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第1440回 2010/08/12(木)
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(62)
「天智紀」(50)
近江遷都(8):「斉明紀」「天智紀」の復元
本道に戻ろう。
私は
「天智の履歴の謎」 |
を次のように結んでいた。
「白村江の戦いの時、中大兄(天智)は斉明の皇太子として筑紫で留守役の一端をになっていたという説もあるが、中大兄は九州王朝の王族の一人であったという可能性も出てくる。するとこの問題は「近江遷都」の問題と関連してくる。だがまだ結論は急ぐまい。」
ここで提出した問題に取りかかろう。しかしその前に確認しておきたいことがある。
先に山崎仁礼男さんの論文『造作の「天智称制」』を手がかりに「天智称制の秘密」を書いた。そこでの結論は天智称制期間の記事は「斉明紀」の切り取りであるということだった。私はこの説を信憑性が高いものとして採用したい。またかつて
「壬申の乱(1):近江遷都」 | で古賀達也さんの「近江遷都九州王朝論」を紹介した。その時、この大胆な仮説に魅力を感じていたが、この説に対する私の判断は保留していた。その古賀説では「遷都は白鳳改元の年(661年)」である。これは「天智称制の秘密」の結論とは相容れない。私としては古賀説を取らないことにする。
ということで「近江遷都」については全面的に仕切り直すことになる。その取っ掛かりとして「天智紀」・「斉明紀」の復元をしてみる。まず、「斉明紀」の西方遠征記事から始めて、後に必要になると思われる必要最小限の簡単な年表を作ろう。また九州年号を併記し、九州王朝の記事には「☆」をつけることにする。
660(白雉9・斉明6)年
☆7月 百済、唐・新羅に攻められ滅亡
倭国に再建支援を要請
12月 斉明、難波宮で軍勢準備
661(白鳳元・斉明7)年
☆白鳳改元
(筑紫君薩夜麻が即位?)
1月6日 斉明(ヤマト軍)出発
1月8日 大伯(おおく 岡山県邑久)で
大田皇女が女子を出産
1月14日 伊予の熟田津の
石湯(いわゆ)行宮に泊る。
1月25日 娜の大津(博多港)着。
磐瀬行宮に居住。
5月9日
斉明、朝倉橘広庭宮に遷る。
5月17日
☆唐将劉仁願、郭務悰来国
表函を献る。(12月帰国)
日本書紀』はこの記事を664年に入れている。そのため私はこれを唐の占領先遣隊と考えてきた。ところで671年に「百済の鎮将劉仁願、李守真等を遣して表を上る」という記事がある。しかし実は、劉仁願は668年に流罪されているので、この記事は3年以上ずれて挿入されたことになる。「天智紀」の唐の占領関連記事は全て3年ずれていると考えることにした。上の記事は白村江の戦いの前年の記事ということになる。上の「表函」をめぐった外交の結果、九州王朝は開戦決意をするに至ったのではないか。(以上は古田説による。)
7月 中大兄皇子、
長津宮(娜の大津)に居す。
☆8月百済へ援軍派遣
662(白鳳2・斉明8)年
☆3月 新羅討伐隊派遣
☆5月 百済王豊璋帰国
☆8月17日 白村江の戦い
(『日本書紀』では663年)
☆9月20日 唐より占領軍先遣隊
(劉徳高・郭務悰)
665(白鳳5・斉明11)年
2月25日 間人大后死去
(天智の妹で孝徳の后)
☆2月 百済の400余人を
近江の神前郡に居住させる。
☆3月 神前郡の百済人に田を与える。
666(白鳳6・斉明12)年
☆ 唐占領軍第一陣2000余人
(郭務悰)
☆百済の男女2000余人、
東国へ居住させる。
7月24日 斉明、朝倉宮で死去
8月1日 中大兄皇子、
喪のため磐瀬宮に至る。
10月7日 なきがらは海路を帰途につく。
上の記事には奇妙なエピソードがついている。これは全文を掲載する。
是に、皇太子、一所(あることろ)に泊(は)てて、天皇を哀慕(しの)ひたまいて、乃ち口號(くつうた)して曰はく、
君が目の 戀(こほ)しきからに 泊てて居(ゐ)て かくや戀(こひ)むも 君が目を欲(ほ)り
10月23日 なきがらは難波に泊まる。
11月7日 飛鳥川原で殯
667(白鳳7・斉明13)年
2月27日 斉明・間人大后を
小市岡上陵に合葬
3月19日 近江遷都
8月 中大兄皇子、倭京に行く。
668(白鳳8・天智元)年
1月 天智即位
☆6月 伊勢王とその弟王
日を接いで死去。
☆11月10日 唐占領軍第二陣来る。
筑紫君薩夜麻を同行。
669(白鳳9・天智2)年
☆百済の王族(佐平余自信、
佐平鬼室集斯)男女700余人と
、近江国蒲生郡に移り住む。
670(白鳳10・天智3)年
☆2月 戸籍を作る。
(いわゆる「庚午年籍」)
671(白鳳11・天智4)年
☆1月6日 冠位26階を制定
9月 天智、病気になる。
11月24日 近江宮で火災
12月3日 天智、近江宮で死去
12月11日 新宮で殯
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