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第1115回 2008/10/26(日)
《「真説・古代史」拾遺編》(27)
「倭」と「日本」(10):「日本」という表記の源流(3)
今回の議論には第三の論拠がある。中国(唐)の歴史書である。
唐(618〜907)は日本との国交も大変深く、長かった国だ。この国について書かれた歴史の本は旧唐書(くとうじょ)と新唐書(しんとうじょ)と2種類ある。その新唐書の中に、次のような記事がある。
「日本は、もと小国だったが、倭国(わこく)に、とって代わられた。」
この「倭国」という国は、あの志賀の島の金印の一世紀(AD57)から、白村江(で唐と戦った七世紀(AD662)まで、中国の史書ではこの国名で記録されている。それが8世紀はじめから「日本国」という国名に代わり、現在に至っている。そして、「倭国」は九州王朝であり、「日本国」がそれに取って代わった近畿のヤマト王朝であることは、私(たち)のつぶさに知るところである。
ところが上記の新唐書の記事は、その志賀島の金印以前、倭国より前に、すでに「日本」という国があった、と言っている。そしてその「日本」を倭国が併合したというのだ。1世紀より前、博多湾岸に「日本」という国があった。8世紀以後採用された国号の「日本」は、この古い国号の新しい「復活」だった。これが、中国側が記録していた歴史的事実であり、日本の国号の本当の由来だった。
早くから文字をもち国際的な情報をもっていた、大国・唐の歴史の本のしめすところと、「東日流外三郡誌」という、この日本列島の中の本のしめした伝承とが、全く一致していたというわけだ。これを「偶然」と片付けてよいだろうか。いや、やはり歴史事実がそうだったからこそ、日本列島側の記録と中国大陸側の記録とがピッタリー致した。遺跡事実ともよく対応しているのだから、そう考えるのが理性的な正しい判断というべきだ。
しかし、「東日流」を「偽書」だと言い張り、上記のような事実を認めようとしない人たちがいる。この問題についての古田さんは次のように語っている。
この「東日流外三郡誌」という本は「偽書」である。現代の人が作った本だ。こういった主張をする人が現われました。新聞も、そういった記事を何回ものせました。それも、実は、もっともなことだったのかもしれません。なぜなら、この本の貴重さは、おそらく空前絶後、多くの人々にとって、全く予想もつかないことだったからです。[まさか、そんな。ウッソー。」という気持ちから、この本のことを"消し去ろう"という気持ちになったのも、無理はありません。
ちょうど、あのドイツの有名なシユリーマンがトルコのヒッサリクの丘から、古代トロヤの古城とさんぜんと輝く黄金の財宝を見号に発見したとき、人々はあまりの意外さに驚き、逆にシュリーマンその人に対して、色々と疑いの目を向けました。
「彼は詐欺師(さぎし)だ。ペテン師だ。実は古道具屋から買いこんだものを、地下から発掘した、などと言って、ウソをついているにちがいない。」
アテネの博物館長やヨーロッパの有名な学者たちまで、口々にそう言いました。あまりにも予想外で、それまでの常識を裏切っていたからです。トロヤとギリシアとの、長い日の戦争のことをのべた「イリヤッド」(イリアス)、盲目の詩人・ホメロスが竪琴を弾きながら、ギリシアの町々を語り歩いたという、あの「イリヤッド」は、ただのお話、歴史事実ではない。これがヨーロッパの学界では永らくの常識だったからです。
しかし、それはあやまりでした。その常識はまちがっていました。「イリヤッド」はまさに歴史事実の骨格を伝えていた。シュリーマンはペテン師ではなかったのです。
これと同じように、今回の「東日流外三郡誌」、その内容は、東北地方の北端部、津軽の地に伝えられた、古くからの伝承を、江戸時代の三人トリオ、秋田孝季、りく、和田長三郎吉次たちが、ひたすら記録し、一生懸命公正に伝えようとしたものでした。
それは、日本と言う国名、日本という国の歴史の始まりと本当の由来を、正直にかきしるしたものでした。少なくとも、この本に書かれたことによって、隣の国、中国の記録がいつわりではなかったこと、それがハッキリと証明されたのです。
このような、貴重な記録を残した和田家(五所川原市、飯詰)の代々の方々に心から感謝したいと思います。和田長三郎吉次の子孫それが現在の和田喜八郎さんと、その家族の方々なのです。有り難う。この貴重な文書を未来まで大切に保存して下きるようお願いいたします。
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