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第1651回 2012/01/28(土)
《続・「真説古代史」拾遺篇》(50)
狗奴国の滅亡(31)
崇神記をめぐって(22)
俾弥呼と崇神の接点(5)
俾弥呼の鬼道を、古田さんは「其の鬼に非ずしてこれを祭るは、諂(へつら)い也」(為政第二)と断じている孔子の思想と対比している。
「其の鬼」とは自分の先祖の霊″を指す。先に挙げた、孔子が禹を讃美する一節に、
「而して孝を鬼神に致す」
と言っていたように、自分の先祖の霊を祭る″ことに対して「孝を致す」と表現しているのである。これならば、讃美の対象なのである。
ところが「自分の先祖の霊でない者を祭る」行為に対しては、断乎「否」だ。「請(へつら)う」という、最大の罵声をあびせているのである。「敵を祭る」などは、美徳どころか、もっともいやしむ″べき行為とされている。
さて、古田さんは崇神が俾弥呼の鬼道を継承していると言う。
目を古事記に転じよう。崇神記である。「不倫の子」崇神天皇は「正統の子」建波邇安(たけはにやす)を殺した。山代(京都府)と河内(大阪府)で、建波邇安側を打ち破ったのである。
その建波邇安の母親は、河内の豪族の出身だった。
「又河内の青玉の女、名は波邇夜須毘売(ハニヤスビメ)を娶(めと)して、生みませる御子、建波邇夜須毘古(タケハニヤスビコ)命」(孝元記)
とある通りである。その「河内」を出身とする母親の子、建波邇安を殺したのだった。
ところが、そのあと、崇神は注目すべき行動に出た。大物主(オホモノヌシ)大神が崇神の夢に現れて、「意富多多泥古(オホタタネコ)を探し出して、彼に自分を祭らせよ」と言ったというのである。
河内(かふち)の美努(ミヌ)村に其の人を見得て貢迎(たてまつ)りき。
という。その「意富多多泥古命」を「神主(カムヌシ)」として、御諸(みもろ)山で意富美和(オホミワ)の大神の前を拝(いつ)き祭った、という。有名な伝説である。
「夢告、云々」は、ことを正当化″するための常套手段″だ。問題は、崇神にとって「敵手」であった河内出身の豪族の中から、土地の名士″を見出して、彼に大物主命を祭らせていることである。「大物主命」は、出雲の神「大国主命」と同神″だという。本来は、銅鐸圏側の主神である。それを祭らせ″ているのである。「敵を祭る」祭祀となっている。あの吉野ヶ里でも、あの遺跡の「真の中心」は、日吉(ひよし)神社の祭神大山喰(オオヤマクイ)命。出雲系の在地神である。この「敵側の主神」を祭った遺跡なのである。これと同一の「方法」なのである。
これは、あの倭国の女王、俾弥呼の「鬼道」と一致している。これは果して偶然の一致なのであろうか。
この崇神の祭祀と俾弥呼の鬼道を結びつける説に対して、私は大きな「?」を払拭できない。理由は次の通りである。
崇神記の「神々の祭祀」説話は時系列から言うと、「建波邇安王の反逆」の前になる。『日本書紀』は日付つきで記載している。「神々の祭祀」は崇神8年であり、「武埴安彦(建波邇安)王の反逆」は崇神10年に設定されている。
原型は『古事記』であり『日本書紀』の方は多くの潤色が施されているので、『古事記』の方で考えるとすると、ここは時系列による記録ではなく、初めに祭祀関連の記事をまとめて記録し、その後に狗奴国侵略記事をまとめた、と考えられなくもない。しかし、それでも俾弥呼の鬼道と崇神の祭祀とは本質的に異なると私は考えている。
古田さんは吉野ヶ里の日吉神社は「敵側の主神」を祭った遺跡であり、崇神の祭祀と同一だと説いている。それには同意できるが、逆にこのことがそれらの祭祀と俾弥呼の鬼道との違いを示している。俾弥呼の鬼道は現在進行中の争乱を治めるために敵味方双方の死者の靈を一つの祭場で共に祀ったのである。それに対して、崇神の祭祀や吉野ヶ里の日吉神社は、征服国家は被征服国家の「共同幻想」を取り込むかあるいは自らのそれと交換するなどして支配を貫徹するという「共同幻想の巧みな交換」を示している。『大嘗祭とは何か(1)』 | で引用した吉本さんの文章を再掲載する。
