文部省の後援で、全国の小学校毎
に六年生を対象に、体位・体力だけでなく、操行がよく学力の
優れた児童男女一名ずつを推薦させ、地方長官を会長とした地
方審査会を経て、中央審議会が最終決定するという国家的大事
業であった。いまは目的を達したとして健康優良校表彰制度に
変っているが、この事業は1978年まで続いた。
1938年 厚生省が発足。同じ年に制定された国家総動員法の「国家が必
要とする時、すべての人的・物的資源を統制運用できる」の人
的資源の確保の役割を担ってのことである。
健康・体力の強調は、満洲事変、日中戦争、太平洋戦争と続くなか昂揚
を続けていく。
1939年 「産めよ殖やせよ国の為」という標語が出現している。
1940年 国民体力法、国民優生法が制定される。
現在の健康増進法や少子化社会対策基本法に匹敵するものである。
北村さんは続ける。
健康が讃えられるとき、障害者や病人はナチスドイツの例をあげるまでもなく排除される。
戦時中、障害者は「ゴクツブシ」「非国民」といわれ息をひそめて生きていた。食糧の配
給が滞るなか、精神病院では餓死に等しい死亡者が多数でたことも忘れてはならない。
これまでの言動が明らかにしている事だが、イシハラは弱者を極端に嫌う差別者だ。
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210 北村小夜さんの講演から(3)
歌は旗とともに人の心を唆す
2005年3月13日(日)
「つくる会」の教科書が教育教材面での反動の最先端を露払いしている。
北村さんは言う。「新しい歴史教科書をつくる会の歴史教科書(扶桑社刊)が検定に合格した
ということは、全ての教科書がつくる会的になってきたということである。」
教育問題はいわゆる主要5教科(国社数理英)を中心に語られがちだが、北村さんは周辺教科といわれる
体育・家庭・図工・音楽にも問題が多いと指摘する。このことは私の中でも一つの盲点だったと気づか
された。
私の世代(国定教科書第三期の最後)は、体育はいうに及ばないが、図工といえば戦意昂揚のポ
スターばかり描いていた。家庭科では銃後の守りをしっかり教え込まれた。
(中略)
そして音楽。歌は旗とともに人の心を唆す。音楽(音楽に限らないが)は一つの目的手段に
なった時、芸術ではなくなる。戦前、音楽は修身の手段であった。例えば「柴刈り縄なひ草鞋
をつくり、親の手を助け弟を世話し、兄弟仲よく孝行つくす、手本は二宮金次郎」と調子よく
歌わせておいて、修身で「二宮金次郎は、家が大そうびんぼふであったので、小さい時から、
父母の手だすけをしました」と教えた。
忠義の手本として広瀬武夫の勇気と部下思いを教え、「轟く砲音
飛く来る弾丸」と歌わせるといった具合である。
「修身」と「音楽」がタイアップして国家意思の刷り込みが行われた。「修身」は首位教科と言われて、
全ての教科が「修身」を補完する役割をになった。
いま学習指導要領の総則の冒頭には道徳教育が掲げられるようになっている。そして音楽の教科書も版を
重ねるにつれて「日本人としての自覚」が強調され、国家主義に基づく畏敬の念を育てようという意図
が露骨になってきているという。「心のノート」が「修身」の教科書なら、それとタイアップして
「音楽」を道徳教育の手段とする戦前の手法がよみがえってきたのだ。
北村さんはまず学習指導要領で音楽に限って必ず載せなければならない共通教材が示されていることを
指摘する。
小学校学習指導要領音楽は、1958年以来、必ず扱うべきものとして共通教材を示してきま
した。1998年改訂(2002年実施)からは内容の三割削減に伴って、鑑賞教材については直接
曲名をあげることはなくなりましたが、歌唱教材については「日本のよき音楽文化を世
代を超えて歌い継ぐようにするため、現行と同様、長い間多くの人々に親しまれてきた文部省
唱歌や、各学年の指導内容として適切なものの中から選択して、これを示すことにする」とい
う教育課程審議会の答申に従って、各学年4曲、計24曲をあげています。指導要領は、このう
ち3曲を必ず載せるよう指示していますが、小学校音楽教科書を発行している3杜は24曲全
