八雲神社

行事予定
(平成22年6月17日現在)
夏越の大祓式  6月29日(火)正午
 

 6月と12月には、人々のツミとケガレを祓う「大祓いの神事」が行われます。

 人間の生活では知らず知らずのうちにツミを犯したり、ケガレに染まることがありがちです。
 
.祓とは、このツミ・ケガレをお祓いによって身や心を清めて、神の御心にかなう人間生活を続けようというのが、美しい国土のうちに培われた日本人の伝統信仰であり、大祓の意義なのです。

人間は幸せになるために生まれてくると考えていた古代の人々は、自分の中に厄が溜まってしまっても、このようなお祓いをすることによって、人間本来の健やかな気持ちに立ち戻ることが出来ると考えたのです。次々に仕事に追われ、めまぐるしい生活をしている現代人には、なおさらこの日には大祓をして心身を一新することが大切ではないでしょうか。

特に、人間関係にトラブルを抱えている方、体調不良が気になったり,運気の低迷を感じたり天中殺の方は、この機会に「大祓い」をなさることをお勧めいたします。

「ケガレは気枯れ」にも通じると言われます。肉体の汚れはシャワーで洗い流せますが、心のケガレ、体のケガレは神様のお力をお借りしてお清めください。形代(かたしろ)に氏名・年齢を書き,身をなで、これに息を3度吹きかけてから、初穂料を添えて神社へお納めください。

皆様の形代は、大祓式後、神社にてお焚き上げされます。


住所 北区岩淵町22−21 地図は こちらから
連絡先 03−3901−2843



             
創建年代は不明であるが、江戸時代には日光御成道の岩淵宿
鎮守として崇敬篤く、荒川流域の為、境内には水神社を祀る。蔵
には明治時代に「勝海舟」によって書かれた大のぼりが保管さ
れている。

境内の末社

 水神社
 


 岩槻街道新荒川大橋際に鎮座されていましたが、河川敷地にかかり八雲神社の境内に移転されました。昔の荒川の往来は船で行なわれており、岩淵宿側の渡船場は、現在の新荒川大橋の少し上流に位置していました。この水神社もその付近に鎮座していた様です。この付近は古来より水害が多く、信仰上の自然的要求として、水神社を奉斉するようになったのでしょう。

 白山神社
 大六天神社
 御嶽神社
 稲荷神社
 市杵島神社


御祭儀

  

 元旦祭     1月1日
 祈念祭     2月21日
 水神社祭    6月第一土
 例大祭     6月第一土日
 夏越の大祓  6月29日 正午
 七五三祭    11月特定日
 新嘗祭     11月29日
 年越の大祓  12月26日 正午


●例大祭

    

 当神社では1年おきに「本祭り」と「陰祭り」があり、本祭りには御神輿の渡御(宮出し・午前11時〜宮入り・午後5時)がございます。渡御は日曜に行なわれ、ラ・ラストリート(旧すずらん通り・赤羽最大のアーケードどおり)では多数の買い物をする皆さんから歓声が沸き起こります。
 渡御当日は、終日「岡田民五郎社中」により、「お囃子・お神楽」が神楽殿にて奉納されます。
 また、土日の両日、境内には露店が出店いたします。


きゅうり伝説

 古来より、当社が鎮座するここ岩淵では、きゅうりを食べない風習があり現在でもそれを守っている方々が多数おられます。その理由は以下の2点とされています。

 (1) 須佐之男尊の伝説と社紋

 当社の御祭神である須佐之男尊(すさのおのみこと)が、きゅうり畑で難を逃れた為、御祭神をお守りしたきゅうりを食べないという説。また当社の御本社である京の祇園社(現在の八坂神社)の神紋「五つ木瓜」が、きゅうりの切り口に似ている為、恐れ多くて食べないという説。
 京都の祇園祭と博多の祇園山笠の祭りの期間中にきゅうりを食べないのも、神紋がきゅうりの断面に似ているからと言われています。

 (2) 河童伝説

 ある日村人が川辺を歩いていると、おなかをすかして倒れている河童に出会い、自分のわずかな貯えの中から、河童の大好物のきゅうりを差し与えた。
 河童はそれを食べて元気になると、主人である白蛇(龍)にこの出来事を話し、ここ岩淵には水害を与えないようにお願いした。それ以来、岩淵には大きな水害がなくなった。村人は河童に感謝し、河童の大好物のきゅうりを食べないようになったという説。
 日本には、「河童とは日本の自然が生んだ精霊である」という思想があり、河童=水神と見なす地方もあるようです。また、水神祭りでは河童にお供えするためきゅうりを川に流す風習があったり、きゅうりの初物は必ず水神社にお供えするところもあるようです。
 当社でも6月第一土曜日の水神社例祭にはきゅうりがお供えされます。
 なお、きゅうりの巻物をかっぱ巻きと呼ぶのも、きゅうりが河童の大好物であるからです。