以前に存在したであろう法律とか宗教的儀礼、それから群立国家で支配的であったろう風俗、習慣というようなもの、あるいは不分律とか、掟てとか、あるいは村落の村内法、そういうようなものすべてと、元来そこの上におおいかぶさってきたその統一国家勢力におけるそういう習慣、風俗あるいは保存している宗教あるいは法概念、そういうようなものをそこで交換するわけです。これは別に等価交換じゃないわけですけれども、とにかく交換するということ、それで交換することによって、統一国家を成立せしめた勢力というものが、それ以前からあたかも存在したが如くに国家というものを、国家権力というものを制定することができるということです。それと同時に逆に交換された群立国家における首長、大衆というものが、今度は支配的に統一国家を成立せしめた勢力の法あるいは宗教、習慣っていうものを、あたかも自らの習慣あるいは自らの法律あるいは自らの宗教というような受けとり方で、受けとるという、かたちになってゆきます。
つまり、俾弥呼の鬼道は倭国統合のための新たな共同幻想の創出だったのに対して、崇神の祭祀は敵対国の共同幻想を、いわば「簒奪」したもの、と言ったらよいだろうか。これによって実質ともに狗奴国は消滅した。
ところで、「崇神の狗奴国攻め(7)」で宿題にしていた問題があった。それがはっきりしたので報告しよう。そのときの私の文章は次の通りである。
古田さんは崇神は大和に帰ってきたのではなく、もともとは大和には拠点はなく、本国(九州王朝)の認可を得て新たに大和に侵略してきた勢力だと考えているようだ。もしそうだとすると、古田さんは騎馬民族説を否定しているが、任那を拠点としてた崇神が「大和への侵略」を行ったと、形としては騎馬民族説と同じことを言っているわけだ。私には受け入れ難い説だが、この説をはっきりと明言している文章はない。私が読み落としているのだろうか。私自身への宿題としておこう。
私の読み落し、というより未読部分に解答があった。私は第1章から順序よく読んでいるのではなく、興味深い章から読んでいる。「狗奴国の滅亡」は今回で終りにしようと思い、次に興味深い第8章「邪馬壹国研究の新たな世界」を読んだ。第8章の「5 歴史の革命―「被差別部落」の本質」に崇神を大和への侵略者とする説がはっきりと書かれていた。
次にのべるように、崇神天皇の時代は「AD200年と300年の間」に相当しよう。この間に、崇神は「任那」(釜山近辺)から「大和」(奈良県)へと侵入し、それ以前の「正統の天皇家」の有資格者″を攻撃し、征服したのである。
「次にのべるように」というのは今まで教科書に使っていた第10章「倭人伝の空白」を指している。「正統の天皇家」の有資格者″とはタケハニヤスである。つまり古田さんは、タケハニヤスは崇神の庶兄であり、崇神は不倫の子という系譜を正しい記録として扱っているのだった。思えば、この説が前提になかったので、第10章を読みながらいろいろな「?」が起きたのだった。例えば次のような一節がある。
崇神天皇「以前」には、この「建波邇安王」こそ、「正統なる王者」だった。中国風の称号である「王」を名乗っていた(「王」の問題は後述する)。
「是に国夫玖(くにぶく)命の弾(はな)てる矢は、即ち建波邇安王を射て.死にき。」
庶母による「不倫の子」は、機をえて果断に行動し、運命を逆転させた。その「名」の通り、恵まれた第一歩を進みはじめたのである。不遇と逆境によって、かえって鍛えられていたのであろう。
これを初めに読んだ時は『崇神天皇「以前」には、……』が「?」だった。崇神が征服する「以前」は「建波邇安王」が狗奴国の「正統なる王者」だった、なんて改めて言う必要があるのだろうか、と。古田さんは「建波邇安王はヤマト王権の王だった」と言っていたのだ。私がそのように読めなかったのは(「王」の問題は後述する)という注のためである。『「王」の問題』は「崇神の狗奴国攻め(3)」で取り上げた。それによると「王」は「呉親倭王」の称号なのだから、建波邇安王はヤマト王権の王とするのは矛盾である。やはり、建波邇安王は狗奴国の王であろう。このように考えたのであった。それともやはり建波邇安王はヤマト王権の「正統なる王者」であり、ヤマト王権は建波邇安王のときに「魏親倭王」から「呉親倭王」に鞍替えしたとでも言うのだろうか。
この「崇神侵略者」説は今も私には受け入れ難い。『俾弥呼』を一通り読んだ上で再考してみよう。
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