部を載せています。
その24曲は次のようである。
歌唱共通教材一覧
第一学年
うみ(文部省唱歌)1941
かたつむり(文部省唱歌)1911
日のまる(文部省唱歌)1911
ひらいたひらいた(わらべうた)1977
第ニ学年
かくれんぽ(文部省唱歌)1941
春がきた(文部省唱歌)1910
虫のこえ(文部省唱歌)1910
夕やけこやけ(中村雨紅作詞草川信作曲)1941
第三学年
うさぎ(日本古謡)1941
茶つみ(文部省唱歌)1912
春の小川(文部省唱歌)1912
ふじ山(文部省唱歌)1910
第四学年
さくらさくら(日本古謡)1941
とんび(葛原しげる作詞柴田貞作曲)1977
まきばの朝(文部省唱歌)1932
もみじ(文部省唱歌)1911
第五学年
こいのぽり(文部省唱歌)1913
子もり歌(日本古謡)1977
スキーの歌(文部省唱歌)1932
冬げしき(文部省唱歌)1911
第六学年
越天楽今様〜歌詞は二節まで(日本古謡)1989
おぼろ月夜(文辞省唱歌)1914
ふるさと(文部省唱歌)1914
われは海の子〜歌詞は三節まで(文部省唱歌)1910
※右の数字は、その歌が初めて国定教科書(戦後は検定教科書)に載った年です。
※日本で初めて音楽の国定教科書が作られたのは1911年です。
これらの教材について、北村さんはそれぞれの歌が作られた時代背景を追っている。
1910〜13年
その大半が1910〜13年に作られたものであることに驚きます。言文一致に対抗して「気品高い
唱歌を作ろう」という人々によって作られた初期の文部省唱歌の多くは、国民として身につける
べき徳育と我が国の自然を誇る花鳥を主題にしていますが、明治末から大正にかかるこの時期です。
当然のこととして国民思想統一の任もしっかり担っていました。
1932年
スキーの歌とまきばの朝が入っています。32年といえぱ満州事変の次の年で満州国が作られた
年です。次代を担う少年少女に対する期待が読めます。同じ頃文部省唱歌としては蛍や動物園
等とともに男子用に太平洋が女子用に月見草がつくられています。
1941年
学校制度が変わり、小学校は国民学校になり、唱歌から芸能科音楽になりました。うみ、かく
れんぽが作られ、タやけこやけとともに古謡としてうさぎとさくらさくらが採用され国粋主義が強
調されます。
うみについては、故山住正巳さんが「子どもの歌を語る(岩波新書)」で「どうして、あの戦時
体制下、このようなおだやかな歌が国定教科書に掲載されたのか。」といっておられますが、
太平洋戦争開戦直前です。そのころ海辺に立てば、「この真直向うが南洋諸島」などと指さし
あって南進日本の先駆けのつもりでいた自分を考えても、充分侵略の意図が読みとれます。
飛行機の爆音などをきき分ける音感教育も始まっていました。
1977年改訂された指導要領は「君が代」を国歌扱いにしました。とんびとわらべうたひらい
たひらいたと古謡として子もり歌を入れ、ますます日本の伝統文化を強調します。
そして89改訂ですが、「君が代」の強制と相俟って「日本の音楽」がさらに強調されます。
越天楽もそれです。今様ですから歌詞は子ども向きではありません。
われは海の子は戦後一旦途絶えていましたが、この改訂で復活しました。それは社会科の
近現代史を、日本は日清日露の戦争に勝利して今日の繁栄の基礎を築いたと押え、東郷平八郎を
登場させたことに連動しています。日本の子どもが海に親しみ体を鍛えておくのは六節のような
ことを恐れず、七節のように世界の富を得、国を護るためです。その意図を当面隠すため歌
詞は三節までとしています。
その大部分が天皇制教育確立の時期につくられた文部省唱歌である。歌わせ、聴かせながら
マインドコントロールすることの有効さを活用する施策だ。
「われは海の子」の六節と七節を掲載する。私は知らなかった。
六.浪にただよう氷山も
来らば来れ 恐れんや
海まき上ぐるたつまきも
起こらば起れ 驚かじ
七.いで、大船を乗出して
我は拾わん 海の富
いで、軍艦に乗組みて
我は護らん 海の国
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