牛頭天皇と須佐之男尊

 当社の御本社である、京都の八坂神社は昔「祇園社」と呼ばれており、御祭神に「牛頭天皇」をお祀りしていました。牛頭天皇はインドの神様で、俗に「天王さま」と言い、お祀りすれば厄災から免れると信じられ、神仏習合時に須佐之男尊と習合され、平安時代に都市部で信仰されました。中世には日本全国に広がったようです。
 牛頭天皇はインドの祇園精舎の鐘の守護神で、日本では須佐之男尊と同一神とされ、厄除神として崇敬を受けています。


蘇民将来の伝説

 昔、須佐之男尊(牛頭天王)が老人の姿をしてお忍びで旅をされた時、とある村人宅に一夜の宿を求められました。しかし神様のお姿ではないので、裕福な兄の巨丹将来には断られましたが、貧しい弟の蘇民将来が優しく精一杯のもてなしをしました。そこで須佐之男尊は正体を明かし、「この村に死の病が流行っても、お前の一族だけは助ける」とおっしゃいました。その後、死の病が流行った時、巨丹一族は病で死にましたが、蘇民一族は助かりました。
 ただし、巨丹の妻は蘇民の娘だった為、事前に「茅の輪」を巨丹の妻の腰につけさせ、ただ一人救いました。
 この「茅の輪」が「大祓い」神事に厄除として用いられるようになったのはこの為です。
 また、「蘇民将来子孫之門」「蘇民将来子孫也」のお札も厄除札となっています。


勝 海舟自筆の大幟旗

 当社の蔵には、勝海舟自筆の大幟旗が保管されています。
 これは明治になったころ、勝海舟が時々軍艦の大砲の製造等で川口に寄られたとき、荒川の氾濫により宿場である岩淵本宿に泊まって大変お世話になったお礼に書いたと言われています。

 勝 海舟とは 

 幕末期、徳川幕府を内側から改革し、海軍を建設・発展させ、薩長連合を成立。大政奉還、倒幕に関わり明治国家を造り出した人物。
 生まれは江戸本所亀沢町(現在の両国)。その後蘭学を学ぶため、赤坂田町に移り私塾を開く。
 1853年にペリーが来航し開国を要求された時、海舟の海防意見書が幕府の目にとまり、役入をはたす。1860年咸臨丸でサンフランシスコへ渡航。帰国後、軍艦奉行に就任。1868年の戌辰戦争では幕府の代表となり、無血開城を成し遂げる。
 明治維新後は、勝安芳の名で新政府に役職を得る。
 1899年(明治32年)1月19日死去。


岩淵について

 (岩淵本宿)

 八雲神社が鎮座するここ岩淵は、鎌倉時代にはすでに、鎌倉から奥州へ通じる「奥大道」(鎌倉街道中道)が入間川(荒川)を渡る地点として栄えていました。岩淵郷は戦国時代になって岩淵・下・赤羽根・稲付・袋の5か村にわかれ、岩淵の宿はその中心となっていました。
 中世より、億週へと至る街道の宿として栄えた岩淵ですが、江戸時代になると、徳川家康を葬る日光へ歴代将軍が社参するときに通る「お成り道」として、街道が整備されました。
 之は現在の文京区追分で中山道と分かれ、西ヶ原→王子→十条→稲付→赤羽根→岩淵→川口→鳩ヶ谷→岩槻→幸手で奥州街道と合流する道で、「岩槻街道」「日光御成道」とよばれました。
 岩淵宿は岩槻街道の最初の宿であり、旅客の宿泊・荷物の輸送・伝馬役などを務めていました。
 明治時代になってからも、岩槻街道沿いには商店が立ち並び、明治15年頃までは依然「宿場」として繁栄を保っていたようです。

 (交通)

 明治18年(1885)に赤羽駅が開業し、宿としての役目を終え、昭和2年(1927)には王子電車赤羽線が開通し、岩淵本宿停留所が設けられました。(その後、王子電車は市電に統合され、後に都電となるが昭和47年11月に廃止された)
 昭和3年には新荒川大橋が開通し、昭和45年に現在の新荒川大橋が完成しました。
 その後平成3年11月に、地下鉄南北線が開通し、最寄の駅としての「赤羽岩淵駅」が開業しました。

 (地名の変遷と町名存続の碑)



 その後、昭和37年に「住居表示に関する法律」が公布されると、北区も住居表示の変更を進め、岩渕町1、2丁目・赤羽町1、2丁目・袋町を併せて「岩淵」の名が永遠に失われることに対する岩渕町1丁目住民の強い反発を招き、町名存続運動がおこりました。
 その結果、岩淵丁1丁目は「岩淵町」となって存続が決まり、これを記念する「町名存続の碑」が八雲神社境内に建立されています。




一つ前のページに戻る

TOPへ戻る