神のいつくしみの祭日

復活節第2主日(2001/04/29)

ごミサでのパパさまのお説教

Note:
 大聖年だった2000年4月30日、教皇ヨハネ・パウロ2世は一人のシスターを聖人としました。その名は「シスター・ファウスティナ」。ポーランド生まれのこのシスターは『神のいつくしみへの礼拝』という信心を広めたことで知られます。
 以下は、2001年の「神のいつくしみの祭日」のごミサの中でパパさまがなさったお説教の私訳です。(稚拙ですみません)
(原文はこちら http://www.zenit.org/english/archive/documents/MercySunday2001.html

1. 『恐れるな。私は初めであり終わりであり、生きている者である。私はかつて死んだが、代々限りなく生きる。』(ヨハネの黙示録 1:17〜18)

 第2朗読の慰めに満ちたみ言葉は『ヨハネの黙示録』から読まれました。これは私たちの目をキリストへと向けさせます。復活されたキリストが今も生きていることを体験するように、と。あらゆる状況にある一人ひとりに、たとえ最も困難で劇的な状況にある人にでさえ、復活された方は繰り返されます。「 "恐れるな!" 、私は十字架にかけられて死んだが、しかし今や "代々限りなく生き" ている。 "私は初めであり終わりであり、生きている者である" 」と。

 「初め」これはすべての命の源であり、(復活により)新たに創造されるものの最初の実りである、ということです。
「終わり」とは歴史の決定的な最後の時です。
「生きている者」それは永遠に死に打ち勝った、尽きることのない命の泉です。
救い主として十字架につけられて復活した、それがゴルゴダで生贄となられた小羊の特徴です。その方は苦しみを捧げることによって赦しを乞い願い、悔い改めた罪人たちのために天国の門を開いてくださいました。今や「死と黄泉の鍵を持っておられる」(黙示録1:18)永遠の王の顔を垣間見ることができるのです。

2. 『主をほめたたえよ、よきものであるがゆえに。主のいつくしみは永遠!』(詩編117:1)

 答唱で歌われた詩編の作者とともに驚きの声を上げましょう。主のいつくしみは永遠! この言葉が本当に真実なものだと理解するために、典礼を通して、贖いの出来事の中心へと入っていきましょう。そこではキリストの死と復活は、私たち自身の命そして、この世界の歴史と1つに結ばれているのです。いつくしみの奇跡は、人類の運命を決定的に変えてしまいました。この奇跡のうちに、私たちの贖いのために御ひとり子を十字架につけられることさえためらわなかった御父の豊かな愛が表わされています。

 辱められ、苦しまれたキリストにおいて、あらゆる限界を超えて、私たち人間の状態がしっかりとキリストと結びつけられている。この驚くべき一致に、信じるものも信じないものも感嘆することでしょう。神の御子が復活した後でさえ、十字架は「御父は人間への永遠の愛に絶対に忠実であることを絶え間なく語り続けます。……この愛を信じるとは、いつくしみを信じることです。」(回勅『いつくしみ深い神』7節)

 死や罪よりも強いその愛のゆえに、主に感謝を捧げましょう。この愛は私たちの日常生活において、いつくしみとして表され、実行されるものです。そして、すべての人に十字架につけられた御者をいつくしむようにもさせるのです。イエズスの模範をうけて、全信者の生活と全教会は神を愛し、隣人を、敵をも愛さなければならないのではなかったでしょうか?

3. このような思いを胸に、私たちは大聖年だった去年以来の復活節第2主日を祝っています。

 この日はまた、「神のいつくしみの祭日」とも呼ばれます。1年前、シスター・ファウスチナを神のいつくしみに満ちた愛の娘であり使者であるとして列聖したことを記念するために、様々な国から訪れた愛する巡礼者や熱心な信者たちとともにこの日を祝えることは、とても大きな喜びです。私の故国の娘であり、謙遜な信仰者であったものの祭壇の名誉を高めることは、ポーランドへ賜物であるだけでなく、すべての人類への賜物なのです。彼女がもたらしたメッセージはまさに適切で的を得た神からの応えでした。それは、恐ろしいまでの悲劇に見舞われた現代の人類が抱える疑問や希望に神が応えたいと望まれたものでした。イエズスはあるときシスター・ファウスティナにおっしゃいました。「人類は神のいつくしみに信頼するよう回心しない限り絶対に平和を得られないだろう」と。神のいつくしみ! これこそ第3年期の幕開けに人類に差し出され、復活されたキリストから教会が受けたご復活の恵みなのです。

4. 聖書は明らかにこれを宣言し、この賜物の意味と価値を私たちが理解する助けとなります。

福音記者ヨハネはご復活の後、キリストと出会った使徒たちが感じた感動を私たちにも伝えてくれます。このときの主の身振りに注目しましょう。主は恐れおののく使徒たちに、神のいつくしみの使者となる使命を与えられます。主は彼らに受難のしるしが残るおん手をおん脇腹を示してこう言われます。「父が私を送られたように、私もあなたたちを送る」(ヨハネ20:21)そしてこう続けられます。「[イエズスは]彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ。あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさぬ人はゆるされない」」(ヨハネ20:22〜23)イエズスは「罪を赦す」権能を彼らにゆだねられました。それはおん手とおん足、そして何よりもおん脇腹の傷からあふれ出る恵みであり、そこから全人類の上に神のいつくしみが豊かに注がれているのです。

 この霊に満ちた瞬間を再び体験しましょう。今日もまた、主は私たちにその栄光に満ちた御傷と聖心を示しておられます。それは光と真理の、愛と赦しの尽きることのない泉です。

5. キリストの心!

 その「聖心」からすべてが人類に与えられます。贖い、救い、聖化。シスター・ファウスティナ・コヴァルスカは、その聖心からあらゆる愛が世を照らす2本の光線として流れ出ているのを見たのです。「2本の光線」イエズスご自身がシスターに言われました。「これは敬うべき血と水です。」(シスター・ファウスティナの日記 p.132)「血」は、ゴルゴダでの生贄とミサの神秘とを思い起こさせます。また「水」は、福音記者ヨハネの豊かな象徴によれば、洗礼と聖霊の賜物を思い起こさせるものです。

 この傷つけられた聖心の神秘を通して、神のいつくしみに満ちた愛の波が、現代の男女の上に注がれ続けているのです。完全で永遠の幸せを求める人たちは、ここにこそ、その鍵を見いだすことできるでしょう。

6. "イエズスよ、あなたに信頼します" 

 この祈りは、敬虔な人々よ、自分自身を主の手にゆだねようとする態度を明らかに表すものです。ああ、主よ。唯一の救い主なるあなたの手に。

 愛されたい、心のままに新たな愛の文明をどのように作り上げるかを知りたいとの望みに私たちは燃えています。単純に身をゆだねることが、闇と悲しみ、疑いと絶望の壁を打ち崩します。神のいつくしみの光線が、特別な方法で、罪の重荷に打ちひしがれた人々に希望をもたらすのです。

 いつくしみの母、マリアよ、あなたの御子、私たちの贖い主である方をいつでも信頼することができるように助けてください。また、私たちが今日シスター・ファウスティナを特別な愛をもって思い起こすことができるように、助けてください。聖なる救い主のみ顔にかよわい目を向け、あなたと共に繰り返し唱えたいと望みます。 "イエズスよ、あなたに信頼します" と。今もこれからもずっと。アーメン。


Last Updated 2001/08/18