[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
(マタイ 5:13〜16)
「人々があなたがたの立派な行いを見て、
あなたがたの天の御父をあがめるようになるためである」(マタイ5:16)
今日のパンフレット『聖書と典礼』の注釈によると、「立派な」の " 原語「カロス」は「よい、美しい」の意味であるが、単に外観の良さだけでなく、役に立つものとして良いこと、倫理的に善いことをも表す言葉 " だそうです。
「立派な行い」とはなんでしょうか?
キリスト者であるということ、キリスト者の生き方とは「人間らしい生き方をする」ということではないでしょうか。
席を譲る、
微笑む、
声をかける、
人の不足を気にかける、
思いやりの心で人を見る、
感謝する、
人とともに歩む、愛する、慈しむ、笑う、泣く・・・
ですが、そういう心遣いは「自分は大丈夫」という安心感がなければ出てこないものです。自分が満たされていなければ周りの人の必要を気にかける感覚をもつことは難しいのです。その意味で、第1朗読イザヤ58:9あなたが呼べば主は答えというみ言葉はとても大切なものだと思います。
あなたが叫べば
「わたしはここにいる」と言われる
どんな時にもついていてくださる神様がいるという確信を持っていなければ、わたしたち人間が本当に安心して生きていくことはできないのではないでしょうか。
わたしたちキリスト者が「確信」を持って生きるとき、「あなたがたは地の塩、世の光」というイエズスの言葉は本当のものになります。み言葉を証しするために、日々の出来事を1つ1つ大切にして過ごしていきましょう。わたしたちに必要なことは神様が一緒にいてくださるという「確信」だけです。あとは神様ご自身が行なってくださいます。
神に感謝。